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ステ振り間違ったので冒険者やめてNPCになります。  作者: 黒田皐月
第一章 NPCやめて冒険者になります?
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第七話

 撫でるようにやさしく肩を揺すられた。その手が暖かくて、心地いい。

「アキトさん、そろそろ起きてください」

 黒猫の声だ。その声さえ聞ければ俺は安心して眠れそうだ。でも、今何て言った?

「起きる!?」

 布団からはね起きると、窓から差しこんだ日の光が俺の目を刺した。まぶしさに目を閉じてうつむくともう一度眠ってしまいそうになって、また肩を揺すられた。

「やっぱりお前、寝起き悪いだろ」

 呆れ顔のロンに、今度こそ反論できない。

「よく眠れませんでしたか?」

 黒猫が心配そうに俺の顔をのぞきこむ。昨日はなかなか寝つけなかったが、寝不足の疲れなどはなさそうだ。俺は首を横に振って心配ないことを伝えた。

「すぐにご飯食べられますか?」

「ああ」

 俺がようやく布団から出るのを見て、ロンが部屋を出ていった。またからかわれるかと思ったが、それはなかった。

 黒猫と二人で食堂に出ると、三人がもう待っていた。ロンが隣の部屋のレイナと蒼玉に声をかけてくれたらしい。ついでに食事の用意も頼んでくれたらしく、すぐにテーブルに運ばれてきた。

 出されたのは、細かく削いだ乾燥肉の入った粥と生野菜だった。普段は焼いたり煮たりして食べるような野菜が生で出されたので何かと思ったが、今朝畑から採ってきたばかりのものだから生でも食べられるという。かんでみると確かに歯ごたえがあるのだが、意外と甘みがあって悪くない。

「味付けがなくても意外とおいしいんだね」

 気に入ったらしく、レイナがシャリシャリ音を立てて野菜を食べる。少しずつ、よくかんで味わっているようだ。

「そうか? 俺はちゃんと味付けがあった方がいいな」

 ロンの方はほおばって一気にボリボリ食べている。あっという間にロンの皿から野菜が消えた。

 それを見ながら、俺は何となくポリポリかんでいる。味は薄いと思う。だから粥と交互に口に運んでいるのだが、その粥も思ったよりも薄味だ。いや、乾燥肉がまだふやけておらず、そちらに味が残っていたのだ。同じものでもやり方の違いで味が変わるのだなと、俺は黒猫が作ってくれた粥を思い出していた。

「昨夜は、眠れませんでしたか?」

「え……?」

 そんなことをぼーっと考えながら口を動かしていたので、誰に何を言われたのかすぐには理解できなかった。

「私は、すぐには眠れませんでした。戦いの前に緊張しているのでしょうか、こんなことは初めてです」

 蒼玉が雑談のようなことを言うとは思わなかった。それ以上に、表情が動くことさえあまり見ない蒼玉が、緊張して眠れないなんてことがあるなどとは思わなかった。

「寝不足か?」

「いえ、平気です。アキトさんもそうなのかと思ったのです」

 いつものようにまっすぐ俺の目を見て話す。だが、言ったことはいつもどころではない。俺のことを心配してくれているのだ。俺は返事を忘れて蒼玉のそのきれいな目に見入ってしまう。

「あの……? 眠れなくて辛いのであれば、今日無理に行かない方がいいのではないでしょうか」

 蒼玉が、俺のために表情をくもらせている。そのことが言葉では言い表せないくらいに深い感動を与えてくれて、それに浸ってしまう。だが今は、言葉に出して伝えなければならない。

「いや、俺も平気だ。心配してくれてありがとう」

「いえ」

 俺の言葉を信用してくれたのか、蒼玉が食べる方に戻ったので、俺も粥が冷めてしまう前に残りを平らげた。一人だけさっさと食べ終えてしまったロンが、退屈そうに待っていた。

「珠季、これ持っていける?」

 後ろから声をかけられたことに驚いて、自分が呼ばれたのではないのに振り返ってしまう。声をかけた店主は自分が呼んだ黒猫ではなく先に振り返った俺に、持ってきた革袋を手渡した。ほんのり温かいそれをとりあえずテーブルの真ん中に置く。

「もしかして、あれですか」

 見ただけで黒猫には中身がわかったようだった。

「そう。私にはこれくらいしかできないけど、少しでも何かできたらなってね」

「ありがとうございます。これで元気出ます」

 黒猫に礼を言われて、店主は奥へ下がっていった。

「何だそれ。中見てもいいか?」

 暇を持て余していたロンが革袋を手にしてから、黒猫に聞いた。

「はい」

 返事を聞いたロンが、革袋の口ひもを解いて中を見る。それから何かを取り出した。それは手に乗るくらいの大きさで、袋にはまだ中身があるようだ。

「あったかいな。紙に挟まってるこれは、米か」

「そうです。おにぎりと言って、米を握って固めて持ち運べるようにしたものです。お昼にみんなで食べましょう」

 中身がわかって満足したのか、ロンはそのおにぎりを革袋に戻した。

 黒猫が元気と言ったのは、そういうことだったのか。村のみんなが俺たちに期待していて、応援してくれていることが、まだほんのり温かい革袋からも伝わってくる。それは俺に、勇気と緊張を同時に与えてくれた。今度こそ必ず、退治しなければならない。

 食事を終えて、一度部屋に戻って身支度を整える。おにぎりの袋は、黒猫が腰に結わえつけた。正面以外は革袋に囲まれてしまった形だが、不格好なのを気にしている様子も重さに閉口している様子もない。

