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第二章 -私とケンタとトム-

 トム(こう呼ぶことに抵抗がなくなったのが、何よりも悲しい。)は、普段は私のホクロの中に潜んでいた。しかし、私が人と会うときに限って、ホクロの中から現れるのだ。大学で、バイト先で。私の心が休まらないことは、言うまでもない。

「あんさんの友達の○○ちゃんとかいう子、べっぴんさんやなぁ」とか、「あの男は絶対にろくな奴とちゃうな。近付かんようにせぇよ」とか、「あんさん、あの子のこと嫌いやろ。ハハハ」とか、そりゃあもう、色んなことを言ってくる。

 実家から大学が遠いために、下宿を始めて一年。寂しいときも、もちろんあった訳だが、トムがホクロから現れてからのこの一週間は、寂しさとは無縁の生活を送ることが出来た。それがトムのおかげだとは思いたくないが、認めざるをえない。慣れというのは恐ろしいもので、いつもトムがいることにも違和感がなくなってきた。なんて悲しいのか。


 大学から帰って、家でゴロゴロしていると、トムが話しかけてきた。

「ところであんさん、彼氏はおらんのか?」

 この変態親父、それを聞くか。

「生憎やけど、彼氏はおらんよ」

「そらそうやろうなぁ、ハハハ」

 こめかみがピクピクする。落ち着け、私。

「好きな人とかもおらんのか?女は恋せな腐るぞ」

 この親父…全く、言いたい放題言いやがる。

「トムに言われたないわ。好きな人くらい…」

 むきになって、思わずいると言ってしまいそうになった。そう言ったが最後、鬼のような追及が始まるに違いない。

「おっ、おるんか! 誰や、学校の奴か? あっ、あいつやな、あの、なんちゅうたかな、あいつや、あいつ! あの、色黒で背の高い、茶髪の…」

 トムが誰のことを言わんとしているのかが、すぐに分かった。同じサークルのケンタのことか。

「あぁ、ケンタ?」

「せや! そいつや! 当たりやろ」

 不覚にも、図星だった。このオッサン、妙なところで勘がいいから困る。

 私は、ベッドの脇ではしゃいでいるオッサンを、デコピンで突き落とした。そして、トムの頭上に右足をセットした。トムの声にならない悲鳴が聞こえた。

「トム。私に好きな人はおらん。万が一いたとしても、絶対にケンタではない」

「へ? 何でや。あの兄ちゃん、ほんまにええ奴っぽいし、あんさんも話してるとき、楽しそうにしとるやないか」

 ふむ、ここまでよく見ているとは。このオッサン、侮れん。

「ケンタには、それはそれは仲の良い彼女がおるんや」

 私はそう言って、トムの頭上にセットしていた足をどけ、再び、ベッドの上に寝転んだ。ベッドの下で、トムがほぅと、何か思案しているようだ。

 トムは床に垂れ下がった布団をよじ登りながら言う。

「せやけどあんさん、そのケンタっちゅう奴と、やけに仲良さそうやったやないか」

 トムはようやく、ベッドの上まで辿り着いた。

「ケンタとは高校が一緒やったからな。ケンタの彼女も、私の高校からの友達や」

 ケンタの彼女であるマユは、私の親友だ。三人とも、高校からずっと仲が良かった。そしてめでたく、同じ大学に入学することが出来た。私とケンタは同じ文学部、マユは経済学部だ。

 そして、トムには言えないが、私とケンタは高校時代は付き合っていた。

 それでも三人が仲良く出来ているのは、色々なゴタゴタを乗り越えたが故だ。

 そんなことがあったことを知れば、トムは余計に喜んで話を聞きたがるに違いない。そんなのはごめんだ。口が裂けても言えない。

「なんや、面白ないなぁ。修羅場の一つや二つあった方がええやないか」

 修羅場の数など、一つや二つどころではない。本当に、何度涙を流したことか。

 不意に当時を思い出し、涙が出そうになった。私は枕に顔を埋め、熱を持った涙腺を落ち着かせるため、ため息をついた。

「お腹すいた。ちょっとコンビニ行くわ」

 そう言って、スタスタと部屋を出ようとすると、トムがやけに慌てながら私を引き留めた。

「ちょ、ちょぉ待ってぇな! わし、あんさんと半径3メートル以上離れたら、あっちに強制送還されてまうんや!」

 なんだ、その面倒な設定は。仕方ないので、私はトムが私のところまでやってくるのを待った。別に、強制送還されるのならそれでもいいと思ったが、何となく可哀想な気がして、待った。それに、お父さんにも申し訳ない気がしたから。

