006 アンを巡る攻防2
イナク・レイノスの放った下からの斬撃は、確かに襲撃者の胴を薙ぐはずだった。だが彼の刃は空を切り裂いただけだった。手応えはなく、乾いた風が頬を撫でる。すぐ目の前の敵が、まるで霞のように消えたかのように感じられた。空間そのものが歪んだかのように、影が一歩先の光に溶けていく。やはり相手が一枚上手だった――その事実を、彼は全身で悟る。
己の命を刈るであろう鋭い剣閃が迫ってくる。躱そうとする身の動きよりも、迫る刃の速度が勝っていた。耳の奥で血が脈打つ音が重く響き、時間が粘ついたように流れる。わずかに動いた空気の匂いさえ、鉄の味を帯びていた。乾いた草が擦れる音がやけに大きく耳に残る。 視界の端で剣閃が弧を描き、次の瞬間には逆に音も色も遠のいていった。
巫女候補の護衛は名誉ある任務。もし気に入られれば、正式に巫女となった暁にパートナーとして選ばれることもある。そんな例は珍しくない。巫女の数に対し、準騎士志望の数は十倍どころではない。平民が兵士から準騎士になるだけでも狭き門なのに、そこから騎士、ましてや聖騎士になる道はさらに険しい。聖女の伴侶である聖騎士など、大国アマリアですら数えるほどしかいない。
気がつけば、そこは陽光が差し込む静謐な大理石の回廊だった。自分はいつの日にかと夢にみていた騎士の正装に身を包み、手には重厚な剣を握っている。
そして、その前に──白い巫女服に身を包み、柔らかな笑みを浮かべる少女が立っていた。年の頃は十六ほど。だが、その面差しは忘れもしないアンのものだった。
――ああ、そうか。俺は今、正騎士の叙任を受けているのか。アン、我がパートナー。これから共に栄光の道を――
静かに一歩進み出て、アンの小さな手を取る。アンはわずかに頬を染め、はにかむように笑った。光が二人を包み、遠くで鐘の音が響く。
イナク・レイノスは幸福な夢を見ながら、静かに絶命した。
「兄貴!」
ヴァルケンは、敵の剣が兄の体を裂き、鮮血が噴き上がる光景を目撃した。肺が焼けるような叫びが喉からほとばしる。だがイナクから命じられた馬車防衛の任を放棄するわけにはいかない。彼は剣を構えたまま、ニケンと対峙していた。
兄が敵を倒し、自分の元へ駆け寄ってくれる――そう信じ、防御を崩さなかった。剣技で兄に勝ったことなど一度もない。それは誇りであり、憧れだった。兄ならば、聖騎士にだってなれると疑わなかった。幼い頃から一緒に木剣を振り、何度打ち据えられても、その背中を追い続けたのだ。
だが、その兄が膝を折り、倒れた。耳鳴りがする。周囲を見れば、護衛隊は自分を除いて全滅していた。地には味方のみが転がり、激しくかき乱された血混じりの土。血と鉄の匂いが鼻腔を満たし、吐き気が込み上げる。もう後はない。ヴァルケンは決意を固める。せめて一太刀――その一心で剣を振り抜いた。
放たれた斬撃は空を裂くだけだった。だが、命を奪うはずの隙は訪れなかった。敵が大きく飛び退いたからだ。理由はわからない。破れかぶれの一撃だったのに。
襲撃者側も、わずかな戸惑いを見せた。対峙していた男――ニケンは、一瞬だけ尋常ならざる剣気を感じ、思わず距離を取ってしまった。そうしなければ斬られると、本能が告げた。
襲撃者リーダー、イーリキは標的の馬車を視認した時点で勝利を確信していた。護衛は冒険者風を装っているが、事前情報でアマリア王国の兵士だと知っていた。十名程度の兵など脅威ではない。巫女候補の護衛隊長は準騎士が務めるが、顔を見た瞬間、勝てると判断した。
