001 孤児の少女は神殿で冥福を祈る
アマリア王国は大陸東部の大国だ。その北の国境付近に位置する街スタ――そこにある、アマリア王国の主神セレイブを祀る神殿で、一人の少女が祈りを捧げていた。
少女の名はメアル。姓はない。彼女は孤児であり、今は孤児院で暮らしている。
元々メアルには両親がいた。スタの街から北へ半日歩いた場所に広がる、大森林の手前にある小さな村コバ。その大森林の奥は、探索に向かった者が誰一人として帰らないため、いまだ誰にも知られていない魔の領域である。コバはその恵みを糧に細々と暮らしていた。メアルはその村長の娘として生まれたのだ。
だが、コバの村には悲劇が訪れた。
黒苦死病――発症すればほぼ助からぬ、特効薬のない恐ろしい伝染病。肌が黒く変色し、激しい苦しみに襲われ、やがて命を奪われる。亡骸は真っ黒になるため、ひと目で黒苦死病と分かる。この病が流行し、メアルを含む数人の子ども以外の村人は全滅してしまった。孤児となった子どもたちは、スタの孤児院に引き取られることになった。
一年が経ち、メアルは八歳になった。孤児院での生活にも慣れた。
今日は父親の――いや、村の命日である。実際に亡くなった日が今日だったのかは分からない。ただ、一年前の今日、メアルたちはコバ村と取引していたスタの商会の娘アンに招待され、一週間ほどスタに滞在していた。そして村へ戻ったその日、既に息絶えた村人たちを発見したのだ。
村の異変に気付いた商会の者たちは、すぐに子どもたちを村から引き離し、親の亡骸すら見せなかった。スタへ戻る途中も、感染の疑いから一週間街の外に留め置かれ、その間に自警団によって村は焼き払われた。国へも報告がなされ、跡地は立入禁止とされ、黒苦死病の存在は口外禁止となった。孤児となった子どもたちも誓約させられたほど、国にとっても脅威の病だった。
孤児になって以来、メアルは毎月の命日に神殿を訪れ、村人たちの冥福を祈ってきた。そして今日は、いつもより長く祈りを捧げていた。
「メアル、もうそろそろ行こうぜ」
声を掛けたのは、コバ村の幼馴染で同じく孤児の少年だ。他に二人の少年も一緒にいる。
祈りを止めたメアルはゆっくりと目を開け、振り返った。三人は退屈そうに立っていた。
「待っていてくれてありがとう。リカレイ、ロヨイ、ミラン」
微笑んだメアルに、三人は顔を赤らめた。コバ村の生き残りは、今やこの四人だけである。
「今日はやけに熱心だったな」
「ええ。父様たちの命日ですもの」
「僕たちも祈ってたんだけど、メアルみたいに長くは無理だな」
「だなあ。祈ってるメアルの邪魔も悪いし……それに、このあとアン姉に呼ばれてるだろ」
おっとりと首を傾げるメアル。どうやら忘れていたようだ。
「おい、本当に?」
「はぁ……まったく、世話が焼けるな」
「ふふふ。三人がしっかりしてるから」
「あはは、否定しないんだな」
「ミラン、笑うとこじゃないだろ」
「だって、メアルらしいじゃない。なあ、ロヨイ」
「まぁな。いつも通りだ」
「よし、行こうぜ。アン姉ん家だ」
「おう」
「行こう、メアル」
三人が歩き出す。周囲を見回すと、他の参拝者はすでにおらず、残っているのは自分たちだけだった。
――ぎりぎりまで待ってくれていたのね。ふふ、三人とも本当に優しいわ。
メアルはふと神像を見上げた。そこにあるのは、公平と審判を司る神セレイブを象徴する意匠。父たちは正しく生きた。きっとセレイブの審判を経て、至高の楽園にいるはず――そう信じている。
「おーいメアル、ぼーっとすんな。行くぞ」
振り返れば、三人は少し呆れ顔。それが可笑しくて、メアルはふふふと笑った。
「メアル置いてくぞ」
「早くおいでよ」
「はぁい」
メアルは足早に三人へ歩み寄った。本人は急いでいるつもりだったが、三人から見ればゆったりとした足取りだった。
☆☆☆☆☆
「おー、来たね。メアルとミラン、それに悪ガキども」
出迎えたアン――通称アン姉は、メアルとミラン以外には相変わらず辛辣だった。
「呼んでおいてそれはないだろ」
「呼んだのはメアルだよ。ミランは大人しいから歓迎するけど、人に蛙を投げてくる悪ガキに“悪ガキ”って言って何が悪い」
「いや、あれは投げたんじゃないって。せっかく大きいのを捕まえたから見せようとしただけさ」
「そうだよ。蛙が勝手に跳ねて、アン姉の顔にくっついただけじゃないか」
「“だけ”って……あんたら、乙女の顔を何だと思ってるの」
アンの怒気が高まりかけたところで、メアルが静かに割って入った。
「アン姉様、落ち着いて。ロヨイもリカレイも悪気があったわけじゃないの。蛙は村ではとても貴重な食料だったのよ。アン姉様に食べていただこうと二人が頑張って捕まえたのが、ちょっと仇になってしまっただけ。三人とも本当はとても優しいの」
おっとりとした、それでいて澄んだメアルの声に、アンの怒りはすっと収まってしまった。彼女の声には、不思議な鎮静効果があるらしい。
「優しいのはメアルにだけでしょ。でもまあいいか。三人はメアルの騎士様なんだったね。……兎も角、四人ともいらっしゃい。立ち話もなんだから、早く入って」
促されて四人はアンの家へ入った。
アンの家は、はっきり言って豪邸の類だ。スタでも有数の商家であり、隣国から仕入れた商品を王都の商会へ卸している。さらに、アンの父は自治を許されたスタの評議会議員の一人でもあった。コバ村と取引していた商会とは、まさにこのアンの実家だった。
アンとメアルたちの付き合いは三年前に始まる。
当時、メアルの父が村の特産品を納めにスタを訪れた際、アンもその場にいた。コバ村特産のハーブティーが切れており、その到着を心待ちにしていたからだ。ふとした拍子に父親同士の話題に「メアル」という名が出た。それは半ば惚気とも言える親ばか話で、アンは呆れつつも興味を惹かれた。もともと妹が欲しかったアンは、無理を言ってメアルの父に同行し、村へ向かった。
――うわっ……あり得ないほど可愛い!
初めて会った瞬間、アンは心の中で叫んだ。メアルは父親には似ず、整った顔立ちと、水色がかった銀髪、澄んだ青い瞳を持つ神秘的な少女だった。母を病で亡くしたばかりで気落ちしていたメアルを見て、アンの庇護欲は爆発した。
一か月ほど村に滞在し、村長宅――つまりメアルの家で共に過ごすうちに、メアルはすっかりアンに懐いた。そしてアンは気付く。
――この子、おっとりしすぎて危なっかしい……私がついてないとダメだわ。
こうしてアンは“自称メアルの姉”となった。
昨年、メアルを含む四人の子どもを招いたのもアンである。そのおかげで、彼らは黒苦死病の難を逃れたのだった。
「おおー! すげぇ!」
「ご馳走だ!」
「あ、ケーキもある!」
「まぁ……すごいわ」
案内された部屋に入った途端、四人は声を上げた。テーブルの上には所狭しと料理が並び、まるで祝宴のようだった。