「気をつけて。必ず帰ってきてください」

「必ず、病大虫を退治してきます」

 店主に見送られて宿を出たが、最初の行き先は山ではない。井戸で水の補充だ。

 水筒に水をくむついでに、顔を洗う。冷たい水が気持ちいい。

「やっとお目覚めってところか」

「そうだな。行こう」

 ロンの軽口にも余計なことは言わずに、出発した。今日は病大虫の居場所を知っている黒猫と俺が並んで先頭に立つ。


 山は相変わらず静かで、変わり映えのしない景色が続いている。それでもいつ怪物が現れるのかわからないのだが、俺の意識は外への注意よりも自分の内へと向いてしまう。

 みんながいてくれて、村の人も信用してくれているのに、不安が湧き上がってしまうのを止められない。耐えきれない。

「なあ黒猫」

 今度も、頼ってしまった。

「何でしょう」

 後ろには聞こえないようにぼそっと声をかけた俺に、黒猫は表情を少し緩めて見せた。まるで俺がそうしてほしいことがわかっているかのような、俺が見せてほしかった顔だ。

「また退治できなかったら、どうしよう」

「その時はまた逃げるだけです」

 退治できなかったらみんなが傷ついてしまうとか、村の人がどう思うかとか、不安なことはたくさんある。しかし黒猫の答えはそんな後のことではなくて、その場のことだった。

「うまくいかなければ、またやり直せばいいのです。大丈夫です」

 この前病大虫から逃げかえった時と同じことを、また言った。だが、そんなことを繰り返していたらきっと取り返しのつかないことが起こってしまう。

「やり直すって、そうしているうちに村まで毒が来たとしたらどうするんだよ」

 つい俺の声が高くなってしまう。後ろの三人にまで聞こえてしまい、何事かと駆け寄ってきてしまった。

「どうしたの?」

 レイナの声でようやく、俺は自分の過ちに気づいた。こんなのは八つ当たりだ。

「何でもない」

 これ以上余計なことを言えば、きっとみんなを不安にさせてしまう。俺は固く口を閉ざした。レイナたちは納得できていないという目を俺に向けたが、俺は答えることを拒否した。

「勝てなかったらどう逃げるかって話をしていたのです」

 だがそんな俺の心情を無視して、黒猫がしゃべってしまう。

「戦う前から逃げる算段か。そういうの、気分が下がって逆効果だと思うぜ?」

「それもそうですけど、生きていてこそですから、助かる方法を考えたりもするんです」

 意気込んでかかったのにそれに平然と反論した黒猫を、ロンがにらみつける。

「やめなよ。せっかくだから聞かせてよ、それ」

 レイナが割って入って、それでロンも冷静になったらしい。それ以上言い募ることはなかった。

「病大虫は水の中には入ってきません。ですから、川に飛び込んで逃げるのです。そこまではアキトさんとぼくで牽制します」

 最後の一言は、俺に向けられていた。

「ああ。そんなことになりたくはないが、覚えておいてほしい」

 それは一人自分の内に閉じこもっている俺をみんなの輪に引き戻すためだった。俺はそれに乗せられるしかない。

 こんな話はいつまでもしていたいものではない。このあたりで切り上げて先へ進みたかったが、そうはいかなかった。俺たちの声を聞きつけたのか、コボルトがふらふらと現れたのだった。動きに合わせて首も揺れていて、視線が定まっていない様子だ。

「何だこいつ、戦う前からもうふらふらじゃん。これなら楽勝だな」

 俺が剣を抜いた時には、ロンはもう穂先をコボルトに向けて駆けだしていた。そして一撃で貫く勢いで槍を突き出す。

 だがコボルトはふらりと身体を傾けてそれをかわした。さらにそれを戻す反動でロンの手元に入る。その流れるような動作に、ロンだけでなく俺も意表を突かれた。間に合わない。

「があっ!」

 俺が慌てて剣を突き出すよりも早く、だらりと垂らした腕が振り上げられ、爪がロンの右腕を深く切り裂いた。さらに俺の剣も転がるようにしてかわされてしまう。

「ストーンショット!」

 しかしそれを読んだレイナの魔法が炸裂した。地面を転がっていたところにその地面から打ち上げられて、動きを封じられてしまう。仰向けになった腹を斬りつけて、コボルトはもう動かなくなった。

「ヒーリングプラス!」

 ロンは、と思った時には、もう黒猫が回復魔法を送っていた。血を流していた傷が、見る間にふさがる。

「ありがと。甘く見すぎてた」

「毒の方は、平気ですか?」

「傷口がやたら熱かったのが毒か。それも治まったみたいだな」

 腕に付いた血を布切れで拭い、確かめるように手を開閉させている。平気なようで、すぐに槍を立てるように持ち替えた。

「ひとつ怪我をしたらもうまともに動けないのか。けっこう、きついな」

 初めて毒を受けたロンは、さすがに認識を改めたようだ。

「でも、珠季なら魔法で治せるんでしょ?」

「狂乱コボルト程度ならばヒーリングプラスで傷と一緒に治せますが、大本の病大虫のは強すぎて無理です。解毒薬を使うしかありません」

「そっか。じゃあ近づかれないように魔法でうまく戦わないといけないんだね」

「はい。でも病大虫は動きが早いので、それ以上に攻撃をよけることが大事になると思います」

「だってさ、蒼玉。あたしたちの見せ場だね」

 興奮を見せるレイナとは対照的に、蒼玉は硬い表情でうなづいただけだった。蒼玉は、俺が守ってやらなければならない。

「行こうぜ。俺だって今はちょっと油断しただけだ。本番ではちゃんとやってやるよ」

 勢いよく足を踏み出したロンだったが、向きがずれていたようで黒猫に手を引かれて止められたのだった。ロンにそれを痛がる様子はない。傷のことはもう心配しなくてよさそうだ。

 再び俺と黒猫が先に立って山を登っていく。やがて木がまばらになって、遮るものが減ったからなのか、水の流れる音が聞こえてくる。木立を抜ける手前で、黒猫が足を止めた。

「近いのか?」

「はい。だからここで、最後の準備です」

 黒猫はそう言うと、背中側の革袋を外そうとした。しかし見えないところの上にマントが被さっているので苦戦している。見かねてマントを持ち上げてやる。前に借りた時もそう思ったが、しっかりしている上に触り心地がいい。黒猫が取り出したのは、宿屋でもらったおにぎりだった。

「つまり、腹ごしらえか」

「はい。外で食べるご飯も、いいものですよ」

 そう言いながら、一人にひとつずつおにぎりを手渡す。さすがにもうとっくに冷めていて、逆にそのためか、包んでいる紙に米が貼りつくことがなかった。

「景色がよかったらもっといいんだけどね」

 レイナは食べる部分だけ紙をはがして、少しずつかじっていた。なるほどそれならば手が汚れずに済んだ。感心してみんなを見てみると、全部はがしてしまったのは俺一人だけだった。気がつかなかったことにちょっと落ち込む。

 おにぎりはそれほど大きくなかったが、握って固めた分だけ小さくなっているということなのだろう。食べてみるとけっこう腹にたまる。食べ終えた俺は水筒の水を少しだけ手にかけて、べたつきを布切れで拭き取った。