 よいしょ、と言って、トムは私の足元にしがみついた。本当に何なんだろうか、このオッサンは。子猿か。決して、そんな可愛いものではないが。


 私の住むアパートの最寄りのコンビニは、大学からも一番近いコンビニでもあった。そのお陰でこのコンビニは、いつ、どんな時間に訪れても、騒がしい学生の集団がたむろし、不景気知らずといった様子だ。いつ誰に出会すかも分からないので、油断ならないのが不便だった。すっぴんのときはいつも、さっと買い物を済ませ、コンビニを出る。

 しかし、何となく誰かに会いたいときは、わざわざ軽くメイクをして行き、ゆっくり立ち読みをしたりする。そうしていれば、六割弱程度の確率で、大学の友人に出会うことが出来る。そう、このコンビニは、学生達の社交場のようなものなのだ。

 今日は前者だ。すっぴんにスウェットという、だらしない格好をしている。絶対に誰にも会いたくない。私だって、一端の女子なのだから。それに、何よりも誰かに会えば、トムがうるさい。


 コンビニに入り、適当におにぎりを二つ選んで、レジに向かう。

「サキ!」

 何てことだ。誰かに見つかった。こういうときに限って上手くいかないのが、やはり人生というものか。

 真っ先に頭に浮かんだ選択肢は、気付かないふり。大学に通い始めて一年で学んだのは、煩わしい人間関係の多いのがキャンパス・ライフだということ。その中で最近身に付けた、常套手段だ。

 しかし、その選択肢はほんの一瞬で消えた。私を呼んだ声の主に、私は気付いていたからだ。

「あぁ、ケンタ」

 私がそう言うと、右腕が急に疼いた。トムのせいだ。――思わず右腕に視線を落としそうになったが、耐えた。今気付かない振りをしなければならないのは、こいつの存在だ。

「何してん?」

 ケンタが微笑みながら、私に近付いてくる。

 来るな、すっぴんがバレる!私は思わず心の中でそう叫んだ。まぁ、高校時代は化粧っ気のない純朴な少女だったので、今更すっぴんがどうのと騒いだところで仕方ないのだが。

「んー、ちょっとお腹すいたから」

 ケンタに見えるように、手に持っていたおにぎりを軽く持ち上げながら言った。そして、私もケンタに対して同じ質問を投げかけた。ケンタも、私と同じだと言う。

 せっかく会ったのだから、ケンタの買い物に付き合うことにした。


「おごったるわ」

 レジの前に立つと、ケンタがそう言って私の持っていたおにぎりを奪った。

「え、別にいらんよ」

「こないだノート見せてもらったお礼や。遠慮すんな」

 ケンタが私の頭をコツンと小突いた。何だか申し訳ないような、嬉しいような、複雑な気持ちになる。

 ケンタはいつも、やけに私に優しくする。付き合っていたときよりも、ずっと。遠慮をしているのは、私じゃない。ケンタの方だ。

 ついさっき、トムのせいで色々と思い出してしまっていたものだから、ケンタといるのが、何だか辛い。それなのに、離れられない、離れたくないと思っている自分もいるから厄介だ。

