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第六章 -私とトム-

 トムが私の元にやってきて、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。最初の話では、トムの契約期間とやらがそろそろ切れる頃だ。

 もうすぐ、このウザいオッサンともおさらばか。心苦しい、煩わしい生活から、やっと解放される。そう思うと清々するが、何となく寂しい気もする。こんなに気持ち悪い奴相手でも、たった一ヶ月間生活を共にしただけで愛着のようなものが生まれるのかと思い、私は自分自身の感情がにわかに信じられなくなった。

 トムのいない生活が恋しくはある。しかし、その生活は私にとって寂しいものでもある。トムのいる騒がしい日常に、すっかり慣れてしまっている今、私はかつて当たり前だったはずの一人きりの生活に耐えられるのだろうか。少し不安になるのは、言うまでもないだろう。



 いつものように私がベッドの上で至福の時を過ごしていると、トムが私を呼んだ。いつかのような、そう、トムが大切な話があると言った、あの時のように少し真剣な声だった。しかし今度は、真剣さの中に哀愁を含んでいるような、そんな声だった。声を聞くだけである程度、感情が分かるようになるほど私はトムと深い関係になったのかと思った。

 テーブルの上に座るトムと、真正面から向き合って私は座った。前と同じように、わざわざ正座をして。

 トムの表情を見ると、否応なしに不安が押し寄せてきた。トムはそれくらい、哀愁を漂わせていたのだ。

「わし……ねぇちゃんに言うとかなあかんことがあるんや」

 何だ何だ。トムはやけに思い詰めたような顔をしている。いつもヘラヘラしてばかりのトムがこんな顔をするなんて、もう嫌な予感しかしない。

「まさか、今まで言うてたことが全部嘘やとか言い出すんちゃうやろな」

「ちゃう! そこまでとちゃう」

 トムは両手を顔の前でぶんぶんと振って、必死に否定した。しかし、その顔には未だに不安そうな色が十分過ぎるほどに見てとれた。そしてトムは、少し戸惑うような顔をして続けた。

「全部嘘……っちゅうわけやないんやけど……」

 ん? 今何か聞き捨てならないような発言があったように思うのですが、気のせいでしょうか。

「それは一体どういうことでしょうか」

 そう言って私が問い詰めると、トムはあからさまに慌ててみせた。もごもごと、口の中で何か言っているが、一切聞き取れない。さすがにイラッとして、私がデコピンの構えをすると、ようやくトムは話し始めた。

「つ、つまりやなぁ……わしがねぇちゃんに話したことに、その……嘘があったんや」

 うん、やはり聞き捨てならん。

「ほう。私かって最初から一から十までほんまやと思って、トムのこと信じてたわけとちゃうけどな」

 私が嫌味たっぷりにそう言ったにも拘わらず、何故かトムは安心したように見えた。

「ほ、ほんまか! せやったら問題な……ひぎゃッ!」

 堪り兼ねて、私は久々にトムにデコピンをお見舞いした。それでようやくトムは、私が言ったことが嫌味であることに気付いたようだ。すっかり意気消沈して、黙ってしまった。普段はうるさいくらいによく動く口を持っているくせに、肝心なときに働かない口など、引きちぎってしまおうか。

「それで? まずは何割が嘘やったんかを聞こか」

 私は尋問する刑事のように、トムに尋ねた。

「三割……いや、四割」

「何で増えるねん」

 トムはすっかり怯えている。こやつめ。

「何が嘘やねん。はよ言え」

 私は怯えきっているトムに構うことなく、さらにまくし立てた。

 にも拘わらず、余程言いづらいのか、トムはなかなか話そうとしない。苛々する。仕方ないので、黄金の中指を発動する。いつもは手加減をして人差し指を使っていたが、今は手加減などしていられない。威力の強い中指で、攻撃力最大のデコピンをくらわしてやった。トムはその威力に負けて、ころんと転げた。よっぽど痛かったのか、なかなか立ち上がらない。少しやり過ぎたか。手加減してやるべきだったのかもしれないと思ったが、きっとそんなことはないと、自分に言い聞かせた。

 しばらくして、トムはようやく立ち上がって、座り直した。正座をして。そして、ゆっくりと口を開いた。

「わしは……あんさんのお父ちゃんの使いなんかやあらへんのや」

 一瞬、トムが何を言ったのか理解出来なかった。元々トムのことを信じていたわけではないとは言ったものの、まさか、そのことが嘘だったとは。私が一番信じたかったことだ。トムがお父さんの使いたまと言うから、トムのことも信じてみる気になったのに。

「どういうことよ?」

 混乱する頭で、私は何とか言葉をひねり出した。

「わし……ほんまはあっちから追放された、堕天使なんや」

 堕天使。なんと不似合いな響きだ。それはともかく、どうしてそんなことになったのかを聞いてみることにした。

「わし……あんさんにも話したけど、あっちでろくに仕事もせぇへん、ほんまにあかんたれやったんや」

 うん。それは納得出来る気がする。見るからに駄目な親父だもの。

「ほんならある日、追放されてしもたんや。もうわし、どないしたらええんか分からんようなってもぉて……」

 トムは、ついに泣き出してしまった。こんなオッサンの泣き顔を拝むことになろうとは、思ってもみなかった。顔をくしゃくしゃにして、いや、もはやぐっちゃぐちゃだ。私は見るに見かねて、ティッシュを一枚差し出してあげた。トムにしてみれば大きな布団程のサイズだが、トムはそれを受け取り、鼻をかんで、涙を拭いた。

