第七章 -私とケンタとトム-
トムが私のホクロに住み着くようになってから、一ヶ月と四日が経っていた。やはり、トムが一ヶ月で帰ってしまうという事態にはならなかった。やはり、複雑な気持ちである。
そしてついに、来るべき日がやって来たことを告げる鐘が鳴った。鐘といっても、ただの携帯の着信音なのだが。
その鐘が鳴ったのは、深夜、いわゆる丑三つ時というやつだった。学校の授業が終わったあとバイトに行くという過酷なスケジュールをこなしたあとだったので、私はそれはもうぐっすりと、深い眠りに落ちていたのだ。けたたましく鳴り響く携帯の着信音が、憎らしくて堪らなかった。寝惚けながら電話に出ると、携帯の向こうから聞こえてきたのは、明らかに落ち込んでいるケンタの声だった。その声を聞いた瞬間、眠気など吹き飛んでしまった。そして、こうはしていられないと、メイクはおろか髪も整えないままに家を飛び出した。
そして私は今、ケンタの部屋で、ケンタの泣き言を聞いている次第である。そう、ケンタはついにマユにふられてしまったのだ。散々別れても構わないというような素振りを見せていたケンタではあるが、いざ本当にふられてしまうと、ショックだったらしい。まぁ、男は馬鹿な生き物だからこういうことになるのは、そう珍しくはないだろう。
「マユ……他に好きな人が出来たんやって」
うん。私は知っている。そして、すでに一線を越えてしまっているという事実も。そのことは、さすがのマユも言わずに別れたはずだ。
「やっぱり、俺は愛されてなかったんやな」
哀愁たっぷりに、ケンタが呟いた。
「そんなことないって。マユは、ケンタのこと愛してるからこそ、別れることを選んだんやろ。これ以上、ケンタを傷つけるわけにはいかんから……一番ではなかったにしても、マユはきっと、ちゃんとケンタのこと愛してたんやって」
ありきたりなフォローしか出来ない自分を恨めしく思った。でも、マユがケンタのことを愛していなかったわけではないことを、ケンタにはきちんと伝えておきたかった。思いつめて、罪の意識でいっぱいになってしまっているマユの流した涙を、私はしっかりとこの目で見たのだから。ケンタの中に残るマユを、嫌な女にしてしまわないようにするのが、今の私の役目だと思った。
「でも……俺もマユのことよぉ責めへんわ」
「え? 何で?」
どういうことだろうか。ケンタは私から見れば、マユに十分過ぎるほど尽くしていたし、ケンタが何か悪いことをしたという風にも思えない。
私は、ケンタからの返事を待った。今日は当たり前のようにケンタのテンションが低いので、会話にいつものキレがない。まぁ仕方ない。気長に待つことが肝要だ。
「俺も……浮気してないとは言い切れんから」
「はぁ?」
私は思わず声を荒げてしまった。ケンタが浮気? 信じられない。
高校のときは、私に対してはもちろん、周りの同級生たちからも、一途そうキャラで通っていたケンタが、浮気なんて。
「ちょっと、誰と浮気してたんよ? いつ? 何で?」
私は勢いを抑えきれず、矢継ぎ早に質問した。そのくらい、ケンタの浮気というのは信じられないものだった。
「いや、別にいつからとかそんなはっきりしてへんし、手ぇ出してもぉたとかでもないし……」
ケンタの言うことがよく分からない。というか、一体何処からが浮気という風に分類されるのだろうか。とにもかくにもケンタが言いたいのは、他に好きな人がいたということなのだろうか。私が尋ねると、まぁそんなところだとケンタは答えた。
「それは……浮気っていうんか?」
私の心の中に浮かんだ疑問をそのままケンタに投げかけると、ケンタは私の反応が気に食わないとでも言わんばかりに、険しい顔で私を見た。
「浮気に……なるやろ」
半ば無理やりな勢いで、ケンタは言い切ってみせた。どうしてそんなにも浮気をしていたことにしたいのだろう。男としてのプライドみたいなもののせいだろうか。女にはよく分からない心理が、彼の中ではたらいているのだろう。
