007 襲撃後
風を斬る音が、静まり返った空気の中にひときわ鋭く響いた。
黒髪の男が手にしたブレードを、無造作に払った音だ。血を振り払う仕草に見えたが、その刃にはもとより一滴の汚れもない。光を反射した金属の輝きが一瞬だけ眩しく、すぐに鞘へと収まる。淡々としたその動作が、この場における戦いの完全な終結を告げていた。
「……大丈夫か」
短く落ち着いた声。数拍遅れて、それが自分に向けられた言葉だとヴァルケンは理解する。
「あ、ああ……なんとか。しかし……」
「そうだな。もう少し早ければ被害は減っただろうが」
黒髪の男は周囲へ視線を走らせる。その目は冷静で、しかし何も見逃さない鋭さを帯びていた。
森と草むらに挟まれた狭い街道のあちこちに、十数の骸が無残に転がっている。刃の光を浴びてなお温もりを残す鎧、血の海に沈んだ槍の穂先、草葉に引っかかったままの布切れ。生々しい鉄と血の匂いが、湿った風に乗って鼻腔を刺した。
風が吹き抜けるたび、衣擦れのような音が骸からもれ、耳に不気味な残響を残す。
「いや……助かった。俺……いや、俺たちでは守りきれなかった」
「そうか」
それだけの返事だったが、責める響きはない。
「皆をひとところに集めたい。手を貸してもらえるか」
「いや、俺がやる。あんたは中の貴人を安心させてやれ」
「……かたじけない」
男は言葉を継がず、静かに動き出した。肩にひとりを担ぎ、重さをまるで感じさせぬ足取りで道端の草原へと運ぶ。倒れた者の鎧が擦れる音、血の匂い、それらを嫌悪するそぶりも見せず、一人また一人と丁寧に安置していく。その背中はどこか祈りにも似た静けさを帯びていた。
ヴァルケンは馬車へ歩み寄り、固く閉ざされた扉を叩いた。
「候補様、ご無事です。襲撃者は撃退しました」
中から小さな悲鳴にも似た音がし、すぐにガタリと揺れが伝わる。しかし扉には外から閂が掛けられており、わずかに揺れるだけだ。
「その声……ヴァルケンさんだよね。扉を開けて」
かすかに震えた少女の声。聞き慣れたそれに安堵しつつも、ヴァルケンは警戒を解かない。
「あ、もう少しお待ちを。まだ安全とは言えません」
短い沈黙。だが次の瞬間、内側からためらいがちに問いが飛んでくる。
「あの、イナクさんは……」
兄ではなく、弟の声が返ってきたこと。それだけで、彼女の胸に暗い予感が広がったのだろう。
「……兄貴は……」
十歳の少女に告げるには、あまりに重い現実。しかし、いつまでも隠すことはできない。ヴァルケンは唇を噛み、言葉を絞り出した。
「……準騎士イナク・レイノス以下、護衛は私を除き殉職しました」
「……え……うそ……」
馬車の中で、何かが崩れるような気配があった。沈黙が、耳を塞ぎたくなるほどの重さで落ちる。遠くで草を揺らす風音さえ、痛みを伴って胸に刺さった。
「以後は従騎士ヴァルケン・レイノスが引き継ぎます。命を賭して必ず王都にお連れします」
返事はなく、やがて押し殺した嗚咽がわずかに漏れる。ヴァルケンは扉の前から動かず、しばしその場に立ち尽くした。
「終わったぞ」
背後から声がして振り返ると、黒髪の男が立っていた。表情は変わらないが、肩には微かな疲れがにじむ。
馬車の中も、いつの間にか泣き止んだのか静まり返っている。
「中のお嬢様はどうした」
先ほど「貴人」と呼んでいたその口ぶりに、ヴァルケンは一瞬警戒心を強めた。しかし、もし敵であれば、とっくに自分の命もなかったはずだ。
「なぜ、それを」
「ああ、助けを求める声が聞こえたんでな」
男は迷わず閂を外し、馬車に向かって声をかけた。
「あー、アンお嬢ちゃんだったな。もう出てきていい」
