離別・前編
イースタンベースの町の外に広がる広大な森、それがどんなものか慣れるよりも先に、俺たちは町を離れることにした。
森は広大だが、そのために人が行動する範囲は狭い。その狭いところで何も起こらなければ、冒険者の出る幕などないのだ。
ユリに誘われてさらに東、森の奥深くへと入っていく。道はしっかりしたものでそこを歩く分には迷うことはなさそうなのだが、道と、それに沿って流れる川以外はすべてが高い木がどこまでも続く森である。
イースタンベースを出たばかりの頃は道と川、それらと森の間にはわずかながらでも間隔があったのだが、川の向こうに木こりたちが見えなくなると一気に狭まってきて、圧倒される感じさえある。
「大丈夫、怖くなんてないよ」
そわそわとあたりを見回している俺の不安を最初に見抜いたのは、ユリだった。後ろを歩いている俺たちのところまで下がってきて、にっこりと笑う。
その無邪気な一言で俺が怖がっていることがみんなに知られてしまい、一気に注目が集まってしまった。二人ほどは俺のことを笑っているような嫌な目の細め方をしている。
「違う。何か出てこないか見てるんだ」
その二人に叩きつけるように言ってやったのだが、軽く流されてしまう。
「この辺では、出るとしたら何が出るんですか?」
「出るとしたらこっちも狼だね。私たちもあんまりこっちに来てるわけじゃないから詳しくはないけど」
「じゃあ大したことはなさそうですね」
「大きな群れでもない限りはね」
そんな俺たちを挟んで黒猫とユリがそんな話をしている。
ユリとレイナが親しくなって、いつの間にかそれを中心としたひとつのパーティのようになっていた。依頼や金の扱いなどは別々なのだが、誰かと誰かがしゃべったりするのはもう分け隔てなどないような感じだ。
「大分毛皮にしてやっちゃったからそれもないと思うし、そっちの方も大丈夫だよ」
だからユリも俺にまで遠慮のないことを言う。初めて会った時から気軽に話しかけてくれた子だったが、ここまでずけずけと言ってくることはなかった、はずだ。
歩いても歩いても、どこまでも森は続いている。圧倒されるのはそびえ立つ木の高さだけではなくて、どこまでも続く厚みもそうだった。
「これ、どこを歩いているのかわからなくならないか?」
俺とは違ってただ周りを見ようとしているだけの黒猫に、小声で声をかける。
「ずっと同じような景色ですから。でも、時々違うものも見えてきます」
黒猫も小声で答えてくれたことに、俺はほっと安堵の息をもらした。また笑いものにされてはかなわない。
その黒猫が、前の方を指差す。言われてすぐにはわからなかったが、歩いているうちに川の向こう側から注ぎこむ小さな流れが見えてきた。
「もうちょっと行ったら休憩する?」
前に戻っていたユリが、また俺たちのところまで下がってきた。また俺をからかう気なのかと眉根を寄せて見せたが、ユリが話しかけたのはレイナだったので、無駄になってしまった。
「休憩できるいいところでもあるの?」
「うん」
ユリは笑って一言返事をしたのだが、それがどんなところかは言わない。そのことが俺には引っかかったが、レイナは気にする様子もなく、休憩のことはそこに着いてからということで終わってしまった。
きれいな水でもあるのだろうか。黒猫と二人で散々歩き回ったウェスタンベースの北の山のことを俺は思い出していたのだが、見えてきたのは明らかに人が作った柵だった。
「町? じゃないよね。それなら休憩じゃなくて着いたってことだし」
「さすがレイナ、鋭いね。ここは旅商人なんかが使う宿村だよ」
言われてみれば柵の長さが町と言うには短いし、町だったらイースタンベースのようにもっと頑丈そうなものにするだろう。どちらかと言えば、俺がさっきまで思い浮かべていた村を囲う柵に近そうだ。
「宿村?」
「ほら、旅商人は荷物運ぶから行くのに時間がかかるでしょ。だからここで一晩泊って、二日かけて行くの。ここはそれだけの場所なの」
町のように道が中を通っているのではなくて、道の脇に柵で囲った場所が作られている。そしてその中には家と倉庫がいくつかあるだけだ。畑もなければ店もなく、人が住むところのようには見えない。
奥の方に井戸があったので、ひとまず邪魔にならないように柵沿いに固まって腰を下ろした。避けてはみたものの、日が高い時間だからか人の姿は見当たらず、静かなものだ。
せっかく井戸があるので、水筒の水を飲んで注ぎ足しておく。それを見てレイナやメグが同じように水を汲もうと後ろに並ぶ。
「こんな所で、食うものはどうしてるんだ?」
その脇でロンがそんなことを言っていた。
「え? そんなこと気にしたことなかったけど……どうしてるんだろ。アオちゃん知ってる?」
質問をそのまま投げられた葵も、ただ首を横に振っただけだった。
「食べるものも旅商人が運んでくるんですよ。だからこういう所では簡単なものしか食べられないんです。乾燥肉とか」
その話が気になった俺が寄っていくと、黒猫が答えていた。
「へぇー、そうなんだ。よくそんなこと知ってるね」
聞いたロンよりも聞かれたユリの方が感心した様子を見せている。
「町と町の間が離れているところでは、けっこうこんな宿村があるんです。ウェスタンベースの先にも同じようなのがあって、ぼくはそこで教えてもらいました」
そんな話をしているところに桶を手にした男が水を汲みに来たので、少し避けて場所を空ける。がっしりした体つきの男で、装備が整っていれば警備隊か冒険者と見間違ったかもしれない。
「こんにちは」
「おう。嬢ちゃんたちは、どっちから来たんだ?」
ユリが挨拶すると、男はにこやかに話しかけてくれた。見た目によらず、やはり客商売をしている人といったところか。
「イースタンベースから」
「じゃあ東か。ウージュか、それとももっと先へ行くのか?」
「とりあえずウージュだね」
「そうか。あんまり森の奥までは入るなよ。最近あっちじゃ森に入った奴が帰ってこないって話も聞くしな」
金眼豹退治の依頼を受けようとした時、ギルドのNPCがそんなことを言っていた。向こうでも怪物が出ているのだろうか。
「ありがと、気をつけるよ」
俺の心配をよそに、ユリは笑顔で答えただけだった。話が一段落したところで、男は桶を手に家へと戻っていった。
「向こうに行けば、依頼はありそうだな」
話を聞いたロンがニヤリと口角を上げたが、ユリはちょっと考えこむような顔で視線を地面に落としている。それを見たレイナが声をかけると顔は上げてくれたが、表情はまだ浮かない様子だ。
「そういう話、聞いたことなかったから、ちょっと気になるかな」
あまりこんな表情を見せないユリが気になるというのは、相当なことなのだろうか。レイナも同じように思ったのか、言葉が途切れた。
「私たちもウージュのことよく知ってるわけじゃないし、考えてもわからないわ。まずは行ってみましょ」
みんなが黙ってしまったところに、メグがユリの肩を叩いてそう言った。
「そうだよね。行こうか」
それを合図に宿村を出て、さらに東へ向かった。
相変わらず、前方に続く川と道以外には森しか見えない。しかし何かないかと思って見ていると、また川の向こうに小さな流れが見えたり、道沿いにどこから来たのかわからない大きな石が転がっていたりする。何もないなんてことはないのだと思うと、少しだけ気持ちが楽になる。
やがて川は道から離れ、左にそれていった。目に映る色が減り、そして木の間隔が狭まってきたのか、木漏れ日が弱くなってきたような気がする。
まだ日が沈む時間ではないはずだ。木の葉越しにわずかに見える空もまだ赤く染まってはいない。それなのにだんだん暗くなっていくことに、やわらいだはずの不安がまたぶり返してしまう。こんなのが道なのだろうか。
「ちょっと変じゃないか?」
思いながらもこの道を知っているユリたちに任せて口にするのは控えていた俺だったが、そう思ったのは向こうもそうだったらしく、遥が足を止めた。俺たちを振り返った瞬間、驚いた顔で硬直した。
「えっ!?」
俺たちに何かあるのかと思って反応が遅れた俺だったが、俺の周りからもいくつもの声が重なったのを聞いて、ようやく背後の異様さに気がついた。
道が、ない。
さっきまで歩いていたはずの場所は、びっしりと生えた木にふさがれている。そしてどこからかざわざわと、枝が揺れる音が聞こえる。
「変です……」
黒猫が緊張した様子であたりを見回す。
「どう、変なんだ?」
「この音…風もないのに枝が揺れるなんて……」
「枝を揺らしている何かがいるのか」
「はい」
迷いのないその声に、全員が警戒をする。その向きを背後だけに留めない黒猫にならって、俺も左右に目を配る。枝が揺れる音はやまない。だが、動くものはどこにも見当たらない。
「ひっ!?」
声にならないような声が上がる。この声は、レイナなのか。
「何だよ、変な声出して」
ロンが声をかけているのは、やはりレイナだった。そのレイナは、震える指先を前方に向けた。
「きっ、木が…動いた……」
「そんなことある訳…」
二人がそんなことを言っている間も、枝が鳴らす音はどこからともなく聞こえ続けている。
「それです。木が動いているんです!」
その音を追うように別の方を向いていた黒猫が、鋭く叫んだ。それが合図になったかのように、黒猫がにらんだ方向からいきなり木の根が飛び出してきた。どうにかかわそうと無理やり横に跳ぶ。
しかし怯えた様子のレイナの動作が一瞬遅れる。飛び出してきた木の根がさらに伸び、レイナを襲う。間に合わない。
「シールドっ!」
レイナを打ち据えようとした根をすんでのところで防いだのは、黒猫だった。だが、さらにレイナが指差した方からも根が襲いかかってくる。剣を抜く暇もなく、手にした盾を前に構えて飛び出す。レイナが下がってくれれば入れ替わりで受けられるが、まだ動けなさそうだ。ダメか。
「はあぁっ!」
俺よりもさらに早く横から飛び出してきたのは、ユリだった。その勢いに乗せて、伸びてくる根を殴り飛ばす。
「大丈夫?」
「……ありがと」
ようやくレイナも立ち直れたようで、襲ってきた木をユリの背後からにらむ。だが、動く木はその二本だけではなかった。
「こっちも、あっちにもいるのか…」
黒猫の横に出た俺の背後から、焦ったような葵の声が聞こえてくる。もう目立たないようにしている必要はないとばかりに、あちこちから続々と前に出てくる。
「これは何だ? 木の怪物なのか!?」
ロンの叫びに誰も答えられない。囲まれて四方から攻撃されていてはどうしようもない。今は散ってそれぞれ自分の身を守るしかできない。
「逃げるよっ!」
根で幹を引きずって進む音、枝同士が引っかかってざわつく音、そんな無数の音を裂くように、ユリの声が走り抜ける。
「どっちへ!?」
だが、道もわからないのにどこへ逃げるのか。
「こっち。アオちゃん、遥、後ろお願い!」
言うなりユリは前方の木の怪物に跳び蹴りを放った。勢いのすべてを乗せた両足蹴りをくらった木の怪物は周りを巻き込みながら後ろに倒れ、わずかに見通しがよくなる。
「蒼玉、レイナ、先に行け!」
俺はその先ではなく、二人の前に飛び出した。二人をめがけて伸びてきた根を、盾で弾く。
「後は皆さんだけです。早く!」
横目で後ろを見ると、そこにはもう黒猫しかいない。蒼玉たちは先に行けたのか。
「と言ってもな!」
いつの間にか俺の横まで来ていた葵が、叫びながら剣を振る。先を行くユリたちに追いつきたいところだが、こうも絶え間なく方々から攻撃されては動きようがない。こうなれば賭けだ。
「疾風気刃斬!」
前に踏み込みながら、気合の刃を横薙ぎに振るう。そんな程度では怪物を切り倒すことはできないが、襲ってくる根はまとめて切り飛ばした。
「走るぞ!」
そのわずかな隙を突いて、三人揃って駆けだす。待っていた黒猫も混ざって、四人でユリが横倒しにした木の脇を駆け抜ける。一度横倒しになってしまうと起き上がるのは容易ではないらしく、その根は地面をひっかくばかりだった。これなら行けるか。
「うわっ!」
そう思ったのが俺の隙だった。背後に過ぎ去った根ではなく、前方の枝が伸びて俺を襲ってきた。
とっさに盾で受け流す。だがその後ろには葵が走っていることに、俺は気がついていなかった。
「だあぁっ!」
裂帛の気合と共に葵が枝を切り飛ばした。根だけでなく枝も襲ってくるのならばと、俺たちは走る向きを少しずらして枝から遠ざかる。
しかし枝から離れるということは、あの怪物が倒れた時に巻き込んだ範囲から外れるということだった。右前方から別の怪物が迫ってくる。
「そいつらは無視して走れ!」
