03//逢瀬(おうせ) - A Moment In Secret -
もしもこの身
明日果つる運命だとしても
それであなたが微笑んでくれるなら
そんな人生も悪くない。
ほんの僅かな時で構わない
それであなたの胸に
とどまることができるなら
例え無様で滑稽で
凄惨な姿を晒そうとも
俺は笑いながら逝けるさ、きっと――。
今頃、きっと彼女は泣いている…。
あの時、伏せた顔からこぼれた雫は、見間違いなどでは決してない。こんなふうにただ傷つけることしかできないのなら、初めから出逢うべきではなかった。
どうしてこんなことになってしまったのか…。
「――聞いていたか?」
隣を歩いていたノイズマンが、突然、俯く臣を覗き込んだ。
「え!?あ、あの…っ。すみません!」
慌てて目を瞬 かせる。
「ほほう…珍しいな。いつものおまえならば、涼しい顔で、聞いていました――とくるところだがな」
「も、申し訳ありませんっ!」
「ふっ…まあ、いいさ。実はな、大公殿下から直々にご褒美をいただけることになった。おまえとグリフィン=クリストファ一等兵、それからレヴィン=ハーディ伍長にな。この度のおまえたちの働きをそれは喜んでおいでだ」
いつもあれほど厳しいノイズマンが、今日はやけに穏やかだ。余程疲れているのか、何事か感じることがあったのか――。
しかし肝心の臣は、喜ぶどころかすっかり浮かぬ顔だった。
あの時、身の程をわきまえず警備配置に口を出したばかりに、賊徒をホールへまで招き入れる結果となってしまった。
「お言葉ですが、結果はどうでも、私の進言で変更された配備が、賊徒らに好機を与えてしまったことは明らかです。あのような失態を演じておきながら、私がここでご褒美など賜 るわけには…」
そう…今思い出しただけで背筋が凍る。
一歩間違えば、目の前であのクラウディアの命を失うところだったんじゃないか…。
「ほう…失態ねえ。おかしなことを言う奴だな。あれほど派手に立ち回っておいて、随分と謙遜してくれるもんだ」
ノイズマンは肩を竦めて笑った。
「正直に言おうか…。今改めて考えても、一昨日のあの指摘は、理に適った的確なものだったと思っているし、あのきっかけでホール以外の場所にも警備の目を配したからこそ、厨房の爆発についても最小限の被害に留めることができた。だいたい、各部署の精鋭を集めたはずのあの警備の中に、まさか間者が混ざっているなど誰も思いもよらなかった――そうだろう?責任があるとすれば、それは采配を任せられた私にあるはずだ。だがその尻拭いも結果的にはおまえがしてくれた。そう思っている」
「……」
「それに、海側の警備に目をつけたのは良かったぞ。あれほど速やかに敵の退路を断てたのも、直前にあちらへ兵を散開させたためだ。上にも包み隠さずそう申し上げてある。それらをすべて踏まえた上で、実際にあの場にいたベルモント大佐やイングラム大佐、そして殿下御本人とでお決めになったことだ。そう細かいことを気に病むな。ありがたく戴いておけ。いいな?」
「は、はい…。光栄です」
そう答えながら、臣の声にはどうも喜悦 も自負も元気もない。ノイズマンはくすりと笑った。
「おまえ…言っていることと態度がちぐはぐだぞ。さすがに疲れたようだな…」
「ええ、少し」
「まあ、あれだけのことがあった後では無理もない。あのイングラム大佐ですら、ずいぶんと塞ぎ込んでおられた」
「でしょうね…」
ホールでの悲痛の姿が浮かぶ。
「明日の朝一番に、玉間 へ直接来いとの仰せだ。むろん三人でな。あとの二人にはもうその旨 伝えてある」
「はい」
「休暇を取っていたようだが、手間を取らせることになってしまってすまんな」
「いえ、構いません」
一階のホールまで戻ってきたところで、ノイズマンは立ち止まった。ひっそりと静まり返ったホールに人影はない。
「時に臣――。おまえ、妙な剣技を使うそうだな。かねてから噂には聞いていたが、今日それを直接間近にした大佐の話では、実に不可思議で見目鮮やかな妙技だったとか…。できればそちらでまた手合わせ願いたいものだ」
「はい、是非」
臣はぺこりと頭を下げた。
「で、一つ訊きたいが、おまえが剣を抜くときに湧くという例の怪 し――。その正体は一体何なんだ?シャンデリアの灯りを消すときに、おまえ、剣を使ってそれを飛ばしたそうじゃないか。暗くてよくは見えなかったとのことだが、ベルモント大佐がそれは驚いていらしたぞ」
「ああ…あれですか…。ええと、あれは気とかオーラとかエーテルとか呼ばれているもので――何と申し上げたら良いのか分かりませんが、元々、誰もの体内にあるエネルギーのようなものです。私が育った地方に住む一派がそれを応用させ、剣技にまで高めた武術なのですが、どうやらこの辺りではああいう技を操る方はおられぬようですね。先のあれは、裂空斬 と言って、飛燕 とか竜驤 とか呼ばれる技です」
