第四話
そう言えば黒猫はちゃんとした寝床で眠るのは三日ぶりではなかっただろうか。その後何を思ったのか覚えていない。
「おはようございます」
あれから朝までぐっすり眠っていたということだった。そして今日は黒猫の方が先に起きていた。
窓から明るい日差しが差しこんでくる。部屋のくすんだ色は弱い光の中では落ち着く色に見えたが、強い光と比べるといかにも暗くて、うっかり立てかけてあった剣に足を引っかけそうになってしまった。
「眠そうですね。よく眠れなかったですか?」
その様は、黒猫にしっかり見られてしまっていた。
「いや、寝心地はよかった」
これ以上寝ぼけたところは見せられない。それを見られるのも恥ずかしいが、黒猫に余計な心配をさせて慰められるのがもっと恥ずかしい。俺は水筒に残っている水を全部飲み干した。生ぬるかったが、目が冴えるのには十分だった。
「ご飯の用意はできてるみたいですし、いただきましょう」
「もしかして、呼ばれたのに俺がまだ寝てたとかか?」
そうだとしたら朝からかなりの時間の無駄だ。
「いえ、隣の部屋から出ていく足音がしましたから。ご飯食べに行ったのでしょう。大丈夫です」
俺がうろたえたのがおかしかったようで、黒猫に笑われてしまった。そして結局、それを言われてしまった。
「そうか。それなら俺たちも行くか」
甘い匂いを感じたような気がしていたが、部屋の戸を開けるとそれははっきりと確信に変わった。食堂まで出ると黒猫が言ったとおり、三人がすでに食べ始めていた。それを盗み見したところ、朝ご飯は粥とたれのかかった焼いた野菜のようだ。
「おう、おはよう」
「おはようございます」
昨日と同じように気軽に声をかけてくれたので、俺も挨拶を返して隣のテーブルについた。すぐに俺たちの分も運ばれてきたのだが、これが意外と量が多かった。どうやらこの三人は特別食べるのが早いらしい。昨日俺だけが食べきるまで取り残されてしまったのも、今さらながら納得だ。
野菜だけかと思ったが、肉の切れ端も混じっていた。もっとも肉も野菜も細かい切れ端になって混ざっている上に色も味も濃いたれがかかっているので、見た目ではそうとわからずに、口に入れた時にちょっと感じた味でやっとわかったのだった。この濃いたれと味付けのない粥とで、ちょうどいい釣り合いになっている。
「昨日の軟骨は、入っていませんね」
「軟骨を細かくなんてしようもんなら、寝ないでやったって間に合わないぜ」
黒猫の感想を聞きつけて、店主が奥から出てきた。言われてみればそうだ。あれは刃で切れるものでも叩いて砕けるものでもない。
「後で水筒に入れる水をください」
「こっちも頼むぜ」
ふと思い出して俺が頼むと、向こうも手を挙げて同じことを頼んだ。すぐにやかんがふたつ、運ばれてきた。
「ありがとうございます」
やかんならば水筒に注ぎやすい。ありがたい気遣いだ。見た目は古臭いしそれ相応に調度もガタが来ていたりするが、布団はちゃんときれいだったし食事は食べ応えがあるし、いいところを見つけたのかもしれない。
食べ終えて一度部屋で身支度を整えてから戻ってくると、三人はもう出発しようとしていた。
「早いですね」
「ああ。大荷物と一緒に移動となるとすげえ時間がかかるし、到着してからもいろいろあるみたいで早く着きたいらしいからな。その分朝が早いんだ」
「そうなんですか。じゃあ怪物なんか出てきたら予定が遅れて大変ってなるんですか?」
「朝早いのはその分も計算に入れてのことらしい。まあこの辺まで来れば、そんな心配もいらないんだけどな」
俺たちがそんな話をしていると、奥から店主が出てきた。
「じゃあな、また来いよ」
「おう。またこの量ばっかでうまくもない飯を食いに来るさ」
「散々食っといてうまくないとか言うんじゃねぇ」
三人はゲラゲラ笑いながら店を出た。文句を言いながらも店主も同じように笑って見送っている。
「お世話になりました」
水を入れた水筒をしまって、俺たちも出発だ。
「兄ちゃんたちもまた来いよな」
「はい」
気持ちよく送り出されて、明るい空の下に出た。同じように家から、路地から人が出てきて、それぞれどこかへと歩いていく。朝の雑踏だ。
どこに行くともなく歩く俺たちは後ろから追い抜かれ、前からは避けられ、ちょっと場違いな存在のようだ。この中から人を探すなど無理だろうと思えてしまう。
「今日は町の外に出よう。外に出てそれっぽいのを探すんだ」
人が多い分雑音も多い大通りを通り過ぎてから、黒猫に声をかけた。
「そうですね。どっちに行ってみますか?」
黒猫も同意してくれた。ただ、俺もどちらの方角に行ってみるかまでは考えていなくて、そのまま南へと歩きながら当てもなく周りを見回した。
しかし大通りから南側は町の住人の家が多い地域で、周りを見たところで仲間どころか冒険者にかかわりのあるものさえ見当たらない。
「まあこっちに歩いてきたし、とりあえずこっちから出るか」
何も思いつかないまま南の門まで来てしまったので、やはり開け放たれている門から町の外へ出た。
南側も広い道が通っていないが、北側と違って畑が広がっていて、野菜の手入れをする人たちがまばらに散らばっていくのが見える。さらに歩いていくと畑を囲うようにずっと延びる柵が見え、武器を持った数人が道のわきにいた。実質的にこちらが門ということなのだろう。
「静かですね」
柵を過ぎると今度こそだだっ広い平地で、見渡す限り人影はなく、人の立てる物音も聞こえない。黒猫の言うとおり静かなのだが、北の山中の不自然なほどのそれとは違って、どこかに小鳥がいるような物音が時折耳に入ってくる。
道が次第に左にそれていく。まっすぐ進むと大きな湖に突き当たるからだ。冒険者どころか誰とも出会わないまま、背の高い草が群生している湖のほとりが見えてきてしまった。こちらに来たのは、間違いだったか。
ついに湖に注ぎ込む川と、そこにかけられた石橋が見えてきた。
「この川は、あの山から来てるんだよな」
黙ったままでいるのも辛くて、そんな当たり前のことを黒猫に聞いてしまう。
「はい」
わかりきったことに、黒猫も当たり前に答えるだけだった。
「少し戻ろうか。川をさかのぼって、今度は町の東側に行ってみよう」
「そうですね。ただ戻るよりも、そっちの方がいいですよね」
橋を渡った先、道は川から離れてやはりだだっ広い平地へと延びていく。そちらにも見渡す限り何もないし、これ以上あの村から離れてしまうのもどうかと思う。俺たちは道を外れて川に沿って歩き出した。
日はもうだいぶ昇っている。あの三人がいる旅商人は、さすがにもう町の近くにはいないだろう。
川から少し離れたところに木立が見えてきた。たまに怪物がいたりする場所で、俺も退治の依頼で入ったことがある。しかし今は見晴らしのいい場所を歩いていたかった。黒猫も異存はないらしく、どうしろとも言ってこない。
「ん……?」
一瞬、見間違いかと思った。川のそばに女の子が一人きりで座っている。
やっと見つけた人なのに、気づかれることが不安になって、俺は立ち止まってしまった。
「杖があるってことは、魔法士さんですね」
黒猫の何の気もない声が聞こえてしまわないかと気になった俺は、黒猫をにらんでしまう。
「気になりますか?」
わかってくれたのか、黒猫も声を抑え気味にしてくれた。
「ああ。でも、声をかけていいものか……」
俺が気後れしているだけなのか、どうにも踏み出せない。でも、黒猫の言うとおり、気になる。声をかける理由とかけない理由を考えるが、頭の中がぐるぐるするばかりで何も浮かばない。
「考えてもわからないものはわからないものです。そういう時は、直感を信じるのもひとつの手です」
考え込んでひねった首が黒猫の方を向いたときになって、黒猫が静かに言った。俺がどうするつもりなのか、待っていてくれたらしい。その声に吸い寄せられるように黒猫の顔をのぞきこむと、黒猫は目を細めて小さく笑ってみせた。
女の子はしばらく休むつもりなのか、座ったままだ。今しかない。俺は足を踏み出した。