前方からロンの声が聞こえてきた。だがもう向こうから伸ばしてきた根がこちらに届きそうだ。
「ファイアーウォール!」
しかしそれは突如俺たちをかばうように立った火柱に阻まれ、伸びてきた根は逆に火に追われるように引っ込んでいった。それを横目に残りの根から逃げ、俺たちを呼んだロンと魔法で援護してくれた蒼玉も一緒になってさらに走る。
前方にまた横倒しになった木が見えてきた。そして後ろから、いや、左右からも幹を引きずるような音がいくつも追いかけてくる。
「飛び越えて!」
その向こうからユリが俺たちを呼んでいる。言われるまま今度は脇を回りこまずに飛び越えて走ると、追いかけてくる音が遠くなっていく。
倒れた一本が邪魔になって、向こうの怪物たちは追いかけてこれないらしい。今度こそ、逃げ切れたようだ。
さらに少し走ると、木々の向こうが明るくなってきた。森の中から出てそこで待っていたレイナとメグと合流して、やっと九人揃ったのだった。動く木の怪物がいないことだろうを確認して、思い思いにその場にへたりこんだり大息をついたりする。
「ごめんね…、私が道を間違えたせいで……」
一人だけ緊張を緩めない表情で周囲に警戒を払っていたユリが、糸が切れたようにがっくりとうなだれた。
これはユリのせいなんかじゃない。そう慰めてやりたかったが、何が起こったのかわからない俺にはどう言ってやればいいのかわからなかった。誰も肯定も否定もできなくて、重苦しい沈黙が降りる。
「あのさ、言い訳になっちゃうけど…」
その中で、葵がユリの横に立った。
「間違えるような分かれ道なんてなかった。さっきの奴に誘い込まれたんだ、多分」
ユリが葵を見上げ、葵も一瞬だけ柔らかく視線を交わす。それからもう一度表情を引き締めて、葵が俺たちの方に向き直る。
「だから…おれも気づかなくて悪かった」
「なあ、あれはいったい何なんだ?」
その詫びを無視して、ロンが疑問の声を上げた。誰が悪いなんて話をやめさせたいのはわかったが、これもこれできつく聞こえはしないだろうか。
「わからない……」
ユリは力なくつぶやき、葵も無言で首を横に振った。それきりまた、沈黙に包まれてしまう。
何だかわからないものに襲われて、みんなそれぞれ不安を抱えているような顔をしている。最初に襲われたレイナなんかは不安どころか恐怖になってしまったらしく、小さく震える手を耐えるように抱きしめている。
「ウージュへ行きましょう」
静かにそう言ったのは、黒猫だった。
「ウージュに行けば、さっきのを知っている人もいるでしょう。わからないことは、人に聞くのがいちばんです。どうするかとかそういうのはその後です」
「そうだね。ありがと珠季ちゃん」
顔を上げたユリは、もう笑っていた。
「今度こそ町まで行こう…って、こっちでいいんだよね?」
そして早速歩を踏み出したのだが、一歩だけで止まってしまった。逃げ回って方向がわからなくなってしまったらしい。改めて聞かれてしまうと、俺も断言まではできる自信がない。
「はい」
だが、黒猫は何でもないことのように簡単に答えた。
「本当に?」
さっきのことで自信をなくしたのか、不安げに聞き返すユリに、黒猫は足元を指差した。何のことかわからなくて、ユリは首をかしげる。見ている俺もそれは同じで、同じように首をかしげた。
「影が向こうを向いています。もう日が西に、影が東に向かう頃でしょう。だからどっちが東かくらいはわかりますよ」
「なあんだ、そんなことか」
「そんなことです」
話の中身は笑ってしまうほど単純なことなのだが、こんな時に二人ともよく笑えるものだと俺なんかは思ってしまう。そんな二人に続くように、みんなぞろぞろと出発した。
歩き出した時は先頭にいたユリがレイナのいるところまで下がってきて話しかけていたり、代わりに葵が先頭に回って周囲に目を光らせていたり、もうふたつのパーティはごっちゃになっていた。俺も黒猫を追い抜いて、葵のいるところまで前に出る。
「なあ葵、さっきは悪かった」
今気を散らすようなことを言うのも悪い気はするが、葵と話がしたかった。なのだが、謝られた方の葵は何のことかわからない様子だ。
「枝に打たれそうになった時、お前の方に流したこと」
「ああ」
どうでもよさそうな反応だったので、その話はそれまでにした。話したかったことは、それではない。
「ユリって立ち直り早いな。周りは落ちこんでる暇なんかないって感じだ」
さっきはそれに救われたんだと思う。ユリが引っ張ってくれたから、俺たちは動き出すことができたのだ。でもそれを直接ユリに言うのは恥ずかしくて、その代わりに葵に聞いてもらっている。
「あいつはまあ、そういうやつだ」
言いながら葵は目でユリを指したのだが、その目がさっきのように柔らかく見えた。本当に信頼しているんだな。
「でも今回はけっこうこたえてたと思う。立ち直れたのは珠季がああ言ってくれたおかげだろう。あいつこそ、大したもんだと思うよ」
「あいつはいろいろ普通じゃないから。それに、俺なんかよりも長く冒険者やってる」
誰かと黒猫の話なんかすることが、ちょっと楽しくて、むずがゆかった。もう少しそれを感じていたかったが、当の本人が聞きつけて寄ってきてしまった。それから三人で歩きながらしゃべっていたのだが、それはまた違う。
道は多少左右に振れてはいるがほぼ真っすぐで、それは木の怪物に邪魔されていないということらしい。しゃべりながら歩いているうちにその不安は薄れていったが、別の不安が目に見えて表れてきた。
「これ、日が沈む前に町に着けるのか?」
背中から当たる日差しが、目の前のすべてを赤く染めている。真っ赤な視界には相変わらず、前に延びる道とその両脇を覆う森しかない。
「さっきのことがあったから、あとどれくらいかわからない。だけど、行くしかないだろう」
暗くなってから歩くのは危ないかもしれないが、とどまってまた木の怪物に襲われる方がもっと危険だろう。葵の言うとおりだ。
「道はわかっていますし、迷うことはないでしょう。それなら進むべきだと思います」
しゃべりながらも警戒を怠らず、黒猫はきょろきょろと周りを見回している。道に迷わないということは、さっきの怪物が出てこないことが前提だ。これから暗くなってくるなら余計に、気をつけなければならない。
先頭を二人に任せて、俺は後ろに下がった。蒼玉と、メグと遥の三人が後ろについていたのだが、そこは無言の緊張感が漂っていた。
「もし順調だったら、いつ頃町に着いてたんだ?」
それを壊すのはどうかとも思ったが、緊張しすぎて疲れるのもよくないかと思って、遥に話しかけてみた。自分でも嫌になるくらいわざとらしかったが、遥は嫌な顔もせず答えてくれた。
「何もなければ、イースタンベースを朝に出てウージュに着いてちょっとどこかに寄った頃に日が沈むってくらいだ」
「それなら真っ暗になる前には着けるか」
「さっきどれくらい時間がかかってどれくらい回り道させられたかわからないから言い切れないが、そうだと思いたいな」
見通しはだいたい葵と同じようなものだった。そうして歩いている間にもだんだん日が沈んできて、まぶしいくらいだった赤が目の前の景色から失われていく。
「疲れたか?」
無言で歩く蒼玉に声をかけたが、無言のまま首を横に振っただけだった。やはり疲れているのだろう。だが、俺がしてやれることは何もない。蒼玉の隣に立ってそちら側の警戒を代わってやろうとしたのだが、そんなことで気が休まってくれるだろうか。
結局、黙ったまま四人で歩くだけになってしまった。前からは相変わらずユリがしゃべっている声が聞こえてくる。レイナも少しは元気になったようで、たまに笑ったりしているのが見えた。
その向こうで、黒猫が突然道から外れて脇へと駆け出した。
「おい、どこ行くんだ!?」
ロンもそれを追って駆けだそうとしたが、それよりも早く黒猫はその場にかがみこんだ。そして拾った何かを抱えて俺の方に寄ってくる。
「蒼玉さん、お願いがあります」
黒猫の目当ては俺ではなくて蒼玉だった。疲れている蒼玉に何をさせるのかと思った俺は渋い顔になってしまったが、蒼玉はそんな俺を差し置いて黒猫が抱えていたものを受け取る。それはただの短い木切れだった。
「それに火を点けてもらいたいんですよ。蒼玉さんの魔法なら早いと思って」
「灯りですか」
「はい。お願いしていいですか?」
「わかりました」
受け取った木切れを足元に置いて、小さく火球を放った。先端に火のついた木切れを黒猫が一本拾って、俺に渡す。それから黒猫は残りふたつを両手に持って、片方をロンに渡した。
「あ、私が持つよ。私なら両手空いてるし」
ロンに手渡されたそれを、横からユリが受け取った。珍しいものでもないのに、まじまじとその火を眺めている。
「灯りなんだから自分だけで見てるなよ。火傷するぞ」
呆れた葵が注意して、それを合図にまた歩き始めた。まだ日は沈みきっていないので火の光がなくても十分周りは見えるが、まだ周りが見えるうちに用意しておいた方がいいという黒猫の判断だったのだろう。
「動物も怪物も火は嫌うからね、用心になっていいかもしれないわね」
「それは気がつきませんでした」
メグと蒼玉が俺の持っている火を見ながらそんなことを言っている。メグの言ったことは、俺も気がつかなかった。それならば俺が最後尾で怪物を追い払うべきだろうと、蒼玉の隣から後ろへと下がった。
辺りはだんだん暗くなって、火の赤が浮かび上がってきた。さらに風が出てきて、急に涼しくなってくる。しかし、身体の火照りを冷ましてくれるなどとのんきなことは言っていられなかった。
「あそこ、今、動かなかった?」
風が木の枝を揺らすたびに、レイナがひっくり返ったような声を上げる。
本当に怪物だったらまた大変なことになってしまうので、立ち止まって全員で一度辺りを見回す。
「大丈夫だ、風の音だろう」
「本当? アキトちゃんと後ろも見たの?」
こんなことが繰り返されるので、なかなか前へ進めない。だが絶対に警戒は怠れないので、そうやって少しずつでも進んでいくしかない。
慌てふためくレイナの様は最初のうちは意外でちょっと面白かったが、本当に怯えているのをずっと見せ続けられるとだんだんかわいそうになってくる。
ついに日が沈んでしまい、道の真上からわずかに見える星空以外は真っ暗になってしまった。両側から迫ってくる黒一色の圧迫感は、色の見える日中とは比べ物にならない。レイナではないが、俺も怖くなってきた。
それは俺だけではないらしい。いつしかしゃべる声もすっかり途絶えてしまい、無色に加えて無音の圧力が俺たちを圧倒する。
「ねえ…何か、しゃべってよ」
「そうだよねぇ……」
耐えられなくなったレイナがユリにすがりつくが、いつもならばしゃべっていない時などないくらいなユリでさえ、答えることができない。
「着いた!」
先頭の葵が鋭い声を上げた。後に続いているみんなが一斉に、自分の目でそれを見ようと駆け出す。置いていかれそうになった俺も駆け出して、競争するように木の壁の切れ目まで走った。
「こんな時間にどうしたんだ?」
町の入口には松明が掲げられていて、警備隊らしい男が二人、両脇に立っていた。そんなに長い距離を走ったわけでもないのに、焦りがあったのかみんな息を切らせてしまって答えられない。そんな俺たちを男たちは不審そうな顔で見ている。
「木の怪物のせいで変なところに連れていかれかけて、それで遅くなったんだ」
立ち直りの早かったロンが、ようやく事情を説明する。
「木霊か。そうか、こっち側でも出るようになったのか」
「木霊っていうのか。何なんだあれは?」
ロンの語気が荒くなってきたので、肩に手を置いて制した。
「俺たち、こっちは初めてなんだ。だから、教えてほしい」
俺が頼んでいる横で、黒猫が俺が持っていた木切れを手から抜き取る。
「名前はともかくだ、なんでそうなるのかはわかってないが、木が突然怪物になったものだ。普通の木に混じって道をわからなくさせて、人や動物なんかを誘いこんで襲ってくる」
「見分けは、つかないのか?」
少しは落ち着いたらしく、ロンが話に戻ってくる。
「つかない。しかもどんな木でも木霊になるらしくて、この木ならば大丈夫というものもない」
「じゃあさ、どうすればやっつけられるの?」
今度はまだ怯えが抜けないレイナが食ってかかるように入ってきて、また俺が止めなければならなかった。
「他の怪物と同じように切ったり魔法で打ち倒したりすれば、そのうち動かなくなる。だが、どこまでやれば動かなくなるかはこれもわかってなくて、真っ二つになってもまだ止まらないこともあるって話だ。とにかく動かなくなるまでやるしかない」
