34 機転
席に着いたグレイヴ──すなわちシグルドに、アルヴァン王子が小さな声でささやいた。
「おまえ、それで変装したつもりか」
「髪の色もしゃべり方も変えたから、大丈夫だろ」
「大丈夫なわけないだろ。ほんとにおまえは大雑把だな」
「おまえこそ、何やってるんだ。王子の自覚はどこに行った」
アルヴァン王子自身、やりすぎている自覚はあった。
だが──ティーナの顔を見ないと、どうにも心配になってしまうのだ。
「……わかった。とにかくごまかせ。命令だぞ」
「ちっ、都合の悪い時だけ王子面して。──了解です」
声は周囲に聞こえないほど小さなものだったが、しっかりと会話は成立していた。
子どもの頃から、大人たちをだまして遊んでいたふたりにとって、こうした隠密会話は日常の一部だった。
ふたりとも有能なので、互いの言葉を聞き取れていたが、普通の人にはまず聞き取れない。
ティーナにも、ふたりが何を話しているのかよく分からなかった。
けれど──ドンパッチ君ってすごい。もう新しいお友達と仲良くなったんだ、と感心していた。
「私はだめだな……初めての人だと緊張しちゃう」
そう思いながら、ティーナはアルヴァン王子を尊敬のまなざしで見つめていた。
一方、王子の予想どおり、グレイヴの存在はすぐに噂として広まっていった。
「ちょっと危ない人が、ティーナのそばに来てるらしいよ」
そんな声が、学校内に広がり始めていた。
休み時間になると、いつもの三人組がそろってティーナのもとに押しかけてきた。
さらに、ベルシアまで心配そうな様子で駆け寄ってきていた。
イケメン三人組──ユリウス、セイル、レオンがグレイヴに近づき、声をかけようとしたそのとき、グレイヴが先に立ち上がった。
座っているときはそれほど大きく見えなかったが、立ち上がった姿は圧巻だった。
身長が高く、威圧感があり、服の上からでもわかるほど体は鍛え上げられていた。
ユリウスとセイルは、思わず少したじろいでしまった。
そんな中、レオンだけは臆することなく、嬉しそうに声をかけた。
「おまえ、すごいな。何か鍛えてるのか?」
ジグルドは「俺か、それなりにはな」と笑ってみせたが、その表情には迫力があった。
その話し方は、無理に変えたものではなく、どうやらジグルド本来の口調のようだった。
レオンは嬉しそうに声をかけた。
「俺と相撲取ろうぜ!」
するとジグルドは、眉ひとつ動かさずに答えた。
「相撲? 子どもの遊びを、俺にやらせるつもりか」
「じゃあ……剣でやるか?」
「付き合ってもいいが、ケガするぞ、お坊ちゃま」
それを聞いていたアルヴァン王子は、心の中で頭を抱えていた。
──だから、お前は連れてこられないんだ。
しかし、王子を守るには、権力に屈していては務まらない。
公式の場では礼節を守るが、それ以外の場面では、ジグルドは一切屈しなかった。
必要であれば、力で相手をねじ伏せ、二度とアルヴァンに逆らわせないようにする覚悟を持っていた。
アルヴァン王子が誰に対しても優しく接する分、ジグルドはあえて憎まれ役を引き受けていた。
ジグルドも、この三人が上流貴族の出身であることは理解していた。
ドンパッチは、「仕方ない、止めるか」と立ち上がろうとしたそのとき──
ベルシアが、爆弾発言をしてしまった。
「あなた、ジグルドでしょ? ここで何してるの?」
グレイヴも、これはまずいと感じてすぐに後ろを振り返った。
アルヴァン王子も、腰を浮かせたまま動けなくなっていた。
──これは……どうする?
