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ステ振り間違ったので冒険者やめてNPCになります。  作者: 黒田皐月
第一章 NPCやめて冒険者になります?
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第二話

 甘いような匂いを感じて目を覚ました。食欲をかきたてられるような、そんな匂いだ。

 目を開ける前から光を感じる。夜はすでに明けているようだ。

「あ、起きました? ちょうどご飯の用意ができたところです」

 目の前では鍋が火にかけられていて、湯が沸いているような音を立てている。匂いの元はこれらしい。

「ご飯と言っても、昨日の残りの乾燥肉を入れた粥ってだけなんですけど」

「そうか」

 気の利いた返事などできなかった俺は、背中に掛けていたマントを黒猫に返した。代わりとばかりにスプーンを渡され、今度も俺が先に食べることになった。

「うまい」

「本当に?」

 昨日のことがあったからか、黒猫は疑ってかかってくる。いや、顔がにやけているのだから、からかって言っているだけなのかもしれない。

「そりゃあ飯屋で食べるのに比べればいい味はしてないさ。けど、いい感じの塩加減だぜ?」

 こんな単純なものを表現しようなど無理もいいところなのだが、それでも俺はがんばって伝えようとしてみた。

「ふふ、ありがとうございます」

 笑いをかみ殺しているあたり、本当にからかわれただけらしい。黒猫は妙に上機嫌で、俺に水筒を差し出した。自分の分は昨日で飲み干してしまっていたので、助かった。

 いや、黒猫だって昨日鍋を洗う時に水筒に残っていた水をすべて流したはずだった。それなのにこの粥の水と、さらに俺にくれるだけの水があるということは。

「近くに水があるのか?」

「はい。川と言うほどではないのですが、小さな流れがあります。そのおかげか、この辺りで薬草なんかが採れるんです」

 黒猫にとっては勝手のわかっている場所ということだった。後で俺も水筒に水をくませてもらおう。

 昨日のように先に半分もらって、鍋を黒猫に渡す。物持ちの黒猫と違って、俺は身支度と言うほどのこともない。黙って黒猫が食べ終わるのを待っていると、それを察したのか急いで粥を口の中にかきこみ出した。

「おいおい、むせるぞ?」

 言っているそばから咳きこむ。水筒を差し出してやると、これまた慌てて水をのどに流し込んだ。

「急かしたみたいで悪かった」

「ううん、なんか浮かれちゃって、それでつい」

 上機嫌に見えたのは気のせいではなかったようだ。黒猫も俺と同じようにこの変化に何かを感じているのだと思うと、自分だけがそうなのではなかったことに少し安心する。

 俺はいつでも立てるのだが、黒猫の方はいろいろ後片付けがあった。

「火、もう消しますね」

「ああ、消しといてやればよかったな」

「いえ、食べている間はちょっと」

 そう言いながら革袋のひとつからシャベルを取り出し、かなり火の小さくなった焚火の周りを掘り返しては掘った土をかぶせていった。土埃が上がるので、確かに食べている間にやることではない。

 水は使わないのかと思うと同時に、どれだけいろいろ持っているのかと、半ば呆れるように俺は感心していた。

 火は見えなくなって、被せられた土からわずかに煙が上がる。そこに水筒に残った水をかけた。

「それじゃ、水をくみに行きましょう」

 鍋と水筒を持って黒猫が立ち上がる。俺もその後に続いた。

 少し茂みの中に入っていくと黒猫が急に立ち止まり、真後ろにいた俺はぶつかりそうになってしまった。その足元には、ただ歩いているだけでまたいでしまえるほど小さな流れが、ちろちろと流れていた。

「これなのか?」

 てっきりもう少し水量があるものを想像していた俺が問いかける間も、黒猫はかがみこんで手で水をすくって鍋に掛ける。俺一人だったら、地面が湿っているなくらいで水場としては認識しなかったかもしれない。

 鍋やスプーンに水をかけて流すと、今度は水筒を横向きにして流れに浸す。黒猫は水筒を二本持っているのだが、一本ずつである。それくらいに小さな流れだ。

「お待たせしました。どうぞ」

 俺もそれにならって、自分の水筒に水を満たす。黒猫はその間に布切れで鍋とスプーンを拭き、その布切れを水で洗っていた。

 水筒に水を入れたついでに、手ですくって一口飲む。朝の水の冷たさが、さっぱりとしていて心地いい。さらに手ですくった水で顔を洗うと、隣で黒猫も同じようにしていた。

 そう言えばフードを取った顔は初めて見た。眉や首にかかるくらいのちょっと長めの髪が頭の形にぺったり張りついていて、ちょっと変な感じだ。

 さっき味のことでからかわれたお返しにそれを言ってやろうとしたが、その前に元どおりフードをかぶってしまったので、未遂に終わってしまった。フードは割とゆったりしているので、それとの対比で小顔に見える。

 元いた場所に戻って黒猫の荷物を整理して、ついに、出発だ。

「記念すべきパーティ結成第一日めです」

 黒猫が俺に笑いかける。

「お前、やらなくちゃいけないこととかあるか?」

「いいえ」

「それなら、俺が依頼を受けている病大虫退治に行きたいんだが」

「はい。でも」

 でも、いきなり病大虫と戦いにというわけにはいかない。黒猫もそう思っているのだろうか。

「その前にパーティでどう戦うか、考えないとです」

「そうだな。俺もおまえもお互いどんな戦い方なのか、知らないしな」

 昨晩の内に少しでも話をしておけばよかったのかもしれないが、あの時はそれどころではないくらい精いっぱいだった。

「じゃあ、まずは」

「狂乱コボルトだな。依頼じゃないが」

「ああ。あれは薬屋さんに一体分いくらで買い取ってもらっているので、無駄にはなりませんよ。空き瓶もまだありますし」

 そう言って腰の革袋のひとつを軽くたたいた。戦い方だけではない。いったい何をいろいろ持っているのかとかそんな雑多なことも、そのうち知っていければいいだろう。

「決まりだな。行こう」

 俺が促すと、黒猫は最後に手に持った革袋を木の根元に置いた。

「置いていくのか?」

「はい。今日は戦うことになるので、手に物を持って歩くのは邪魔になるかなって」

 確かにそうだが、

「置いていって大丈夫なのか?」

 その革袋には確か、俺が昨日集めたサンプルと黒猫が昨日集めた薬草なんかが入っているはずだ。つまり、売って金にするものだ。

「平気です。こんなところにそうそう人は来ませんし、動物もほとんどいないから荒らされることもまあないです」

 そう言いつつも置く場所を茂みの端くらいのところに変えた。俺に言われて少しは心配になったのかもしれない。でも、置いていくのはやめないようだ。

「それじゃ行きましょう。アキトさんは昨日どっちでサンプル集めをしていたんですか?」

 問われた俺は、山の奥の木がまばらに見える方を指さした。とは言え、どちらの方向を見渡しても景色にそれほど変わり映えはない。本当にそっちだったか、ちょっと自信がない。

