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わたし、妹の珠美ちゃんです。

女装ネタにするはずがそう話が運んでくれず……残念。

 遥と二人だけ別行動で立ち寄った金物屋から出たところを呼び止めてきた声に、アキトは驚きのあまり背筋を伸ばして一瞬硬直した。

 その驚きは、突然自分の名前を呼ばれたからというだけではなく他にも様々な感情が入り混じったものではあるが、あえて一言で表そうとするならば信じられないといったところだろうか。ともあれ、アキトは呼ばれた声にどうにか首だけでもそちらに向けた。

「黒猫……?」

 今度こそ、信じられない一色に染まる。しかし相手の方はそんなアキトの様子を全く意に介さないかのように笑顔を浮かべて嬉しそうに話しかけてくる。

「黒猫って言葉が出てくるってことは、やっぱりアキトさんですよね」

 アキトの胸には三度めの信じられないが押し寄せてくる。

 塞ぎこんでいたアキトを立ち直らせてくれた大切な仲間、子供なのに大人びたところがあって、男なのに可愛いものが好きだからと猫耳フードをかぶって歩く、その黒猫の声で、まるで初対面であるかのようなことを聞かされる。混乱せずにいられるはずがない。

 しかし向こうはそんなアキトの心中を察することもなく、自己紹介を始める。

「姉が大変お世話になりました。わたし、珠季の妹の珠美ちゃんです」

 珠美と名乗ったその子が、とびきりの笑顔と言わんばかりの満面の笑みを見せる。えくぼを浮かべた、いかにも子供らしい朗らかな笑顔だ。

「へえ、珠季に妹なんていたんだ。聞いたことなかったからちょっと驚いた」

 思考まで硬直したアキトに代わって、遥が応じる。遥のことはわからないというように困った顔になったのを察して、遥も名前を告げていた。

 黒猫が戻ってきてくれたのならば、それは言い表すことができないくらい嬉しい。そうではなくて会いに来てくれたというだけでも、望外の喜びだ。しかし今目の前で起きていることはおかしすぎる。それが納得できない限り、喜ぶに喜べない。

「でも、姉ってなんだ? あいつ男だぞ」

 遥の口調は疑うほどではなく、冗談を言い合っているような軽さだ。

 しかし、仮に目の前にいるのが本当に黒猫の妹だとしても、これはそんなに軽く済ませていいことではないことをアキトは知っている。柔和に見える黒猫だが、女の子扱いされることには傷つくのだ。

 だが、目の前にいる子はますます楽しそうにニッと歯を見せて笑った。

「あんな女の腐ったみたいなの、姉で十分です。バカ姉です」

 問うたのは遥なのに、最後の一言はアキトへと向けられていた。そしてそのまま、いたずらっぽい目をアキトに向け続ける。

「そういうの、やめておいてやれ。あいつが嫌がる」

 アキトをのぞきこんでいた目がわずかに細められた。

「で、俺に用なのか?」

 それが答えだったように思えたので、アキトは素っ気なく話を変えた。

「姉から話を聞いてわたしもアキトさんに会ってみたくなって、それで来ちゃいました」

 姉呼ばわりはそのままだが、それはもういいだろう。アキトが内心でそんな判断をしている間に、遥が口を挟んでいた。

「一人でか。見かけによらず、大したもんだな」

「さすがに一人では。ウージュまでは旅商人さんにくっついてきました」

 今度は苦笑いを浮かべる。子供らしく、表情が豊かでそして目まぐるしく変わる。

 黒猫と別れた時、アキトたちはウージュの町にいた。それを聞いてウージュまで行ったという話なのだが、その時にはもうアキトたちは今いる村に移動していたのだった。

「それで、大樹くんが、また会いたいからそう伝えてほしいって言ってました」

 ウージュの町でアキトたちが仲良くしていた子だ。その子とは町を出ていくときは伝えると約束していたのだが、その子を探し出してアキトたちの足取りを教えてもらい、そして伝言と一緒にこの村まで来たという経緯なのだそうだ。

 あまりいい出会い方ではなかった子にまた会いたいと言ってもらえたことが、アキトの胸を温かくする。おそらく遥もそうだっただろう。それが通り過ぎるのを見計らったかのような間で、伝言を持ってきたその子が二人を交互に見ながら本題を切り出した。

「もしよければしばらくご一緒させてほしいんですけど、どうでしょう」


 男というものはこれほどまでに鈍感なのかと、メグは内心で呆れる。

 確かに目の前にいる一見少女のようなその子は特徴的なフードで顔を隠してなどいないし、いかにも子供っぽく表情の変化が大きいし他人を疑うことを知らないかのように人懐っこく接してくる。

 それでも、間違いようもなく珠季なのだ。それなのに、あれほど黒猫黒猫と言ってまるで自分の方が弟であるかのように慕っていたアキトまでもが、妹だと信じて疑うそぶりひとつしない。

 他方、女子組はみんな気づいている。とりあえず今はまだ暴かないでおこうと目で伝え合っているのだが、男子組はそれにも気づく様子がない。

 何にしても、遊びに来たらしいこの子を拒む理由はない。むしろ歓迎なのは、全員の一致するところだった。しかしこの子が誰なのかという認識は一致しておらず、そのずれのために女子組の部屋に割り振られるのを止めることはできなかった。

 しばらく世話になっているこの部屋は六人部屋で、メグたち四人は窓に近い方のベッドを使っていた。今さらそれを変えることもないだろうと、レイナがその子を出入口そばのベッドに誘う。不満も何もなくそちらに移動したその背中に、レイナがさっきまでとは違う他意を含んだ声色で声をかけた。

「それで、どういうこと?」

 気配が変わったのを感じたようで、怖々と振り返る。それでもまだ白を切るつもりなのか、張りつけたような笑顔で何を言っているのかと問い返してくる。

 レイナは我慢がきかない性格ではないが、こんなところでの無駄な問答は好まない。だから単刀直入だった。

「あんた、珠季でしょ」

「わたしは妹の…」

「まだ言う?」

 口調こそからかっているかのようだが、逃げ道をふさぐように立っているその位置関係は相当に威圧的だ。次の言い逃れの言葉は、出てこない。

「まだ白状しない気なんだ。ユリ」

 正面の獲物から目をそらさないまま、レイナがユリを呼ぶ。何をしようとしているのかわかっているかのように、ユリは心底楽しそうな笑みを浮かべてレイナの斜め後ろに立った。

「妹っていうのなら、脱がされたって平気だよね? 女の子同士だし」

 後ずさる音と息を飲む音が、メグのところまではっきりと届く。

 このくらいのことは仕方がないだろう。せめて自分は見ないでおいてやろうと残りの一人、蒼玉へと目を向けると、意外なことに蒼玉は緊迫の増している方をまっすぐに見つめていた。そういう騒ぎは好まないはずなのに自分と同じ行動をとらなかったことが気になって、メグは蒼玉から目が離せなくなる。

 床を蹴るような大きな音を合図に、背後で騒動が始まった。ベッドを越えて逃げようとしたところを取り押さえられたようで、三人してなんやかんやと叫んでいる。こうも騒いでは宿の方でも見逃してはくれないだろう。それでも、蒼玉は止めるそぶりを見せない。そろそろまずいだろうとメグは腰かけていたベッドから立とうとしたのだが、遅かったようで戸が荒々しく開かれた。

「どうしたんだ!?」

 しかし心配していたのとは違って、戸の隙間から首を突っこんできたのは隣の男子部屋のアキトだった。

「何でもないよ。ちょっと仲良くしてただけ。ね?」

 ユリに組み敷かれたその子に何も言う暇を与えないかのように、レイナが答えた。押さえつけられている方も下手なことは言えないのだろう、反論はしない。

 そうは言っても小さい子供が二人に押さえつけられている状況だ。仲良くしていると言われても納得できるものではない。アキトはまだ何かを言いたげに三人の方をじっと見ている。

「あんまりいじめたりするなよ」

 しかし女子部屋に遠慮したのか中にまで入ってくることはなく、やがて大きく息をつきながらそれだけを言って、アキトは部屋を出ていった。

 もちろんそんな一言程度でこの二人が追及を緩めることはない。足音が遠ざかっていったところで、二人して獲物へと目を戻していやらしい笑みを浮かべる。

「どうする? アキトの前で脱がせるのもいいねえ」

 びくりと身を震わせた隙に、ユリが素早く体勢を入れ替えて腰を押さえてしまった。もう逃げられない。

 ユリを跳ねのけるほどの身体能力は、珠季にはない。本当に妹だったとしても同じことだろう。終わりだと、メグは確信した。

「わかりました、本当のことを言います。だから放してください」

 押さえつけられて苦しいのか、声が多少震えている。

「何言ってるの? 嘘をついていたってたった今認めた人を信用しろって言うの?」

 かわいそうではあるが、これは正論と言っていいだろう。黙ってしまう。

 しかしここはユリがとりなしてくれて、体を起こすことは許された。ベッドにちょこんと座ったところにさっきの二人が挟みこむように左右に腰掛ける。両側とも肩が触れるくらいに密着していて、これもまた相当な威圧感だろう。

「みなさんに見抜かれたとおり、ぼくは珠季です」

 そんな雰囲気にあっても落ち着いた話し方ができるところも、珠季に間違いない。

 しかしそんなことは今さらである。それがなぜ騙すような近づき方をしてきたのか、そこに質問が集中する。ここまで口を差し挟むことをしなかったメグも、そこは非難せずにはいられなかった。

 珠季は少し前に自分からこのパーティを抜けたのだが、喧嘩別れでも何でもないのだから気まずいようなことは何ひとつない。すぐに戻ってくることにきまりの悪さがあるのかもしれないが、さっきのとおり全員が歓迎なのだ。こんな余計なことをする方がよほど気まずくなりかねない。それなのに、なぜ。

「別の出会い方をしてみたかったのです」

 それがどんな意味なのか見当もつかずにメグたち三人が疑問をつぶやく中、蒼玉だけは声には出さずに問うような視線を強めた。それが最も鋭く感じられたのか、珠季は両隣の二人でも正面に近いメグでもなく、蒼玉に向かって続きを話し出した。

 アキトにとって珠季が特別な存在だということは、この場にいない男子組も含めて全員がわかっていることだった。しかしそれは、偶然アキトが精神的に弱っていたところに出会ったからそうなったのだと珠季は言う。レイナたちがパーティごと合流してから珠季やアキトと知り合ったメグとユリにとって、それは初耳だった。

 そうして慕ってもらえたことから珠季の方もアキトに依存するようになってしまっていたのだと、蒼玉に訴えるように珠季は口にした。その蒼玉は、視線こそそらさずに真っすぐ聞いているものの、何かをこらえるように眉をわずかにひそめていた。

 子供のくせに妙に大人びている珠季が、大抵は誰からも一歩引いた立ち位置をとっているあの珠季が、一人に、それも頼りなさげなところのあるアキトに寄りかかっていたなど、思いもよらなかった。しかしそんなことをおそらくずっと思い悩んでいたのは、あるいは珠季らしいのかもしれない。

「もしももっと普通に出会えていたらもう少し違う関係になれていたのではないか、そうすればぼくももう少し違っていられたのではないかと、そんなことを考えてしまったのです」

「それで、珠季ちゃんじゃない別の人として会いに来たんだ」

 わざわざ女の子の格好までして、しかも持ち物も全部替えて。今の珠季はいつも背負っていた体格の割には大きなリュックも法具の腕輪も身につけていない。

「はい。だから」

 ユリの問いに、珠季は即答で返した。それから一呼吸だけ間を開けて、珠季は改めてこの場にいる全員に視線を向けた。

「できればアキトさんには気づかれるまで珠美でいさせてほしいのです」

 まだ騙す気なのかと呆れるべきところだろうが、そこまでしてでもやりたいことなのかとメグはその行動力に圧倒されてしまう。

「まあいいんじゃない? 面白そうだし」

 そんな軽口で応じてはいるが、レイナもユリも多分同じように押し切られたのだろう。あとは、蒼玉だけだ。

 生真面目な、しかもアキトに好意を持っている蒼玉のことだ。アキトを騙すことは許せないかもしれない。それならそれでいいと思う。しかし珠季をにらむ蒼玉の表情は、それが何かはわからないが、さらに深い情味がにじんでいるように見えた。

 その蒼玉の口から発せられた声は思いがけず、聞き覚えのない厳しい色をなしていた。

「珠季さん、アキトさんのことを全然わかっていません」

 言われた珠季もこの部屋にいる他の誰も蒼玉の言っていることがわからず、重苦しい沈黙が訪れる。

 それをもたらした蒼玉は返事を待っていたようだったが、諦めたようで小さく息をついて、もう一度珠季に目を据えた。その目、その表情には、さっきよりも感情があらわになったように見える。

「アキトさんはわかっています。だからこそ、さっき真っ先にここに飛びこんできたのです。珠季さんを心配して」

 さっきはそんなことなど思いもよらなかった。ただ大きな音に驚いて来ただけにしか見えなかった。しかし、その口ぶりに微塵の躊躇もないせいか、それを聞いた今はもう蒼玉の言うとおりとしか思えなくなってしまっている。

 おそらく珠季だろう、息を飲む音が聞こえた。

「自分が珠季さんのおかげでやりたいことをやらせてもらえたのだから、珠季さんの望むことをさせてあげたい。アキトさんがそう言っていたことは、珠季さんも知っているはずです」

 メグにとってそれは、珠季がパーティを抜けるときのアキトの決断だった。しかし蒼玉の口ぶりからすれば、それはその程度のことではなくて、もっと深い心情に根差したもののようだ。

 ずっと蒼玉に向いていた珠季が、がくりとうなだれた。

 それでも蒼玉の視線は珠季を射続ける。

 誰も口を差し挟むことができない。そこにあるのはただ激しい怒りで、だからどうしたいというのはおそらく蒼玉自身にもないのだろう。

「それなら」

 その声は決して大きくなかったが、全員の耳にはっきりと届いたらしく、珠季に注目が集まる。

「わたしは珠美でいます。だってアキトさんがそうさせてくれるんだから」

 蒼玉が一瞬だけ苦いものをかんだような顔をしたが、何か思い当たったように表情を消した。それに珠季が微笑み返す。いや、えくぼを浮かべた子供っぽいその笑いは珠美と言うべきだろうか。ともかく、この二人の間では何かが通じ合ったようだった。

 しかしそこから蒼玉の表情はまったく動かなくなる。それは面白くはないが否定する気はないと言っているように、メグには見えた。

「わざわざ珠季だって言うことはしないけど、わざわざ口裏を合わせてごまかしたりもしない。それでいい?」

 この雰囲気の原因である蒼玉は黙ったままだし、こんな詰まったときは自分が率先して決めるのが常のユリでさえなす術がないように縮こまってしまっている。仕方なくメグが妥協点を提案した。