「で、そのケンタが好きな人は、今はどんな関係なん? いい感じやったりするん?」
もしも、ケンタもその浮気(?)相手に脈があるのなら、それで結果オーライではないか。私の恋が叶うという結果にはならずとも、私はマユとケンタがハッピーエンドを迎えられれば、それでいいのだから。
相変わらず、ケンタからの返答はやたらに遅い。これがトムだったら、デコピンを食らわしているところだ。もちろん、今のケンタにそんなことをするわけにはいかないが。首をかしげたり、頭をかいたり、腕を組んだり、煙草を吸ったり、とにかく落ち着きがなく、しきりに何か考え込んでいるようだ。うざったい。
「なぁ、どうなんよ?」
余りに待たせるものだから、我慢の限界が来てしまい、思わず急かしてしまった。だが、私が急かしたところで無駄だった。低く唸って、頭を抱えた。こいつは、答える気がないのか。それとも、唸ることしか能がないのか。
「その人が俺のことどう思ってるんかは……よぉ分からん」
ようやく答えたかと思えば、そんなことか。一体今までの間は何だったんだ。無駄な時間を過ごした。時間を返せ。
「何やそら。しょーもな」
「おいおいおいおい、しょーもない言うなや」
あぁ、ようやくキレのあるツッコミが返ってきた。やはりこうでないと。少しずつ、いつもの調子が戻ってきたのだろうか。そうであって欲しい。
「まぁ浮気は良くないとは思うけど……皆色々あるわなぁ」
私とケンタも、言わばケンタの浮気で別れたようなものだ。
正しくは、マユがケンタに恋をして、それでケンタはまんまとマユに誘惑されてしまい、私に別れを告げて、マユと付き合うに至ったのだ。わがままを言うことを知らない私は、泣く泣くケンタをマユに譲るしかなかった。昔から仲の良いマユを傷つけたくないと、何故か土壇場でそう思ってしまったのだ。
まぁ今となっては懐かしい思い出だ。多分。思い出すと少し胸が痛むのは、きっと気のせいだ。本当に、恋愛というものは難しい。濃厚な人関係が密接に関わりあうのが、恋愛というものだ。煩わしくなるのは、当然なのだ。そう、色々あって然り、色々なことが起こるのが恋愛。しかし、それを知りながらもどうして人間というのは、恋をするのだろうか。自分自身に問いかけてみたところで、答えは見つかりそうにないが。
しばらく一人の世界に入り込んでいたので、ケンタが私の顔色を伺っていることに気が付かなかった。
「なぁ、ちょっと相談してもええか?」
「何よ、もう十分相談乗ってるやん」
いや、とか、その、とか、相変わらずやたらと間を持たすケンタが、面倒臭くて仕方ない。もう無理だ。
「ちょっと、何でも相談乗ったるから、その内容をちゃっちゃと喋れ。どんだけ女々しいねん」
半分キレたような口調でケンタを捲くし立てた。それでようやく、ケンタはスムーズに話すようになった。
「俺、ほんまはマユじゃなくて、その人のことがずっと好きやってん」
ほう。それは初耳だ。マユ以外にも、そんな魅力的な女性がケンタの周りにいたとは。バイト先の人か、そんなところだろう。いつの間にか好きになっていたというから、その人の魅力にも、徐々に気付いていったのだろう。人の本当の魅力に気付くには、時間がかかるものだ。うん、そんなものだ。
「それで…出来たらその人と付き合いたいなぁとか思ったりもするねん。でも、その人は多分、俺のこと全然何とも思ってないやろから、どうしたらいいんかなぁて」
「そんなん、駄目元で告白してみたらええやん。気持ち伝えるだけ伝えたら、何か変わるかもしれんし。あかんの?」
まぁ私だったら、そんな状況で告白なんて絶対に出来ないだろうけれど。やはり男は少し強引なくらいであって欲しいという願いも込めつつ、そう言ってみた。
「それはそうかもしれんけど、今まで作ってきた関係とか、告ってもぉたら、一気に崩れてまうと思わん?」
「それは告った側の力量ちゃう? 上手いことしたら、気まずくなったりはしやんかもしれんしな」
