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ステ振り間違ったので冒険者やめてNPCになります。  作者: 黒田皐月
第二章 したいこと、嫌なこと
11/17

再起

 声をかけられ、肩を揺すられる。

 のろのろと首を起こし、目を開けても、目の前がよく見えない。目を開けたつもりがまだ閉じたままなのか。

「こんな夜中に、こんな所で何してるんだ」

 光が近づいてきた。

 これは火の光。いつか俺を迎えてくれた、温かな光。

 だが、その光に映し出されたのは、鈍色の鎧の男たちだった。

「お前、冒険者か。どこに泊まってるんだ?」

 泊まるところなんて決めてない。緩く首を横に振った。その間に俺の身なりを見ていた男の方が、険しい声を上げた。

「血だらけじゃないか。怪我でもしたのか?」

 怪我なんかしていない。俺はまた首を横に振る。

「今日ここで人が死んだと聞いている。まさかお前……」

 そう、今日ここで人が死んだんだ。そのことにうなづいて答えると。男たちは血相を変えて俺を立たせて引きずっていった。

 連れていかれた場所には見覚えがある。ここは警備隊だ。

 放り込まれるように一室に通されて、一人を残して出ていく。しかしすぐに別の男を連れて、慌ただしく戻ってきた。

 男たちは何かを話している。そして今度は鎧をつけていない男以外が出ていった。慌ただしい。

「あなたは、昼間あの家にいた冒険者ですね?」

 その男は俺をここに連れてきた男たちとは違って、丁重に俺に話しかけてきた。そのとおりなので俺はうなづいて答える。

「服が血だらけのままではありませんか。水を用意させています。ここで洗っていってください」

 そして裏へと通された。水の入った桶と、着替えのための警備隊の服まで用意されている。勧められるまま俺は血で汚れた服を桶に浸した。

 部屋からこぼれてくる光しかない暗い中で、ごしごしと汚れをこする。この血は俺が助けられなかった男の子のもの。滲み出す血が、あの子からあふれ出していたあの瞬間と重なって見える。

 嫌だ、もう見たくない。俺は目を強く目をつむって、激しく水音を立ててこすり続けた。

 声をかけられたときにはもう桶の中には水は残っておらず、周りが水浸しだった。かけられた声に返事もせず、俺は黙って濡れた服を絞った。


 朝になって追い出されるように警備隊を出た。まだ日はその姿を空に見せず、通りにも人の行き来はない。

 ひとり呆然と立ち尽くす。これから、何をするのか。

 そうして足が向いたのは、ギルドだった。その戸はまだ閉じられていた。しかし他に行くところなどない。戸が開くまで待つ。

 窓を開けたNPCがただ立っている俺を見て、一瞬驚きに硬直する。しかしすぐに中へ通してくれた。

 壁にいくつかの依頼が張り出されている。その中のひとつの依頼書を俺が持っていることを思い出した。革袋から取り出して、広げる。

 みんなで受けたリザードの居場所探しの依頼だ。俺一人でできることではない。依頼書を持った手が、だらりと垂れる。

「あなた、珠季と一緒だったはずですよね。どうしたのですか?」

 まだ他に誰も冒険者は来ていなくて静かなところに、NPCの声が耳に届いた。

「あいつは…もういません」

「え…?」

 NPCは顔色を変えて絶句した。

「もう、一緒じゃないんです」

 言い直してようやく、NPCはほっと胸をなでおろした。

「だから、すみませんが、この依頼は破棄させてください」

 NPCに依頼書を手渡すと、自分の持っているもう一枚の依頼書を探すのか、NPCは奥へと戻っていった。

 入れ替わるようにして入口からパーティらしい冒険者の一行が入ってきた。依頼を探しに来たようなので、俺は隅へとよけた。

 それから、俺は人が出入りしていく様をただ眺めていた。依頼を受け、完了させ、あるいはやりたいことが見つからずに出ていく。みんな何かをしているのだ。

 だが俺は何もできない。みんなが何かをしようとしているのを、ただ見ているだけだ。俺に何かができるなんて、思えなかった。

 窓の外がだいぶ明るくなって、人の出入りがおさまってくる。その頃になって、またNPCから声をかけられた。

「さっきの依頼は手続きをしておきましたよ。それで、代わりにお願いしたいことがあるのですが」

「俺に…?」

 俺なんかに何ができるというのか。

「はい。町の南の柵の修繕、あれが誰もやってくれなくて、なかなかはかどっていないのです」

 さらにNPCが何かをしゃべっていたが、俺には遠い話のようにしか聞こえず、少しも頭に入ってこなかった。それでもNPCは熱心に話を続け、俺に頼みこむ。

 聞けば聞くほど、俺にはできなさそうにしか思えなくなる。失敗して悪いことにしかならなさそうに思えなくなる。

「すみません、俺では役に立てなさそうです」

 そんなことばかり思っているのが嫌で、話をさえぎった。その声が荒くなっていたのか、NPCがしゃべるのを止めた。だが、それは一瞬だけのことだった。

「そんなことはありません。こう言っては失礼かもしれませんが、人手があるだけでいいのです。できます。だからこの町のためにも、お願いします」

 本当に、俺にもできるのか。そんな問いを込めてNPCの目をのぞきこむと、力強くうなづいて逆に俺の目をのぞきこんできた。打算とかそんなものがない、真っすぐな目。

「それなら、やってみます」

 なぜそう言ってしまったのか、自分でもわからない。わからないうちに手続きが済まされ、場所と人の名前を教えられた。


 言われたとおりに行くと、早速杭を打ち込む手伝いをさせられた。積み上げられた杭を運び、貸してもらった木槌で地面に打ち込む。

 声をかけられれば次だ。それが延々と続く。そうやって何本の杭を打ち込んだかわからないが、それでもまだ柵の切れ目までは遠かった。

 終わりだと言われた時も、柵のない部分はまだ広く残っていた。それなのになぜ終わりなのかを首をかしげると、もう日が沈むからだと笑われた。急ぎはしても、暗くてはちゃんとした仕事はできないと言う。言われたとおりにするしかなかった。

 付きっきりで俺を見ていてくれた男もよそから来ていて、宿を取っているという。一緒の方が仕事がやりやすいからと誘われるままに、俺もその宿へと連れていかれた。

 次の日も、また次の日も杭打ちは続いて、やっと見た目だけ穴がふさがった。次はこれに板を打ちつけて留めるのだという。

 それはただ力があればいいということではないようで、俺は板を運び、支えているだけだった。それもまた一日では終わらなかった。

 そうしてただ言われるままに動いているうちに、広々とした畑が柵で囲われた。検分と言ってずっと見回る男の後ろについて歩いたが、歩くだけでもかなりかかった。

「よくやってくれた。おかげでやっと終わったよ」

 指示以外にほとんど口をきくことがなかった男が、初めて笑顔を見せた。労ってくれているのはわかるが、俺は言われたことをやっただけだ。感謝されるどころか、ちゃんとできていたかどうかさえわからない。

「これで町のみんなも安心して畑に出れる。あんたがいてくれたおかげさ」

 本当に俺は役に立てたのだろうか。もしそうならば、嬉しい。

 男の笑顔に、言葉に、嘘は見えない。本当に、俺は喜んでいいのか。いや、疑問を抱えてなんかいられなかった。抑えきれず、嬉しさがこみあげてきてしまう。

「ありがとうございます」

 あふれ出す気持ちで声を張り上げてしまい、驚かれてしまった。

「ありがとうございますはこっちだぜ。でもそこまで言ってくれるならどうだ、これからも俺と一緒に仕事しないか?」

 そこまで言ってもらえたことが嬉しかった。だが俺には約束がある。それにやりたいこともある。だからそれは謝した。

 黒猫に会いたい―――

 俺はやっと、立って歩き出せた。今ならお前が大丈夫だって言ってくれれば俺は大丈夫でいられる。だから会いたい。会って大丈夫だと言ってほしい。このあふれる気持ちが偽りではないと信じさせてほしい。


 一晩明かすのがもどかしかった。朝食もそこそこに宿を飛び出して、一路北へと向かった。

 急ぎ足で山に入り、村を目指す。さすがに道のよくない山の中ではその速度は落ちる。

 一軒だけ離れた家の向こうに、以前にはなかった柵が見えた。病大虫はいなくなったが、それでも村を囲う柵は作り続けているらしい。その一軒家、薬屋に入る。

「ああ、お久しぶりです」

「珠季はいますか?」

 薬屋の挨拶も無視して、黒猫を呼んでもらう。

「いえ、今はいませんよ」

 ここに来れば黒猫に会えるとしか思っていなかった俺は、愕然とした。

 目の前が真っ暗になる。黒猫がいてくれなかったら、俺はどうすればいいのかわからない。

「夕方になれば戻ってくるでしょうけど、待ちますか?」

 その声は真っ暗な俺の意識に閃光のように走った。

「いるんですね? ここに」

 カウンターに手をついて、勢いよく身を乗り出してしまう。その分のけ反りながら、薬屋は首を縦に振って答えた。

 俺は外へ、そして山の中へと駆け出した。薬屋に礼も何も言わずに出ていってしまったが、止まることなどできなかった。

 川から離れるように木立がまばらなところを登り、薬草が取れると言っていた茂みを探す。それがどこかはわかっていないが、行けば絶対にわかる。俺が黒猫と出会った場所なんだ。

「あれだ…!」

 少し登った先にまとまった緑が見える。間違いない。そしてその手前にいるのは…

 黒くて丸い、それに小さな三角が乗っかった何か。絶対に間違えようがない。しかし、俺の足はそこで止まった。

 それを見た瞬間気づいてしまったのだ。自分から追い払ったのに、今さら何と言って声をかければいいのか。

 だが、逡巡してももう遅かった。それはこちらに気づいて立ち上がった。

「アキトさん!」

 黒猫が手にした革袋を放り出して駆け寄ってくる。あっという間に俺の前まで飛び込んできて、両手で俺の手を包んだ。

「会いたかった……!」

 俺を見上げる目が、揺れている。どうして…?