 誰も何も答えなくて、つまり反対の声はなくて、なし崩し的にそう決まった。


 珠季ちゃんがあんな突拍子もないことをやる子だったなんて初めて知ったし、蒼玉さんがあんなに怖い顔をしたのも初めて見た。二人ともメグや遥とはまた違う大人っぽさがあるとはずっと思っていたけど、やはり人間それだけではないということか。

 ともかく、珠季ちゃんはしばらく珠美ちゃんでいくことになったので、女子部屋から追い出すわけにはいかなくなった。

 まあ珠美ちゃんが珠季ちゃんを指して姉とか言うように、この珠美ちゃんのことはあんまり男の子だと意識しなくてもいいんじゃないかとユリは思う。レイナがあれやこれやと言い募っているので、そのくらいで十分だろう。他の二人も何も言わないのはきっと同じように思っているからだと思う。

 ようやく張りつめていた空気が緩んできて、元々あまりおしゃべりなどしない二人は相変わらずだが、それでもある程度話せる雰囲気が戻ってきた。わざとらしくさえあるレイナの嫌味のおかげだ。

「珠美ちゃんは珠季ちゃんみたいに魔法士じゃないの?」

 それに便乗してようやく、ユリは気になっていることを聞いてみることができた。

「あんな姉と一緒なんて嫌ですから」

 口元は嫌そうだが目は笑っている。珠季ちゃんじゃない自分を楽しんでいるみたいだ。

「でもそれで拳闘士って、珠季ちゃんの探検家と同じくらい珍しいと思う」

「拳闘士はそこまで珍しくはないでしょう、ユリさんもそうですし。姉なんかと一緒にしないでください」

 珠美ちゃんが着ているのは、駆け出しの拳闘士が使うような革のドレス状の服だ。それに関節の防具まで揃っているのだから、おしゃれではなくて装備に間違いない。性別を偽っていることに比べれば大したことではないかもしれないが、クラスまでわざわざ変えてきているのだから、こうして珠美ちゃんをしていることはやはり並大抵の覚悟ではなさそうだ。

 それにしてもどうして自分と同じ拳闘士なのか、それがユリには気になって仕方がなかったのだった。

「からかってごめん。本当はどうして拳闘士なのか、それが聞きたかっただけなの」

「大したことじゃないけど理由はあります。でもそれはまた後で。ね」

 軽そうな苦笑いからは、珠美ちゃんをしていることそのもののような秘密や深刻さなんかは感じられない。多分言葉どおり、話す時というものがあるのだろう。

 だからそれはそのままにして、あとは眠くなるまで珠美ちゃんに珠季ちゃんの話をさせて遊んだのだった。本当は自分自身のことなのにこんがらがる様子もなく、あくまで妹から見た姉という語り口を崩さないあたり、やはり珠季ちゃんは自分のことも客観的に見れる大人なんだなと、ユリは改めて感心させられたものだった。

 男の子である珠季ちゃんのことを本心から嫌そうな顔までして姉と言い続ける珠美ちゃんが面白くて、他のみんなも聞き入ってしまって、その日は相当に夜更かしをしてしまった。いつもならばこんな時にみんなをたしなめそうな蒼玉さんがいちばん身を乗り出すようにして聞いていたのがまた意外で面白くて、そして可愛らしく見えた。


 身なりを見る限り、冒険者となってまだ日は浅い。そんな子を連れて歩いて大丈夫なのだろうかと、葵は心配でならない。

 しかしユリとアキトは大丈夫だと判断したようだ。他のみんなも特別に珠美のことを気にかけている様子はない。

 この村に来てから葵たちがやっているのは、ホブゴブリンというゴブリンの亜種の退治だ。

 亜種と言っても、言われなければそうとは思えないほどに見た目が違っている。セントラルグランのあたりにいるゴブリンはひょろひょろした子供くらいの体格なのだが、村の近辺にいるホブゴブリンは体格のいい大人さえも見上げるほどなのだ。その代わりに増える早さは鈍いというが、それでも最近は特にしょっちゅう見られるほどに増えてしまったらしい。村だけでは対処しきれなくてウージュの町へ依頼が持ちこまれたのを受けて、今葵たちはここにいる。

 数だけが怖いただのゴブリンと違って、ここのホブゴブリンには見た目どおりの手ごわさがある。珠美を連れていけば、そんな怪物とまともに戦わせなければならなくなるかもしれない。見た目からして小さくてその上経験も浅そうな子を、そんな危険な目に遭わせていいのだろうか。今からでもやめさせるべきではないのか。

 おかしいと言えばこの珠美の方もおかしくて、アキトに会いに来たと言っていたのに、今はアキトのことなど忘れたようにユリの隣にひっついている。つまり葵とユリとの間に挟まって歩いていて、二人ともおしゃべりが好きらしく話が絶えないので、葵の方からは珠美の表情はうかがえない。こんな時は、ユリがおしゃべりに夢中な分、葵が周囲に警戒を払わなければならないのだが、いろいろ気になってどうにも二人に目がいってしまう。

 ここはウージュからは北方にあたり、同じようにほとんどが森に覆われた地方なのだが、イースタンベースやウージュに比べると木々はまばらで高さもそれほどではなく、視界はかなり明るい。大柄なホブゴブリンにしてみれば動きやすいと言えそうで、だからこそこの辺りにいるものなのかもしれない。

 耳が異変をとらえて、葵は反射的に足を止めた。

 それは物音ではなくて、逆に音が消えたことによるものだった。葵の隣でずっとおしゃべりをしていた二人が何かを見つけ、声を止めたのだ。

 自分の方が警戒を怠っていたことに嫌気が差す。しかしそれは後だ。

 葵がそれに気づくと同時に向こうも気づかれたことを察したらしく、隠れもせずにゆっくりと姿を現した。

 ゴブリンと違ってホブゴブリンは大きな集団を作らないらしい。今現れたのも二体だけだ。取り囲んでくるとか不意を襲ってくるとか、そういうことも、見たことがない。

 こちらは九人、逆に半円状に取り囲む。左手にはアキトと蒼玉、ロンとレイナ、右手には遥とメグ、そしてユリと葵と珠美がいる。

 葵が珠美を背後に隠すように前に出ると、それをかわすように珠美が斜め前に出てきた。

「わたしにやらせて」

 油断なく正面を見据えたまま、珠美が背後へと声をかける。

 駄目だと声を上げかけた葵を制したのは、ユリだった。

 それに反論している猶予はなかった。珠美が対している方のホブゴブリンが、珠美に向けて身構える。

 先制攻撃とばかりに珠美が真っすぐに駆け出した。ホブゴブリンも正面から広げた手を打ちつけてくる。それが珠美を体ごと吹っ飛ばすようにしか見えなくて、もう遅すぎるのだろうが葵は追いかけずにはいられなかった。

 しかし次の瞬間、珠美は体を開いて伸ばされた腕をわずかに避け、その腕を横から殴りつけた。予想していなかった事態に反応が間に合わず、葵はそれを横目で見ながら脇を駆け抜けるしかできなかった。もしかすると自分よりも速いかもしれない身のこなしに、驚くことしかできなかった。

 だが、そんな余裕はなかったのだった。珠美の小さな拳ではホブゴブリンの丸太のような腕には衝撃を与えることはできず、ホブゴブリンは懐に飛びこんだ形になった珠美に抱きつくようにして捕まえようとしてきた。

 今度こそ間に合わない。焦った葵はとにかく背後から斬りつけたのだが、今度もまた予想と違った手ごたえになった。視界の向こう側で珠美が一回転して着地している。ホブゴブリンの顔面を蹴った反動で跳躍して、そこに葵が斬りつけることになったようだった。

 その一撃でかなり深い傷を負わせたはずだったが、ホブゴブリンの抵抗はすさまじかった。それでも一体に対してこちらはユリ、遥、メグ、葵と四人で、すぐに体力が尽きたホブゴブリンは起き上がることができなくなった。四人の連携に入る機会を見いだせなかったのか、珠美はもう見ているだけだった。もう一体の方はそれよりも先にアキトたちに倒されていて、それきり辺りは静かになる。

 集まってきたみんなを、珠美はちょっと苦笑いが混ざったような笑顔で迎えた。

「ゴブリンなら十体くらいは軽く戦えるくらいにはなれたからいけるかなと思ったけど、やっぱり無理でした」

 散々人をハラハラさせておいて、悪びれもせずに笑ってくれる。葵はそう苦々しく思ったのだったが、やはりみんなそれくらいわかっていたかのように反応が軽い。

 その中で、ユリだけが少し違うことを言った。

「技はできてるんだけどね、攻撃が軽いんだよ。まだ」

 やっぱり、と言われた珠美も納得している。やっぱりと口にするということは、こうなることは自分でもわかっていたということなのか。納得ができなくて、しかし当の本人には聞けなくて、葵は誰へともなく視線をさまよわせてしまう。

 それに答えたのは、偶然に目が合ったロンだった。

 葵よりも珠季とのつき合いが長いロンなのだがやはり妹のことは聞いたことがなかったらしく、珠美の実力については知らないと言いながらも、その答えは説得力のあるものだった。

 珠美はウージュまでは一人ではなかったとは言っていたが、そこから先は誰かと行動を共にしていたとは言っていない。それらしい人も見当たらないので一人で来たのだろう。つまり自分の身を守れる程度の何かは身につけているはずで、それがあの身のこなしなのだろう。ロンはそう見たのだと言う。

 それでもこんな小さな女の子が一人で行動するのは危険だと葵は思わざるを得ないのだが、一応納得はできた。自信過剰、と思いながらその珠美の姿を探すと、いつの間にかユリから離れてアキトにまとわりつくようにしていた。たまに蒼玉と視線を交わしたりするが、蒼玉の視線は葵と同じように非難を含んでいるように見える。

「気になる?」

 真横から聞こえた声に思わず体が跳ねてしまう。ごまかすように一度その頭上を通り越して向こうを眺めて、それからようやくといった様子で葵は声の主へと視線を下げた。

 しかしそんなごまかしが通用するはずもなく、目が合うのを待っていたかのようにユリはにこりとご機嫌な笑顔を向けてきた。

「アオちゃんすごく気にする人だもんね」

 信頼はしているけれど、どうしても気になってしまう。目が追ってしまう。でも言えない。だから時々ぶっきらぼうに嫌味を言ってしまう。

「お前以上に危なっかしそうだからな」

「じゃあやっぱりアオちゃんが気にしすぎてるんだよ」

 こんな時、ユリが機嫌を損ねるようなことはほとんどない。嫌味が通じていないことがもどかしくて、しかしユリが嫌な思いをしなかったことには安堵してしまう。

 だが今回はそうではなかったようで、ユリもまた珠美の実力への見立てを口にした。

「珠美ちゃんね、単純な速さだけだったら私よりも上かもしれない。で、それを活かした技も持ってる」

 身のこなしで言うならば葵よりも上手のユリにさえそう言わせるほどだったのか。さっきの戦いで見たものに驚きはしたが、あの場はとにかくそれどころではなくて、それがどれほどのものかまでは葵には見えていなかった。

「ただ実戦経験がなくて、だから攻撃が慣れていない感じなだけなんだよ」

「でもさ、実戦経験がないならあんな避け方なんてできないだろう」

「そこはまあ、不思議なんだよね」

 口ではそう言いながらも、ユリは不審がる様子のないただの笑顔を葵に見せた。

「だからさっきは同じ拳闘士の私に見てもらおうとしてたのかな」

 それは葵にとってはわかりやすい理由だったが、それを言ったユリの方はどういう訳かさっきまでとは打って変わって不思議がるように口をすぼめたのだった。


 変装をしようと表情やしゃべり方を変えようと、別人を装い続けるのは難しいらしい。

 珠季の妹と名乗る女の子と最初に会ったのは、アキトと遥の二人だった。アキトは妹がいたということに返事さえ忘れてしまうほどに驚いていた様子だったが、遥は意外には思ったものの疑いはしなかった。だからあの場では軽く話に応じることができた。

 しかし何日か行動を共にしていれば、不審な点がおぼろげながら浮かび上がってくる。

 こんな小さな子にしては物事がよく見えている。こう言うと仲間にもう一人該当する人物がいるのだが、今はそれは置いておいて珠季の妹だ。

「こんなどこまで行っても木しか見えないようなところで、どうやって村まで帰れるんですか?」

 ちょうどメグとしゃべっていたのがひと段落ついたその瞬間に、待ちきれなかったかのように遥に話しかけてきた。

 そのことだけ切り取って言えば、遠慮のない子供のすることだろう。しかし聞いてくることがそれなのだ。駆け出しの冒険者にありがちな無謀さなどは、しっかり抑えられている。

 そんな妹は、最初に自分からホブゴブリンに向かっていって自分では無理だとわかった後になっても、平然と遥たちについてくる。戦いになっても自分だけ離れたりはせず、怖がる様子もなくおとりになるような動きをして時間稼ぎをしたりなどもする。

 何度かそういう場面を目にすると、かわすのがうまいのではなくて逃げるのがうまいという特徴が見えてくる。それは身なりが示している拳闘士の身のこなしではなくて、誰かと比べるとすればむしろ軽魔法士であるレイナに近い。

 ひとつひとつは気になるといった程度でしかないが、すべて重ね合わせて考えると、妹を名乗っているこの子は実は、妹などではなく珠季本人だとしか思えない。証拠がないので口にするのははばかられるが、遥にはもう珠季にしか見えなくなってしまっていた。

 それならばなぜ妹などと名乗っているのだろうか。飽きずに笑顔で話しかけてくる多分珠季の話に生返事を返しながら、遥は革のドレスを見ていた。

 猫耳フードなどという奇抜なものを喜んでかぶって歩く珠季は、可愛いものが好きなのだと恥ずかしげもなく公言していた。それでもさすがに女の子の格好そのものをするのには照れがあって、だから女の子だということにしているのだろうか。

 一見どころか今でも珠季かどうかということを脇に置けば、女の子に見えないこともない。しかし女の子に見せることを面白がるのは、珠季らしくはないように思える。

 それならばなぜと繰り返すうちに、ある荒唐無稽なことが思い浮かんだ。実は珠季の方が嘘で珠美が本当なのではないのか。そうだとすれば、男のはずの珠季のことを姉と呼ぶのもわからなくはない、ような気がする。

 それは無理がありすぎると、即座に自分で否定する。そうだとすると今度は、なぜ珠季はずっと男だと偽っていたのかを考えなければならなくなる。珠美ならばまだいたずら程度で笑って済ますこともできるだろうが、珠季の方が偽りだったとすればこれまでの信頼がすべて崩れ去ってしまう。今になってわざわざそんな危険を冒さなければならない理由は、どこにもないはずだ。