「根を伸ばしたり枝を伸ばしたりしてきたが、それがあいつらの攻撃なのか」
「そうだ。それ全部が木霊の武器だ。ただどこまでも伸ばしてくるわけじゃないし、何もないところから根や枝を生やしてくることもない。あと、根は這いずるように進むのにも使ってくる」
蒼玉の木の魔法のようなものだろうか。ふと思って蒼玉を目で探してみると、俺たちが持っていた木切れの火を水弾の魔法で消しているところだった。火の始末をしてくれていたのか。
「ところで、ここは初めてだと言っていたな」
木霊についてのこちらの問いがやんだところで、今度は向こうから問い返された。
「ああ」
「じゃあ泊まるところも決まってないだろう。こっちから声をかけておいて言うのも悪いが、あまり遅くならないうちに宿を探した方がいい」
「こっちこそ騒がせて悪かった。いろいろ教えてくれてありがとう」
「まあアレだ、まずは無事にここまで来れてよかった」
見張りを続ける男たちと別れて、俺たちは町中に入った。ここもイースタンベースに似て建物がまばらな町で、それだけ家から漏れ出る灯りが頼りない。
「町中に火を持ちこむのはよくないと思って消しちゃったけど、消さないで持ってくればよかった」
全身のかなりの部分が黒の黒猫なんか、目を凝らして見ないとどこにいるのかわからなくなりそうだ。
「そこまでしなくても大丈夫だよ。宿は通り沿いにあるから」
この町は初めてではないユリが、やっといつもの調子に戻って明るく答えてくれた。
窓から漏れ出す灯りを頼りに一軒一軒何の店か看板を見ていく。暗すぎてわからないところは、もう今日は店じまいなのだろう。
そうしてやっと宿を見つけて頼んでみたが、大部屋がひとつ空いているだけで九人は無理だと言われてしまった。
「じゃあさ、レイナたちがここにしなよ。こんな時間じゃ九人みんななんて無理そうだし、私たちは別のところを探すよ」
「いいの? あたしたちが先に休んで」
「いいのいいの、明日の朝ギルドで会おう。ね」
言うだけ言ってユリたちは他の宿を探しに出ていってしまった。この町のギルドがどこにあるかはわからないのだが、それは宿の人にでも聞けばいいだろう。
食事の準備に少しかかるからということで、先に部屋に通された。窓から外を見てみたが、通り沿いの部屋ではないし、そもそも外はほとんど真っ暗なので、ユリたちの姿は見えない。
「ふぅ……」
ベッドのひとつに腰かけたレイナが、首元を少し緩めて、息をつく。いつもだったら最初に誰がどことか決めたがるのに、それもない。
俺たちも俺たちで、誰も何も言わなくてもめいめいでそれっぽい場所を選ぶ。それにも文句は出なかった。
あれこれうるさく言われなくていいはずなのだが、何か物足りない。
「なあ、レイナ」
呼びかけたのはレイナだけにだったのだが、レイナ以外の三人の注目が俺に集まった。みんなも俺と同じように何となく話しづらいような、黙ってもいづらいような感じだったのだろう。
「明日、戻ろうか」
やっとレイナも俺の方を向いてくれた。
「嫌な思いまでしてここにいることもない。他の所に行くからって、こっちじゃなくてもよかったんだ」
何となくユリたちと一緒に行動していて、それでその誘いに乗ってここに来たのだ。無理してまで付き合わなければならないことはない。
「うん…でも……」
でも、そのユリといちばん仲がいいのがレイナなのだ。迷いを見せているのは、だからだろう。
「ユリには俺から言うから」
「待って」
その名前を出した途端、レイナに止められた。
「ごめん、どうするかはもうちょっと考えさせて。それで戻るって決めたら、その時はあたしから言うから」
だから絶対に俺からはそれを言うなと、念まで押された。本気で悩んでいるのが伝わってきて、それ以上俺は何も言えなかった。
レイナがこの調子だからか、そもそもおしゃべりなユリがいないからか、食事の時も変だと思ってしまうくらいに静かなものだった。だからといって何か話題を作るなんて器用なことなど俺にはできなくて、今日は疲れたからと無理やり納得するしかなかった。
翌朝、ギルドに行くとユリたちが先に来ていた。いつものように挨拶してくれるが、いつもの抜けるような明るさが少しだけ陰っているように見える。
「あのさ、レイナ」
しゃべる前にわざわざ呼びかけるなんて、明らかにいつものユリではない。昨日悩んでいたことをまだ引きずっているのか、呼びかけられた方のレイナの方も遠慮があるように見えて、ユリもそれを感じたのか一瞬次の言葉が止まってしまった。
お互い目で促しあって、やっとユリが続きを切り出した。
「別のところに行こうよ。ここ、木霊の依頼ばっかだし」
「そうだね。そうしよ」
同じことを俺が言った時とはうって変わって、即答だった。それだけユリと離れることが嫌だったのだろう。そしてそれを言ったユリも同じなのだろう。
「いいかな? みんな」
ユリの問いかけに俺たち四人がうなづいて答えて、それで決まった。俺たちもユリたちも、同じことを考え、もう決めていたのだった。
初めて来たのに依頼もろくに見ないで出ていってしまった俺たちに、NPCはあっけにとられたような顔をしていた。
昨日とは逆に日の光を背に西へ向かい、木の壁で囲われた町を出る。日中でも壁の切れ目には警備隊の姿があった。今度はただ歩いているだけなので、声をかけられることもない。
ウージュはイースタンベースとは違って、町を出ればもう森の中だ。そこに道が一本だけ通っていて、ちょうど今のように日の向きと合った時だけ足元までが明るくなる。
一本道とは言え、荷車が通れる場所を選んでいるからかわずかに左右に振れたりしていて、そのせいで遠くまでは見渡せない。つまり、木霊に道をだまされても気づきにくい。
「出ないよね……?」
レイナは落ちつく間もなく周りを見回している。もちろん俺たちも警戒しているが、今のところ誰も何も見つけていない。
「川が見えてくれば、そこからそれなければいいってわかるんだけどな」
遥の言葉に、顔を突き合わせているわけでもないのに、俺は答えるようにうなづいた。もちろん向こうには俺の反応など通じていなくて、何やら高いところを見ているようだ。
「上に何かあるのか?」
そんな遥に、ロンが声をかけた。
「鳥とかがいれば、その木は大丈夫なのかなと思って」
「鳥に見分けがつけばな」
「それもそうか」
それでもみんなとは違う見方をするつもりなのか、遥は目線を下ろさなかった。
そうして誰もが落ち着かない様子で先へと歩いていく。日はさらに上り、もう日差しは木の葉越しにしか届かなくなっていた。イースタンベースまでの道は、ちょうど半分の所に宿村があり、その手前で西へ流れる川と合流する。まずはそこまで行ければ。
しかしそういう時に限って時間の進みは遅く、先へ進めている気がしない。ずっと景色が変わらないからそう思ってしまうのだろうか。違う何かを見つけることができれば少しは安心できるだろうか。
昨日黒猫が教えてくれた川に注ぎこむ小さな流れなんかが、それだ。この辺りにもそういうものはないのだろうか。小さなものでも何かと焦った俺は、いつの間にか足元ばかりを見ていた。それでは木霊への注意がおろそかになってしまう。
それではダメだと足を止めて、軽く首を振る。
「どうかしたのですか?」
それまで隣を歩いていた蒼玉が、数歩先から振り返って俺に声をかけてくれた。
「悪い、何でもない……いや、」
その時気づいた。前を行くユリたちの足元と、左にそれる道の右脇の土の色の違いに。
みんなを呼び止めて、何歩か下がった。また足元を見て、さらに何十歩か下がる。
「何なの?」
確信が持てなくてまだ足元ばかり見ている俺に、レイナが恐る恐る声をかけてくる。まだ確信は持てないが、これ以上待たせてもみんなを不安がらせるだけかもしれない。俺は思ったことを口にした。
「あっちの方、道にしては土が湿っているような気がする。道だったらこう、もっと固くて乾いていると思うんだけど、むしろあっちの方がそれっぽく見えたんだ」
俺が指差した方は木が生い茂っていて、とても人が通るところには見えない。しかし、これがもし木霊が塞いでいるだけだったとしたら。
「私たちを道に迷わせるために、あの怪物が森に見せかけている。そういうことですか」
蒼玉の問いに、俺はうなづいて答えた。
「だけどただの気のせいかもしれないし、確かめる方法もない」
いるかもしれないと思うとうかつに動けなくて、みんなただ考えこんでしまう。その間も物音はなくて、森はしんと静まり返っている。
「乱暴な方法ですけど、ちょっと試してみましょうか」
昨日と同じように、黒猫が木切れを拾って蒼玉のところに持ってきた。
「火を点けるのですか?」
「はい」
言われたとおりに蒼玉が火球の魔法で木切れの先に火を点けて、黒猫がそれを拾った。そして俺が指した方向、森の中へ入ろうとする。
「森を燃やす気なの?」
黒猫の意図に気づいたメグが、慌てて黒猫の手を取って引き止めた。
「火事になりそうになったら魔法で消してください。危ないですから、下がって待っていてくださいね」
黒猫にそう言われて、メグは捕まえていた手を離す。
「もし目の前にいるのが木霊ならば、これが戦いの合図になります。そうなったら後はお願いします」
あえて柔らかく言って、黒猫は燃える木切れを前方に差し出してゆっくりと歩き出した。
手前の木まであと五歩、四歩、三歩…
突然その足元から根がしなって黒猫を襲った。飛び退いた黒猫が手にしていた木切れを投げつける。しかしそれは前に出てきたそれに踏みつぶされて、燃え上がることはなかった。
「任せて!」
入れ替わるように駆けだしたユリが、出てきた木霊に飛び蹴りを食らわせる。身体ごと勢いを乗せた蹴りで先頭の木霊は後ろに傾いたが、後ろから続々と出てくる木霊に支えられて倒れるまでにはならなかった。後ろから押されながら、根で土をかき寄せるようにして起き上がろうとする。
「破岩衝だ!」
それをさらにロンの渾身の突きが押し返す。その一撃で幹が砕け、今度こそ後ろを巻き込んで倒れた。
それを見て前に飛び出したのは、蒼玉だった。すでに詠唱は終わっていたのか、危ないと思った時にはもう魔法が放たれていた。
「ファイアーウォール!」
倒れかかってきた幹に押さえられて動けない木霊に容赦なく、炎柱が襲いかかる。しかし、その手前で切り株のようになったものから根が蒼玉を打ちつけようと伸びてきた。気づいた俺が駆けだしたが、防ぐのには間に合わない。
「うぐうっ!」
蒼玉を押し倒して身代わりになるのが精いっぱいだった。蒼玉の上にのしかかった俺の背を、振り上げられた根が強打する。
次に聞こえたのは、何かがぶつかるような音だった。蒼玉をかばって身体を丸めこんでいた俺には何が起こったのか見えなかったが、その次には俺が遥に助け起こされていた。俺の下からはいだした蒼玉が、顔に着いた土も払わずに俺の顔を見つめる。
「ごめんなさい……」
こんな時でも、真っすぐに俺を見つめてくれる。だが、その向こうではみんなが戦っている。
「いい。二人とも行ってくれ」
足を踏ん張って一人で立って見せると、二人も戦いの場へと走っていった。足元に転がっている切り株のようなものは、もう動かない。蒼玉を襲った一撃が、最後の力を振り絞ったものだったようだ。
「ヒーリング!」
寄ってくるなり回復魔法を送ってくれたのは、黒猫だった。背中の痛みが引いて、ようやく真っすぐ立てる。
「レイナさんと二人で後ろを見ていてください。他にもいないとは限りませんから」
それだけ言い残して、俺の返事も聞かずにやはり倒れた幹の向こうへと駆け去ってしまう。黒猫の言うとおりだ。俺は道に戻って、レイナと二人で主に後方に警戒する。
背後からは葉が揺れる音や木が壊れるような音なんかが響いてくる。それでも正面には何の動きもない。
「大丈夫かな……」
つぶやきながら、レイナは預かっている黒猫のリュックをぎゅっと抱えこむ。
「それは置いておけ。いざという時に動きが遅れる」
俺はそれを受け取って、道の脇の木の根元に置いた。今さらこれが木霊だということもないだろう。
背後の音は、まだやまない。俺もレイナも気になってちらちらと後ろを見たりするが、土煙やら木の葉やらが舞い散って、その様子はわからない。
そうやって後ろに目をやった何度めかに、目の端に何か光るものが映った。
「伏せろ!」
こっちに飛んでくる何かに、俺はとっさにかがみこみながら引き倒すように隣のレイナの腕をつかんだ。それは俺たちの頭上、かがまなくてもよかったくらいの高いところを通り過ぎ、向こうの木の枝を一本落とした。