 と、表向きにはこんな感じでも、私は裏では別のことに煮えくり返っていた。

 原因はもちろんトムだ。こいつが黙ってはいなかった。よくシカトを決め込んだと、自分を褒めてやりたい。

『ねぇちゃん! ケンタやぞ、もっとガンガン行かんかい! 今から家に連れ込んでまえ!』

 ケンタがレジで私に背中を向けているときに、トムがそう言ったものだから、私は右腕にいるトムを、殺気を込めた睨みで黙らせた。

 よし。黙った。頼むからそのままずっと口を閉じていて欲しい。むしろ、永遠に黙らせてしまうのが得策だ。少し考えておこう。


 ありがとうございました、という業務的で感情のない声を背中に受けながら、私とケンタはコンビニを出る。そして、コンビニの前で立ち止まった。他にもいる学生に紛れて。

「ごめん、煙草吸っていい?」

 そう言いながらも、ケンタはすでに煙草を口にくわえ、ライターで火をつけようとしているところだった。私は了承せざるを得ないじゃないか。

「ええよ」

 私は呆れてため息をつきながら言った。心の中では、煙草に火を点けるあまり見慣れないケンタの横顔に、思わず見とれてしまっていたのだが。

 ケンタの吐き出した煙が、夜空に吸い込まれていった。その直後、ケンタはため息をついた。ひどく疲れているみたいだ。

「どうしたんよ、でっかいため息ついて」

 ケンタはぶつぶつと曖昧にしか返事をしない。こういう調子のときは。

「またマリと何かあったん?」

 私がそう言うと、ケンタは曖昧な笑みを浮かべた。

「バレバレやっちゅうねん。話聞いたるやん」

 ケンタの背中を平手で叩き飛ばした。

「いって! お前、加減ってもんを知らんのか」

 ケンタが私の前でジタバタしながら言った。その様子が面白くて、思わず笑ってしまった。

『お、ねぇちゃんいいやんけ。ナイスあぷろーちやな! そのまま連れ込んでまえっ!』

 下品なオッサンめ。私がさっき言ったことを一つも覚えていないようだ。まぁとりあえず無視だ、無視。

「で? 今度はどうしたんよ」

 ケンタとマユの喧嘩はよくあることだ。マユはかなりの気分屋のわがまま娘なので、扱いにくさは一級品だ。お陰で、ケンタも私も、よく彼女に振り回されている。ケンタに至っては、私の比ではないだろう。だからこうして、時々愚痴を聞いてやらないと、おそらく二人は良好な関係を続けていけないだろう。マユもそれを分かっているのか、私がケンタの相談に乗っているのを知っているし、それを黙認している。もちろん、マユが私に助言を求めてくることもある。この二人に板挟みにされるのは、辛いものがあるけれど、仕方ない。

「もうやってれんわ。サキ、お前今日何かある? 飲まん?」

 ケンタがそう言ったとき、私の耳には、オッサンの歓喜の叫びが聞こえていた。

「別にいけるけど」

 さりげなく自分の右腕を握りながら、私は言った。オッサンの悲鳴が耳に届いたが、何のことはない。死にゃあしないのだから。

 するとケンタは、とびきりの笑顔を見せた。

「よっしゃ、じゃあ飲むぞ」

 不意に、肩を抱かれた。いや、肩を組まれたといった方が正しいだろう。体育会系男子な勢いだ。私が体育会系なのは認めるが、女子であることも忘れないで欲しいものだ。しかし、嬉しそうにしているケンタを見ると、何だかそんなことはどうでもよくなる。私はケンタに負けない勢いで、少し高いところにあるケンタの肩に手を伸ばし、がっしりと掴んだ。男らしい、ゴツゴツとした骨格の感触が、やけに手に馴染む気がした。

「いくらでも付き合うで~!」

『わしも付き合うで~!』

 何だか耳障りな声が聞こえた。


 ケンタも下宿をしている。私のアパートよりも大学に近い場所に、ケンタのアパートはある。もっとも、私のアパートでも歩いて十分程度なのだが。

 私とケンタの住んでいるアパートは、極近いところにある。

歩いて三分もかからないのではないだろうか。


 さっき買い物を済ませたコンビニにもう一度入り、お酒とおつまみのお菓子を適当に買い込む。

 ケンタも私も、サークルで一年間みっちり鍛えられたお陰で、かなりの酒豪に成長していた。未成年であっても、節度や責任など、大人としての自覚があれば、未成年であっても多少の飲酒は問題にならないと思う。もちろん、これは私の持論であって、社会的観点は気にしないことにする。


