03 堕天使との、邂逅
チャイムとは、耐え難い苦痛の訪れを告げる鐘でもあり、安息を告げる鐘でもある。
「はい、じゃあここまで」
授業の終わりを報せるチャイムを受けて、英語の教師がファイルを閉める。
どうやら、生徒たちを阿鼻叫喚に落とし込むスピーチテストはやり過ごしたようだ。ほっと胸を撫で下ろす生徒の顔を一望し、教師が満足気に頷く。
「今日のスピーチ、とても良かった。少し前の授業にちょろっと予告しただけだが、みんなよくできてたな」
あんたの場合、抜き打ちテスト系多いから単純に警戒されてるだっつーのというのが生徒側の本音だが、もちろん余計なことは口にしない。
「特に長谷と三枝。この問題児二人も良くできてたな」
「まぁ、楽勝っすよ」
「は、はい……」
僕の課題を写したことなどまるで悪びれない長谷だったが、三枝はバツが悪そうだ。普段は元気一杯、明朗快活なだけに怪しまれかねなかったが、教師としては二人が課題に取り組んでくれたこと自体が嬉しいようで、バレることはなかった。
「この調子で頑張るように」なんて的外れな激励を残して、教師が教室をあとにする。
途端、静寂と仄かな緊張感に包まれていた教室の空気が弛緩し、クラスメイトたちが待ちわびた昼休みを謳歌しようと席を立つ。
「昼かぁ」
ひとまず授業から解放されて、僕は一息つく。
人間って不憫なことに、辛いときほど長く感じるもんなんだよなぁ。これ欠陥でしょと人間を作った
なにかしらに文句を垂れていると、長谷が僕のもとまでやってくる。
「助かったぜ六月。また頼むわ」
「……ったく、仕方ないなぁ」
「悪りぃな。昼飯どうする? 俺、成田たちと約束してんだけど六月も来るか?」
「……あー、僕はちょっと先生に頼まれごとがあって」
「マジ? ったく、ゆーとーせーっていうのも大変だねぇ。俺は七星よか、お前のほうがよっぽど優秀だと思ってるぜ。ちと地味なのがアレだけど、髪でも染めるか?」
「髪染めたら、それこそ優等生じゃないだろ」
「あ、そっか」
「いいから、行けよ」
「おう、んじゃまたな」
「……」
疲れる。
長谷龍太は自分が仲間としてみなす人間には優しい。気さくに話しかけて、おどけて笑わせてくれる。ただし、仲間としてみなした人間には、だが。
ひとたび彼の敵かもしくは視界に映らないくらい下に見下されれば、彼の態度は一転して冷たくなる。冷酷に、残忍なほどに。
ゆえに、彼との会話は神経を使う。不意な失言が予期せぬ反感を買って敵視されれば、僕の努力は水の泡だ。そうならないよう、気を配るのが疲れる。
先生からの頼まれごと、という嘘をでっち上げてまで誘いを断るのはそのためで、長谷をはじめとしたクラスメイトと一緒にいること自体、ストレスなのだ。
「うし」
恐らくクラスで一番昼休みを待ち望んでいたのは僕だろう。登校中、駅の売店で買ったパンを手に、一刻も早く息苦しい空間から出ようとしたときだった。
「とーる」
三枝が、僕を呼び止めた。
「ん? どうした、三枝」
「ん、いや……あのね、課題、ありがと!」
「あぁ、わざわざいいのに。言ったろ? 友達同士、助け合うのは当たり前って」
「う、うん。でも、わざとじゃないんだよ? あたし、バカだから忘れちゃうだけで……次からはちゃんとやってくるから」
「期待しないで楽しみにしとくよ」
「ほ、ほんとだよ! だから、あたし……とーるを利用なんかしてないから」
「……」
「ちゃんと、友達だからね!」
なるほど、三枝はそれを気にしていたのか。毎度毎度、都合よく僕から課題を映していることが悪意あってのものではないと。それを誤解されていると思って、わざわざ……。
どこまでも、あざとい奴だ。
やはり、三枝とて油断ならない。一見頭の緩そうな彼女だが、彼女も立派に自分の地位を築いている実力者であり、こうして人に誑し込むことを得意としているのだ。
勉強になるなぁと参考にしつつ、僕は笑みを形作る。
「もちろん。僕たちは友達だ」
すると、三枝は安堵したように表情を緩め、手に持つお弁当を掲げる。
「じゃあ、一緒にお弁当食べない?」