何を言おうかなど考えてもいない。無言のまま、歩を進めた。足音に気づいた彼女が顔を上げ、立ち上がった。肩まで伸びた黒髪が、彼女の動きに合わせてさらりと流れる。座っていた見た目からはそれほどとは思わなかったのだが、黒猫より背が高いくらいだった。
「何?」
挨拶もせずに近づいてきた俺たちをいぶかしむような、硬さのある声だ。
「一人?」
「ええ」
見てわかることをわざわざ聞いた俺に嫌味も何もなく、彼女はただ答えた。まっすぐに俺を見る目がきれいで、見入ってしまった俺は次の言葉が出なかった。
「ここには何かの依頼で来てるのですか?」
埒が明かないと見たか黒猫が口をはさんだため、その視線は黒猫に向いてしまった。それが惜しくて、俺はまだ彼女の横顔をじっと見つめていた。
「コボルト退治の依頼です」
「その杖、重魔法士さんですよね。一人ってけっこう大変なんじゃないですか?」
「囲まれないように慎重に立ち回れば、戦えます」
黒猫はにこやかに話しかけるのだが、彼女は警戒を解いていないのか、ずっと硬い表情のままだ。
「ぼくたちはウェスタンベースから来たのですが、ここまでコボルトは見ませんでした。セントラルグランの方では多いのですか?」
「ウェスタンベース?」
さらに眉をひそめて、彼女は聞き返してきた。それはそうだろう。俺たちは西からではなく南から現れたのだ。
「はい。ちょっと回り道をしましたので」
「そうですか。セントラルグランでは大勢力で攻めてきたコボルトを押し戻して、これから反転攻勢に出るために広く依頼を出していると聞いています」
「ああ、それでですか。山にコボルトがぽつぽつ入ってくるようになったのは、そこから逃げてきたからなのですね」
「山とは、どこの山ですか?」
警戒はあるものの、俺たちの話をちゃんと聞いてくれている。黒猫に向けられたまっすぐな視線は、彼女の真摯さの証だ。
「ウェスタンベースの北の山です。実はぼくたち、そっちから来てるんです」
「それなら、そちらに行けばコボルトはいるのですね?」
「あ、依頼の数はまだなんですね。でもあっちはやめたほうがいいです」
「なぜですか?」
ここで黒猫が俺に目を向けた。俺たちの依頼のことを自分が話していいのかと問う目だ。俺は目でうなづいて、黒猫に任せた。
「北の山には動物を狂わせてしまう毒が広がっています。それを受けたコボルトが、凶暴になっちゃっています」
「それなら余計に、退治しなければいけないでしょう」
「そのとおりなのですが、狂乱コボルトは普通のコボルトよりもずっと強くて、しかも毒を持っているので危険なのです。同じだと思って手を出せば、やられてしまいかねません」
「それほどなのですか」
北にコボルトがいると聞いてほんの少しだけ急いたようなしゃべり方になっていたのが、元の口調に戻った。
「はい。だからぼくたちはその大本を退治しようとしているのですが、ぼくたちだけでは力不足なのです。だから」
出かけた言葉を途中で区切るようにして、黒猫はもう一度俺に目を向けた。黒猫に任せてしまったつもりの俺は、ここでも目でうなづいて続きを促した。
「ぼくたちとパーティを組んで、一緒に戦ってくれませんか?」
彼女はすぐには答えず、頼んだ黒猫と並んでいる俺とを交互に見た。じっくり見られていると言ってもいいほどなのだが、不快さはない。俺も同じように彼女から視線を外さなかったのは、その真摯さに応えるためなのか、それともただその目を見ていたかっただけなのか。
ふと川を渡ってきた風が、目に染みた。瞬きをしている間に彼女の眼は伏せられていた。
「ごめんなさい。私は、誰かと組むつもりはありません」
断りさえも、まっすぐ黒猫を見て答えた。でも、何か違う。その目がほんの少し揺れたように、俺には見えた。
「そうですか。お邪魔してしまって、」
「待て」
黒猫はあっさり引き下がろうとしたが、そこに俺が割り込んだ。何かが違う。この答えだって、迷ってから言うようなことではないだろう。でも、何が違うのか。
「一人ってのは、悔しくて寂しくて辛いものなんだ」
「ふぇ?」
唐突な俺の言葉に変な声を上げたのは、彼女ではなく黒猫だった。彼女の方は、何を言われたのかわからないように眉をひそめただけだった。
「俺もこの間、こいつに出会うまではそうだった」
俺は一度黒猫を目で指して、彼女に目を戻した。まっすぐに俺を見つめる目と、ぶつかる。
「一人じゃできることが少なくて悔しい思いをする。それを慰めてくれる奴もいない。お前もわかるだろう、自分にできる依頼を探すの、楽じゃなかったはずだ」
彼女はそれには答えなかった。俺も答えてほしくて言ったのではない。
「お前にはそうなってほしくないって、俺は思う」
仲間になるならないよりもそれ以前に、そう思った。違うと思ったのは、無理があるように見えたからだった。
「アキトさん……」
黒猫が俺を見上げていた。自分でも気づかないうちに積みあがった無理は、いつかきっと自分ごと崩れる。俺はそうなる前にこいつに救われた。
「私は…」
このきれいな目が崩れるなど、想像したくない。
彼女は一度だけ目を伏せて、にらみつけるように俺を見つめた。その力みは、彼女の心が動いたことの表れなのだろうか。
「私は、目標を持ってそれに向かっていくために生きる、そう在りたいのです」
それはコボルトの居場所が知れた時とは比べ物にならないほどに強い語気だった。
「ですが私が冒険者を始めた頃に声をかけてきた人はみんな、面白そうだからとか、そんないい加減な理由でした。それで面白くなかったらどうするのかという疑問に、答えられる人はいませんでした」
俺は、隣の黒猫も、そういう考え方に驚いたのだが、そんなものは目に入っていないかのように彼女は続けた。
「いい加減なことをしてふらふらしているのは無駄なことです。だから私は、何にも惑わされずに私でやっていこうと決めたのです」
彼女がいい加減と言うような経験は、俺にもある。その結末がパーティ解散だった俺には、彼女がそれを無駄と断じてしまうのもわかる気がする。でも、そうして一人で縮こまってしまうのは、無理なのだ。
「それなのに、私は……」
その声から、表情も、目からも迫力とさえ言えたようなものが、消えていく。
「一緒に来い。俺たちと」
俺が黒猫の前でさらしてしまったような、そんなことを彼女にさせたくなかったし、それ以上に見たくなかった。それ以上しゃべるなと、目と声にありったけの力を込めて、ぶつけた。
萎れてしまったような彼女に失敗したかと俺は焦ったが、彼女はすぐに顔を上げてまっすぐ俺を見つめた。
「私は蒼玉。よろしくお願いします」
「へ……?」
あまりの決断の早さについていけず、俺は呆けたようになってしまった。
「ぼくは珠季です。こちらこそよろしくお願いします」
そう言ってから俺に笑いかけた黒猫を見て、やっと俺も理解が追いついた。
「俺はアキトだ」
仲間に加わってもらえるのは俺の望みであり、自分から誘うどころか従わせるようにああ言ったのではあるが、俺は彼女の望みに応えられるのだろうか。彼女の疑問に俺が答えられるとは、思えなかった。
「だけど…俺は、いい加減じゃないなんて言えない。それでも、いいのか?」
「はい」
即答だった。目線も表情も声音も、何ひとつ動かない。
これからもそのきれいな目を見続けることができる。それがうれしくなって、そのことを悟られたくなくて、蒼玉からも黒猫からも顔をそむけた。
「わかった」
隣で黒猫が小さく笑う声が聞こえる。見透かされたようで腹が立つ。
「そうと決まれば、まずはお互いの持ってる依頼の確認なのです」
何か反発してやらなければと思う前に、肩透かしを食らってしまった。話が長くなるからと黒猫に促されて、三人ともその場に腰を下ろす。かわされた勢いのまま、俺が病大虫のことを蒼玉に話すことになった。
「それでは、私程度が加わっても勝てないのではありませんか?」
話を聞いた蒼玉は、状況の深刻さを感じたように眉をひそめた。
「多分な。でも、だからこそお前が必要なんだ。もちろんもっと仲間を集めようと思ってる。退治に行くのは、それからだ」
蒼玉がそれを嫌うのであれば、一緒には行けない。ここがいちばん大事なところだと、目で蒼玉に訴えた。いや、それはただその目を見ていたかっただけかもしれない。
