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40 兄エドワード

バルティネス男爵家の庭での一戦──


その記憶が鮮やかによみがえる中、王子の護衛隊長シグルドは、無骨な自室のベッドに座っていた。


「……完全に、遊ばれていた」


低く吐き出したその声には、怒りでも悔しさでもなく、深く沈むような戸惑いが滲んでいた。


「守れると思っていたのに……」


「ここまで、遊ばれるか……」


「クソ……これで、アルヴァンを守れるってのかよ……!」


言葉を区切るごとに、彼の拳には力が入り、ついには黙して拳をぎゅっと握りしめる。


そして、ふと顔を上げると、窓の外──夜空に浮かぶ満月を見つめ、ひとつ深いため息を吐いた。


「……ああ、まったく……俺は、何もわかってなかったんだな」


その声はもう、誰にも届かない。


ただ月だけが、黙って彼の告白を聞いていた。


月光に照らされる漆黒の髪は、滑るように肩へと流れ、まるで光そのものを纏うかのように輝きを放つ。


逞しい体を、芯の通った右手で支え、静かに佇むその姿──


そのシルエットは、まるで聖なる一枚の絵のようだった。


もし画家がこの光景を目にしたなら、きっと誰もが筆をとる。


逞しさと繊細さ、そして胸の内の強さと弱さ。


それらが見事に同居したその一瞬の姿は、誰が見ても息を呑むほど美しく、


一枚の完璧な肖像画として、永遠に残すべき光景だった。


そして──


その絵を目にした多くの婦人は、きっとこう思うに違いない。


「この美しい青年は……誰だろう」


胸をときめかせ、ため息をつく者もいるだろう。


だが今、その想いの主であるシグルドの心には、たったひとつの決意が宿っていた。


──あのオヤジに、必ず、一太刀、届かせてみせる。


その言葉は誰にも聞こえなかったが、月だけが、その決意を確かに照らしていた。


そしてシグルドは、剣の鍛錬を続けるために、あらかじめアルヴァン王子の許可を得ていた。


シグルドは、朝日が昇るよりも前に──バルティネス男爵家の門前に立っていた。


やがて東の空が白み始めると、シグルドは深く息を吸い込み、声を張った。


「クラウス男爵様──どうか私に、剣を教えてください!」


その叫びに、屋敷の中からひとりの男が現れる。


長男、エドワードだった。


突然の来訪者に驚いた様子を見せていたが、次の瞬間──


シグルドの姿を目にして、さらに目を見開く。


王子直属の近衛兵の制服を纏っていたからだ。


しかもその装いは、ただの衛士ではない。


明らかに、階級の高い者だけに許された服装だった。


エドワードは、相手を見定めるように一瞬だけ間を置き、礼儀を崩さぬまま応じた。


「申し訳ありませんが──どちら様でしょうか?」


シグルドもそれに丁寧に答えた。


「ティーナ様の兄上、エドワード様でいらっしゃいますか?」


「早朝より失礼いたします。昨日、父上に剣のご指導をいただいた、シグルドと申します」


「お手数ですが、クラウス様にお取次ぎいただけませんでしょうか」


シグルドは、ティーナを”神”と心に決めており、クラウスが“元英雄”と呼ばれた将軍であり、かつて“鬼神”とまで恐れられていたことを──アルヴァンから後になって聞かされていた。