「会いたかったのは俺だ。お前じゃないだろう」

「ずっとずっと会いたかった。でも嫌がられるかもしれないって思うと会うのが怖かった。でも、会いに来てくれた……」

 俺の手を抱き寄せるように胸に抱いて、黒猫はしゃべり続ける。

「怖かったんです、ぼくは何もできなかったって思うのが。認めたくなかった、だから会いたかった。会ってぼくにも何かできるって思わせてほしかった……」

 その声は上ずって、消え入りそうになっていく。黒猫の不安が、俺の手を抱きしめる手からさえも伝わってくる。

 黒猫が俺にくれた言葉。俺をここまで動かしてくれた言葉。そして今またほしかった言葉。

「大丈夫だ。お前が何もできないなんて、そんなこと思わなくていい。お前がいてくれるだけで、俺には十分なんだ…」

 それを黒猫に返そう。お前が大丈夫ならば、俺はきっと大丈夫でいられるから。

 俺の手を全身で包むようにうつむいていた黒猫が顔を上げ、うるんだ瞳を俺に向けた。黒猫の心の内からあふれ出すものが伝わってきて、俺までもいっぱいにしてしまう。

 もう何も言えなかった。何もできなかった。ただその目を見つめ返すだけだった。

 どれくらいそのままでいたか、わからない。

「アキトさん……」

 俺の名を口にした黒猫が首を垂れて、その額が俺の手に触れた。それは一度軽く触れただけで、すぐに顔を上げる。そこには涙の跡が一筋、あった。

「会いたかった」

「俺もだ」

 その仕草の間に、不安に揺れる顔は柔らかな笑顔に変わっていた。

「会えてよかった」

「俺もだ」

 その声も、静かな落ちついたものになっている。

 俺が返した言葉は、届いてくれたようだ。それだけでもう十分だった。

「アキトさんも、ぼくに会いたいと思ってくれたのですか?」

 たった一言の返事さえも気恥ずかしくて、俺は無言でうなづく。

 黒猫はやっと俺の手を放して、同じく無言で静かに笑って見せたのだった。

「なんか、やっと夢から覚めたような気分です」

 両腕を上に伸ばして、黒猫が伸びをした。気持ちよさそうにしている。背伸びしていたかかとを下ろして腕もだらりと下げて、それから俺へと向き直った。

「あの日から今までずっと、ぼーっとしていただけのような気がします。生きてるんだけど生きていないような、自分なんだけど自分じゃないみたいな、ふわふわした感じかな…」

 うまく言えないように視線を泳がせながら言葉を探す黒猫だったが、言葉なんかはっきりしなくてもその気持ちは俺にはよくわかる。俺もまったく同じだった。

「俺は、あれからウェスタンベースの柵の修繕の依頼を受けた」

 唐突な俺の話だったが、黒猫は興味を示したらしく、視線を泳がせるのをやめた。

「ただ言われたことをやってただけだった。その時が、そんなだった」

「でも、アキトさんは自分でそこから覚めたんですよね」

 自分を責めているのか、黒猫が目を伏せてしまう。そんな顔はしないでほしい。そんな顔をさせるためにこんな話をしたんじゃないんだ。

「自分でじゃないんだ。柵が完成した時よくやったって言ってもらって、その時思い出したんだ。病大虫を退治して村のみんなに感謝してもらって、初めて何かを成し遂げたって思えた時のあの気持ちを」

 黒猫はまだ目を上げてくれない。

「俺にもまだ何かができるかもしれないって思えたら、どうしてもお前に会いたくなったんだ。お前がいてくれれば、できるかもしれないじゃなくて、できるって思えるって思ったんだ。だから、俺も目が覚めたみたいなのは、今なんだ」

「そう……」

 ぽつりと口からそれだけこぼして、それからゆっくりと俺を見上げた。

「よかった……もう大丈夫です。アキトさんなら、大丈夫なんです」

 ふわりと笑って、そう言った。これが聞きたかった。

 それに俺が浸っている間に、黒猫はくるりと後ろを向いて歩き出してしまう。俺に何も言わずどこに行くのかとはっとしたが、投げ出した革袋を拾ってきただけだった。

「帰りましょう」

 黒猫に会った後のことなど何ひとつ考えていなかったが、まさかそう来るとは思わなかった。

「いや…、お前の仕事の邪魔をしたかったんじゃないんだ……」

 日は沈むどころか、まだ中天にさえ届いていない。黒猫は薬草集めのためにここにいたはずだ。俺の勝手でそれをやめさせるわけにはいかない。

「それどころじゃない、と言いたいところですが、雨が来そうです」

「雨?」

 木の葉越しに日が見えている。雲に隠されてもいない。それなのに雨とは、黒猫は俺のために言い訳を用意してくれているのだろうか。

「はい。風が下から上ってきています。アキトさん、ここに来るとき風に押されて楽だったでしょう? ここではそういう時、雨が来るんです」

 わからない。追い風だろうが向かい風だろうが、ただ少しでも早く黒猫に会いたかっただけだ。俺に確かにわかることは、今は背中に風を受けていることだ。

 ここのことをよく知っている黒猫がそう言うのだから、そうなのだろう。邪魔とか何とか言ったが、俺はここにいてもやることもできることもない。黒猫の言うとおりに村へ戻ることにした。

「これからどうしますか?」

 歩きながら黒猫が聞いてくる。これからとは、今日のことなのか、もっと先のことなのか。

 どちらにしても何ひとつ考えていないことに違いはないが、どちらかによって大きく違う話になるだろう。それを問うように、俺は無言で首をかしげて見せた。

「約束の日まで、ふたりで旅をするのかなって」

 そっちか。まあそういうことになるだろうと漠然と思う。

「悪い、考えてなかった」

 だが黒猫に何か思うことがあるのなら聞いてみたくて、俺は正直に何も考えていなかったことを明かした。

 前を見ながらも俺にも目を向けていた黒猫が、正面だけに集中して、無言になってしまう。

「ねえアキトさん」

 十歩くらい歩いてから、やはり前だけを向いたまま遠慮がちな声を上げた。

「しばらく、村にいませんか? 今はふたりで一緒にいたいです」

 それがいいかもしれない。今の俺は、黒猫に会えて気持ちがいっぱいだ。そして多分、黒猫も同じだろう。それが実感として沈着するまで、時を置いた方がいいのかもしれない。

「そうだな…そうしようか」

 少し眉根が下がった横顔にできるだけ柔らかく答えると、その顔がぱっと笑顔へと変わった。ぱっちりした目が、すごく嬉しそうだ。

「じゃあ薬屋さんに頼んでみます」

「や…そう何日も世話になるわけにもいかないだろう」

「大丈夫です。薬草採りをやってますから、それくらいはいいって言ってくれます」

 それは黒猫が俺の分まで仕事をするということだ。そういう甘え方はしたくない。俺がそう言って抵抗しても、黒猫は手伝いだとか用心棒だとか屁理屈にもならないことばかり言ってまるで聞いてくれない。

 そうこう言っているうちに村まで戻ってきてしまった。風は変わらず吹き上げてくるが空にはまだ雲はなく、木立の影のなくなった足元は明るい。

「無事に会えたみたいですね。行き違いにならなくてよかった」

 薬屋に入ると、飛び出していった俺のことを気にしていたらしく、黒猫よりも先に声をかけられた。俺は何も言わずに出ていってしまった非礼を詫びたのだが、それは途中で黒猫に遮られた。

「しばらくここに二人で置いてもらいたいのですが、いいですよね?」

 そう言いながら、今日の分だと言うかのように手にしていた革袋をわざと音を立ててカウンターに置いた。ものを頼む態度ではない。

「薬草採りをやるからって言うのか?」

「そうです」

 黒猫はあくまで強気だ。

「もてなしなんかはできないし、何より二人分のベッドがないぞ?」

「かまいません」

 言われるまで忘れていたが確かにそうで、前に世話になった時は黒猫が椅子に腰かけたままで眠ったのだった。それでさえいいと即答してしまうあたり、強気というよりも必死なのかもしれない。ここは俺が割って入って落ち着かせた方がいいのか。

 薬屋は困っているように小さくうなり、黒猫は押し切りたいかのように薬屋を見据え、俺は何と言ってやればいいのか迷っていて、三者三様の沈黙が訪れる。

「それならアキトさん、あなたに頼みごとがあります」

 俺はただ後ろにいただけのはずだったのに、なぜか薬屋はカウンターから出てきて俺に話しかけた。何かわからず生返事をすると薬屋は奥に声をかけて、それから俺たちを連れて家の裏手へと回った。

 そこには、縦横とも両手を広げたくらいの幅で、地面を掘り返したような跡があった。

「これって…?」

 黒猫が疑問の声を上げる。黒猫もこれが何かは知らないらしい。

「お前には言わなかったっけ? 山の薬草をここに植えて育てられないかって」

「聞いたような、聞かないような……」

 黒猫が首をかしげる。黒猫がこんな大事そうな話を忘れるとは思えない。本当に、俺と同じように人の話なんか耳に入っていなかったのだろう。そう思うと、また気持ちがいっぱいになってしまいそうになる。

「お前はいいとしてアキトさん、」

「はい?」

 そんな時に呼びかけられて、思わず声が裏返ってしまった。薬屋は怪訝な顔をしたが、俺が黙って真顔を作ったのを見て話を続けた。

「ここに薬草を植えてみるために、土を耕してほしいのです。そういうこと、私たちではうまくできなくて諦めかけてたのですが、お礼代わりにやってもらえないでしょうか」

 そう言って、軒下に置いてあるスコップと鍬を指差した。

「耕すってどうすればいいのですか?」

 その道具から力仕事なのはわかるが、それで何をどうすればいいのかはわからないので、聞いてみる。安請け合いしてできなかったなどというのは、嫌だ。

「土を掘って、軽く混ぜるのです。ある程度の広さがほしいので、適当でいいんです。どうでしょうか」

 それくらいならば俺でも役に立てそうだ。それで世話になれるのならば、俺としてもありがたい。

「やらせてください」

 だから、俺の方から頼んだ。

「これでやっと始められる。珠季、お前は今度は薬草を根っこごと取ってきてほしい」

「嫌です」

 薬屋はさらに細かい説明をしようとしていたようだったが、その前に黒猫が拒否してしまった。こちらが世話になるのにそれはないだろう。さすがに今度こそその態度はやめさせなければ。

「ぼくもアキトさんと一緒に土を耕します」

 しかし俺が口を開くよりも早く、黒猫がそう言った。

「でもなあ。これは力仕事なんだぞ?」

「ぼくだって少しくらいはできます。アキトさんがスコップで掘ってぼくが鍬で混ぜれば早いでしょう? 薬草採りはこっちが終わってから二人で行って、二人分持ってきます」

 滔々と述べ立てる黒猫に薬屋も降参したのか、それでいいことになった。早速、今から始めることにする。

 とりあえず、今ある幅を横に延ばしていけばいいだろう。地面に立てたスコップの縁を踏みつけて突き刺し、柄を押し下げて土を掘り起こしていく。

 ある程度掘り起こすまで黒猫の方はやることがない。鍬の使い方を試すように、元々掘り返されていたところをいじくっていた。鍬の柄はかなり長く、黒猫の方が振り回されそうで危なっかしい。

 待たれているのに、目が離せなくてつい手が止まってしまう。それに気づいた黒猫が苦笑いを浮かべて、今度は柄を短く持った。それならば大丈夫そうだ。

 土というものは、普段何の気もなく踏みしめているものだと考えてみれば当然なのだろうが、手ごわかった。汗が額を流れ、腕で拭う。風があってそれは心地いいが、こういう時の日差しは少しうっとおしい。

「なあ黒猫」

 ふと気づいたことがあって、ようやく自分の出番になって鍬を振り下ろしたり引きずったりしている黒猫を呼び止めた。

「雨、来ないな」

「来ませんね」

 その話は流したいのか、黒猫は手を止めずにそれだけ答えた。別に俺もそれで黒猫を責めたりしたいわけじゃない。それ以上の追及はせず、黒猫に追いつかれないように、俺も手と足を動かし続けた。


 その夜。

 急に押しかけたのにきちんと食事まで用意してもらって、いただいてから黒猫が使っている部屋へと通された。片づけくらいはやると黒猫が言っていたが、俺に気を遣ったのか、遠慮されてしまう。世話になりっぱなしで何だか申し訳ない。

 しばらく武器など使うことはないだろう。部屋の主である黒猫に断って、剣や盾なんかは部屋の隅に置かせてもらう。

 そんな他愛のない会話なんかでも、黒猫はいちいちにこにこしている。俺だって黒猫に会えて嬉しいが、これは浮かれすぎではないだろうか。何か変な気がする。

 名前を呼んでみただけでも、こっちに寄ってくる。

「今日のお前、なんかお前らしくない」

 さすがに否定の言葉には顔を曇らせた。曇るどころか、一気にしゅんと萎んでしまう。言い過ぎたかと後悔した俺には、次の言葉が出なかった。

「ぼくらしくないって、じゃあぼくらしいってどんなのですか?」

 顔は萎んだようなままだったが、声だけは挑むかのように尖っていた。これも黒猫らしくない。こんなことで怒るなんて、やっぱりいつもと違う。いつもならば、

「今日のお前は、我を通しすぎてる。いつものお前なら人のことを見てて考えてくれてるのに、今日はこっちから頼んでるのに薬屋を困らせるようなことを言って、あれはよくないと思う」