「行くぞレイナ、みんなが危ない!」
つかんだままだったレイナの腕を引っ張って引き起こす。さっきのは黒猫の魔弾で、多分そっちを見てほしいという合図だ。
レイナは戸惑っている様子だが、だからこそ一人で置いていくわけにはいかない。
「来い!」
無理やりレイナの手を引いて走りだす。レイナもわかってくれたようで、すぐに自分で走り出してくれた。
土煙の向こうに見えたのは黒猫たちの姿ではなく、行く手をふさぐ木だった。いつの間にか木霊に囲まれていたのか。
「マッドトラップ!」
レイナが放った魔法で、左前方の二、三本ほどの動きが止まる。ならば俺は右側だ。
「気刃斬!」
生半可な攻撃では剣で木を切り倒すことはできない。正面から気合を込めた一撃で斬りつけるしかない。両断されながらも木霊はまだ上から枝を、下から根を伸ばして俺を打ちつけようとしてくる。横に飛んでかわしながら、さらにもう一体を斬り倒した。
「こっち!」
黒猫の声とともに、俺が切り倒した二本の間から蒼玉、メグ、遥が飛び出してくる。それを打とうと伸びてくる根は、俺が盾で弾き飛ばした。
「上っ!」
ロンの声に上を見ると、たくさんの葉をつけた大きな枝が俺めがけて振り下ろされようとしていた。
「ウィンドカッター!」
しかしそれはすんでのところでレイナが放った風刃に切り落とされた。俺の目の前に落ちたそれをかわしてロンとユリが、そして最後に葵が抜け出してきた。
泥沼が乾いてそれにはまっていた木霊がこちらに襲いかかろうとしたが、蒼玉とメグの魔法で打ち倒される。その向こうから新手が何本も、倒された仲間を押しのけながら迫ってくる。
「仕切り直しだね……」
肩で息をしながら、ユリが迫ってくる木霊をにらむ。
「それにしてもちょっとだけ一息入れない?」
レイナが余裕のなさそうなユリの横から笑いかけ、それから正面に立った。
「それじゃもう一度、マッドトラップ!」
狭くなっている道をふさぐように、レイナが泥沼の魔法を使った。泥に根が沈んだ木霊たちが、這い出そうともがいている。
「これで息を整えるくらいできるでしょ?」
「ありがと、レイナ」
恐怖を克服したのだろうか、レイナにもう怯えの色は見えない。そのレイナをかばうように、俺が前に立った。足元でもがきながらも枝を伸ばしてくるのを、剣で切り払う。
先頭の木霊が泥沼から根を伸ばして上がろうとしてくる頃、俺の両隣に葵と遥が並んだ。
「行けるか?」
「ああ」
三人で武器を構え、飛び出そうとやや姿勢を低くする。
「アイスストーム!」
その後ろから、メグが吹雪の魔法を放った。泥に続いて、今度は氷が張りついて木霊の動きが鈍る。その隙を逃さず、三人それぞれ一本ずつ切り倒す。
さらに後ろから仲間を盾にするように押しながら出てきた木霊たちは、ユリとロンの連続攻撃で打ち砕かれ、蒼玉の火球の魔法で焼き払われた。それでも、その向こうにはまだ迫ってくる木霊がいるのが見える。
「こんなにいたら苦戦する訳だよねえ」
呆れた声を上げながら、それでもレイナが前に出た。倒れて転がっている木霊に阻まれて、向こうからの攻撃はまだ届かない。
「メタルブレード!」
レイナの魔法が木霊を縦に切り裂く。それがさらに邪魔になって木霊はこちらに近づくことができず、レイナの魔法で一方的に切り裂かれていく。
「囲まれなければこんなものか」
一応レイナの隣まで出た俺の横にロンも出てきて、白けたようにそう言った。足の踏み場もないくらいに木が転がってしまっていて、俺たち戦士の出番など、もうない。
向こうに動くものが何もなくなったのを見て後ろを振り返ると、黒猫が一人で離れていくのが見えた。
「どこ行くんだ?」
何かを見つけたのかと慌てて駆け寄ったのだが、俺が置き去りにしてしまったリュックを取りに行っただけだった。一応周りを見渡してそれから振り返った黒猫が、眉根を寄せる。
「うーん…これはけっこう大変かも……」
「何がだ?」
木霊を全部倒して、やっと大変なことは終わったのではないのか。
「あれを全部どかさないと、道が通れません」
「ああ…そうだな……」
それは確かに大変なことだ。だがやっと戦いが終わってほっとしているところに、それは言いづらい。向こうから呼ばれるまで、二人で茫然と目の前を見つめているしかなかった。
呼ばれて戻ると、ユリと話していたレイナがこっちに向いた。
「やっぱりウージュに戻らない?」
「どうして?」
さっきまで嫌がっていたのに戻ろうと言い出したのがわからなくて、聞き返すしかなかった。
「こんなのがいるようじゃここから出るのは大変そうだし、放っておいて行っちゃうのもなんだか気が引けるっていうか、ね」
「レイナがいいなら私たちはいいけど、アキトさんたちはどう?」
俺と黒猫以外の七人の間では、もう話はついているようだ。俺もユリと同意見で、レイナがいいのならばそれでいい。隣の黒猫に目をやると、小さく笑ってうなづいてくれた。
「俺たちもそれでいい。でも、戻る前にやることがある」
「何?」
今度はレイナが俺に聞き返した。
「これの片づけだ」
「あー……」
レイナだけでなく、全員がため息をついた。
切り倒した木をそのまま運ぶ方法もなければ、運ぶ場所もない。ある程度小さく切るか砕くかして、木の間に押し込むしかない。
「せーのっ!」
しかしユリが拳で砕こうとしても、滑ったり転がったりで力が逃げてしまう。結局小さくするのはレイナの魔法頼みになってしまった。
切った幹を男子組が、枝などを女子組が道の外へ押し出す。ユリの力ならば幹を運ぶのを手伝ってくれてもよさそうなものなのだが、怖くて誰もそれは言えなかった。
戦いよりも片づけの方が時間がかかったのではないかというくらい、片づけは果てしなかった。ようやく道が通れるようになった時には、全員が一斉にその場にへたりこんだ。
しばらくそうして休んでいたのだが、道の先、西の方からガタゴトと物音が聞こえてきた。新手かと思って立ち上がり、剣に手をかけたのだが、音の主は荷車だった。
「何かあったのか? こんな所で」
荷車の前を歩いていた冒険者らしい男が声をかけてきた。勘違いで剣に手をかけたことを見とがめられてしまったのだろうかと内心どきりとした。
「木霊が出たんだ。さっきまでそれを片づけてた」
「木霊が、出たのか」
驚いた様子で男は荷車の方に戻った。商人らしい男と話をしている。冒険者の方は背を向けているのでわからないが、商人の方は難しい顔をしているように見える。
「あの人数では木霊が出たら厳しそうですね。引き返す相談かな」
黒猫はそう見たようだ。荷車三台に用心棒が三人、荷の値段にもよるが、よくある依頼と比べると手薄ではある。
話していた二人が動いたので相談が決まったのかと思ったが、二人揃ってこっちに来たのだった。今度は商人の方が俺に声をかける。
「皆さんは、どちらに向かっているのですか?」
「ウージュの方へ」
正確には向こうから来て引き返そうとしているところなのだが、それは言わなくてもいいだろう。それを聞いて二人はうなづき合った。
「もしよろしければ、皆さんもウージュまでご一緒していただけないでしょうか」
「つまり、用心棒の依頼だと」
「はい」
悪くない話だと思う。それでも俺だけで決めるわけにはいかなくて、ユリを呼んで相談してみる。
「ちょうどいいじゃん。それでちょっとでもお金が入るなら言うことなしだよ」
みんなには話しておくから話を決めてほしいと頼まれて、俺が返事をする前に向こうへ行ってしまった。
「わかりました。ウージュまで一緒に行きます」
「それは助かります。報酬は500、こんな所では手続きなどもないですから、今先にお支払いします」
ひとまずそれは俺が受け取って、荷車と一緒に出発した。
元からいた冒険者たちとユリたちが先頭に、俺たちが後ろに立って、一列に並んだ荷車を挟んでいく。
ここ二日間収入がなかった俺たちには思ってもいない幸運だったが、ちょうど道が片づいたところに通れた商人たちも幸運なのかもしれない。朝から無事に通ってきて多分安全な道を行くだけなのにお金をもらうことに少し悪い気もしたのだが、先に仕事をしておいたと思うことにした。
誰にでも気さくに話しかけるユリは、ここでも冒険者たちとおしゃべりをしているようだ。商人は話好きではないらしく、荷車の真ん中にいて話には加わってこない。
一応注意はしていたがやはり木霊が出てくることはなく、夕方前にはウージュに到着した。荷車が向かった先は鍛冶屋で、荷物は石のようにごろごろした鉄だった。荷車を店の裏に入れたところで、俺たちの仕事は終わりになった。
「助かりました。あなたたちのおかげでウージュまで届けられました」
「いえ。結局何もしませんで」
「そんなことはありません。あなたたちが木霊を退治しておいてくれたから、無事にここまで来れたのです」
丁寧にお礼を言ってもらって、かえって恐縮だった。
店の表に回ってみると、ここは武器屋かと思うくらい、小さなものから大きなものまで斧ばかりが並んでいた。その脇に剣やのこぎり、そして奥の方に料理にでも使いそうなナイフなんかが置いてある。
自分は武具など使わないのになぜか熱心にいろいろ見ているユリを見つけて、報酬の半分を渡した。
「意外だな。武器に興味があるなんて」
「高いなあって思って。ねえアキトさん、ここに置いてあるのってそれだけいいものなのかな」
どうだろう。見ただけではわからない。試しに剣を手に取ってみると、明らかに重い。刀身に厚みがあるのだ。
「良し悪しは俺もよくわからないけど、この剣なんかは厚くて重い。高いのはその分もあるんだろう」
「じゃあ遣い手を選ぶんだね」
「そうなるな。木霊を相手にするならこういう斬るよりも打つような武器の方がいいかもしれない」
「ふうん……」
ユリは小首をかしげながら今度は遥のところへ向かった。今度は少し言葉を交わしただけで、次は表にいるレイナへと声をかけた。
「今日のうちにギルドに行っておこうよ。あと、みんなで泊まれる宿も探さないとね」
その一声で、店の物色は終わりになった。朝ちょっと寄っただけになったギルドに、もう一度入る。
まだ夕方前なので他の冒険者はいなかったのだが、イースタンベースほど大きなものではないので九人もいるとかなり入った感じだ。その分張り出されている依頼も少なく、見てみるとちょっと人手がほしいというような依頼がほとんどない。
聞いたことのない名前の町まで行くような依頼があって、それがけっこうな額の報酬だったりする。それだけ長旅になるということか、それとも危険があるということか。
黒猫が釘で刺された依頼書を一枚取って、カウンターへ向かう。そのあたりの依頼書はみんなが見ていて入りこむ余地がないので、俺は黒猫についてカウンターへ行ってみた。
「すみません。これ、同じようなのが東西南北とありますけど、どういうことですか?」
黒猫が差し出した依頼書は、見つけた木霊の数をここに知らせるというものだった。報酬が一日いくらで木霊の数によらないということが俺には意外だったのだが、黒猫はそれには触れない。
「それは町からの依頼で、どっちに多く出ているか探ろうとしているんです」
「たくさんいる方向に、何かがあるということですか」
「最近たくさん出ているようなので、少しでも様子を知っておきたいということらしいです。もちろん見つけるだけじゃなくて倒してもらえればもっといいのですが、木霊の相手はなかなか難しいですから」
「そうですね。森に入って戻ってこないなんて話も聞きました」
「失礼ですが、ここは初めての方とお見受けしました。木霊は普通の木に混じって道に迷わせますので、重々注意してください」
「はい。昨日今日と襲われて大変でした」
言葉と裏腹な笑顔を見せて、黒猫は依頼書をさらに差し出した。
「イースタンベースへの道の途中でだいたい20。なんとかみんなで倒してきたところなのです」
「ついに、西にもですか」
NPCの感想は、昨日会った警備隊と同じだった。
「依頼を受けたわけではないので報酬とは言えませんが、お知らせしておいた方がいいかと思いまして」
「それはわざわざ、ありがとうございます」
NPCがそこらの紙に何かを書いたところで、話は終わった。振り返った黒猫が俺に苦笑して見せる。
「お前まさか……、報酬もらおうとしていたのか…?」
「さすがにそう甘くはありませんでした。でも、知らせておいた方がいいと思ったのは本当ですよ?」
ずいぶんあくどいことをすると俺が眉をひそめると、黒猫は口角をニッと上げて人の悪そうな笑みを浮かべた。しかしそれはすぐに収めて、依頼書を持ってみんなの後ろから声をかける。