 他愛のない会話をしながら、ケンタの家に向かう。まだお酒を口にしていないのに、私たちはやけにテンションが上がっていた。近所迷惑にはならないかと思うくらいにはしゃいでいた。高校時代に戻った様な感覚だ。私たちがそうしている間、トムはやけに静かだった。私たちの会話に聞き入っているのか。不気味だ。



 ケンタの家に入る。ここに来るのは何回目だろうか。家が近いので、用事があってもなくても、よく立ち寄る。もちろん、そんなにたくさんケンタの家に来ていることは、マユには言えない。マユは厳しい家庭なので、一人暮らしはおろか、外泊もそうやすやすとは出来ない。片道二時間かけて、毎日通学している。哀れなものだ。

 いつも通りのケンタの部屋。別に、至って一般的な、平凡な部屋だ。インテリアに凝っているわけでもないし、はたまたフィギュアに埋め尽くされているわけでもない。

 私は、この平凡な部屋がやけに気に入っていたりする。妙に落ち着くのだ。

 私が床に座り込んでいると、ケンタは私の目の前でおもむろに着替え始めた。私が反応するよりも速く、トムが反応した。

『け、けけけ、けしから~~~ん!!!』

 トムが叫んだ。思わずトムの方を見ると、顔を真っ赤にして、鬼のような形相で怒っている。すまん、トム。もはや面白いぞ。

 トムはごちゃごちゃと、わけの分からないことを口走っている。

『ほんま、何をふしだらなことしとんのや! いきなり何考えてんねんコラ! わしが母ちゃんと出会ったときはそんなんやあらへんかったぞ。母ちゃんとわしは、もっと清らかな関係を保っててやなぁ』

 はいはい。そんなに怒らなくてもいいじゃないか。

 私は、トムをかばうわけでもないが、一つ咳払いをした。ケンタが上半身裸で私の方に振り向く。

「ん? 何?」

 ケンタがきょとんとして私を見た。

「何とちゃうわ。女子の目の前で普通に着替えなや」

 私が怪訝な顔をして言うと、そうやそうや! と、トムが威勢のいい声で同意した。そう言ったところで、ケンタには聞こえていないのだが。ケンタはと言うと、私の言葉を聞いてけらけらと笑っている。

「今更何言うてんねん。いっつも何も気にしてないくせに、今日は何でそんなこと言うねん」

 そんなに笑うことはないと思う。まぁ、実際はケンタの言う通りなのだが。体育会系で、バスケサークルで日々活動している私が、今更男の身体を見てわめくことはないのだ。その上、相手はケンタだ。ケンタの着替えなど、飽きるほど見てきたと言っても過言ではない。

「私も女子やねん。恥じらいぐらい持たせてくれ」

 私は何と言えばいいか分からず、思わずそんなわけの分からないことを言ってしまった。ケンタの笑い声が一層高くなった。まぁ無理もないか。

「今更お前を女子扱いせぇってか? 無理無理! てか、女の子として見て欲しいんか?」

 ケンタはそう言って、床に座る私の隣にしゃがみ込んで、顔を覗き込んできた。思わずドキッとした。 

 ニヤニヤとしたケンタの顔が私の目に映る。何とも腹立たしい顔だ。思わず、目の前にあるケンタの左頬を平手で殴り飛ばした。

「やかましいわ! ほら、お酒お酒!」

 ケンタは左頬をさすりながら、渋々と着替えを続けた。

 そんなケンタを尻目に、私はビニール袋からをビール缶を二本取り出した。

「乾杯~!」

 ビールを一気に喉に流し込む。美味い。思わずビールのCMのような声を出してしまう。しかも、二人揃ってだ。お馬鹿同士はこれだから困る。いつものように、お菓子を食べながら、のんびりと飲むことにする。