 考えるのはやめるべきだ。そう自分で思ったはずなのに、遥の口からは逆行する問いが出てしまった。

「お前、珠季のことを嫌いなのか?」

「はい。あんなぐずぐずしてるようなの、好きにはなれません」

 迷いなどまったく見せずに、即答する。好きではないから一緒にされると嫌がることも一貫しているのだが、ひとつだけ例外があることに遥は気づいていた。

「その割には、珠季のこと姉と呼んで、自分と同じ女扱いしてるけど、それは嫌じゃないのか」

 変な声をひとつ上げて、口を開けたまま表情が硬直した。

 遥が見ている前でしばらく硬直したままで、それからようやく一度口を閉じてうわごとのように答えらしいものを口にした。

「あ…兄だと認めたくなくて……」

 困ったように、ごまかすように、しかめた顔から無理やり笑みを浮かべる。これは子供っぽい珠美なのか、子供っぽさを隠しきれていない珠季なのか。

 どちらにしても子供を困らせていることには違いなくて、小さな棘が胸に引っかかったように感じてしまった遥は、それ以上の追及を引っこめてしまった。

「お前、意外と優しいんだな」

 今度は面食らったような顔で硬直する。いつもの調子ならば意外とは余計だとか滑らかに口が回りそうなものだが、今だけはそんな余裕はなさそうだ。

「兄だって認めたくなくても、姉ってことにはしてやれるんだろう。本当に嫌いならば、兄でも姉でも何でもなくて無関係だって言いそうなものだけどな」

 追い詰めるつもりはなくて、だからわざと視線は外した。

 向こうから話しかけてきた時の調子のよさはどこかへ行ってしまったようで、何も言ってこない。しかし横目で見てみるとまだ遥の隣にその姿はあって、逃げることもなく遥の言葉に考えこんでいる様子だ。

「そうかもしれませんね。本当は自分で言っているほど嫌ってないかもしれません」

 ごまかすとかそういう意図ではなく、抑えたような控えめな笑顔で、そう答えたのだった。それは遥がよく知っている笑顔だったと思う。

 しかし、それからも遥は隣を歩いている子を珠美として扱った。それはもっと自然な形で明かされることになるだろうと期待することにした。


 六体まとめて出てきたのは、二度めだった。

 前回は魔法士三人をかばうようにしたためにどうしても守勢に回ってしまい厳しい戦いを強いられたのだったが、今回は大した戦力にもならないはずだった珠美が散々かき回してくれたおかげで優位に戦うことができた。

 ロンとレイナの二人が追い詰められるかと思った瞬間、視界の端にも映っていなかった珠美が飛び蹴りを放ってきて、それ自体は怪物の体勢を崩すことさえできなかったが、注意を引きつけてくれたおかげで立て直すことができたのだ。それに今度はロンが横槍を入れると、邪魔にならないようにか珠美はすぐさま視界から消えてしまった。

「思い出すな」

 それと同じ場面を同じ視点で見ていたもう一人にそう言ってみたのだが、向こうには何を指しているのかわかってもらえなかった。何となくつまらないが、ほのめかすようなこともしていないのだから、無理もない。

「初めて珠季に会った時」

 今度はわかってくれたように声を上げたのだが、そのレイナの目に嫌味が浮かんできた理由はロンにはわからない。

「コボルトに囲まれそうになった時、いきなりすっ飛んできたもんね。そういえば、あの時も実際にはほとんど倒してなかった」

 あの時は手柄を横取りする気かと食って掛かったのだったが、危なそうだったのを見かねてと言われて、一緒だったレイナにも呆れられて、そんなこんなでアキト、珠季、蒼玉とパーティを組むことになった。状況がよく見えていて、助けに入るがしかし攻撃能力はない。今の珠美の行動は、ロンにはまるであの時の珠季のように思えた。

「妹だけあって、あいつに似るものなのかな」

 さあ、とレイナは気のない様子で首を傾げた。それを見てかどうか、当の本人がこっちに寄ってくる。

「ホブゴブリンってゴブリンの亜種とは言いますけど、何を食べたらあんなに大きくなるんでしょうね」

 そんなことを聞かれて、ちょっと拍子抜けした。珠季は、決してしゃべらない方ではないが、こんな軽口はまず口にしない。

「だいたい、ホブゴブリンってみんな普通にセントラルグランの近くに出てくるゴブリンキャップより強いと思うんですよ。それならホブゴブリンがゴブリンたちの親玉になればよさそうなものですけど……」

 セントラルグランに時折押し寄せてくるゴブリンたちの親玉が、ゴブリンキャップだ。ロンはゴブリンと戦ったことはないのだが、同じようにセントラルグラン近くに出没するコボルトの親玉とは戦ったことがある。それを比べて考えれば、確かに珠美の言うとおりではある。

「仲が悪かったりして。すぐそこでゴブリンがうようよしてたら、好きに暴れるしか能がないホブゴブリンは嫌がりそう」

 ロンが何か答えるよりも早く、口の早いレイナが話を引き取っていった。

「それで住み分けのためにこんな離れたところにいるのかもしれませんね。だとしたら今度は、ホブゴブリンよりももっとすごいのがもっと遠いところにいるってことになるでしょうか」

「いたら噂くらいにはならない? 龍みたいに」

「確かに、そうですね」

 横で聞いていてそれほど面白い話には思えないのだが、レイナと珠美はけらけら笑い出した。こういう時、女というものはわからない。珠季ならば…、話を合わせるために一緒に笑いそうな気がする。

 ここしばらくホブゴブリン退治を続けてきて、成果が上がってきたのか村の近くではだんだん見かけなくなってきた。

 そのためにここ数日は少し遠いところまで足を延ばしている。もっともその少しがどの程度なのかは、どこまで行っても一向に景色が変わることがないので自分たちでもよくわかっていない。幸い、木々の高さがそれほどでもなくてあまり密集してもいないために日はよく見えて、だから時間を忘れて日が沈もうとしているのに気づかないということは起きにくい。一日で行って帰れる距離だとだけは言える。

 そのくらいの範囲で見かけなくなれば目的は達成されたということになるだろうか。そろそろそんな話が持ち上がってくる。

 代り映えのしない景色に飽きたということではない、つもりだ。そんなことよりも報酬が倒した数で決められているのだから、このまま探す時間ばかりが長くなってしまえば、宿代さえも困ることになってしまう。依頼主の希望というものはあるが、そこは冒険者としては最低限のところだ。

 そうなのだが、よく言うとすれば欲得のない、悪く言えば情に流されやすいアキトは、放っておくとそんな基本的なことさえ無視しかねない。それを制するのがパーティの一員の役割であり、ロンやレイナがその役割になることが多い。そろそろまた、ちょっと苦いその役割が巡ってきそうだ。正面から目を刺すように投げかけられる赤みががった日差しにうつむきながら、ロンはそれを今夜か明日あたりと決めた。

 しかし、他人というものは自分の思いどおりに動いてくれるとは限らない。まして仲間になって日が浅い相手ともなると、想像もつかないことをやってくれることもある。

「ホブゴブリンには親玉みたいのはいないんですか」

 依頼主から今日の分の報酬をもらったその場で、突然珠美が人の間をくぐるようにして前に出てきて話に割りこんできた。

 怪物が大量に発生する時は、そういう存在が中心にいる場合が多い。もちろん、ロンたちも最初に依頼を受ける段階で依頼主にそれは聞いてみている。だから珠美の問いは余計以外の何物でもなかった。依頼主が相手は子供と思って大目に見てくれたから助かった。

 それなのに珠美はそれを察しもせずに、さらに余計な口をたたく。

「たくさん引き連れてるんじゃなくても、一体だけ特別強そうとか他とは違うとか、そういうのでもいいんです」

「他とは違う、か…。怪物をじっくり観察するなんて余裕、普通の人間にはないからなあ。期待はできないだろうけど、一応村の人にも聞いておこう」

 この一言で、少なくとも明日いっぱいはこの依頼から引き上げることはなくなった。明日でなければならないことでもないからいいだろうと、一人ロンは内心で気分を切り替えた。


 所詮嘘からは何も生まれないことを思い知るべきだ。

 アキトさんにとって特別な存在である珠季さんのことは、そうして突っぱねておけばいいはずだった。

 それなのに、蒼玉にはどうしても気になってしまう。その一因は間違いなく、蒼玉にとって大切なアキトさんがもどかしそうにしていることにある。しかしそれだけではなくて、今は珠美さんと名乗っている珠季さんにふとした時に一瞬だけ浮かぶ寂しいような辛いような表情が切なく思えてしまうのだ。

 もっと別に話したいことがあるのにと、明らかに二人とも思っている。それを遮ってしまっているのが、珠美さんという嘘だ。

 蒼玉がわざわざ余計なことをするまでもなく、二人とも嘘ということはわかっている。わかっていて、それでも互いのことが大切だから、その嘘までも肯定している。そしてそれこそが二人の間の溝になってしまっている。つまりそれは二人が互いを大切にしている証拠であり、そこに立ち入れない蒼玉にはやるせなさをもたらしているのだ。

 今の珠季さんは珠美さんとして、アキトさんと最も仲良くしている。珠美さんは珠季さんからアキトさんの話を聞いて会いに来たということだから、理屈としては合う。

 アキトさんも表面上は子供に懐かれてまんざらでもないといった様子をしている。ウージュの町でもそうだったように、アキトさんはその率直さから子供に好かれることが多いので、それも当然のように見える。

 今も珠季さんは努めて子供っぽい笑顔を浮かべながら、今日あたりは少し無理をして遠くへ行ってみるのかなどといった話をしている。話をしながら、二人それぞれに周囲への目配りもしている。それは冒険者になって日の浅い珠美さんにしてみれば不自然なくらいだが、珠季さんであればごく普通のことだ。

 そうして視線がそれた瞬間に、表情がかすかに曇るのが見えたりする。

 珠季さんはアキトさんと出会いなおしたいと言っていた。そうすることでアキトさんに依存しない自分になりたくて、そのために珠美さんという別人としてアキトさんに会いに来た。それはパーティを抜けた寂しさとは別の、もっと根源的なことだと、蒼玉は感じた。それはおそらく、蒼玉自身もアキトさんと出会ったことで自分を変えたいと思ったからだろう。だから珠季さんのその顔に、切なさを覚えてしまう。

 二人がもどかしそうにしているこのままでいいはずがない。しかしそこにあるのが互いの深い信頼であるために、下手に割って入って壊してしまうことが怖い。何もできない自分が情けなくて、両手で杖を強く握りしめてしまう。

「辛いよね」

 自分が声をかけられたことに気づかなくて、返事が遅れた。

 注がれる視線を感じてそちらに振り向くと、いつの間にかメグさんが蒼玉の隣まで来ていた。

「嘘をついた珠季さんがいけないと言えばそうなのですが、こんなことにならなくてもよかったのではないかと思ったりもします」

 蒼玉は当の二人を目で指すように再びそちらに目を向けたが、メグさんの視線は蒼玉へと向いたままだった。

「私はアキトが珠季の嘘に気づいてるなんて思わなかったから、あの二人が辛いとかはあんまり想像できない」

 二人のことを辛いと言ったはずのメグさんが二人のことはわからないと直後に言を翻したことが理解できなくて、蒼玉は問いただすような不躾な目を向けてしまった。

「蒼玉にはわかっちゃったんだよね。で、どうにもできないことまでわかっちゃった。それって辛いんだろうなって思って」

「私が、ですか…?」

 視線の焦点が外れて、見ていても見えていないような感覚に陥る。自分の意識が見ようとしているのは、自分自身なのかもしれない。

 メグさんの肯定の声に意識が外へと引き戻された。

「私はね、これは珠季が悪いと思う。だって出会ったことをなかったことになんて、できないことをしようとしてるんだから。それを蒼玉が気を揉むのは、ただのくたびれもうけよ。それでも止められないのが蒼玉らしいんだけど」

 無意識のうちに変な表情をしてしまっていたのか、最後にメグさんは小さく笑った。

 メグさんの言うとおりに思い切ることはできないが、それでも杖を握って強張っていた手がわずかに緩んだのがわかった。

 それをどのように伝えればいいのかわからなくてひとつうなづくしかできなかったが、それでメグさんはわかってくれたようで、それ以上何も言うことなく視線を前に戻してしばらく隣を歩いていてくれた。

 見渡す限り木立とはいえ、目に映る景色はまったく同じではない。場所の高低、木々の疎密、もちろんその時の日の高さによっても見え方が変わってくる。だからなるべく違う場所を見ているつもりでも、もしかすると時間が違っているだけで同じ場所を見ているのかもしれない。

 しかし、今この場所で、蒼玉は何か今までにない違和感を覚えた。右手の高所から、緑の葉に彩られた日の光以外の何かが差しかけられているような気がする。

 それが何か、そちらに目を向けても、真向かいから日の光が目を刺して何もかもが影のようにしか見えない。額に手をかざしてみても、向こうの方が高いためにほとんど光を遮ることはできない。しかし、気になる。

「どうしたの? 蒼玉さん」

 蒼玉が何かを気にしていることに最初に気づいて声をかけてきたのは、珠季さんだった。蒼玉は珠美さんである珠季さんのことを少し避けているという自覚があるのだが、珠季さんの方にはそんなわだかまりはないらしい。そういう分け隔てのないところは元からそうなのだが、今は珠美さんという配慮の足りない小さな子供というものを見せているのかもしれない。

「あそこ、何か動きました」

 蒼玉が一瞬珠季さんに気を取られた間に、珠季さんの方が何かを見つけた。

「一本、木が倒れていく…? 違います、木を引きずっているみたいです」

 珠季さんが指を差した先では、蒼玉たちが歩いて行こうとしていた方向へと枯木が少し傾いたように見えた。正確に言えば、その下にいる何か大きなものが、枯木を動かしているようだ。影しか見えなかったために、蒼玉はそこにあるものを岩か何かだと思って見過ごしていた。

「行ってみる?」

 急に張りつめたような固い声で、ユリさんが誰にともなく問いかけた。

 ここからでは何か大きなものがいるということしかわからない。ひとつ言えることがあるとすれば、それはホブゴブリンよりもずっと大きい。もっと危険な何かかもしれない。

「ならば回りこみながら近づくか。ここからじゃ、まぶしくて不利だ」

 アキトさんの決断で、全員が息を抑えながら斜めに高所へと上がっていく。それは向こうからはよく見えているようで、そして向こうもこちらを警戒しているようで、それほど動きはしないが、目を離すことなくずっとこちらを向いている様子に見える。

 光の差し具合が変わり、徐々に距離も縮まってきて、ようやくそこにいるものが見えてくる。ゴブリンなのかと、蒼玉も同じく思った疑問を誰かが漏らした。

 それは体色や顔つきなどを見ればゴブリンと言えないこともない。しかし枯木一本を平然と抱えて歩く姿といい、ホブゴブリンと比べてさえ巨体であり、そしてその巨体と比べてもさらに腕周りだけが異常に発達している。

