58 密かでは無かった作戦 6
右翼に配されたロスクの兵たちも、必死の形相で戦っていた。
左翼の部隊はすでに壊滅し、後方では本陣部隊と敵の左翼が激しくぶつかっているのが遠くに見える。
──このままでは、終われない。
敵陣の旗を奪わなければ、ロスク将軍の叱咤が待っている。それも怖いが、それ以上に、自分たちの矜持が許さなかった。
矢をかいくぐりながら、兵たちは歯を食いしばる。
誰もが死に物狂いだった。
敵将──アルヴァン王子の無人の本陣に向かって、執念と共に全力で駆けていた。
兵損の数だけを見れば、アルヴァン王子の完勝と言っていいだろう。
だが──それでも、敵の旗を奪えば、勝利は自分たちのものだ。
「負けられない」
その一念が、彼らを突き動かしていた。
矢を避け、敵を薙ぎ倒しながら、ロスク兵たちは着実に本陣へと迫っていく。
やがて密集を解き、小さな点のように分散しつつ、全速力でアルヴァン王子の旗を目指していた。
あと五百メートルほど──。
息を切らした小隊が、ついにその距離まで進んできた。
そのときだった。
本陣の旗の後ろから、一人の小柄な少年のような者が、流れるように歩み出てくる。
小隊の兵たちは思わず笑みを浮かべた。
「子供に本陣を守らせていたのか」
そう思い込み、その少年に向かって突進する。5対1──一気に蹴散らせる、と。
だが、次の瞬間。
その子供に斬りかかった数人は、突如として動きを止めた。
痺れたように四肢が硬直し、そのまま地に崩れ落ちる。
残りの者たちも、立て続けに斬られ、同様に──痺れて身動き一つできなくなった。
これこそが、クラウスですら習得できなかった奥義の一つである。
剣を軽く握り、微細な振動を与えながら相手に触れる──その一撃で、神経に直接作用し、痺れによって動きを封じる。
その名も「電撃剣」。究極の奥義であった。
本陣を目指していたロスク兵たちは、あの「子供」の異様な強さに目を奪われ、思わず足を止める。
その一瞬を逃さず、アルヴァン王子の右側部隊から、大弓による矢の雨が降り注いだ。
無防備になった数人を射抜き、次々と地に倒していく。
その子供の正体は、ベアトリスの魔法によって変身した少年姿のティーナであった。
肩にはパッドを入れ、腕や脚には綿を詰めて、全体をがっしりとした体格に見せかけている。
顔立ちは、化粧と魔法によって巧みに整えられ、凛々しさと勇ましさを同時に帯びていた。
ベアトリスは最初は嫌がっていたが断れずにやり始めるとはまってしまったようだ。
「凛々しく仕上がりました」と、どこか誇らしげに微笑んでいた。
この姿をアルヴァン王子が目にしたとき、最初に漏らした言葉は──
「かわいい」だった。
どう見ても筋肉質な美少年なのだが、アルヴァン王子にとっては、どんな姿のティーナであっても「可愛い」らしい。
ティーナは、一歩ずつ後ろへと下がりながらも、確かな間合いで彼らの動きを牽制していた。
切りかかるべきか迷う兵たちの中から、数人が横へと展開し、回り込もうとした――そのとき。
ティーナの少し後方に、クラウスが大弓と多くの矢を持って立っていた。
そして次の瞬間、
クラウスの放った矢が、回り込もうとした者の胸に、正確に突き刺さっていく。
混乱から抜け出そうとした兵は、ティーナが流れるような動きで進み倒すと、また距離を取った。
回り込もうと横に動き出した兵は、クラウスの弓で射抜かれる。
ロスクのいる指揮所からは距離があり、詳細な状況は目視できなかった。
だが──確かに、自軍の兵が次々と止められていることだけは、はっきりと分かった。
手前で攻防を繰り広げていた千の守備兵も、すでに明らかな劣勢に追い込まれている。
その現実を前にして、ロスクはもう、何の指示も出せなかった。
頭の中が真っ白になっていた。
「なぜだ……何が間違った……。こちらは三倍の兵力だぞ……なぜ、負けている……?」
そして間もなく──
ロスク陣の旗が、敵によって高く掲げられた。
「アルヴァン王子万歳!」
その歓声が、模擬戦の会場全体に響き渡った。
見晴らし台から戦場を見下ろしていた軍事責任者たちも、目の前で起こっているこの状況を正確に理解できている者は、ほとんどいなかった。