 つい厳しいことを言ってしまった。案の定、黒猫はうつむいてしまう。

「……それはアキトさんです」

 ぼそっとつぶやいたくらいの声でしかなかったが、俺には突き刺されたかのように激しく響いた。

 勝手に黒猫を追い払って今になって勝手に押しかけたのは、俺だ。自分のことしか考えていないのは俺の方なのに、それを棚に上げて黒猫を責めるなんて、俺はダメだ。

 謝らなければならなかったが、衝撃が大きくて言葉が出てこない。そんな俺の口が動くよりも先に、黒猫が顔を上げた。

「そういうアキトさんが会いに来てくれたから、浮かれちゃったんです。ごめんなさい」

 さっきまで見せていた子供のような笑い顔とは違う、静かで柔らかい笑顔。それはいつもの黒猫。

 でも、いつもの黒猫って何だろう。俺がそう望んでいるだけじゃないのか。本当は繊細で、自分には何もできないなんて思いこんでいて、それが今日晴れて、だから多少浮かれても仕方がないのではないのか。

「悪い黒猫。お前の言うとおり、わがままなのは俺だ……」

 やっと謝ると、黒猫はいいとも悪いとも言わず、キョトンとした顔をした。どうしてそんな顔をするのかまったく理解できない俺は、黒猫の次の反応を待つしかできなかった。だが、それにはしばらくかかった。

「ああ…!」

 破顔した黒猫が、胸の前で両手を合わせた。

「ぼくが言ったのは、人のことを考えてくれてるのはアキトさんの方だってことです。だから嬉しくて浮かれてたんです」

 確かに、わがままな奴が来て嬉しいなんて、話が合わない。でも黒猫の言いたいことがわからなかった俺は、やっぱり人のことなんか考えていないということだ。

「俺は、そんなんじゃない……」

 目をそらせた俺を、黒猫が静かに見ている。何も言わないが、それが肯定ではないことは、盗み見たその目からわかる。

 盗み見を見とがめたのか、黒猫が背中を向けて部屋の隅へとゆっくり歩く。

「寝ましょうか」

 振り返って、すとんと椅子に腰を下ろした。うじうじと自分の気分をほじくり返すのはもうおしまいということらしい。

 結局俺は、いつだって黒猫に気を遣わせてばかりだ。今だってそう、黒猫が椅子に腰かけたということは、

「お前がベッド使えよ」

 この部屋にはベッドがひとつしかない。それを俺に使わせるつもりなのだ。

「前にお前が言っただろう、今度の時は俺が椅子で寝るって」

「でも今度は、ぼくが無理を言ってこうなったのですから」

 無理を言って、という部分でさっきまでの気まずさを思い出してしまって、俺は口をつぐんでしまう。

 明日から交代ということになって、今日は俺がベッドを使わせてもらうことになった。黒猫は背もたれにかけてあったマントを着けなおして首を垂れる。


 来る日も来る日も土を掘り返し続けていた。

 無心というのとは違う。そばに黒猫がいて、時々他愛もないおしゃべりなんかもする。

 たったそれだけだったが、それだけでよかった。

 黒猫に会いたくて、会って、それだけでいっぱいになってしまっていた気持ちが、黒猫がそばにいるという実感を得て落ち着きを取り戻していく。

 それが自分でもわかってきたのは、掘り返した土が向こうの柵まで届きそうになる頃だった。

 もう少しというところだったが、次の日は雨だった。

 目が覚めても部屋は明るくなくて、そのせいで意識がなかなか覚醒しない。

 こういう日は冒険者にとっては休養日だ。しかし屋外での仕事ではない薬屋にとってはそうではなく、いつもと同じように朝食を食べて、奥へと戻っていった。俺たちだけが取り残される。

 そう言えばしばらく剣の手入れもしていなかった。鞘から抜いて、刃を布切れで拭う。わずかに引っかかる感じがする。これは少し研がなければならない。

 隣で黒猫が革袋の中身をかなり広げていたが、物持ちの黒猫でもさすがに砥石は持っていなかった。薬屋の仕事場にお邪魔して借りようとすると、ついでに小さなナイフの研ぎも頼まれた。

 どんなものかと思って布切れで拭ってみると、布切れが切れてしまう。そこらの剣よりも切れ味が鋭い。研ぐ必要などあるのかと思ったのだが、なるほど砥石の方も目が細かい。これは先にナイフを研がなければいけない。

 勝手がわからないので軽く研ぐだけにする。最後に研いだ粉を拭き取ろうと布切れで拭うと、やはり布がすっぱり切れてしまう。危ない。続けて剣を研ごうとするのだが、目が細かすぎて砥石の上を滑っているだけのようだ。それでも少しは研げているようなので、一心不乱に滑らせ続ける。

「熱心ですね」

 いつの間にか、黒猫が見ていた。声をかけられたのを潮時に、研ぐのをやめる。布切れで拭ってもさっきのような引っかかりは感じられないし、これでいいだろう。

「お前のナイフも研いでやろうか」

 ついでに、他にやることもないし、そう言って手を差し出す。

「それじゃあお願いします」

 ナイフを渡してくれたので、まずは鞘から抜いて布切れで拭う。研ぐ必要がなさそうなくらいきれいな刃だ。

「あまり使ってないんだな」

 このナイフは武器に使えないようなものではないが、黒猫は武器として使ってはいない。使っているのを見たのは、初めて会った時に乾燥肉を削いでいた時くらいしかない。

「そうですね…。でもいざという時もありますから、手入れをお願いします」

 薬屋のナイフほど鋭くすることはないだろう。これも軽く研ぐだけにした。拭って鞘に納めて、黒猫に返す。

 お返しということなのか、黒猫は俺の盾を布切れで拭いていた。

「こっちは、使い込んでますね」

 傷つき、歪みもある俺の盾を、黒猫がそっと手で撫でる。まるで自分の大切なものを手で感じているかのように、目を細めてゆっくりと手のひらで撫でている。俺が撫でられているかのような錯覚がして、こそばゆくなってしまう。

「今度はもう少し大きいのに買い替えるかな」

 我慢できなくなって、黒猫から盾を取り上げた。黒猫が一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、無視して剣と一緒に部屋の隅に置いてしまう。

 黒猫は自分の荷物の整理に戻っていた。手入れはもう終わりらしく、いくつかある革袋に収めていく。その中で、依頼書の束が俺の目に留まった。そうだ。俺も済んだ依頼書を整理しておこう。

 回復薬や水筒と一緒にしばらく革袋に入れたままにしていたので何枚かたまってしまい、あまり大きさに余裕のない革袋を圧迫していた。ウェスタンベースの柵の補修の依頼、リザード退治の依頼、病大虫退治の依頼、そして。

 それぞれに思い入れがないわけではないが、だからといって全部いつまでも持っているわけにはいかない。たったひとつ絶対になくせないもの、俺の支え。それだけを持っていよう。

 俺と黒猫の名前が書かれた、サンプル採取の依頼書。その一枚だけを革袋に戻した。他は火の足しにしてもらえばいい。

 そう決めてやっと、次ということを考えることができた。

「なあ黒猫」

 黒猫の片づけが終わるのを待って、声をかける。

「何でしょうか」

 呼ばれた黒猫が俺に向き直る。もういちいちにこにこ笑ったりなんかはしない。黒猫の方も落ち着きを取り戻せたのだと思う。

「行っておきたいところがあるんだ」

 次の前に、やらなければならないことがある。

「行っておきたいところ……?」

 黒猫はほんの少しだけ首をかしげて、続きを待つ。

 それは今さらだろう。それでも、次に進むためには避けてはいけないのだと思う。

「死んでしまったあの子の母親に、会っておきたい」

 薄暗い部屋の中でも、黒猫の顔色が一瞬で変わったのがわかった。口を半開きにしたまま、絶句する。言ってはいけないことを言ってしまったのだ。

 こんなに衝撃を受けてしまうほど、黒猫には辛いことだったのだ。それをわかってやれなかった。

「悪い黒猫、今のはなしだ」

「ダメ…!」

 大きな声に自分でも驚いたようで、黒猫は両手で自分の口をふさいだ。

「今さらのことで、お前が辛いことなんてさせたくない。これは俺のわがままなんだ」

「そうじゃないんです」

 黒猫が身を乗り出して、俺の目を見つめる。それは押してくるような力はなくてすがるように見えて、驚いた俺は次の言葉が出なかった。

「ぼく、あの方のことなんて一度も考えたことがなかった。ずっとアキトさんのことばかり考えてた。薄情だなって今さら気づかされたのが、すごく辛かったんです」

 うつむいた黒猫の声が、どんどん消え入りそうになってしまう。

「ごめん……」

「そうじゃないです。アキトさんは何も悪くないです。わがままなのは、ぼくなんです」

「でも……」

 悪くないのは黒猫だ。黒猫に辛い思いをさせた俺の方が悪い。だが、一度口に出してしまったことはもう戻せない。

 何も言いようがない俺の前で、黒猫ががば、と顔を起こした。

「ぼく、絶対に嫌なことがひとつあるんです」

「それは…何だ?」

 勢いに押されて、つい続きを促してしまう。

「ぼくのせいでアキトさんがやりたいことをやれないことです」

 すぐには理解できなかった。黒猫のせいで俺が何かをできなかったことなんて一度もない。逆だ。黒猫がいてくれるから俺は前に進めるんだ。だから、

「そんなことなんて絶対にない」

「でも今、アキトさんはあの母親に会うのをやめようとしています」

「お前に辛い思いをさせてまでやりたいことじゃない」

 黒猫がさっきよりも深くうつむいてしまう。どうして俺は、黒猫を傷つけてばかりしてしまうのだろう。

「やっぱり…アキトさんです」

 下から聞こえてきた声は、意外なほど静かで穏やかなものだった。

「行きましょう、あの方に会いに」

 起こした顔もいつもどおりだった。

「いいのか?」

「はい。今ぼくが辛かったのはぼくがわがままだって気づかされたことであって、会いたくないってことじゃないんです。だから、行きましょう」

「そうか……」

 黒猫が無理してそう言っているのか、わからない。でも、それを聞いたら黒猫の好意を踏みにじることになってしまう。

「なあ黒猫」

 それでも、言わずにはいられなかった。

「嫌なことは嫌って言ってほしい。お前に嫌な思いをさせてまで俺だけがやりたいことをやるなんて、それは嫌だ」

「言いましたよ」

「え…?」

 即答だったが、俺には思い当たることがない。

「ぼくが絶対に嫌なこと、ぼくのせいでアキトさんがやりたいことをやれないこと、です」

 確かにそれは言っていた。

「それじゃ違う。お前だってこれがやりたい、あれはやりたくないって言えばいいんだ。言ってほしいんだ」

 だけど、俺が黒猫に甘えてばかりじゃダメだ。

「ぼくがやりたいこと……それは、ぼくも何かできるって思えること…です」

 抽象的過ぎて何が言いたいのかわからない。……いや、本当にわからないのか?