「それなら、あっちに行ってみましょう」

 そんな俺の気も知らず、黒猫は俺が指した先とは違う方向へ歩き出した。

「適当に行って、ここに戻ってこれるのか?」

「大丈夫です。この辺りには、多少慣れていますから」

 それでやっと、俺も後ろを気にするのをやめた。

 昨日出会った狂乱コボルトは、いきなり飛び出してくることが多かった。俺は、そして黒猫も、周りを気にしながら歩いていく。物音と言えば自分たちの足音ばかりで、やはり生き物の発するような音はまるで聞こえてこない。

 変わり映えのしない視界に本当に進んでいるのかわからなくなってきた頃になって突然、落ち葉を蹴立てるような騒がしい音が聞こえてきた。コボルトだろうか。

「ぼくが先に行きます」

 黒猫はそう確信したらしく、一歩前に出た。肉を削ぐのに使っていたナイフを取り出す素振りはない。まさか、素手で戦う拳闘家なのか。

 予想どおり、現れたのは狂乱コボルトだった。後ろ足で立ち上がった狼の毛は全身グシャグシャで、口からよだれを垂らしながら荒い息を繰り返している。

「これは相当毒が回っているみたいですね」

 対する黒猫には余裕があるのか、コボルトを見据えながら静かに横にずれた。

 グアアアアァァァーーー!

 吠えるとも叫ぶともわからない気持ちの悪い声を上げて、コボルトが爪を振りかざす。黒猫がそれを軽く避けて、

「マジックショット!」

 振り向きざまその背中に魔弾を放った。

 ギュオア!

 わけのわからない声とともに、上半身がのけ反る。しかしすぐに体勢を戻して、再び黒猫に突っ込んでいく。

 黒猫はそれをかわし、距離を取っては魔弾を放つ。それはすべて命中しているのだが、効いていないのか、コボルトの動きが鈍ることはない。

「うわっと!」

 立ち木を背にしていた黒猫が横に避けようとして、わずかに地表に現れていた根に足を引っかけてしまう。それを見逃さずにコボルトが外に振りぬいた腕が、逃げ遅れた黒猫の手首を切り裂いた。

 黒猫も反撃と言わんばかりに、もう片足で無理に横に跳びながら魔弾を放ったが、それは上にそれてしまう。コボルトはここぞとばかりに両腕を上げて襲い掛かる。

「ダメか!?」

 数瞬遅れて俺も剣を抜いて駆けだそうとした瞬間、コボルトの頭上から木の枝が襲い掛かった。それを振り払う隙に黒猫はかなりの距離を取っていた。

「ヒーリングプラス!」

 血を流していた傷口が、あっという間に癒える。傷から流し込まれたはずの毒の影響もなさそうで、やはりコボルトの攻撃をあしらいながら、黒猫は俺のところに戻ってきた。

「そろそろ交代、いいですか?」

「ああ」

 俺は短く答えて、抜き放ったままだった剣を構えなおした。黒猫を挟んで、俺とコボルトが駆ける。

「やあっ!」

 わかっていたかのように黒猫が飛び退き、攻撃目標が消えて躊躇したコボルトの腕を俺の剣が斬り捨てた。

 ギアアァッ!

 痛みに暴れるでもなく、それともただ暴れているのがそのまま攻撃になっているのか、すかさずもう一方の腕が俺をめがけて振り下ろされる。それは左手の盾で受け流して、間合いを取った。

 後ろをちらりと見ると、黒猫は何事もなかったかのようにこちらを眺めている。後は任せたといったところだろう。

 それが俺の隙になったのか、コボルトは大きく口を開いて頭から突っ込んできた。捨て身の噛みつきか。

「それなら!」

 盾を前に構えて、正面からコボルトの頭に打ちつけるようにして牙の攻撃を防ぐ。勢いが止まったところに、剣で腹を突き刺した。

「お見事」

 それで終わりだった。血を噴き上げながら倒れたコボルトはしばらく痙攣していたが、それが勢いをなくしたころに完全に動かなくなった。

「大丈夫か?」

 苦戦していた黒猫に声をかける。

「ちょっと格好悪いところを見せてしまいましたけど、ぼくは平気です」

 その言葉どおりに平然と、俺の横を通り過ぎてコボルトの前にかがみこむ。腰の革袋からナイフと空瓶を取り出して、

「えいっ」

 死体の指にナイフを突き立てて、切り落とした爪を瓶に入れてふたをする。手袋に付いた血を落ちている枯れ葉に擦り付けてから、ナイフと瓶をしまって立ち上がった。

 何でもないような顔をしているが、やることがけっこうすごい気がする。昨日サンプル回収で俺も同じことをしたのだが、こんなに平然とはできなかった。

「お前、魔法士だったんだな」

 薄気味悪くなったので、それには触れずに話を本題に戻した。

「はい。と言っても回復と補助魔法をちょっと使える程度で、だからほとんど戦力にはなれないんですよ」

 そう言って黒猫は苦笑した。だが、ちょっとした事故はあったものの、コボルトの攻撃をほとんどすべてかわし切ったあの身のこなしは、相当なものだろう。

「そうなると、俺が前衛でお前が後衛って戦い方になるのか」

 剣士と魔法士ならばそういうものだろうと思って言ったのだったが、そうではないらしく、黒猫は首をひねった。

「後衛って言って守ってもらっても、後ろからドーンと強力な魔法を飛ばしたりはできないんですよねぇ」

「マジックショットみたいなの、他にはないのか?」

 詠唱の余裕ができれば、もっと強い魔法があるのだろうと思った俺だったが、それも違っていたらしい。

「あれは魔力の放出っていうすべての魔法の基礎なので、魔法士ならば誰でも使えますし、使えなければいけないんです。で、ぼくはそれ以外の攻撃魔法を持っていなくて」

 それでも前衛後衛は変わらないだろうと言おうとしたが、次の言葉は黒猫の方が先だった。

「だからぼくが牽制と回復、アキトさんが攻撃って感じでしょうか」

「牽制?」

「はい。狂乱コボルトは狂っちゃっているのでそうでもないのですが、普通生き物は、何かが飛んでくればそれに意識を取られます。ぼくのマジックショットは見たとおり威力はありませんが、それくらいには使えるでしょう。そうしてできた隙に、アキトさんが斬りつける。そういうのはどうでしょう」