ただ一人、レオン家の軍事責任者だけは、わずかに違っていた。
彼は歴戦の熟練指揮官であり、ロスクがこの戦いで敗れる可能性もあると、最初から見抜いていた。
──しかし、それでも。
「まさか……あの戦力差で……」
その表情には驚愕が浮かんでいた。
いま戦場で起きていることは、彼自身が同じ条件で再現しようとしても、到底できるものではなかったのだ。
アルヴァン王子側も、多くの兵が場外となっていたが、それでも半数の五百は残っていた。
それに対して、ロスク側の三千は全滅していた。
言い訳の余地など、どこにも残されていなかった。
ロスクが高い指揮塔の椅子に身を沈め、頭を抱えていたとき──
その背後に、ひとりの男が音もなく近づいてきた。
クラウスであった。
「……おまえも、老けたな」
懐かしむような声に、ロスクははっと顔を上げる。
その顔を見て驚いて大口を開けようとしたが、クラウスは人差し指を口につけた。
そして、懐かしむような声で語った。
「俺は、お前のことを嫌ってはいない」
「むしろ、俺以上に国に尽くしてきたと思っている」
「だがな──身の丈に合わぬ欲を持つと、ろくなことにはならんぞ」
それだけ言い残し、クラウスは背を向けて、塔を後にした。
ロスクは、しばらくその場から動けなかった。
背筋に、言いようのない震えが走った。
「……クラウスが、表に出てきたのか……」
いや、敵意はなかった。あれは、忠告だったのだ。
耳元で「あなたは英雄となれる」と囁かれた記憶が、鮮明によみがえる。
そしてロスクは、確信してしまった。
──クラウスは、アルヴァン王子の側についたのだ。
その瞬間、ロスクの中で決断は下された。
クラウスに敵対して勝てるはずがない。
それを、最もよく知っているのは、他ならぬロスク自身だった。
そして──
今の地位を守るために、今なすべきことが何か。
ロスクはすぐに悟ったのだった。
ロスクには、変わり身の早さがあった。
機を見る目。周囲の視線など気にしない図太さ。
そして何より──自らの欲のために、すべてを捨て去る覚悟を備えていた。
それは、紛れもない、一種の才覚であった。
この生き方を軽蔑する者は多い。
だが、それは──己にそれだけの才も覚悟もない者たちの、ただの嫉妬に過ぎないのだ。
補足として、少し前の出来事を記しておこう。
シグルドは直立不動の姿勢で、アルヴァン王子に報告していた。
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
「アルヴァン殿下。ティーナ神が、模擬戦に参加されることとなりました」
アルヴァンは、一瞬どちらに突っ込むべきか迷ったようだったが、落ち着いた声で返す。
「……どういうことだ」
「はい、申し訳ありません。私は──神には逆らえませんでした」
シグルドは、まっすぐにそう言い切った。
「すべての事情を、ティーナ神にお伝えしてしまいました」
アルヴァン王子は、驚きと困惑の入り混じった表情で尋ね返す。
「それで、どうなった?」
「クラウス様からの伝言を預かっております。『不要なプライドは捨てろ』とのことでした」
「ひとまず、ティーナ様の力は、目立たない程度に用いるそうです。そして──」
シグルドは言葉を継いだ。
「クラウス様ご自身が、本陣の防衛にあたるとのこと。ゆえに、殿下は全軍を率いて前線へ」
アルヴァンは、諦めたように小さく息を吐く。
「そうか……クラウス殿がそう言うのなら、仕方ないな」
そして、少し恨めしげな目を向けながら、肩をすくめた。
「まったく、お前は……なんで言ってしまったんだ」
シグルドは表情を崩さず、凛とした声で答えた。
「──神は、神でございました」
アルヴァンは思わず苦笑する。
「お前、それ、わざとだろう」
そう言って、二人はふっと笑い合った。
アルヴァン王子の顔には、肩の荷が下りたような穏やかな笑みが広がっていた。
そしてシグルドもまた、自分の“芸”が受けたことに満足げな笑みを浮かべていた。
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