「あ~もうサキ~助けてくれ~」

 そう言って、ケンタがうなだれた。ケンタの様子を見ている限りでは、今回のはかなりきついらしい。ゆっくり話を聞いて、付き合ってやることにしよう。

「どないしたんよ」

 私がそう尋ねると、ケンタはここぞとばかりに話し始めた。

 話を聞くと、呆れ果ててものも言えない程だった。案の定、わがままお姫様の暴走っぷりが伺えた。彼女は、本当に今のうちに教育をし直した方が良いのではないかと思う。まぁ、そんなことをするには多大な労力が必要とされるに決まっているので、私は自分からそんなことをしたいとは一切思わない。ケンタが不憫でならないが。

「相変わらずマユは酷いなぁ……どうしたらいいものか」

 私自身、彼女のあまりの自由奔放さには悩まされている。

彼女との付き合いは、今ではもう高校時代程のものではなくなっているが、続いてはいる。

 難儀な子だとは思いながらも、彼女との縁が切れないのは、マユの人の良さがあってのことだ。何だかんだマユは友達思いの、純粋ないい子でもあるのだ。ただ時々、厄介なことになることがある。

「いやいや、もう今回はきついわ。結構ずっと同じこと言うてたんやけどなぁ」

 マユは、純粋過ぎるが故なのか、果たして狙っているのか、男に対してあまりにもオープンな子である。

 私もオープンではあると思うが、私のそれとは違う。私は男っぽい方だから、そういう意味で男にはオープンだ。マユは何というか、無防備なのだ。

 ケンタはそんなマユをいつも心配している。過去に、そのマユの無防備さ故に起こった事件があったのだ。まぁ私自身思い出したくないから、今はそのことは置いておこう。

「マユ、ほんまにちゃんと分かってくれてへんのかなぁ……」

「分かってるけど、それがうまく行動出来へんのちゃう?」

 ケンタが頭を抱えてうなだれている。本当に哀れだ。

「俺、マユに愛されてないんかな……」

 ケンタが、悲しそうな顔をして、唐突にポツリと呟いた。私の心が震え出す。ケンタにこんな顔は似合わない。どうしてケンタがこんな顔をしなければならないんだろう。悲しさと、やりきれなさが、心の中に満ちた。もういっそ、マユからケンタを奪ってしまおうか。そんなことまで考えさせる程に、ケンタの横顔は悲しげだった。

「ケンタ……そんなことないって。そんな風に考えたあかんて」

 私は、こんなことしか言えない。私は二人を応援しないといけない。そう約束したのだから。

『おい、ねぇちゃん! ここはチャンスやろが! 何で引くねん、押さんかいな!』

 トムが私の気も知らずに、無責任なことをほざいている。

「いや、もうあかんわ……こんな状況で、自信持てるわけもないし」

「そんなん……頑張れって。ケンタはマユのこと好きなんやろ?」

 嫌だ。マユとケンタは別れてほしくない。私がせっかく辛い思いをして、マユにケンタを譲ったのに。私の苦労が、なかったことになってしまうじゃないか。そんなの、耐えられるはずがない。

 不意に、目頭が熱くなった。二人が別れてしまうと思うと――

 ケンタが、ふと私のほうを見た。

「ぉ前、何泣きそうな顔してんねん。やめてくれよ」

 そう言って、ケンタは私の頭をぐしゃぐしゃにした。ケンタの顔を見ると、さっきまでとは違い、いつもの明るい表情に戻っていた。

「ごめんな。お前が頑張ってくれたから、マユと付き合えたんやもんな。忘れてたわけちゃうけど……ごめんな」

 ケンタが、私の頭をポンポンと撫でた。

『あっ! おいコラ、馴れ馴れしくねぇちゃんに触っとんちゃうぞ!』

 トムのおかげでムード台無し。馴れ馴れしいとかそんなことどうでもいいんじゃ! 私の乙女心が怒声をあげる。しかし、今は冷静でいなければならない。

「いいよ。気にせんといて。とにかく! 頑張れ、ケンタ。そしてとりあえず飲め」

 ずいと、ビールの缶をケンタの鼻先に突き出すと、ケンタは不敵な笑みを浮かべて、私の手から缶を奪った。そしてケンタは、そのビールを喉を鳴らしながら一気に飲み干した。

『ほほー、にぃちゃんなかなかやるやないか! おい、ねぇちゃんも負けてたらあかんのんちゃうかー?』

 トムがニヤニヤしながら、私を見ている。確かにトムの言う通りだ。私もサークルの酒豪のホープとして、この飲みっぷりを見て黙っているわけにはいかないだろう。私は、袋の中から新たにビールを取り出し、缶のタブを開けた。

