第一章 -私とトム-
あれ、こんなところにホクロあったっけ?
お風呂で体を洗っているときに気付いた。
右腕の肘の近く。見慣れないホクロ。直径はニミリくらいだろうか。ホクロにしては少し大きいくらい。鉛筆でぐるぐると小さな円を書いたような感じだ。どうして今まで気付かなかったのだろう。
まぁ、ただのホクロには変わりないのだし、特に気にすることはない。そう思っていた。
けれど、どうやらそれは普通のホクロなどではなかったようだ。
ある日、お風呂あがりに短パンに半袖姿で、ベッドの上で寝転がって、私は雑誌を読んでいた。雑誌をめくりながら、私は妄想ショッピングを楽しんでいた。ふと右腕がむずむずとしたので、ボリボリとだらしなく掻きむしっている時だった。
「いて、いててててっ! ちょっ、ねぇちゃん何すんねや! やめんかい!」
急に声がした。外で酔っ払いのオッサンが騒いでいるのか。特に気にしない。やけに高い声だったが……。
それにしても、かゆい。掻き続けていると、また声がした。
「やめろっちゅーとるやろ! おい!」
おかしい。この、プライバシー保護のために音声を変えてお送りしております的な、やけに甲高い声。アニメやバラエティなどでの小人の声もこんな感じだったか。その声が、家の外などではなく、自分のすぐ近くにあるように聞こえるのだ。
右腕を掻いていた左手の動きが、ピタリと止まる。というか、私の思考がピタリと止まった。
「ふぅ。やっと気付いてくれたか。おーい! ここや、ここ!」
まさか。私は恐る恐る、右腕を見た。そう、この間見つけた、ホクロのある辺りを。
「ひっ……!」
私は思わず短い悲鳴をあげた。
私の腕から、黒い全身タイツを着たオッサンが、生えている。オッサンの上半身が、私の右腕から出ている!
「ギッ…ギヤああぁぁぁあああ!!!!」
私は右腕をブンブンと振り回しながら、絶叫した。そして、絶望した。私の絶叫と、オッサンの絶叫がシンクロする。オッサンの声の方が、私よりも一オクターブ高いが。
私は右腕の動きを止めて、必死に右腕にいるオッサンを叩いた。さながらもぐら叩きのように。
「いっ痛い! 止めろ、止めろ! ちょっ、ねぇちゃん! 落ち着きぃな!」
私は不覚にも、その声で少し落ち着きを取り戻した。
「な、何やねんオッサン!」
一応は落ち着きは取り戻した。しかし、余りにもこの事態は受け入れがたい。
考えられるだろうか、この、自分の腕から小さいオッサンの上半身が生えているという、屈辱感と悲壮感と絶望が!
「まぁまぁ。落ち着きぃな。ちょっと待ってや」
この状態で落ち着けるか! そうツッコミを入れようとしたときだ。
オッサンは、よいしょっとか言いながら、私のホクロから這い出ようとしている!
「ちょっ…! 何してんねん! 出てこんでいいし! むしろ引っ込め! 二度と出てくんな!」
私は必死にオッサンのホクロからの脱出を阻止しようとして、気持ち悪いと思いながら、オッサンを頭の上から思い切り押さえ付けてやった。
しかし、こんなのが体内にいると考えるのも、気持ち悪い。でも、見えなければいないのと同じだ。
「ぎゃっ! 何すんねや! 止めろ!」
「止めろ言われて止めるか! いいから引っ込め!」
「そうはいかんのや! ええからわしの話聞いてくれぇ~~!」
このオッサン、小さいくせにやけに力が強い。それがまた気持ち悪い。私は更に力を入れて、オッサンを押し込もうとした。
「落ち着きって! わし、あんさんの死んだお父ちゃんの使いなんや!」
「は?」
ふっと、力が抜けた。それと同時にオッサンがスポンと、私のホクロから抜け出た。小さいオッサンの全身が露になる。
体長(?)は、三センチくらい。頭から足の先まである、黒い全身タイツ。メタボなお腹。私との格闘のせいか、額には脂汗が浮き、残りの少なそうな髪の毛がへばりついている。顔面も脂汗のせいでテカっている。あぁ、気持ち悪い。本当に、全身タイツを着た変態親父だ。サイズが小さいのがむしろ救いか。これが実物大なら、さぞかし気持ち悪いだろう。いや、こんな小さいからこそ気持ち悪いのか。もう何が何だかよく分からない。
「うっ…」
私はオッサンの姿を見て、思わず吐き気を催した。手の平を、口元に添える。
「うって! もしかしてねぇちゃん、つわり…ぎゃっ!」
皆まで言わさず、私はオッサンに渾身の力を込めたデコピンをくらわした。
「じょ、ジョークやがな~。ぎゃはははは! ねぇちゃん大阪人のくせに冗談通じへんのかぁ?」
小さいオッサンが、私の右腕の上でふんぞり反っている。あぁ、なんておぞましい光景だろう。
しばらくの間、私とオッサンのにらみ合いが続いた。と言っても、私の方が一方的に睨んでいたのだが。
「そ、そんなに見つめちゃイヤ~…へぐぅ!」
デコピンニ発目。
そして私は、大きく深呼吸をして、決意を固めて右腕の上にいるおかしな生き物(?)に尋ねた。
「お父さんの使いって言うたやんな? どういうことなん?」