 さっきコボルトの攻撃が一度だけかすった時も、枝を落として間合いを離したのだった。そういう奇襲のようなことが、こいつはうまいのかもしれない。

「けど、そうして動き回っているところにお前が狙われたら」

「それは何とか逃げ回りますよ。さっきは失敗しちゃったから大きなことは言えないんですけど」

 そのさっきのことがあったから、俺は心配になる。

「常にぼくを守って戦うのでは、身動きがとりづらいでしょう。それよりは二人とも自由に動いて、アキトさんの実力を存分に発揮してもらった方がいいと思います」

 確かに俺は誰かを守って戦うようなやり方をしたことがないし、黒猫もその身のこなしを活かせる方がやりやすいのかもしれない。

 それならばと決める前に、離れたところから聞こえた物音が思考をさえぎった。それは、二体めの狂乱コボルトだった。

 俺たちが向こうに気づくのと向こうが俺たちを見つけるのがほぼ同時だったらしく、一瞬だけ目が合ったようだった。次の瞬間、コボルトと黒猫が跳ねるように動いた。遅れた俺はコボルトの攻撃をかわすことはできず、盾で受け止める。

 コボルトは片腕を盾に押しつけたまま、もう片腕を振り上げる。盾で押し返してなんとか間合いを離した俺の目の前を、黒猫が放った魔弾が走り過ぎた。

 コボルトは一度飛び退いて、今度は黒猫に飛びかかる。黒猫はそれをかわして、俺のいる方に逃れてくる。それを横から斬りつけようとしたがかわされ、今度は俺とコボルトのにらみ合いとなる。

 その均衡を破ったのは、俺の背後から黒猫が放った魔弾だった。魔弾を防ごうと両腕を交差したその下を、胴薙ぎに斬り捨てる。勝負はその一撃で決まった。

「好きにやらせてもらいましたけど、どうですか?」

 後ろにいた黒猫が俺の横まで来ていた。

 黒猫が敵の攻撃を避けつつ魔弾で隙を作って、そこを俺が斬る。それが嘘のように鮮やかに決まった。

 俺一人ではこうも簡単に片づけることはできない。これがきっと俺たちに適した戦い方なのだろうと思うほかなかった。

 黒猫が傷を負ってしまった時、その時こそは俺が守ってやればいい。

「そうだな。これで行こう」

「はい」

「だけど、好きに動くと言っても少しは俺のことも頼れよ?」

「やだなぁ。アキトさんを盾みたいにして動いてたでしょ」

 少し気負ってそう言った俺に、黒猫はそれを笑うかのように答えたのだった。

 それからやはり道具を取り出してサンプル回収しようとし始めたので、俺は剣を突き立てて爪を落としてやった。よくもそんなに空瓶を持っているものだと思ったのだが、さすがにこれが最後の一本らしい。

「よし。今度こそ、病大虫だ」

 これで戦えそうだと意気込んだ俺だったが、黒猫の返事は鈍かった。黒猫の見込みは違うのかと不安になったが、同時にもっと肝心なことに気づいた。

「居場所、お前知ってるか?」

 戦う前に出会うことができなければ話にならない。そこからして難しいから、そういう返事だったのかもしれない。

「それはだいたいわかります」

 そんな俺の予想は、またしても外れだった。

「行きましょう。こっちです」

 さっきの鈍い返事が何だったのかというくらい、迷いなく黒猫は登っていく方向へと進みだした。


 登っていくほど木も草も少なくなり、視界が開けてくる。遠くに高い岩山が見えてきたのと同じ頃、耳には水音が届いた。

「川?」

「はい。向こうに村まで流れてくる川があります。病大虫はその反対側の辺りにいるはずです」

 言われた方向に進むと、木々はさらにまばらになってきた。遮るものがないためか、風が冷たく吹いてくる。

「いますね」

 黒猫はそう言って立ち止まったが、俺の目にはそれらしいものは見えないし生き物の立てるような物音も聞こえない。見えない敵かと不安に駆られて剣に手をかけるが、その手は黒猫に押さえられた。

「虎は風雲を起こすと言いますから」

「虎?」

 俺たちが探しているのは病大虫であって、虎ではない。俺が顔をしかめたのを鏡写しにしたかのように、黒猫も不審そうな顔をする。

「病大虫って、大きな毒持ちの虎ですよ」

「え……? 虫って言うからてっきりクモかムカデの化け物かと思ってたんだけど……」

 話がかみ合わずに、しばらく沈黙が下りる。

「村にとっては当たり前のことだったから、誰もわざわざ言わなかったんですね。ぼくももう誰かから聞いて知っているものだとばかり思っていました。気がつかなくてごめんなさい」

 聞いていなかった話に混乱しかけたが、何だかわからない怪物が虎であるとわかったことで不安がひとつ消えたのだった。それでようやく、俺は剣にかけたままだったことを忘れていた手を離した。

「つまり、この風の吹いてくる先に、病大虫と呼ばれる虎がいるんだな」

「はい。だからこの辺りには動物も木も草も少ないと言われています」

 互いの緊張が伝わったのか、俺も黒猫も声が硬かった。

「行こうか」

 意を決して、俺は風に真向かう。

「はい。でもその前に」

 隣で黒猫が俺に向けて手のひらをかざした。

「アクセルブロウ!」

 吹いてくる冷たい風とは別の風が、一瞬だけ俺を包んだ。

「今のは?」

「加速の補助魔法です」

 短く答えた黒猫は、今度は胸の前で腕を交差して手のひらを内側に向けて、

「ガードミスト!」

 別の魔法を使った。霧が黒猫にまとわりついて、そこだけ少しかすんで見える。

「防御の補助魔法です。とりあえず、こんなもので行きましょう」

 俺は無言でうなづき、風に向かって歩を進めた。

 岩壁を背にして、それはいた。

 うずくまっていたのが立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。狂乱コボルトとはまったく異なり、ごく落ち着いた様子だ。そのことはそれが毒の主であることを意味しているのだろう。

