02 退屈な、日常
「ねぇ! 聞いた!? とーる!」
朝の通勤&通学ラッシュの満員電車に揉まれること数十分。ようやく人混みから脱し、授業が始まる前から気力を吸い取られた僕を、元気に漲った声が迎える。
「な、なにを?」
教室に漂う気怠げな空気をも吹き飛ばすような勢いに、僕は気圧される。
三枝謡。僕と同じクラスメイトにして、クラスのカーストにおいて上位層に属する女子だ。
「今日、英語のテストあるんだって! しかもスピーチの!」
「え、あぁ。前に言ってたやつか?」
「え~前に言ってたの!?」
まんまると丸っこい瞳を潤ませて、まるでこの世の終わりとばかりに嘆く三枝に僕は苦笑する。
三枝の身長は女子のなかでも一際低い。一六〇半ばと、男子でも大きくはない僕とも頭一つ分くらい離れているから、一五〇丁度くらいだろうか。そんな小柄な身体でぴょんぴょんと跳ねるものだから小動物みたいであり、このマスコット感が彼女の人気の秘訣なのだろう。
尻尾みたいなポニーテールを揺らして慌てふためく三枝をどうどうと宥めていると、二人のクラスメイトが近づいてきた。
「うーっす、六月。……まったくうるせぇよな、謡の奴」
「おぉ、長谷。マジでほんとに。なんでこんな元気なんだか」
髪を茶色に染め、ヘアバンドで前髪を搔き上げたのは、長谷龍太。着崩した制服と仄かに香る香水も相まってまさにトップカーストの人間のイメージを体現している。
「つーか、ウタは大袈裟だっつーの」
他のクラスメイトの目を憚ることなく、大きく欠伸をするのは桜庭五十鈴。肩くらいで切り揃えたボブカットの黒髪と、猫のような吊り目。耳元から覗くピアスや少し濃い化粧、高校生離れした色香を纏い、陰で女帝と揶揄される少女が、三枝の頭を小突く。
「いてっ」
「アイツがテストするなんてよくあることでしょうが。少しは学習しな」
「う、う~」
「ていうか、ウタ。あんたスカートでそんなにジャンプしたらパンツ見えるっての」
「パッ……!?」
思いがけない桜庭の指摘に、三枝の顔が一気に赤くなる。急いでスカートの裾をおさえて、僕を睨む。
「見た!?」
「い、いや……」
僕は三枝に詰め寄られていたわけで、そこまで観察する余裕もない。よって無罪だとかぶりを振る僕の一方で、長谷がにやりと笑う。
「ピンクだったな」
「~~~~~っ、長谷っち嫌い! 変態!」
「おいおい、謡のを見たところでなーんにも得しないから安心しろって。な? 六月」
「え? あー……」
なんとも答えづらいパスが回ってきて、僕は言い淀む。この場合、なんと言ったら正解か。それを考えて、頷く。
「だな」
「とーるまで! ひどいよ~」
基本、三枝は僕たちが辛辣なことを口にしても面白おかしく反応してくれる。今回もそれを頼ってみたけど、どうやら問題はなさそうだ。
「ま、でも謡ほどみっともなく慌てはしないけど、俺たちもピンチだわな」
「ん、まぁそうね。ウチは、最悪バックレる覚悟あるからいいけど」
「よくないよー……スズちゃん」
「そうだぜ、五十鈴。アイツ抜き打ちほど厳しく成績に割り振んじゃねーか。バックレるのはやべーって。だ・か・ら」
そこで、長谷が僕に視線を移す。格好の獲物を見つけたような、獰猛な猛獣を彷彿とさせる眼光を湛えて、長谷が僕と肩を組む。
「俺らにはヒーローがいんだろ」
そう言って、長谷がご機嫌に笑う。僕も合わせるように笑って、リュックサックを開ける。
「任せて。抜き打ち云々は前に授業中に言ってたから、もうやってきてたんだ」
「マジ? やっぱ六月半端ないわ。マジ神」
「す、すごいね。とーる。あたしちゃんと授業聞いてたけど全然覚えてなかったよ」
「あの先生は要注意人物だしね。三枝も気を付けろよ?」
なんて雑談を交わしつつ、僕はルーズリーフを取り出す。内容としては今回のスピーチテーマに沿った原稿であり、被らないように細部を変えれば落第点を取ることはないはずだ。
長谷はそれをひったくるように手にして、
「あ、あとでとかとかに見してもいーか?」
「あぁ、うん。もちろん」
水野や成田とは、他クラスの同級生だ。長谷と同じサッカー部の部員であり、二人とは別のクラスになったしまった長谷はよく二人のクラスに遊びに行く。僕も長谷の伝手で知り合ってはいるが、水野は彼女がいるのに女遊びを平気でする奴だし、成田は底が知れなくて、あまり好きなタイプではない。まぁ、学校生活を穏便かつそれなりに充実したものにするためにも、仲良くしてはいるが。
「い、いいの? とーる。いっつもいつも借りちゃってるけど」
すると、多少の引け目を感じているのか。三枝が珍しく萎らしい態度をとるが、僕はそれを笑い飛ばす。
「いいっていいって。困ったときは助け合う。それが友達だろ?」
「と、ともだち……。うん、そうだね」
僕の心にもない言葉を鵜吞みにするあたり、三枝は良い奴なのだと思う。あるいはそういう風に振る舞うことで好印象を与えるという策略かもしれないけど。
「そそっ、友達友達。うし、六月サンキュな」
早速、長谷が僕の原稿を持って自分の机に向かおうとしたときだった。不注意が祟って、長谷が膝をぶつけてしまう。
僕の隣の席。HRまであと五分もない状況でも誰も座らない、空席に。
「っべ、ここ七星の席じゃん」
「はっ、長谷、呪われんじゃない?」「おいおい、冗談に聞こえないから笑えねーって」
軽口を叩きあって、はしゃぐ長谷と桜庭。もはや条件反射というか一種の病気のように僕も笑顔を貼り付けて同調し、七星の席を一瞥する。
七星翔子。眉目秀麗、成績優秀、運動神経抜群と人間離れした能力を有する少女。それゆえに学校中からの生徒からは憧れの的として、教師からは非情に評判のいい優等生として扱われる七星は、現在不登校生である。
なぜ、そんな七星が不登校なのか。
行方不明だからである。とある事件が起き、とある事故が起こった。それ以降七星が学校には姿をあらわすことはなかった。
果たして自責の念からなのか、なんなのか。隣の席といってもろくに話したこともないので分からないが、僕にはどうでもいいことだ。
七星はしくじった。ただ、それだけなのだから。
「はいはーい、HR始めますよ~」
と、僕が七星の件について思いを馳せていると、担任教師であるが教室へと入ってくる。それに伴いクラスメイトが蜘蛛の子を散らすように席に戻り、喧騒が静まっていく。
高らかに鳴るチャイムとともに、退屈で憂鬱な一日が幕を開けた。