005 アンを巡る攻防1
「なるほど。」
男は小さく呟き、箱の蓋を静かに閉じた。
一見すると豪奢な宝石箱。しかしわずかに大きく、内部には繊細な魔法の刻印がびっしりと刻まれている。光を受けると刻印の溝が淡く青く輝き、ただの飾りではないことを物語っていた。蓋の裏側には使用者を認証する小さな水晶が埋め込まれており、触れた者の魔力波形で開閉が制御される。
――これは受信専用の魔導具。遠く離れた場所からの通信文字を受け取るためだけに作られた箱だ。双方向通信はまだ存在せず、送信者は送信用魔導具で宛先番号を指定し、これへ文字を送る。王国の公用モデルは千件を記録でき、容量が満てば送信者に送信不可の通知が返る。
男は煙草を指先でくるりと回しながら、机上の地図に視線を落とした。紙の端は擦り切れ、何度も誰かの指が辿った跡がある。地図の上に置かれた小さな石の駒が、彼の思考の速さを物語っていた。
――今日、スタを発つなら……今からでも、この地点でなら間に合う。
火をつけ、深く吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐く。
「さて……本物であればいいが」
薄い笑みの奥に、読み切れない企みが潜んでいた。
☆☆☆☆☆
時は遡り、二年前――アンが八才の頃。
石造りの天井、壁、床に囲まれた、窓のない部屋。天井は淡い光を放ち、空気は澄んで淀みがない。家具は簡素で、ベッドがひとつ置かれているだけだ。
そこに十五歳ほどの少年が眠っていた。黒い髪はこの大陸では珍しい色だ。
唐突に、瞳がぱちりと開いた。見えたのは無機質な石作りの天井。
少年は上体をゆっくりと起こし、視線を左右へ巡らせる。誰もいないことを確かめると、両手を目の前にかざし、指先から掌、腕へと確かめるように視線を走らせ、次に顔に触れた。訝しげに眉を寄せ、目を細める。
――ここは……? 俺は誰だ?
名前も過去も、何一つ思い出せない。記憶を失ったと悟った少年は、まず外へ出ることを考える。
足を踏み出してみると、不自由なく動く。次に――力を試す。
瞬間、手に片刃の黒い刀が現れた。大陸東方で「カタナ」と呼ばれる武器。部屋には存在しなかったそれは、異空間収納と呼ばれる能力によって取り出されたものだった。
刀身は薄く反り、黒い刃には細かな文様が走る。握った瞬間、手にしっくりと馴染む。
――能力は健在か……だが目的は思い出せん。
収納には着替えや防具、薬品、食料、野営道具まで揃っていた。記憶のある頃の自分が周到に用意したのだろう。
装備を身につけながら、武器や道具の使い方は体が覚えていることを確認する。失ったのは自分自身の情報だけで、世界の知識や技術はそのままだ。
水筒を取り出し、一口含む。冷たい水が喉を通り、乾いた口内を潤した。
「……声も出るな」
小さく呟いた直後、腹がぐうと鳴り、わずかに苦笑する。
支度を終え、扉の取っ手に手をかける。きしむ音と共に扉が開き、差し込むのは外の風――そして深い森の緑。樹々の間からは鳥の声が響き、湿った土の匂いが鼻をくすぐった。
森の奥からは水のせせらぎが微かに聞こえる。陽射しは葉に遮られ、まだ昼前だというのに薄暗い。
「……なんでこんな所に……まあ、人のいる所を探すか」
少年は刀を背負い、森の中へ歩み出した。足元の枯葉がかさりと鳴り、木漏れ日が揺れる。だが心の奥には、得体の知れない不安がじわりと広がっていた。
☆☆☆☆☆
時は戻り、現在――アンがスタを発つ朝。
白塗りの外壁と、手入れの行き届いた庭を誇る商家、スライ家。その前には一見質素な旅商人風の馬車が一台停まっていた。だが、使われている木材の質や車輪の造りは上等で、揺れを吸収する細工も施されている。
通りには、近所の人々が遠巻きに立ち、ひそひそと見送っていた。好奇心と羨望、そしてわずかな哀れみが混じった視線だ。
周囲には十数名の護衛。半数は鎧を着た武装兵、半数は軽装で冒険者風だが、立ち振る舞いに隙がない。