「これでいいんじゃないでしょうか。これならイースタンベースへの道に近いところでやれそうなので、まだこっちには慣れていないぼくたちにはちょうどいいと思います」
「でもさ、報酬安いなと思って。違う方ならちょっと高いし、やるならそっちにしようかって言ってたところだ」
みんなを代表してロンが答えた。まだ慣れていないのならばどっちに行っても同じと言うのも、もっともではある。
「高いってことはその分危ないってことです。西側はあまり出ないってみんな思っているようですし、今日けっこう倒したところですし、危険は報酬の差以上に違うと思います」
今日わかったことは、俺たちでも何とか倒せるということと、最後にレイナ一人が大活躍したように立ち回りによっては簡単に倒せることもあるということだ。
「俺は、今日みたいにあんなにたくさんは相手したくない。今は少しずつ戦って、うまい戦い方を知った方がいいと思う」
言ってはみたが、今日ほとんど戦っていない俺の意見など聞いてもらえるだろうか。
「それもそっか。今日助けてくれたアキトさんの見立ては、大事にしないとだよね」
それもそれで過大評価だが、ユリがそう言うとみんなもそう思ってくれるらしく、その一言で決まってしまった。俺の意見が聞き入れてもらえたのだが、ユリの判断とか説得力とかとても俺には真似できそうにないと、他人事のように感心してしまう。
「これ、依頼書が何枚もあるってことは一パーティだけしか受けられないとかじゃないよね?」
ユリも同じ依頼書をひとつ取って、NPCに問いかける。まるでひとつのパーティのように入ってきておいて依頼はふたつ分というのもずるい気がしないでもないが、黒猫に依頼書を手渡された俺はユリに続いて手続きをしたのだった。
ギルドを出ると、さすがにもう西の空が赤く染まってきていた。宿を探さなければならないが、ユリには当てがあるらしく、日に背を向けて通りを歩きだす。昨日俺たちが泊まったところとは違う方向だ。
「昨日私たちが泊まったところ、私は気に入ったからそこにみんなで泊まれればいいなって思って」
どこに行くのか聞いたレイナに、ユリはそう答えた。何となく気に入ればとりあえずそこを拠点にするというのは、冒険者としては普通だと思う。しかし、
「何がよかったの? ご飯がおいしいとか部屋がきれいとか、それとも安いからとか?」
「それは内緒。みんなも気に入ってくれると思うんだ」
ユリが気に入るようなことが何か、それは教えてもらえなかった。なんだか楽しげだが、ユリが悪気を持って人を驚かせることはないだろう。レイナはまだ言わせようと粘っていたが、楽しみにしていればいいと思う。
連れていかれたのは、冒険者が泊まるところにありがちな飯屋兼宿屋だった。それも普通だ。そして店主らしい男にも変わったところは見えない。
九人ならば六三か五四の二部屋だと言われた。俺たち五人とユリたち四人でちょうどいいと思ったが、そこでユリが別のことを言いだした。
「せっかくだからさ、男子と女子でまとまろうよ」
「いいね」
即座に賛成したのはレイナとメグだった。女子の残りの一人の蒼玉も、反対という顔はしていない。そういうところは、もうひとつのパーティのようなものだ。
「だけどさ、金はどう払うんだ? ユリの方は一人ずつ払うんじゃないんだろ?」
「ユリにまとめて払ってもらって、あたしたちがその分をユリに出せばいいよ」
俺も同じことを思ったロンの疑問は、レイナの即答で決着した。そこがちゃんとしていれば問題はない。男子五人からも反対の声は上がらなかった。
食事の準備に少しかかるとのことだったので、先に部屋に通してもらって武具なんかの荷物を置いた。部屋も特別何かがあるでもなく、普通といったところだろう。女の子が気に入るだけあって、掃除は行き届いているように見えるくらいだ。
出された食事も普通だった。ここもやはり主食は芋らしく、蒸した芋がゴロゴロしていた。強いて言えばもうちょっと食べたいかなと思うくらいの量なのだが、ユリあたりにはこれでちょうどいいのだろうか。
「はい。今日はこれ」
みんなが食べ終わった頃を見計らって、店主がもう一皿運んできた。親指の先くらいの大きさの、赤くてみずみずしいつやのあるものが積まれている。
「これは?」
「サクランボだ。種があるからそれは皿の隅にでも置いてくれればいい」
ユリの問いにそれだけ答えて、店主は奥へ戻ってしまった。名前を言われても何なのかわからないのだが、昨日もここに泊まったというユリたちと一人納得したような顔をしている黒猫がひとつつまんで口に入れた。
その黒猫は、かむのをやめてぎゅっと目をつむった。おいしくないのだろうか。
「へえぇ、こういう味なんですね」
口の中から種を取り出して、今度は感心したような顔をする。
「どんな味なのよ」
同じく黒猫の様子を見ていたレイナが問いかける。
「酸っぱくておいしいよ」
問われた黒猫よりも早く、ユリが満面の笑みで答えた。宿に入る前に見せたような含みのありそうな笑いではなくて、本当に喜んでいる笑顔だ。それを見てレイナが、続いて俺たちもひとつずつ口にする。
なるほど酸っぱい。もっとちゃんと言うならば甘酸っぱいといったところだ。
「うん、おいしい。ユリが気に入ったのってこれ?」
よほど気に入ったのか、レイナはしゃべりながらもう次のひとつを手に取っていた。
「そう。ウージュの果物とかを食べさせてくれるお店なんだって。昨日はビワっていうもうちょっと大きくて固いのだったんだけど、その日その日でいろいろみたい」
「おいしかったんだ」
「うん。それで今日もここに来ればまた別のおいしいものがあるかなって思って、それでみんなを誘ったの」
確かにこれはおいしい。でもお菓子のようにたくさん食べるものではないと思うのだが、女子組は次々と取っては食べている。
「お前はこれ知ってたのか?」
それには近づけそうにもないので、一人だけ最初から躊躇なく手を出していた黒猫にそんなことを聞いてみる。
「名前だけは聞いたことがありましたが、本物は初めてです。こうして本物に出会えるのも、冒険の楽しみですね」
黒猫も気に入ったのか、答えるだけ答えてさらに皿からひとつつまんだ。知らなかったものに出会うことが楽しみ、か。そうだよな、と思って教えてくれた黒猫に目をやると、気づいて目を合わせてきた。
「あんまり遠慮していると全部食べられちゃいますよ」
しかし向こうにはもう感慨も何もなかったのだった。せっかく気を遣ってくれた黒猫に付き合って、俺ももう何個か口にした。
もう依頼は決まっていたので、宿を出てそのまま西から町を出た。一日の間に町の西側で木霊を何体見たのかを報告する、それが依頼の内容だ。
とりあえず昨日と同じようにイースタンベースへの道を歩いているのだが、依頼で指示されているのは町の西側というだけで、道沿いに限った話ではない。
「でもさ、どこをどう探せばいいんだ?」
ロンの疑問はそのとおりなのだが、うかつに森には入れない。知らないうちに木霊に誘いこまれて囲まれたら、今度こそどうなるかわからない。
「まずは昨日木霊が出たところだろう。もしかしたらまだ他にいるかもしれない」
「いなかったら?」
当然の疑問ではあるが、そこまでは答えられない。
「いなかったらいなかったでいいじゃないですか」
俺が黙ってしまったところで、黒猫がいやに明るい声で口を挟んだ。
「何体いたかを報告するのであって、それが一体もいないということでもちゃんと報告をしたことに変わりはありません。つまり、報酬は変わりません」
「なんだ。じゃあ見つかりませんでしたってことで昼寝しててもいいわけだ」
「それが見つかったら二度とギルドで依頼を受けられなくなるでしょうけどね」
黒猫は笑っているように見えるが、細めた目からの視線が鋭い。自分もNPCをやっていただけあって、そういうところはいい加減にはしたくないのだろう。ロンも気づいたらしく、ぎょっとした顔で口をつぐんだ。
「なんかこう、パッと見つける方法があればいいんだけど……やっぱりあれしかないのかな」
ユリの口ぶりは何か方法があるようなのだが、それにしては表情が浮かない。
「あれって?」
聞き返すレイナに一瞬ためらう様子を見せたが、一度目を伏せてから口を開いた。
「昨日珠季ちゃんがやった、火を近づけるの。でも近寄らないといけないからずっと気を張ってないとだし、大変すぎるかなって…」
「だったら交代でやればいいんだよ」
簡単に答えたレイナに、ユリは驚いた顔を向けた。
「そうだよね。うん、そうだよ」
言いながら何度もうなづいていたが、途中でそれが止まった。
「でも、みんなやってくれるの? 珠季ちゃんの時はけっこう危なさそうだったけど…」
「俺がやろう」
俺と葵が同時に答えた。最初に交代と言い出したレイナは、危険だと思ったのかやるとは言いださなかった。
「他にできることもありませんし、やってみますか。木切れが燃え尽きたら交代で」
言いながら黒猫はもう木切れを二本拾ってきていた。
「最初はユリさんとぼく、次が葵さんとアキトさん。その後は、その時にまた」
「おれがやる」
二人ずつなのか、という俺の疑問の声は葵の強い語気にかき消されてしまった。
「いいよアオちゃん。両手が空いてる人が適任ってことでしょ? 珠季ちゃん」
「はい」
「で、なんで珠季ちゃんもなの?」
「だって、道の両側を見ないといけませんから」
「あ、そういうこと」
ユリが笑顔を見せたところで決定だった。葵はまだ納得できていないような顔をしているが、黙ってユリのことを見ているだけで反対などはしなかった。
二人が道の両脇で火をかざして歩き、他のメンバーが木霊が出てきた時にそれを叩くということになって、ユリたちと俺たちで右と左に分かれた。
黒猫が慎重そうに先をそろそろ歩いて、俺たちもそんな黒猫とその向こうの森をにらみながら続いていく。しゃべる余裕など誰にもなくて、耳に入るのは木切れの燃える音と自分たちの足音くらいだ。
「あの」
突然、蒼玉がみんなを呼ぶように声を上げた。何か見つけたのかとみんなが一斉に蒼玉に注目する。その時気づいた。反対側のユリたちと少し前後に離れてしまっている。
「気づいてくれてありがと、蒼玉」
メグも同じことを思ったようで、その声に誘われたように一度全員が集まった。
「そっちの方が一人多いし、右左で離れないように蒼玉が見ててよ」
「わかりました」
メグの頼みに蒼玉があっさり答えて、全体を見る役を引き受けることになった。
態勢を整えて、再び西へと歩き出す。木切れはまだある程度の長さが残っており、火をかざす役はまだ黒猫とユリのままだ。
「あのさ、蒼玉」
森への警戒をロンとレイナに勝手に任せて、俺は蒼玉に声をかけた。いつも真っすぐに相手の目を見る蒼玉も、今回ばかりはユリたちの方をちらちら見たりしている。
「見ててくれてありがとう。あと、邪魔して悪い」
これを言うことでみんなに迷惑をかけているのだが、どうしても言っておきたかった。
「はい」
しかし蒼玉の返事も注意が他に向いているような生返事で、俺は声をかけたことを後悔したのだった。
今は木霊を見逃さないように集中していなければならない。それなのに、みんなそうしているのに、俺一人だけ余計なことを考えていた。そして今もそんなことを考えてしまって、注意がおろそかになってしまっている。申し訳ないと思うほど目線は下に落ちてしまい、森の様子など見ていられなくなる。
「いないねえ」
ユリの声で、みんなが足を止めた。ろくに前を見れていなかった俺は、ロンの背中にぶつかりそうになってしまう。
「昨日の所についちゃったけど、どうする? もう少し先まで行く?」
前方の足元には、昨日押し込んだ木切れが散らばっている。ちょうどユリたちが持っていた木切れは燃え尽きて、黒猫が別の物を拾ってきた。
「なあ、こっちって何なんだ?」
昨日間違って入ってしまいそうになった道のようなものを、葵が指差した。その先は森の中に消えているのだが、一見ここまでの道のように少し先で曲がっているだけのように見える。
昨日はここで俺がみんなを止めたのだが、その俺もこれが何なのかはわからない。
「よそへ行ける分かれ道なのか?」
「うーん……そんな話は聞いたことがないのですが…」
ロンと黒猫がそんな話をしているところに、蒼玉が入っていった。
「昨日は道の方に木霊がいました」
「そうだな」
「それは元々こっちにいたものだったとしたら、話が合うのではないでしょうか」
道の方をふさいで代わりに空いた場所を道に見せかけて、森の中へ誘いこんで後ろから襲うつもりではなかったのかと、蒼玉は言った。