 俺がやりたいことだって、今あの母親に会っておきたいと思った先には具体的に何もない。それを言葉にしようとするのならば、黒猫が言ったこととまったく同じだ。

「そうか」

 そう思えるのがどんな時かは、多分俺と黒猫では違う。だがそんなことをどうこう言うことに意味はない。その場はあいまいに相槌を打つだけにするしかなかった。

 食事の時に薬屋に明日一日休ませてほしいと頼むと、ウェスタンベースに行くならば買ってきてほしいものがあると逆に頼まれた。乾燥肉と薬の空瓶はいいのだが、何かの入れ物というよくわからないものを指示される。

「何かって、何に使うのですか?」

 俺の疑問を、黒猫が先に口にする。

「そろそろ山の薬草を採ってきてもらいたいんだが、それを持ってくるのにちょうどいいものがない。だからそれを見繕ってほしいんだ」

 金は出すし、どんなものにするかは任せると、白衣の男が言う。

「ああ、わかりました」

 黒猫は気軽に答えたが、金を出してもらう以上、後で何にも使えないようなものは避けるべきだろう。そういうものをちゃんと選べるのか少し不安だが、薬草を持ち運ぶところからして俺には想像がつかないので、どんなものがいいのかわからない。黒猫に任せるしかないのか。


 夜にまだ降っていた雨は、朝になってやんだらしい。窓の外は景色ごと洗ったようで、そこかしこから水が滴っている。

 朝食を終えて町に向かう俺たちに、大きめの革袋が渡された。空瓶を20本、それに入れてくるようにとのことだった。

 湿った土で滑らないよう、ゆっくりめに歩く。町までの道は勾配は急ではないが、踏み固められた坂が濡れていると、思った以上に足を滑らせやすい。

 だが、黒猫はそれほど足元を気にしている様子はない。それだけここに慣れているのかと感心した俺だったが、実は靴が違っているのだという。嬉しそうに見せてくれた靴底は、厚手の革がわざわざ縞模様に削られているものだった。

「こういうところは探検家なのです」

 そんな軽口を叩いていた黒猫も、町の門が見えてきた頃には何も言わなくなった。

 朝の人の多い時間は過ぎていたが、それでも市場のある大通りは今日も人通りが多い。目的の家の場所を知らない黒猫は、時には俺の後ろに下がったりしながら、俺について黙々と歩いていた。

 大通りを過ぎると店よりも家が目立ってきて、その分雑踏の音も遠くなってくる。その分、不安が増してくる。

 路地を右に入ると、もう静かと言ってよかった。会って何を言おうかなんて考えていない。できることはただ謝ることだけだ。

 一軒の家の前で足を止める。

「ここですか?」

「ああ」

 今さら会ったところで何がどうなることなんてない。それでも、ただ引き離されて何となくおしまいなんてよくない。俺が次へ進むためには、きちんと終わらせなければいけない。

 隣の黒猫をちらりと見る。黒猫もそれに気づいて俺を見上げる。その表情は硬い。その黒猫に何かを思いそうになったが、やめた。

 腕を上げ、戸を軽く叩く。

 中から返事があり、足音が近づいてくる。ゆっくりと、見えない不安が迫ってくるかのように。

 開いた戸から顔を出したのは、あの母親だった。驚きに全身が硬直するのが、はっきりと見える。

「こんにちは」

 俺はそれだけ言って頭を下げた。隣で黒猫も同じようにしている。

 口数少なく、中へ通された。遠慮するべきかとも思ったが、俺の方が何かを言うべきではないと思い直し、言われるまま通された部屋の椅子に腰を下ろした。

 彼女は一度奥へ下がり、お茶まで用意してくれた。しかし重苦しい沈黙に、せっかくのお茶にも誰も口をつけられない。

「あの」

 口を開かなければ。

「あの時は、すみませんでした」

 もう一度頭を下げる。これ以外にもう何も言えることがない。下げた頭を上げられなかった。

「いえ……」

 か細い声が、耳に届いた。

「アカツキは人さらいに連れ去られたのだと聞きました。あなたたちがいなかったら、私は二度と会えなかったのでしょう。だから…頭を上げてください」

 何も言わずに、言われたとおりに頭を上げる。何を言ったとしても彼女を傷つけることにしかならない。それでも会いに来てしまったのは、ただの俺のわがままだっただろうか。

「お二人には、謝らなければいけないことがあります」

「え?」

 彼女が俺に何を謝ることがあるのか。意外すぎて、ぶしつけに声を上げてしまった。

「前に長い黒髪の女の子が来てくれたのですが、あの時はまだ気が動転していて、追い返してしまったのです」

 蒼玉だ。俺が今さらになってやっとここに来たのに、蒼玉は俺の代わりにちゃんと後始末をしようとしてくれたのだ。

 言葉に詰まってしまった俺の代わりに、隣の黒猫が返事をした。結局いつだって、俺はみんなに甘えてばかりだ。

 その黒猫に、彼女が立って近づいた。

「あなた、お名前は…?」

「珠季です」

「そう……」

 名前を聞いて、彼女は黒猫の頭を撫でた。黒猫は一瞬驚いた顔をしたが、その手を感じるかのように目を閉じて撫でられるがままにしている。

「あなたはあんなことにならないように気をつけてね」

「はい」

 その光景は母親と子供のようで、俺とは別のところにあるものかのように見えた。

「あの頃何も手につかなかった私を世話してくれた方が言ってくれました。私がアカツキのことを忘れないで一緒に生きていけなければいけないと」

 その言葉で、俺が目にしているものが現実であると思い知らされる。彼女は、そして俺たちも、どうあっても生きていくしかないのだ。

「はい……」

 そこで俺ができることなんか、何もない。

「だから、私は生きます。あの黒髪の子にも他のお仲間の方にも、そう伝えてください」

「はい」

 勧められるままにお茶をいただいて、俺たちは家を辞した。

 日の差す明るい通りに出るのがためらわれて、足が止まってしまう。そんな俺を隣を歩いていた黒猫が正面に回りこんで見上げてくる。その表情は晴れない。

「行こう。頼まれたものを買ってこないと」

 黒猫の横をすり抜けて、通りに足を踏み出す。俺の背中に、後ろから黒猫の声が届いた。

「ぼくは、今日ここに来てよかったと思っています」

 声音にも張りがない。そんな黒猫は、見ていたくない。

「ああ、そうだな」

 だから俺は、生返事だけを返して大通りへと向かった。頼まれたもののうち空瓶は雑貨屋にあり、それは大通りの向こうだ。とりあえずそこへ行こうと大通りを渡ろうとした俺だったが、横から袖を引かれて止められた。

「空瓶は重いので最後にしましょう」

 そう言って黒猫は笑って見せた。いつもどおり、俺の考えていることなど見透かされているのだろう。

 まずは採った薬草を持ち運ぶ入れ物を探すことになって、大通りを歩く。店先を物色しながらよさそうなものを探すと黒猫は言うのだが、どんなものがいいのか見当がつかない俺はただその後ろについて歩くだけだ。

 物を入れると言えば、頼まれている瓶や渡されている革袋もそうだし、他にもいろいろあるだろう。収まりがいいだけではなくて山の中を運ばなければならないとなると、どんなものがいいのだろうか。

 ハッとして足が止まる。もう俺はあの親子のことを思っていない。薄情すぎるだろう。

「何かよさそうなの見つかりました?」

 先を行っていた黒猫が俺に声をかけながら戻ってくる。自分のことが嫌になって、それを振り払いたくてかぶりを振る。

 ただ否定するには激しい動作に、黒猫は少し首をひねった。こんな気分にこれ以上黒猫を巻き込みたくない。知られなくてよかったと安堵したところに、急に黒猫が声を上げた。

「うん、これがよさそうです」

 店先に置いてあるものを黒猫が手に取る。その店は木工品を扱う店で、手に取ったのは水汲み用の持ち手のついた桶だった。

「どうですか? これならかなり入りますし、持ち運びもしやすそうです」

 手渡されて、俺も持ってみる。頑丈さという点では申し分ないだろう。

「中身は重くなるのか?」

「抜いた草なので、根っこについた土を落としてしまえば軽いはずです」

「それなら両手にひとつずつ持てるな」

 薬草採りとなると、俺ができることはそれしかない。

「じゃあ四個ですね」

「お前も二個持つ気か?」

 黒猫が集めて俺が持つ。そうでなければ俺のいる意味なんてない。

「かさばると思うので、それくらいしないと行ったり来たりばかりになってしまいます」

「そうか」

 俺の考えは甘かったらしい。黒猫が必要だと言うのならば、そうなのだろう。後は黒猫に任せた。

 ちょうど四個あった桶を、全部買う。空だから軽いのだが、形のせいで片手にひとつしか持てないので、黒猫と二人でふたつずつ持って歩くことになった。次は乾燥肉だ。

 ぶら下げた桶を通行人にぶつけてしまわないように注意しながら、二人で大通りを歩く。今回も市場で買うつもりのようだ。

 黒猫が乾燥肉を買っている間、俺は店先で置いた桶の番をしていたのだが、通行人が物珍しそうにちらちらこちらを見る。これ一杯に買いこむものと思われているかもしれない。

「お待たせしました」

 空瓶を入れるために渡された革袋に、乾燥肉が入れられていた。それを指摘すると、空瓶は桶に入れて運ぶつもりだという答えが返ってきた。

 最後に大通りから離れて雑貨屋で空瓶をもらう。前に一本だけただでもらったことがあったが、20本でもそれは変わらないらしい。

 それを5本ずつ桶に入れたのだが、中でごろごろ転がってしまう。

「全部俺の方に入れろ。これじゃ割れるかもしれない」

「それなら10本入れた片方をぼくが持ちます」

「それだと重さが偏って持ちにくい。全部寄こせ」

 ようやく黒猫も納得してくれて、自分の桶には乾燥肉だけを入れてくれた。二人で両手に桶をぶら下げて、山道を上っていく。

 重さはそれほどでもないが、ずっと腕が斜めなので、意外なほどに疲れる。ちょっと考えが甘かったかと弱音を吐いた俺に黒猫は、薬草を採っている間は休憩になるからと笑ったのだった。

 薬屋に戻って頼まれたものを桶ごと渡すと、驚きに目を丸くされた。

「少しは金がかかるかと思ったが、まさか桶四個とはな……。後で何に使うんだ?」

「えー? 例えば植えた薬草に水をやる時に使うとか、育ったものから採った葉っぱなんかを入れるとか、いろいろですよ」

 黒猫は平気なものだった。そこまで考えているとは思わなかった俺は、ただただ呆れるばかりだった。

 まだ日が沈むまで時間があったが、部屋に戻って休ませてもらうことになった。疲れた腕を、軽く揺する。

 窓の外の景色は俺が来た時と少し変わって、掘り返した土の黒さが目立っている。ここに、これから採ってくる薬草を植えるのだという。

 やることがなくなると、今日会って結局会っただけになってしまった母親のことが思い出される。思い出されるということは忘れていたということで、やっぱり俺は薄情なんだと思い知らされる。

「疲れましたか? ごめんなさい、アキトさんだけ重いものを持たせてしまって」

 ぼーっとをしている俺の顔を、黒猫が心配そうにのぞきこむ。

「いや、いいんだ」

 俺はあいまいに返事をしただけだったが、疲れているものと思われたのか、それ以上は何も言わずそっとしておいてくれた。気づかれなくてよかった。


 翌朝の朝食では、根っこをちぎらないように注意しろとか全部採り尽くしてはいけないとか、黒猫がいろいろ言われていた。そんなことはわかっていると黒猫は笑っていたが、俺に向けてだけ小さく苦笑いを見せたところ、うんざりしているらしい。