「んー、悪い。先生から頼まれごとあってさ。すぐ行かなきゃ」
「そ、そっか。……しょうがないね」
「また食べような」
「う、うん!」
わかりやすく残念がる三枝だったが、生憎と昼休みの休息は死活問題だ。ここばかりは譲れないと断ると、三枝は素直に受け入れる。
僕はじゃあねと手を振って、急いで向かう。
誰も立ち入れることのないはずの学校の聖域、屋上へと。
アニメや漫画とは違って、現実の学校で屋上が開放されているのはごく稀だろう。加えてこの学校では屋上での事故もあって、立ち入りは禁止されているが、その警備は甘い。階段の行く先を阻むテープは隙間を縫えばいいし、カラーコーンは越えればいい。扉にかかる南京錠は手強そうにみえるが、錠が古いのか、ヘアピンを突っ込んで適当に弄り回すだけで簡単に外れる。あとは扉を押し開ければ、到着。
五月中旬、初夏の心地よい風が脇を吹き抜けて、柔らかな陽射しが僕を包む。肺一杯に外の新鮮な空気を吸い込んでストレスやその他諸々を吐きだし、僕は扉の横に座り込む。
天を仰ぐと、雲一つない澄み切った群青が空一面を覆っていた。
「はー、最高だわぁ、屋上」
まさにここを見つけられたのは僥倖としかいえない。
それまで長谷やら三枝に合わせて昼食を摂っていたが、飯時まで気を遣うのはなかなかに辛い。このままどこかでガス抜きをしないとパンクすると危惧していたところに、屋上の警備がお粗末なことを知った。まぁ、屋上に訪れた理由は別にあったのだが、思わぬ収穫に僕は喜んだ。
普段、色々と頑張っている僕に神様がご褒美でもくれたのだろうと、僕は床に寝転ぶ。
そして、深呼吸をして――
「だぁーーー、長谷うぜぇ! 僕を都合よく使いやがってムカつく! 三枝はあざと過ぎる! 本当に友達なんて思ってないっつーの! 英語のセンコーうぜぇ! 授業つまんねぇ、学校だりぃ! ぜんぶがぜんぶ、イラつくんだよぉ!」
腹の奥底にわだかまる憎しみを思いのままに解き放つ。そのまま僕の咆哮は五月晴れの空に吸い込まれていき、僕は毒が抜けてすっきりとした腹を上下させて――笑う。
長谷や三枝に向ける作り笑いじゃない。きへへと、聞く者を不快にさせるような、心から漏れる下卑た笑み。それを隠すことなく、僕は笑い続ける。
これが、僕のガス抜き。僕しかいない屋上なら、誰の目を気にすることなく日頃の鬱憤を声高らかに晴らすことができる。
楽園。
屋上は僕にとって楽園でしかなく、束の間の余韻に浸っているときだった。不意に強まった風がビニール袋を伴って、僕の視界を横切っていく。
何気なくビニール袋の行方を追うと、ビニール袋は風に揉まれるまま、屋上の外へと連れ去られていく。
飛び降り防止と謳うには心許ない、ぺらぺらの金網を越えて。
「……」
つい一週間前には、なかった金網。学校が慌てふためいて設けた急場しのぎの対策を、僕はまじま
じと見詰める。
――飛び降り自殺が、あった。
一週間前だ。僕のクラスメイトである二条優が、遺書もなく自殺したのだ。この屋上から。
素行に問題はなく、学校生活においても目立たない地味な彼女が、なぜ自殺したのか。大きなメディアが押し掛けるほどではないが、それでも滅多に大きな事件の起きない地元は騒然となった。
学校はこれについて、不明と回答。クラスや二条が属する部活動にいじめアンケートを実施しても事実が確認されず、担任教師の神宮寺に尋ねても異変は感じられなかったとのこと。以上のことから責任は学校側にはなく、屋上に防止策を施すといった形に落ち着いた。二条の家族がこれに納得するかどうかは、僕には知る由もない。
「いじめがない、ねぇ」
呟いて、僕は苦笑する。
全員が『なかった』とした、まるで示し合わせたかのような回答。別段、学校側が悪評を広めないためにと、圧力をかけてきたわけじゃない。そんなものを必要せずとも、クラスや部活の連中は丸で囲ったのだ。
いじめはなかった、と。
誰がそうしろと指図したわけでもない。特定の人物への畏怖からでもない。誰に、なにに言われるでもなく、全員がいじめはなかったとしたのだ。
嘘ではないのかもしれない。