「きっとこれだよ。一昨日ウージュに行こうとした時に私が道を間違えちゃったのも」
閃いたというようにユリが手を叩いて声を上げたが、蒼玉の意見は違った。
「もしそういうやり方だったとしても、一昨日のはこれとは別です」
「そうなの?」
表情を変えずにユリを見つめる蒼玉の目に、ユリの方は萎んだような顔になってしまう。蒼玉にそのつもりはないのだが、ユリにはちょっと厳しく聞こえたのだろう。
「ここは西の方を向いています。あの時私たちは東へ向かっていたのですから、逆方向に行きそうになればおかしいと思ったはずです」
「それは、そうだね」
「ですから、私の想像が合っているのならば、一昨日の木霊はまだ別にいることになります。そうでなければこれはただの隙間なのか、それはわかりません」
蒼玉を中心にああだこうだと話をしてるが、俺には考えつくことなんてなくて話に加わることができない。それならばせめて、今くらいは俺が周りを注意していよう。
そう思って道のようなものの方に目をやった時に、ちょうど風が吹いてさわさわと枝を揺らした。
「何、あれ」
揺れる枝の向こうに見えたものに、思わず声を上げてしまう。
「いるの? 木霊が」
今度は話の邪魔をしてしまった。
「違うんだ。あっちの奥に何か、ただの木じゃなくて木で作られたようなものが見えた、ような気がしたんだ」
言っているうちにそんなことはあり得ないとしか思えなくなってきた。町から離れ、道沿いでもなく、しかも木霊が出るようなこんな所に何かを作るなんて、おかしい。作ったところで木霊が動いたときに壊されてしまうだろう。
「木で作られたって、家とか、塀とか?」
「そう見えたような気がしたけど、多分見間違いだ。木霊がいるような森の中にそんなものなんて、危なすぎる」
俺は否定したが、それを聞いたユリの方が興味を示した。
「行ってみようよ。ここから見えたくらいなんだから、すぐそこでしょ?」
「でも、下手に森の中に入ったら危ないだろう」
「道がまだわかるくらいのところで戻ればいいんだよ。それくらいはイースタンベースもここも同じでしょ」
森を歩くことには俺たちよりもずっと慣れているユリが言うのなら、信じてもいいのだろうか。いや、ここには道に迷わせる木霊がいるという決定的な違いがある。
「違うな。入った後ろから木霊にふさがれたら、帰れなくなる」
判断に迷った俺よりも早く、葵がそれを言ってくれた。それを聞いたユリが考えこむ。普段はユリ任せの葵たちが何かを言った時には、ユリもそれを大事にしてくれるらしい。
「ねえ、珠季ちゃんはどう思う?」
そのユリが意見を求めたのは、黒猫だった。
「ぼくも気になりますね、アキトさんが見たっていうの」
「でも」
俺は渋ったが、黒猫は逆に俺に笑いかけた。
「だってアキトさん、いい加減に見てたわけじゃないでしょ? だからぼくはアキトさんが見たものを信じます」
そんなきっぱり言われると、気恥ずかしくて何と言ったらいいかわからなくなってしまう。俺が口をもごもごしている間に、黒猫はユリと話を進めてしまう。
「やっぱり用心に火を用意するとして、あとは地面に線を引きながら行きましょうか」
「線を引く?」
「こうやって」
ユリの疑問に、黒猫は先に拾ってきていた木切れを引きずって見せた。
「でもそれって、木霊が動いたらそれで消されるわよね?」
メグが黒猫が引いた線を足で払い消しながら、口を挟んだ。
「さすがに全部は消されないでしょうから、残った部分で向きくらいはわかるかなって思ったのですが、どうでしょう」
「木に目印をつけてもそれが動けばやっぱりわからなくなるし、目印のつけようがないのが嫌ね」
なんだかまた話についていけなくなっていて、ちょっと情けない。俺としてはやめさせたいのだが、どう言えばやめさせられるかわからなくて、何も言いだすことができない。
「火を近づけてみて木霊じゃないってわかった木に目印をつければいいんじゃないの?」
そんな俺なんかほったらかしで、今度は話にレイナが加わってくる。もう行ってみることは決まっているようで、どんな目印にするかなんて話に移ってしまっている。
そしてそれも決まってしまい、俺には火が点いた木切れが渡された。
「アキトさんしか見てないんだから、行き先はお願い。先頭になるついでに、さっき決めたとおり次はアキトさんとアオちゃんが火を持つ番で」
葵は不満そうな顔をしたが、先頭が俺とユリ、最後尾が葵とロンという列になった。ロンが後ろに回ったのは、線を引いて歩くのならば槍の石突で間に合うと自分で言いだしたからだった。
道のように見えた先はやはりすぐに木の間隔が狭まってきて、森の中と変わらなくなってしまう。俺が何かを見たような気がしたのはもっと奥だ。目の前の木ひとつひとつに火をかざして木霊ではないことを確認しながら、できるだけ真っすぐ進もうとする。
右も左ももしかすると木霊かもしれないと思うとおっかなびっくりだ。全然前に進めている気がしない。実際、そんな俺の後ろで黒猫が時々低い枝に布切れを縛りつけながら追いついてこれているくらいだ。
「アキトさん、あれ!」
目の前の木ばかりにしか注意を向けていない俺よりも、ユリの方が先にそれを見つけたのだった。一人で駆けだそうとする。
「待て」
火と盾で両手がふさがっている俺は引き止めることができず、無理やりユリの前に体を滑りこませて行く手をふさぐしかなかった。背中に受けた衝撃は軽かったが、無理して割りこんだのでつんのめりそうになってしまう。
「ごめん。でも、あったね」
前方に見える家の手前にある木だって、木霊でないとは言えない。そこまで言わなくてもユリはわかってくれて、俺に先頭を任せた。
目指す場所はすぐそこに見えるが、それでもここは慎重に進まなければならない。黒猫もここへ来てまだ目印の布切れをつけている。
やっとのことで家の前に着いたが、静かなもので人がいるのかわからない。小さな家で、全員で入るのは無理そうなので、後ろを歩いていた葵、ロン、黒猫、メグの四人には外で待ってもらうことにする。俺が持っていた火は黒猫が受け取ってくれた。
戸を叩いてみると、床がきしむ音が近づいてきた。人が住んでいるのかと声を上げて驚きそうになってしまったが、それはなんとかこらえた。
中から顔を出したのは、年老いた男だった。何も言わず表情も見せず、俺を上から下まで探るように眺める。
「お前たちは冒険者か」
「はい」
無言の視線に圧倒されて、ただ返事をするしかできなかった。こんな所にいるこの男こそ、何者なのだろうか。
「冒険者なら頼みごとがあるのだが」
男の言葉は短くて、そこから読み取れるものは何もない。
「どのような…?」
そんな男の話をまともに聞いてもいいのだろうかと思わないでもなかったが、逆らえないような感じがしてしまう。男はそんな俺の顔をにらみつけてから、気に入らないように鼻を鳴らした。
「これは秘密にしなければならん。やるかわからないような態度では、話すわけにはいかん」
これは関わらない方がよさそうだと俺が一歩下がって辞そうとしたところに、レイナが割りこんできた。
「何だかわからないことを先にやるかやらないかなんて決められる訳ないでしょ。話せることはないの?」
喧嘩腰のレイナに男は顔をしかめたが、怒りだすようなことはなく、何かを考えるように斜め上の方に視線を向けた。
話せることを考えてくれたらしく、男はレイナに視線を戻して口を開いた。
「木霊に、ある物を取り付けてもらいたいのだ」
「ある物って?」
「それは言えん。いや、革の帯のようなものだ。それを幹に括りつけてほしい」
話を聞く価値があると判断したのか、レイナはさらに質問を重ねた。
「報酬は?」
「終わった後も秘密を守ってもらう条件で、五本で1500」
「確かに報酬はいいけど、木霊に飛びつくような真似なんて、どうやるの?」
今度はすぐには返事はなく、呆れたような顔でレイナをたっぷりにらんでから、やっと答えた。
「そんなものは知らん。だから冒険者に頼むんだ」
しかしレイナはそんな不機嫌顔など無視して俺たちに振り返った。
「だってさ。どうする?」
依頼主を無視して相談などないだろう。俺はレイナを押しのけて、また来る旨を伝えて家を離れた。男の不機嫌な表情はそのままだったが、それでいいということか、文句も何もなかった。
外で待っていてもらった四人にも、依頼らしいその話を伝える。報酬のよさに興味を示す声が上がったが、それよりも俺にはあの男に関わっていいのかという不安が強い。
「やっぱり括りつける方法が問題だよね。近づけば根で叩いてくるんだから、それを止めないと無理だし」
ユリは乗り気らしい。
「動きを止めるのならあたしの魔法でできるんだけど……」
方法を考えているレイナも、乗り気ということだ。
「そうじゃん。でも、何かあるの?」
「足元が泥沼になったら、こっちからも近づけない」
「あー……」
二人ともあの男に会っている。それでも不審には思わなかったのだろうか。
「だったら、メグの氷の魔法はどうだ? 昨日はあれで動きが鈍ったところに斬りつけたりしたけど、そこで叩くように巻きつけることができれば…」
葵がそう言いながら、剣を横に薙ぐような手振りをして見せた。
「取り付けるって言ってたからねえ、そんな簡単にできるかな。その辺も聞いておけばよかったね」
「じゃあ聞きに行く? ううん、見せてもらおうよ」
「そうね。どうやるかわからないと、やるともやらないとも言えないわよね」
メグも加わって、もう少し話を聞かせてもらおうという方向になってきた。そんなことをしたら、もう後戻りはできないのではないか。それが怖くなった俺は、意を決して話に割って入ろうとした。
「あの」
だがその声は、蒼玉とちょうど重なってしまった。二人で顔を見合わせてしまう。
「邪魔してごめんなさい。アキトさん、どうぞ」
「いや……お前からで…」
みんながこっちを見て待っているのに、二人で譲り合ってしまう。蒼玉はそれでも真っすぐ俺の顔を見つめている。それなら、と俺は蒼玉にひとつうなづいて、ユリたちの方に向き直った。
「これはやめた方がいいと思う。なんて言うか…危ない気がするんだ」
「確かに木霊に近づくのは危ないけど、それを何とかするのも冒険ってやつじゃない?」
「違う。そうじゃなくて危なさそうなのはあの人のことなんだ」
「あの人が…?」
ユリが俺の話を聞くように俺の顔をのぞきこんだ。
「なんて言うか、関わっちゃいけないような人に見えた」
ユリはまだ納得したようには見えないが、俺にはこれ以上言えることはなかった。うまく説明なんかはできないがとにかく思いとどまってほしくて、頼むようにユリの目に視線を合わせる。
「私もそう思います」
俺の言葉が途切れてしまったところに、蒼玉が口を開いた。ここまでどうやって取り付けるかという話には加わっていなかったが、自分でもそれを考えていたのではなくてこの話に反対だったのは、意外だった。
「依頼が終わった後も秘密と言っていたということは人に言えない何かがあるということで、それがよくないことではないとは限りません。それがわからないのに関わってしまうのは、ひとつ間違えばよくないことに私たちも加わることになってしまいます」
それだ。俺がただ不安に思っていただけのことを、蒼玉が言葉にして示してくれた。
「それなら、そのあたりも聞かないとだね」
「教えてもらえるかどうかです。それに、教えてもらえたとして信用していいかどうか。私は難しいと思います」
俺とは違って、蒼玉はきっぱりと言い切る。
信用できない人、よくないこと。ウェスタンベースで子供を助けられなかった時のことがなぜか思い出されて、俺は胸のあたりが苦しくなってきてうつむいてしまった。
「アキトさんもそう思うの?」
ユリが俺に話を振ってきたが、俺はそれに気づきさえしなかった。さらに声をかけられて、やっと声をかけられたことに気づく。
「どうしたの?」
「何でもない。聞いてなくて悪い」
自分でもなぜそれを思い出してしまったのかはわからないし、今のことと関係なんかない。何でもないことにするしかなかった。
もう一度聞きなおされたので、俺も蒼玉に同意だと答える。
「あの人と直接話をしたのはアキトさんだもんね。そのアキトさんがそう言うのなら、そうなのかな……」
ユリが迷いだして、それでもやってみたいという声もなくて、沈黙してしまう。みんなそれぞれ、何を考えているだろうか。
誰も何も言いださないことを確認するようにみんなを見渡して、その様子を見ていた俺に一度目を合わせてから、黒猫が口を開いた。