 昨日買った桶を両手にぶら下げて、山へと入っていった。広いところを歩いている間はまだ、木にぶつけてしまう心配はなさそうだ。

「なあ黒猫」

 何となく、声をかける。黒猫が足を止めて俺に向き直るのだが、足を止めるほどの用事なんかない。先を促して、歩きながら続ける。

「狂乱コボルトって、まだいるのか?」

 一応というか単なる習慣というか、剣は腰に下げている。ただし、桶で両手がふさがるために、盾は持ってきていない。

「いることはいるみたいです。ぼくも一回だけ見ています」

 黒猫の持ち物はいつもどおりだ。魔法士なので普段から武器は持っていないが、回復薬を持ち歩いているあたり警戒はしているようだ。

 ただ、俺と離れている間に一回だけということは、少なくなってはいるのだろう。

「倒したら、やっぱりサンプルは持ち帰るのか?」

「はい。病大虫がいなくなった後の違いも見たいということで、頼まれています」

 空瓶を用意していると言いたいのか、黒猫は革袋を下げた腰を揺すって見せた。

「油断はできないんだな」

「はい。でもアキトさんがいてくれるので安心です」

 それはお世辞だろうと思ったのだが、茂みに着いてシャベルを取り出してかがみこんだ黒猫の後姿を見ると、そうとも言いきれなさそうだ。

 左手で傷つけないように草をどけながら右手でシャベルを土に突き立てている様子は、かなり慎重さを要するように見える。草を採るというよりも、穴を掘っているかのようだ。周囲への注意がおろそかになるのも仕方がないのかもしれない。

「はいこれ、根っこの土を払っておいてください」

 俺の足元にとん、と一本の草が置かれた。掘り返した土の塊に草が生えていると言った方が正確だろうか。

 吊り下げるように茎を持って離れようとすると、丁寧に扱うようにと黒猫に怒られてしまった。揺すって土を落とせばいいかと思ったのだったが、そんな雑なことは許されないようだ。

 両手ですくうように土の塊を持って、茂みから出る。歩きながら手に軽く力を入れると、手の間からぽろぽろと土がこぼれる。黒猫の方も時間をかけているようだし、こちらもそんな感じでゆっくりとやればいいだろう。もみほぐすようにして、土を落としていく。

「こんなでいいか?」

 加減がわからないので、黒猫の邪魔をして声をかける。黒猫の方は嫌な顔ひとつせずに、わざわざ茂みから出てきてくれた。

「そうですね。根っこを傷つけてもいけませんし、こんなものでいいです。持っていくのにちょっと重いかもしれませんが」

 それなりに軽くなった一本の草を桶に入れると、手持ち無沙汰になってしまう。山は相変わらず静かなもので、聞こえてくるのは黒猫が土を掘っている音だけだ。周りをぐるっと見回してみても、動いているものは見当たらない。

 今は安全そうだとほっとしたところに、ちょうどよく次が渡された。同じように根っこについた土をほぐして落とす。

 黒猫も俺もだんだん慣れてきたのか、少しずつその間隔が短くなってくる。やっていることが俺の方が簡単なので、待っている時間は長くなっているような気がする。

 四個の桶にそれなりに薬草が入った頃、黒猫が土を振る手を止めて茂みから出てきた。大きく息をついて、空を見上げる。ずっと下を向いていたからか、すぐにまぶしそうに上げた顔を戻した。

「今日のところは、帰りましょうか」

「もう?」

 日はまだ高いし、桶も詰めればまだ入る。それなのにどうして、と疑問に思った時になってやっと肝心なことに気がついた。

「疲れたか?」

 俺はほとんど何もしていないようなものだから平気だが、黒猫はずっと土を掘っていたのだ。そんなことさえ気づかないなんて、やっぱり俺は薄情だ。

 そんな俺の気分を読み取ったように、黒猫は笑って見せた。

「疲れるのにはまだ早いですよ。戻ってこれを植えなおさないといけないのですから」

「そうなのか」

 考えてもいなかったことに感心していると、黒猫の笑みがいたずらっぽくなった。

「疲れを心配してくれるなら、植える穴はアキトさんに掘ってもらいましょう」

「わかった」

 根っこをちぎらないようにとか考えることなくただ穴を掘るだけならば、俺にだってできる。それくらいのことは、したかった。

 二人で両手に桶をぶら下げて村へ戻る。かなり土を落としたので、昨日の空瓶よりも軽いくらいだ。

 薬屋に戻って、まずは今日の成果を見せた。三人で話しているのを聞く限り、この調子だと数よりも種類を揃えるのが先決ということらしい。明日か明後日あたりはそれを探して歩くことになりそうだという。

 水をもらってひと休みして、採ってきた薬草を掘り返した土に植えなおす。

 黒猫が指示した場所に俺がスコップで穴を掘り、そこに黒猫が薬草を差してシャベルで根っこに土をかぶせていく。一列にずっと植えていくのかと思いきや種類ごとに列を変えていくとのことで、穴を掘る場所は毎回黒猫の指示が必要だった。

 全部植えなおした頃に、ちょうど空が赤くなってきた。

「ちょうど夕方に終わったな。そこまで考えて引きあげてきたんだな」

 時間が足りなくなることも余ることもなかったということは、すべて黒猫の思ったとおりだったということだ。またしても感心しきりな俺だったが、黒猫の答えは、

「どうなるかわからなかったから適当にやってみましたが、これはうまくできすぎでしたねえ」

 ということだった。


 次の朝向かった場所も、前日と同じ茂みだった。まだここに取っていない種類のものがあるのだという。何が必要なのか見てもまったくわからない俺は、言われたとおりにするしかない。

 それでできることは根っこの土を落とすことだけで、それは草の種類に関わりない。そんなことは慣れてくると何も考えなくてもできてしまう。そうなってくると、ふと別のことを思ったりしてしまう。

 そうなるまで俺は、またあの親子のことを忘れていた。母親にただ会っただけで何もできなかったのに、俺はこんなところでのうのうとしている。そんなの、自分勝手すぎないか。

 その自分勝手でパーティを解散したのに、約束の日が来たところで今さら蒼玉やロンやレイナに合わせる顔なんてあるのか。それ以前に、こんな俺に黒猫を付き合わせていていいのか。

 そんな不安ばかりが膨らんでくる。黒猫一人がずっとそばにいてくれているので、つい甘えてしまいそうになる。だがそれで黒猫を傷つけてはいけないと、なんとか抑え込む。

 そんな俺に、黒猫もあまり話しかけてこなくなった。話しかけられると弱音をぶちまけてしまいそうだが、話しかけられないとそれはそれで愛想をつかされてしまったのではないかと怖くなってしまう。

 茂みから黒猫が出てきた。持ってきたものを受け取ろうと手を出したのだが、黒猫が手にしていたものはすでに土が落とされていた。俺はもう、用済みなのか。

「場所を、変えますよ?」

 俺の顔から目を離さないまま、黒猫が首をかしげた。そういうことだったのか。

 安堵した俺の緩んだ顔もしっかり見られてしまった。黒猫はかすかに笑っただけだったが、俺はムッとして目をそらせてしまう。

 そこに異変が映った。いや、同時に騒がしい音が耳に届く。コボルトが猛然とこちらに走ってくる。

 剣を抜いて構えようとした俺だったが、そこで違和感に気を取られてしまう。盾がない。左手ががら空きだ。

 その一瞬の隙に、間合いを詰められてしまう。なんとか横に転がってかわし、空いている左手で地を突いて即座に立ち上がる。俺とコボルトの間を黒猫が放った魔弾が走り抜け、つられたようにコボルトが黒猫に飛びかかる。振り下ろされる爪を避けながら、黒猫は俺の方に逃げてくる。

 迷っている場合ではない。やったことはないが、両手で剣の柄を握って大上段から振り下ろす。しかし慣れない振り方で鋭さが出なかったのか、簡単にかわされてしまい、空を斬った剣が地を打つ。好機と見たか、コボルトは俺の腕にかみつこうと頭から突っ込んできた。

「マジックショット!」

 間一髪、俺の背後から放たれた魔弾がコボルトを吹っ飛ばした。追いかけるように両手で持った剣を力いっぱい横に薙ぐ。絶叫とともにコボルトの腹が裂け、辺りに血をまき散らした。

 コボルトは耳障りな叫びを上げながらしばらく転がって暴れていたが、流れ出す血が止まる頃にはぴくりとも動かなくなった。

「うーん…これはさすがに捨てないとダメかな」

 つぶやく黒猫の足元には、コボルトの血がかかった薬草があった。そんなことなど、俺は気づきもしなかった。

「悪い、黒猫…」

 そればかりではない。下手な戦い方で、黒猫を危ない目に遭わせてしまった。俺は何ひとつ、ちゃんとできていない。

「あの、気にするほどのことじゃないです。またもう一本採ればいいだけです」

 慌てたように黒猫が労わってくれる。

「そうだ。今まで血を持ってったことはないし、これをサンプルにしてみよう」

 ことさらに明るくそう言って、血のかかっているところだけをちぎって空瓶に詰めこんだ。

 そうして気遣ってもらっても、俺には何も返せない。俺は黒猫があれこれやっているのをただ黙って見ているだけだ。

「大丈夫です。全然、大丈夫です」

 黒猫があやすように笑ってくれたが、俺は何も答えることができなかった。黒猫も諦めたのか、シャベルを手に再び茂みに入っていった。

 俺は何をやっているのだろう。黒猫がいてくれれば何かができると思ってここまで押しかけてきたのに、邪魔をしたり嫌な思いをさせたり、そんなことしかしていない。

 そのくせ、黒猫の口数が減ってくると愛想をつかされてしまったのではないかなどと怯えてしまう。そんなことを怖がるなんて、まだ黒猫に甘えるつもりなのか。

 どんどん気が滅入ってきて、何かを考えることにさえ疲れてしまう。それでも俺は黒猫の声には考えることなく従っていたらしく、気がついたらいつの間にか薬屋に戻っていた。

「それはサンプルにならないな。血と薬草が互いに変質してしまっている」

 カウンターに置かれた一本の瓶を挟んで、白衣の男と黒猫が話をしていた。

「ダメですか」

 黒猫の言葉に白衣の男は即座にうなづいて、交渉は決裂に終わったようだった。

「アキトさんごめんなさい。ただ働きになっちゃいました」

 振り返った黒猫が苦笑いをして謝る。だが悪いのは黒猫ではない。俺のせいで黒猫に余計な気遣いをさせてしまってこうなったのだ。

「いや、いい」

 だが今それを言っても、さらに気遣いを見せる黒猫との押し問答になるだけだろう。それが面倒で、俺は振り払うように話を打ち切った。


 翌日になっても、俺たちの間には必要以上の会話はなかった。

 ただの他人ならばそれでもいい。だが俺にとって黒猫はそんなものでは絶対にない。だから気まずい。しかし口を開けば黒猫を傷つけるようなことを言ってしまう。それでも離れたくない。離されたくない。頭の中をぐるぐるするのはそんなことばかり。

 ふとそれに気がついてしまい、衝撃に全身が硬直する。他人を辛い目に遭わせておいて、俺は自分のことしか考えていない。結局俺は、ただ自分勝手なだけだ。

「ねえ、アキトさん…」

 そんな俺を、黒猫が見上げる。眉根を寄せて不安そうな顔をしていたが、一度目を伏せて、にらむような目を向けてきた。思い切って何かを言おうとしているのか、大きく一呼吸する音が俺の耳に届く。