「裂空斬・飛燕…か。少なくとも私は初めて耳にしたな。だが、大層精彩 で見事だったと聞いた」
「ありがとうございます。でも、実は気の使い手としては、私はそれほど優秀な方ではないんです。あの煙のようなものについても、きちんと鍛錬を積んだ者ならば、もっと意識的に出したり潜 めたりできるはずなんですけど、私の場合は修行半ばで逃げ出してしまったせいか、どうも感情に左右されやすくて…。色も形状も場合によってまちまちになってしまいますし、それこそあれが湧く瞬間さえもまともにコントロールできていません。勝手に出てることも結構あるんですよね」
「そうか…。難しいものなのだな」
臣は恥ずかしそうに笑った。
「ええ…。ただ、誰にでもできるというものでもないみたいなので――自慢できるとしたらそのぐらいでしょうか」
「ふむ…。何にせよ興味深い。また見せてもらいたいものだな。ベルモント大佐もイングラム大佐もそう言っておられたぞ」
「はい、畏 まりました」
こうしてみると、むしろ控えめなぐらい謙虚な青年なのである。あれほどの偉業を成しておきながら、それを鼻に掛けるでも誇示するでもない。
確かに日頃の臣の歯に衣 着せぬ物言いは、時に彼を生意気に見せることも、図々しく感じさせることもある。だが、思えば彼はまだ十九歳。ほんのこの間まで子どもだったようなものだ。顔つきにもどこかあどけなさが残っているし、普段はそれこそ本当に大人しく素直で、むしろ可愛らしいほどではないか。
ただし、この異国の若者は、恐ろしくよく回る頭脳と並々ならぬ剣技を持っている――。
これまでの彼の経歴を思えば、まさか平凡な人生ではなかっただろう。彼をどこかアンバランスで風変わりな人間にしてしまったのは、持って生まれた性格のせいばかりではなく、ひどく殺伐とした彼の生き様そのものではなかったか――と、ノイズマンは思った。
「では、今日はご苦労だった。もう宿舎へ戻って休んで構わんぞ。遅くまで引っ張り回してすまなかったな」
「いえ…。では、失礼致します」
「うむ」
さっと敬礼して、臣は踵を返した。
「あいつ――。ああしている分には何の問題もないのだがな…」
立ち去る後姿を見送りながら、ノイズマンは呟くのだった。
* * * * * * * * * * * *
考え事をするときや一人になりたいときは、いつも月を眺めることにしている。
冴え冴えと輝くあの月影――。
その下 では、あの神々しさや清閑 さに身の柵 が洗い流され、魂さえ清められてゆくかのようだ…。
だが実際は、いつも物陰からじっと夜空を見上げているだけだ。ぼんやりと何事かに思いを馳せながら…あるいは目を閉じて静かに瞑想しながら、ただそこにいるだけ。
実はそうして眺めているのは自分ではなく、あの月の方かもしれない。紺青 に染まる天鵞絨 の頂上から、地上で息つくちっぽけな自分を、あの月はひたすら冷たく見下ろしているのかもしれない。
城の宿舎を与えられてすぐに、考え事にうってつけの場所を見つけた。ちょうどベアトリスのいる厩舎 から少し奥へ分け入ったところ――城の敷地の本当に隅の方にある楡 の木の下だ。ここはまったく具合のいいことに、例え何者かがその根元に蹲 っていたとしても、庭の木々と手前の厩舎に邪魔されて城内からは窺 えない。警備の見回りもさすがにここまでは回っては来ないし、庭の所々に灯されている明かりもここまでは差さない。
根元に降り注ぐのは、頭上に茂る葉を透かしてうっすらと届く月華 ばかり。その幹に凭 れ、城下を臨めば、いつか彼女と登った時計台と、その横にぽかりと浮かぶ月が見える。
そして臣は、当然のようにその晩もそこで膝を抱えていた。思えば彼女に出逢ってからというもの、ほとんど日課のような感じだ。
あまりに考えることが多すぎる。勤務を終えて一人になれば、頭に浮かぶことと言ったら彼女のことしかないほどだ。様々にこみ上げる想いに惹かれるまま、毎晩ここでこうしていた。
けれど、そんなことももう終わりにしてしまわなければ。元々、想ったところでどうにもならない相手だった。そんなことはとっくに分かっていたはずだ。
まさか胸など痛まない。
辛くなんかない――。
なのに、いくらそう言い聞かせても、どこかで納得しようとしない自分に苛 立つ。
何をそうもためらうのか。
一体何を期待しているのか…。
実に簡単なことだ。諦めればいい。何ならこの仕事ももう辞めて、よその国へ発てばいい。それで全部忘れたらいいじゃないか。これまでだって、辛いことがあれば時にそうしてきたはずだ。
世間には、自分ひとりが足掻いたところでどうにもならぬことなどたくさんある。そんな分別がつかぬほど、俺は子どもではないだろう?