 こちらがさらに近づいてくるのを見て、その巨体のゴブリンは枯木で一度地面を突いた。さすがに振動はかすかにしか伝わってこないが、驚くには十分なほどの轟音と土煙を上げた。

 驚いたのはそれだけではない。それに誘われたように左前方からもう一体、同じように巨体のゴブリンが同じように木を抱えて現れ、同じように地面に打ちつけた。

「やる気、か…」

 遥さんが剣を鞘から抜くのが合図になったように、全員が武器を構える。巨体の二体の方も、相応じるように交互に音を立てて地面を突き続ける。距離はまだ、魔法が届くかといった程度だ。

「いつもどおり俺たちとユリたちで二手、それでいいな」

 ロンさんがじりじりと這わせるように足を動かして、新手の方へと向き直る。いつもどおり、アキトさんの剣、ロンさんの槍、レイナさんの魔法で三方から攻め立てて、蒼玉が大きめの魔法で援護をする。蒼玉も意識を新手の方に集中した瞬間、珠季さんの声が全員の前方への集中を引き戻した。

「変です。向こうからはほとんど近づいてきません」

 急にかけられた声に後ろを振り向いてしまい、前方への意識がおろそかになってしまったことに気づいてもう一度視線を戻す。

 変わらず地面を突く音は鳴り続けている。しかし確かに珠季さんの言うとおり、それは近づいてこない。

 ホブゴブリンであれば、悠然と近づいてくるところだ。しかしこの二体は、特に最初からいた一体は、向こうが先にこちらを見つけたのにもかかわらず、その後になってこちらから近づいていっても、向こうから近づいてくる様子はない。

「こちらから近づかなければ何もしないと言っている、のでしょうか……」

 怪物にそんなことなどあり得ないという常識的な考えと、目の前で起こっている事実だけからならばそう解釈できるかもしれないという思いが、同時にわき上がる。おそらくみんなもそうなのだろう。呟かれた声にはそのどちらもがあった。

 そうして蒼玉たちが戸惑っている間も、向こうからは音しか来ない。不意を突いてくることは、なさそうだ。

「戦意がないのをわざわざこちらから刺激しなくてもいいのではないでしょうか」

 こんな時なのに蒼玉には、側にいる珠季さんの表情からも声音からも子供っぽい無遠慮さが失われていることが気にかかってしまう。

「でもさ、こっちから踏みこまなかったとしても向こうからは出てきて何かやらかすかもしれないぞ」

「それに、昨日お前が言っていた他とは違うってのにばっちり当てはまっているだろう」

 相変わらず地面を打ちつける音が等間隔で鳴り響くためにこちらの会話はその間隙を見計らわなければならず、思うようにならない。

 珠季さんは何か言いたげな顔をしたが、言われたことももっともと納得したのか、珠美さんの時は見せないような緊張した顔になって向こうを見据えた。

「そうですね。村から半日のところにあれほどの怪物がいるのを、放っておくわけにもいかないでしょう」

 その一言で、ほぼ決まった。アキトさんたちとユリさんたちの二手ということも、暗黙のうちに含まれている。

 しかしひとつだけ、暗黙ではできないことがあった。

「珠美ちゃんはどうする?」

 ユリさんの問いかけに、みんなの注目がもう一度珠季さんに集まる。

「ホブゴブリンでさえ手に負えなかったし、あれじゃ多分わたしには無理なので、邪魔にならないように下がってます。何かありそうな時だけ、わたしの判断でかき回すくらいには出ます」

 珠美さんの名で呼ばれて、珠季さんはそれらしい表情をつくり直して答えた。それらしいというのはらしいといった程度でしかなく、言っている内容は珠季さんのままだった。

 蒼玉たちとユリさんたちがそれぞれいまだに地面を打つ以外の動きを見せない怪物へと向かっていく。それを一人、珠季さんが後ろから見ている。

 こちらが武器を構えたところで向こうも警告は諦めたのか、地面に立てた木を抱えなおした。自分の背丈よりも大きな木をあれだけ地面に打ちつけていたのに、疲れた様子はまったく見えない。相当な体力のある怪物なのだろうと、蒼玉は恐れさえ感じた。

 アキトさんとロンさんが二人並んで先頭を切って走りこむ。巨体のゴブリンは抱えていた木を大きく横薙ぎに一振りした。

 それは追い払うつもりなのか、駆けこんでくる二人を打つのには早すぎる振りだった。そのはずだったのに、蒼玉の目の前で二人が何かに打たれたように走りを止めてしまう。それだけではなく、二人の斜め後ろのレイナさんまでが突風に襲われたかのように吹き飛ばされる。どうして、と思う間もなく、蒼玉自身も何かわからないものに打ち倒されていた。

「アキトさん!」

「わかってる!」

 後方からの鋭い声に、振り返ることなく荒く答えたアキトさんが正面に猛然と駆け出す。剣を鞘に収め、両手で盾を構えて、もう一度振り抜こうとしたところを手元で受け止める。蒼玉が立ち上がった時には、左の脇腹を狙ったロンさんの槍が無理やり引いた木の幹に受け止められていた。

 あの武器にしている木を燃やしてしまえば、やっとそう気づいた蒼玉が詠唱を始めようとした瞬間、突然レイナさんとは違う声の詠唱で回復魔法が送られてきた。つい詠唱を止めて魔法の主を見ると、それは拳闘士の服を身につけたまま両腕に細い銀の腕輪をはめた、珠季さんだった。

「あのゴブリン、多分気を操ることができます。なるべく正面に立たないように気をつけてください」

 アキトさんたちが使う離れた敵を打つ技を、あの巨体のゴブリンも使えるらしい。何の魔法かと蒼玉は思ってしまったが、珠季さんは魔法ではなく気だと見抜いたようだ。その珠季さんは、それだけ言い捨ててもういなくなっている。

 とにかく、自由にさせてはいけない。レイナさんもそう判断したのか、アキトさんやロンさんの攻撃の合間を狙って小さな魔法を放ち続けている。しかし体が大きく体力もありそうな怪物は、一向にこたえた様子を見せない。ユリさんの教えてくれたところによれば、気を操ることで身体能力を瞬間的、局所的に高めることができるという。そのせいもあるのかもしれない。

 まずはあの振り回している木を手放させなければ、こちらは近づくことができない。やはり自分の魔法で燃やすしかないと決断した蒼玉は、牽制をやめて横に回りつつ近づこうと足音を潜めて立ち位置を探った。

 そんな蒼玉をよそに、アキトさんたちは激しく動き回っている。一瞬だけ目が合ったアキトさんがこちらに駆けつけそうにしたが、首を横に振ってそれを止めた。それで蒼玉の意図が伝わったのか、アキトさんは正面から剣を振りかざして突進していく。

 しかし体の大きさからして違いすぎる。正面から打ち合って、アキトさんはほとんど一方的に跳ね飛ばされた。

 思わずアキトさんに駆け寄りそうになる。しかしアキトさんは飛ばされながらも怪物に目を向け続けていた。まるでそちらを見てみろと言っているかのように。

 怪物の攻撃はほとんど横薙ぎだ。そして今、振り抜いた反対側からレイナさんが魔法を放つ。怪物は力任せに逆方向へと木を振り抜いたが、間に合わずに腹のあたりに魔法を受けた。しかし、それくらいのことでは怪物は止まらない。さらにその脇を狙ったロンさんの槍を、木を振り抜いた勢いのまま自ら転がることで避けてしまった。巨体が地面を転がる振動で一瞬出遅れたところに、全員が怪物の正面という位置に戻られてしまう。

 また、横薙ぎで衝撃を飛ばしてくる。それぞれが飛びのく瞬間、アキトさんの口が、頼むと動いた。

 アキトさんは身を挺して怪物が木を振り抜いた時の隙を作ろうとしている。あの怪物の攻撃を正面から受けるようなことなど、いくらアキトさんでも何度も耐えられるものではない。今度は確実に、一発で決めなければならない。

 蒼玉はアキトさんを斜め前に見ながら、疎らな木々に隠れるようにして移動する。祈るように、かつアキトさんが作る隙を逃さないように、杖は両手で胸の前に持つ。

 やがてロンさんを中心にアキトさんとレイナさんが左右から攻め立てる形になる。押されたロンさんが下がり、怪物を追うようにアキトさんたちが前に出ていく。そうこうしているうちに、怪物の一振りで三人が薙ぎ払われかねないくらいに戦いが狭まっていく。蒼玉は斜め後ろから息を詰めてそっと近づいていった。

 合図も何もなかったが、アキトさんと怪物だけを見ていた蒼玉にはそれがわかった。大上段から振り下ろした渾身の剣の一撃は、やはり渾身の横薙ぎに弾かれ、勢いのまま木にまだわずかに残っている葉が蒼玉の方へと向いた。

「ファイアーウォール!」

 できるだけ接近して浴びせるべく駆け寄りながら、蒼玉は火柱の魔法を放った。木は完全には枯れてはいなかったが、拡散する前の炎に飲まれ、怪物は慌てて燃え上がった木を手放した。しかし炎は怪物にまで襲いかかり、腕を焼かれた怪物はのたうち回ってようやく自分についた火を消し止めた。あまりの暴れぶりに近づくことはできなかったが、これで戦況は一気に変わった。

 武器を失うだけでなく腕までも負傷した怪物は、気を操ることさえままならないのか、さっきまでの手の付けられないほどの力強さはまったくといっていいほどなく、あっけないほど簡単に動かなくなってしまう。ユリさんたちの方はどうなったかと激しい音のする方に目を向けると、存在を忘れかけていた珠季さんが急いでいる様子で駆け寄ってきた。こちらは片がついたのを見て取って、蒼玉を連れていこうとする。

 もちろん、加勢するのに異存はない。走りながら炎の魔法で振り回している木を燃やせばいいのかと聞いてみると、水壁の魔法を頼まれた。

「ここからならば坂で勢いがつきます。それで押し流すのです」

「ふうん、いいじゃんそれ。だったらいつかのあれ、やってみようよ」

 聞きつけたレイナさんが賛同を示したのだが、何をやろうと考えているのかは蒼玉にはわからなかった。

 珠季さんにもわからなかったようだが、メグさんを呼んでくるように言われて、問答している余裕はないと判断したのか全速力で駆け出していった。珠季さんの全速力は本当に、そして相変わらず速い。飛び出すのが一瞬速かったということもあるが、自分たちも加勢すると駆けだしたアキトさんやロンさんはやはり追いつけない。

 メグさんが下がってきてレイナさんが言い出したのは、以前に木霊を捕えようとして使った泥沼に落としたところに凍らせるという作戦だった。水壁で怪物を転倒させたところを捕えられれば、抵抗どころか身動きさえ取れないだろう。

 魔法士三人で相談が決まったところで、レイナさんが珠季さんに合図を送る。珠季さんが怪物と戦っている五人に魔法を放つことを伝えて、そして蒼玉たちにもう少し近づくようにと手招きをした。

 蒼玉たちが距離を詰めたところで、三番手の魔法になるメグさんが、みんなに離れるようにひと声上げる。まとめて追い打ちと判断したのか、怪物は大きく枯木を振って衝撃を放つ。それは蒼玉たちまで巻きこむほどに広く飛ばされたものだった。

「シールド!」

 失敗か、と強く目をつむった瞬間、聞き慣れた高い声が前方で響き、一瞬遅れて後方から木がきしむような音が聞こえてきた。来ると思った衝撃は、来ない。

「今です!」

 開いた目に映ったのは、大きく横に跳躍する珠季さんと、その向こうにいる怪物だった。

 蒼玉が水壁の魔法を、レイナさんが泥沼の魔法を、メグさんが吹雪の魔法を放った。怪物は水壁に抗おうと枯木を杖のようにして踏ん張ったのだったが、泥沼に足を取られて背中から転倒し、そこを氷漬けにされて腕一本動かせなくされてしまう。珠季さんとレイナさんの作戦勝ちだった。

「おかげでうまくいきました。ありがとうございます」

 出番がなくなって後方に控えていた蒼玉を、同じように出る幕のなくなった珠季さんがねぎらってくれる。蒼玉にしてみれば地形まで読んだ珠季さんがいてこそのことであり、そう返そうと口を開きかけたが、うっかり珠季さんの名前を呼ぼうとしてしまって慌てて口をつぐんだ。

 まだ誰もその名前を口にしてはいない。それをこんなところで暴いてしまっていいはずがない。頭の中を目まぐるしくよぎるものに気づきもせず、珠季さんは返事をしない蒼玉を心配そうにのぞきこむ。そこに他意はないことはわかるが、だからこそ言い訳などできない。

「蒼玉さん、珠美ちゃんもありがとうね。おかげで助かったよ」

 その場に窮しかけていたところに、向こうからユリさんが声をかけてくれた。珠季さんが目で誘ってくれて、二人でみんなのところに合流する。付近に他の怪物が潜んでいる様子もなく、日が中天を過ぎていたこともあって、今日のところはこれで村に引き上げることになった。

 帰路でも怪物に遭うことはなく、久しぶりの激戦の直後ということもあって、みんな口数が多かった。話題はやはり、これでホブゴブリン退治の依頼も終わり、そうしたら次はどこへ行こうかということが中心になる。しかし蒼玉は、さっきの怪物を倒したこととこの依頼の終わりとを直接結びつけることに違和感を持った。戦いの前に珠季さんが言っていたこと、向こうからは手を出してこなかったことに、引っかかりを覚えていた。

 みんなの前で声高にそれを言うのははばかられて、気にするような視線を向けてきたアキトさんにだけ思ったことを話した。途中で一切口を挟むことなく蒼玉の意見を聞いたアキトさんは、即座に納得してくれた。そのことに蒼玉は気が軽くなる思いがしたが、アキトさんが納得したのはそれは珠季さんが言っていたことからきているのかもしれないと思うと、一度気分が上がりかけた分落ちこんでしまう。

「まだ終わりじゃないかもしれない。でも終わりかもしれなくて、そうだったらここに残っていても報酬なしで居続けることになってしまう。様子を見るにしても、一日二日が限度だろう。そう、依頼主に話をするのがいいと思う」

 アキトさんが言うことは、冒険者の懐事情からして当然のことだった。むしろ事の終わりを見届け、同時に蒼玉の気持ちにも配慮してくれる、責任感のあるアキトさんらしい意見だった。そんなことだけで、蒼玉は気づかず冷えていた心がほんのり温まるような気がしてしまう。

 アキトさんは蒼玉以外にそれを話すことはしなかった。それは他のみんなが気分良くしているところに水を差さないようにしたのだろうが、そのみんなはもっと別の話をしていたのだった。

 その話の中心は、体が小さくて声も高い、ユリさんと珠季さんだった。どうして珠美さんは拳闘士をしているのかそろそろ教えてほしいと、ユリさんがねだっている。何日か前に同じ質問をして、その時は後で話すとはぐらかされていたらしい。