もっとも、黒板に悪口を書かれたり教科書やら体操服を隠されたり、時には暴力すら振られる二条を見てもなお、あれはいじめではないと判断できれば、の話だが。
「……」
検討はついている。クラスメイトや部員にいじめはなかったと書かせたものの正体には。かくいう僕だって『なかった』に丸をつけた人間の一人なのだから、身をもって体感している。
空気、という存在を。
視覚では捉えられず、聴覚でも味覚でも触覚でも嗅覚でも掴めない、第六感なんて不確かな感覚でしか感じ取れない不可視の概念に、みんなは指先を動かされたのだ。
もちろん、捉えようのない感覚からの恐怖からというのはある。でも、それだけじゃない。いじめをしていた主犯者は当然、見て見ぬふりをしていた者もいわば共犯者だ。いじめはあったと馬鹿正直に答えてしまえば、自分たちが世間からどんなバッシングを受けて、将来に影響を及ぼすのか。
誰に教わるでもなく、それを全員が計算して生み出た怪物。それが、空気だ。
「本当に……」
愚かだとは思う。しかし、どうしようもない。たくさんの他人と集団をなし、組織のなかで生きていく生物である以上、集合意識が創る空気には勝てはしない。もし、それを打ち破ろうとする者がいればそれは馬鹿に過ぎず、馬鹿は淘汰される。
七星翔子のように。
「……二条」
特に親密な交流があったわけじゃないが、軽く話したことくらいはある。おとなしくて静かで。『私が犠牲になることでみんなのためになるなら、全然いいの』なんて宣って、皆が嫌がる役職や仕事を率先して請け負うような、優しい少女だった。けれど、彼女はなにかとトロいために、球技祭で足を引っ張り、闘争心を燃やしていたクラスの活気を台無しにしてしまった。
たったそれだけのことで、二条はいじめの対象となった。はじめは無視をされ、次にノートやテキストを隠され、クラスのグループラインなどで悪口を書かれるほどにエスカレートしていったが、僕が彼女を助けることはなかった。
向こう側に、落ちたくなかったから。『みんなの空気』の敵になりたくなかったから。我が身可愛さに僕は彼女を見捨てた。
『六月君……たすけて』
間違っていない。僕の判断は正しかったはずだ。そう割り切ろうとしているのにどうして二条の台詞が時折ちらつくのか。その答えを求めて、僕は訪れたのだ。屋上を。
「やっぱ、よくわかんないけどな」
考えれば考えるほど、僕は正解だったと思う。結局、自分を守れるのは自分だけだ。真の友達や仲間なんてものは架空の産物で、いざとなれば人は裏切っていく。ちゃんとその現実を理解しているのだから、誤りではない。
なのに、どうして胸につっかえを覚えるのだろう。ムカムカとするのだろう。訳が分からない自分の心に僕が戸惑うなかで、僕が背中を金網に預けると――金網が、外れた。
「へ?」
設置して僅か一週間で老朽化したとは考えづらく、そもそもの建付けが悪かったのか。ともかく、支えを失った僕は屋上から転落する。
ふわりと、浮遊感に内臓が浮く。少しだけ近づいた青空は遠のき、僕はなす術なく落下していく。
あぁ、と声が漏れる。もしかしたら、これは罰なのかもしれない。見殺しにした僕への報復として、二条が僕を突き落としたんだ――直後。重力に従うままだった僕の身体が、中空に留まる。
「え?」
一体なにごとかと、僕は頭上を見上げる。
青空を背景に広がる鳶色のセミロング。黒曜石さながらの黒瞳で僕を見据え、薄い桃色の唇を不機嫌そうに引き結ぶ少女がそこにはいて。なによりも目を惹くのは、頭の上に浮かぶ黄金のリングと、背中に携える大きな翼だった。
まさしく、天使。
そうとしか形容のできない存在ではあるが、天使の象徴ともいえる翼の色は純白ではなく漆黒。天使のイメージとは一線を画す不気味な翼を背負った少女には、見覚えがあった。
「……七星?」
無論、記憶の姿には翼はないし、リングだってない。それでも、端正な顔立ちに並ぶ鋭い眼光を湛える両眼には、見覚えがあった。
七星翔子。学校一の優等生にして、僕の隣の席の少女。一週間前、二条を庇おうとして報復を受け、不登校になった少女が――いた。
天使に、なっていた。