私がそう言うと、ケンタはやけに納得したように、何度か頷いてみせた。この男、本当に単純だな。素直なのはいいことだが、ここまで単純だと少し心配にもなる。
ケンタは再び黙り込んで、何かを考えているようだった。恐らく、その好きな人のことでも考えているのだろう。私としては少し寂しいが、ケンタが幸せになるためなら、私はいくらでも彼を応援しよう。それも仕方ない。恋愛には色々あるものなんだから。私の恋を叶えるというトムの言葉が少し気にかかるが、まぁそこは目を瞑ってやってもいいか。落ちぶれ天使のトムにしては、よく頑張ってくれたと褒めてやってもいいのかもしれない。
「よっしゃ、決めた」
ケンタが突然、声高に言うものだから、思わず驚いて飛び上がってしまった。
「びっくりさせんなよ、阿呆!」
身体の中から勢い良く飛び出してきそうな心臓を押さえて、私はケンタを叱り飛ばした。ケンタは申し訳なさそうにしてはいるが、顔はにやついている。あぁ、腹立たしいこの顔。この顔を見ると、思わず殴りたくなってしまう。
ケンタが何を決めたのか察しはついたが、念のために聞いてみた。
「俺、告るわ」
やはりそうか。私は寂しさと悲しさを押し隠して、ケンタに激励を送ろうとした。なのに、負の感情が思った以上に強くて、押し隠すのに時間がかかってしまった。ケンタに送るべき言葉がスムーズに零れてこない。駄目じゃないか。こんなの私らしくなくて不自然だ。何か悟られてしまうかもしれないじゃないか。
「そっか。頑張れ」
何とか笑顔を作って、精一杯の声援を送ることが出来た。あぁ、本当はこんなこと言いたくないのに。本当は、私のところに来て欲しいのに。きっと、トムは怒っているに違いない。何で我慢するねん、って。何となく怖くて、トムを見ることが出来ない。
だって今の私は、ケンタにとってただの友人に過ぎないのだから。告白なんて、私には出来やしないのだから。もう、どうしてこんなにも胸が苦しくなってしまうのだろう。涙をこらえるので、精一杯だ。
「サキ、付き合ってくれ」
「は? 何であんたが告んのに付き合わなあかんのよ」
どうして私がそんなことまでしないといけないんだ。もう十分相談には乗ったじゃないか。さすがにそこまでしてやらないとならないような義理はない。私は怪訝な顔をして言った。
「お前阿呆か! そういう意味ちゃうわ」
へ? じゃあまさか。そんなまさか。ケンタは深呼吸をしてから、真剣な眼差しを私に向けながら言った。
「俺が好きなんは、お前や」
『よっっしゃぁぁぁぁ!!!』
トムの歓喜の叫びがこだました。私のすぐ隣で、トムは小躍りしている。一方私は、頭が真っ白で未だにケンタの言葉の意味が理解出来ずにいた。訳が分からないまま、私は曖昧に笑うしかなかった。
「は? だってそんな……嘘やろ?」
「嘘ちゃうて。ほんまや。俺はお前が好きや」
「ないないない。ケンタ、お前何を血迷ってんねん」
ない。絶対にない。信じられるはずがない。だってケンタは、私を捨てたんじゃないか。マユを好きになってしまって、私に別れを告げたんじゃないか。
余りに混乱して、ケンタの告白を受け入れない私を説得するように、ケンタは話し始めた。
ケンタは、別にマユが好きになって私と別れたわけではなかったのだという。結果的には、マユを好きになることにはなったのだが。
私が余りに落ち込んでいて、マユと付き合ってくれみたいなことを言うから、仕方なしにマユと付き合うことにするしかなかったんだと、ケンタは言った。
そうだったのか。つまり、別れる原因を作ったのは私だったと。過去の私は、余りに愚かだったようだ。私は一体、何を考えていたんだろう。
「サキ、もう一回俺とやり直す気ないか」
ケンタが、やけに真剣な口調で言った。トムはケンタがそう言ったのを聞くと、瞬時に私を囃し立てた。
『いけ、ねぇちゃん! これはもういくしかないやろ!』
こいつ、余程嬉しいのか、やたらテンションが高い。