「味はないけど、確かに元気出るな」

「はい。ありがたいです」

「そうですね。気持ちが伝わってきます」

 黒猫がみんなから包み紙と感想を回収して回る。俺は最初に全部はがして足元に捨ててしまっていたのだが、黒猫はそれも拾って革袋に収めた。

「ダメですよ、これだって火を点ける時に燃やすのに使うのですから」

 人差し指を立てた黒猫に、いたずらっぽい笑顔で怒られてしまった。

「そうか、悪い」

 謝った俺に、黒猫は一瞬だけそれとは違う、目を細めただけの静かな笑顔を見せた。それはいつだって、俺の内の何かを鎮めてくれるような気がする。

 何をどう思ったところで、やることは全力を尽くすだけだ。俺はただ木々の向こうの岩山を見上げた。

「あっちにいるんだね」

 無言でうなづいて答えた俺を見て、レイナが木立を出ようとする。しかしそこでまたしても黒猫に止められた。

「待って、準備はもうひとつあるんです」

「何よ、せっかく盛り上がってきたのに。そういうことは早く言ってよ」

 水を差されたのが余程気に入らなかったのか、レイナは黒猫の頬をつねった。

「おお、思って以上にぷにぷに」

 その感触が気に入ったのか、つまんだ指をひねったりして遊ぶ。黒猫が痛がるのを見るまでそれは続いたのだった。黒猫が頬をさすりながらレイナをにらむように見上げる。

「ごめんごめん、それで、準備って?」

 レイナが愛想笑いを浮かべるのを見て、黒猫も笑って答えた。にらんで見せたのはわざとだったのかもしれない。

「相手が早いので、こちらも対抗しないといけません。だから」

 黒猫はそう言って両手をレイナにかざした。

「アクセルブロウ!」

 一瞬、レイナの髪がふわりと浮いて見えた。

「なるほど、速さの補助魔法なんだね。あんたそんなの持ってたんだ」

 同じ魔法士のレイナには、それが何かすぐにわかったようだった。他の三人にも魔法を送った黒猫が、今回は自分にもそれを使った。

「準備はこれでおしまいです。あとは」

 そこで言葉を区切った黒猫が、俺を見上げた。それを受けて、俺が話を引き継ぐ。

「前に話したとおりだ。二手に分かれて、後ろに回った側が攻撃する。ただ後ろに攻撃してくることもあるから、気をつけろ」

 みんなが短く答えるのを聞いて、俺は岩山の麓へと足を踏み出した。木立を出ると、向こうから風が吹いてくる。もう誰も何も言わなかった。


 足元に草が見えなくなり、土が岩に置き換わる。そんな場所に、それはいた。うずくまっていたものが立ち上がり、一声吠えた。それは突風となって俺たちに吹きつける。

「始めようぜ! って、何だよこの追い風に乗ってるみたいなのは!?」

 ロンの一声を合図にロンとレイナが駆けだしたのだが、黒猫の補助魔法で想像以上に勢いが出たことに面食らったようだった。その声があっという間に遠ざかっていったことからも、その効果がわかる。

 二人は病大虫を引き離すように横へ走り去っていく。まずは二人が後ろに回り込むまでこっちで引きつける。俺は正面から斬りかかった。それを左右から火球と魔弾が追い抜く。

 病大虫はロンたちの走った方向とは逆に跳んでそれをよけた。着地をとらえようと足をめがけて剣を振るったが、病大虫はさらに横に跳躍してそれもかわし、俺たちに向き直った。ロンたちは後ろに回るどころか、距離を離されてしまう。

 俺はじりじりと横に動いて、蒼玉たちを背後に隠そうとする。だが向こうも横に歩きながら隙をうかがっているようだ。徐々に距離を縮めてくるが、俺にそれを押し返すだけの力はない。飛び越えられたら、腹でも足でも斬りつけてやる。剣の切っ先を病大虫の顎に向けて構え続ける。

 視界の端にロンたちが映るとほぼ同時に、病大虫が正面の俺を無視してそちらへ駆けだした。

「ファイアーウォール!」

 それを火柱が横から襲ったが、後ろに跳んでかわされてしまう。またしてもロンたちは距離を離されてしまった。

「向こうも、慎重ですね」

 俺の隣まで出てきた黒猫が、静かに言った。

「ああ。こうなるとどっちが先に疲れるかだな」

 今いちばん動きが激しいのは、後ろを取ろうと駆け続けているロンたち二人だ。つまり、こちらが劣勢だ。だからと言って俺が正面から斬りかかってどうにかできる相手ではない。今俺ができることがあるとすれば、病大虫に動きにくいと思わせることくらいしかない。

 病大虫が低くうなって頭を低くする。

「来る!」

 後ろは振り向けないが、後ろの蒼玉に届けと俺は叫んだ。同時に病大虫の頭の上すれすれを魔弾が掠め、それをくぐるかのように病大虫は俺に向かって真っすぐ飛び込んできた。あの巨体の攻撃を受けることはできない。よけるしかない。だがその後、病大虫の正面に蒼玉がいることになってしまう。

 何とか注意だけでも引きつけようと俺はかわしながら剣を横に振ったが、そんな雑な攻撃が当たるはずはなかった。もう一跳びすれば、蒼玉に届いてしまう。

「ファイアーウォール!」

 しかしその前に、今度は正面から火柱が襲いかかった。病大虫は後ろに跳ぼうと踏ん張ったが間に合わず、頭から火を浴びた。

 ゴウアアァァァーーー!

 そのまま火に包まれるかと思ったが、絶叫が起こした暴風が火を吹き消してしまう。その間に俺と黒猫は蒼玉のところに戻った。向こうにロンたちの姿が見える。やっと挟み撃ちの形ができた。

 次はさらに注意を引きつけて、ロンたちが後ろから攻撃する隙を作る。俺は真っ向から病大虫に向かって走った。向こうでは同じようにロンが駆けだして背後に迫る。病大虫はまた前足をかがませて頭を低くした。来る。

 予想外に勢いよく駆けだした病大虫にはねられそうになり、俺は脇に転がってどうにかよけた。しかし標的は俺ではなかったようで、病大虫はそのままさらに走る。

「きゃああぁぁっ!」

 魔法の詠唱中に飛び込まれて回避が間に合わなかった蒼玉に、すれ違いざまの爪の攻撃が入ってしまった。病大虫はその勢いのまま、さらに回りこむように走り続ける。

「シールド!」

 黒猫が怪我で動けない蒼玉の前に飛び込んで防御魔法を展開するが、勢いの乗った巨体をぶつけられて跳ね飛ばされてしまう。だが同時に病大虫も火傷を負った顔が潰れ、その痛みにうずくまった。