「ユリさんとの約束が、あったからです」

「珠美ちゃんとの、約束?」

 当のユリさんは言われたことがわからなくて思い切り顔をしかめたが、蒼玉は思い出した。それは珠季さんがパーティを抜けるときに、ユリさんと話していたことだ。

「どうしてユリさんにだけ補助魔法が効かないのか」

「わかったの?」

 ユリさんが立ち止まってひときわ大きな声とともに手を叩く。

 これは魔法士として確かに気になる。蒼玉も、それについてくるようにアキトさんも、聞き手の輪に加わった。

「拳闘士はとりわけ気の扱いに長けています。瞬間的に体に気を込めることによって身体能力を高める、そうですよね」

 珠季さんの問いかけにユリさんが代表してうなづいて答える。

「ところが、それが実は気ではなくて魔でやっている人がまれにいるのだそうです」

 それは魔法を詠唱して発現するのではなくて、むしろ気を操るように半ば意識することもなくそうしているらしいと、珠季さんは説明した。

「詠唱なしで、魔法を使うの?」

 メグさんが質問を挟む。それはもっともな疑問で、ありえないことのはずだ。

「詳しくはわかっていないそうですが、詠唱は魔力を自分の外に向かって発現するために必要なもので、自分の内に使うのならば必要とは限らないらしいのです」

 それを自ら試すために珠美さんは拳闘士というクラスを選んだとのことだった。ただし元々が魔法士である珠季さんは説のとおりに意識をせず魔法を操ることはできず、踏み出す足に力の補助魔法を意識するのがやっとだったらしい。口にこそ出さないが詠唱しているようなものだったから、本物の拳闘士のような攻撃の重さは出せなかったのだと苦笑いを浮かべた。

「それはともかく、魔である以上、補助魔法とは干渉してしまうのです。動作のひとつひとつで補助魔法を使いなおしているようなものですので、外からの補助魔法はそれで消されてしまうことになり、つまりは効かないということになるのだそうです」

 さらに珠季さんは、魔である不利として、気を放つような技ができないことを挙げた。魔を自分の外に発現するのはすなわち魔法なので、詠唱なしではできない。

「じゃあ、何か? ユリは拳闘士には向いてないってことなのか……?」

 珠季さんとユリさんを定まらない視線で交互に見ながら、葵さんが悲痛な声を上げる。

「むしろ魔法士の才能あり?」

 対するように軽く言ったメグさんを、葵さんはにらみつける。それをなだめたのは、当のユリさんだった。

「それってがっかりすることじゃないよ、アオちゃん。むしろ誰でもできることじゃないことができる選ばれた人じゃん」

 葵さんの表情はまだ厳しいままだが、ユリさんには無理して笑っている様子はない。いつもどおりの明るい声のまま、誰から教えてもらったのかを珠季さんに聞いた。

 一連の話の出どころはスキル養成所の研究者だと、珠季さんは答えた。魔で戦う拳闘士は元々少ない上に、ユリさんのように自分でもそれとわからない人がほとんどであるためにわかっていることが極端に少なく、まだ技として教え伝えるところには遠いらしい。しかしそれを聞いたユリさんは、ますます喜んだようだ。

「じゃあさ、私がつくっていけばいいじゃん。なんかこう……例えば蒼玉さんみたいな炎の魔法を拳に乗せて、相手を火傷させるとか」

 握り拳を作って葵さんの頬に当てる。急に魔と言われたところでユリさんは魔法を使えるわけではないので、ただ体温が伝わるだけでしかない。葵さんもちらりと嫌そうに目を向けただけだった。

「自分の内に炎を乗せたら自分が火傷すると思います」

 言ったそばから後悔する。今のは例えばの話であり、ここは想像を膨らませるところなのに、どうして自分はそれを察しもできずにつまらないことを言ってしまうのだろうか。

「それはそうだね。でも何か面白いことができるかもしれないから、みんなも何か思いついたら教えてね」

 そんな蒼玉さえも包みこんでしまうくらいに、ユリさんは前向きだ。珠季さんが詠唱なしで自分に回復魔法を使うことに挑戦してみたという話をとても興味深そうに聞いていて、珠季さんは魔法として使った方がよさそうだと言っていたが、自分ならばできるのではないかと考えているようだった。

 その魔闘士の話題が一段落したところで、珠季さんはいきなりみんなに向かって深く頭を下げた。

「今さらですが、ずっと皆さんを騙していてごめんなさい。ぼくは妹でも何でもなくて、珠季本人なのです」

 それこそ今さら、そのことに驚く人は誰もいなかった。驚くとすれば、突然珠季さんがそれを言い出したことにだろう。少なくとも、蒼玉にはそうだった。

 そのために何か不都合があったり不愉快な思いをしたことはまったくないとは言えないが、取り立てて責めなければならないほどのことではなくて、だから謝られても返事に困ってしまう。何のためにということをすでに聞いている女子組の視線は、自然とアキトさんへと向いた。つられるように男子組もアキトさんに注目してしまう。それは酷ではないかと思わないでもなかったが、蒼玉もアキトさんに頼ることしかできなかった。

 珠季さんはもちろん、いちばん謝りたいのはアキトさんにだろう。珠季さんの視線も、アキトさんに真っすぐ向けられている。

 アキトさんの口が何度か小さく開閉して、そして言いにくそうな声で答えた。

「俺も悪かった。お前が黒猫だってわかってた。わかってて言わなかったんだから、俺もお前を騙してたんだ」

「ぼくはそれに気づいていませんでした。でも……」

 次の言葉を口にしかけて、そこで珠季さんは蒼玉へと目を向けた。

 蒼玉がそれを教えたことを話していいのかと問うている。急に重い雰囲気になったことに押されてしまい、考えもせずにただうなづくしかできなかった。

「蒼玉さんが気づいて、それでも続けるのかと言ってくれたのです。それでもぼくはアキトさんを騙すことを選んでしまいました」

「いいんだ。俺も嘘までつかなかればならないほどのお前の気持ちをわかってやれなかったんだから、お互い様なんだ」

 口調こそ呟くように弱々しいが、視線は揺れることなく真っすぐに珠季さんに注がれている。そこにアキトさんの珠季さんへの思いの確かさがうかがえて、それが蒼玉には切ない。

「でも、結局嘘をついても何にも得られるものはなかったんです」

 そう蒼玉が珠季さんを非難していたことをそのまま口にされ、蒼玉は危うく声に出して驚きそうになってしまった。これは口にしていなかったはずなのに、珠季さんには伝わってしまっていたのだろうか。

 そんな蒼玉の内心を知らないアキトさんは、珠季さんに首を傾げて続きを促す。珠季さんは一度みんなを見回して、目を細めて小さく笑って見せた。

「そうじっと聞かれると恥ずかしいです。帰りも遅くなってしまいますし、戻りながら話していいですか?」

 それはあるいは、蒼玉が不躾な視線を送ってしまったからかもしれない。目を伏せたのをうなづいたのと見られたのか、続きは歩きながらとなった。

 一度間を置いたことで、二人以外は口を挟めないような緊迫した空気は和らいだ。遥さんが、一人になって寂しくなったのかと、珠季さんに聞いている。

「寂しかったと言えばそうです。ぼくは思っていた以上にアキトさんにべったり頼っていて、どうしてそうなってしまったのかとずっと考えて、それで出会った時が特別すぎだのだと思ってしまったのです」

 そうかもな、とロンさんがうなづく。二人の出会いを詳しくは知らない葵さんが聞きたそうな顔をしたが、それを制したのは同じくそれを知らない遥さんだった。

「それならば違う出会い方をしなおせばいいと思ってこんなことをしたのです。でも、そうではなかった」

 珠季さんが時々表情を曇らせていたのは、蒼玉が言ったことが珠季さんを追い詰めていたのではないか。そうだとすれば、謝らなければいけないのは蒼玉だ。

「誰かのせいにしてはいけなかったのです。自分が少し気持ちを切り替えれば、それだけでよかった」

 妹がそう教えてくれたと、珠季さんは珠美さんの顔をして笑った。

 それを見て蒼玉が真っ先に感じたのは、悔しさだった。

 例えばここのところ面白くなく思っていることを珠季さんのせいにしてしまうように、子供のような虚栄心で原因を他人になすりつけてしまう自分よりも、珠季さんはずっと大人だ。だからこそアキトさんは珠季さんを何よりも大切に思うのだ。自分がそこまで至らないことが、とても悔しい。

「そこで珠美ちゃんなんだ」

「はい。珠美として皆さんとお付き合いするのはとても楽しかったです」

「自分のことを姉とか言って馬鹿にするのもか?」

「それがいちばん面白かったかも」

 珠美さんはニッと歯をむき出しにして笑った。

「そうやって自分だけで閉じこもらないことが、あの姉には本当に必要なことだったんです」

 珠季さんがパーティを抜けた時、自分が珠季さんのようにならなければならないと思って意固地になった。それもそういうことではなかっただろうか。あの時蒼玉はアキトさんに救われたが、珠季さんは自分で克服した。やはり自分は珠季さんにはなれないと、改めて蒼玉は思う。

 珠季さんはまだ珠美さんを続けるつもりらしく、つけていた細い腕輪を腰の皮袋に戻した。あの透明な宝玉が木の葉を通して緑がかった光を受けてほんの一瞬だけ何とも表現しがたい穏やかな色を映し出したのを、蒼玉は目にした。それはきっと珠季さんの目には映っていなくて、その優越感が蒼玉にほんの少しだけ余裕を与えてくれたような気がした。

 珠美さんという存在を珠季さんがどう思っていたのか、みんなはどう見ていたのか、そんな話が続く。珠美さんをあまりよく思っていなかった蒼玉はそこには加われなくて、話の輪から外れた最後尾からその賑わいを見ていた。

 ほどなくして話の輪からこぼれたように蒼玉の隣に下がってきたのは、アキトさんだった。蒼玉の隣に来て、そして蒼玉へと目を向けてくる。

「どうして……」

 ようやく本当の意味で珠季さんに会えた今、いちばん近くにいたいのはアキトさんのはず。珠季さんもそうだろう。それなのにどうしてアキトさんは珠季さんを放っておいてわざわざ蒼玉のところに来たのだろうか。

「お前にも、謝らなければいけないと思ったから」

 言葉にならない疑問だったのに、アキトさんはそれを読み取っていた。

「俺たちのためにあいつのことを伏せておいてくれて、それで抱えこませてしまっていたんだと思う。そのせいで辛い思いをさせてしまったかもしれない。それを謝りたいんだ」

 アキトさんの言うとおりだった。言うべきだと思っても口にはできないことがあって、苦しい思いをしていた。しかしそれは、アキトさんと珠季さんの二人の方がずっと強く感じていたはずだ。

 それなのに、アキトさんは蒼玉のことを気遣ってくれる。そのことがたまらなくて、言葉にしたくても口が震えてしまい、しかし何も返さずにはいられなくて、蒼玉は二、三度うなづいて見せた。感謝を伝えたいのだが、余計なことを言って二人をさらに傷つけてしまいそうで、怖さに口の震えが止まらなかった。

「そうか…。本当に悪かった」

 うなづいたことは辛かったことを肯定したものと思われたらしく、アキトさんは表情を曇らせてしまう。

「そうではなくて」

 アキトさんにこれ以上苦しんでもらいたくなくて、そのために何かを言うことだけに必死になった。

「いちばん辛かったのはお二人のはずです。やっとちゃんと珠季さんと会うことができるのですから、今は」

 それなのに、余計なことを言ってしまった。せっかくアキトさんが蒼玉を気遣ってくれたのに、それを無下にするようなことを言ってしまった。

「いいんだ。あいつがここに来てくれた、結局のところそれだけで俺たちは十分なんだ。それよりも、そのことでお前が嫌な思いをする方が嫌なんだ」

 蒼玉を慰めるためにわざわざ言ったことではない。本心からそう思っているのだ。かすかに見せた苦い表情から、痛いほどに伝わってくる。珠季さんへの信頼と蒼玉への思いと、どちらも伝わってきたことが、蒼玉には痛かった。痛くて、そして熱かった。

 珠季さんを囲む輪から外れて最後尾にいた二人だったが、輪の中からアキトさんのところへと、珠季さんが文字通り押しやられてきた。珠季さんがアキトさんと話したがっていると気遣われたのだろう、前を歩くみんなはあからさまに後ろを無視している。

「ずっと不快な思いをさせてしまってごめんなさい。言わないでいてくれて、本当にありがとうございました」

 それなのに珠季さんまでもが私を気遣って謝ったりしてくれる。

「ぼくは自分のことばかりしか考えていなかったのだと、蒼玉さんのおかげで気づけたのです」

 それは蒼玉の方だった。アキトさんを騙すことが許せなくて、珠季さんがどんな思いでそこまでしようとしたのかを考えようとしなかった。珠季さんにはそれを謝らなければいけない。それなのに、アキトさんに余計に気を遣わせてしまったことを珠季さんにまでしてしまいそうで、怖い。

「私の方こそ、気に障るようなことをしてごめんなさい」

 だからこれだけしか言えなかった。思うこと、伝えなければならないことは他にもあるはずで、聞かなければならないこともあるはずだったが、今はそれがやっとだった。

「はい」

 蒼玉はそう重々しく思っていたはずだったが、しかし考えるでもなく即座に帰ってきた珠季さんの返事は軽かった。それがあまりにも意外で、蒼玉はつい珠季さんの目をのぞきこんでしまう。

「お互い謝ったからもうおしまい。これ以上はいくら言ってもきっと皆さんのそれぞれの中では納得はできないでしょうから」

 また珠美さんの顔をして、アキトさんと蒼玉のどちらにも笑いかけてくる。

 珠季さんはずるいところがある。珠美さんならば蒼玉が遠慮をするとわかっていて、わざわざ珠美さんをして見せているのに違いない。

「そうだな」

 見た目がどうあっても珠季さんは珠季さんに違いないと信じているアキトさんはそんなことには惑わされずに、ただ蒼玉に同意を求める。それに否とは言えなかった。

 気遣われて二人にされたアキトさんと珠季さんだったが、改めて何かを語り合うようなことはしていない。アキトさんの言ったとおりお互いがそこにいる、より正しくはお互いに思い合っているだけで十分なようだった。少し距離を置こうとした蒼玉だったが、主に珠美さんが話を持ちかけてくるためにそれもできず、ずっと三人で歩いていた。

 ふとメグさんの視線を感じたので後になって二人きりにさせられなかったことを謝ると、相手は子供なのだからこちらの思うとおりにはなかなかいかないものだと慰められた。そして蒼玉の肩にそっと手を置いて、蒼玉がいてくれたから悶着もなく収まるところに収まったのだと言ってくれた。内緒話をするようなささやきが、優しかった。


