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19 胸のうち

ふたりの胸の内には、誰にも語られぬ想いがあった。


ドンパッチ──その正体は、変装した王子アルヴァンである。


身分を隠して学園に通う彼は、目立てば正体が露見する恐れがあると考え、試合中も極力力を抑えていた。だが、王子としての誇りが、それでも「負けるわけにはいかない」と告げていた。


実際、彼は試合を通して、自身の持つ力のすべてを使ってはいなかった。


しかし──最後の一球だけは、違った。


球場を包む歓声の渦と、心の奥で高鳴る衝動に、アルヴァンは心の中で呟いた。


「……一球くらいなら、いいだろう」


そして、全力の投球を解放した。


彼は、文武に通じた「万能王子」として知られる存在だった。


ティーナにとっては、勝ち負けなど二の次だった。


ただ、「壊さないこと」──それだけが、彼女の行動を支配していた。


バットを握る手も、投球に向ける眼差しも、どこまでもやさしく、どこまでも慎重だった。


野手の方へ強く打てば、何かを壊してしまう。そう信じていたティーナは、誰もいない隙間を見極め、そこへそっとボールを転がしていた。


走る時も、同じだった。


彼女は「ゆっくり走っているつもり」だった。というのも、それまで本気で走ったことがなかったからだ。


全力を出したことはない。ただ、壊さぬように抑えて動いていただけだった。


それでも、彼女は誰よりも速かった。


その底知れぬ力は、恐ろしいほどであった。


──翌朝の学校。


その空気は、昨日までとまるで違っていた。


教室に入った瞬間、ドンパッチに向けられる視線が明らかに変わっていた。


誰もが一瞬、彼を二度見し、静かなざわめきの中で、彼は変わらぬ足取りで席へと向かった。だが、その一歩ごとに、生徒たちの表情が微かに揺れていた。


「おい……あれ、ドンパッチだよな?」


「うそ……昨日のあのプレー、マジだったのかよ……」


「やばい……数学もパーフェクトだったらしいぞ。誰かの聞き間違いかと思ってたけど、マジで……完璧人間じゃん」


彼の評価は、まさに一晩でひっくり返っていた。


試合では俊敏な身のこなしで鋭い打球を受け止め、難しい局面では冷静な判断力で味方を導いた。


静かに微笑みながら、チームメイトに声をかけるその姿に、場にいた誰もが息を呑んだ。


前に出すぎることはなく、それでいて確実に勝利に貢献する──「転校生」という肩書きを超えて、彼の存在は今や、教室の中心にあった。


男子たちは、口をそろえてつぶやいていた。


「なんなんだよ、あの落ち着き……」

「俺らが盛り上がってるとき、ひとりだけ温度違うんだよな」

「なんか、もう……あれ、貴族っぽくね?」


半分は冗談、半分は本気。だが、その目に宿るのは、確かな羨望だった。


一方、女子たちはというと──


「ぼさぼさの髪、手入れしてあげたくなるよね」

「制服の上着、ほつれてたの気づいた? わたし、こっそり縫ってあげたい……」

「顔が見えそうで見えない感じが、逆にドキドキするの……あれって、天然なの? それとも狙ってる?」


まるで推しアイドルを語るような熱量で、彼のすべてにときめきを重ねていた。


何気ない仕草、柔らかな声、誰にも気づかれぬように差し出す優しさ──そうしたひとつひとつが、静かに、けれど確かに、クラスの空気を変えていった。


昨日までは、着古した制服とぼさぼさの髪に隠されていた存在感。


けれど今朝、教室を包んでいたのは、まさしくその彼が放つ、鮮烈な輝きだった。


誰もが、彼を見ていた。


誰もが、彼に何かを感じていた。


──そして、肝心の本人だけが、その空気にどこまでも無関心な様子で、静かに席に座っていた。


注がれる視線にも、耳に届くざわめきにも目をくれず、ただ穏やかなまなざしで、遠くを見つめていた。


それがまた、生徒たちの想像をさらにかき立てていく。


彼は、いったいどこから来たのか? 本当にただの転校生なのか? 誰も彼の過去を知らない。


──それが、「ドンパッチ」という名前に、さらなる謎と魅力を重ねていく。


ティーナもまた、彼の声を思い出していた。


落ち着いていて、包容力があり、聞くだけで胸のざわめきがすっと和らいでいく──そんな声だった。


けれど、まだ話しかけることはできなかった。


もし、自分の力がまた暴れてしまったら。そんな不安が、最後の一歩を踏み出す勇気を奪っていた。


ただひとつだけ、確かなことがある。


彼の声だけが、自分の中の緊張を、本当にほどいてくれたということ。


だからこそ今はまだ──その優しさを、遠くからそっと見つめることしかできなかった。

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