ケンタがあまりに真剣に言うものだから、調子が狂ってしまう。どんなテンションで返事をするべきなのかも分からなくなる。茶化してみるのか、真剣に答えてみるのか。冷静に考えることもままならない。そもそも、何て答えたらいいのかも、全く分からないのに。私は、どうするべきなんだろう。
私は、嫌な女になりはしないだろうか。マユはケンタと私が付き合うことを望んではいた。それはケンタが私のことが好きだからということではなく、私にケンタを任せたいということで、そんなことを私に告げたはずだ。しかしだからといって、本当にケンタと付き合うことにするのはどうなんだろうか。なかなか返事をしない私を見て、ケンタは不安そうに私を見ている。ついでにトムも。
『ねぇちゃん、何を迷ってるんや。にぃちゃんがあんさんのこと好きやぁて言うてるんやぞ。何も迷うことあらへんがな!』
トムは何も分かってくれてはいないようだ。まぁ自分の気持ちなど他人に分かるはずなどないのだけれど。
『ねぇちゃん、幸せになるんやろ。わしがあんさんの恋叶えるて言うたやないか。ほんだらあんさんもわしのこと信じるて言うたやないか』
トムが必死に、早く返事をするように求めている。そんなことを言われても。もう何も分からない。
『ねぇちゃん、素直になればいいんや。何も考えることなんかあらへん。自分の気持ちのままに、何でもしたらええんや』
自分の気持ちのままに。私の本当の願望は確かにケンタと付き合うことだ。また、ケンタの一番近くで、二人で楽しく毎日を過ごしたい。本当に、いいのか?
「いいの?」
思わずそう呟いていた。自分では、どうすることが一番なのか分からなかった。だから、ケンタに答えを求めた。ケンタはどうしたいのだろう。私にどうして欲しいのだろう。
「いいのって……俺はだからお前と付き合いたいんやて。いいに決まってるやろ」
ケンタは、私の言ったことがどういう意味なのか、さも分からないといった風だった。やはりケンタにも、私の不安は理解できないようだ。男は鈍感で単純だから困る。特に、今私の周りにいる男たちは特に。
『ねぇちゃん、にぃちゃんの言うとおりやで。はよにぃちゃんに気持ち伝えるんや!』
そうトムに言われて、私の中で何かが弾けたような気がした。そして、決めた。私の気持ちを、ケンタに伝えないと。
「私も、ケンタと付き合いたい。私もずっと好きやった」
こんなことを言う羽目になるとは、夢にも思わなかった。自分がこんなことを言うなんて、恥ずかしすぎる。多分顔が赤くなっているだろう。ありえない。本当に恥ずかしすぎる。
そんな私を余所に、トムは喚起の叫びと、喜びの舞いを同時進行させている。やかましいことこの上ない。まぁそう思っているのは、私だけなのだが。
一方のケンタは、呆気にとられたような顔をして、何も言わずに私のことを呆然と見つめている。とんだ阿呆面だ。
「何やねん、何とか言えよ」
この間に耐え切れずに、ケンタに発言を求めた。私の言葉にケンタはようやく自我を取り戻したようだった。
「あ、ごめんごめん。いや、信じられへんくて」
何か言えとケンタに言ったものの、私自身も何を言っていいのか分からない。
そんな調子で私たちは、ほぼ沈黙のまま長い時間を過ごした。実際は五分程度なのだろうが、この空間では時間が進むのが遅くなっているらしい。一時間は経ったのではないかと思うくらいだ。
『おいおいおいおい、あんさんら、いつまで黙ったまんまでおるつもりや。せっかくやんえんから、もっと喋ったらええがな! ほらほら、ねぇちゃん』
真っ先にこの沈黙に耐えかねたトムが、私に訴えかけえきた。
そんなことを言われたって、何を言うべきなのか分からない。ていうか、こういうときは男の方から何とか言うべきなんじゃないだろうか。私はそう思って、トムからの訴えを、ケンタに上訴することにした。
「ケンタ、何か言うときたいことないん?」