「蒼玉!」

 駆け寄って抱き起そうとしたが、肩が深くえぐれてしまっていて、動かすのは危険そうだった。

「退いて! ヒーリング!」

 置き去りにされて一旦こちらに駆け戻ってきたレイナの回復魔法で、傷口はふさがった。だがそれでも蒼玉は細い呼吸を繰り返すばかりだ。急いで解毒薬を飲ませなければ。

 しかしその向こうでは病大虫が起き上がっていた。今その前に立っているのは、ロン一人だけだ。一人では到底防ぎきれない。

「蒼玉に解毒薬を!」

 レイナにそう叫んで、俺は病大虫に向かって走った。向こうから攻撃されたらどうしようもない。こちらから病大虫を動かすしかない。

「ロン、二人で攻める!」

「おう!」

 槍を正面に構えているロンを追い抜きざま声をかけると、ロンも俺の意図を察してくれたのか、一声叫んで並んで駆けだした。二人で同時に左右の前足を狙う。

 ほんの少し先行した俺が右足に斬りつけ、続いてロンが左足に槍を突き出す。だがそれは、後ろ足で立ち上がるようにしてかわされてしまう。高いところから病大虫の目が俺を捉えた。

 そのまま踏みつぶそうと前足を落としてくる。左右にかわせば後ろの蒼玉が襲われてしまう。俺は後ろに跳んでかわした。次は、と構えた瞬間、病大虫はずり落ちるようにして腹ばいになった。さらに突っ込んでいたロンが振り抜いた槍が、病大虫の後ろ足を強打したのだ。

 手足が伸びきった今なら動けない。俺は前足を狙って斬りつけた。だが病大虫の咆哮が突風となって、俺の突撃を阻んだ。しかしそれは、後ろには届かない。

「破岩衝だ!」

 後ろに回りこんでいたロンが、足の裏に槍を突き刺した。病大虫はたまらず後ろ足をばたつかせて暴れる。槍は深く突き刺さっていたらしく、その勢いで槍ごとロンが放り出され、地面に激突してしまう。

 それを助け起こしたのは、黒猫だった。回復魔法を送っているようだ。その隙に病大虫は立ち上がり、蒼玉とレイナも俺のそばに戻ってきた。

 病大虫は傷ついた後ろ足では満足に動けないようで、びっこを引きながら横に動いた。俺たちも向こう側の黒猫たちも、挟み撃ちから逃がさないようにそれに合わせて動く。逃げられないと見たか、病大虫が足を止めた。

 フシュルルルルル……

 歯を食いしばった病大虫が、歯の間から息が漏れる音を立てる。いや、そこから出ているのは音だけではなかった。白い煙が牙の間から噴き出し、病大虫の姿を隠してしまう。

 それは俺たちまでも包んでしまい、すぐそばの蒼玉とレイナ以外は何も見えなくなってしまった。これはいったい、何なんだ。

「霧です、雲を起こしたんです!」

 黒猫の声がするが、どこにいるかはわからない。いや、それより近くにいるはずの病大虫さえ見失ってしまっている。こんな状態で襲われたら、防ぐこともかわすこともできない。

「蒼玉、レイナ、魔法で払うことはできないか?」

 魔法ならばどうにかできるかもしれないと思った俺は、二人に頼った。

「風で吹き飛ばせればいいけど、ここら全部ってのはあたしには無理…。蒼玉、風の魔法とか持ってる?」

 大きな魔法は重魔法士の蒼玉の方が得手ということだった。

「いいえ。風は持っていません…」

 蒼玉の答えにレイナが肩を落とす。だが、蒼玉の方が何かを思いついたように俺たちの前に出た。

「霧……水ならば火で、ファイアーウォールで飛ばします…!」

「でも、向こうのロンに当たったら…」

 黒猫の言葉から着想を得た蒼玉だったが、レイナの心配もそのとおりだ。だが病大虫が足を引きずる音が聞こえる。どこにいるのかわからないが、こちらの隙を突こうと移動しているのだ。

「やってくれ、蒼玉」

 このままではやられるのを待つばかりだ。ここは危険を冒してでもこの状況を変えなければならない。

「はい」

 俺の頼みに蒼玉は短く答えて、杖をかざした。

「黒猫、ロン、今からファイアーウォールを飛ばす!」

「どこからだよ!?」

 ロンの困惑する声が聞こえたが、それは無視する。

「構うな、蒼玉」

「ファイアーウォール!」

 前方に火柱が走り、熱で霧を飛ばした。火柱は病大虫にも黒猫たちにも当たらなかったが、その両者はかなり接近していた。二人ともそこまで近づかれているとは思わなかったらしく、反応が遅れた。

「ロンさんっ!」

 ロンを突き飛ばした黒猫の腕から血が噴き出す。

「黒猫!」

 倒れた黒猫にかみつこうとする病大虫の鼻先めがけて、盾を構えて全速力で突っ込んだ。足をやられて踏み込みが弱かったからなのか、かみつきはそれで食い止められたが、続いて振り下ろされた前足は防ぎようがなく、脇腹に爪が食い込んだ。

 まだだ。まだ倒れられない。黒猫を逃がさなければ。傷の痛みと毒の熱とで悶えそうになる身体を歯を食いしばって必死に抑え込み、病大虫の前に立ち続ける。

「破岩衝!」「ウィンドカッター!」

 その前足を狙ってほぼ同時に二人の攻撃が炸裂して、俺に食い込んだ爪は外れた。俺に見えていたのは、そこまでだった。

「ヒーリングプラス!」

 黒猫の声で痛みが引いていくのがわかる。だが黒猫が何を言ってくれているのかは、もうろうとしていてわからない。わからないが、お前は無事なんだな。

 口に何かがあてがわれた。飲み物を注ぎ込まれているらしい。次第にそれが苦いものであることが感じられてきた。意識が覚醒する。

「黒猫……」

 一度小さく鼻をすすってから、黒猫は表情を消した。

「動けますか?」

「ああ」

 黒猫に抱きかかえられていた上半身を起こす。身体は、ちゃんと動く。

「では、ぼくは行きます」

 言うなり黒猫は起き上がったばかりの俺の顔も見ずに駆けだしていった。足を二本やられて動きの鈍った病大虫を蒼玉たちが取り囲むようにしているのだが、いつの間にか辺りは水浸しになっていた。

 のんびり観察などしている場合ではない。俺も黒猫の後を追って駆けだした。

「疾風斬!」

 傷ついた足に力を込めて強引に逃げようとする病大虫の顔面をめがけて、斬撃を飛ばした。それは見事に鼻を割り、鮮血が噴き出した。体勢を崩した病大虫がつんのめるように前に倒れる。