「そうですね」
蒼玉の返事は、やはり早かった。
「蒼玉さんはコボルト退治の依頼と言ってましたが、他にやらなければいけないこととか、ありますか?」
俺はまたその早さについていけず、またしても黒猫が話を継いだ。
「いいえ」
蒼玉ははっきり答えた。余計なことは一切言わないし、考えないようだ。
「じゃあまずはそのコボルト退治ですね。パーティでの戦いの慣れも兼ねて」
「そうですね。誰かと一緒に戦うのは初めてです」
「アキトさんが前衛に立って蒼玉さんは後衛から魔法で援護ってのが、よくあるやり方ですけど…」
「それで珠季さん、あなたは?」
「ぼくは遊撃といったところでしょうか」
「遊撃ですか? あなたのクラスはいったい…」
俺と同じ疑問を蒼玉も持ったらしい。しかしその答え方は違っていて、黒猫は腕を前に差し出した。白いシャツと黒い革手袋なのだが、それが何だというのだろうか。
「ああ、軽魔法士なのですね」
そこに何かを見たのか、蒼玉はすぐに納得できたらしい。
「それは、風晶玉ですか」
「はい。ごつごつした腕輪は好きじゃないので、こんなのにしてます。でも、小さい分純度の高い石にしてもらってるんですよ」
革手袋の手首にかけられた留め具のようなもの、より正確にはその手の甲側で光る透明な石が、魔法に関わるものらしい。俺にはそれらしいとしかわからなかったが、二人にとっては当たり前のことらしく、話が続けられる。
「遊撃と言っても一人で戦えるほど強くないので、ぼくのことも助けてください」
「そうなると、戦況を広く見ていないといけないのですね」
「まあ慣れですよ」
「やってみます」
俺が一言も口を挟む必要もないまま、やり方は決まった。緊張からか蒼玉が硬い表情をしているが、俺も誰かを守って戦ったことはないのだから、それは同じだ。だがそれは見せられない。蒼玉が口にしたとおり、やってみるしかないだろう。
「コボルト退治はあと何体ですか?」
「17体倒したから、あと13体です」
俺も似たようなことはしてきたが、女の子が一人でそれだけ戦っていることに改めて驚いた。
「じゃあ行きますか。そこにまだ、コボルトはいそうでしょうか」
黒猫が立ち上がって木立の方を向いた。俺と蒼玉もそれにならう。
「あまり奥まで入っていないから、わかりません」
「つまりいないとは決まっていないのですね。それなら、行ってみましょう」
そこまで言っておきながら黒猫は足を踏み出すことはせず、俺の顔をのぞきこんだ。決断は俺に預けるとでもいうつもりなのか。
「行こう」
横目で蒼玉に声をかけると、うなづいて答えた。俺たちは川岸を離れ、木立に入った。
木の葉に光が遮られ、少し薄暗い。そんな中で不意打ちなどされないように、周囲に気を配りながら歩く。誰も何もしゃべらない。たまに蒼玉の顔を盗み見すると、きゅっと口を閉じた硬い表情で、目だけをちらちら左右に向けている。
最初に気づいたのは黒猫だった。立ち止まって、右に向き直る。
木の後ろに隠れるようにいたのが、姿を現した。五体、左右に広がって牙をむく。俺は蒼玉を背後に隠すように位置を変える。一度だけ後ろをちらりと見ると、杖を握ってうなづいた。黒猫は斜め前で右の二体に対峙する構えだ。
シャアァッ!
どれがその声を上げたのかわからないが、それを合図にコボルトは一斉に襲いかかってきた。
「マジックショット!」
右の一体が黒猫の魔弾で吹っ飛ぶ。その隣も黒猫に飛びかかったので、俺と蒼玉を狙ってきたのは残り三体だ。
振り下ろされた爪を剣で払い、さらに左から突っ込んできた一体に左手の盾を振り抜いてぶつける。残り一体が、後ろから先の二体を飛び越すように跳躍してくる。
「らあっ!」
構えなおす余裕はない。俺は一歩踏み込みながら無理やり下から剣を振り上げた。剣はコボルトの胸を深々と切り裂いたが、コボルトの爪も俺の肩に突き刺さった。
「ブランチビート!」
盾で跳ね飛ばされた一体を、後ろの木から伸びた枝が強打した。俺が斬り上げた一体と枝に打たれた一体はもう動かない。残りは、と左右に目を走らせている隙を突かれて、蒼玉の横に飛び込まれてしまう。
「マジックショット!」
蒼玉がやられる、と思った瞬間、それは黒猫の魔弾をくらってつんのめるように倒れた。しかし、その黒猫をもう一体が背中から襲う。
「このっ!」
それに気づいた黒猫が前へ駆け、入れ替わるように俺が飛び込んだ。傷を負った肩が痛むが、構わず剣を振り抜く。
切りつけられて悶える一体にとどめを刺す間に、蒼玉を襲った一体も二人の魔法で倒されていた。初戦としては、こんなものだろうか。
「ヒーリング!」
黒猫の回復魔法で、肩の傷はすぐに癒えた。
「ん、助かる」
「あの……」
黒猫に礼を言っているところに、蒼玉がおずおずと声をかけてきた。鏡写しのように俺と黒猫が顔を蒼玉に向ける。
「全部の攻撃を引き受けてもらいましたが、私も自分の身を守るくらい、少しはできます。無理に私を守って怪我をするようなことは、やめてください」
言われたことはそのとおりだ。俺も慣れないことをやってコボルトなどから傷を受けた。でも、それくらいできなければいけないのだろうと思う。
「無理はしてない。これくらい平気だ」
心配をさせてくなくて俺は無表情を作って答えたが、蒼玉は納得していない顔で俺を見つめている。こういう時にこのきれいな目は、辛い。
「まあ慣れですよ。さっきはみんなちょっと動きが固かったですが、慣れればもっとうまくやれるようになります」
その固さをほぐすかのように、黒猫が笑って入った。
「どうすればうまくなれるでしょうか?」
それでも納得できないらしく、蒼玉は黒猫に強い目を向けた。
「そのうち慣れます。魔法だって練習してうまくなるでしょう? それと同じです。大丈夫です」
それに動じる様子もなく、黒猫は蒼玉に笑いかけた。蒼玉が表情を崩すことはなかったが、一応納得はしたのか、それ以上の追及もなかった。
「行きましょうか」
黒猫は俺にも笑いかけた。そうだ。俺がもっとうまく戦えるようにならなければならない。そのためには、慣れていくしかないのだ。
「ああ」
さっきと同じように俺は横目で蒼玉を見ながら答え、蒼玉も無言でうなづいた。さっきの戦いのためにずれてしまっているかもしれないが、さっきまで進んでいた方向に向かうつもりで足を踏み出した。
しかし、方向は大幅にずれてしまっていたらしい。少し歩くとすぐに視界が開けてきた。木立を抜けてしまったのだ。
「戻るか」
俺が足を止めたその時、地面が揺れるような轟音が耳に届いた。
「どこ!?」
黒猫が木立の外へと走った。しかし、その音の元はそちらではなかった。
「あっちだ!」
右手に土煙が上がっているのを見つけた俺は、そちらを指さした。木が邪魔で何が起こっているかはよく見えない。
走って木立を出ると、冒険者らしい二人がひときわ大きいコボルトと戦っているのが見えた。一人は長い武器を振り回していて、もう一人はその後ろに回りこんでいる。突き出した武器がコボルトの腕に払われて、体勢を崩す。
「危ない!」
その上からコボルトの組んだ両手が振り下ろされた。すんでのところでもう一人が体当たりをするように飛びついて直撃は避けられたが、二人とも転がってしまう。助けなければ。
「マジックショット!」
駆けだした俺を、黒猫の魔弾が掠めるように追い抜いて走った。それはコボルトには当たらず、鼻先を過ぎていってしまう。しかし攻撃を止めるのには十分だった。飛び退いたその間に、俺が入り込んで剣を構える。
「割り込むのか!」
背後から怒声が浴びせられるが、そんなものに構っている場合ではない。新手の俺をにらむコボルトを、俺も油断なく見据える。
「大丈夫ですか?」
黒猫と蒼玉も追いついてきて、黒猫が二人に声をかけている。蒼玉は俺の隣についた。
「当たり前だ。割り込むなんて許さないぞ」
「まあまあ。お詫びにこれを」
危ないところだったのに、なんて言いぐさだ。それでも黒猫は怒る様子もないらしく、いつもと同じ声が聞こえてくる。それでもまだ言い争うような声が聞こえてきたが、
オオオオォォォォーーーン!!