 今に始まったことではないどころか出会った時からそうなのだが、アキトは変わり者である。

 あれだけの大物を片づけたのだからこの依頼は終わりでいいだろうに、翌日一日は様子を見るのだと誰にも断りもなく言い出した。アキトが決めることには文句はないが、それにしても今日一日が無駄足になったらその分実入りは悪くなるのだから、もう少しは考えてほしい。

 実際、村の近辺に怪物は出没しそうにない。つまりは退屈なのだ。アキトと面と向かうと無駄に嫌味を言ってしまいそうで、レイナはもっぱらユリも引っ張りこんで珠美を相手にしている。ちょっといじめるには格好の相手だ。

「別人として会いたかったのなら、身内とか言わなくてもよかったんじゃないの?」

「顔は変えられませんからね。身内ならばそっくりということで大目に見てもらえるかと思ったんです」

 ちょっと舌を出してみたりと意識して子供っぽい顔をしているあたり、今この時は珠美で通す気らしい。

「だったら弟でいいでしょ。あ、兄でもいいのか」

「それだと…、ユリさんのことがあったから拳闘士ってのは決まってたんですよ。それで今までと全然別な変装をしようとなると…」

「それで女の子の格好にしたんだ」

「はい。せっかくなので可愛めのものを選んだんですよ」

 珠美が嬉しそうに両手を広げてくるりと回るのを見て、レイナとユリは顔を見合わせて呆れる。ユリは、冒険者になりたての頃も今もこんなにあちこちまくれるような格好はしたことがなくて、それが普通なのだと言う。しかし珠美は、可愛い方が好きだからとどこ吹く風だ。可愛いものが好きだというのは珠美の正体である珠季が明言しているのだからそう言うのはおかしくないと言えばおかしくないが、それにしてもだ。

「だからってねえ、自分に自信がないと恥ずかしくて着られないでしょ、そういうの」

「えへへー」

 締まりのない、照れなどまったく混じっていない笑みを浮かべる。

 自分で自信があると言っているようなものだと、ユリと二人でまた呆れる。

「自信はあったんですよ。子供ならば男の子も女の子も違いはそこまで大きくないからって」

 でも、とそこで珠美は怒って見せるように目を細めて口を尖らせた。

「脱がそうとするなんてひどすぎです。反則です」

「あんたが嘘をつくのが悪い。それ以上に男のくせに平気で女の子の部屋に入ろうとするのが悪い」

 そろそろ面白くなってきたと内心ほくそ笑んで、正論を冷たく答えてやる。

「でも、あの時は決めつけただけだったじゃないですか。それであの仕打ちはやっぱりひどいです」

「何かあってからじゃ遅い」

「それまでだって何もなかったじゃないですか」

 確かに珠季と一緒の部屋になったことも少なくない。実際に何もなかった。しかしそれは言っていいことではない。

「それまでって何? 珠美とは初対面だったはずだけど」

 しっかりしているとはいえまだ子供、ボロを隠しきれない。口ごもった珠美を、嫌味な目をしてたっぷりとにらみつけてやる。くしゃっと潰れたような顔にはどこか可愛げがある。追い詰められて意識して表情など作れない時にこの顔なのだから、自信があると言っていたことにはうなづかざるを得ない。

 まだ珠美の顔を見つめていたのは嫌味ではなかったのだが、珠美の方はそうは思えなかったようで助けを求めるように目を泳がせた。こんな時珠季が最初に探すのは当然、アキトだ。アキトも目ざといのか何なのか、その視線に気づく。

「あまりいじめたりするなよ」

 深刻でないことを雰囲気から察したようで、レイナにそれだけを言ってアキトはまた前に向いた。

 自分で今日のことを決めた手前、真面目に周囲の様子を見ているらしい。見通しが悪くなるほど木々は密生していないのだからレイナたちのようにおしゃべりしながらでもよさそうなものなのに、ご苦労なことだ。小さくついた息が、一帯の平穏を示すような緩い風に吹かれて消えた。

「確かにさ、あんた女の子って言っても違和感ない時もある」

「えへへー」

 珠美はここでもまた否定しないで締まりのない笑みを見せて、レイナもまた脱力させられた。

 そこへ突然、別の方角から鋭い視線を感じた。驚きに首だけで振り向くとそちらにはアキトがいて、感じたとおりの目をこちらに向けている。その視線の向いた先に何かを見つけたのかと今度は体ごと振り返ったが、そちらには相変わらずの比較的背の低い木々だけの景色しかない。どうしたのかとアキトに問うような視線を向けたのだが、その時にはもうアキトは鋭い目をしていなかった。何か気のせいだったのだろう。

「まあ、珠季ちゃんだもんね」

 ユリは最初から珠季のことをちゃん付けで呼んでいた。葵のことも同じように呼んでいるので気にしてはいなかったが、女の子を相手にするような感覚をユリは初対面から持っていたのかもしれない。

「姉のことはそうやって褒めないでくださいね。調子に乗ったらもっとひどくなるから」

「珠美ちゃんがそう言うならやめとくね」

 珠美が何を考えてそんなことを言ったのか、レイナは理解できなかったが、ユリは何かしら感じ取ったようだ。それならば多分、そうした方がいいのだろう。ただし珠季をいじめる時は別だと、レイナはこっそりと条件をつけることにした。

 今日はどちらか一方向にだけ進むのではなくて、村の周りを回るようにして見ていくことにしている。そんな歩き方はここへ来て初めてで、しかもずっと珠美で遊んでいたせいで、目に映る景色に見覚えがない。進む方向は遥とメグが見て決めているようだが、どうも珠美にはどのあたりにいるかわかっているらしい。

「珠美はさ、道に迷ったりとかしない?」

 そういうところはやはり珠季であって、レイナにはそれが小憎らしく思えて、だから意地悪を言ってやった。

「しますよ。それが怖いから、通るところはちゃんと見ておかないといけないんです」

「それってやっぱり、姉仕込み?」

 認めたくないように眉をひそめて、珠美は黙りこんだ。

「珠季のこと小馬鹿にする割には、けっこう言うこと聞いてるよね」

「だって……」

 それ以上言えばさっきと同じになることに気づいて、珠美は非難するような、それでいてすがるような目を向けて、口ごもった。その目にレイナは満足する。

 思いきり笑ってやると、珠美もそれ以上追及はしないとわかったのか、頬を膨らませた。子供らしく怒ったように見せたのだろうが、少々わざとらしすぎて、それが面白くてしばらく笑いが収まらなかった。

 結局その日はホブゴブリンを見かけることはなく、もう村の近くにはいないだろうということでこの依頼は終了となった。一体も退治していないのだが、依頼主の好意で宿代だけは出してもらえることとなったので、懐具合が寂しくなることは避けられた。アキトの人の良さに同情してくれたのかもしれないなどとおめでたいことを、にこにこしながら珠美は言っていた。


 この村には、外からの人の出入りがあまりない。そういう場所では人も物も限られてしまうことからすべてが単調になりがちで、それは特に食事に現れる。

 この辺りでは干し芋というものが食べられることを、珠季は知識として知っていた。しかし聞くと見るとでは大違いで、干すというからには乾燥肉のようなものと想像していたのだが、それほど干からびたものではなくて、柔らかく、そして乾燥させた分だけ甘みが強い。ただし柔らかいといってもある程度かまなければならず、それが口の中で米よりも強い粘り気を持つため、食べていると顎が疲れてくる。たくさんは食べられない。乾燥肉ほどではないが日持ちがするというので、季節を問わず食べられるのだという。

 つまり、甘くておいしいが飽きてきたという意見がちらほら出てきている。味にこだわりのない珠季は言われるまで気がつかなかったのだが、干し芋に使われる芋は、いつかイースタンベースの森繁屋さんでいただいた新作お菓子と同じものらしい。森繁屋さんがここまで来てくれればなどと、ユリさんがかなり無理なことを口にしていた。

 その味とも、いよいよお別れの時が来た。日持ちのする食べ物ならば持ち歩いてもいいだろうと、少し買っていこうかと思った珠季だったが、逆にお店の人にべたついて扱いが面倒だから冒険者が持ち歩くには適さないと諭されて思いとどまった。よそでは食べられない味であるので、少しもったいない気がする。

 ここに来た目的は、もう果たすことができた。あとはそこで珠季が得たもののためにしなければいけないことが、ウージュの町にひとつあるだけだ。だから村を出た時点でアキトさんたちとは別れるつもりだったが、アキトさんたちも次の依頼をウージュで探すということで、そこまで同行させてもらうことになった。

 街道を目指して南へと歩いていく。日の照る方へと近づくにつれて木々はより日の光を求めて高く伸び、色も濃くなっていき、かえって足元は陰って暗くなる。風もその分よどんだような感触がする。

 わざわざここまで来て、無理やりアキトさんたちに会う必要は、本当はなかった。しかしそれは、ここまで来てアキトさんたちに会ったからこそ得られた、大切なものだ。寄りかかるのではなくて、支え合う。それは離れていても同じことで、必要なのはそれだけだった。

 それだけあれば他に何も必要ない。だから改めて何かをしたり、話したりすることはなかった。その大切なものを得るきっかけになってくれた妹という嘘のまま、珠季は他愛もないおしゃべりなんかを楽しんでいた。みんなも、それを許してくれる。

 二日かけてウージュへ戻ってきた。ここは珠季がパーティを離れた後に木霊の襲撃を受けたのだという。被害の修復はまだ終わっていなくて、建物を建てている作業の音が方々から耳に入ってくる。その音の出どころのひとつが、珠季の目的地だ。

 町の南側の出入り口の近く、畑の広がる中にある家のそばに、アキトさんたちの行き先を教えてくれた子がいた。もう少し近づいてから声をかけようと思ったのだが、向こうもこちらを見つけて、手にしていた道具を放り出してすごい勢いで駆け寄ってきた。

「アキトお兄ちゃん!」

 珠季など目に入っていないかのように、真っすぐにアキトさんの腰に飛びついた。アキトさんも嬉しそうにその子、大樹くんの頭をなでながら声をかけている。それがとても優しくて、珠季の胸に温かいものが満ちる。

 みんな大樹くんとは仲がいいようで、お互いに近況報告で盛り上がり、それが一段落したところでようやく大樹くんは珠季に気づいたように目を向けてきた。誰かわからないように不審な目をして首を傾げたのだが、珠季が口を出す前に思い出してくれたようで、ひと声上げた。

「アキトお兄ちゃんを探してたお姉ちゃんだよね。ちゃんと会えたんだ」

 自分のことを喜ぶかのように、嬉しそうに笑ってくれる。

「うん。ありがとうね、おかげでちゃんと会えたよ」

 それがとても嬉しくて、意識せず子供のような、珠美をしているかのような満面の笑顔がこぼれた。

「だから、大樹くんにお礼を言いに来たの。それと、ひとつ謝りたいことがあって」

 大樹くんとは、アキトさんたちの行き先を教えてもらっただけでしかない。それだけの関係しかないのに謝られることに思い当たることがない大樹くんは、首を傾げる。

 珠季がしようとしていることは、大樹くんにとっては迷惑なだけかもしれない。

「わたし…、ぼくは本当は女の子じゃないのです」

 大樹くんはまだ首を傾げている。

「女の子だって嘘をついていました。ごめんなさい」

 嘘からは何も生み出せないとわかった。だからそこにたどり着くまでにお世話になった大樹くんとは、嘘のまま終わらせたくなかった。それは珠季の自分勝手でしかないのだが、しかしどうしても止められなかった。

 珠季の言っていることがわからなくて、大樹くんは困った様子だ。それは珠季にもわかりすぎるほどにわかるのだが、しかしそれでもどうすれば伝わるかは見当もつかない。

 困り果てた大樹くんは、珠季の斜め後ろに来ていたアキトさんを縋るように見上げた。アキトさんは一歩前に出て、大樹くんの前にかがむ。

「こいつ、珠季の言ってることは本当なんだ。こいつはお前に嘘をついた」

 大樹くんはもう一度珠季を見て、そうなのかと疑問をつぶやく。珠季はもう一度ごめんなさいとだけ謝った。

 それには返事をせず、大樹くんはアキトさんに向き直る。目の焦点が定まっていないのは、まだ理解が追いついていないからだろう。

「許してやってほしい」

 アキトさんの静かな頼みに、大樹くんは素直にうなづいた。

「いいよ。許してあげる」

 全部納得できたのではないだろうが、それでもアキトさんのことを信じてといった様子で、大樹くんはほんの少しだけ固い表情を緩めてくれた。

「ありがとうございます」

 珠季は大樹くんとアキトさんの二人に、頭を下げた。自分勝手に嘘を挽回しようとしたことを許してもらえたことが、とてもありがたかった。

 大樹くんと別れると、早速アキトさんがレイナさんたちに子供に好かれることをからかわれていた。そういうアキトさんだから出会えてよかったのだと、ひとり珠季が自分の内へと向こうとした瞬間、そのレイナさんの声が珠季を外へと呼び戻した。

「あんたさっきアキトに助けてもらったんだから、お礼に果物屋の絞った飲み物でもご馳走しなさいよ」

 レイナさんの要求は言いがかりのようなものだが、実際アキトさんには感謝しかない。

「そうですね。せっかくですからおいしいものでもいただきましょう」

 アキトさんが気に病まないようにと、珠季は自分から果物屋へと駆けだした。今日の果物は、梨に似た食感だが違う甘みを持つ、林檎というものだった。

 その日は大樹くんの家の近くの宿に入った。相当珍しいことらしいが、ちょうど米が入手できたようで、久しぶりのあっさりした味にみんな喜んでいた。

 珠美で通している間は女子部屋に入れてもらっていたが、珠季だと明かした今は、アキトさんと一緒にいられるという名目で男子部屋へと追い払われる。格好は珠美のままなので店主などからは不審な目を向けられることはあったが、正直なことを言うと、いつまた脱がすとか言い出されかねない雰囲気に閉じこめられるよりは安心できたりする。女の子の中に一人ということよりも、そちらの方がはるかに怖かったのだ。

 男子部屋は、珠季に気を遣っているのが透けて見えるほどに静まり返っている。

 何かを話さなければならないような気もする。しかしもう十分に満ち足りているとも思える。

 明日にはみんなとは別れだ。だから後悔のないようにしなければならないが、そのためにしなければいけないことは何なのだろう。珠季のその不安がみんなにも移ったようで、時折問いかけるような視線が誰の間ともなく行き交う。

「少し、外に出ないか」

 その一種不安な雰囲気を動かしてくれたのは、アキトさんだった。誘われた珠季は腰かけていたベッドから立つ。

「聞かれて困る話でもないが、二人で話がしたいんだ」

 ロンさんたちの無言の問いに、アキトさんはそう説明してくれた。止められることは、なかった。

 外と言っても部屋の外という意味だったらしく、連れていかれたのは誰もいなくなって灯りがほとんど消された食堂だった。わずかな灯りのそばを選んで、二人向かい合って席に着く。