「これで最後だ! 乱衝撃!」

 腹ばいになったその横腹に、ロンの槍の連撃が無数の穴を開けた。口から血を噴き出しながら長い絶叫を上げ、それが途切れてもまだ痙攣していたが、やがてそれも止まった。

 傷口から血が流し続けている病大虫を、武器や魔法を構えたまま遠巻きに囲む形になった。風がやんで、物音ひとつしない。

「倒した…のか?」

 ロンが槍の先で病大虫をつつく。しかしぴくりとも動かない。意を決したように首に思い切り槍を突き入れたが、もう血が噴き出ることはなく、同じようにどろどろ流れ出るだけだった。

「やった! 勝ったぞ!」

 血に濡れた槍を高く掲げて、ロンが空に向かって叫ぶ。そこにみんなが集まった。

「なんとか勝ったね」

「はい」

 レイナの呼びかけにいつもどおり短く答えて、そこで蒼玉は大きくため息をついた。

「どうした? 傷が痛むのか?」

「いいえ。安心したら、力が抜けてしまったのです」

「そうか」

 朝、自分で緊張していると言っていたが、それほどの緊張を強いていたのか。それは喜びをあらわにしているロンとレイナにも言えるのだろう。黒猫は―――

「黒猫?」

 その黒猫は、俺たち四人の輪を外から眺めている格好だった。その顔に表情は見えない、と言うよりも表情を消したように見える。

「はい」

 短い返事の声からも、何を思っているのかは見えない。そんな黒猫に何を言えばいいのか、わからなかった。

「帰ろうか」

 俺が黒猫に言うべきこと、聞くべきことはたくさんあるはずだ。だがどうすればいいかわからなかった俺は、話を途切らせてしまった。

 病大虫を倒したとはいえ、それですでに毒を受けてしまった狂乱コボルトが消えてなくなる訳ではない。自分にそう言い聞かせて、疲れて散漫になりがちな注意力をどうにか周りに配りながら山を下りた。黒猫も同じように目を配っていたのは、やはり怪物を警戒してか、それとも俺が道を間違えないように見ていたのか。


 幸い狂乱コボルトにも会わず、道に迷うこともなく、村まで戻った。あとは村長に報告すれば、依頼は完了する。俺は自分の革袋から依頼書を取り出した。水にぬれて文字が薄れ、よれよれになってしまった紙だ。

 今度は全員で村長の家を訪れたのだが、ずっと待っていたのか、村長自身が出迎えてくれたのだった。

「いかがでしたか?」

 家の中に入ってなどということはなく、その場ですぐに聞かれた。

「やっと、退治できました。遅くなりました」

「おお……」

 村長はまっすぐ俺を見つめたまま、言葉を詰まらせた。ここまで遅くなったのだ、思うところはあるのだろう。俺はそれをただ受け止めるしかない。

「ありがとうございます。これで村に危険が及ぶことはなくなります。本当にありがとうございます」

 村長の口から出てきたのは、ただただ感謝だけだった。一度は依頼に失敗した俺にそれは、過ぎたものではないだろうか。

「そんな。こんなに遅くなったのに…」

「いえ、あなた方がこうして来てくれたおかげで私たちは助かったのです。感謝しかありません」

 言いながら村長は何度も頭を下げる。嬉しそうというより安堵したような表情で、心の底から心配だったことがわかる。それが伝わってきてやっと、俺にも実感が湧いてきた。

「お役に立てて、何よりです」

 これが俺の今の気持ちのすべてだ。これ以外に言いようがないし、思う余裕もない。村長も感無量のようで、もう言葉もなくうなづくばかりだった。

「あ、大事なことを」

 突然それだけ言って、村長は俺たちを残して奥へと入っていってしまった。案内もされずに入っていいのか迷っていると、すぐに何かを持って戻ってきた。報酬の入った革袋と、依頼書と鉛筆だった。

 俺はそれらを受け取り、2枚の依頼書に受け取りのチェックを入れた。

「アキトさんの依頼書、ずいぶんくたびれているようですが、それほど大変な目に遭いましたか」

 きれいな方の依頼書と鉛筆を返した時、村長はよれよれの依頼書に目を止めて言った。

「俺の力不足です。そのせいで」

「それほどの危険なことを、していただいたのですね」

 遅くなったことを詫びようとしたが、それは村長が上げた声に遮られた。

「それにあなたからは、自分たちでもできることをやることを教えていただきました。重ねてありがとうございます」

 柵を立てたことを言っているのだろう。だがそれは薬屋の発案であって、俺は何もしていない。強いて言えば黒猫が話に加わっていたので、ここはわざわざ否定もせず、あいまいに返事をするにとどめた。

「ところで、これからどうしますか?」

 返事を濁した俺に構わず、村長は突然話を変えた。今後の相談でもあるのだろうか。

「どうって…どこかでまた依頼を」

 今の今までこの依頼のことでいっぱいで、今後のことなど考えたことがなかった。

「あ、いえ、そうではなくて。今日のことです」

 だが村長が言ったのはそんな先のことではなく、今日の予定だった。それもそれで考えてはいないが、もう今日は宿で休みたい。それを言うと、村長はほっと一息ついた。

「柵と一緒に仕掛けた罠に猪がかかりましてね。おもてなしと言うほどのことなどできませんが、せめてそれを振る舞わせてもらえればと思っていたのです」

 黒猫の話によれば、この村では肉は貴重だという。それを振る舞ってくれるというのは、相当な好意に間違いない。

「ありがたく、いただきます」

「立ち話をさせておいて今さらですが、お疲れのことでしょう。準備はまだですが、それまで宿の方でひと休みしてください」

 その言葉に甘えて、村長の家を辞した。

 こんなに感謝してもらえるなんて思わなかった。いや、そういうことがあるなんて思ったことがなかった。これが、何かを成し遂げたということなのだろうか。

 溢れる気持ちを、俺は抑えることができなかった。宿へと歩くみんなの前に、行く手をふさぐように回りこんだ。

「みんなのおかげで依頼を完了させることができた。本当に、ありがとう」

 みんなの前で深く頭を下げた。誰も何も答えず、その場が静まりかえる。それが気になって頭を上げると、ロンがちょっと顔をしかめていた。

「他人行儀に礼を言われても、俺たちパーティの依頼なんだしなあ」

 ごく当たり前のことのように、さらりとそう言ってくれた。何のわだかまりもなく仲間だと思ってくれていることは、それはそれで嬉しい。だが俺にとってこのことは、その程度では済まされないものなのだ。