目の前のコボルトが空に向かって、背後の声をかき消すほどに大きく吠えた。それから再び俺をにらんだが、動きは見せない。その顔は、にやりと笑ったようにも見える。いったい、何なのか。
「あの二人は大丈夫みたいです」
黒猫が俺の隣に戻って来た時、異変が起こった。向こうの木立の中から、コボルトの集団がふたつほど出てきたのだ。左側から来るのは十体ほどだが、右側からのもうひとつの集団は三体だけだ。
「俺はあっち、蒼玉は向こうの三体、黒猫はここを頼む。いいな!」
蒼玉一人に任せていいかわからなかったが、さっきやられかけた二人を放ってもおけない。そうなると今はこうするしかない。
「はい!」
黒猫と蒼玉の返事が重なった。それを合図に俺と蒼玉は目の前のコボルトを無視してその後ろへと駆け出す。コボルトは俺に向きかけたが、またしても黒猫の魔弾が鼻先を掠めて、それで諦めたようだった。後は頼む。
俺はコボルトの集団に飛び込むようにして斬りかかった。飛び込みざま一体の腕を斬り飛ばす。残りのコボルトが俺を取り囲む。それでいい。黒猫の方にも蒼玉の方にも、一体も向かっていない。
襲いかかってくる爪をかわし、盾で防ぎながら、斬りつける。防御の方に精いっぱいで有効な攻撃ができていないらしく、俺を囲むコボルトの数はなかなか減らない。それでも、こいつらをここに引きつけておくために粘り強く戦わなければならない。
「何っ!?」
腕を狙った攻撃をよけてそのまま斬りつけようとした時、俺の目の前を魔弾が掠めた。思わずそちらに目をやると、蒼玉と黒猫がコボルトの集団に取り囲まれていた。三体どころか、一目で数えきれないほどいる。蒼玉が危ない。
その隙に飛びかかってきたコボルトを何とか盾で弾き、俺は二人の方に駆け出した。行く手をふさぐコボルトを剣で払いのけて走る。そこには倒されたコボルトがかなりの数転がっていた。なかなか数が減らないのではなく、増え続けていたのだ。気がつかなかった。
「蒼玉、俺の後ろに回れ!」
二人を取り囲む集団に飛び込み、さらに蒼玉に向かって走った。
「はい!」
蒼玉の返事を耳にしながら、コボルトの集団を突き抜けるようにさらに走る。遮ってきたコボルトは、剣と盾とで払いのけた。爪が何度か身体を掠めたが、かすり傷には構わずに突破口を開く。
集団を抜けたところで足を止めて振り返る。蒼玉の後ろからコボルトが追いかけてくる。黒猫もどうにか切り抜けたようで、姿は見えない。
「疾風気刃斬!」
気合の刃を横薙ぎに前方へ放つ。追いかけてきたコボルトがバタバタと倒れるが、その後ろからまだまだ俺たちに迫ってくる。いや、数体はあの二人の方に向かってしまっている。
「黒猫!」
俺の叫びが届くよりも早く、どこから現れたのか、黒猫が駆け出していた。そちらは任せるしかない。
「蒼玉、俺の後ろから離れるな!」
振り向くことなく後ろに怒鳴って、俺は前に出た。囲まれる前に、できるだけ倒す。先頭の二体まではそれでよかったが、後ろから来るコボルトは大きく広がって俺たちを取り囲もうとする。囲まれてしまっては蒼玉を守り切れない。また、走るか。
「ファイアーウォール!」
凛と響く声と共に俺の左手に火柱が立ち、それがコボルトたちに襲いかかった。これなら囲まれずに済む。
すかさず俺は右手の一団に斬りかかった。三体、四体と斬り捨てて、ようやく俺たちを狙うコボルトはいなくなった。
「黒猫っ?」
まだ戦闘の物音のする方に目をやると、黒猫は自分に手をかざしながらそれを眺めていたのだった。俺が取りこぼした分を、しっかり始末してくれたようだ。
二人はまだ戦っているが、どうやら今度は敵の方を追い詰めているようだ。
「あちらは大丈夫、みたいですね」
隣に駆け寄ると、黒猫はなんでもなさそうにそう言った。
「助かった」
「実はあの二人にも手伝ってもらっちゃったんですよ。でもまあ、何とかなりました」
目の前で激闘が繰り広げられているのに、のんびりとしたものだ。
「いいのですか? 助けなくて」
そんな俺たちの前に蒼玉が回りこんできた。
「人の依頼に割り込むのは、礼儀に反します」
「そんなことはわかっています。ですが…」
「大丈夫ですよ。ほら」
渾身の槍が腹に突き刺さり、両腕を振り上げたコボルトが絶叫を上げた。槍が抜かれるとそれに引っ張られるようにコボルトは前に倒れ、大きな地響きを立てた。黒猫が、二人に向かって歩き出す。
「コボルトリーダー討伐、おめでとうございます」
肩で息をしていた二人が振り返る。槍使いの男と、もう一人の女は魔法士のようだ。
「残念だったな。俺たちが倒しちまって」
開口一番が嫌味で俺はムッとしたが、黒猫はそんなものなど感じないかのようににこやかに応じた。
「いえ、ご無事で何よりです。こちらこそ、お邪魔をして失礼しました」
「あ、ああ…」
そんな黒猫の態度に、男は唖然としたようだった。
「行きましょう。これで蒼玉さんの依頼も完了でしょう」
そのまま立ち去ろうとする黒猫には、俺も唖然とした。しかし今さら蒸し返して何かを言うようなことでもなく、俺も、そして蒼玉も、黙ってその後についていった。
「待って!」
数歩歩いたところで、後ろから女の声に呼び止められた。また何か言われるのだろうかとも思いながら、それでも振り返った。
「あたしたちと、パーティ組んでくれませんか?」
「レイナ!」
突然の申し出にいちばん驚いたのは、隣の男だった。
「なんで」
「なんでって決まってるでしょ。二人だけじゃ無理だよ」
「そんなことない! 今だってちゃんと」
「助けられたでしょ」
「邪魔に入られただけだ」
二人の言い争いになってしまった。放置された形の俺たちだが、呼び止められた以上去るに去れない。
「あそこで止めてもらわなかったら、転んでたあたしたち二人ともやられてたかも。それに、回復薬もらったから挽回できたんだし」
あの時俺の背後でそんなことがあったのか。
「邪魔した詫びだって言ってたじゃないか。当然だろ」
「じゃあ後から来た雑魚を片付けてくれたのは?」
「邪魔が入ったせいで、その隙に呼ばれたんだ。それさえなければあんなのもなかった」
それはない。強いコボルトであっても一体だけで戦うことなどしないのは、逃げ帰った経験のある俺にははっきりとわかる。しかし、ここは口を挟むところではない。一度二人から目をそらすように横を見ると、蒼玉が眉をひそめて二人を見ているのが見えた。
「そうやって言い訳ばっか。もうやだ!」
女は男を振り払うようにこちらを向いた。俺の脳裏にあの時の記憶が浮かぶ。ダメだ、それは―――
「レイナ!」
思わず俺は手を上げかけたが、それよりも早く男が女の腕をつかんだ。
「わかった。わかったから」
なだめるように女に声をかけてから、男は女の前に出てきた。
「俺たちと、組んでくれ。頼む」
嫌味しか言わなかった男が、頭まで下げた。あまりの変貌ぶりに、俺は声ひとつ出せなかった。いいとも悪いとも、言えるどころか考えることさえ追いつけない。
「いいんですか?」
黒猫のその声は、二人にではなく俺にかけられたように聞こえた。そうだ。今が仲間を得る機会なんだ。頼まなければいけない。
「俺たちは病大虫と戦うために仲間を集めている。俺たちと組めばそれと戦うことになるが、それでもいいか?」