 俺が剣を抜くとそれは歩を止め、俺を見下ろした。目の高さが俺の背丈よりもさらに上にある、巨大な虎だ。そういう相手は、まずは剣の届く部位を傷つけて弱らせるしかない。

「行くぞ!」

 自分に、隣の黒猫に、そして目の前の病大虫に言うともなく、俺は一声あげて前足めがけて斬りかかった。魔法の効果なのか、まるで追い風に押されているかのように速く走れる。

 しかし上段から振り下ろした俺の剣は、横に薙いだ爪であっさりとそらされてしまう。体勢を崩した俺に、病大虫の巨大な口が噛みつこうと迫ってくる。

「マジックショット!」

 その鼻先を魔弾が掠めて、病大虫は飛び退いた。その隙に俺も剣を正面に構えなおす。

 病大虫は黒猫と俺を交互ににらんだ。どちらを先にするか、品定めをしているかのようだ。それが黒猫になってしまっては危ない。

 俺はまた駆けだした。今度は攻撃をかわされないように、剣を大きく振らないように胸元に立てて構える。病大虫は爪でひっかこうと、また片足を上げた。

 その足の下をくぐって反対側の足に魔弾が当たった。病大虫は上げた足を地面に叩きつけるようにして踏ん張る。その足を俺の剣が斬りつけた。

 手首だけでの斬撃だったので傷は小さく、体勢を崩すとまではいかなかった。無傷の後ろ足で跳躍したのを、俺と黒猫は左右に跳んでかわした。挟み撃ちの態勢だ。

 俺は勢いよく地面を蹴って斬りかかったが、病大虫も横跳びで黒猫に襲いかかったためにそれは空を切ってしまう。速い。

 黒猫が危ない。そう焦った俺は黒猫に標的を定めて攻撃を続ける病大虫に向かって走った。飛びかかろうと少しかがんだ後ろ足に、背後から斬りつける。

「があっ!」

 しかしその足は前に跳ばず、後ろに蹴り上げられた。爪が俺の腕を切り裂き、剣を落としてしまう。だがその病大虫も、黒猫の魔弾をくらって前につんのめった。その隙に、黒猫が駆け寄ってきた。

「回復薬、ありますか?」

 起き上がる病大虫を横目に見て駆けながら、黒猫は叫んだ。あることはあるが、飲んでいる余裕がない。

 返事をしない俺に回復薬を持っていないと見たのか、黒猫は腰の革袋から回復薬の瓶を取り出して俺に投げてきた。なんとか両腕で抱えるように受け取る。しかし、体勢を立て直した病大虫はもう目の前に迫っていた。

「シールド!」

 その突進を、黒猫が両手を前に突き出して止めた。その後ろで、俺は回復薬を口にする。傷はふさがったが、腕はまだ燃えるように熱く、身体が思うように動かない。

「解毒薬、ありますよね!」

 こちらを向かずに黒猫が叫ぶ。病大虫は何度も前足を打ちつけるが、壁のようなものに遮られている。いや、その壁は歪んだような光を見せている。

 俺は続けて解毒薬をのどに流し込んだ。苦いなどとは言っていられない。身体にこもった熱が引くのを待たず、俺は剣を拾って駆けだした。黒猫の目の前で一瞬光が弾ける。魔法の壁が限界になったようだった。

 黒猫は大きく後ろへ飛び、壁を打ちつけるはずだった病大虫の前足は空を切って地面を撃つ。それを俺の剣が切り裂いた。

 今度は少しはこたえたのか、病大虫は空に向かって咆哮を上げた。

「うわっぷ!」

 それは突風となって俺たちを打つ。一瞬息が詰まったその隙を突いて、病大虫の爪が襲いかかってきた。

 爪はなんとか盾で防いだが、その勢いまでは防ぎきれず、俺は後ろへと飛ばされた。病大虫はさらにとどめとばかりに飛びかかろうとしたが、横から魔弾が耳に当たり、それは止められた。

 俺が起き上がる間にも黒猫はさらに数発魔弾を放ったが、病大虫はそれを無視するかのように黒猫に向かって一声吠えただけだった。そして再び俺をめがけて跳躍した。

 それを後ろにかわすと、さらに前足を伸ばして上から叩きつけてくる。これを空振らせれば、足が伸びきった状態になる。今、この一撃に賭ける。

「気刃斬!」

 すんでのところで前足をかわし、気合の一撃を叩き込む。確かな手応えを裏付けるように、切られた前足から血が噴き出す。しかし、向こうの攻撃にはまだ続きがあった。

「ぐがあっ!」

 後ろ足を軸に回転して、尻尾を振りぬいてきたのだ。綱のようなそれに横から肩を強打され、俺はまたしても吹っ飛ばされた。

「ヒーリング!」

 ちょうどそこにいてくれた黒猫の回復魔法のおかげで、すぐに立ち上がれた。だが、強い。病大虫もこちらに向き直って、またにらみ合いに戻った。

「逃げますよ」

 俺の隣に戻った黒猫が、こそっとささやいた。

「何だって?」

 思わず横の黒猫に顔を向けてしまう。

「前っ!」

 その隙を逃さず、病大虫が飛びかかってきた。前足の傷のために脚力が落ちたのか、どうにかかわすことができた。

 反応が一瞬遅れた俺は剣を構えなおすのがやっとだったが、黒猫は傷口をめがけて魔弾を放っていた。さすがにそれは無視できなかったのか、病大虫は一度飛び退き、黒猫も俺の隣に戻ってきた。

「ぼくたちでは無理です。川まで逃げます。いいですね?」

 黒猫が早口にまくしたてる。そのしゃべり方は、状況が切羽詰まっていることを意味していた。ここが、引き際か。俺は身構える病大虫を視界から外さないように横目で黒猫の顔を見て、ひとつうなづいた。

「川は後ろです。走って! マジックショット!」

 黒猫の魔弾を合図に、俺と病大虫が同じ方向に駆けだした。魔弾など正面から受けて飛びかかった病大虫の爪をかわし、黒猫も駆けだす。走りながら後ろを見やると、黒猫は攻撃をかわしながら退がるのが精いっぱいで、俺に追いつけないでいる。