「そうだよ…。分かっちゃいるんだ…」
自ら問うた言葉にぽつりと答え、臣は抱えた膝に顔を埋めた。
そう、分かってはいる。
だから虚しい。だからこそ切ない。理屈では全部納得がいっているのに、感情がどうしてもそれを理解しようとはしないのだ。
大きなため息をついて後、また幹に凭れた。
目を閉じれば、瞼 の裏に浮かぶのは、やはり同じあの女性 。
あどけなく美しいあの笑顔。そしてなぜか、時計台で彼女が怒って見せたあの時の、ひどく幼い膨れっ面――。
臣は小さく笑った。
我ながら、こんな自分は本当に女々しいと思う。
俺は一体何をやっているんだろう…。今度という今度は心底呆れ果てた。
自室へ戻ろうと立ち上がったその時、
「!?」
背後に何者かの気配を感じた。
一応ながらここは城の中のはずだ。
侵入者…?
まさか、先刻の連中の仲間がまだここに!?
「……」
茂みを睨む。
まずいことに武器は何も持っていない。その上、腕力にはとんと自信がない。素手での勝負となれば圧倒的に不利だ!!
焦燥に乾いた喉が鳴り、緊張が一気に頂点へ達する。
こんな時、どう切り抜ければいい…!?
ガサリと茂みが揺れ、ついに姿を現したのは――。
「あ…!」
息を呑んだ。
なぜなら今、臣の目前に佇むその女性 は、ここにいるはずのない――。
「こんばんは、臣様」
「あ…あなた、どうして…!!どうやってここに!?」
思わず素っ頓狂 な声を上げる臣だった――というより、開いた口が塞がらなかった。
「うふふふ」
寝巻き姿の少女は、してやったりとばかり嬉しそうに笑ったが、突然――。
「くしゅん…!」
お陰でようやく我に返った臣は、慌てふためき立ち上がり、自分の上着を少女の肩に掛けてやった。
途端に少女は頬を染め、ほんのりとはにかむのだった。
「姫様ともあろうお方が、こんな夜更けにこのような所で何を…。そ…それにそのお姿!お風邪など召されたらどうなさいます!!早くお部屋へ…!」
うろたえながらそう言うと、クラウディアはにわかに眉を寄せた。
「嫌よ」
「え…」
「嫌っ!!」
語気を強めた顔は、あの日、時計台で見せたのと同じ拗 ね顔なのだった。
どういうわけなのだろう。
このふくれっ面がやけに愛しい…。
「……」
呆然と見とれていると、何を勘違いしたか、クラウディアは必死になってよく分からない言い訳を始めた。
「だって…。だってわたくし、ちょっとだけ空が飛べるの!内緒なんだけど…」
「はあ?」
「なあに、そのお顔?信じてくださらないの?」
「え…。いや…」
クラウディアは更に眉を寄せた。まるでわがままを無理やり通そうとする子どもの顔だ――と、臣は思った。
「ほんとにほんとなんだから」
「はあ…」
「現にこうしてここにいるでしょう?」
互いの立場の違いに愕然としたばかりだというのに、このマイペースぶりだ。相変わらず彼女の考えることは突拍子がなく、言葉の方もどこかとぼけていて、今の今までこの胸を覆っていた愁雲 など、一笑の彼方へ吹き飛ばしてしまいそうだ。
ようやく眉を開き、臣はくすりと笑った。
「では、つまりその…姫様はこの星空の中を飛んで…ここへいらしたと?」
「ええ、そう――。お部屋のバルコニーで夜気 に当たっていたら、この木の下にあなたがいるのが見えたの。それで…」
臣はぎょっと目を剥いた。
「ま、まさか、あんなところから飛び降りたんですかっ!?」
「うふふふ。でもこのとおり。ほんとに飛べるのよ、ちょっとだけ」
得意顔で微笑んで、クラウディアは摘んだ寝巻きの裾をふわふわと揺らしている。
先ほどノイズマンとともに訪れた姫君の部屋は、確か二階にあったはずだ。いや、間違いなく二階である。
そのバルコニーから飛び降りたって?