「その取り付ける方法をもうちょっと考えるとか試すとかしてみて、それでやろうってなったら、もう一度ここに来ましょう」
こういう話が止まってしまった時にはいつも黒猫に助けてもらってばかりだなと、また情けなくなってしまう。
「試すってどうするんだ? それっぽいものもないのに」
そこに遥が疑問を返した。そんなことなど、俺は気づきもしなかった。
「え? えっと……」
別に考えがあったのでもなかったらしく黒猫はしどろもどろになってしまったが、自分でそこから抜け出せたらしく、一声あげてリュックを下ろしてごそごそやり始めた。
「例えばこれを縛りつけるとか。それができれば、話にあった革の帯のようなものもできそうな気がします」
黒猫が取り出したのはロープだった。帯よりはずっと長くて細いだろうが、扱いは似たようなところがあるのではないかと、意気込んで見せる。
「そうだな。何で試すかも含めて考えてみてからでもいいか」
遥の一言でこの話は後回しにすることが決まり、道に戻ることになった。だが、今度は俺がそれを呼び止めた。
「考えるってことは、やらないってことかもしれない。でも俺、あの人にまた来るって言っちゃったし、言っとかなくていいのかな…」
ロンとレイナあたりが呆れ顔になったが、黒猫がニコニコしながら寄ってきてくれた。
「NPCにとってまた来るは、依頼を受ける時にってことです。受けないならもう来ないことくらいああいう方にとっては当たり前ですので、そこまで気にすることはないです」
冒険者に頼みごとをするあの人も、NPCの一人ということか。そう思えてやっと、俺に残っていた後ろめたさがなくなった。
相談などしている間に木切れはとっくに燃え尽きてしまったので、ユリの指名で今度はロンと遥が火のついた木切れを持って歩くことになった。
木霊が出なかったので地面に引いた線をたどるだけで道まで戻ることができ、布切れの目印が役に立つことはなかったが、また来る時のために縛りつけた布切れはそのままにしておいた。
次にどこに行こうかという話になったが、蒼玉の推測によれば昨日とは別の木霊がまだ道沿いにいるはずだということで、さらに道を西に進むことにした。
火を持っているロンと遥が道の左右に分かれてそれぞれの先頭に立つ。あの時誘いこまれた方向からすれば、俺たちの側に木霊がいるはずだ。
ロンは怖さを感じていないのか、何気なく火を森の方にかざしながら歩くだけだ。それを見ている俺の方がかえって怖くなってしまう。そう思っていると両方を見ている蒼玉から声がかかって、早すぎると止められてしまった。
「ゆっくりすぎると見つけられるものも見つけられないんじゃないの?」
ロンは遥たちの方を振り返ってやや不満そうな声を上げる。それもそうかもしれないが、やはり慎重さは必要だと思う。
ロンに何か言ってやらないといけないかと思ったところに、その背後で何かが動くのが見えた。
「後ろ!」
叫ぶと同時に駆け出す。だが間に合わない。気づいたロンがとっさに前に飛び、強打はされなかったが、振り上げられた根が背中をかすって前のめりに倒れてしまった。
俺がロンと木霊の間に飛びこむと同時に、後ろから火のついた木切れが投げつけられた。それは木々の間に落ちたのだが、そっちも木霊で、すぐに踏み消された。
ロンを襲った木霊が先頭になって、根を這わせて近づきながら枝を伸ばして俺を打とうとする。後ろで黒猫がロンに回復魔法を送っている声がする。二人が動けない今、俺が避けるわけにはいかない。
盾を上に構えた時、もう一本の燃える木切れがその上を飛んでいった。葉が燃えるの嫌ってか、伸ばした枝でそれを打ち返した。木切れは俺の足元に落ち、弾き飛ばされた勢いで火は消えてしまった。今度こそ、来る。
「それじゃまあ、いろいろやってみましょうかねえ」
不意をくらって焦っている俺とは対照的な、余裕を感じさせる声で、レイナが俺の斜め後ろまで出てきた。昨日まであんなに怖がっていたのが嘘のようだ。
「アキト、後ろに跳んで。マッドトラップ!」
指示と魔法がほぼ同時だった。危うく俺まで泥沼にはまりそうになる。
「やっぱりこうなっちゃうと、こっちからも近づけないよね」
俺まで巻き込む気かと文句を言ってやろうとしたが、当のレイナはもがいている木霊を眺めながら暢気にそんなことを言っている。だがそれどころではない。左右から別の木霊が回りこんできている。
「アイスストーム!」
「重華斬!」
それを今度はメグの魔法と葵の斬撃が襲った。斬撃を受けた木霊は二つに打ち砕かれてそのまま動かなくなったが、氷が張りついた方はまだしぶとく前へとにじり寄ってくる。
「気刃斬!」
凍ったからか、今までの感触よりもあっさり切れたような気がする。泥沼と倒れた幹とで木霊の前進が遮られる。ロンも回復できたようだし、ここで体勢を立て直そう。
「あれ、見てください」
俺は一度距離を離そうかと思ったのだが、ここで黒猫が逆に前に出てきて前方の地面を指差した。
「泥沼が凍って、もがくこともできなくなっています」
吹雪の魔法が泥沼にも少しかかって、そこだけ凍りついている。
黒猫はさらに火の消えた木切れを拾って、そこへ放り投げた。固いものに当たったような音を立てて木切れはその場に転がった。
「これなら近づけますよ」
黒猫は振り返って嬉しそうにそう言ったが、動けなくなったのは足元だけで頭上の枝はそのままだ。
「伏せろ!」
その枝が黒猫めがけて振り下ろされる。俺はもう一度盾を上に構えて間に入る。今度は間に合って防ぐことができたが、黒猫もその攻撃には気づいていたらしく、飛び退っていたのだった。
「試すにしても、もっと数を減らして余裕ができてからだね」
ユリの一言で全員構えを取り直す。黒猫が俺の隣に戻ってきて一言謝った。
魔法でできた泥沼が消えて、もがいていた木霊が迫ってくる。上からは枝を、下からは根を、俺たちめがけて伸ばしてくる。
「ファイアーウォール!」
しかし蒼玉が放った火柱の魔法を浴びせられ、俺たちを打つ前にまとめて燃やされてしまった。激しい音を立てながら暴れるように枝や根を振り回したが、火は消えることなく逆に木霊をまるごと包んでしまう。木が燃えている音のはずなのだが、まるで叫びのように聞こえてきて怖くなってしまう。
後ろから押すように続いていた木霊たちも、燃え移るのを恐れてか森の奥へと下がっていく。火に包まれた木霊は最後の力を振り絞ってか、こちらに倒れてきた。俺たちも逃げるしかなかった。
道の真ん中で、倒れた木が燃え続けている。その熱気はすさまじく、周りが揺らめいて見える。その向こうにはまだまだ木霊がいるはずなのだが、揺らめきのせいでその姿は見えず、燃える激しい音のせいで這いずる音さえもわからない。
火をよけて回りこんだ時には、もうどれが木霊なのかわからなくなっていた。
「逃げられちゃった?」
「いや、そんなに足は速くないはずだ。きっとそこらでただの木のふりをしてるだろうよ」
残念そうな顔をしたユリに、葵は硬い声のままで答えた。すぐ近くにいると思っているのだろう、剣を手にしたまま前方を見回している。
「そうですね。でも今度は見つけるのは簡単です」
いつの間にか太めの枝に火を点けていた黒猫が、二人の前まで出た。黒猫も辺りを見回すのだが、葵と違って見ているのは地面らしい。そうか、根で這いずった跡を見ているのか。
「続き、初めてもいいですか?」
黒猫が前を見たまま、全員に伝えるように声を上げた。黒猫が向いている先の地面には、大きなものを引きずったような太い線が伸びている。
「お願い」
ユリが短く答えるのを聞いて、黒猫はまた火を投げた。風もないのにそこだけが、ざわ、と音を立てる。
先制攻撃とばかりにユリがそこに飛び蹴りを食らわせる。倒れながらも木霊は枝を伸ばしてユリを打ち据えようとしたが、ユリもそれは読んでいて、反動で大きくこちらに飛び退っていた。
倒れた木霊をよけてべつの木霊たちが出てこようとする。だがそれも、地面に残された跡が示してしまっている。二本並んで出てきたところを俺と葵で一本ずつ切り倒し、通り道をふさいでしまった。
しかしユリが蹴り倒した方の木霊はまだ動いていて、後ろから押されるようにして起き上がろうとしている。
「メタルブレード!」
その木霊はレイナの魔法が切り裂いたのだが、それを押しのけるようにして次々と新手が前に出てくる。まだ木霊の攻撃は届かない距離なのだが、押されるように俺たちは一歩、二歩と後ずさった。
「おい待て、下がってくるなよ」
魔法で押し返してもらうしかないかと思っているところに、後ろからロンが慌てたような声を上げた。
「後ろ、火!」
切羽詰まったような声に振り向くと、まださっきの木霊が燃えていて、後ろにいたロンたちが前に出ていた俺たちとの板挟みになりかけていた。
注意が後ろにそれてしまったところに、前に詰めてきていた木霊が根を伸ばしてきた。つい避けてしまう。
「ぐうっ!」
しまった、と思ってまた後ろを見てしまう。その目に映ったのは、遥がどうにか盾で根を受け止めたところだった。その脇からロンが飛び出してくる。
「破岩衝!」
捨て身の一撃で先頭の木霊の幹が砕ける。その頭上から襲いかかってきていた枝は、今度は俺が防いだ。
「今のうちに火の後ろに!」
ユリの声でめいめい左右に分かれて燃えている木霊の脇へと逃げた。
右側に逃げた俺の方には、ロン、遥、メグの三人がいた。ということは、向こうは葵が一人でみんなを守らないといけない。早く合流したかったが、火の後ろに回りこむ前に右手から別の木霊が回りこんできていた。
「ロン、向こうのみんなをこっちへ!」
このままでは挟み撃ちにされてしまう。俺がここで食い止めて、こっち側に下がるしかない。一声怒鳴るなり返事も聞かず、俺は回りこんできた木霊へと突っ込んだ。
伸ばしてきた根を盾で弾き、振り下ろした枝を切り払う。しかしそんなことで木霊は止まらなかった。しかもその脇から別の木霊が並ぶように出てきた。
どうにか立ちはだかろうとさらに斬りつけた後ろから、吹雪の魔法が放たれた。動きが鈍ったところを飛びこんできた遥の剣が両断する。一拍遅れたが、俺ももう一本を切り倒す。
「助かった」
「いや、助かったのはこっちだろうな。あのまま下がってたら逃げ場がなくなってた」
遥がちらりと斜め後ろを見やる。ようやく火が消えた黒焦げの幹を押しのけて、木霊がユリたちを追って迫ってきていた。だが、それを助けには行けない。こちらにもさらに別の木霊が出てきている。
「ここは任せろ。あんたはあっちの足を止めてくれ」
「でも一人じゃ…」
「いいから、足止めくらいはできる」
問答している場合ではない。ここは遥を信じてユリたちの側へと駆けた。その背後から、地面を強打したような轟音が耳に飛び込んでくる。
追われているユリたちも、蒼玉たち魔法士を先に逃がすくらいの余裕はあったらしい。ロンとユリが最後尾で、木霊の攻撃をあしらいながら下がってくる。
「二人とも下がれ!」
その二人を後ろから追い抜いて、一列になって迫ってくる木霊の先頭に渾身の斬撃を食らわせた。踏み込みが甘かったのか両断とはいかなかったが、それでも自身の重みでメリメリと音を立てて後ろに折れようとしている。それを後ろから続いてくる木霊が押してきている。
「アキトさん戻ってきて!」
後ろから黒猫の声が飛んできたので、折れかけの木霊は放っておいて声のした方へと駆けた。遥の方もさっきの一撃で一本は倒していたが、そちらもまだ後ろがいるようで、重いものを引きずる音が聞こえてくる。
道を東へと戻って、ようやく背後がふさがれていない状態で全員が揃うことができた。
「ごめんなさい。私があんな所で燃やしたせいでこんなことになって……」
集合が最後になった俺に、蒼玉が謝った。だが、それは違う。
「お前が悪いんじゃない。深入りしすぎたんだ」
「そういうのは後。ここからやり直し!」
蒼玉に気を落としてもらいたくなくてそんな返事をしてしまったが、そこにユリの鋭い声が飛んできた。ユリの言うとおり、今は誰が悪いとか言っている場合ではない。
さっきまで戦っていた場所から下がって遮るものがなくなった木霊が、前方を覆うように広がって襲いかかってくる。それに真っ先に仕掛けたのはユリだった。伸ばされる根をかわしながら斜めから飛び蹴りを放ち、さらにその反動でその横の一本にも蹴りを食らわせる。
「アオちゃん!」
飛び退きながら叫ぶユリと入れ替わりで、葵がよろめいた木霊を打ち砕く。しかしユリが後に蹴ったもう一本の方は、すぐに立ち直って前に出てくる。