 俺が入れ替わらなければと思った時、視界にようやくまばらな木が入った。足を止めて、正面に向き直る。

「走って!」

 それを見た黒猫が叫びをあげる。しかし俺は視線で答えただけで走り出しはせず、剣を構えた。病大虫はその勢いのまま黒猫を追い続けている。

「疾風斬!」

 剣気で離れたものを斬る斬撃を、病大虫ではなく、傍らの枯れ木に放った。幹が崩れて木が倒れ、病大虫の行く手を阻む、それを見る前に俺も再び走った。

 だが、一瞬早かったらしい。病大虫は跳躍してそれをかわし、そのまま俺に飛びかかってきた。

「シールドっ!」

 俺は横へ跳んでかわしたのだったが、黒猫が魔法の壁でそれを受け止めていた。その勢いで両者とも後方へ弾き飛ばされる。黒猫は尻餅をつき、病大虫は倒れた木に後ろ足をぶつけて体勢を崩した。

「来い!」

 俺は駆けよりざま黒猫の手を引っ張って起こし、そのまま二人で走った。少しだけだが距離が開いたことで、やっと全力で走れるようになった。

 それでも向こうの方が速いようで、徐々に差が縮まってくる。もう一度仕掛けるかと思った時、先を走る黒猫が声を上げた。

「川です。飛び込んで!」

 まばらな木の向こうに、流れる水が光を反射しているのが見えた。見えてきた川は、こんな山中でも意外なほど川幅が広く、水量もあるようだ。

 黒猫が全力で跳躍するのに続いて俺も川の中ほどをめがけて飛んだ。大きな水しぶきを上げて、全身が水中にもぐる。

 浮き上がって後ろを見ると、病大虫が川岸でうなりを上げていた。川に入ってくる様子はない。逃げきれたようだ。

「ひとつ、肝心なことを聞き忘れていました」

 黒猫のしゃべり方も、いつもどおりに戻っている。

「何だ?」

「アキトさん、泳げますか?」

 今さら、もう答えはわかっていることだった。

 病大虫の姿が見えなくなるまでしばらく流されてから、俺たちは岸に上がった。服も何もかも濡れて、身体が重い。二人ともへたり込むように川岸に座りこんだ。

「悪かったな」

 呼吸が整ったところで、まず言わなければならないのはそれだった。

「何がですか?」

「お前まで危ない目に遭わせちまった」

 黒猫は何を言われたのかわからないように目をしばたたいた。黒猫がどう思っているのかがわからないので、何を言ったらいいのかわからない。

「だってぼくたちはパーティじゃないですか。挑戦することも危ない目に遭うことも、何でも一緒です」

 一息ついた黒猫は、腰に下げた革袋を外して中身を広げだした。鍋やら瓶やらは乾かせばよさそうだったが、

「あーあー、依頼書がぐしゃぐしゃだ」

 紙の束はそうはいかなかった。

「まあいいか、しばらく使わないし」

「悪かった」

 俺がもう一度謝ると、黒猫がずいと顔を寄せてきた。

「だから、謝るのはなしです。だいたい、川に飛び込めって言ったのはぼくですよ?」

「でも…」

「だってもでももなし。あ、そんなことより」

 何かに気づいたように黒猫が言葉を切った。

「アキトさんの依頼書は大丈夫ですか? 病大虫退治の依頼書、あるでしょう?」

 そうだった。言われて急いで取り出そうとしたが、破いてしまったら大変と黒猫に止められた。結局、俺の依頼書も黒猫と同じようにぐしゃぐしゃだった。なるべく早く乾くように丁寧に広げて置いておく。

 しかし、この依頼は失敗だ。その文字を見て、それがやっと実感となった。これから、どうすればいいのか。

「大丈夫です」

 うなだれた俺に、黒猫が静かに声をかけた。

「まだ何も終わってなんかいません。これからです」

 顔を上げると、黒猫は昨日見たような表情で笑いかけた。その表情を見ると、本当にそうだと思いたくなる。でも、

「でも、退治できなかった。このままじゃ村が……」

 今度は俺一人の気持ちの問題なんかではない。依頼人があり、迷惑が及ぶことだ。

「病大虫は直接村には来ませんし、傷を負わせたのですからしばらくは動きも鈍るでしょう。狂乱コボルトもかなり減らしました。だから村への影響も軽くなるはずです」

 それでも、解決ではない。

「その間にぼくたちは、一緒に戦ってくれる仲間を集めるんです。アキトさん言ったでしょう? もっと人と関わるって。きっと今が、それです」

 負けたらそれでその依頼は失敗で終わりだと俺は思っていたが、黒猫にしてみればそうではないらしい。負けたら負けたでその先があるなどとは、考えたこともなかった。

 伏せそうになった目を戻すと、黒猫はもう一度静かに笑ってみせた。

「大丈夫です」

「何がだよ」

 黒猫に甘えそうになってしまう自分が恥ずかしくて、俺はそれを誤魔化すためだけに毒づいてみせた。だが、そういうものは黒猫には通じないらしい。

「何だって、です」

 にこりと笑ってそう返されただけだった。

 それを見ないように目をそらすと、黒猫も言い争いは無駄と諦めたのか、その場で立ち上がった。俺が横目で見ているそばでゆっくり数歩、俺から離れた。

「日当たりがいいから、けっこう乾きますね」

 両腕を頭上に伸ばして、背伸びをする。俺はまだ立ち上がる気にはなれずに、それを見上げただけだった。

 しばらく無心で日の光を浴びた。黒猫はたまに足音を立てたりするが、話しかけてきたりはしない。そうしているうちにようやく、立ち上がらなければと思えてきた。

「村へ戻ろう」

 勢いをつけて立ち上がって、そこらにいるはずの黒猫に声をかけた。

「はい」

 返事はよかったが、またしても広げてあったものをしまいこむまで少し待たなければならなかった。

「この川沿いに行けば、村に行けるよな」

 それが最短距離かはわからないが、村は川からそれほど離れていない場所だった。黒猫が異論を出さなかったので、俺たちは川を下る方向へと歩き出した。

 依頼主である村長に、この結果を話さなければならない。しかし、何の結果も出せなかったものを何と言えばいいのか。

 そのことを考えなければならないはずだったが、今はなぜか結果という言葉が引っかかった。結果は、何もない……?

