38 婚約の申し込み 3
バルティネス男爵家の庭は、こぢんまりとしていながらも、手入れが行き届いていた。
色とりどりの花々は整然と並び、緑と彩りの配置は計算されたように美しく、見る者の心を自然と和ませる。
──その穏やかな光景の中を、なぜか一匹のてんとう虫が、のどかにふわりと飛んでいた。
クラウスは無言で庭に足を踏み入れると、地に落ちていた細い小枝を拾い上げ、自らの足元を囲うように、地面に円を描いた。
「ここなら、マルレーネが育てている花たちにも影響はないな」
そう呟いた彼は、円の内側に静かに立ち上がり、唇の端に薄い笑みを浮かべる。
「いいか、俺はこの円から一歩も出ない。お前たちは好きに攻撃してこい」
「安心しろ。俺は攻撃はしない。──将来の婿にでも傷をつけようものなら、娘に嫌われちまうからな」
その言葉に応えるように、アルヴァン王子が一歩、前へと出る。
その面持ちには、王族として育てられた者にふさ俺い威厳と、誠実な覚悟が宿っていた。
「これは……真剣です。バルティネス殿を傷つけてしまうかもしれません」
クラウスは、どこか楽しげな色を宿したまなざしでアルヴァンを見つめ、口元をわずかに緩めた。
「傷を負わせられるなら、たいしたもんだ。……もし殺せたら、それはそれで相当なものだぞ」
若き王子の声は、静かであったが、真っすぐに届く強さがあった。
その言葉に、アルヴァンの眉がかすかに揺れる。
「──さすがに、それは……私にもできません」
たじろぎながらも、敬意を忘れぬ口調でそう答えると、クラウスの声色が一段、低くなった。
「お前は──ティーナを嫁にしたいと思っているのだろう?」
その問いに王子が頷こうとした瞬間、クラウスは淡々と、だが揺るぎない声音で続ける。
「よく聞け。俺とお前に血のつながりはない。“義理の父親”ひとり殺せるだけの覚悟も持てないようでは──貴族のお前に娘はやれん」
沈黙が流れた。
アルヴァンは、真剣なまなざしのまま深く息を吸い込んだ。
そして、まっすぐにクラウスの眼を見据えると──その目を見開き、静かに、そして力強く答えた。
「……わかりました。全力で、参ります」
その声音には、若き王子の覚悟が込められていた。
シグルドがやや不機嫌そうに眉をしかめ、片手で剣を肩にかけたまま、皮肉げに言い放った。
「……おっさん、やめておけ。俺らはそこそこ強いんだぜ。まあ、俺はおっさんを斬っても別に気にしねぇけどな」
その軽口に、クラウスは反応を見せるでもなく、ただ静かに目を細めた。
そのまなざしは、まるで遠い記憶の奥から何かを引き出すような深みを帯びていた。
そして、低く抑えた声が空気を裂いた。
「……お前、戦場に立ったことはあるか?」
シグルドの肩がわずかに揺れる。
「これまでに──人を、何人斬った?」
その問いには怒気も、威圧もなかった。
だが、凍てつくような現実の重みが宿り、言葉はまるで刃のように鋭く、真っ直ぐに突き刺さる。
「いざという時、人は──そんなに簡単には斬れんぞ」
その一言に、シグルドは返す言葉を失った。
口を開きかけるが、言葉にならない。
何かが喉元でせき止められたように、ただ静かにその場に立ち尽くすしかなかった。
クラウスは唇をわずかに歪めて笑い、視線をもう一人へと向ける。
「まあ……二人同時に“急に攻めろ”と言っても、不安になるかもしれんな」
そして、クラウスは黒髪の青年──ジグルドを真っすぐに見据え、微動だにしない声で告げた。
「黒髪。お前が先に来い。全力で構わん。本気で──かかってこい」
その言葉に、ジグルドはじっと男の姿を観察する。
背は自分よりやや低く、着ている服も動きやすそうではなかった。
筋肉の隆起もなく、腕の太さも普通。
構えに緊張感はなく、まるでそこに「ただ立っている」だけ。
──どう見ても、ただの“普通のおっさん”だ。
ジグルドはそう判断した。
いや、もしかすると少し、頭のいかれたおっさんかもしれない。
だが、敵として見定めるには十分だと感じたジグルドは、一切の迷いを断ち切った。
一歩踏み込み、研ぎ澄ました剣を鋭く振るう。
狙うは──手首。斬り落とすつもりで。
その斬撃は、若き日の鍛錬の成果すべてを乗せた、速さと正確さを兼ね備えた一閃だった。
──だが。
その瞬間、ジグルドの視界が跳ねる。
手にあったはずの剣が、空を裂いて宙に舞った。
「な──っ」
言葉が漏れる前に、両手にじんと痺れが走る。
感触はなく、ただ反射的に指が開き、剣が滑り落ちていた。
ぽたり──。
乾いた音が、庭の静寂を裂くように足元に響いた。
何が起きたのか──ジグルドの思考が、遅れて追いつこうとしていた。
静寂の中、クラウスの声が低く、しかしはっきりと響いた。
「──お前は、俺の力を見誤っていた。……いや、俺が、そう見せていたんだ」
言葉は柔らかく、感情の起伏もない。だが、その一言が、まるで心臓の奥に鋭い針を刺すかのようだった。
一拍置いて、さらに言葉を重ねる。
「戦場なら、今ので死んでいたな。……お前のような奴が、一番最初に死ぬ。これは、経験者からの忠告だ」
ジグルドは、ただそこに立ち尽くしていた。
手の震えがまだ止まらない。
握るはずだった剣は、もう彼の手にはなかった。
──なぜだ?
思考が追いつかない。
自分の斬撃は速かった。力も十分にあった。
狙いは正確だった。相手の手首を、確実に捉えたはずだった。
だが──結果は、まったく逆だった。
だが、数拍遅れて、ジグルドの思考がようやく動き出す。
(……そうだ。俺は、今ので“死んでいた”)
己の攻撃を、クラウスは完全に見抜いていた。
手首を狙った軌道、踏み込みの足──すべてを、初手で読まれていたのだ。
そしてあの瞬間。
相手は、地面に接する足から肩、腕、そして指先にいたるまで、全身を一本の軸のように使っていた。
体幹のひねりと、手首の鋭い返しが、まるで同時に放たれたかのように。
さらに、剣をあえて軽く握ることで、衝撃を逃さず“返す”構えが完成していた。
その一瞬に加えられた痺れるほどの“振動”によって、相手を斬ろうと強く握っていた剣が手から抜け落ちた。
(……こんな技、見たことも、聞いたこともねぇ……)
驚愕と畏怖と、わずかな悔しさが、胸の奥で交差する。
クラウスは、そんなジグルドの心中を見透かしたように、あくまで平然と語った。
「こんな技は──本来、相手の油断がなければ使えん。
それに、実戦では、こんな芸当を披露するよりも、さっさと無力化した方が早い」
わずかに肩をすくめ、笑いを含んだ声音で続ける。
「これはな……お前たちが“本気”でかかってきたところで、
俺には一歩も届かないってことを、ちゃんと見せておくための──“遊びの技”ってやつだ」
そう言ってから、クラウスは黒髪の青年──ジグルドに視線を向けた。
「お前、剣の持ち方をほんの少し意識していれば、今のも弾かれずに済んだはずだ。……まだ伸びしろはある。もっと強くなれるぞ」