彼女が…??
「……」
軽く笑い飛ばしてしまいたいが、まったく笑えない。その上、何と返事をすれば良いかも分からない。臣は顔を硬直させたまま絶句していた。
「臣様…?」
「まったくあなたって方は…」
「怒ったの?」
クラウディアは不安げに臣の顔を覗き込んだ。
「別に…怒ってるわけじゃないですけどね…」
「???」
「あのね、クラウディア!お怪我をなさってからでは遅いでしょう!?」
臣は盛大にため息をついた。
「あなた、前も時計台の階段から落ちそうになったじゃないですかっ!ちょっと不注意ですよ、何に対しても!!」
「……」
声を荒げた弾みで我に返ると、大きな眼をまん丸にしたまま、今度はクラウディアが固まっている。臣は慌てて頭を下げた。
「あ…!す、すみません!つい無礼な口を…」
「ううん。その方がいいの」
臣の手を取り、クラウディアはそっと頬を寄せた。
柔らかな微笑み――月明かりに照らされたその顔は、まるで聖母だ…。
そう胸の中で呟いた刹那、不覚にも臣の胸はどきりと音を立てて震えた。
「臣様はそのままがいいの。心配してくださってありがとう」
まるで大切なものを温めるように臣の手を包んだ手のひらは、月気のように白く繊細で、ほんの少しだけ冷たい。その左側の薬指に、ついこの間まで自分のものだった銀の指輪が光っていた。やや幅の広い男物のリングは彼女の細い指には大きすぎるし、やはり全然似合わない。
臣は小さく笑った。
「姫様…」
「?」
クラウディアは臣の右手を頬に当てたまま瞳だけをこちらへ向けた。首を傾げて見つめ返してくるエメラルドの瞳――気を抜けば吸い込まれてしまいそうだ。
だが――。
「瞼がものすごく腫れてますよ」
「あ!」
あたふたと手を放し、クラウディアは両手で顔を覆った。僅かに覗く顔は耳まで真っ赤に染まっている。
クラウディアはすとんと座り込んでしまった。
隣で臣が笑っている――。
「姫様って呼ばないで!」
むっと眉を寄せながら、クラウディアは指の隙間から臣を見上げた。
しかしそうして怒って見せながらも、本当は彼の笑顔にほっとしていた。彼が楽しそうにしているのが嬉しくて仕方がなかった。
「クラウディアって呼んでって、前にそう申し上げたわ」
「ですが…」
クラウディアは、ひたすら臣の瞳を覗き込んでいる。
「臣様、分かったって仰ったわ」
「……」
「お願い」
少しでも動けばぶつかってしまいそうなほどの距離に、愛しい彼女の顔がある。
少し拗ねたあの顔に、印象的なグリーンの瞳――。
そんなふうに見つめられたら、息をすることさえできない。
体中の血が沸騰するような感覚が一度に押し寄せ、途端、臣の頭の中は真っ白になってしまった。これではもう…気の利いた言葉なんて何ひとつ思い浮かばない。
ただ…。
たった今、ひと際に大きく騒ぎ出した胸の鼓動が彼女の耳にまで届いていないか――それだけが気掛かりだった。
「せめて二人でいるときはそうしてください、臣様」
クラウディアの声は、いつの間にか泣き出しそうに細くなっていた。
二人でいるとき。
そんなものが今後あるのだろうか?
そんなものがあって良いのだろうか?
だってあなたは…。
あなた様は――。
「あの…そのことなんですが…」
意を決して口を開くと、またもや声が掠 れている。
(情けない…。どうしてこうも心が揺れるのか。なぜこうも脆いのか、俺は――!!)