俺たちの方に迫ってくるかと思ったその木霊が、真横の葵めがけて枝を振り下ろす。慌てて飛び出して盾で防ごうとしたが、気づくのが一瞬遅れたせいで踏ん張りがきかずに吹っ飛ばされてしまう。
「メタルブレード!」
その木霊がさらに伸ばした枝を振り回して葵を打とうとしたが、それはレイナの魔法で切り落とされた。その隙に俺は転がるようにしながら立ち上がり、葵も下がってくる。
「蒼玉、火の魔法!」
「でも……」
レイナが叫ぶが、蒼玉は躊躇する。その間にも木霊は横並びになって迫ってくる。
「マッドトラップ!」
レイナが泥沼の魔法を放つが、それは正面の二本をとらえただけで、その横からもさらに襲いかかってくる。
「早く!」
レイナが悲鳴のような声を上げるが、蒼玉は動けないようだ。代わりにはなれないが俺が前に出て構える。伸ばされる根や枝を剣や盾で払うが、そんな程度では木霊の前進は止められない。
「はあぁっ!」
横に回りこんでいたユリが斜め前の木霊を殴り飛ばし、それが俺の正面にいた木霊も巻き込んで倒れる。
「下がるよ!」
ユリの合図で全員がさらに東へと動いて、一旦距離を置いた。
「どうしたの蒼玉」
足を止めた後ろから、レイナが蒼玉を問い詰めるような声が聞こえてくる。
「私の魔法のせいで、こんな不利になってしまったから……」
「でも、あれを止められるのはあんたの魔法しかないの」
そこで蒼玉の声は聞こえなくなってしまう。レイナの言うとおり俺ではどうにかできないのは悔しいが、それでも今蒼玉を責め立てるべきではない。
「やめろレイナ」
木霊は前に出るのに手間取っているが、そろそろ抜け出てきそうになっている。それでも俺はそれを無視して後ろへと下がった。
「もう一度、足止めを頼む」
レイナにはそれだけ言って、蒼玉の手を引いて最後尾で周囲の様子を見ている黒猫の後ろまで連れていく。
「大丈夫だ」
真っすぐに蒼玉の目を見て、ゆっくりと一言だけ伝える。蒼玉は前方の様子を気にするように目をちらちら動かしていたが、それでも蒼玉だけを見続けている俺にやっと視線を合わせてくれた。
向こうからは戦っている激しい音が聞こえてくる。それでも俺は、今この視線を離したくなかった。今この一瞬だけでも蒼玉を戦いから切り離したかった。
「うまくいかない時だってある。でもみんながいるんだ。全部お前のせいだなんて思わなくてもいいんだ」
さっきの場合は蒼玉の魔法のせいというよりも、俺たちが考えなしに火を背にしてしまったことが悪い。だが今それを蒼玉に言ってもきっと伝わらない。俺だったらそうだ。
とにかく今は蒼玉に落ち着いてもらいたかった。それだけを思って、蒼玉のきれいな目を見続けた。
「はい」
やがて短く答えた蒼玉は、俺の横をすり抜けて戦いの場へと足を踏み出した。俺も後を追いながらその向こうに目を走らせる。三本ほどの木霊が、根や枝を振り回してこちらの攻撃を阻んでいる。
蒼玉が魔法を放とうと杖をかざした時、
「あ、待って!」
レイナがそれを見つけて声で制した。さっきあれだけ人を急かしておいて、今度は何なのだろうか。
「何だよ」
言われた本人よりも俺の方がムッとしてしまい、つい声を荒らげてしまったが、さっきまで休んでいた人は黙っていてと冷たくあしらわれてしまう。
「やっと数が減ってきたからさ、さっきのを試してみようって話になってさ」
俺には何のことかわからなかったが、蒼玉にはわかったらしく、自分は何をすればいいのかと早速話に加わる。いつもの蒼玉に戻ってくれたようだ。
レイナの泥沼の魔法に木霊を落として、メグの吹雪の魔法でそれを凍らせて、黒猫がロープを縛りつけるのだという。しかしそれでは根の動きは止められても上からの枝の攻撃は止められないので、蒼玉にはその援護をしてもらいたいのだという。
「そのロープを縛るのは、俺がやる」
危ないことをわざわざ黒猫にやらせることはないだろう。そう思って口を挟んだのだったが、当の黒猫に却下されてしまった。
「いちばん戦っていないのはぼくですから、それくらいのことはやらせてください。それに氷は滑るので、滑りにくい靴のぼくしかできないんです」
滑りにくい靴。そう言えば、雨の次の日に山道を下りる道で俺が四苦八苦していた時に、黒猫がそんなことを言っていた。氷がどれくらい滑りやすいのかはわからないが、黒猫が言うのだから相当のことなのだろう。
「そうか。じゃあ任せるけど、気をつけろよ」
「あんたって本当、珠季の言うことはよく聞くよね」
俺に呆れ顔を見せて、レイナは前方に向かって声を上げた。四人だけで前方を任されていたユリたちが戻ってくる。いつの間にか木霊は正面に見えた三本しか残っていないらしい。
「決まった?」
「うん。今からやるけど、あたしの魔法じゃ三本はとらえきれないかもしれないから、その時は残りをよろしくね」
「任せて」
ずっと戦っていただろうに、ユリは疲れも見せずににっこりと笑顔を見せた。後ろで黒猫がリュックを下ろして中からかぎ爪のついたロープを取り出す。それで準備は整ったらしく、レイナが前に出た。
「それじゃ始めるよ。マッドトラップ!」
正面に放った泥沼の魔法は真ん中の一本をその中央にとらえたが、左右はどちらも外れてしまう。それを見たユリが右の木霊へと駆けだそうとしたが、メグがそれを制した。
「先にこっち。アイスストーム!」
木霊の足元めがけて放たれた吹雪の魔法は、泥沼だけでなく両側の木霊の根までも凍らせた。凍った泥沼にはまった真ん中の一本は完全に前進が止まったが、両側の二本は氷漬けになっていない後ろ側の根をうねらせて出てこようとする。
「ゴメン、両方ともお願い」
そのレイナの声よりも早く、右にはユリが、左には俺が飛び出していた。上からの枝の攻撃をくぐるように、駆け抜けざまに斬撃を加える。さらにそれに続いたロンの一撃で幹が折れ、後ろへと倒れた。
これでこちら側から黒猫が襲われることはないだろうが、念のために俺は幹をまたいで枝と泥沼の間に立った。向こう側ではどうやったのか、泥沼と反対方向に木霊が倒されていた。
「うわっ!?」
これで後は一本だけと思った時、後ろから黒猫の驚いたような声が聞こえてきて、倒した木霊を見ているはずなのについそちらを向いてしまう。自分で言ったとおりに滑ってしまったらしく、凍った泥沼の上で前のめりに手をついていた。
そんな無防備なところに容赦なく上から枝が伸ばされる。俺の疾風斬では間に合わないと焦ったが、そこは蒼玉とレイナの魔法が弾いてくれた。
「ちょっと反則かもだけどっ!」
前のめりのまま黒猫は手にしていたロープをしならせて、かぎ爪を木霊めがけて打ちつけた。木霊に巻きついたロープを伝うようにして、黒猫が幹までたどり着く。それでも上からの攻撃はやまず、魔法士三人がかりで枝をかなり打ち払っていた。
「離れます!」
巻きつけたロープを外して、黒猫は今度は俺の方にロープを投げた。受け取って、ロープにつかまっている黒猫ごと引っ張り寄せる。それが思っていたよりもずっと軽くて、氷が滑りやすいということがよくわかった。
戻ってきた黒猫に急かされて俺も泥沼から離れるように走ると、後ろから木が折れるような音が追ってきた。最後の木霊が倒され、土煙が俺たちのところまで届いた。危うく巻き添えになって潰されるところだった。
「けっこう危ないですけど、できないことはなさそうですね」
潰されかけたことにはまったく触れずに結論だけを言う黒猫に、俺も文句を言いそびれてしまう。
「でもこれでは他の木霊の攻撃までは防ぎきれなさそうなので、最後の一本でしかできません。五本ということは、五回戦わなければならないことになります」
蒼玉の意見に、みんなが難しい顔をした。
「うまく他の木霊を近づけさせないようにできれば、やりようはあると思うけど……」
「それに、できるできないよりも、あの依頼をやるかやらないかという方が大事だと思います」
試すのには反対もせずに加わっていたので蒼玉もやる気になったのかと思っていたが、それはそれ、これはこれということらしい。
「そこまでしてやることか、ってこと?」
「いいえ。比較ではなくて、やはりあの人は信用してはいけないと私は思うのです」
レイナの問いを、蒼玉はきっぱり否定した。俺も同じ意見だからそう思うのかもしれないが、蒼玉に誰も反論しないのは、信用できると言える理由がどこにもないからだろう。
「まあ、そこまでしてってのも、確かにあるな」
沈黙してしまったところに声を上げたのは、遥だった。
「五本で1500。これが木霊と五回戦うのだとすると、これまでの感じだと何日もかかる。そうなると1500じゃ割に合わないってことになる」
「でも、例えば今の依頼と同時にできるんじゃないの? ギルドの方には木霊が何本いました、あの人の方には五本取りつけましたって」
メグの意見にユリがなるほど、と手を打った。だが俺にはそううまくいく気がしない。
「それが許されるかってこともわからない。それにこれがおかしなことになれば、ギルドをだますことになるかもしれない」
それをすればどうなるかは、今朝黒猫が脅すように言ってくれている。そこまで考えて言ったのではなかったが、何だか自分でも驚くくらいにみんなに響いているようだ。
「聞かなかったことにするしかないかぁ」
諦めたようにユリが首を横に振った。実際に試しをやった四人がそれに反対しなかったところで、決まりだった。
「さて」
気分を変えたようにユリが明るい声を上げる。何だろうと思ったら、道に散らかった木霊を片づけなければということだった。
それが終わった頃には日はもう西に傾き始めていて、今日のところは町に帰ることにした。用心のために先頭と後ろで火を持っておくことにして、先頭にはユリが、後ろには黒猫がついた。
いろいろあって疲れているだろうに、それでもユリがおしゃべりをしている声が、黒猫の隣を歩いている俺のところまで聞こえてくる。時々誰かが前に出ていったりしていて、話し相手がちょこちょこ変わっているらしい。
「あの……」
そんな中で、逆に蒼玉が俺たちのところまで下がってきた。
「どうした?」
「さっきは、ありがとうございました」
礼を言われても何のことかわからなくて、俺は首をかしげてしまう。蒼玉も何も言ってくれなくて、いつものように目を合わせてもくれない。それでも、何かを気にしているかのように、時々こっちなのかその向こうなのかを見たりしている。
何だか蒼玉らしくない。いつもならば必要なことを言ったら真っすぐ前を向いて歩くのが蒼玉のはずだ。
「なあ黒猫」
そう気づいた俺は一旦蒼玉を無視して、逆に黒猫に声をかけた。
「何でしょう」
「火は俺が持つ。後ろは任せろ」
「はい」
俺が思ったことなど黒猫にはお見通しらしく、あっさりと火のついた木切れを俺に渡してロンや遥のいるところまで出ていってしまった。
盾と火を持ち換えて、蒼玉の顔をのぞきこむ。
「あの時大丈夫だって言ってもらえて、私が落ち着くまで待ってもらえて、それでやっと、やるべきことをやらなければいけないと思いなおすことができました」
蒼玉にとって改めて言わなければいけないことだった、ということか。俺はそれほどのつもりはなくて、だからそれを黙って聞くだけだったが、蒼玉は俺の反応を待っているようで、今度はじっと俺の目に視線を合わせている。
「あれは…、俺がああしたかったから」
蒼玉はまだ俺から目を離さなくて、なぜかと無言で問いかけてくる。考えてやったことではないことをなぜかと問われても困る。だが答えなければ蒼玉は納得してくれそうにない。あの時、俺は……
「辛かったんだ」
言葉で表そうとして最初に浮かんだ言葉が、それだった。
「あれはみんな後先考えずに深入りしてなったことなのに、お前一人が悪いみたいなことを言ってるのを、聞いていたくなかった」
一瞬だけハッとした表情を浮かべた後、蒼玉は目を伏せてしまった。無神経なことを言ってしまったのだ。
「ごめん」「ごめんなさい」
思いもかけず声が重なって、二人とも次の言葉が出なくなってしまう。そんな場合ではない。俺は蒼玉に謝らなければならない。
「勝手なこと言って、嫌な思いをさせて、ごめん」
「いいえ違います」
蒼玉は強く首を横に振った。
「勝手を言って不快にさせたのは私の方です。ですが…」
蒼玉はもう一度俺の目に視線を合わせる。何を、言われるのだろうか。
「あの時のアキトさんの気持ちがありがたかったです。そして今改めて、アキトさんなのだと思いました」
一息でそう言って、俺の詫びなんか振り切るように前の方へと戻ってしまう。感謝されたのだろうが実感がなくて、俺はただぽかんとその背中を見送るだけだった。しばらくして遥が来てくれるまで、俺一人だけが最後尾だった。