「強いのか? そいつ」
男は興味を持ったようで、俺をのぞきこむかのようにして聞いてきた。
「俺とこいつの二人じゃ全然勝てなかった」
俺は目で黒猫を指した。黒猫も俺を見ていて、目が合ったことにドキリとした俺は、それを避けるように二人に向き直った。
「へえ。じゃあそいつを倒せば借りは返せるって訳だ」
男はにやりと笑って女を一瞥した。
「いいじゃん。やろう」
二人とも乗り気のようだ。だが避けられないのはいいが、面白半分でも困る。
「病大虫は毒を持った虎の怪物だ。近づいただけでコボルトは暴れ狂うようになるし、かすり傷だけでも全身が熱くてどうしようもなくなるほどの、強い毒だ。それでも、戦ってくれるか?」
あえて脅すようにきつい声で言ったが、それでも二人が委縮することはなかった。
「やってやろうぜ。決まりだな」
「そうだね。いいでしょ?」
断る理由はないが、こういうのは蒼玉がどう思うだろうか。気になって顔色をうかがってみても、そこからは何も読み取れない。
「いいか?」
後で嫌がられても遅い。わからなければ聞くしかない。乗り気な二人を一旦無視して、俺は蒼玉に一歩近寄った。言いにくければ首を振るだけでいい。そのためにあえて、二人から見えないように蒼玉の前に立った。
「はい」
しかし蒼玉の返事はあっけなかった。何か思ったりはしないのだろうか。
「本当か? 嫌ならそう言え」
「嫌ではありません」
「なら、決めるぞ」
「はい」
俺の方が仲間をほしがっていて蒼玉の方が迷いそうなところのはずだが、まるで逆のようだ。それなら、俺が迷いを振り切らなければならない。
黒猫には一度目を向けただけだった。にこりと笑いかけてくれるのを見れば、反対でないことはわかる。
「俺たちの方から、頼む」
待たせた詫びも兼ねて、さっき男がそうしたように俺も頭を下げた。
「よっしゃ、そうと決まればもう頭なんか下げるなよ。俺はロン、見てのとおり槍戦士だぜ」
ロンは手にした槍の石突でトンと地面をついた。
「あたしはレイナ。見てたと思うけど、軽魔法士だよ」
魔法を使うところを見ている余裕はなかったが、なるほどその腕には宝石があしらわれた腕輪がある。
「俺はアキト。軽戦士だ」
「ぼくは珠季です。一応軽魔法士なのです」
「一応?」
蒼玉が名乗る前に、レイナの疑問が差しこまれてしまった。
「はい。最初は探検家でそっちのスキルも少々持っているので、魔法士としては半端なのですが、よろしくなのです」
「意外。雑魚が寄って来た時とんでもない勢いで割り込んできたから、そうは思わなかったぜ」
「でも言われてみればそうかも。なんで弱い魔法しか使わなかったのかなとは思った」
「あの時はまあ…、で」
黒猫が蒼玉の方に目を向けて、自分の話を打ち切った。取り残されていた蒼玉は、それに不快な様子も見せず、半歩だけ前へ出た。
「私は蒼玉です。重魔法士を目指しています。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
蒼玉の方はどうかわからないが、二人の方はすぐに蒼玉のことを受け入れてくれたようだ。あの目に捕らわれたようになって思考が遅れてしまうのは、どうも俺だけらしい。なぜだろう。
「それじゃ行こうぜ」
俺がそんなことを思っているところに、ロンが声を上げた。
「行くって、今から行くつもりか?」
「そりゃそうだろ。依頼の報酬、そっちもあるんだろ?」
まったく別のことを考えていたためにうっかり病大虫のところに行くのかと思ってしまったが、行き先はごく当たり前にセントラルグランだった。
「そうですね。まずは今ある依頼の完了です」
それに答えたのは黒猫だった。俺に向かって言ったのではないが、わざわざ説明するかのようなその言葉は俺に向けていたのかもしれない。
今日はもう戦い疲れたからということで、木立を避けて回り道をして道に戻ることになった。
「皆さん他に依頼を受けているとか、ありますか? ぼくは依頼を持ってないのですが」
「俺たちはないぜ」
「私も、ありません」
律義に蒼玉も答えてくれたのだから、俺も改めて言うべきだろう。
「俺はさっき言った病大虫の退治、それだけだ」
「じゃあ次はそれだな。でもその前に、報酬で新しい槍を買いたいな」
黒猫とロンとでどんどん話を進めてしまう。
「私も、もっと戦えるように魔法を習得したいです。いいでしょうか?」
蒼玉はその二人にではなく、俺に向けてそう聞いてきた。次の依頼を持っているのが俺だからなのだろう。確かに早い方がいいが、相手は強敵だ。
「そうだな。今日中にウェスタンベースまで行くのは無理だし、それならセントラルグランでしっかり準備しよう」
ずっとウェスタンベースを拠点にやっていたから、セントラルグランは久しぶりだ。だが残念ながら俺の手元には、何かを新調できるほどの金はない。
怪物に遭うこともなくウェスタンベースへの道に出た。後は道を東へ歩いていくだけだ。黒猫、ロン、レイナの三人がしゃべりながら先を歩き、蒼玉と俺がその後ろについている。向こうから来る人とすれ違いそうになると、黒猫が二人の後ろに下がってよける。
「慣れないな」
尽きない三人のおしゃべりにちょっと呆れて、同じく黙ったままとなりを歩く蒼玉に感想を求めた。
「はい」
相変わらず蒼玉の返事は早くて短い。そう思ったが、続きがあった。
「でも、寂しくありません。嘘みたいです」
「ああ、そうだな。俺もそう思う。今が嘘みたいなのか、今までが嘘だったのか、どっちにしろもう一人には戻れない」
「はい」
蒼玉の声が、俺の内にしんと響いた。
セントラルグランには、三重の囲いがある。最初は土を掘り返した溝と、それをその内側に積んだ土盛りだ。その土盛りのところどころに、木で組んだ見張り台のようなものがある。内側は畑などが広がっていて、建物はほとんど見当たらない。
壁のようなしっかりしたものではないのだが、それでも役に立っているのか、それとも警備隊のおかげか、コボルトの大攻勢を受けたはずなのに畑が荒らされている様子は見えない。
「そりゃ、俺たちが活躍したからさ」
それを口にすると、聞きつけたロンがそっくり返って答えてくれた。その後ろで黒猫が苦笑いをしているあたり、どうやらずっとその話を聞かされていたらしい。
「ま、警備隊も大したことはないな。俺たちがいなきゃここも踏み荒らされてただろうぜ」
「私はそんなことはないと思います」
それに反論したのが蒼玉だったことが、驚きだった。
「私もここで戦ったことがありましたが、追い詰められそうになった時に警備隊の方に助けてもらいました。警備隊が後ろから守ってくれていたから、私たちは戦えたのだと思います」
「そんなことがあったんだ。それじゃあそう思うよね」
二人をなだめるように、レイナが間に入った。それで蒼玉は引き下がり、ロンも黒猫に散々しゃべって満足していたのか、それ以上言い募ることはなかった。
蒼玉の顔をのぞき見ると、ちょっと紅潮して口をきつく結んでいた。こんな顔もするのかと面白く思ったのだが、それはすぐにいつもの表情を消した顔に戻ってしまった。
