003 アンとメアルの夜
アマリア王国の女児は十歳になると、通称「聖女検査」と呼ばれる試験を最寄りの神殿で受けなければならない。一定以上の魔力を持つ少女を探すためのもので、これはアマリア王国に限らず、ほぼ全ての国で行われている。
魔力――それは、通常では起こり得ない現象を引き起こす源の力。この世界では魔力を持つ者は決して珍しくなく、十人に一人は多かれ少なかれ魔力を備えている。しかし、膨大な魔力量を持つ者となると話は別だ。ごく稀なその存在を見つけるため、聖女検査は国民の女児の義務として課されている。
なぜ女児限定なのか。それは、歴史上、高い魔力量を持つ者はほとんどが女性だったからだ。ごく稀に男性でも高い魔力を持って生まれることはあるが、巫女や聖女としての役割は女性にしか果たせない。そのため検査は女子だけが対象となる。
十歳で検査を行うのにも理由がある。最大魔力は成長に伴って増えるが、その伸びは十歳前後でほぼ固まる。十歳以降に訓練で伸ばせるのは、せいぜい当時の最大魔力の一割程度。つまり十歳でその者の器量はほぼ決まってしまうのだ。
検査方法は単純だ。水晶玉のような透明な玉に触れるだけ。この玉は魔導具で、一定以上の魔力量を持つ者が触れると光る仕組みになっている。光らなければ、その後の成長を加えても必要な魔力量には届かない。
検査に合格した少女は王都の学園――通称「聖女学園」に入学し、卒業と同時に国に仕えることになる。目的は戦力増強だ。今の時代の主力兵器は神具「アーマ・ドル」であり、それを扱うには高い魔力を奉納して神の力を宿す必要がある。その役割を担う者が「巫女」と呼ばれ、聖女学園はその育成機関でもある。
では聖女とは何か。巫女が神の力を借りる存在なら、聖女は神の力そのものを身に宿すことができる、神の寵愛を受けた存在だ。歴史を紐解いても男性の聖女は皆無であり、その数は世界全体でも百に満たない。それでもなお、検査や学園には「聖女」の名が冠されている。
――長くなったが、つまりアンはその聖女検査に通ってしまったのである。
この時点でアンの身柄は本人の意思に関係なく国の保護下に置かれる。法的にも家族と縁を切ることになる。ただし、検査に合格する者は稀なため、国から親に莫大な報奨金が支払われる。平民なら一生遊んで暮らせる額であり、それは同時に手切れ金でもあった。アンの両親も泣く泣くこの決定を受け入れた。
アンの十歳の誕生日は、祝いどころではなくなった。神殿に留め置かれ、一日中説明を受けて終わったのだ。その報告は即座に国へ届き、派遣された護衛が聖女学園までアンを送り届けることになった。
こうしてアンの誕生日会は後日に延期された。そしてアンがメアルと実家最後の夜を過ごすことになったのは、彼女自身の望みだった。両親とは前日に過ごし、出発の日に最後の会話をするつもりだったのだ。
「メアルには感謝してる。私、知ってるんだ。街に帰ってきて一週間、街の外に留め置かれたとき、黒苦死病にかかった私たちを助けてくれたのはメアルだって」
メアルが泣き止み、落ち着くのを待ってから、アンは静かに語りかけた。メアルは首を振ったが、アンの確信は揺るがない。確かにあの時、アンは黒苦死病にかかった。あの痛みと苦しみを忘れられるはずがない。アンだけではない。リカレイたちも、同行した商会の者も、メアルを除く全員が街の外で待機を始めて五日目の夜に発病したのだ。
――それは、呻き声すら上げられない痛みだった。
のたうち回ることもできず、ただ浅く「はっ、はっ、はっ」と呼吸をするのがやっと。アンは高い魔力を持っていたせいか、わずかに体を動かすことはできたが、それでも視界に映った自分の指先は黒く染まり、病の事実を突きつけられた。
痛い。苦しい。
痛い、苦しい。
……その繰り返しが永遠に続くようだった。