「ああっ!」

 突然隣で黒猫が大きな声を上げた。何か怪物でも出たのかと俺は周囲を見回したが、相変わらず動くものは何も見当たらない。

「ダメです、帰れません」

 服の袖を引っ張りながら、黒猫が困ったように眉を寄せて俺の顔を見上げてきた。その顔を見て、やっと思い出した。

「昨日のサンプルとか薬草とか、置きっぱなしでした」

「そうだ。俺も気づかなかった」

 しかし気づいたところで、ここがどこで昨日一晩明かした場所がどこなのか、さっぱりわからない。

「危うく無駄にしちゃうところでした。戻りましょう」

 だが黒猫にはそれが当たり前のようにわかるらしく、迷うことなく川から離れて木立の中に入っていった。ここの地理は任せておくしかない。俺も後について歩いた。

 木はまばらだが足元の草はだんだん目立ってきて、歩くのに邪魔だと思うくらいになった頃、目的のものは見つかった。黒猫が心配ないと言っていたとおり、朝置いたそのまま、茂みの端にあった。

 だがしかし、それは幸運にすぎなかったらしい。直後に俺たちのものではない乱暴な足音が、背後から近づいてきた。

「こんなところまで下りてくるなんて、珍しい」

 手に取った革袋を再び置いて、黒猫が後方に向き直る。俺も剣を抜いた。まだ乾いていない服が肌に張りつく感じが気持ち悪いが、そんなことは言っていられない。

 俺たちを追ってきたかのようにきっちり真後ろから迫ってきたのは、やはり狂乱コボルトだった。俺たちが身構えたのを見たからか、姿勢を低くして駆けだした。

「マジックショット!」

 俺の後ろから黒猫が魔弾を放ったが、それは跳躍してかわされた。そのまま爪を振りかざして俺に飛びかかってくる。

 しかし、一度跳んでしまえば途中で軌道は変えられない。それを読んですれ違いざまに胴薙ぎに斬り捨てるのは、難しいことではなかった。

 せっかくだからサンプルに爪でも回収しようと俺は剣を振り上げたが、黒猫に止められた。

「せっかくだけどごめんなさい。もう空瓶がないです」

「そうか」

 金にはできないが、これで村に毒が及ぶのを少しでも防げるというのならば良しとすべきだろう。俺は剣をひと振りしてから鞘に収めた。

 気は重く、身体も重いが、グズグズしていても何にもならない。俺たちは村へ向かって山を下りていった。

 気を抜くとぼけっと歩いていて出っ張った木の根につまづきそうになったり、何かを考えようとするとやっぱり足元が留守になってしまう。それに、また狂乱コボルトが出ないとも限らない。結局、村長にどう話そうかなど何もないまま、家の集まりが見えてきた。


「村長にはぼくが話しましょうか」

 俺が難しい顔をしていると見たのか、黒猫が俺の前に回りこんでそう言いだした。

「今はパーティでも、依頼を受けたのは俺ひとりだ。それじゃ筋が通らない」

「そう、今ぼくたちはパーティなんです。だから村を出る挨拶をして、その成り行きってことでこのことも話すのがいいかなって思うんです」

 そうだった。村のNPCから冒険に連れ出されることになった黒猫の事情など、まったく考えていなかった。

「そうだな、お前の都合を見てなかったのは悪かった」

 そのことは謝らなければいけない。だが、それとこれとは別だ。

「でも、俺が話す。けじめくらいは自分でつけたい。俺のわがままだけど」

 これ以上の口出しは無用とばかりに、俺は黒猫をよけて先へと歩き出した。黒猫も何も言わずに隣に並び、二人で村長の家に入った。

 俺が戻ってきたことを病大虫が退治されたことと思われたのか、すぐに奥へ通され、村長に会うことができた。

「これはアキトさん、と珠季。二人一緒とは、いったいどうしたのでしょうか」

 余程意外なことだったのだろうか、入ってくるなり依頼のことよりも先にそのことを問われた。黒猫が俺の顔をちらりと見る。俺は首を縦に振って、説明を黒猫に任せた。

「はい。ぼく、アキトさんと一緒に旅に出ようと思うので、その挨拶に来たのです」

 病大虫のことには触れず、その一言だけで区切った。

「では、病大虫は…」

 俺がここを去るということは依頼が完了したことだと思うのは、当然だろう。俺の方に顔を向けて、期待のにじむ声で依頼の話を切り出した。

 期待を裏切ることを言うことに一瞬ためらったが、言わない訳にはいかない。

「すみません。失敗しました」

 説明など何も用意していなかった俺は、事実を一言だけ言うしかなかった。

「そうですか……」

 村長もがっかりした様子で、次の言葉はなかった。

 黒猫がまた俺の顔をうかがう。黒猫に言わせるわけにはいかない。俺は小さく首を横に振った。

「俺たちはこれから人数を集めてもう一度戻ってこようと思っています」

「それでは、それまで私たちは」

 そこで村長は慌てたように口を閉じた。依頼に失敗したのだ、言われても仕方のないだが、それを飲み込んでくれたのだ。

「すみません」

 村長の言うそれまでの間、俺にできることは何もない。謝ることしかできなかった。

「もちろん他の誰かに依頼するなりして解決できたのなら、それが一番です。ただ、俺たちはそうします」

 それきり、沈黙が降りた。何かを考えているような村長の胸の辺りに眼差しを落として、俺は返事を待つ。差し込んでくる夕日のせいか、その顔は疲れて見えた。

 それが力なく上げられる。

「こちらはお願いしている身、見捨てないでくれるのならばありがたいことです」

「そんな……」

 感謝など言われるような立場ではない。俺は大きく首を横に振った。

「それではこの依頼は保留ということで、よろしいでしょうか」

 一応、認めてもらえたようだ。

「ありがとうございます。必ず戻ってきて、今度こそ退治します」

「よろしく、お願いします」

 俺が深く頭を下げると村長も同じように俺に頭を下げて、かえって恐縮だ。

 それから、村長は黒猫に目を転じた。

「珠季も、達者でな」

「はい」

 黒猫は目を細めて笑って答えた。そして俺たちは村長の家を辞した。

 約束したのだ。必ずやり遂げなければならない。だが、何をどうすればいいのか、道しるべなど何ひとつない。

「アキトさんの真心、通じましたね」

 悲壮に傾く俺をよそに、黒猫はいいことでもあったかのように明るい声で話しかけてきた。そんなことなど、何ひとつないのに。

「依頼に失敗したんだ。謝って当然だろう」

 その気分の違いにムッとして、俺は苦ったように答えた。だが相変わらず、そういうものは黒猫には通用しない。

「それですよ。その真心があったから、話がまとまったんです」

 俺の気分など無視するかのように、黒猫は笑ってみせた。俺が眉をしかめると、黒猫も笑いを収めて、それから俺の目をまっすぐ見つめた。

「それがあるから、アキトさんなんです。大丈夫、何とかなります」

 道しるべはない。でも黒猫がいれば歩いていける、気がする。なぜかとか何をしてくれるからではなくて、黒猫がいるというそれだけで何となく、そう思う。俺は悲壮から脱して、今夜のことに頭を切り替えた。とりあえず、宿屋で休もう。