その警備隊が常駐しているのがふたつめの囲いだ。これはしっかりした壁になっていて、道の通るところに門と警備隊の建物がある。この内側が新市街で店や家などが立ち並んでいるが、ギルドはここにはない。
新市街は方角ごとに特徴があって、西側には鉄製品を扱う店が多い。つまり武具を扱う店が多く、それを求める冒険者が比較的多いのがこちら側だ。だいたい中に入るほど高そうな店になっていく。
「んー、あたしも新しい法具がほしいな」
宝飾品を扱う店の前でレイナが立ち止まった。宝石の価値は俺にはわからないが、指輪や腕輪のような小さなものに剣や鎧と同等もしくはそれ以上の値段がつけられている。そんな値を払ってでも欲しくなるほど、大事なものなのだろうか。
「今はそんな金ないだろ。報酬もらってからな」
店先の品々をうっとり見ているレイナを、ロンが引きずるように歩かせた。そこはもう最後の囲いで、高い石積みの壁が圧倒的な高さで立ちはだかっていた。門も木ではなく鉄の扉になっている。
この内側が中心街で、町を管理する役所とかいう施設を中心に、ギルドやスキル養成所、それ以外にも他では見ないような何だかわからない施設ばかりが集まっていて、新市街とはまるで違う、静けさとも言っていいような落ち着きがある。
ここにも警備隊の建物があるが、新市街の入口ほどの人数はいないのは、こんな静かなところで騒動などそうそう起こらないからなのだろう。
四方のどこからでも来やすいようにギルドは中心街にあるということらしいが、中心街などギルドやスキル養成所に来る以外ではあまり近づきたくない場所だ。しかもよりによって、中心街のさらに中心近くにある。
ずっとしゃべっているくらいだったロンやレイナでさえ、中心街に入ってからはおとなしくなってしまった。俺もちょっと居づらい気がするのだが、黒猫と蒼玉は何ともない顔をして歩いている。蒼玉はわかる気がするが、黒猫の場合は何でも平気なのかそれとも実は感覚が鈍いだけなのか。
ギルドの建物の中は、そこだけは冒険者たちの縄張りだけあって、賑やかだった。依頼が壁一面に張られていて冒険者が手に取ったりNPCが新たに張りだしたりしているし、カウンターも依頼を受けたり完了したりで列ができている。蒼玉、ロン、レイナの三人も、その列に並んだ。
「コボルトの次は、南東の方にオークが出てるみたいですね」
ちょっと依頼を眺めて戻ってきた黒猫が、そう教えてくれた。
「相変わらず次から次へといろいろ来るな」
怪物も入れ代わり立ち代わりだが、その退治を受ける冒険者の方も始めたての者が多い。俺もそうだが、しばらくやっていると別の場所に行きたくなるものらしい。
「お待たせしました」
意外と早く蒼玉たちが戻ってきた。
「何か面白そうな依頼でもあったの?」
「いえ。ただざっと見てただけで、何かを探してたんじゃありません」
「ま、今はでかいのひとつ持ってるからな。行こうぜ」
よほど報酬がよかったのか、嬉しそうにニヤニヤしながらロンが出口へと向かい、俺たちも後を追うように外へ出た。
「俺は槍、レイナは法具を買いに行くけど、蒼玉はスキル養成所だっけ?」
「はい。アキトさんと珠季さんは、どうしますか?」
「ぼくも回復薬を補充したいので、新市街です」
蒼玉以外の三人が新市街か。俺は金がないから武具の新調はしないし、今すぐ習得しておきたいスキルもない。
「じゃあ俺はこっちで待ってる。後で中心街の西門でいいか?」
それなら俺は蒼玉と一緒にいる方がいいだろう。
「わかった。それじゃ行ってくるぜ」
ロンたち三人は新市街に向かい、蒼玉と俺はギルドの隣にあるスキル養成所に入った。受付の建物はギルドとそれほど変わらないが、さまざまなスキルの訓練を行う場所だけあって中は相当に広い。
「アキトさんもスキル習得ですか?」
「いや、俺は今はいい」
「私を待ってくれるために、ついてきてくれたのですか」
そういうことをそのきれいな目でまっすぐ言われると、返事に困る。
「あっちはうるさいからな」
だから適当にそんなことを言うくらいしかできない。これもこれで、嘘ではないが。
「それでは、行ってきます」
「ああ。ここで待ってる」
受付に案内されて蒼玉は奥に入っていき、俺は隅のベンチに腰を下ろした。ギルドと違って、ここには見るものもない。あまりに暇なので、案内の分類なんかを眺めてみる。
戦士の項目には武器の種類が、魔法士の項目には魔法の分類が列挙されていた。それは冒険者にとっては見慣れたものなのだが、改めて見てみると黒猫がそのスキルを持っている探検家や、建築家や陶芸家や農家など、冒険に関係ないものまでたくさんある。どんなことも、それぞれが技術だということらしい。
文字ばかり読んでいて目が疲れたと思ったら、もう外は暗くなりかけていた。それもそうだ。今日一日でウェスタンベースから回り道をして蒼玉に出会い、コボルト退治をしていたはずがコボルトリーダーと戦っていたロンとレイナの助けに入って、それからセントラルグランに戻ってスキルの習得などしているのだから、目まぐるしいのもいいところだ。
「お待たせしました」
夕方になってあちこちから受付に戻ってくる人が出てきて、そこに蒼玉もいた。ちょっと疲れたような顔に見える。蒼玉にとっても今日は目まぐるしかったはずだ。
「向こうと合流して、今日はもう宿を探そう」
「はい」
特に何もしゃべったりなどせずに西門へと向かった。疲れているだろう蒼玉を気遣ったと言えば聞こえはいいが、蒼玉相手に何を話したらいいものかわからないのが本当のところだ。
「お、来た来た」
買い物はスキル習得ほど時間はかからなかったのだろう、ロンたちは石積みの壁に寄りかかって待っていた。
「お待たせしました」
俺にした挨拶とまったく同じ挨拶を蒼玉が返す。
「お疲れだね。それで、今日どこに泊まるか当てはある? なければあたしたちがよく使ってるところにしようと思うんだけど」
一度蒼玉に笑いかけてから、レイナが俺と蒼玉の二人に交互に目を向けながら提案した。黒猫には目を向けないあたり、すでに三人の間では話がまとまっているのだろう。今さらそれをひっくり返すような理由は、俺にはない。
「私はそれでかまいません」
やはり蒼玉の答えは早かった。せっかく笑いかけたのにただ答えるだけしか反応を返さなかった蒼玉に、レイナはちょっと苦笑いを浮かべた。
「今から探すのも手間だからな。頼んでいいか?」
「じゃあ行こう。と言っても別にあたしの知り合いとかでもないし、そんなにいいところでもないんだけどね」
代わりに俺が乗り気なところを見せると、レイナも気分をよくしたのか、いろいろ聞いてもいないことまでしゃべってくれた。
門の通っている通りやその隣の通りあたりには店が多いのだが、そこからさらに奥に入っていくと旅商人や冒険者を相手にする宿などが目立ってきて、そこからさらに奥には市場、家並みと生活感が濃くなっていく。レイナが案内したのは、市場のある広い通りの手前の宿だった。
「いらっしゃい。今日は大人数だねぇ」
「うん。いい?」
「三人部屋と二人部屋でいいなら」
「じゃあそれで」
若い女性が応対に出てきて、顔なじみらしいレイナをの間で手早く話をまとめてくれた。きれいそうなこの店構えで一人40フェロは安いと思ったら、お得意様料金だということだった。