「言ってください、アキトさんが思っていること」

 それはダメだ。その迫力に押されたように、一歩下がって首を何度も横に振る。

「お願いです、聞かせてください」

 下がった分だけ、詰められる。俺はまたもう一歩下がったが、今度は詰め寄られることはなかった。俺を真っすぐ見据えていた目が、かすかに揺れるのが見えた。

「アキトさんが何も言わないの、ぼくのためなんでしょう? ぼくが弱いから、傷つかないように言わないでくれているんでしょう?」

 黒猫にはやはり見透かされていたのだ。でもそうだなんて言えない。俺は今度は身じろぎひとつせずに黙るしかなかった。

「ぼくはわがままだから、言いますね」

 うつむき加減で上目遣いで俺の顔をうかがいながら、言いにくそうにそこで言葉を切った。

「お前がわがままなんてそんなこと、」

「ぼくはアキトさんに何もできないのが嫌。何もできないくらいなら傷ついた方がいい。それで何かができるのなら……」

 俺の言葉は黒猫の激しい声に押しつぶされた。

 俺はどうすればいいのか。何かを言っても、言わなくても、黒猫を傷つけてしまう。俺がいるだけで黒猫が傷ついてしまう。

 いちばん嫌なことが、やっとわかった気がした。

「ごめん黒猫」

 黒猫に背を向ける。

「もうお前には付きまとわない」

 そして歩を踏み出そうとしたが、

「ダメっ!」

 それよりも早く、悲痛な叫びと落とした桶が地を打つ音とともに、後ろから黒猫に腕をつかまれた。触れた手の温かさが胸の底にまで届いて、振り払うことを忘れてしまいそうになる。

「行かないで」

 震える声に、捕らわれそうになる。だがそれではこれまでの繰り返しだ。つかんでいる手から自分の腕を引き抜くように、俺は前に踏み出す。

「ぼくに何もできないなんて、思わせないで……!」

 しかし黒猫は頑として腕を離さなかった。手でつかむだけでは止められないならばと、抱きつくように俺の腕を抱える。

 切羽詰まった声と腕を抱きしめる力が、それが心底からのわがままなのだと訴えている。黒猫がしたいこと、嫌なこと。そういうのを俺が潰してしまうのは、嫌だ。

 だらりと垂らした腕が、黒猫の腕の中からするりと抜ける。

「ごめん…本当にごめん……。俺、やっぱり行けない」

 何もできない。何も考えられない。何もわからない。

「アキトさんが謝ることなんて、何もないです」

 正面に回りこんできた黒猫が、わざわざ前かがみになって下から俺の目をのぞきこむ。探るようなその目は、もう揺れることなく真っすぐに俺を見ている。

 助けてほしい。その思いを読み取ったのか、黒猫が口を開いた。

「アキトさんが辛いことは、何ですか?」

 辛くて辛くてどうしようもない。でも、

「辛いことなんてないんだ。お前がいてくれて、仕事までさせてもらってる。それで辛いなんてない」

 言おうとしたのでも言わされたのでもなく、無意識であるかのようにそう答えていた。

「俺のせいで辛い人がいるのに、俺は辛いことなんてない。そんなの、薄情で自分勝手でわがままなんだ」

 一歩下がった黒猫の、ため息の音が聞こえた。それきり、無言になってしまう。

 やっぱり黒猫を傷つけてしまったんだ。こんな俺では、呆れられても仕方がない。

「ごめんなさい」

 ほら。黒猫だって手に負えないんだ。わかっていたこととは言え、俺はがっくりとうなだれてしまう。

「ぼくにはアキトさんがそう思うことを止めることはできません」

 否定の言葉が続く、はずだったが、突然肩にかすかな重みを感じた。横目で見たそれは真っ黒だった。

「でも、ぼくはそんなアキトさんだからいいと思います」

 黒猫が俺の肩に額を預けていた。

「アキトさんの言う自分勝手もわがままも、全部誰かに気を遣っているからこそそう思うことだから。それは薄情なんかじゃないです」

 ささやくような声なのだが、まるで包まれているかのように感じる。

「だからぼくは、アキトさんには自分のことを嫌ってほしくない。本当のわがままって、こういうのなんです」

「違う……」

 黒猫の言っていることこそ俺を気遣っているからで、それはわがままなんかではない。

「ほら、今だってぼくのことを気遣ってくれてる。だから大丈夫なんです」

 かすかに笑った息づかいが胸の辺りをくすぐる。

「だから、辛いと思ったことだって言ってもいいんです。傷つくことがあったとしても、それでぼくがアキトさんを嫌いになることなんて絶対ないから」

 顔を上げた黒猫と、至近距離で目が合う。触れていた額が、ほんの少し赤みを帯びている。

「だから……」

 言葉は、そこで途切れた。不安定に視線がさまよって、口が小さく開いたり閉じたりして、それでも何かを伝えたいようにじりじりしているのが伝わってくる。

 一度その場にかがんだ。両手に持ったままの桶を置いて立ち上がると、黒猫が不安そうな目で俺の動きを追っているのが見えた。その黒猫と視線が合うのを見てから、手を上げてフードの上から頭を撫でる。

 黒猫が言葉にできずにいるのがわかるし、俺もそんな黒猫に何と言えばいいのか言葉にならない。それでもこのあふれる気持ちを伝えたくて、そう思ったらそうしていた。

 黒猫は安心しきった顔で撫でられるがままにしている。もう、不安はなくなっただろうか。そう思って手を離すと、一瞬だけ寂しそうに眉が下がった。

「お前、撫でられるの好きなんだな」

「はい。なんだかすごくホッとするんです」

 照れるとかそういうことなど一切なく、黒猫は混じり気のない笑顔を見せた。それから急に一声上げて、小走りに俺の脇へと走った。

 黒猫の持っていた桶が転がって、入れてあった薬草が散乱していた。俺が見ている前でかがんで、傷ついていないか見ながら入れなおしている。こういう目の前のことだけでくるくる動き回っているのは、見た目どおりに子供のようだ。

 どうやら、ダメになってしまったものはなかったらしい。ほっと胸をなでおろした黒猫が、桶を置いて俺に向き直る。

「ごめんなさい。ぼくだけがホッとしちゃって、アキトさんが辛いままなのに」

 そうやって気遣いを見せるところは、見た目からは想像もできないくらいに大人だ。いや、表情が萎んでしまうのを隠さないところだけは子供なのかもしれない。

「なんか、お前を見てたら気が紛れてきた」

 俺が思っていたことは何ひとつ解決していないのにどうしてかはわからないが、もう深刻ではいられなかった。それが自分勝手ということなのだが、それでも今は思考の堂々巡りに落ちていけない。

「えー、それはないでしょう。ぼく、わがままばかり言ってアキトさんを困らせただけですよ?」

 それでもだ。黒猫がいてくれるから、俺はこうしていられる。打ちのめされるようなことがあったとしても、また立ち上がることができる。

「そんなことはない」

 そう言っても、黒猫は見るからに納得できないという顔をして食い下がってくる。いやにしつこいのは、自分ばかり取り乱したのを見せてしまったのが恥ずかしいからなのかもしれない。そう思うとちょっと笑えた。

「無理して笑わないでください。アキトさんが辛いこと、自分だけで抱えこまないでください」

 笑ったのが見とがめられて、さらに頑なになってしまった。これは白状するしかなさそうだ。

「わかった、言う。だから行こう。けっこう時間を無駄にしたし、歩きながら、採りながら話そう」

 絶対に言えないと思っていたはずなのに、今はそう思ってしまっている。何も手につかなそうなくらい沈んでいたはずなのに、今は何かをしながら話す程度のことに思えてしまっている。そういうのが全部、お前のおかげなんだ。

「こんなの、採れなかったら採れなかったでいいんです。そんなことよりアキトさんが苦しんでいることの方がずっと大事なんです」

 自分でこうと思いこんでしまった黒猫をなだめるのは、思ったよりもはるかに大変だった。結局俺の方が折れて、この山では珍しい俺の肩幅ほどもある幹の木に背中を預けて腰を下ろした。

 黒猫も同じように俺の隣に腰を下ろす。お互い違う方を向いているが、ちょっと言い争いになってしまった今はそれがちょうどいい。

「この前あの母親のところにいった時、お前、撫でられて気持ちよさそうにしてた」

「はい。申し訳なかったのですが、なんだかとても」

「それって多分、あの人の気持ちを動かせたんだと思う。お前が」

 今度は、返事がなかった。ちらりと横目で黒猫を盗み見るとちょうど黒猫も同じようにしていて、弾かれたように俺は視線をそらした。

「俺は何もできなかった。あの子を死なせて、お詫びに行くのだってずっと後になって、それも何にもならなかった。もしかしたらもっと恨まれたかもしれない」

「そんなこと、」

「それなのに俺はこうして生きてて、お前までいてくれて俺を助けてくれてる。それってすごくずるい。不公平だ」

 握ったこぶしで地面を叩く。黒猫が何かを言おうと声を上げかけたが、その音に制されたように息をのみこんだ。

「しかもそんな大事なことを思い出しもしない。自分勝手すぎる。そんな俺が時々嫌になるんだけど、時々ってことはやっぱりいつもは忘れてて、それって薄情なんだ。俺はどうしようもない奴なんだ」

 隣から言葉にならないような短く小さな声が聞こえる。でも俺はまだ言い足りなくて、それを無視してさらに続ける。

「こんな俺でも蒼玉たちは戻ってきてくれるのかとか思っちまうんだ。それってすごくわがままなのに、すごく不安なんだ」

 やっぱり俺はどうしようもない。それなのにお前がいてくれて、傷つけてばかりなのにお前から離れられなくて、今だって救われている。そんなのは贅沢なんだ。それでも、求めずにはいられない。

「そう…、アキトさんが本当に心配だったのは、それだったんですね……」

 黒猫はひとつつぶやいて、それから息を整えて話し始めた。

「蒼玉さんたちがまた一緒に来てくれるか、それはわかりません」

「大丈夫だとは言ってくれないんだな」

 言ってほしかったわけではない。むしろ安易にそう言わないのが、黒猫の誠実さだ。

「ごめんなさい。でも、もし来てくれなかったとしても大丈夫です。アキトさんなら、大丈夫なんです」

 何が大丈夫なのか聞きたくて、俺は黙って続きを待つ。

「蒼玉さんたちは戻ってきてくれないかもしれない。あの人も恨んでいるかもしれない。それでも…、アキトさんはいつだって人のことを気遣って、真心を尽くしてくれるから……」

 厳しいことを言う時の黒猫は、無理をしている。今だって、息づかいがかすかに乱れてしまっている。

「だからそんなアキトさんのことをいいと思ってくれる人は、絶対にいます。少なくとも、ぼくはそうです」

 こんな俺のために、黒猫は必死に言い募ってくれる。

「アキトさんのことだから、きっとまたそう思って辛くなる時があるのでしょう。でも、ぼくに気遣って一人だけで苦しまないでください。二重に辛くならないでください」

 まるで自分のことを守るかのように必死に。

「大丈夫です。いいことだってあります、絶対。だってアキトさんなんだから」

 違う。黒猫にとってこれは自分のことなのだ。

「黒猫」

「はい」

 俺の呼び声に、黒猫はハッとしたように言葉を止めた。

「お前こそ、俺のために無理して苦しむな」

 やっと、ぼんやりだがわかりかけてきた。黒猫の言う何かをするというのは、例えば今一緒にいる俺のように身近な者に対することなのだ。そして黒猫はそれで自分を保っている。だから俺が落ちこんだりすると、自分が何もできなかったからと思って辛くなってしまうのだ。

「お前のことだからそれは無理なのかもしれない。でも、それは見てて辛いんだ」

「そうやってアキトさんはまたぼくに気を遣って、」

「それが俺、なんだろう?」

 そしてそれがお前なんだろう?