 そのはずだったが、黒猫はいつの間にか俺の前に立って村はずれへと歩いていってしまう。並んでいた家が途切れ、一軒だけが離れたところに立っている。あれは薬屋だったはずだ。

 俺はまたしても、狂乱コボルトのサンプルのことをすっかり忘れていた。もう日暮れだし今日でなくてもいいだろうとは思ったが、家並みを過ぎてしまっていたので言い出せずに、黒猫に続いて薬屋に入った。

「おう、珠季か。昨日戻ってこなかったから、どうしたかと思ったぞ」

 入るなり黒猫が親しげに声をかけられていた。

「そういうこともあります。はいこれ、狂乱コボルトのサンプルもたくさん取れましたよ」

 黒猫は手にしていた二つの革袋をカウンターに置いた。それを見て薬屋が奥に声をかけると、もう一人出てきた。白い裾長の服が、染みやらしわやらで大分くたびれている。

「狂乱コボルトは、相変わらずか」

「そうですね…、違いとかはぼくにはわかりません」

 同じ村の人なのだから、そしてこの黒猫なのだから、誰とでも親しくて当然なのだろうが、そんな場面を初めて目にした俺は少々面食らった。

「これなら、合計で850フェロだな」

 けっこうな金額だ。黒猫が途中からサンプルを取りに戻ったのもうなづける。白衣の男は硬貨をカウンターに置くと、革袋を持って奥に下がった。

 その黒猫が入口に突っ立っていた俺を呼んで、400フェロを分けた。さらに残りから50フェロを薬屋に戻して、

「今日、二人でここに泊めてもらえませんか?」

 突然そんなことを頼んだのだった。

「いいけど、珠季の客人なのか?」

「客人というより、ぼく、アキトさんとパーティ組んで旅に出ることにしたんです。だからしばらく、ここのお仕事はできなくなります。今日はその挨拶も兼ねて」

 突然の話に薬屋は驚いたようで、慌ただしく奥に声をかけた。

「そうか。やっぱり冒険者崩れは結局ひとところには居つかないものなんだな」

 白衣の男の方はそれほど驚いてはいないようだった。それよりも驚いたのは俺の方だった。黒猫が、冒険者崩れ?

「お前、冒険者だったのか」

「はい」

 黒猫は悪びれる様子もなく素直に答えた。

「まあその辺の話は後で。それでお願いしていいですか?」

「ああ、狭いところでよければな。それとこういうのもらえるほどのもてなしは、できないぞ」

 薬屋は差し出された50フェロを黒猫に返したのだった。

「ありがとうございます」

 俺と黒猫の礼の声が、意図せずに重なった。

「息はピッタリってわけか。それじゃ、食事の用意ができるまでこっちで待っててくれ」

 奥の一部屋に案内された。そこは普段黒猫が寝泊まりしている部屋だということで、確かに二人では手狭だったが、それでも泊めてもらえるのならばありがたい話だ。

 俺は腰から剣を外して壁に立てかけ、黒猫も腰の革袋とさらに頭のフードを外して髪をかき上げた。かき上げただけで髪型がふんわりとした印象に早変わりする。それも意外だったがそれ以上に意外だったのは、やはり黒猫が元々冒険者であったことだった。

「道理でいろいろ手馴れてるわけだったんだな」

 スキルがどうという以上に旅慣れているように見えたのは、実際にそうだったからだった。

「言いそびれちゃって、ごめんなさい」

 俺の言い方が俺が思っている以上にきつく聞こえたのか、黒猫はちょっと首をすくめた。

「いいんだ、怒ってるんじゃない。昨日今日はそれどころじゃなかったし」

 そんな話ができる余裕など俺にはなかった。黒猫が俺に遠慮してそんな話を控えていたのだとしたら、謝らせてしまった俺の方が悪いくらいだろう。

「ってことは、お前、この村の人間じゃないのか」

「はい。元いたパーティを抜けて、ここに流れてきたんです」

 驚くことばかりだが、いちいち驚いていては話が進まないほどに、黒猫の話は短くは終わらなかった。

 俺よりも長く冒険者をしていたこと、その中で龍とさえ戦った経験があること、そこで力不足を痛感してパーティを抜けたこと、それでも冒険と何らかの関りを持ちたくてNPCとして活動を志したこと。

「それでぼく一人で何とかなりそうなギリギリのところを探して、ここに行きついたのです」

 ようやく話が俺の知っている黒猫に追いついたころ、扉の外から声がかかった。食事の用意ができたらしい。

 通されたのは店の入口だった。カウンターを挟んで椅子が置かれている。

「落ち着かないかもしれないけど、広い部屋がないからここで」

 カウンターの外側に俺と黒猫が、内側に薬屋の二人が座って、真向かう形になった。出されたのは薬草粥とあぶった乾燥肉だった。濃い緑色の葉が、昨晩の味を思い出させる。

「こんなものしか出せずにすみません」

「とんでもない。ごちそうになります」

 二人に頭を下げてから、粥を一口すすった。

 うまい。これは苦いけどうまいとかではなく、本当にうまい。

「おいしいです」

 思わず隣の黒猫の顔をのぞきこんでしまった。乾燥肉をゆっくり噛んでいる黒猫は苦笑を浮かべたようだったが、口に物が入っているせいで変に歪んだ顔になった。それを見て笑ったのは、薬屋の方だった。