「え、お前も飲むんか。意味分からんぞ」

 ケンタが笑いつつも、少し不安そうな顔で言った。私はそれを聞きながら、ビールを体内に流し込んだ。あ~ぁ、という落胆するような声が二つ聞こえた。そんな声は無視して、構わずビールを飲み干した。きつい。

「お前はアホか。一気したら酔い回るやんけ」

「いいの! ケンタが飲まんから私が飲んでんの!」

 無茶するなよ、と言いながらケンタは飲み干したビールの缶を握り潰して、酎ハイを取り出した。



 調子に乗りすぎた。深夜一時過ぎ。私たちはグダグダに酔っ払っていた。テーブルの上に突っ伏している私を、トムが心配そうに見ている。

『おい、ねぇちゃん大丈夫か? だから言うたやないか。飲みすぎやぞ。もうはよ寝ぇ』

「もう、うるさいな~。大丈夫やって」

 私はぼやけた意識の中で、トムに言った。ケンタの存在を考慮するのを忘れていた。

「サキ? 寝言か?」

 ケンタがそう言ったのを聞いて、一瞬血の気が引いた。まずいぞ、これは。何でトムに返事をしてしまったんだろうか。

『ね、ねねねねぇちゃん! 何で返事すんねん、アホ! ここはもう寝たフリしとけ。わしに返事したらあかんぞ!』

 トムがやたらと慌てながら言った。そんなに焦る必要があるのだろうか。

 私は、ケンタに返事をせずに、そのまま寝たフリを続けてみた。何も言わず、指一本動かさずに、寝てしまったふりをしていた。

「何や、寝たんかよ……いくらでも付き合うて言うたくせに」

 ケンタがぼやいたのが聞こえた。確かにそうだ。すまん、ケンタ。

 すると、ケンタはゆっくりと私のほうに近付いてきた。なんだろうか。顔に落書きでもされるか、そうでなければ、アホな寝顔を携帯のカメラで納めようとでもいうのだろうか。それは許しがたい事態だ。

 ケンタが私のすぐ隣に座った。何だ何だ、何のつもりだ? 今更そんな近くに座ったりするな! 気持ち悪い。私たちはもうそんないちゃいちゃするような関係じゃないぞ。

「サキ」

 だから何なんだって! これは起きたフリをして、返事をするべきなのか? しばらく寝たフリを続けていると、ついにはケンタが私の肩にそっと触れた。ダメだ。これはイケないフラグだろう! 起きよう。起きるべきだ。

『ねぇちゃん、ここはそのまま寝たフリを続けて、にぃちゃんに全てを委ねるんや!』

 アホか。そんなことになってたまるか。このままではいかん。

「んん……」

 そんな感じで、いかにも今まで寝てましたという雰囲気を醸し出してみた。すると、肩に置かれていた手が、慌ててどかされた。そして、ケンタとの距離も少し開いた。あまりにも近かったものね。うん。

「サキ、寝るんやったら帰れ。な? しんどいんやったらベッド貸すしやぁ」

 いかにも冷静なフリを装っているケンタの口ぶりが、何となく面白くて笑ってしまいそうになる。

「んー……じゃあ帰る……」

 こんな口調になるのは、別にわざとではない。本当に呂律が回らない。ちなみに頭も回らない。もうダメだ。

「んじゃ家まで送るから。ほら、立てるか」

 私の腕を、ケンタががっしりと掴み、私を立ち上がらせる。酔いのせいで足元がふらつく。腕を掴んでもらっていないと、本当に倒れてしまいそうだ。

「おい、ほんまに歩けるか? 別に泊まっていってもいいぞ?」

 やめてくれ、そんな見え見えのフラグは。私はその手には乗らんぞ!