「今回、巫女候補様の護衛を務めます、準騎士イナク・レイノスです」
明るい栗色の髪、灰色の瞳の青年が一歩前へ出て一礼した。出で立ちは冒険者風だが、所作は洗練されている。
アンも一歩進み出て静かに会釈する。
「アン・スライです。よろしくお願いします、騎士さま」
「騎士様はやめてください。まだ準騎士ですし、立場も巫女候補様のほうが上です。レイノスとお呼びください」
「では……レイノスさん、よろしくお願いします」
「必ず無事に王都までお連れします」
家族との最後の時間はすでに終えた。契約により家族との縁は断たれ、屋敷を出れば二度と戻れず、手紙すら許されない。母の涙も、父の沈黙も、妹の小さな手の温もりも――もう振り返らない。
アンは振り返らず馬車へ乗り込み、門が閉ざされる音を背に受けた。アンは一瞬だけ視線を落とし、胸の奥に沈んでいた不安を飲み込むように深く息を吸った。その吐息は、わずかに震えていた。手のひらの中では、指先が無意識に衣の裾をきゅっと握りしめている。ほどこうとしても力が抜けず、そのまましばらく動けなかった。
馬車が動き出す。窓の外に広がる街並みは、いつもと同じ色彩に見える。石畳の路地を行き交う人々、色とりどりの布を吊るした市場の店先、そして遠くにそびえる城壁。けれど今日のそれは、どこか遠い景色のように感じられた。明日からはもう、この風景の中に自分はいないのだと思うと、胸の奥にじわりと熱が広がる。
ふと、屋敷の庭で過ごした幼い日の記憶がよみがえった。春先に咲く白い花の下で、母の縫ったドレスを着て走り回ったこと。書斎で本を読む父の横顔を、背伸びして覗き込んだこと。香ばしい焼き菓子の匂いが、廊下いっぱいに漂っていた午後――すべてが、この家と街のぬくもりそのものだった。
アンはそっと目を閉じ、心の中で「ありがとう」と呟いた。その言葉は、家族と、この街すべてに向けた祈りのようだった。瞼の裏に浮かんだのは、温かな陽だまりと、そこに集う人々の笑顔。アンは小さく息を吐き、もう一度だけその景色を胸に刻みつけた。
アンが車内に慣れてきた頃、驚くほど揺れが少ないことに気づき驚いた。見れば窓の外では護衛たちが鎧を隠し、平凡な一行を装っている。
――襲撃対策か。徹底してる……。
聖女検査を受けた日、何度も聞かされた話を思い出す。巫女候補は誘拐の対象となる。アンは改めてその事実を自覚した。
四日後、最初の大都市キノに到着し一泊。市場の喧騒の中でも、レイノスは警戒を崩さず、アンは安心を覚えた。
「王都まではあとどれくらいですか?」
「順調でも一月はかかるな」
「そんなに……スタって、本当に僻地なんですね」
「北端の交易地だからな」
短いやり取りを重ね、アンは彼の実直さに惹かれていく。
――きっと守ってくれる。そう信じられた。
出立より六日目の朝。
森と草原に挟まれた街道を進む。草原からの風は少し冷たく、鳥の鳴き声さえ途切れがちだった。護衛たちの視線は森と草原を絶えず行き来し、いつもより会話が少ない。
「森側に注意しろ」
低く響くレイノスの声。護衛が森へ視線を向けたその反対側ーー草原から風切り音。
シュッ、シュッ、シュッ! 三本の投げナイフが馬車に突き刺さる。
「……っ、敵襲!」
草むらを割って三人の男が飛び出す。二人は剣を抜き、もう一人は立て続けにナイフを投げる。御者台の男が額を撃ち抜かれ、崩れ落ちた。
「馬車に近づけるな!」
護衛の列が斬り裂かれ、十名以上いた仲間が瞬く間に半数に。
――俺以上の手練れがいる。
「ヴォルケン! 扉を死守しろ!」
「了解!」
弟に指示を出したレイノスが襲撃者へ斬り込む。金属音と火花、馬のいななき、車輪のきしみが入り混じり、土埃が舞う。
馬車の中、アンは両手を握りしめ祈っていた。恐怖が胸を締め付けるが、黒苦死病にかかったとき、メアルが祈りで治してくれたことを思い出す。
もし自分に巫女か聖女の力があるなら――皆を守れるかもしれない。
――お願い、神様。誰でもいい、皆を守って。
外の喧騒が遠のき、ただ祈りだけが全身を満たした。