いつもの私ならば、黙ってんと何とか言えやと、罵声を浴びさせるところだが、ここは少し可愛い子ぶることにした。私にそう言われたケンタは「そうやなぁ」と呟き、何やら考え始めた。ケンタのその様子を見た途端、しまったと思った。考えなければならない質問をするんじゃなかった。ケンタが早く答えなければ、結局さっきまでと同じことになるではないか。私としたことが。
案の定、再び長い沈黙が、この空間に訪れた。しかし、こうしてケンタに考えさせておけば、私に発言が求められることはないはずだ。しばらくケンタの様子を見守ろうではないか。
そしてしばらくすると、ふとケンタと目が合った。それでもケンタは何も言わないままだ。ずっと私の目を見ている。お互いの本当の気持ちを伝えあいはしたものの、他には何も変わらないはずなのに、何だかやけに照れくさい。何なんだろう、この雰囲気は。ケンタは大きく息を吸い込んで、ゆっくりと深呼吸をした。
「これから、よろしくお願いします」
ケンタが頭を下げながら言った。言っておきたいことが、そんなことなのか。もっと何かしらあるだろうに。まぁケンタらしい、いい回答なのかもしれない。
「はいはい、こちらこそよろしくお願いします」
私がぶっきらぼうにそう答えると、ケンタは少し膨れた。ちょっと悪ふざけが過ぎたようなので、私はすぐに謝った。
「サキ、こっち来いよ」
ベッドの上に腰掛けているケンタが、私を呼んだ。そこに座って私を呼ぶか。まぁ別に警戒することもないかと思い、床から立ち上がって、ケンタの隣まで移動した。
隣に座ったはいいが、やけに緊張する。いつも大学で肩を並べて授業を受けているときの感覚とは、まるで違う。同じように隣に座っているだけなのに。それに、二、三年前はいつもこうして隣にいたのに。どうしてこんなに緊張してしまうんだろう。情けない。
「もしかして緊張してる?」
ケンタが少し笑いながら言った。この野郎、何ならさっき言ったこと、撤回してやろうか。私は怒りを露にしてケンタを睨みつけた。私に睨みつけられたケンタは、慌てて謝罪した。
「でも、サキはそういうとこが可愛いんよな」
「なっ」
私は言葉が出なかった。こいつはいきなりなんて恥ずかしいことを言うんだ。ケンタ自身も、予想以上に自分の発言が恥ずかしいものだったことにようやく気付いたのか、少しだけ顔を赤くしていた。馬鹿か、こいつは。いや、馬鹿だ。
「ほんま阿呆やなぁ、ケンタは」
私は何だかそんなケンタが可愛く思えて、頭をくしゃくしゃとしてやった。元からボサボサ頭だったので、別にどうしようと関係ないかと思ったのだが、ケンタはそうは思っていなかったらしく、相当嫌がっていた。
そう言えば、もうかなり明け方に近い時間になっている。そろそろ寝ないと、また授業に支障が出てしまう。
「ケンタ、私そろそろ帰るで」
このままここで寝てしまう、というのもありなのかもしれないが、何となくそれは避けるべきだと思ったので、帰ることにする。ケンタはてっきりここで寝るものだと思っていたらしく、私がそう言うと、きょとんとした。それでもしばらくすると私の意図を汲み取ることが出来たらしく、少し寂しそうではあったが、了承してくれた。
この前と同じように、深夜の街を二人で歩く。しかし、以前のような切なさを感じることはない。それが何だか、とても嬉しく思えた。この前は私が酔い潰れていたので、引きずられているような形で手を繋いでいたが、今は違う。しっかりと隣に並んで、互いの手をしっかりと握りながら歩いている。今になって実際に、ケンタとこうして手を繋いで歩くのは、妙に違和感を感じて恥ずかしかった。でもそれでいて、何だかくすぐったいような、温かいような、嬉しいような、何だか申し訳ないような、色んな思いと感覚が交錯して、不思議な気持ちだ。私とケンタの家は、この感覚を楽しむには余りにも近すぎる。近いと便利なので、別に構わないと言えば構わないのだが、初めて何となく物足りないような気がした。