「ん、いけるよ。帰るのー」

 あぁ、こんな酔っ払いの自分やだ……。



「ほら、ちゃんと歩け」

 ケンタが私の手を引いて歩く。傍から見れば、カップルのように見えるのだろうか。手を繋いで歩く、真夜中の街を歩くカップル。何だかロマンチックで素敵じゃないか。私の歩みはしっかり千鳥足になってはいるが。

 ケンタが私の斜め前を歩いている。酔っているせいか、今の状況が何だかやけに切なく感じてしまう。どうしてだろう。何度も辛さや切なさを乗り越えて、私は強くなったはずなのに。こんなの、もう慣れたはずなのに。ケンタがいなくたって、私は大丈夫なはずなのに。

 気付いたら、目の前の景色がゆらゆらと揺れていた。その上、ぼやけてよく見えない。涙が溢れようとしているのか。あぁ、お酒なんか飲みすぎるもんじゃないなと、私は改めて思った。お酒は、理性を外しやすくするものだから。我慢する気持ちをねじ伏せてしまうから。

 とうとう、涙が溢れてしまった。

『おい、ねぇちゃん、どないしたんや。涙でにぃちゃんを釣り上げてまおってとこなんか?』

 予想外なことに、トムが真っ先に私の涙に気付いた。気付きはしたものの、デリカシーはやはり欠片ほども見えやしないが。

 そんなんじゃない。涙なんて、見せちゃいけない。涙の持つ魔力を私は痛いほど知っているから。その恐ろしさは、マユに教えてもらった。私はあの日から、人前で、とりわけ男の前では泣かないようにしているのだ。それなのに、涙が出てきてしまった。

 ついに、ケンタも私の涙に気付いた。もう、私の住むアパートの前に着いてしまっている。

「おい、サキ、泣いてるんか?」

 こいつもなかなか気の利かない質問をするものだ。見れば分かるだろうよ、この涙が!

 私は返事をすることが出来ずに、そのまま佇んでいた。しかし、このままケンタに泣き顔を見られ続けるのが嫌だったので、もう帰ってしまおうと思った。

「ごめん。何もない。大丈夫。ありがとう、送ってくれて。また明日授業でな。バイバイ!」

 私は少し早口で、言うべきことを全て一気に言うと、さっと身を翻してアパートの階段を登っていった。私を呼び止めるケンタの声が聞こえたが、聞こえないフリをした。もう、ケンタに涙は見られたくない。


 部屋に入ると、私はすぐにベッドに横になった。すぐにでも寝てしまいたい。何も考えずに、眠りの世界に落ちてしまいたい。あぁ、でもお風呂入らなきゃ。朝に入ればいいか。面倒くさい。もう眠りたい。

『ねぇちゃん、大丈夫か?』

 耳元で、トムの声が聞こえた。うっすらと瞳を開くと、すぐ目の前にトムの顔が見えた。近い。気持ち悪い。もう少し離れて欲しいのだが。

『ねぇちゃん、やっぱりあのにぃちゃんのこと好きなんやんけ』

「違うってば」

 私は口調を強めて言った。頭が重くて、起き上がれない。私は枕に顔を埋めた。

『じゃぁさっき泣いてたんは何でやねん。なんも泣くようなことなんかあらへんかったがな。にぃちゃんと一緒におるのが辛かったんやろが。だから泣いて、だから帰ってきたんやろ』

 勘のいいトム、降臨。なんて煩わしいのだろうか。こんなオッサンに恋愛のアドバイスなんてしてもらいたくないし、相談すらもしたくない。けれど、全てトムの言う通りなのだ。悔しいが、何も言い返せない。もっとも、何か言い返す気にもならない。

『おい、ねぇちゃん。どないするねん。今、にぃちゃんを奪うチャンスなんとちゃうんか』

 私はその言葉を聞いて、いてもたってもいられなくなった。あまりに聞き捨てならない。私は上半身を起こして言った。

「トム、いい加減にして。私は、ケンタのこと好きでもなんでもないねんからな。奪うとかそんなん……関係ないわ!」

 思わずむきになり、大声で怒鳴ってしまった。トムを見ると、さすがというべきか、意外というべきか、私の目をじっと見据えていた。その目に、むしろ私の方がひるんでしまいそうなほどだった。