「……ずるい」

 考えても言い返せないと諦めたのか、黒猫がぶすっとつぶやいた。

「ずるいのは俺だ。お前がいてくれる」

 何がどうあっても、結局俺はお前に助けられる。お前が何をして何を言おうと、お前がいるだけで俺は何度でも救われているんだ。

「そうですね。アキトさんはずるいです」

 黒猫の声には悔しさがにじんでいるように聞こえる。

「ぼくよりも広くて強くて温かい」

 俺は黒猫にそんなことを言わせて甘えているだけだ。そこから抜け出すためには、本当にそうならなければならない。だがそれは言えない。言っても黒猫が意固地になるだけだ。

「行こう。もう気が済んだだろう?」

 立ち上がって黒猫の正面に回りこんだ。ずっと黒猫の顔を見ていなかったが想像どおりに口をちょっととがらせていて、それに俺は満足して手を差し伸べた。

「アキトさんの気が済んだのなら、それでいいです」

 その手を無視して一人で立ち上がったのまで、想像どおりだった。少しは俺も黒猫のことをわかってやれたのだろうか。


 約束の日の二日前、ここにいる最後の日。結局掘り返した土の半分ほどは空いたままだったが、種類さえ揃っていればそれで十分だという。

 食時の折に、薬屋の二人がこれからの目標を話してくれた。それは決して楽観的なものではなく、話を聞く限りでは成功はとても難しそうだった。

 まず、植物を栽培したこともないのに採ってきた薬草を育てられるか。それに土が変わったことで枯れてしまわないか。

 さらに、元々病大虫の毒に耐えて育っていた薬草が、毒の影響のないところで育つことで効能が弱まってしまわないか。これには元の場所で採れるものとの比較が必要だという。

「全部採り尽くすなと言ったのは、失敗した時に二度と薬草が手に入らなくならないようにということと、成功したとしても比較のためのものが必要だからなんだ」

 そこまで考えていたのかと俺はしきりに感心したのだったが、それを言われた時も裏で苦笑いをしていた黒猫にとっては当たり前のことらしく、特に反応は見せなかった。

「もしも何もかもがうまくいけば、町で売っているよりもいい解毒薬をよそに売るほど作ることができます。効能が弱まったとしても薬草を育てることができれば、普通の解毒薬として売ることができるでしょう。そうすれば、この村にももう少しお金が入ることになります」

「つまりは、もう少しうまいものが食えるということだ。うまくいけばな」

「うまくいくといいですね」

 俺たちもこうして関わったことだ。成功してほしい。

「ここまで研究してきたことを、病大虫がいなくなったからお終いにするのはもったいないからな。だからこれが次の研究なんだ。研究だからうまくいくかはわからないが、それでもやってみたいんだ」

「でも私たちだけでは最初の一歩でつまづいてしまって。あなたたちが来てくれて、本当に助かりました」

 ここにも、何かをやろうと足掻いている人がいる。二人ががんばるように、俺もがんばろうと思わせてくれる。

「いえ、俺の方こそ突然押しかけてずっとお邪魔させてもらって。助かったのはこっちの方です」

「アキトさんは、これからどうされるのですか?」

 それは何も決まっていない、というよりも決められない。その理由を説明するためには、ウェスタンベースで起こったことを話さなければならなかった。

 それを口にするのには、苦さが伴った。だが、俺がしでかしたことだ。逃げられないし、がんばろうと思わせてもらった今、逃げたくなかった。

 俺の話に、二人はいちいち驚きを見せた。黒猫は何も話していなかったらしい。黒猫がそれほど気落ちしていたということが、今になってずしりとのしかかってくる。

「30日だけ置いてくれって、そういうことだったのか。まあ言わないなら言わないでいいとは思ってたが」

「ごめんなさい、あの時は言えませんでした」

 黒猫が神妙に頭を下げる。でもそれは黒猫のせいじゃなくて俺のせいだ。

「まあいいさ。落ち着く時間ってことで30日だったんだろう? それでお前たちが落ち着けたのなら、元どおりやっていけるだろうよ」

「そうだと、いいのですが」

「今の話からすれば、アキトさんがいちばん参っていたのでしょう。実際、珠季に会いにここに来た時は、どうかしたのかと思いましたよ」

「そんなに……?」

「はい。その前に来た珠季の落ちこみぶりも相当でしたが、それ以上に驚きました」

 あの時は黒猫に会いたくて、会って俺のことを励ましてもらいたくて仕方がなかった。ここに来れば会えると思いこんで、いないと言われて絶望に叩き落されたような気になって、出かけているだけだと聞いた時にはもうたまらなくなって駆けだしていた。それを薬屋に見られて恥ずかしいとか、まったく思いもしなかった。

 だがそれを否応なく見せられた薬屋の方は、迷惑だったのだろう。

「あの時は、失礼をしました」

「こちらこそすみません。そういうことを言いたかったのではなくて、アキトさんはもう十分に落ち着いてくれたと思うのです」

 薬屋は黒猫にも同じことを言った。

「ずっとここにいさせてもらったおかげです。本当にお世話になりました。ありがとうございます」

 黒猫が俺にならって礼を言うと、二人は目を丸くした。

「お前が、そんな改まって礼を言うなんてな……」

「それほどのことなんです」

「そうか…そうなんだろうな……。まあ、よかった」

 その場がしんみりして、何となく誰も何も言わなくなる。これからの目標の明るい話だったはずなのに嫌だなと思っていると、黒猫が席を立った。静かになっていたからか、椅子の音が大きく聞こえた。

「今日くらいはぼくが片づけましょう」

「いや、いい」

「えー、お礼の気持ちにせめてこれくらいと思ったのに」

 すねたような声がわざとらしい。

「こっちにはこっちのやり方があるんだ。せっかくお前にやってもらっても結局二度手間になるなら、気持ちだけもらっとくさ」

 白衣の男がカウンターの食器を集めだしたのを潮時に、それぞれ部屋に戻った。

 ものすごくわざとらしかったが、俺のために空気を変えようとしたのだろう。そういうところ、相変わらず俺は黒猫に甘えっぱなしだ。

 そろそろ住み慣れたと言ってもいい部屋で、ひとつしかない椅子に腰を下ろす。ひとつしかないベッドを交代で使ってきたのだが、今日は黒猫の番だ。

「明日、どこか行きますか?」

 俺は気遣ってもらったことへの感謝を口にしようとしたのだったが、それよりも黒猫が口を開いたのが先だった。

 明後日の約束の日はセントラルグランのギルドで会うことになっているが、時間は決められていない。それでも朝から待つべきだろうと思うから、明日はセントラルグランで宿をとるつもりだ。ここからセントラルグランまで丸一日はかからないので、明日は多少時間に余裕がある。

「お前は、行きたいところはあるのか?」

 俺の問いに黒猫は目線をどこかに上げてちょっと考えこんだ。自分では何も考えていなかったらしい。

「しばらく冒険者から離れてましたから、ウェスタンベースのギルドに寄って、今どんな依頼があるのかとか様子を見ていくのはどうでしょう」

「そうだな。みんなに会った後にどうするのかも、少しは考えておかないといけないな」

 たとえみんなともう一度パーティを組むことができなかったとしても、だ。それでも立って、歩かなければならないのだから。

「でも、それはお前が行きたいところじゃないだろう」

「うーん…行きたいところって思いつかないです」

 降参というところか、黒猫は目線を俺に戻して苦笑いを浮かべた。

「いや、お前に決めろと言ってるつもりじゃないんだ。気にするな」

 こんなことで黒猫に責任を感じてほしくない。俺はちょっと慌ててなだめる言葉を口にした。

「と言っても、俺も行きたいところとかないな…」

「それなら明日はゆっくりしましょう。ここのところ毎日仕事していましたし」

 とりあえずそれでいいことにした。明日になれば何か思いつくこともあるかもしれないし、何かが起きるかもしれない。

 黒猫のマントを借りて、背中に掛ける。黒猫の背丈に合わせたものなので俺の背中を覆うには小さいが、しっかりした毛皮なので十分温かい。これの世話になることももうないだろうと思うと名残惜しい気がしないでもなくて、目を閉じてしばらく背中の温かさだけを感じていた。


 俺たち二人ではゆっくりするとは言ったものの薬屋にとってはいつもの朝で、だから村を出たのは日がまだ高くなる前だった。

 山を下りるのは四度めで、それはいつも俺にとっての出発だった。

 不安はある。きっと黒猫もそうだ。それでも黒猫がいてくれればやっていける。

 それを確認するかのように時々黒猫の顔を横目で盗み見ると、それを感じて小さく笑いかけてくれる。逆に黒猫の視線を感じて俺が目だけ向けることもある。言葉はほとんどなかったが、それでも十分だった。

 ウェスタンベースの北の門が見えてくる。山に入るだけのこちらの通りに人を見ることがないのは相変わらずだが、この前に来た時とは違って警備隊の姿までがなかった。

「警備隊がいないってことは、もうリザードは大丈夫ってことか」

 門から町の中に入っても、警戒している様子はない。少し先、東西の大通りには、ひっきりなしに人が行き交うのが見える。

「久しぶりに来ると、ちょっとあれ?ってなること、ありますね」

 知っているはずの場所なのに知らないことが目につくと、自分だけが取り残されたようで心細くなってしまう。

「それもそれで、何か新しいことがあるかなって楽しみですけど」

 黒猫は俺みたいには思わないらしい。ちょっとずるい気がする。

「ギルドの方は、どんな感じでしょうね」

 俺の表情が曇ったのを見てとった黒猫が笑いかけてくれる。本当にずるいのはそんな気遣いができるところだと、俺は思いなおさせられたのだった。

 時間が時間なのか、ギルドに冒険者の姿はなかった。壁に張られている依頼も少なそうだ。

「リザードの依頼は、もうなくなってますね」

 何枚もの依頼書がまとめて釘で刺されていた三種類の依頼は、すべてなかった。

「それはだいぶ前の話だぞ? 珠季」

 冒険者が来なくて暇なのか、声を聞きつけたNPCが奥から出てきた。

「じゃあもうキングは退治されて、町も危険じゃなくなったんですね」

「まあな。後片づけも終わって、やっと活気が戻ってきたってところさ。今はその間止まっていた商売に関わる依頼が多いな」

 確かに、旅商人の用心棒の依頼なんかもある。サレナや雇い主のバリスたちも、今ごろは商売をやり直しているのだろうか。

「多いと言う割には、依頼書はあまり張られてないですね」

「リザード退治の取り合いで稼げなかった冒険者が小銭稼ぎでやってるからな。それもそろそろ飽きてよそへ出てく頃だろうよ。そっちはどうなんだ?」

「ぼくは今NPCやってませんからねえ…、どうって言われても」

 黒猫が困ったように笑って見せたが、NPCは逆に渋い顔になった。

「そんなことは知ってる。だからよそはどんな感じか、冒険者のお前に聞いてるんだ」

「ああ、それはごめんなさい」

 黒猫は笑いを収めて失礼を詫びた。その姿にふと、俺が山まで会いに行った時に薬屋に強引なことを言っていた黒猫を思い出して、いつもの黒猫に戻ってくれたのだと改めて安心したのだった。