「もしかして珠季が作ったものを食べされられたり、しましたか?」

「はい」

 その経緯を俺が口にする前に、薬屋は大笑いになって、俺の言葉は遮られた。

「それは災難でした。何しろこいつの作るのは料理などとは言えないもので、良く言ってもかろうじて食えるってところなんですよ」

「かろうじてでも、それが大事な時があるんです」

 黒猫が口をとがらせて反論した。

「それだって、お前の場合は湯に何かを放り込むだけじゃないか。それだけだとしても火を通す順序とか、工夫の余地はあるんだぞ?」

 この味の違いの理由はそれだけではないだろうが、言うことには筋が通っている。黒猫も何も言い返せずに黙ってしまった。

 だが、昨日黒猫にもてなされたことは、俺にとっては何物にも代えがたいものだったことも確かだ。それを伝えたくて、俺は黒猫の頭をぽんぽんと軽くたたいた。黒猫が苦笑してみせたので、俺も余計なことは言わずに目でうなづくだけにした。

「冒険者同士、気が合うもんだな」

 白衣の男が感心した様子でつぶやいた。それは違う。だがそれをあえて言うこともないだろう。

「アキトさんとぼくとは、特別なんですよ」

 そんな俺の内心を無視して、そういうことをあえて言うのが黒猫だった。

 それから話題は病大虫へと移った。病大虫の退治に失敗したことだけでなく狂乱コボルトを減らしたことまで、黒猫が細かく説明していた。

「それが時間稼ぎになるといいんですけど……」

 黒猫が二人の意見を求める。

「そうだな。毒は動物が運んでくるようだし、それが減れば村には毒が及びにくくはなるだろう」

「それでも来ることは間違いない。今は研究よりも、今作れる解毒薬をたくさん用意した方がいいかもしれないな」

 話が深刻に、そして難しくなってきて、俺には入り込めそうにない。

「大きな町みたいに壁で仕切られていれば毒持ちの動物も防げるんでしょうけど、何かうまくできないでしょうか」

 俺が病大虫退治に失敗したからこうなったはずなのだが、誰も俺を責める者はいない。だがそれはいない者扱いされているようで、やはり居心地はよくない。

「柵程度じゃ、破られるか」

「畑を囲っている、あれですか。確かにコボルトが本気になれば壊されそうですけど……」

 隣の黒猫は、真剣に話に加わっている。

「猪とかを捕まえる罠と組み合わせたらどうでしょう。これも本気になれば壊されるでしょうけど、嫌がって近づきにくくなれば十分だと、ここは割り切るんです」

 黒猫の意見に、白衣の男がうなづいた。

「割り切る、か。そうだな。どうも俺たちは完璧を求めすぎてるのかもしれない」

「何にしても、私たちができることじゃない。明日、村長に相談しよう」

「お願いします」

 何もできない俺は、黒猫の言葉に合わせて黙って頭を下げた。薬屋の二人も、それに会釈を返した。

 そして話に区切りがついたところで、俺たちは用意された部屋へと戻った。勝手知ったるといった様子で黒猫が片づけを申し出たが、それは遠慮されたのだった。

「あの人たちは、諦めてなんかいないんだな」

 聞いていて辛い立場ではあったが、驚くほどに前向きだった。部屋の扉を閉めるなり口を突いて出た俺の言葉に、黒猫は目だけで笑った。

「生きてるんです。だから自分のためにがんばって当たり前です」

 それからくるりと俺の前に回りこんで、身体をちょっとかがめてわざとらしく下から俺の顔をのぞきこんだ。

「だから、アキトさんが何でも悪いなんて思わなくて大丈夫です」

「そうなのか……?」

「みんながんばる。だからぼくたちも、がんばらないとです」

 そうだ。俺だけがやらなければいけないのではない。誰もがそうなのだ。たったそれだけのことさえ、俺はわかっていなかった。

 俺が強くうなづいて答えると、黒猫は笑って俺から離れた。俺はベッドの端に、黒猫は小さな机の下にあった椅子を引っ張り出して、そこに座った。

 俺が、俺たちががんばらなければいけないこと。今、それは病大虫退治のために、仲間を集めることだ。でも、それはどうやればいいのか。

「なあ黒猫」

「何でしょうか」

「仲間を集めるって、どうやればいいんだろうな…」

 答えは、なかった。

「うーん……ぼくも誘われてパーティに入った方でしたから、それはわからないんです」

 俺もそうだった。セントラルグランの近くに出没するコボルトの退治なんかをやっていた頃、同じようにしていたところに出会って、剣士同士組んでみようとかいう軽い話でパーティを組んだのだった。

「誘われたってことは誘った人を目の前で見ているってことなのに、わからないものなんですね。こうして立場が変わってみると」

 俺は、結局のところ自分以外何も見ていないのか。黒猫に向けていた目線が床へ、そして足元へと落ちていく。

「大丈夫です」

 それを黒猫の静かな声がすくい上げた。うなだれようとしていた首が持ち上がったのが、自分の意思ではないような気がした。

「ウェスタンベースの町へ行きましょう。人がたくさんいるところに行けば、誘えそうな冒険者の人もきっといます。後は……がんばる」

 しゃべりだしたはよかったが結論までは出せず、それを語気だけで押し切ろうとした様子に、俺は思わず吹き出してしまった。

「そうだな。がんばるしか、ないな」

「はい。がんばりましょう」

 自分からは何もできずに笑うだけした俺に文句のひとつも言わず、黒猫は笑ってくれた。

 解決には程遠いが、それでも動き出せる。それだけでも今の俺には大きい。

「寝るか…あ」

 明日からがんばるために今日は休もう。そう思った俺だったが、重要なことを見落としていた。

「そうですね。アキトさんはベッドでお休みください」

 黒猫が普段使っているらしいこの部屋には、ベッドがひとつしかないのだった。そして今そのベッドに、俺が腰かけていたのだった。

「いや、お前が…」

 今さらながら腰を上げた俺を、黒猫が制した。

「ぼくにはこれがありますから。だからアキトさんが使ってください」

 黒猫は椅子の背もたれにかけてあったマントをかぶった。それでもぐずぐずしている俺に、黒猫から提案が出た。

「今日のところはそれで。もし今度こういうことがあった時は逆ってことで」

 毛皮の暖かさに急速に眠気を誘われたのか、黒猫はもう舌がちゃんと回っていなかった。その厚意に甘えて、俺はベッドにもぐりこんだ。

 やはり安心して眠れる場所で暖かい布団に包まれるのは心地がいい。黒猫のことを笑えないくらい、俺もすぐに眠りに落ちたのだった。

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