「お前、それを先に言えよ」「……悪かった。俺も緊張してたんだ」


そんな会話が、かつて交わされていた。


兄のエドワードはさらに驚いた。


その名も姿も、王宮で知らぬ者はいない──王子直属の近衛隊長、その名を「シグルド」。


王宮の守備隊に勤めている彼にとって、その制服と名は、疑いようもなく本物の証だった。


そこへ、父のクラウスがあくびをしながらのんびりと現れた。


「朝から近所迷惑だぞ。まあ、その心意気は悪くないが……次からはもっと遅く来い」


エドワードが戸惑いながら聞き返す。


「父上、この方はどなたですか?」


「お前には言ってなかったか。こいつは王子の近衛隊長だ。昨日、少し剣の指導をしてな。暇なら来いって言ったんだ」


「……まあ、朝飯前に体を動かすか。入れ」


そう言って、クラウスは裏手へ歩いていく。兄のエドワードも、そのあとを無言でついていった。


クラウスは、自らの過去について、家族にはほとんど何も語っていなかった。


兄のエドワードも、小さい頃に近所の人々から「父は英雄と呼ばれ、鬼神とも恐れられていた」と噂話のように聞かされた程度である。


クラウスとマルレーネ夫妻は、子どもたちには自分の望む人生を歩ませればよいと考えていた。


──少なくとも、自分と同じ道を歩ませたくはないという想いが、心の奥底には確かにあった。


クラウスはシグルドを裏庭に連れていくと、少し素振りをさせ、構えや剣の持ち方など基本を軽く確認したあと、簡潔に言った。


「基礎からやり直したほうがいいな」


そして、静かに続ける。


「この国の剣士は、どうにも力任せに剣を振る傾向がある」


「だが、俺が育った小国では……少し、やり方が違う」


「どちらが優れているか、俺にも断言はできん。だが、俺のやり方を学びたいのなら、俺の指示に従え」


「まずは──剣と身体を一体にする。それが最初だ」


「剣を、このように正眼に構え、足は肩幅の広さで。……この姿勢を保ったまま、毎日、何時間でも構わん。微動だにせず立ち続けろ」


「それができなければ、俺の剣は使いこなせない」


「その鍛錬なら、王子の護衛をやりながらでもできるだろう。ひとまずは週に一回、休みの日だけ来い」


「それができたら、次を教えてやる」


シグルドは少しも不満を見せることなく、


「分かりました。毎日それを続けます」と言うと、静かにその場を去っていった。


王宮にも剣の達人は何人もいる。


シグルドは、これまでに幾度もそうした達人たちから直接指導を受けたことがあったが──


自分が「勝てない」と思った相手は、ただの一人もいなかった。


子ども扱いされたのは、クラウスが初めてであった。


エドワードは、朝食の席でようやく、昨日の出来事を知らされていた。


──ティーナに婚約を申し込むため、アルヴァン殿下がこのバルティネス男爵家を訪れたこと。


そして、最強と謳われる近衛隊長と、あろうことか殿下までが──


この家で、転がされるように遊ばれていたこと。


それも、ティーナを含む家族の誰ひとりとして、気にも留めていない様子だった。


エドワードは、黙って額を押さえた。


こめかみをかすめるように、鈍い頭痛がのぼる。


「……やはり、この家はおかしい」


呟いたその声は、もうあきらめたような響きをしていた。


妹のソフィアはというと、目を輝かせてティーナにねだっていた。


「ねえ、お姉様。私も王宮の舞踏会に行きたい」


けれどティーナは、その意味をいまいち理解していないのか、首をかしげるばかりだった。


そんな空気の中、突如としてエドワードがテーブルを叩いた。


「おやじ、俺にも教えろ!」


視線が一斉にクラウスに向く。


当の本人はというと、妻マルレーネの方へちらりと視線を送った。


彼女が微笑んでいたのを確認し、クラウスは肩をすくめる。


「教えてやってもいいが、条件がある。母親の言うことをちゃんと聞け。……これからは、お前が食器を洗え」


エドワードは渋い顔をしたが、やがて覚悟を決めたようにうなずいた。


「……分かった。真面目に教えてくれよ」


その朝、彼は文句ひとつ言わずに黙々と食器を洗った。


マルレーネは、そんな息子の姿を目を細めて見つめていた。


──なお、エドワードが食器を洗ったのは、後にも先にもこの一度きりだった。

おもしろいと感じた方は、「亀の甲より年の功」をクリックして、他の作品もぜひご覧ください。まったく異なるジャンルの物語を、生成AIを駆使して書いています。

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