いつものように、ケンタは私のアパートの下まで送ってくれた。いつものように。アパートの下まで。この境界線も、これからそのちになくなるのだろう。
「ほんじゃあ、また明日学校でな」
ケンタは穏やかな笑顔で、私に言った。ケンタのこんな表情は、初めて見たような気がする。私も、笑顔でケンタに答えた。
後ろ髪を引かれる思いで、繋いだ手を離そうとしたとき、全身が温もりに包まれた。ケンタが、私を抱きしめていた。突然で驚きはしたが、次の瞬間には、懐かしさと愛おしさが込み上げてきていた。
そうそう、この感覚。嬉しすぎて、涙が出てきてもおかしくないぞ、これは。この温もりが、私は大好きなんだ。大きなケンタの身体に包まれる、懐かしい感覚。筋肉のついた広い背中。広い肩幅とは対照的な、細い腰周り。がっしりとした大きな手が、私の肩をしっかりと包み込んでいる。
思わず溢れそうな嬉し涙をぐっとこらえて、ケンタの顔を見上げた。
「私のこと、今度はちゃんと幸せにしてくれる?」
最終確認だ。ケンタの気持ちを、もう一度確かめる。ケンタは、さっきよりももっと優しい表情で私を強く抱きしめた。
「当たり前やんけ。もうお前のこと放さん」
私の耳元でケンタが囁いた。この男、妙にロマンチストというか、乙女チックなところがあるのはどうしてなんだろう。臭い台詞だとは思うものの、何だかんだでときめいてしまう自分が、少し恥ずかしい。これはバカップルフラグなのだろうか。そう思うと、少し嫌だが、まぁ良しとしよう。
そしてここでキスをする、というのが定石なのだろうが、私はケンタからのアプローチを、見事にかわしてやった。というのも、トムに見られるのが嫌だったのだ。私とケンタがくっついたことでかなり満足したのか、さっきから大人しくしてはいるが、あとからどうなるか分からない。ここでキスをするのは、リスクが大きすぎる。だって外だし。歯磨きもしてないし。早く寝たいし。そんな感じで言い訳をして、拗ねているケンタを説き伏せてやった。まぁ結果的には余計に拗ねることになってしまったのだが、気にしない。
別れ際にもう一度抱きしめあって、私とケンタは互いの家に帰っていった。
部屋に入ると、いきなりトムが現れた。
「なっ、何よ、どうしたん急に」
余りの勢いに、驚いてしまった。
「どうしたもこうしたもあるかいな! ねぇちゃんが幸せになったんや。お祝いも言わん阿呆とちゃうで、わしは! ねぇちゃん、おめでとさーん!」
トムは本当に嬉しそうな顔をして、私を祝福してくれた。そんな顔を見ると、私まで嬉しくなってしまうじゃないか。
「ありがとう、トム。約束守ってくれたんやな。ほんまにありがとう。これから頑張るわ」
私が少し真剣に言うと、トムは何故か涙ぐみ始めた。何で泣くんだ。娘の嫁入りじゃあるまいし。そもそも私はお前の娘でもないんだが。
「ほんまに良かったわ。ねぇちゃんのほんまに嬉しそうな顔初めて見れて、わしはほんまに嬉しいわ」
「初めてって……そんなこともないやろ」
私はそこまで天邪鬼ではないはずだ。嬉しそうな顔くらい、日頃からしているはずだが。けれど、トムにしてみればそんなことはないらしい。よくは分からないが、ずっと近くで私を監視しているトムがそう言うのならば、そうである可能性も少なからずあるのだろう。
部屋に帰ってきた途端、突如として逆らい難い眠気に襲われた。そう言えば今日はすごく疲れていたんだった。大きな欠伸をして、そのまま布団に潜り込んだ。
「なんやねぇちゃん、もう寝てまうんかぁ? 祝賀会でもしやんのかいな」
トムはテンションが下がる気配もない。祝賀会などやってられるか。私は眠いんだ。ていうか、お前どうやってお酒飲むんだよ?
「あーもう今日は無理。お酒なんか飲んだら明日絶対起きれんし。もう寝る」
そう言って私は布団の中でうずくまり、そのまま目を閉じて、すぐに寝てしまった。
いよいよ次が最終章です!
ようやく幸せを手に入れることができたサキ。
果たしてトムはどうなるのでしょうか。