車内で小さく動く気配。しばらくためらった後、おそるおそる声が返る。
「……………………誰?」
「覚えてないか。あんたと一緒にいたメアル嬢ちゃんに名前をもらった、記憶喪失の男だ」
「…カ……カーライル……カールさん!」
勢いよく扉が開かれた。
姿を現したアンの目は赤く腫れ、頬には涙の跡がまだ乾かず残っている。その顔は、泣き疲れた幼い少女の痛ましさと、それでも立ち上がろうとする決意が入り混じっていた。
「久しぶりだな。巫女候補様だったとはな」
「え、なぜそれを」
「祈りの声が聞こえた。巫女や聖女は、高い魔力と強い祈りの力を持っているというからな」
「……私の祈りが、カールさんに届いた?」
「ああ。たまたま近くにいたから間に合ったが、正直ぎりぎりだった」
もっと早ければ――その悔しさが喉まで出かかったが、アンは飲み込んだ。
「辛い現実だろうが、助けられてよかった。メアル嬢ちゃんを悲しませずに済んだ」
「あの……お二人は知り合いなのですか」
「ええ、一応は」
簡潔な説明のあと、三人は道端に並べられた犠牲者たちの前で静かに祈りを捧げた。
草むらの上で、騎士たちの鎧が夕光を受けて鈍く輝く。風が通り抜けるたび、鎧の留め具や武器がかすかに鳴り、それがまるで彼らの最期の言葉のように思えた。
「……イナクさん……私のせいで」
「兄も他の者も、務めを果たしただけです」
平行線のやり取りに、カーライルは小さく息を吐いた。
「相手は相当の手練れだった。運が悪かったとしか言えん。命を賭けてくれたんだ、忘れないでやってくれ」
「……うん。忘れない。絶対に…」
カーライルは懐から札を取り出すと、血判を押した。
「それは?」
「これか?これは浄化と鎮魂の札だ。アンデッドにならぬようにな」
地面に置かれた札が、淡い光を放ちながら音もなく消えていく。血と鉄の匂いが薄れ、代わりに清らかな空気が満ちていく。アンは胸の奥で、どうか安らかにと祈った。
三人は短く相談し、来た道を戻ることを決めた。先に進むのは更なるの襲撃の危険が高い。なにより一刻も早く都市の騎士団支部に報告し、遺体を回収してもらたいとのアンとヴァルケンの想いが強かった。
道中、森の影が長く伸び、遠くで鳥の鳴き声が夜の訪れを告げていた。馬車の車輪が小石を踏むたび、規則正しい音が響き、互いの沈黙を埋めていった。
途中トラブルも無く、一日で都市キノに到着した。報告と事情聴取を終えるころには、街は茜色に染まり、灯りがともり始めていた。
支部の前で、カーライルはアンとヴァルケンに再び向き合った。
「これでお役御免だな」
「御助力に感謝します」
「恩人を助けただけだ。で、これからどうするんだ?」
「王都から迎えが来ます。飛空挺です」
「それは安心だな」
「カールさんは?」
「そうだな、特に予定はないが……」
「だったらメアルの様子を見てきてくれないかな。元気だって伝えてくれるだけでいいからさ」
「……いいだろう。覚えていてくれるといいが」
「あはは、忘れてるかも」
「アン嬢ちゃんも忘れてただろ」
「一応覚えてたって。お嬢ちゃんはやめて、アンでいいよ」
「わかった、アン。しかしコバ村は……」
「メアルは今スタの町の孤児院にいるよ」
「……そうか。それは不義理だったな」
「そうだよ。謝っておいてね。ともかく頼んだよ」
「ああ。じゃあ達者でな」
カーライルが背を向ける。アンは小さく拳を握りしめた。
「……カールさん、助けてくれてありがとう。私、みんなの命を無駄にしないよう頑張るから」
カーライルは振り向かず、片手を軽く振って応えた。