「俺は今、初めて何かを成し遂げたって気がするんだ。それがすごく嬉しくて、それができたのはみんながいてくれたからで……だから、ありがとうって言いたいんだ」

 気持ちが大きすぎて、子供のような言い方しかできない。それでもどうしてもこの気持ちを伝えたくて、とにかく言葉を口にした。

「そうですね、私もこんなことは初めてです。依頼というのはただ受けて、やって、それだけだと思っていましたが、違うのですね」

 最初に答えてくれたのは、蒼玉だった。初めてと言えば、はにかんだような笑顔を見せたのも初めてだ。

「確かにね。コボルト退治なんて、退治してもああそうですかで終わりだもん。ご馳走までしてもらえるなんて、嬉しいよね」

「食い気かよ。でもまあ、あいつを倒した時にやったぞって思ったのは、確かに今までなかったな」

 レイナとロンはコボルトリーダー退治という大きな依頼を成功させたことがあるのだが、それでもこれは格別らしい。

「アキトがそう言うの、わかる気がするぜ。なあ珠季」

 ロンが脇の黒猫に話を振った。

「はい…そうですね」

 だが黒猫の返事は歯切れが悪かった。興奮冷めやらぬといった俺たち四人を一歩離れて見ているかのように、距離を感じる。

「何だよ、ノリが悪いな。せっかくでかい依頼をこなしたんだから、みんなでパーッと盛り上がろうぜ」

「そうですね」

 そう言って黒猫は笑いを浮かべた。おかしい。なんだかそれが作り物のように見える。

 一緒に喜んでくれるのが黒猫のはずだ。それなのに今は、一人だけ外れてしまっているかのようだ。それはみんなにも感じられたようで、ロンは納得できないように黒猫を軽くにらんだ。

 そんな温度差のある二人を見ながら、一人だけという言葉が引っかかった。黒猫だけが俺たちと違うところは。

「やめとけ」

 俺はロンの肩に手を置いて制した。

「黒猫は俺たちと違っていろんな冒険をしてきている。こういうことも初めてじゃないんだ」

 言いながらこれは違うと思った。そんなことで、黒猫が喜んでいる俺たちに水を差すようなことなどするはずがない。そういうところは見た目よりもずっと大人なのだ。

「それはそうか。ちょっと浮かれすぎたか」

 ロンが黒猫に苦笑いを見せると、黒猫もさっきのような笑いを返した。やっぱりおかしい。

「まあいいや。とにかく今日は肉をたらふくご馳走になろうぜ」

 それで気分に区切りがついたのか、ロンが先に立って歩きだした。黒猫の様子に不審を抱いている様子はない。

「何よ、結局あんたも食い気なんじゃない」

 笑いながらレイナが後に続き、他の三人も後に続いた。

「あの」

 宿に着いていざ入ろうとした時になって、最後尾をとぼとぼ歩いていた黒猫から声がかかった。

「ぼく、薬屋さんに挨拶に行ってきます。皆さんは先に休んでいてください」

「そう? じゃあそうさせてもらうね」

 レイナとロンは言われたとおりに中に入っていった。

「俺も行こうか?」

 薬屋には世話になったし、黒猫が行くのならば俺も挨拶くらいはしておきたい。

「いえ、ちょっと顔を出してくるだけですので、アキトさんも休んでいてください。あれだけの怪我をしたのです。身体が辛いでしょう」

 確かに疲れてはいるが、ちょっとそこまで行くのが辛いというほどではない。だがこれだけ言われてまで強引についていこうとまでは思えず、結局俺は黒猫を一人で送り出し、蒼玉と一緒に宿に入った。

「あれ? 珠季は?」

 ロンたちと話をしていた女店主が、後から入ってきた俺と蒼玉を見てそう聞いてきた。

「珠季は薬屋に行っています。おにぎり、ありがとうございました。おかげで勝てました」

「やだ、それは大袈裟だって。でもお役に立てたのなら嬉しいね。こちらこそ、病大虫を退治してくれてありがとうね」

 料理の方で忙しいのだろう、それだけ言って奥へと急いで戻ってしまった。

 俺と蒼玉は、ロンたちがそうしてあるように隅に荷物を置いてテーブル席に着いた。何かを煮込んでいるような匂いが漂ってくる。それを味わうようにかぎとる。

 しかし、そこへ入口の扉が開いて、匂いが薄まってしまった。

「おう、冒険者さんたちはもう来てるのか」

 入ってきたのは黒猫ではなかった。

「病大虫退治、ありがとうございました。肉を焼いてきますので、もうしばらく待ってください」

 入ってきた村人は奥の店主にも一声かけて、慌ただしく出ていってしまった。どうやらここ以外でも手分けして料理をしているようだ。

 顔を出してくるだけと言っていた黒猫が、まだ戻ってこない。向こうで話しこんでいるだけならばいいが、目の届くところにいないことがどうにも気になってしまう。

「もうすぐできるからもうちょっと待ってて。って、珠季はまだ来てないの?」

 奥から店主が顔だけを出したのだが、そこに黒猫がいないのに気づいて、結局こっちまで入ってきた。

「俺、迎えに行ってきます」

 それをきっかけに、言い訳と言った方がいいかもしれない、俺は席を立った。

「煮込みだから時間かかってもいいし、急がなくてもいいんだけど」

「お気遣いありがとうございます。でも、行ってきます」

 じっとしていられなくて、俺は店の外に出た。夕方にはまだ早いのだが、もう食事を用意しているような匂いが流れてくる。さっき宿に来た人が、俺たちのために用意してくれているものなのだろう。


 井戸を過ぎてすぐのところに、黒猫はいた。畑の方を向いて道端に立ち尽くしていて、俺のことには気づいていない。声をかけるのはためらわれて、俺は無言のまま歩み寄った。

「ああ、アキトさん」

 足音に気づいてこっちを向いた黒猫だったが、その場から動くことはなかった。その声は疲れているかのように沈んでいた。

 宿に戻ろうとは、言えなかった。俺は黒猫の隣に並んで、畑を眺めた。黒猫が何を見ているのかはわからないが、黒猫と同じようにしていたかった。

 少し風が出てきて、畑の野菜がさわさわと葉を揺らした。

「これで、よかったのかな」

 黒猫がこっちを向かずに、ぽつりとつぶやいた。

「何が?」

 だから俺も、畑に顔を向けたまま聞いた。答えはすぐには返ってこなかったが、それでもよかった。

「この野菜、萎れてしまっています」

 言われてみるとそうだ。葉の先が伸びきらずに垂れてしまっているものが少なくない。

「毒が、ここまで届いたからです。なのに、ぼくは、何もできなかった」

 黒猫は何を言っているのか。横目で黒猫を盗み見ると、うつむいていた。垂れたフードに隠されて表情は見えない。お前は今、何を思っているんだ。

「みんなががんばったのに、ぼくは……」

 その声が、弱々しく震える。もう待てなかった。身体ごと黒猫に向いてしまう。

「ぼくはただ…みんなを振り回しただけ……」

 だらりと垂らした腕の先で、握った手が震えていた。

「だから……こんなことに……」

 顎の先から落ちた一滴が、地面に小さな染みを作った。黒猫が、泣いている……?

