35《神》だ
国王ノアティスは、この国を豊かにするため、灌漑事業に力を注いでいた。
まだ蛇口をひねれば水が出るような時代ではない。
水は民の命を支えるものであり、穀物を育てるために欠かせない、最も重要な資源だった。
しかし、この灌漑事業には非常に多くの労働力と、緻密な計算と管理が求められる。
ノアティス王自身が強い意志を持って進めてはいたが、計画通りに進行させるのは容易ではなかった。
とくに問題となっていたのは、作業にあたる人手の不足と、水路の道をふさぐ大きな岩の除去作業の難航だった。
人の力が主な労働力であるこの時代において、灌漑事業はまさに国家をあげての大事業だった。
アルヴァン王子もこの計画には深く関わっており、予定通りに進まない状況に、日々頭を悩ませていた。
そしてある晩──
王子は、ティーナのあの力をうまく活かせないかと考えた。
すぐに、誰にも気づかれぬよう密かにある装置の製作を命じていた。
王子がジグルドに確認する。
「工事関係者や近隣の住民は、この一帯から一時的に立ち退かせてあるか?」
「はい、すでに対応済みです。問題はありません」
「部下たちには、ここで見聞きしたことは一切他言無用と命じてあるな?」
「承知しております。私を含め、皆、アルヴァン王子に忠誠を誓う者ばかり。ご安心ください。私からも厳重に念を押してあります」
「ティーナ──これを、引いてくれ」
アルヴァン王子の声は、真剣だった。
「これは何かを壊すための力じゃない。
水が流れれば、作物は育ち、飢える人々を救える」
少し間を置いて、優しく続ける。
「無理はしないでくれ。もしできなければ……別の方法を考える」
ティーナは、ゆっくりとうなずいた。
「……はい。やってみます」
そこには、ティーナがすっぽりと入れるほどの、丸い鉄の輪が設置されていた。
鋼鉄でできたその輪は、太く、頑丈な造りである。
輪の後方には、いくつもの太い鎖が連なって伸びていた。
その鎖の先に繋がれていたのは──
巨大な鋼鉄の塊。球体に近いが、ラグビーボールのような楕円形であり、直径は5メートルにも及んでいた。
その球体のちょうど半分の高さには、水平に突き出た鋼鉄の羽が頑丈に取りつけられており、
地面に深く沈みすぎないよう、深さを調整できる仕組みとなっていた。
ジグルドも、ティーナの力が常人離れしていることはよく知っていた。
かつて川の増水事件の際、王子の監視と部下の指揮にあたる中で、彼女の活躍を遠くから見届けていたのだ。
──だが、それでも。
この鉄塊を引けるはずがない、と彼は思っていた。
この巨大な鋼鉄の球体をここまで運んできたのは、ジグルド率いる部隊、総勢一千名の兵たちだった。
特注の頑丈な荷車に乗せ、黒い布で包み隠しながら慎重に運んできた。
運搬の大半は計画通り進んだ。
しかし、最後の数百メートルだけは、どうしても荷車が通れず、球を直接転がして移動させるしかなかった。
その過程で、兵たちは何度も転倒し、潰されそうになった者もいた。
すべてを終えたときには、全員が汗まみれで、息も絶え絶えになっていた。
ジグルド自身も、内心では無理だと考えていた。
──バカ王子……こんなもの、人に引けるわけがない。
もし引けなかったら……すべて、無駄骨だ。
ティーナの進行方向には、あらかじめ白い線が引かれ、その足元には丈夫な鋼鉄の板が一面に敷かれていた。
その鉄板は、ティーナが進むたびに、補助の者たちが数十人がかりで前方へと運び続けるという体制が取られていた。
ティーナは無言のまま、静かに大きな鉄の輪の中へと身を入れる。
そして、そのままの姿勢で──輪ごと、軽々と持ち上げた。
その様子を見ていたアルヴァン王子に、ティーナが何気なく言う。
「この輪っか、すごく丈夫です。これなら、そう簡単には壊れませんね」
王子は心の中で思わずつぶやく。
(……壊す対象は、輪じゃない。そもそも、それを壊せるの!)
「ティーナ、ゆっくりでいい。引いてくれ」
「はいっ……あ、引くんですね。がんばってみます」
ティーナは、慎重に──壊さないように、そっと力を加えていく。
地面に敷かれた鉄板が、ぎしり……と軋む音を立てる。
次の瞬間──
ギギギギ……ッ!
鋼鉄の球が、まるで地を割るような音を響かせながら、ゆっくりと動き始めた。
その球が通った地面は、まるでえぐり取られたように、深く削られていく。
ティーナは、足場や鎖の張り具合を確かめながら、常に力の加減を調整していた。
壊さず、傷つけず、それでいて確実に動かす。
体幹がぶれることなく、美しい姿勢のまま、まるで何の重さも感じていないかのように引いている。
鋼鉄の球が地面の半分ほどまで沈んでもなお、速度は落ちない。
ごうごうと地鳴りを上げながら、一定の速度で前進し続けていたその時──
ぶちんっ!
鋭い音が響いた。
引き鎖の一本が、悲鳴のような音を立てて断ち切れた。
ティーナはうつむきながら、どこか困ったように立ち尽くしていた。
その姿に、ジグルドは言葉を失い、固まったまま動けなくなっていた。
「ティーナ、大丈夫。それは壊れても構わない」
そう言ったアルヴァン王子は、ジグルドの方に視線を向ける。
「別の鎖を付けさせろ。付けられるだけ、全部だ」
そして、ティーナに声をかける。
「少し休もう」
「えっ、わたしは大丈夫です」
「鎖の交換に時間がかかるから、その間に休もう」
ティーナは、凛とした姿勢のまま、どこか小動物のような足取りで王子のもとへ近づき、そっと腰を下ろした。
王子は心配そうに尋ねる。
「体のどこか、痛むところはないか?」
「はい、大丈夫です。軽かったです」
「……ほんとうに、軽かったの?」
王子が思わず引きつった笑みを浮かべる。
「はい、とっても軽かったです」
ジグルドは、顔を大きく上げ、真上の空を見つめていた。
──俺は、いま何を見たんだ……
その会話を聞きながら、自問するように、しばし真上の空を見上げ続けていた。
鎖をすべて新しく取り換えてからは、作業は順調に進んだ。
こうして、全長10キロにおよぶ灌漑用の主水路が、たった一日で完成していた。
人の手で掘るなら、同じ距離を整備するには、一か月間、千人の人手が必要だとされていた。
だがこの方法では、水路を掘るだけでなく、地盤を固める作業までも同時に進められたのである。
水路の傾斜を整え、崩れを防ぐために石を積み上げるなど──
水を実際に流せるようにするまでには、まだ多くの作業が残されていた。
それでも、ティーナが今日一日で担った作業量は、実に三万人分の労働に相当していた。
そしてジグルドは、静かに一つの結論に辿り着いていた。
──ティーナは、もう人ではない。《神》だ。
そうでなければ、あんな芸当ができるはずがない……
まるで自分に言い聞かせるように、彼は心の中で何度も繰り返していた。
夕日が傾く空の下、朱に染まる雲がひとつ流れていく。その下の大地には、一本の水路が、まっすぐに刻まれていた。




