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1話 小さな庭と重たい言葉

 小さな赤いてんとう虫が、朝の光に包まれながら、庭の茂みをゆっくり進んでいく。

 その後ろ姿を、ティーナはそっと見つめていた。

 丸く刈り込まれた低木の根元、花々の間にしゃがみこみ、息を詰めるほど集中してその小さな命の動きを追う。


 やがて、顔の近くまで指を寄せてみると、てんとう虫がちょこんと乗った。

 その瞬間、ほのかにくすぐったい感触が肌に伝わる。


「あなたは、小さくて綺麗ね」


 ティーナは優しく声をかける。

 てんとう虫は羽を広げることもなく、彼女の指の上を慎重に進んでいく。

 その様子がどこか愛おしくて、思わずもう一度微笑んだ。


「私も……そんなふうに、なれたらいいのに」


 指先のてんとう虫を見つめながら、ぽつりとつぶやく。

 庭の色とりどりの花は、誰にも誇示することなく、ただひっそりと咲き続けている。

 その控えめな美しさに、ティーナは自分自身を重ねていた。


 バルティネス男爵家は、貴族の名を冠しながらも、ささやかな屋敷に過ぎない。

 壁には古びた風合いが残り、庭には街から遠く離れた静けさが漂う。

 華やかな祝祭や賑やかな訪問客の気配は、ほとんど届くことがない。

 けれど、ティーナはこの庭の穏やかさを、心から愛していた。


 そのとき、ふいに背中へ声が飛んできた。


「そんなところにいたら、日に焼けるわよ」


 ティーナが振り向くと、妹のソフィアが腕を組み、不満そうに立っていた。


「また古いドレスで草むらに? 本当に、お姉さまって女の子らしさが足りないのよね」


「誰かに見せるつもりもないし……これで十分だもの」


「でも、友達が言ってたわ。ティーナ様はきれいだけど、服が本当にダサいって」


「そんなことまで考えてる暇、私にはないの」


 ティーナは静かに立ち上がり、スカートの裾についた土を払った。

 ソフィアはわざとらしく息をつくと、少しだけ眉をひそめる。


「どうしてもお姉さまはマイペースなのよね……まったく」


 その表情には呆れが混じっていたが、どこか寂しげな色も見え隠れしている。

 屋敷の窓辺から、家族の笑い声が聞こえてきた。

 ティーナはそちらへそっと視線を向ける。


 家の中に入ると、母マルレーネの明るい声が響いてきた。

 リビングのソファには、母が父クラウスの肩にもたれかかり、柔らかく微笑んでいる。

 父は姿勢を崩すことなく、しかし目元にはやわらかな光を宿していた。


「クラウス、あなたったらもう……ふふ、本当に好き」


「マルレーネ、子供たちの前だぞ」


「いいのよ。見て、知って、愛することを学べばいいのだから」


 そんな母の様子に、兄のエドワードは呆れたようにため息をもらす。

 傍らで剣の手入れを続けながら、そっと妹たちに目を向けた。


「また始まったな……」


 それでも、どこか温かい空気が家族の間に流れている。


 夕暮れには長いテーブルに家族が集まった。

 母がフォークで刺した肉を父に差し出し、父は少し照れたように口を開く。

 兄は眉をひそめて、ソフィアはパンをかじりながらぽつりと呟いた。


「わたしも、いつかこんなふうに愛されたいな」


 ティーナはそっとナイフを持ち替えた。

 侍女のベアトリスが近づき、小声で助言する。


「姿勢をまっすぐに。ナイフは内側から切ってください」


「うん、ありがとう」


 食事が終わると、父がナプキンをそっとテーブルに置く。


「ティーナ。お前も、もう十六か」


「……はい」


「そろそろ婚約者を見つける時期だぞ」


 その言葉にティーナの手が小さく震えた。

 けれど、表情は変えないまま、ゆっくりとうなずく。


「……はい」


 父は厳しい顔を崩さず、短く念を押す。


「わかったな?」


「……うん」


 小さな声がテーブルに落ちた。


 ソフィアはその言葉に目を輝かせて話し始める。


「婚約って、いいなあ。どんな人がいいかな。背が高くて、優しくて……でも、ちょっと冷たいのも素敵かも」


 ティーナは空想にふける妹の横顔を見ながら、そっと椅子を引いた。

 夜の帳が降りる。部屋に戻ったティーナは、月の光に包まれた窓辺に立つ。


 手袋越しの手を静かに見つめ、「……私の手で、誰かと、つながってもいいのかな」と声を漏らした。

 薄いカーテンが風に揺れ、月の光が静かに彼女を照らしていた。

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