 言葉に詰まったようで、それきり何も言わなかった。震えは手だけでは止められず、肩にまで伝わっている。

 目の前のあまりの意外な光景に、俺は呆然としてしまった。黒猫に何かをしてやらなければということさえ、まるで思いつかなかった。

 でもたったひとつ、ひとつだけはっきりと、わかった。本当の黒猫は、これなんだ。外には物怖じなんか知らないように快活に振る舞っていても、本当は繊細で傷つきやすくて…

 子供だからとかうつむいているからとかそんなことではなくて、黒猫が小さく見える。まるで……

「お前……本当は、女なんじゃないのか…?」

 がば、と黒猫が俺を見上げた。目が大きく見開かれ、涙が一粒、垂れた。

 そのまま、何も言わない。半開きの口元を震わせている。

 もしかして、本当に……? 混乱した俺は、さらに問い詰めることもごまかすことも思いつかず、黒猫の言葉を待つしかできなかった。

 黒猫の口が、時々小さく開閉する。何かを言おうとして、言葉にできずにいるのか。それでも俺からは何も言おうなど思いもよらなかった。

 言葉になるまで待てなくて、目で催促してしまう。黒猫の目は瞬きさえ忘れたかのように見開かれたままで、だが目の前にいる俺のことは映っていないように焦点を失っている。

「ぼくは…、女の子の方がよかったですか……?」

 衝撃だった。

 俺は…、俺が……、黒猫を傷つけた。

 黒猫が恐る恐るといった様子で俺を見上げるのが、一瞬一瞬くっきりと見える。それなのに俺は何もできない。

 あんなに俺のためにしてくれた黒猫を、この俺が傷つけてしまった。

 ダメだ。今すぐ謝って許してもらわなければ。黒猫に去られたりなんかしたら、俺は俺でいられない。

 でも今さら許してなんかもらえるのか。何かを考えようとしても、頭の中がぐるぐる回るだけで何も考えられない。どうすればいい。

 黒猫が、目を伏せた。

「ダメだ…!」

 とっさに黒猫の両肩をつかんでしまい、自分でそれに驚いて弾かれるように手を離した。黒猫の方も驚いた顔をしている。

「俺は、お前に救われた。お前がいてくれたから、ここまで来れたんだ」

 謝らなければ。伝えなければ。いなくならないでくれと言わなければ。

「それは、お前が男とか女とか関係ないんだ」

 それなのに俺の口から出たのは自分勝手な都合だった。でも止められない。

「だから…、そんなこと言うな」

 黒猫がかすかにうなづいたように見えた。だから俺はさらに続ける。

「お前が何もできなかったなんて言ったら、お前にここまで連れてきてもらった俺はどうすればいいんだ。お前に否定されたら、俺は…どこにも行けない……」

 ごめん、黒猫。

「だから……、だからそんなことは言うな。言わないでくれ……!」

 俺はお前みたいにはできない。

「頼む……」

 だからお前を縛りつける。

「頼むから……」

 硬直した黒猫の顔を、俺を見上げて揺れる瞳を、強く見据える。黒猫が俺の望みどおりにしてくれるまで、いつまでだってそうしていられる。

 どれくらいそうしていたのだろう。やっと、黒猫が瞬きをした。

 強張った顔を崩して、ぎこちなく笑って見せた。それだけでもう、俺はいっぱいだった。

「アキトさんは大丈夫です。どこにも行けないなんて、そんなことないです」

「ああ……」

「でも、ぼくに何かできることがあるとすれば、ぼくはそれをしたい」

 それは、お前がいてくれることだ。

「だから、もうしばらくご一緒させてください」

「ああ」

 俺は大きくうなづいた。まだ黒猫を見据える俺をいなすように、黒猫は俺の横を通り過ぎた。

「宿へ戻りましょう。みんなを待たせちゃってます」

 俺は無言で黒猫の隣に並んだ。いつの間にか空はもう、暗くなりかけていた。

 結局、俺は黒猫に何もしてやれなかった。また黒猫に慰めてもらっただけだった。

 いつか黒猫の力になれるような俺になりたい。いや、黒猫に二度とあんな顔をさせないように、俺がしなければならない。そのために俺は、もっと強く在らなければならない。


「やっと戻ってきたか」

 宿の戸を開けると、ロンの呆れた声に出迎えられた。蒼玉が無言で席を立って奥へと入っていく。入ってくる俺たちとすれ違いになったが、顔をちらりとのぞかれただけで何も言われなかった。

「どうせ長話につきあわされたんだろ。こいつ、おしゃべり好きだからな」

 椅子に腰かけた俺を、ロンはそうねぎらってくれた。全然違うが、俺は答えなかった。その向こうでレイナが黒猫に何かを言おうとしたようだったが、黒猫の顔を見て開きかけた口を閉じた。

 微妙な沈黙になろうとしていたところに、蒼玉が皿を持って戻ってきた。その後ろから店主が大皿を持って続く。皿に乗せられていたのは、削いだ肉を焼いたものだった。肉が薄いからか強く焼いていないからか、焼き色が薄い。

「さあ、どんどん食べてね。まだまだあるから」

 遅くなったことには何も言わず、店主はすぐに奥へと下がった。

「食おうぜ」

 遅れてきたくせに、俺は真っ先に皿に自分の分を取った。ロンとレイナ、蒼玉とそれに黒猫も、それに続いた。肉は軽く湯気を上げている。温めなおしてくれたのかもしれない。

「おいしい」

「ああ、うまい。味付けどうこうじゃなくて、うまいものはうまいんだな」

 脂身が少なくて赤みが濃いその肉は、薄く削がれているのにかみ応えがあった。そして味付けのたれも何もないのに、強い味を出していた。

「新鮮なものは、単純な食べ方がおいしいんですよ」

 黒猫はもういつものように笑っていた。

「どうしたのですか?」

 横から蒼玉が声をかけてきて、突然のことに驚いた俺は勢い込んで横に向いてしまう。

「珠季さんと、何かあったのですか?」

 そんな俺をいつものようにまっすぐ見ながら、しかし蒼玉は声を潜めた。答えられない俺は、白を切るように首をかしげて見せる。

「気にしているようですから」

 そのとおりだった。つい黒猫に目が行ってしまう。黒猫はもういつもどおりに見えるのに、本当はそうじゃないのではないかとつい思ってしまう。

「何でもない、食べよう。全部食われちまう」

 そう言って俺はごまかしたが、そんな程度では見逃してもらえなかった。

「肉はまだまだたくさんあります。そういう心配は必要ありません」

 まだ俺のことを見ている蒼玉に、俺ももう一度向き直るしかなかった。だが、そんな俺の顔を見たところで蒼玉の視線は外された。

「ですが、冷めてしまってはおいしくありません。いただきましょう」

「ああ」

 追求から解放された俺だったが、それでも、ちゃんと食べているだろうかなどと、黒猫のことが気になってしまう。蒼玉はそんな俺をたまに見ているようだったが、さらなる追求はなかった。