エレオノーラも異変に気づいたようで、不思議そうな顔をして言った。
「護衛隊長のあなたが、どうしてここに? 王子はどこにいるの?」
ティーナもすぐに察した。
──この人は、王子を守るために来た人なんだ。助けなくちゃ。
そう思うと、ティーナは凛とした表情で立ち上がり、はっきりと言った。
「ベルシア様。王子の護衛の方が、こんなところにいるはずありません。……きっと、何かの間違いです」
その言葉に、ベルシアとエレオノーラもすぐに状況を察したようだった。
「そうよね。ごめんなさい、私としたことが……」
ベルシアは少し困ったように笑い、エレオノーラは何も言わずにニヤニヤと笑っていた。
ティーナが何かを思い出したように口を開いた。
「ドンパッチ君に新しいお友達ができましたし、またみんなでお昼ごはんを食べましょう」
そして、エレオノーラに向かって問いかけた。
「エレオノーラさん、どうでしょうか?」
するとエレオノーラは、含み笑いを浮かべながら応じた。
「それ、いいわね。みんなで行きましょう」
そのまま、ティーナの背後からふわりと抱きつき、耳元でささやく。
「なんか怪しいとは思ってたけど……アルヴァン王子様だったのね」
ちゃめっ気たっぷりの声に、ティーナは動揺しそうになる心を必死に抑えながら、何事もなかったように続けた。
「今日も天気がいいので、屋上にしましょう」
レオンがすぐに反応した。
「ティーナ、ナイスアイデア! 屋上で剣の腕を競おうぜ!」
そのとき、グレイヴの口調がどこか変わっていた。
「俺も行くか。勝負しよう」
レオンは深く考えることなく、直感で言った。
「こいつ、口は悪いけど、根は悪くないと思うぞ。鍛えてるやつに悪いやつはいない!」
「よし、剣の準備だ!」
そう叫ぶと、レオンは勢いよく教室を飛び出していった。
ユリウスとセイルも顔を見合わせ、「今日こそ勝負だ」と言いながら後を追っていった。
その一方で、ジグルドはアルヴァン王子から隠密声で小言を言われていた。
「ここは学園だ、公務中なんだ。地を出すな」
ベルシアはすでに教室にはいなかった。
昼食の準備を従者に指示するため、小走りで教室を後にしていた。
そして、屋上では男子たちが額に汗を浮かべながら、剣の腕を競い合っていた。
ドンパッチもその輪に加わっていたが、力はあえて抑えているようだった。
ジグルドは、まるで指導するかのように、三人と順番に剣を交えていた。
そして、やがて一対三──ジグルドひとりがイケメン三人組を同時に相手取る形となる。
さすがのジグルドも、教えるような剣では押され気味だった。
そのころ、女性陣は暑苦しい男子たちの騒ぎを完全に無視して、ティーナを囲んでいた。
「王子が変装までして来るなんて、どれだけ愛されてるのよ」
「あの講堂での“やっと会えた”ってセリフ、かっこよかったよね」
「廊下での告白って本気だったの? 婚約って本当なの?」
「あ〜、私にもそんな人現れないかなあ」
「無理よ、よだれ垂らして寝てる子に来るわけないでしょ」
そんな他愛ないやり取りが、あたたかい陽の光の下、夢見るように交わされていた。
ベルシアはティーナに抱きついて、満足そうに言った。
「ティーナは私のものよ」
エレオノーラはその隣で、まるで子猫を撫でるように、ティーナの頭を優しく撫でていた。
ティーナの髪はやわらかく、心地よく、ティーナ自身も嬉しそうにしていた。
ティーナは背筋を伸ばしつつも下を向き、顔を真っ赤にして──
「あの……」「その……」と、言葉にならない声を発しながら、なんとか返事をしていた。
男たちは剣の勝負に満足したのか、「腹減ったー」と言いながら屋上の一角へ戻ってきた。
イケメン三人組も、すっかりジグルドの実力を認めたようで、互いに笑い合っていた。
女子たちも、これ以上からかうのはさすがに気の毒だと思ったのか、そろそろと食事の準備を始めた。
ただひとり、ベルシアだけはティーナに抱きついたまま、気持ちよさそうに眠っていた。
ちなみに──ドンパッチ君を含め、イケメン三人組の全員が「できることならベルシアと代わりたい」と密かに思っていたことは、ここだけの話である。
食事の時間が始まると、女子たちは自然に男子にも料理を取り分け、それぞれで会話の花が咲いていた。
その中で、ドンパッチ君はティーナの隣に静かに腰を下ろし、そっと小さな声でつぶやいた。
「……助かった。ありがとう」
ティーナは、小さくうなずいて、微笑んだ。
晴れ渡る空の下、小さな雲たちがそっと寄り添い、やがて一つの白い雲へと姿を変えつつあった──まるで、心と心が静かにつながっていくように。