「おぅ! よくぞ聞いてくれた。その通りや。まぁわしは言うなれば天使みたいなもんや」
天使だと? 全く、虫酸が走る。このオッサン、握りつぶしたろか。
「何処が天使やねん。こんな気持ち悪いオッサンが天使やったら、フランダースの犬の名シーンも、世界の名画も台無しや」
「さすがねぇちゃん。なかなかいいツッコミやなぁ。惚れ直したで…ぶべっ!」
デコピン三発目。
「ほんまにもう~痛いのは止めてくれんか。いいから聞いてくれ」
「しょーもない冗談は抜きで、まともに喋ってくれたらな」
私が睨みを効かせながらそう言うと、オッサンは小さくため息を出して、私の右腕から降りた。ベッドの上に着地すると、お腹の脂肪がボヨンと上下に揺れた。
「あんさんのお父ちゃん、あんさんが小さいときに死んでもうたんやろ? あの人、それであんさんのことほんまに心配しとってなぁ…」
「何でオッサンがそんなん知ってんのよ?」
「何でって、わしも向こうの住人やさかいな。あんさんのお父ちゃんには、ほんまにお世話になっとるんや」
お父さんが、こんなオッサンと知り合い…考えたくない。
「それで、わしがあんさんのお父ちゃんに恩返ししよ思てな。こうしてあんさんの様子見に来たっちゅうわけや」
やけに誇らしげに、オッサンは腰に腕を当てて、胸を張っている。
「それで、何でオッサンなん? 何でお父さんとちゃうんよ?」
当然の疑問だろう。こんなオッサンより、私のお父さんが来てくれた方が、何倍も、いや、何千倍も、何万倍も良かった。
「いや~、あんさんのお父ちゃんは、あっちでの仕事が忙しいてなぁ。なかなかこっちに来る暇があらへんのや。それでわしが変わりに来たんや」
それにしたって、お父さんも人が悪い。どうしてこんな変態親父を…。
「なぁ。もうちょっとましな人はおらんかったわけ? どうせならイケメンが良かってんけど…」
私がそう言うと、オッサンは俯いてプルプルと震え出した。
「けしから~~ん!」
突然、オッサンが大きな声で怒鳴った。もっとも、そんな高い声で怒鳴られたところで、威圧感の欠片もない。
「ねぇちゃん、イケメンにええ奴はおらんぞ。イケメンなんてなぁ、みんな性格悪いに決まっとんねん! 大概、顔がええだけや! そんなんにたぶらかされとったらあかんぞ!」
この親父、ウザい。
「だいたいなぁ、近頃の若いもんはあかんのや! 外見ばっかり見て、肝心の中身をいっこも見ようとせん!」
説教なんだか、ただのぼやきなんだか、分からない。どちらにせよ、うざいことに変わりはない。ぐちぐちと何か言い続けていたが、ほとんど聞き流していた。そして数分間ご高説を語ったあと、オッサンは言った。
「とにかく、これからはわしが付いとる! ねぇちゃんが失敗しやんように側で見守るっちゅーのが、あんさんのお父ちゃんとの約束やさかいな。わしに何でも任せてくれ!」
「ちょ、ちょっと待ってや! 様子見に来ただけちゃうの?」
私がそう言うと、オッサンは拍子抜けしたようにきょとんとした。全く可愛くはないが。そして、高らかに笑い出した。
「あぁ、すまんすまん、言うてへんかったな。わしがこっちにおるんは、一ヶ月や! 契約期間がある、派遣社員みたいなもんやな」
目眩がした。
一ヶ月? 一ヶ月もこの気持ちの悪いオッサンと一緒だと言うのか。一ヶ月間、このオッサンと同棲しろと。私は、亡き父を恨んだ。
「そんな心配せんでも大丈夫や。あんさん以外のわしの姿は見えへんし、わしの声も聞こえへんようになっとるさかい。友達とおっても、なぁんも心配せんでいいんやで。どや、すごいやろ!」
そういう問題ではない。絶望に暮れる私を少しも気にすることなく、オッサンは憎たらしいくらい嬉々としている。
「せや、自己紹介もまだやったな。わしは、天使の…うげ!」
デコピン…何発目だ?
「私はお前が天使なんて許さん」
私はオッサンをぎゅっと両手で握った。このまま目一杯の力を両手に込めれば、このオッサンはどうなるのだろう。試してみたいのだが。
「じゃ、じゃあ妖精や! わしは、あんさんのホクロから出てきた、ホクロの妖精や。それでどうや」
「妖怪の間違いとちゃうか?」
まぁ、天使と言われるよりは、妖精の方がましのような気もする。広い世の中だ。こんな妖精がいても、おかしくはない……はずがない。私の頭までおかしくなりそうだ。
「まぁ妖精ってことにしといたるわ」
私は渋々オッサンの言い分を受け止めた。オッサンを握っていた手をほどく。
「よっしゃ。ほんでわしの名前はセバスチャンや。セバスって呼んだらええわ」
このオッサン、ほんまにいてもうたろか。
「誰がセバスや」
「ほなディカプリオで……」
私の殺気の満ちた視線に気付いて、オッサンの口がようやく止まった。
「……分かった分かった。わしは友蔵や。親しみを込めて、トムと呼んでくれ」
トム……もう呆れ果てて、ツッコミを入れる気にもならない。
「ほな、そういうことで、これから一ヶ月、よろしゅう頼んますわ」
こうして、私とオッサン(トム)との生活が始まるのだった。