『ねぇちゃん、何で強がるんや』

 しばらくの沈黙の後、トムが呟いた。私の心臓が、その言葉を聞いてドクンという音を立てた。

「強がってなんか……」

『ほら、またそれや。嘘つく必要なんかないんやから、素直に全部言うたらええんや』

 トムが、真剣な表情で、真剣な声で言った。声は相変わらず異様に高いが、もはやそれは気にならない。

『ねぇちゃん、あんさんのお父ちゃん、ねぇちゃんのそういうところ気にしとったんやで。いっつも無理してばっかりで、自分がほんまに思ってることは言わんと我慢して。上から見とったら、ほんまにいつか壊れてしまうんちゃうかって、冷や冷やするわ』

「お父さんが……?」

『せや。ほんまに心配してくれてはるんやぞ』

 お父さんが。実を言うと、私自身はお父さんのことを覚えてはいない。お父さんが死んだのは、私が小学校四年生の時だったので、無理もないだろう。それにも拘らず、お父さんは私のことをずっと見守っていてくれたのか。何だか少し申し訳ないような気になった。

『お父ちゃんが一番あんさんを心配しとったんは……せやなぁ、やっぱりあの時やな』

「あの時って?」

『あんさんに新しいお父ちゃんが出来た時や』

 また、心臓が大きく鳴った。自分で思い返してみても、あの頃の私は不安定だったと思う。

 お母さんが、今のお父さんと再婚したのは、私が中学校二年の時だった。新しいお父さんは本当にいい人で優しい人だったけれど、私は表面的にしか、受け入れることが出来なかった。私の心の中に残った、大好きなお父さんの姿が心の奥底にずっとあったからだ。新しいお父さんを受け入れると、そのお父さんが消えてしまいそうで怖くて。でも、新しいお父さんを受け入れないと、今度はお母さんに見捨てられてしまうような気がして。そんなジレンマに、私は長いこと苦しめられていた。

 苦しいことをお母さんに伝えることも出来ない、本当に辛い時期だった。まぁ何とか乗り越えはしたのだが。

『あのときのあんさん……自分では気付いてないかも知れへんけど、ほんまに危なかったんやで。精神的には、ほんまにギリギリの状態やったからなぁ…あんさんのお父ちゃん、毎日ほとんど一日中あんさんのこと見てたわ。あの時、ずっと我慢してばっかりやったやろ? 何も誰にも言わんと、全部自分の中に閉じ込めてもぉて……そんなんで全部乗り越えていけるほど、あんさんは強ないんやで』

 強くない――その言葉が、私の心の深いところに突き刺さったような感じがした。私は何も言えずに、ただ空を見つめていた。

「まぁ、わしの仕事はあんさんを見守ることや。あんさんが出来るだけ無理せんように、あんさんのお父ちゃんが心配せんで済むようにするんが、わしの役割やさかいに。わしに何でも言うたらええ」

 トムが胸を張ってそう言った。そんなこと言われても、こんな小さくて、訳の分からない生物に頼るなんて、かなり難しいことなんじゃないだろうか。でも今の私には、何故かトムがやけに頼もしく見えた。

「ありがとう」

 思わず、私はトムに感謝の言葉を告げた。トム自身、予想外だったのか、心なしか驚いたような顔をしている。

「な、なんや急にしおらしなって……気味悪いがな」

 明らかに照れてやがる。何だか可愛い……なんて思うことは全くないが、トムもやはりオッサンなんだ。素直な言葉には、滅法弱くて、不器用なのだ。

「もう寝るわ。明日も学校やし」

「おう、そうか。ゆっくりしい」

 私が電気を消して布団の中に潜り込むと、トムはいつものように私の右腕のホクロの中に帰っていった。静かに目を閉じて、私はそのまま眠りに落ちていった。

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