どれくらい経ったのか分からない。一瞬だったのか、一日だったのか、十日だったのか。ただ耐えた。死に至るまで続くはずの苦痛に、ただ耐えた。
そんな絶望の中、不意に光が差し込んだ。うっすらと輝くメアルだった。その光は暖かく、痛みと苦しみしかなかった世界に優しく染み渡っていく。光は次第に強くなり、それに反比例するように痛みは薄れていった。
指先に雪のような小さな光が降り、触れると吸い込まれて消える。すると黒ずんだ肌がほんのわずかに元の色を取り戻した。メアルは目を閉じ、祈りを捧げていた。その姿は幻想的で、美しかった。
やがて痛みも苦しみも消え、アンは安堵に包まれて意識を手放した――。
アンが発病してから、メアルの祈りで癒やされ眠りにつくまで――それは時刻を知らせる鐘が鳴ってから次の鐘が鳴るまで(約二時間)の一割にも満たない短い時間だった。だが、地獄のような苦痛の中では、それすら永遠に感じられた。そして、その絶望から救い出してくれた少女のことを忘れられるはずがない。
アンは単に感謝を伝えたかっただけではない。黒苦死病は不治の病で、発病すれば必ず死ぬ。それが常識だった。だが、アンもリカレイも、ロヨイもミランも、商会の者たちも――全員が助かった。それは間違いなくメアルの起こした奇跡だ。
しかし、メアル本人はそれを自覚していない。だからアンは、この事実を秘密にすることにした。リカレイたちにも商会の者にも、他言しないよう固く約束させた。この力が知られれば、権力者や欲にまみれた者たちから必ず狙われるだろう。今夜、感謝を告げたら、この事実は一生胸の内に秘め、墓まで持っていくつもりでいる。
そしてアンには、もうひとつ伝えたいことがあった――それは後悔。
「メアル……私、ずっと謝りたかった」
「え、わたしはアン姉様に謝ってもらうことなんてないわ。むしろ感謝してるの」
「ううん。一年前、もし私がメアルたちを誘わなかったら……メアルは今でも村のみんなと暮らせていたはずだから。だから、コバの村の人たちを……メアルのお父さんを死なせたのは……私なんだ」
はらりと、アンの瞳から涙がこぼれる。そんなアンを、今度はメアルが抱きしめた。
「アン姉様、あの時、アン姉様やみんなに黒いもやがまとわりつくのが見えて……怖くて……ただセレイブ様に黒いもやを祓ってほしくて祈っただけなの。だから私の力じゃなくて、神様の御力だと思うの。それに、もし誘ってもらわなかったら、私も病気にかかってしまっていたかもしれないわ」
「でも……」
「アン姉様。父様や村のみんなの命を奪ったのは病気だわ。アン姉様じゃない。わたしはアン姉様が大好き。ずっとずっと感謝してるの。リカレイも、ロヨイも、ミランも、みんな感謝してる。本当よ。わたしの大事なお姉様」
「メアル……ありがと……」
声を震わせて、アンは感謝を告げた。それ以上は言葉にならなかった。ずっと胸に刺さっていた棘――後悔と自責――それが少しずつほどけていく。メアルは怒らないだろうと思っていた。だが、許せなかったのは他でもない、自分自身だったのだ。
今、メアルに抱きしめられ、心が軽くなるのを感じる。母に抱かれているような安心感に包まれながら、アンは唐突に理解した。
――嗚呼。メアルは……メアルこそが……
二人だけの夜は、静かに過ぎていった。
「メアル、学園で待ってるから」
「え?」
翌早朝、まだメアルが寝ている時間に、リカレイたちが迎えに来た。アンは眠そうなメアルを引き渡し、自分の事情を簡単に説明する。この少年たちは、きっと過保護なほどメアルを守るだろう――その点は安心できた。
そして、まだまどろむメアルに、あの一言を告げたのだ。驚いてぱちくりと瞬くメアルが可愛くて、思わず抱きしめた後で、アンは「じゃあ、またね」と手を振って屋敷の中へ戻っていった。その気軽な別れに、メアルはただきょとんとするばかりだった。