009 ある冒険者の悲劇2
最初に異変に気付いたのは、見張り当番中のアルジだった。明け方にはまだ早く、辺りは暗い。しかし、突如として空気が変わった。
「皆、起きろ」
端的な声には、確かな危機感がこもっていた。休んでいた三人もすぐに飛び起きる。
「どうしたアルジ……む」
小声で問いかけたニースもすぐに異変を察し、弓を取り矢を一本静かに抜いた。アルジはすでに両手に小剣を握り、構えている。
リーリックとエスオタンもそれぞれ得物を手に、周囲を警戒した。最初は、この辺りに出没するコボルトに囲まれたのかと思ったが、そんな気配はない。それ以上に、空気には張りつめた緊張感があった。――なんだこれは。殺気ではない。だが何かに狙われているような感覚が、ひしひしと迫ってくる。リーリックは、自分が恐怖していることをようやく自覚した。
「まずいぞアルジ。魔物じゃ」
「そうだな……妙な殺気だが」
「それは虫の魔物だからじゃ。奴らは刈るのに殺気を放たん。その代わり、魔の気配だけは漂わせるのじゃ」
「魔物か……くそ」
「どうする、引くか」
「そうだな。だが簡単にはいくまい」
リーリックが魔物に遭遇するのは初めてだった。もちろん相棒のエスオタンも同じだ。だが二人とも知っていた。――魔物を退治するには四人では足りない。どんなに小型の魔物であっても。
魔物はただ他を殺す存在。魔に取り憑かれた生命は異様に変質し、恐怖を撒き散らす。その魔の気配は標的の心を縛り、動きを封じてしまう。対峙するには並外れた胆力が必要だった。
気配は徐々に強まっていく。四人は冷や汗を拭う余裕すらなく、息を飲むこともできなかった。魔の気配が近づくということは、魔物がこちらに迫っている証拠。だが姿は見えない。草原に隠れられるほどの小ささゆえだろう。そして、そのサイズでありながら、これほどの恐怖を撒き散らす。一般人なら動くこともできず、刈り取られるだけだ。
冒険者には魔物に対抗するための備えがある。勇気と信念を司る神デュロイの札――魔物の恐怖を打ち消し、平常心を保てる護符だ。それを使えば戦闘力は別として、まともに動けるようにはなる。アルジ、ニース、リーリックの三人はなんとか札を起動させたが、エスオタンの札だけが作動しなかった。
駆け出しなら血判の押し忘れもあるが、Bランク冒険者ともなればそんな迂闊さはない。ただ不運にも、彼の札は不良品だったのだ。札の不備を見抜けるのは作り手の職人だけ。買った側にはどうしようもない。恐怖に囚われたエスオタンは、助けを求める声すら出せなかった。そして不幸なことに、仲間たちはそれに気付かなかった。
『どうする、アルジ』
目線でニースが問いかける。アルジはかすかに首を振った。ニースも小さく頷き返す。
「今から目眩ましをかける。ゆっくり引くぞ」
ニースが小声でリーリックとエスオタンに告げる。当然、直接声に出したわけではない。ニースは風の精霊を操り、二人の耳元にだけ声を届けたのだ。万が一感知されたとしても、襲撃されるのはリーリックとエスオタン――そうした保険でもあった。ニースは時に非情な決断を下す者である。ただし、二人を生け贄にするつもりではなかった。全員が逃げ切れるようにしただけだ。幸いにも、魔物は声に反応しなかった。
ニースはさらに水の精霊魔法を無詠唱で発動する。淡く霧が立ちこめ、やがて一帯を覆った。事前に音を消す風の魔法も全員にかけてある。気配を殺しながら、彼らは慎重に撤退を開始した。
☆☆☆☆☆
「ふう、生きた心地がしなかったのじゃ」
「全くだ」
夜営地からかなり離れた場所で、アルジとニースは合流した。二人は廃村となったコバとスタを繋ぐ道の途中で、リーリックとエスオタンを待った。だが、なかなか二人は現れない。
「これは駄目だったかの。やはり我らで刈るべきじゃったか」
「いや、それは避けたい。目撃者がいないならまだしもな」
「ふむ……まあ、そうじゃな」
二人には魔物に対抗する切り札があった。だが今回は使わなかった。即席チームであるリーリックとエスオタンに見られたくなかったからだ。
「それにしても、あれは魔物になりたてじゃろうな」
「なぜだ」
「虫の魔物と言ったじゃろう。そして我らが魔物の気配を感じるほど近くにありながら、即座に襲ってこなかった。まだ小さくて、我らを認識できなかったのじゃろう」
「虫サイズであの気配か……」
「魔の気配は体の大小にはよらん。なんにせよ運がよかった」
「なら、災害級に成長するのはもう少し先か」
「討伐できる大きさに育たねば却って危険じゃが……二人が戻らなければ、余裕はないじゃろうな」
魔に取り憑かれ魔物となった存在は、自然の理から外れる。彼らにあるのは己以外の命を奪う欲望のみ。そして奪った命を取り込み、巨大化していく。
「虫なら匂いで我らを感知することもないだろう」
「飛角虫でないならな」
「ああ、あれか。匂いで追ってこないなら、朝までは待ってやるか」
「早めに戻って、この国の騎士団に討伐させるべきじゃ」
「そうは言うが、置き去りにして彼らが生き残っていたら面倒だ」
「じゃが、ここが安全とも限らん。二人を糧に、すでに大きくなっているかもしれぬ。魔物は特に人を襲いたがる。たぶん、人を感知できるように進化するのじゃろう」
言い合っていると、ニースが何かの接近を察知した。彼の様子にアルジも目を細め、無言で双剣に手をかける。ニースも魔法を構えた。だがすぐに、ニースはその気配から自分の魔力を感じ取り、警戒を解いた。音もなく近づいてくるのは、音消しの魔法を使った仲間しかありえない。やがて姿を見せたのはリーリックだった。
「待っててくれたか。ありがてぇ」
「ああ」
リーリックは二人の姿に安堵したものの、相棒の姿がないことに気付き、顔を強張らせた。
「……エスオタンは来てないのか」
「うむ、まだじゃ」
「く……」
「我々は夜明けまで待ち、来なければスタに向かう」
「お主はどうする」
「俺は……残る」
「探しに大森林まで戻るなどと言うなよ。死に戻るだけだ」
「だが、助けを待っているかもしれん」
「夜明けまでに来ぬなら、可能性は薄い。残念じゃが」
「可能性はゼロじゃねえ」
「……わかった。好きにしろ。魔物が出た以上、急ぎ報告せねばならん」
三人はそれ以上口を開かず、エスオタンを待った。しかし夜が明けても、彼の姿は現れなかった。アルジとニースは無言でリーリックに背を向け、スタへ歩き出す。ニースは背中越しに、リーリックが大森林の方へと歩みを向けたのを感じた。そして風の魔術を使い、追い風を吹かせて街へ急いだ。
☆☆☆☆☆
アルジとニースは、スタの街の門番に魔物の発生を報告した。だが依頼の条件により、これから一週間は街に入ることができない。報告を受けた門番の一人は慌てて自警団へ駆け込んだ。
スタは大森林と国境に近く、砦こそ国の直轄であるものの、金になる産業もない。交易の中継地に過ぎないこの街は、領主のなり手もなく、国の管理下にありながら自治を認められていた。そのため騎士団の支部は存在せず、自警団の結成が許され、対魔物用の兵器すら所持が認められていたのである。
自警団は魔物発生の報を受け、急遽討伐隊を編成した。
だが、リーリックとエスオタンがスタに戻ることは、ついになかった。