戦況は順調だった。準騎士も難なく倒し、残るは馬車の前に立つ従騎士らしき若い兵士――ヴァルケンだけ。部下のニケンは攻めあぐねているように見えたが、実際は弄んでいるだけだ。剣の間合いを寸前で外し、相手の焦りを楽しむ――性格の悪い男だとイーリキは知っている。
叱責の言葉を発しかけた瞬間、ヴァルケンが仕掛けた。力任せで、鋭さもない。ニケンにとっては好機――のはずが、首をすくめるように後方へ跳んだ。その動きは、生存本能が選んだものだった。イーリキですら一瞬、背筋に寒気を覚えるほどの剣気が、どこからか放たれた。
「ぐっ――」
次の瞬間、背後の投げナイフ使いサルゼが仰向けに倒れた。眉間に突き立つ一本のナイフ。襲撃者の誰にも、その投擲は見えなかった。森の中から放たれたと直感で理解するが、あまりに速く、鋭い。空気が切り裂かれる音すら聞こえなかった。
「森からだ。警戒しろ」 「了解」
森の奥から、じわじわと圧が迫る。葉擦れの音が妙に遠く、鳥の鳴き声さえ消えていた。乾いた土の匂いが濃くなり、樹皮の陰から冷たい風が吹き抜ける。呆然と立ち尽くすヴァルケンを置き去りに、イーリキは視線と気配察知で周囲を探る。全身の毛穴が粟立つ感覚。経験上、それは「強者」が近づく時にしか訪れない。刃を握る掌が、無意識に汗で湿っていた。
やがて、一本の影が姿を現した。黒髪の少年。反りのあるブレードを片手に、襲撃者を意に介さぬ歩みで現れる。森を背負い、足音はほとんど響かない。乾いた落ち葉を踏むはずの足取りが、なぜか音を立てない。まるで死が形を取って歩いてくるかのようだった。瞳は冷え切っており、こちらを見ても感情の揺らぎがない。
「俺が殺っていいっすよね」
ニケンが舌なめずりし、剣を向ける。少年は構えるでもなく、歩みを止めない。その間合いの詰め方は自然でいて、異様なほど滑らかだった。空気の流れすら自分のものにしているかのように、距離が縮まっていく。視界の端で、ヴァルケンがごくりと唾を飲み込んだ。
「遊ぶな。一撃で仕留めろ」
イーリキは内心、ニケンでは荷が重いと悟っていた。だが、その死は好機を生む――そう思っていた矢先。
ニケンの首が、音もなく跳んだ。
それはイーリキが得意とする一瞬で間合いを詰め、斬撃を放つ「瞬撃」という技。同じ構え、同じ理屈。だが速度も間合いも、完全に凌駕されていた。あまりに一瞬の出来事に、イーリキは構えたまま動けなかった。血の匂いが、ひどく濃くなる。足元で転がる首の瞳は、まだ自分の死を理解していないようだった。
気付けば、切っ先は自分へ向けられている。視線がぶつかり、戦場を潜り抜けてきた本能が剣を動かした。かろうじて横凪ぎの斬撃を受け止める。腕に痺れが走る。刃越しに伝わる重みは、人間離れしていた。
――強い。何者だ。それに、この剣筋は……同門か?
一瞬でも退けば斬られる。押し返そうと力を込めたが、少年は軽やかに側面へ回り込み、刃を滑らせて重心を崩す。剣が離れた瞬間、肘と手首の小さな動きだけで振り抜かれた刃が、イーリキの首を捉えた。
時間が引き延ばされる。視界が傾き、地面が迫る。驚愕の表情のまま、血を押さえようとするも、半ば切断された首は動かず――イーリキは崩れ落ちた。
黒髪の少年は崩れ落ちたイーリキに一瞥もくれなかった。そしてゆっくりとヴァルケン、いや、馬車の方へ歩きだした。