 トムは鼻を汚ならしくすすると、また話し始めた。

「そんで思ったんや。もうあんさんに頼るしかあらへんて」

「何でまた私やねん」

「だから言うたやん。わし、あんさんのこと、あっちからずっと見とったんやて」

 あぁ、そこは嘘じゃないのか。むしろ、それは嘘であって欲しかった。何が本当で、何が嘘だったのか、全く見当もつかない。

「あんさんの恋を叶えて、ええことしとったら、あっちに帰れるんちゃうか思て……それで、頼みの綱のあんさんに気に入られるために、あんさんのお父ちゃんの使いやぁ言うたんや」

 トムは泣きわめきながら、繰り返し私に謝った。もはや言語として理解出来る域を超えていたが、申し訳なく思っているトムの気持ちは十分に伝わった。必死に謝っているトムの姿は、上司や取引先に平謝りする、駄目な中年サラリーマンを連想させた。

 私はトムに何と言えばいいのか分からなかった。慰めるべきなのか、嘘をついていたことを怒り任せに責め立てるべきなのか。

 しかし、私には一つ確認しなければならないことがあった。

「みんなが幸せになれるって言うのも、私に気に入られるためについた嘘やったん?」

 それまでもが嘘だったとしたら、私は一体これからどうすればいいのだろう。そのことを考えると、涙が出てきそうだった。トムの返事を聞くのが怖い。思わず俯いてしまった。俯くと、余計に涙が零れそうになるのに。

「ねぇちゃん、大丈夫や。それは嘘やないで。わしに残された力、全部使って、あんさんらを幸せにしたるさかいに。安心しい」

 トムは決して茶化さず、真面目にそう言ってくれた。私は一気にほっとしてしまった。本当に、マユやケンタが幸せでいられるなら、オールオッケーと言っても過言ではない。私にとって、この二人の存在はそれくらい大切なのだ。

「トム、それだけは絶対に叶えてな。絶対やで。したら、別にお父さんの使いじゃなくても、トムのこと信じるから」

 そう言ってトムに釘を刺すと、トムはぐちゃぐちゃになった顔を、ティッシュの端で拭うと、満面の笑みを見せた。

「分かった。約束するわ。わしがねぇちゃんを幸せにしたる!」

 トムは親指を立てて、私の方に突き出した。何とも古いジェスチャーだ。でもまぁ、トムがいつもの元気を取り戻してくれたようで良かった。辛気臭いトムなんて、全く以ってらしくない。

 しかし、まだ一つ気になることがあった。

「でも、何で一ヶ月で帰るん?」

 私が尋ねると、トムはそのことをたった今まで忘れていたようなリアクションをとった。

「まさか……それも嘘か」

 トムが、罰の悪そうな顔で私のことを見た。こいつは本当に嘘で固められた奴だな。曖昧な笑い声をあげて、無駄に愛想を振りまこうとしているトムがあまりにも憎たらしくて、私は再び中指を発動させた。

「すまん! 悪い! ほんまに悪いと思っとる!」

「嘘をついた理由を私に分かるように言え」

 私が殺意を込めた視線でトムを射止めながら言うと、トムはプルプルと震えて、顔の下半分をティッシュで隠しながらもごもごと話した。

「だって……わしが帰れるのはいつか分からんし、まぁ一ヶ月くらいやったら側に置いといてもらえるかなぁ思て……」

 それにしても随分適当なプランで、私のところにやってきたんだな。ある意味その謎の行動力に感心する。呆れ果てた私は、肺の奥底からため息をついた。

 ん? ちょっと待て。いつ帰れるか分からない? ということは何か。一ヶ月が過ぎても、このオッサンと過ごさなければならない可能性もあるということか。私がそんな内容のことを尋ねると、「そうなることもあるかもしれんなぁ」と、嫌な笑顔を浮かべながら答えた。あぁ、神様がいるのなら、早くこいつを迎えに来てやって下さい。ようやくこのオッサンとおさらば出来ると思っていたのに。ある意味、トムがついた嘘の中で一番最悪な嘘だ。

「もう隠してることとかないやろうな?」

「もっ、もちろんや」

 これでまぁ一件落着というところか。私は、いつまでも不安そうな顔をしているトムを安心させてやるために、笑顔を見せた。トムを見ていると、小さいことはどうでもよくなって、どんなことでも笑い飛ばせてしまうような気分になるから不思議だ。笑おうと思って笑ったというよりも、自然と笑えたといった方が正しいかもしれない。

「分かった。じゃあ、トムのこと信じよ。頼むで、オッサン」

 さすがに手と手での握手は出来ないので、私とトムは指先と腕一本で握手みたいなものを交わした。


 トムとの生活が、一ヶ月を過ぎても終わらないかも知れないということが、私の心を重くする反面、軽くもした。喜ぶべきなのか、落ち込むべきなのか、全く分からない。まぁ、時の流れに身を任せていれば、なるようになるだろう。今はそんなことを気にしなくてもいいのだ。気にしたら負けだ、負け。トムがいるならいるでストレスも溜まるが、その反面いいことだってあるのだから。よしとしよう。

 それに、お父さんの使いじゃなくたって別にいいと今ならば思える。トムはトムだ。天使だろうが堕天使だろうが、妖精だろうが妖怪だろうが、トムが本当に私のことを考えてくれていることは確かなはずだから。共に過ごしてきた一ヶ月間の様々な局面で、私はトムの想いを感じた。私は、自分が感じたことを信じよう。

 あとは、ケンタとマユが幸せになってくれれば、もう言うことなしだ。そこが一番心配なところでもあるのだが、トムを信じると言った手前、疑うわけにはいかない。とりあえず、信じていよう。そうしている方が、トムも頑張ってくれるだろう。二人から、何かしらの連絡が来るのを待つとしよう。

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