「あたしと蒼玉がこっち、男三人はそっちね」
レイナの一言で部屋割りが決まってしまう。順当なところなので、異論は出なかった。部屋はかなり広くて、人数分のベッドの他に大きめのテーブルと椅子のセットが置かれていて、それでも余裕があるくらいだ。とりあえず部屋の隅にそれぞれの荷物を置く。
「お前って髪ふわふわなんだな」
フードを取って髪をかき上げた黒猫を見て、ロンがしきりに感心していた。
「はい。風に吹かれるとぐしゃぐしゃになっちゃうので、フードをかぶってるんです」
「で、そのフードがなんで猫耳なんだ?」
それは俺も聞いてみたい。
「なんでって、可愛いからです」
満面の笑みを浮かべて、黒猫はそう答えた。
「へ……?」
俺とロンの間の抜けた声が重なった。初めて会った時に自慢げに似合うでしょうと言われて、確かにそう思ったからそうだとは言ったが、本当にそういう好みだったのか。
「それだけの理由で…?」
二人揃って絶句したが、立ち直るのはロンの方が早かった。
「はい。せっかく身に着けるものですから、好みのものがいいでしょ」
何の曇りもない笑顔で黒猫は答える。見た目からは想像もできないくらいに気遣いをしてくれる黒猫、誰とでも親しげにしゃべれる黒猫、夜更かしが苦手ですぐ寝てしまう黒猫、どれが本当の黒猫かわからないところに、今度は可愛いものが好きな黒猫ときた。ますますこいつのことがわからない。
「ま、そうだな。どっかヘンなお前っぽくていいと思うぜ」
「えー、変ですか? ぼく」
さすがに黒猫も気を悪くしたのか、ちょっと口を尖らせた。
「間違いなく普通じゃない。最初の一言からもう子供のくせに生意気なって感じだったし、すげえ足速いのに使う魔法は弱いとか」
そんなことは意に介さないのか、気づいてすらいないのか、ロンはさらにずけずけと言ってのける。喧嘩になる前に止めた方がいいのか。
「変だけど、まあいいんじゃないかな」
「はい」
止める必要などなかった。ロンはちゃんと黒猫のことを認めているし、黒猫もそれをわかっているかのように笑っている。あんな踏み込み方は俺にはできない。
話が一段落したところで部屋の戸が叩かれた。戸を開けると、レイナと蒼玉だった。なぜか二人して椅子を持ってきている。
「何だ、それ?」
状況が理解できない俺は、そう言うしかなかった。
「何って、ご飯は一緒に食べようと思って。ほら、突っ立ってないで通してよ」
レイナが何を言っているのか俺にはまだわからないのだが、向こうは当たり前のことを言っているつもりのようで、椅子を前に突き出して俺を部屋の中に押し込む。だがそこまでやっておいて、レイナはなぜかそこで足を止めた。
「誰? って珠季か。ねえ蒼玉、これ見てよ。珠季だよこれ」
レイナはテーブルの一角に椅子を運びつつ目では黒猫を指しながら、後ろの蒼玉にしゃべりかける。
「はい」
「はいって、何か思ったことあるでしょ。意外とか、髪柔らかそうでうらやましいとか」
短い返事しかしない蒼玉に、レイナがまくしたてる。
「そうですね。意外です」
「…もういいや。椅子こっちに持ってきて」
それでも会話が続かなくて、諦めてテーブルへと呼んだのだった。
その後ろからさっきの女性が車輪のついた台を乗り入れてきた。台の上にぎっしりと乗せられていた皿が、テーブルに移された。
「ごゆっくりどうぞ。食器は後ほど下げにうかがいます」
つまり食事は部屋で食べるということだった。そう言えば食堂のような広い場所は見ていない。レイナとロンがここをよく使っているということは、二人はよその雑音を交えずに落ち着いて食事をしたい方なのだろうか。
「何ぼーっとしてるの。食べるよ」
レイナに急かされて、すでにひとつしか空いていなかった椅子に座った。
炊いた米とゆでた芋はわかるが、焼いた肉の塊のようでそれなのに肉らしい脂身の模様が見えないものが何だかわからない。わからないが、肉の匂いは強い。
試しにスプーンを突き刺してみると、刺さるどころか崩れてしまった。柔らかいのか。食べてみると、まるでかんだところから味が染み出てくるようだ。
「初めて食べた」
何と言っていいかわからずにそう言うと、ロンとレイナが口の端だけで笑った。
「おいしい?」
「ああ、うまい」
「いい肉だと思う?」
「うまいってことは、そうなんじゃないのか?」
ぐいぐい俺を問い詰めていたレイナが、一瞬待ってからさらに目で笑った。
「残念。これは肉の切れ端を潰して丸めたものです。まとめるのに米の粉か何かもちょっとだけ入ってるんだっけかな」
「へえぇ、そんなのなんですか。これおいしいです」
黒猫も知らなかったようで、話に加わってきた。
「柔らかくて味が出るから、お子様に人気のメニューなのです」
「はい。ぼくこれ好きです」
レイナの笑いには嫌味があったが、答えた黒猫の方は混じり気のない笑顔だった。いつもどおりそういうものは通じないのか、それとも本当に気に入ったのか。どちらにしてもそんな笑顔を見せられてしまっては、さすがにレイナもそれ以上黒猫をからかうことはできなかった。
そんな俺たちをよそに、蒼玉は一人黙々と食べ続けている。ただし、その分食べるのが早いということでもない。
「蒼玉は、こんなの食べたことあるか?」
気になって話を向けてみると、蒼玉は俺の方を見もしないでしばらく口の中のものをかんで飲みこんでから、やっとこちらを向いてくれた。
「いいえ。でも、私もこれは好きです」
「でしょ? 女の子にも人気なんだよ、これ」
黒猫に話をかわされたレイナが、嬉しそうに話に入ってきた。
「そうなのですか」
しかし蒼玉は一言返事をしただけで、また黙々と食べる方に戻ってしまった。レイナがつまらなさそうに口を尖らせて見せるが、見向きもしない。おしゃべりはあまり好きではないのか、食事は静かに食べたいのか、それともまだ他人と一緒ということに慣れないだけなのか、見ただけではわかりそうにない。
「食べる時にうるさいのは嫌?」
俺が思っただけで聞けずにいたことを口にしたのは、またしてもロンだった。蒼玉はやはり口の中のものを飲みこむまで、反応は見せなかった。
「いいえ」
「そっか。嫌だったら悪いなって思ったからさ」
「嫌ではありません。ただ…」
蒼玉はそこで一呼吸を挟んだ。
「ただ?」
「まだ、ちょっと、慣れません」
短いながらもはっきりとものを言う蒼玉が、珍しく少しためらうような答え方をした。
「そっかぁ……あたしちょっとうるさくしすぎたかな。ごめんね」
「あの、嫌ではないので謝らないでください」
「ごめ、じゃないよね」
そのまま気まずくなってしまい、全員が黙々と食べるだけになってしまった。よくないとは思うが、どうすればいいのかわからない。俺だけでなくみんなそう思っているようで、時々誰かが誰かの顔色を横目でうかがったりしている。
食べ終わってもそのもやもやは消えず、店の女性が食器を下げに来たのを潮時に、蒼玉とレイナは自分たちの部屋に戻ってしまった。
「ま、時間をかけるしかないかな」
それを見送ってから、気分を変えるようにロンが椅子から立って背伸びをしながらベッドまで歩いた。
「そうですねぇ」