 自分たち以外の物音が、背後から珠季の耳へと入る。おそらくアキトさんの目にも自分たち以外の何者かが映っていることだろう。しかしアキトさんは気にすることなく、静かに口を開いた。

「今だけ、黒猫って呼んでいいか」

 その一言、その声音には、たくさんの思いが込められている。それはすべて、アキトさんが珠季を大切に思ってくれてのものだ。

 それほどのものを惜しみなく与えてもらって気持ちの整理が間に合いそうになかったが、しかし返事を待たせてアキトさんに不安を抱かせるわけにはいかず、珠季は意識して柔らかく微笑んで見せた。アキトさんはそんな珠季の心情を全部わかっているかのように、安堵の息で答えてくれた。

「お前は、俺が俺のままでがんばればいいって言ってくれた。だから俺は、お前がいなくてもお前がいいって言ってくれた俺でいようとしている。これからもそうだ」

 確かに、珠季はそう言った。しかしそれは、言ったことやその言葉が大事なのではない。アキトさんがアキトさんでいてくれることだけが大事なのであって、そして確かにアキトさんは珠季の存在を支えてくれるアキトさんであり続け、さらにその広さ、深みも増している。

「お前もそうだ。甘えているとか考えなくていい。がんばっているお前ならばそれでいいんだ」

 感情が、追いつかない。

 灯りのほとんどない食堂は、目の前の人の表情さえ読み取りにくいほど暗い。珠季の目からこぼれ落ちたものは、アキトさんには見えてしまっているだろうか。

「黒猫……」

 きっと見えている。目をそらさず、それでいて問わないでいてくれている。

 甘えなのだろうが、それは意識にまでは上らず、そのままでいさせてもらう。

 自分がしっかりすればいい、それはそのとおりなのだが、そう言ってくれる声、その気持ち、それがほしくてここまで来たのだと、今ようやくわかった。


 珠美をしている間、一日も欠かさずにしていることがある。

 朝、濡らした布切れでしばらく髪を押さえることだ。早起きには慣れている珠季にはそれほど苦にはならない。

「それ、まだやるんだ」

 ついでに水筒に水を入れていると、メグさんがやはり水筒を手に井戸へと来た。他の人に話していないこともないだろうが、直接これを見ているのは今のところメグさん一人だけだ。

「まあ、一応…、珠美をしている間は」

「わざわざそこまでやるなんて、念が入ってるよね。そのおかげで珠季だって気づくのが一瞬遅れた」

 珠季の髪質には特徴があって、風に任せたまま放っておくとふわふわを通り越してぐしゃぐしゃになってしまう。

「すぐに珠季だってわからないようにということもありますが、せっかくこの格好なのですっきり可愛い方がいいと思ってがんばってみたんですよ」

「そんな理由だったの?」

 メグさんは呆れながらも、布切れから顔に垂れた水滴を指の背で拭ってくれる。

「大事なことでしょう。せっかく可愛い格好をするのですから」

 実際はそんな程度で一日押さえられることなどなくて、少し激しく動けばもうすっきりなどとは言い難くなってしまっていたが、それでも少しはこだわっていたかった。

「ふんわりな頭も可愛くできると思うけど」

「その辺は好みでしょうか。メグさんみたいな小顔に憧れがあるのですよ」

 生意気なことを言うと、水滴をぬぐっていた指で、メグさんは珠季の額を突っついた。

 誰かの足音が近づいて来たので、今さら隠すことでもないかもしれないが、二人で井戸を離れて建物の脇へと移った。

 まだ布切れをかぶったままの珠季に、メグさんはこれからどうするのかを聞いてきた。特に何かをやろうという気は、今のところない。まずはセントラルグランに戻っていつもの装備に戻すと言ったら、メグさんは意外という表情を浮かべた。

「今日もまだそんなことをするくらいだから、気に入ってるのかと思った」

「思った以上に気に入りましたよ。この格好も、珠美も」

 珠美など、ただの嘘だった。ユリさんに魔闘士のことを伝えるという必要はあったが、どうせ嘘をつくのならば可愛くやってみたいと思っただけだった。

 しかし可愛さは気分を上向かせてくれて、そして嘘の妹は珠季に自分の殻に閉じこもることの非を教えてくれた。

 珠美でいることは、もどかしさが多々あったが、楽しくもあった。しかし、珠季がしたいことは、珠美になることではない。

「だからいつかまた、今度は嘘ではなくて遊びで珠美をすることもあるかもしれませんが、今は戻るのです。ぼくはぼくでありたいから」

 すぐそこにある壁へと目だけを向けると、珠季がその先に何を見ているのかわかったようにメグさんは優しく目を細めた。

「そうね、嘘はよくなかった。遊びだったら笑って済ませられたんだろうけど、見ててけっこうやきもきさせられたこともあったしね」

 多分、珠美がぶつかったもどかしさのことだろう。外から見ても心配をかけてしまうものだったらしい。

 謝ろうとしたのだが、当のメグさんは珠季を通り越して向こう側に目を向けて、誰かを呼ぶように上げた手で手招きをしていた。

 朝の挨拶とともに現れたのは、蒼玉さんだった。

「どうしたのですか、お二人でこんな所で」

「噓つきの悪い子にお説教をしていたところ」

 自分には関係のなさそうな返事に、蒼玉さんは怪訝そうな顔をする。

「蒼玉もさ、ちゃんと言ってやった方がいいよ。ためにならないから」

 そんな表情など気にも留めずに一人で話を締めくくって、メグさんは二人を残してさっさと立ち去ってしまった。

 仕方なく珠季が、メグさんが直前に言っていたことを蒼玉さんに伝える。それでようやく蒼玉さんにもメグさんの思惑が伝わったようで、何かに気がついたような顔を一瞬だけ見せた。

「メグさんが言っていたのは多分、私を気にしてのことだと思います」

 今度は珠季の方が言われたことがわからなくて眉をひそめてしまう。

 しかし蒼玉さんはそんな珠季を置いていくことなく、蒼玉さんにも言うに言えない気持ちがあって、それを見て取ったメグさんが蒼玉さんに声をかけてくれたことがあったと話してくれた。ただ嘘をついていたことが不快だっただけではなかったのだった。

「ごめんなさい、あの時簡単に謝っただけで勝手に終わりにしてしまって。ぼくの嘘のせいでそんなことまで思わせてしまって」

 そんなことさえわかっていなかったのに、何もかもわかっているつもりで得意になっていた。嘘というものがそれほど恐ろしいものだと、わかっていなかった。深く頭を下げるしか、珠季にはできなかった。

 そんな珠季を無視するように、蒼玉さんは珠季のことを目にも入れずにその場にかがんだ。

「もう、いいのです」

 その姿勢のまま蒼玉さんは下から珠季を見上げて、手を差し出した。頭を下げた時に滑り落ちた布切れを拾ってくれたのだった。

「あの、重ね重ねごめんなさい」

 焦った珠季は布切れを受け取って、意味もなく一歩飛びのいた。

「私たちは間違ったことをすることもあります。しかし私たちにはそれを見ていて、助けてくれる人がいます。だから、アキトさんの言い方を借りれば、大丈夫なのです」

 布切れがずり落ちた時に変な癖がついてしまった髪のひと房を、蒼玉さんが撫でて戻してくれた。それがとても気持ちがよくて、珠季はお礼も返事さえもせずにしばらく茫然としていたのだった。

「珠季さんは撫でられるのが好きだと聞いてはいたのですが、そんな顔をするのは知りませんでした。もっとやればよかったです」

 あくまで穏やかに恥ずかしいことを言われて、珠季はそのままの締まりのない顔で笑ってごまかすしかなかった。

 朝食をとって、みんなでギルドへと向かった。珠季はセントラルグランへ行けるようなものを、みんなはここでできる依頼を探す。

 珠季に都合のよさそうな依頼は、ちょうど出ていた。ただし一人では不足なので、一緒してくれそうな他の冒険者を待つことになる。アキトさんたちが一緒に行ってくれるとは言ってくれたが、全員では逆に人数が多すぎることになるので遠慮させてもらった。

 アキトさんたちの方は、めぼしい依頼を見つけられずにいる。この町はまだ被害の修復で手いっぱいで、冒険者向けの依頼は多くはないようだ。

「大勢でやるような依頼は、なかなかないか」

 張り出されている依頼を全部確認して戻ってきた葵さんが、落胆したようにつぶやく。

「大きな町じゃないから、そういうのはなかなかないんだろう」

 遥さんの言うとおりだろう。村からウージュまで戻ってくる間に通った町でもギルドに立ち寄ってみたのだが、目を引くほどのものは見当たらなかったのだった。

 これからどうしようかと相談になるが、冒険者は依頼を受けなければ何も始まらない。選り好みせずに何かを受けるか他の町を目指すかくらいしか、選択肢はない。

「二手に、別れないか」

 アキトさんが言い出したことは、脇で聞いていた珠季にも意外だった。

「大人数でいて身動きが取れないくらいならば、元のふたつのパーティに戻ってそれぞれでやってみるしかないだろう」

 言われてみればそのとおりだ。このパーティは、まだ地理に不案内だったアキトさんたちをユリさんたちが面倒を見てくれて、仲良くなったことで合流してできたものだった。必要に応じてふたつのパーティとして行動したこともある。その形にしようというのが、アキトさんの意見だ。

 ただし今までと違うのは、まったくの別行動になるということだ。嫌な言い方をすれば、分裂に近い。全員が望まない顔をした。

「もしさ、レイナたちと私たちとが別々の町に行くようなことになったら、もうほとんど会えないじゃん。それは、嫌だよ……」

 全員が思っているだろうことを言葉にして表したのは、ユリさんだった。それは言い出したアキトさんも同じで、だからそれ以上言い募ることはできない。

「それで皆さんが納得できるかどうかはわかりませんが、時々連絡を取り合うくらいならば、方法があります」

 勝手にパーティを抜けた珠季が言える立場ではないかもしれないが、割りこませてもらう。時々くらいではという呟きもあったが、アキトさんが続きを促してくれたので、珠季は思いついたことをしゃべらせてもらった。

 それはギルドの掲示板に伝言を張り出してもらうことである。依頼に関する用事でギルドが冒険者に接触したい時、定住をしない冒険者には手紙の届けようがないので、やむなくこういう方法が用いられる。

 ギルドに場所を貸してもらえるように頼まなければならないが、これと同じことをすればいいだろう。それをこの町でできれば、アキトさんたちにはここに来る用事ができ、アキトさんに会いたがっている大樹くんに会う機会もできるだろう。

 大樹くんの名前を聞いて、アキトさんが揺さぶられたような反応を示した。しかし、自分が言っては押しつけになると思ったのだろう、みんなに意見を求めるようなことはしなかった。

「それって、お金かかるの?」

「え……、これならどうかなと想像してみただけですので、そもそも実際やらせてもらえるかもわかりません。いい加減なことを言ってごめんなさい」

 珠季の謝罪に、レイナさんは非難ではないから謝られても困るとなだめてくれた。

「それしかないんじゃないかなって思ってさ。やってみてそれでうまくいかなかった時でも、連絡を取って元に戻せばいいでしょ」

 諦めたように消極的ではあったが、反対意見は挙がらなかった。

「じゃあ、あんたが言い出したんだからあんたが話つけてきてよね」

 押しつけるような言い方ではあったが、ギルドというものに縁がある珠季が、この話には適任だ。珠季のことになると放ってはおけないアキトさんと、別れることになるもうひとつのパーティの代表としてユリさんが、ついてきてくれた。

 邪魔や迷惑になることはないと判断してくれたようで、ごくあっさりと掲示板を使わせてもらえることになった。条件はふたつだけで、あまり長期間張り出されたままにされた場合は処分することと、この方法が有用だとわかれば他のギルドにも広めること、この判断をギルドに委ねてもらうということだけだった。こちらの損になることではないので、一も二もなく了承する。

 あとはお互いに連絡ができるようにうまくやるとユリさんは言っていたが、この町まで移動するための時間や旅費を考えれば、そう簡単なことではないかもしれない。それでも、どうにかなるというよりもどうにかすると思っているようだった。

 意外なことはさらに続いて、別行動が決まった途端にアキトさんが珠季が受けようとしている依頼に加わると言い出した。珠季も加えて五人ならば、ちょうどいい。

「ずるい、最初からそれ狙ってたんでしょ」

 ユリさんが抗議しても、アキトさんはまともに取り合わなかった。ユリさんも本気ではなかったようで、すぐに仕方がないといったすくめた笑顔を見せた。


 どうしてこんなことを言い出したのか、自分でもよくわからない。

 パーティをふたつに分けるのは、仕方がないことだと思い切ったつもりだった。

 この町にも他の町にもそれほどよさそうな依頼は見当たらなかったので、それぞれに依頼を求めて別の町へと別れることになるだろう。そして一度別行動になれば、再会は難しい。経験上それはわかっていたが、諦めるしかないと思った。

 しかし黒猫が、連絡をつける手段を考えてくれた。また会えると思えれば、これで終わりではないと思えるのならば、それで十分ではないかとアキトは救われた思いがした。それは、黒猫が教えてくれたことだ。

 一日でも長く黒猫と一緒にいたいと思っていたつもりはなかった。今日ここで別れて、それでも黒猫のことは変わらず大切でいるはずだった。

 しかし別行動が決まって、これからどうしようと目先のことを思った時、真っ先にアキトの目に映ったのが黒猫だった。黒猫が受けようとしている依頼は、実入りという点ではそれほどいいものではないが、このまま何もしないで宿代だけを浪費するよりはずっといい。それだけのつもりだった。

 しかし結果を見れば、黒猫と一緒にいたがってそうしたのだと誰もが思うだろう。当の黒猫もそう思っているようで、気遣ってもらえたことに礼を言われてしまった。

 運んでいる荷は水気のあまりない日持ちのする果物だという。これをセントラルグランで売って、帰りには主に鉄を買って帰るのだそうだ。建物や道具などにまだたくさん必要なのだと聞くと、あの町の襲撃のことを思い出して今でも苦い思いがする。そしてもうそんなことは目にしたくないと思うと、周囲を警戒する目が鋭くなる。

 せっかく蒼玉たちが気を利かせて黒猫を側に置いてくれているのに、ほとんど話などしていない。しかしアキトはそれでもよかったし、黒猫も満足そうだった。たまたま向いた方向が互い違いになってしまって目が合った時、黒猫はアキトのことを見守るように少し目を細めてくれた。それは飾り気のない、黒猫だった。

「川が見えてきました。これで一安心ですね」

 その黒猫がいきなり、右前方に日の光にきらめくものを見つけて、依頼主と話をしているレイナを追い越して駆けだした。向こうを指差しながらえくぼを見せて笑っているあたり、珠美に切り替えたのかもしれない。