「しばらく山の村にいたのでそういうのも全然わからなくて、それで今はどんな感じか見たくてここに来たのです。だから、お役に立てずにごめんなさい」

「そうか、そっちも何事もなしってことか」

「はい」

「わかった。何か依頼を受けてくれるときは言ってくれ。地味なのしかないけどな」

 情報交換の成果はないと見て、NPCはカウンターの向こうへと下がった。

「何か面白そうなの、ありますか?」

 話を終えた黒猫が俺の隣に寄ってくる。

「NPCが言ってたとおりだな。面白そうなのはない」

「じゃあ行きますか」

 黒猫は自分で依頼の内容を見るつもりはないらしい。奥に一言挨拶だけして、さっさと外に出てしまった。俺も後を追ってギルドを出る。

 外に出るとちょうど足元の地面が陰っていた。空には白い雲がひとつだけ、まぶしい日差しをよけてくれているように漂っている。どこに行くでもない、のんきな雲だ。

「さて、どうしましょうか…」

 俺にならって雲を見上げる黒猫の声も、なんだかのんきそうだ。でもそれは、本気で考えなければいけないのではないだろうか。

「ここにいても仕方なさそうだし、早いかもしれないけどセントラルグランへ行こう」

 のんびりしすぎていて、なんだか今ひとつ冒険者をしているという感じがしない。その違和感を振り払うためには、とにかく動くことが必要だろう。

 黒猫にも異論はなかったので、東西の大通りを左に曲がって東の門へ向かう。市場の活気は俺が見覚えがあるもので、リザード騒動の時のような品薄状態ではなくなったようだ。

 人通りも多くて、黒猫と並んで歩くことなどほとんどできなかった。そういう時、自分がどこかへ連れていこうということでもない限り、黒猫は必ず先を譲ってくれる。そういうことひとつひとつを見るたび、いつもの黒猫がいてくれていることを改めて実感する。

 東の門では、日が中天に昇ろうとしているこんな時間でも荷車が通っていた。ギルドで聞いたとおり、今は普通よりもさらにそういう動きが多そうだ。こちらの門にはしっかり警備隊が目を光らせている。

 門を抜けて橋を渡って、ようやく二人で並んで歩けるようになった。今はリザードもコボルトも出なさそうで、見かける人たちも緊張感は薄い。

 風がかすかに木立のざわめきを運んでくる。気持ちいい風にまたのんびりした気分になりそうだったが、隣の黒猫はちょっと違うらしく、シャツの袖で額の汗をぬぐった。

「暑い季節が、来ますね」

 いつの間にか黒猫がそばにいるのが当たり前に思えていたのだが、それはまだたった季節ひとつくらいのことにすぎない。たったそれだけの時間なのに、黒猫がいない俺などもう想像もできない。そう思うと、不思議だった。

「猫舌のお前は、暑いのも苦手か」

「このフードとマントは寒い季節には温かい分、暑い季節には不向きなんです」

「それでも取らないんだな」

「お気に入りですから。それに使わなければもったいないくらい、いいものなんですよ」

 可愛いから猫耳フードだとか言っていたことがあったが、それだけではないのか。変なところにこだわるのもまた、黒猫らしい。

 ぼんやりと黒猫のことばかり考えていたところで、思いついた。

「スキル養成所、行ってもいいか?」

「はい。もしかしてずっと習得したいスキルがあったのを、ぼくが止めちゃっていたのですか?」

「そうじゃない。今思いついたんだ」

 黒猫に自分を責めさせてはいけない。だから俺は思いつきであることを強調し、さらにその中身もさらけ出した。

「これまで大事なところではお前の防御魔法に頼ることが多かったから、俺ももっと盾のスキルを身につけて、頼りきりにならないようにしたいんだ」

「それはいいですね」

 黒猫が笑ってくれたことに、俺は安堵した。だが歓迎ということは、これまで黒猫には無理をさせてきたということではないのか。俺が小首をかしげたのを目ざとく見つけて、黒猫は言葉を続けた。

「盾と防御魔法って、けっこう違うんですよ」

 今度は本当に理解できなくてさらに首をかしげてしまうと、黒猫はいよいよ笑ってそれを教えてくれた。

 盾と剣はそれぞれ片手に持つことでふたつを連続して、あるいは同時にも使うことができる。しかし魔法は絶対にそれができない。しかも詠唱があるために反撃に転じることが難しく、何もできないまま防御魔法が破られることになりかねないという。

「だから頼る頼られるとかじゃなくて、戦い方の幅が広がるんです」

「そうか…」

 俺はこれまでスキルの数よりもそれを扱う身体能力を鍛える方を重視して、スキルはあまり習得してこなかった。だが仲間とうまく連携して戦うためには、やはりスキルが必要らしい。

 そこまで思い至った時に、ひとつ気がついた。黒猫も黒猫で、スキルの習得をしているところを一度も見たことがない。一度は冒険者をやめたからなのかと聞いてみると、違う答えが返ってきた。

「ずっと憧れてる魔法があるんです。今はまだ力不足で習得できないけどいつか使えるようになりたくて、それまでスキルの習得は控えてるんです」

「どんな魔法なんだ?」

「今はまだ秘密。結局習得できないままだったら恥ずかしいから」

 探検家と魔法士の両方のスキルを少しずつ習得しているためにそれぞれのクラスにしてみれば能力が劣り、そのため上級魔法の習得は難しいのだという。

 そんなことは話してくれるのに、何の魔法かという肝心なところは何度聞いても教えてくれない。そういう頑固なところも、黒猫らしいと言えば黒猫らしい。

 そのうちずっと横に広がる土盛りが見えてきた。遠くから見るとしっかり作られた壁とは違って、ちょっと高かったり低かったりといびつになっている。何事もなくセントラルグランに着けたようだ。

 土盛りの切れ目を過ぎた頃から人通りが増えてきて、門を通って新市街に入るとまた並んで歩けないほどの人の多さだった。ただし並んでいる店の種類が違うためか、ウェスタンベースの大通りとは人波の色合いが違う。

 しばらくこんな賑わいとは縁のないところにいたので、一歩前に出す向きさえもままならないこの状況には閉口してしまう。中心街への門をくぐると一気に賑わいは収まったが、今度は重苦しさを感じてしまう。

「ずっと村にいたから、町は慣れないな」

「そうですね」

 口では同調しているが、黒猫は何とも感じていないかのように平然と歩いている。中心街のさらに中心近くまで来てもそれは変わらない。

「俺がスキル習得している間、お前はどうする」

「待ってます……あ」

 何かを思い出したように、黒猫が声を上げた。

「ただ待っているのも暇ですし、今日の宿を探しておきます。それならちょっと遅くなっても大丈夫でしょう」

 俺だけがやりたいことをやって黒猫に雑用を押しつけてしまう気がして、少しためらわれた。

「いいのか?」

「ぼくは今やりたいこととかありませんし、後は適当に見物なんかしてます。気にしないで行ってきてください」

「頼んだ」

「はい」

 一声返事をするなり黒猫は新市街へと戻っていってしまったので、俺もスキル養成所に入った。

 盾のスキルなどまったく習得していなかったので、まずは初歩からになる。そのためか一緒に習得を目指す人が何人もいたのだが、俺のような軽戦士よりも重装戦士の方が多くて、ちょっと場違いな気がしてしまう。だが見た目の違いなど、些細なことにすぎなかった。

 盾とは相手の攻撃を防ぎ、あるいは受け流すものだというのが、実戦で身についた俺の感覚だった。しかし盾で守るとなるとそうではないという。相手の攻撃を受け止め、一歩も引かずに耐え続ける、そのための力と技が求められる。

 そこに派手なものなどかけらもない。ただ実直に押しあう、それだけが延々と繰り返された。

 それなりに冒険者をやってきて力もつけてきたつもりの俺だったが、初歩の訓練半日だけでくたくたになってしまった。それでも、手応えと充実感はあった。

「だいぶ疲れたみたいですね」

 奥から戻ってきた俺を、黒猫が迎えてくれた。もう日が低くそして赤くなってきて、窓から差しこむ逆光で顔なんかははっきり見えなかったが、俺のことを労わってくれていることはその声だけでわかる。

「でも、なんかいい顔してます」

 黒猫の方からは、俺の顔はよく見えているようだ。

「お前の防御魔法に助けられた時のことを思い出してた。これで俺も、少しはお前に追いつけたかな」

「追いつくとかそんな、ぼくはそんなんじゃないです。アキトさんはアキトさんで、それがいいんです」

 逆光で表情はよく見えないが、声にちょっと照れがあるのがわかる。

「宿、行こうか」

 この話を続けても黒猫に気を遣わせて、やたらに持ち上げられるだけだろう。思っただけでこそばゆくなってきたので、一方的に話を変えてしまった。

「はい」

 スキル養成所を出た黒猫は、沈みかけの日に真向かうように歩を進めた。まぶしそうにうつむき加減になって、フードで日の光を遮っている。真似できない俺は片手を目の上にかざしてその後ろを歩いた。

「こっちじゃなくてもよかったのでしょうけど、他のところは全然知らないのでこっちにしちゃいました」

 確かに西側でなくても冒険者が使うような宿はいくらでもある、はずだ。変わり映えのしないことを黒猫が詫びたが、俺もそんなものは求めていないので、適当に返事を返した。

 宿などたくさんあるから当然と言えば当然だが、連れてこられた宿は俺の知らないところだった。通された部屋を見回してみると、まあまあ安そうといった感じだった。

 そんな俺の隣で、黒猫も同じように品定めのようにあちこち見ている。知っているところなら今さらそんなことはしないだろうと思って聞いてみると、おいしそうな匂いがしたからここにしたというなかなかな答えだった。

 確かに食事はうまかった。と言うよりも、散々世話になっておいて言うのも悪いが、薬屋ではずっと質素な食事が続いていたので、濃い匂いと味付けからして久々なのだった。そしてこれが相当に甘い。

 黒猫がこの匂いに引かれてここにしたということは、黒猫の好みは甘いものということだ。そういう見た目どおりの子供っぽさをたまに見せるところがまた、ほっとさせてくれる。

 食事を終えて、部屋のベッドの上に仰向けになる。スキル習得で疲れたし、このまま眠ってしまってもいいのだが、何となく眠れない。

「明日ですね」

 声のした方に首だけ向けると、黒猫は自分のベッドの端に座ってこっちを見ていた。

「ああ」

 生返事だけして、また天井に目をやる。それきり部屋は静寂に包まれた。

 天井に見るものなど何もない。そんな視覚よりも、黒猫が俺のことを見てくれている感覚の方が強く感じられる。

「なあ黒猫」

 だからつい、俺は黒猫に甘えてしまう。

「何でしょうか」

「俺、どんな顔してみんなに会えばいいんだろうな」

 黒猫の視線が外れたのがわかった。考えこませてしまったのだ。わかっているのに横目で見てしまうと、思ったとおりそうだった。

「考えても、わかりません」

 はっきりとした声が届くのと目が合うのが同時だった。

「そういう時は、会った時の直感をそのまま表すのがいいと思います。会って顔を見て、そこでわかることもあるでしょう」

「それしかないか」

 蒼玉たちがどう思っているかなんて黒猫にわかるはずがない。それにこれは俺の内にある不安だ。黒猫には関係ない。

「大丈夫です。アキトさんがアキトさんでいてくれれば、それだけで大丈夫なんです」

 疑問は何も解決していない。それでも黒猫がそう言ってくれただけで、温かく救われたような気分になってしまう。それに浸るように、俺は目を閉じた。

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