「まだまだあるよ」

 大皿の肉がなくなったのを見計らったかのように、今度は鍋が運ばれてきた。今度は肉だけでなくて、いろいろな野菜がごっちゃになって入っている。鍋に差しこまれた大きなスプーンのようなもので、一人ずつ皿にすくいとる。

「これも珠季さんの言った、単純な食べ方みたいですね」

 野菜を一口した蒼玉が、俺にそんな感想を言ってくれた。

「そうなのかな」

 俺にはわからなかった。さっきの焼いた肉と違って、ただ肉の味ではなくてもっと違うものがあるように感じられる。違うと言えば肉もさっきまでのものとは違って脂身があって、じっくり煮込んだせいか柔らかい。

 蒼玉の言葉のとおり、本当にとんでもない量だ。やっと鍋の中身がかなり少なくなったと思ったら、今度は炊いた米がそこに放り込まれた。

「これ、ウェスタンベースで食べたのと似てるね」

 そう言ったレイナだったが、自分で言っておいて首をかしげた。

「似てるけど、けっこう違うのかな…?」

「違う肉なんだから、味も違うんだろうな」

「それだけじゃない気がするんだけど……、でも、どっちもおいしい」

 味についてはやっぱりよくわからない俺がレイナとロンのやり取りを何となく聞いていると、またしても横から声をかけられた。

「アキトさん、ちゃんと食べてますか?」

 今度は黒猫だった。そう言っておきながら、自分の食べる手は止まっている。

「それはお前だろう。お前こそ、食えてるのか」

「ぼくはほら、熱いのは苦手なので、冷めるのを待っているのです」

 苦し紛れに言い返してやったが、笑ってかわされてしまった。

「そうだったな」

「こんなご馳走は、お金を出してもなかなか食べられないものです。お腹いっぱいになるまで食べないともったいないですよ」

 それだけ言って、黒猫は食べる方に戻った。それは俺にちゃんと食べている姿を見せているように見えなくもない。心配するなと逆に心配をかけてしまっているのならば世話がない。うまくできないものだ。

 ただ、黒猫の心配はある意味取り越し苦労だった。出されたものを全部食べきるだけで、全員が精いっぱいだったのだ。

「まだあるけど、どう?」

「いえ、もうけっこうです」

 そう声をかけてきた店主の好意に、返事がちょっと素っ気なくなってしまった。

「じゃあ残りは遠慮なく私たちでいただくとしますか。ちょっとみんなに配ってくるから留守番お願いね」

 そう言うと店主は奥から削いだ肉を山盛りにした大皿を持ち出して、外へ行ってしまった。

「本当にまだまだたくさんあったんだな」

「猪一頭ですからね。それをぼくたちに食べられるだけ食べさせてくれたんですから、こうもなります」

「本当の意味で、私たちのためにご馳走をしてくれたのですね」

 その場から動くことさえおっくうなほどに、腹いっぱい食べさせてもらった。言葉を口にすることさえ、呼吸を整えながらになってしまう。こんなでは番とは言えない。

 しばらくして戻ってきた店主がまだその場でだらけている俺たちを見て、笑って水を持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

「いえ、満足してもらえたようで何よりだよ」

 水をもらって、口の中が少しすっきりした。残っていた味がちょっと名残惜しい気もする。

「なあ」

 みんながちょっと落ち着いたのを見計らって、誰にともなく声をかけた。全員の注目が俺に集まる。

「これから、どうしよう」

「これからって、今日はもう寝るでしょ」

 レイナの返事は俺が聞きたかったこととはずれていた。そんなすれ違いをどこかでやったと思ったら、戻ってきた時の俺と村長の話の時だった。

「そうじゃなくて。病大虫退治の依頼が終わって、どうするかと思って」

「どうするって、ここにいても何もないだろ。ウェスタンベースにでも行ってみるさ」

 ロンの答えも俺が聞きたかったことではない。

「そうじゃなくて、俺がみんなに頼んだことが終わったんだ。だからみんなはどうするのか、それが聞きたいんだ」

 俺の言いたいことは伝わっていないようで、ロンとレイナが揃って首をかしげた。蒼玉はどうかと思って隣を見ると、それを待っていたかのように蒼玉が口を開いた。

「どういうことですか? 次の依頼を受けるとか装備を買い替えるとか、そういうことではないように聞こえるのですが」

 その言葉にロンとレイナがうなづくのが見えた。

「違う。このパーティは俺が病大虫を退治するために頼んでここまで来たんだ。それが終わったから、このパーティも」

「え? まさかここで解散なのか?」

 よほど驚いたのか、ロンがテーブルに手をついて身を乗り出した。

 俺だってみんなと離れたいというのではない。だが、俺がみんなを引っ張りまわす理由は、もうない。

「解散と言うか、もうみんなが俺についてくる理由はないと言うか……」

 口ごもった俺を、ロンはさらに身を乗り出してにらみつけた。

「そうじゃないだろ。借りを返してやっとこれから本当に仲間だって時に、お前は違うって言うのか?」

「本当に、そう思ってくれるのか?」

「当たり前だ」

 やや身を引くロンの向こうで、レイナが同意を示すように何度もうなづいた。

「私もです。私もみんなと一緒にいたい」

 蒼玉の目は、やはりまっすぐに俺を見ていた。

 みんな本当に、俺と一緒のパーティでいいのか。それを聞けそうなのは一人しかいない。すがるようにそちらを見てしまう。

 その黒猫は、笑ってひとつうなづいただけだった。

「そうか。ならまずは明日、ウェスタンベースで依頼を探そう」

 答えるみんなの声が重なった。そのことが意外で、一瞬の沈黙の後にみんなで小さく笑ったのだった。

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