 この辺りまで来れば、もう木霊はいない。視界のほどんどを占める木々に注意を払い続けなければならないのはとても疲れることだ。依頼主も含めて、みんなの表情に安堵が浮かぶ。朝から歩いてきた疲労もあるだろうに、明らかに足取りは軽くなった。

 さらにしばらく歩くと、川の向こう側で木材を切り出している人たちの姿が見えるようになった。この辺りに来るのは久しぶりだが、どうやら怪物に悩まされていることはないようだ。順調に、空の色が変わる前にイースタンベースに入る。

 町に入るあたりからそわそわしていたのだが、宿が決まって荷の心配から解放された瞬間、レイナと珠美は飛び跳ねるような勢いで森繁屋へと出かけていった。そのはしゃぎようを、ロンが呆れて見送っていた。

 何かお菓子くらい買って帰ってきてくれるだろうと思いながらしばらく待っていると、意外なことに二人は森繁屋の店主を連れて戻ってきた。ご無沙汰の挨拶から今やっている依頼の話をしているうちに、ウージュの果物に興味を持って見に来たのだという。商売のことは依頼主に任せて、アキトたちはお菓子をいただくことにする。

「森繁屋さんも珠季のことはすぐにわかったってさ」

 黒猫をからかうように、レイナはわざわざそんなことを報告してくれる。森繁屋さんとは、以前に一日だけお菓子配りの手伝いをした縁がある。

「レイナさんが一緒だったから、あの時一緒にいた子供だってわかったんです。そうかってやっと気づいたような顔、してました」

 悔しそうに珠美は頬を膨らませて見せる。アキトでさえ本当に妹なのかとほんの一瞬くらいは迷ったのだから、多分珠美の言う方が正確なのだろう。

 その真偽はともかく、おいしいお菓子の前では珠美の頬もいつまでも膨らんだままではいられなかった。幸せそうにお菓子をほおばる珠美は一見女の子しているように見えるかもしれないが、その実何も演じることのない黒猫そのままなのだった。だからなのか、蒼玉も一緒になっておいしいと笑い声を上げるなど、話しやすそうにしていた。

 商売の話は、今後セントラルグランへ出向くときに少しこちらにも分けてもらうようにすることで話が決まったらしい。帰りがけに森繁屋さんからお礼を言われ、レイナが厚かましく今度寄った時にはご馳走してくれるように頼んでいた。

「これでもっとおいしいお菓子が食べられそうですね」

「ウージュから果物が出る時を狙わないとだね」

 珠美とレイナがますますはしゃいだ声を上げる。ここに来るための時間や旅費を考えるとそう簡単にはいかないだろうとアキトは思ったが、そう言って水を差すことは怖くてできなかった。珠美がレイナあたりを巻きこんで迫ってくる様は、微笑ましいなどで済まされそうにはとても思えなかった。

「ユリさんたちに伝えること、早速できましたね」

 蒼玉が言いたいことがアキトには一瞬わからなかったが、手元を目で指してくれたことでわかった。ユリやメグも、森繁屋のお菓子は好物なのだ。教えれば喜ぶに違いない。ただし、実際に都合よくそれに合わせてここへと来れるかは別だ。蒼玉にはそのことを話すと、耳ざとく黒猫が聞きつけてこちらの話に割りこんできた。

「果物には時期があります。だからその時期に合わせてウージュにいれば、きっとわかります」

「それに合わせてユリさんたちと会うこともできるのですね」

「確かに。それは気づきませんでした」

 胸の前で手を合わせて、ほんの少し硬さの残った笑顔を見せる。この瞬間は、珠美をできていない。

 それはともかく、用事をつくって会うようにするのはいい方法だと、アキトは蒼玉の発想に感心した。そうやっていろいろ考えていけば、思っていたよりもうまくやっていけるのかもしれない。


 翌日も怪物に出会うことなく、川を流れる筏をのんびりと眺めながら、やはりまだ空の色が変わる前にセントラルグランに入ることができた。セントラルグランで売り買いがあるので、明日一日は依頼主とは別行動となる。黒猫だけは特別にここで依頼から抜けることになっていて、半分の報酬を受け取っていた。

 久しぶりのセントラルグランなので、装備品などを見たりスキルの習得をしたりとすることはあるのだが、みんなぞろぞろと黒猫について倉庫へと向かっていた。

 預けてあった猫耳フードなどに着替えて、黒猫はあっさりと元の黒猫に戻ってしまった。しばらくすっきりしていた腰の辺りがいくつもの革袋で膨れているのが、当の本人も少し慣れない様子だった。

「あのままでもよかったんじゃないか? 姉」

 ロンがからかうと、黒猫は眉をひそめて弱々しく笑った。

 ロンにしてはただの軽口かもしれないが、黒猫にはきつく聞こえたのではないだろうかと、アキトには気になった。何か言うべきかもしれないと、とっさに考える。

「そうかもしれませんが、できることはこっちの方がまだ多そうですし、やっぱりぼくはぼくがいいので」

 しかし黒猫の言葉に、胸が詰まった。

 黒猫が自分でそう言えるのならばそれでいいし、アキト自身も同じように在りたい。

「本当にあんた、自分のこと好きだよね」

 レイナまでがそう言って冷やかすが、黒猫は笑うばかりだ。それを横から見ているアキトにまで笑いかけてくれる。

 大丈夫だと言ってもらえたようで、やはり黒猫は黒猫なのだと心強く思った。

「やはり、あの村へ戻るのですか?」

 蒼玉の問いに、黒猫の笑みが苦笑のように歪んだ。

「どうでしょう…。いたりいなくなったりしてそろそろ愛想をつかされているかもしれません。そうしたら別の場所で何かできそうなことを探すことになるかもしれません」

 アキトに出会う前も別れた後も、黒猫は村の薬屋の手伝いのようなことをしていたはずだ。確かに普通に考えれば、当てにできない人などいない方がいいと思うかもしれない。しかしあの人たちと黒猫とは、ただ仕事とか依頼とかよりもつながりの強い関係であるように見える。見捨てられるようなことは、きっとないだろう。

 蒼玉はそうは思わなかったらしく、呼吸ひとつふたつくらい分だけアキトに目を合わせてから、しかしアキトには何も訴えかけることもせずに黒猫に目を戻して話しかけた。

「珠季さんに教えてもらったとおり、私たちはウージュのギルドの掲示板で連絡を取り合うことになると思います。それを追ってもらえれば、またいつでも会えるでしょう」

 戻ってくるように言うとすればそれはアキトの役目だと蒼玉が気を遣ってくれたことに、気づけなかった。

 しかし多分、黒猫はそれを言われることを望んではいない。だからだろう、黒猫は曖昧な返事をしただけだった。蒼玉もそれ以上強要するようなことは口にしなかった。会話が途切れたところで、邪魔にならないようにと倉庫を出た。

 倉庫の外も人通りが多くて、人通りを避けるにしても冒険者にはなじみの薄い中心街はあまり居心地がよくなくて、結局新市街にまで出た。重厚な鉄の門をくぐると途端に、雰囲気がまるで違ったものになる。どこに行っても町の喧騒が届いてきそうなものだが、それでも居づらさが感じられない分だけ立ち話であってもしやすい。適当に角を曲がって大通りから少し離れたところで、何となく足を止める。

「突然お邪魔して、ここまで付き合ってもらって、ごめんなさい」

 誰へともなく、黒猫が頭を下げた。口では詫びているが、それほど深刻ではないつもりだろう、頭の下げ方は軽い。

「謝るほどのことじゃない」

 ほんの少し間が開いて、それからぶっきらぼうにアキトが答えた。

 そんな態度にも気を悪くする様子も見せず、黒猫は控えめな笑顔を見せる。

「皆さんに会えて、よかったです」

 アキトの胸が、一度に詰まった。それは黒猫がパーティを抜ける時に、最後にアキトが黒猫にこぼした本心だった。黒猫が自分と同じことを思ってくれることが、アキトには感動だった。

「そうだね。けっこう運がよかったんじゃない? ねえアキト」

 それがわかるのは自分だけだと思ったアキトだったが、わざわざ自分に向けられた意味のありそうなレイナの視線にそうではないことを思い知らされる。

「そうだな、俺たちは運がよかった。だからきっと、大丈夫だ」

 みんなの視線が集中する中、黒猫が何の躊躇もなくはいという一言とともに大きくうなづいて答える。

「じゃあ、またな」

「はい。また、いつか」

 今日中にセントラルグランを出るつもりなのか、黒猫は真っすぐに大通りへと出ていき、その姿はすぐに雑踏の中に紛れてしまった。せっかく新市街まで足を運んだのだが、買い物などという気分にはなれずに、アキトたちも依頼主が手配してくれている宿へと戻ることにしてしまう。

「また、いつか……」

 蒼玉がつぶやいたのが、どうしてかはっきりと耳に届いた。気になってアキトが聞き返すと、蒼玉はいつものとおり真っすぐにアキトへと目を向ける。

「そう、アキトさんが珠季さんに伝えたことが……」

 言葉は迷うようだったが、それでも伝えたいことがあるのだと、ぶれない視線が言っていた。

 その時アキトは気づいていなかったが、黒猫がパーティを抜けた時、蒼玉はアキトのことを心配していた。そしてその時も今も、アキトのことを大切に思ってくれている。

 あの時のアキトは、黒猫がいなくなることをどこかで認めることができずにいた。いつかまた会うということは今は離ればなれになるということで、認めたくなくてそれを口にすることができなかった。今は少し違って、離れているとしても、過去に終わったことではなくてこれからもずっと大切であり続けると思える。蒼玉は、それを全部わかってくれているのだ。

 そのことがとても温かかったが、しかしそれを伝える方法はわからなくて、アキトもまた真っすぐに蒼玉を見つめるだけだった。

 会えてよかった。その思いがアキトの胸を温かく満たしていた。


 何十日かぶりの村は、日数分の季節の経過以外には何事もなかったのだろう。そろそろ作物の収穫も終わりそうなもの寂しさが、土の上に見受けられるくらいのものだ。

 村の様子をひととおり眺めて、顔を合わせた人には軽く挨拶をして、引き返して薬屋さんの裏手に回る。そこには珠季たちが山から採ってきた薬草などが植えられている。枯れ色になってしまっているものも少しあるが、おおむね順調なようだ。珠季はあまりその世話には加わっていないのだが、それでも久しぶりに顔を出す前に順調なことに安心しておきたかった。

「戻りました」

 挨拶に迷って、かえって短い言葉になってしまう。

 二人とも奥にいたようで、珠季の声を聞きつけて揃って出てきてくれた。忙しいところを邪魔してしまったかと早とちりして謝ってしまったが、そうではなかったらしく早速笑われてしまった。

「会えたんだな」

「はい」

 それきり会話は途絶えてしまい、珠季は二人にただ見つめられる。それは何かを探るというより、顔色から何かを察するようだった。

 そう珠季が気づいた時にはもう二人とも表情を緩めていて、その場ではそれ以上何か聞き出そうとすることはなかった。

「しばらくは、ここにいるのか」

「そうですね。置いてもらえるのならば」

 ずっとここにいると言い切ることはできない。それをわかってくれているからこそ、今回のことでもいつまでとも決めずに出ていくことを許してもらえたのだ。

「それならまた、毒のサンプルでも取ってきてもらおう」

「薬草の方は必要ありませんか」

「多分な。必要かどうかは、ここで育てたものを実際の毒で試して効能が弱まっているかどうか見てからだ」

「毒は、まだあるのでしょうか」

 毒の大元である病大虫が退治されてから、もうかなり経っている。消えてなくなっていたとしてもおかしくない。

 しかし薬屋さんの話によれば、それらしい症状が村で時々見られるという。程度は軽いことから、弱まった毒を持っているコボルトか何かがまだ村の近くにいるというのが、薬屋さんの見立てだった。

 ずっとこの毒を見てきたこの二人が言うのだから間違いはないだろう。珠季はそれを引き受けることにした。

 ただし、これを他の冒険者に頼むことはできないだろう。病大虫がいた頃と違って、毒を持った怪物などが簡単に見つかるとは思えない。そういう状況下にあっては、依頼にしようにも割に合わなくなってしまうからだ。珠季はそれを正直に二人に伝えた。

「毒を持ったままうろついているものが見つからないくらい少ないのならば、それはそれでいいことです。そのあたりは、お任せします」

「そうなると、ぼくはただここにいるだけになってしまいそうですね」

 世話になったり迷惑をかけたりばかりではあるが、一応珠季にとって薬屋さんは依頼主なのである。何もしないでただいさせてもらうというわけにはいかない。

「心配するな。そのうちこき使ってやるから」

 ここでも気を遣われていると思ったが、大切な人と離ればなれになったばかりの今は、そのことがとても心強かった。

 その日の夕食では、求められるままにアキトさんたちのことを話した。

 薬屋さんがアキトさんと会ったのは、まだユリさんたちと出会う前のことだ。あの時も、二人にはとても心配をかけてしまった。そのアキトさんが、今はもっと広くて深い存在になって、もっと先へ、そしてこれからそのさらに先へ進もうとしている。

 話しながら珠季はいろいろに思う。相変わらずなところを懐かしく思ったり、置いていかれるようで寂しくなったり、自分のことのように誇らしく思ったり、向けてくれている視線に支えられる感覚を覚えたり、次々と様々な思いが去来するが、しかしそれらが心を乱すようなことはない。全部大切な思い出で、そしてそれは振り返るためのものではなくて背中を押してくれるものなのだ。

 気がつけば、いろいろ聞いてきていたはずの二人は沈黙していて、珠季の声だけが部屋の中を流れ続けていた。

「よかったですね、アキトさんに会えて」

 声がかすれて消えて、そうして空気が落ち着いたところで、そっとそう言ってもらえた。

 そう、会えてよかった。

 いつだって自分以外のためのつもりで勝手をして空回ってきた。空回っているように見えたその人を見つけた時、どうにかしてあげたいと思ったのも、きっと勝手だった。

 でもその人は勝手などではなくて、心底から自分以外のためにできる人だった。そんな人に認めてもらえたから、勝手ばかりなことを忘れてしまっていた。だからその人から離れたら、忘れていた都合の悪いことに辛くなってしまったのだった。

 それは忘れていたからだった。忘れるのではなく認めてさえいれば、こんなことにはならなかった。

 その人はそれさえも許してくれた。だから今は、その人と同じように、先へ進もうと思うことができる。勝手であろうと、思うままできることをしたいと、思うことができる。

「はい」

 まずは山の薬草の様子を見ておこう。そう決めた珠季は一度目を伏せた。

 閉じたまぶたの裏に革のドレスの少女の姿が映り、背を向けて立ち去っていく。わずかに見えた横顔は、見放すのではなくてついてくるのを待っているようだ。その後ろ姿に、どうしてか顔がほころんだ。

 胸に満ちたものをしまいこんでから、珠季は薬屋さんと相談を始めた。

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