黒猫は椅子に腰かけたまま、ロンを目で追っていた。ロンはくるりとベッドに背中を向けて、どさりと勢いよく寝転んだ。そのまま、何も言わない。
どうすればよかったのだろうか。二人が出ていった戸を何となく見ながら考えようとするが、わからないどころか考える手掛かりさえない。
「ぼく、ちょっと外に行きます」
しばらく静かだったところに黒猫の声がしたので思わずそちらに顔を向けたのだが、黒猫は誰に言ったのでもないようで俺に目を合わせることもなく部屋を出ていった。
「おう」
その後ろ姿に、ロンが短く返事をした。それきりまた、部屋は静けさに包まれた。蒼玉とレイカのいる隣の部屋からも、何も聞こえてこない。
こんなぎくしゃくしたままではまずい。そうは思っても、俺にはどうにもできそうにない。まずい、どうすれば、わからない。堂々巡りするばかりで次第にむずむずしてきて、じっと座っていられなくなって思わず椅子を跳ね飛ばすように立ち上がってしまった。
その音にベッドに倒れこんだままのロンが気だるそうにこっちを見る。黒猫は、そう言えばまだ戻っていない。どうしたのだろうか。こうも思考が定まらないと、そんなことが無性に気になってしまう。
「黒猫探してくる」
どうしてもじっとしていられなくて、俺はロンに声だけかけて部屋の戸を開けた。
「用足しかなんかだろ。そのうち戻ってくるって」
「そうなんだろうけど、なんか気になるんだ」
「そっか。お前まで戻ってこないなんてなるなよ」
「ああ」
今日の戦いでよほど疲れているのか、ロンは起き上がりもしなかった。戸を後手に閉めた俺は、宿の裏手へと回った。
外へ出ると、そこに黒猫が一人で空を見上げていた。何を見ているのか、あるいは何を考えているのか。見当もつかない俺は、近づくこともできずにその場に立ち尽くしてしまう。しかし足音でも聞こえたのか、黒猫の方がすぐに俺に気づいた。
「ああ、アキトさん」
その声に引かれるように、俺は黒猫のところまで歩み寄った。
「どこ行ったかと思った」
「心配をかけてしまいましたか。ごめんなさい」
口では謝ったが、黒猫は戻ろうとしない。わずかに首を上げて、どこか遠くを見ているかのようだ。試しに俺も隣に立って同じ方向を見てみるが、やはり何を見ているのかわからない。ここにも、沈黙が降りる。
ただ、気まずさやきゅうくつさなんかはここにはない。それはここが狭い部屋の中ではないからか、あるいは隣にいるのが黒猫だからなのか。
「なあ、黒猫」
そう思った瞬間、つい俺は口を開いてしまった。
「こんなんで大丈夫なのかな……」
ほんやりと遠くに目をやっている俺のつぶやきに、返事は返ってこない。不安になって黒猫に目を向けると、黒猫の方はじっと俺のことを見つめていた。
「アキトさんが不安なことは、何ですか?」
見られていたことに驚いて俺が黒猫に向き直ると、逆に黒猫は俺が見るともなしに向いていた向こうへと身体ごと向いてしまった。俺もそれにならってもう一度遠くの空を見上げる。
風が吹いて、星が瞬いた。だがそれは一瞬だけで、星の光は揺るがない。
「こんなんで俺、パーティまとめていけるのか……」
俺の方は揺るがないどころか、自信がない。
「まとめる、ですか」
黒猫は静かにそれだけを言って、しばらく黙った。じっとしていられなくて飛び出すように部屋を出てきた時と違って、それは待てる。なぜだろうか。
「そんなに何でも自分がやらなきゃって思わなくても、いいんです」
同じようなことを言われたことがある。村の薬屋に泊めてもらった日、薬屋も薬屋でできることをやろうとしていたことに俺が驚いた時だった。
「でもみんな俺が誘ってパーティに入ってもらったんだし、俺が何とかしないと」
だが、これはそれぞれがそれぞれに自分のことをがんばるということではない。同じパーティのことだ。
「大丈夫です。嫌い合っているのではないのだから、慣れればそのうちまとまってきます。パーティって、そういうものです」
「俺は前にそうはならなかった」
喧嘩別れをしたことがある俺には、そうは思えない。
「あ、ごめんなさい」
「謝らなくていい。ただそんなに都合よくいくなんて、俺には思えないんだ」
慌ててこっちに向き直って謝った黒猫に、俺は横目でそれを見ただけでそのままの姿勢で答えた。
「そうですね。ひとつだけ、必要なことがあります」
「ひとつだけ?」
「はい。真心を、伝えることです」
「それが、さっきはできなかった。何も言ってやれなかった」
さっきできなかったことが明日になればできるようになるなどとは、とても思えない。
「言うだけが伝えることではありません。真心というのは、伝えたいと思っていれば、伝えようとがんばっていれば、自然と伝わるものなのです。例えば、アキトさんが村長に話をした時のように」
「あれは、言って伝わったことだろう。でもさっきのは」
「言ったこと以上にアキトさんの真心が伝わったから、話がまとまったのです」
抵抗するかのように反論する俺の声は高くなってしまったが、黒猫の声は静かなままだ。
「アキトさんの真心は必ずみんなに伝わります。だから、そういうアキトさんでいてくれれば、大丈夫です」
本当か、と問いかける代わりに黒猫の顔をのぞきこむ。黒猫はすぐに気づいて目を細めた。それは暗くてよく見えないが、笑ってくれているはずだ。
何をどうするのかなんて何ひとつないのに、黒猫に言われるとそれでいいと思えてしまう。さっきむずむずしていたことが、もう思い出せない。
「あ、でも」
黒猫が突然声を上げた。
「パーティなんだから、何をやるとかそういうのはちゃんと言ってくださいね」
そう言えばこいつ、蒼玉の時もロンとレイナの時も、決めるのは俺にやらせていた気がする。担がれていたのかと思ったら、ちょっとムッとした。
「そういうのも自然と出てくるもんじゃないのか」
「それは別です。それだけは、みんなを誘ったアキトさんがやらないといけないことです」
不機嫌を作って違うことを言ってみたが、そんなものはやはり黒猫には通じなかった。それに、言われたことはそのとおりだ。俺はそれだけを見落とさないようにしていよう。
「戻りましょうか」
言うなり黒猫は中へと戻っていった。俺も無言で後ろについて歩く。
部屋の戸を叩いても返事がないのでそのまま入ると、ロンはそのままの格好で、布団の上で眠ってしまっていた。
「おい起きろ」
肩を揺すってやると、ロンは眠そうな半目になった。
「あ…? もう朝、違うな」
だが寝ぼけてはいないらしい。部屋の様子から朝ではないことはわかったようだ。
「ああ、まだ夜だ。だからちゃんと布団に入って寝ろ」
「そうする」
もぞもぞと布団にもぐりこんで、またすぐに眠ってしまう。
「ぼくも寝ます。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
黒猫もすぐに眠りに落ちたようだったが、俺はしばらく眠れなかった。
何も進展がなかった昨日から一変して、今日一日だけでパーティが五人に増えた。この五人をまとめられるのかと思うと、今はこれ以上人数を増やすのは控えた方がいいのだろう。そうするとこの五人で病大虫に立ち向かうことになるのだが、どう戦えばいいのか。そんな想像ばかりをいつまでも繰り返していた。