臣はぐっと拳を握り締めた。
「はい」
宝石の瞳がきらきらと輝いている。
だがその一方で、突如として胸を覆ったやるせなさに負けそうになってしまう。
だが、駄目だ。
許されたことじゃないんだ。
ちゃんと分かっている。
「明日の約束は…なかったことにしませんか?」
「ええと、じゃあ…」
「明日だけじゃなくて…その、これからもずっと…。もう、全部なかったことにしませんか?」
クラウディアの瞳は凍りついた。
「え…?」
ついに彼女から笑顔が消えてしまった…。
「今まで何もなかったし、これからも何もない。その方がきっと――」
「どうして…臣様?どうしてそんな悲しいことを仰るの…?」
「どうして…って…」
エメラルドの輝きが涙の向こうに失われてゆく。透き通った雫がこぼれ落ちるその前に両手で耳を覆い、、クラウディアは切なく声を張り上げた。
「お嫁になんかちっとも行きたくないの、わたくし!楽しいことなんかもうずっとないの…!!あなたがいなかったら何にも楽しくないの!!」
その言葉はきっと彼女の本当の心――。
本当は、そんなことはとっくに知っていた。
親子ほども年の離れた男のもとへ、政略の生贄 として捧げられる彼女の悲痛な叫びは、言葉になどせずともちゃんとこの胸に届いていたのに…。
「行きたくないの…」
クラウディアは何度も肩をしゃくりあげた。
だが、まさか自分まで本心を言うわけにはいかない。もうこれ以上、徒 に彼女を惑わせてはいけない。
期待などさせてはいけない――。
「ですが姫様…。誰にでもできることではありません。あなたはこれからこの国を救うんです。とても誇り高い立派なお役目ではありませんか」
まるで心にもないことを、平然と言い放つ自分が恨めしい。
だが、これでいい。
これでいいはずだ…。
「誇りなんか要らない!国なんか…!!」
「姫様、何ということを…!」
「クラウディアって呼んで!!」
耳を塞ぐ手に力を込め、クラウディアは金切り声を上げた。その拍子に、瞳の雫がいくつも散った。
「あ…。あの、クラウディア…」
「……」
俯 いたクラウディアは、なかなか顔を上げようとはしなかった。
「何と仰られても、私は明日、あの噴水へは参りませんから」
臣はその場に平伏し、深々と頭を垂れた。
「なかったことにしてください。お願いします」
「……」
「お戯れはもう…。どうか、ここでご容赦ください」
「戯…れ…?」
ようやく上げられたクラウディアの顔は、激しい愁容 に染まるのだった。
耳を疑った。
瞳が震えた。
もう、彼の姿も心も霞んで見えない――。
そんな彼女の心を知りながら、一層深く頭を垂れ、臣は地面に額を擦 るしかなかった。
もはや顔など上げられるわけがない。今の自分の顔を見られれば、本当の気持ちを知られてしまう。それでは意味がない…。
それでも――。
「お赦 し…ください…」
臣の声は震えていた。
「ひどい…!そんなのじゃないわ!そんなことなんかじゃ…!!」
「……」
「臣様の馬鹿!大ッ嫌い!!」
感情的に言い放ち、クラウディアは逃げるように駆けてゆく。肩に掛けられていた上着がはらりと草の上に落ちても、彼女が振り向くことはなく、その背中はついに見えなくなった――。
彼女のことが気掛かりだ。
それでも、追うわけにはいかなかった…。
やがて――。
「……」
何度も袖で顔を拭う。伏している間ずっと、大丈夫、間違っていない、これでいいはず――と何度も自分に言い聞かせていた。なのに、そんなふうに思うほど胸は痛む。
彼女の瞳。
彼女の言葉。
何もかもが臣を責めた。
彼女を傷つければ自分も傷つく。自分自身の吐いた心無い言葉が、己の胸まで深く抉る。
堪え切れず、ついこぼれたものを彼女に見られるわけにはいかなかった――。
「大嫌い…」
声に出してみれば、なぜだか笑えた。
(これで全部終わった…)
そう思ったら、少しだけ心が軽くなった気がした。
そんな臣を月だけが見ていた――。
* * * * * * * * * * * *
ビューロウ男爵は、確かに大公の遠い親戚には違いなかったが、ずっと前に阿片 の密輸に関わり、国を混乱させた咎 とかで、ほぼその縁は断絶された状態にあったという。つまり、本来ならあの場にさえいられるはずのない人物であった――ということらしい。
確かに、そういうことならばあの怪しげな挙動にはすべて得心がゆく。そわそわと常に目を散らし、落ち着きなく室内をうろついていたのは、自分を知る人物から声を掛けられるのを恐れてのことだったのだろう。
例の四人の親子連れは、その後、やはり親子などではないことが判明した。グリフィンの察したとおり、彼らはヴィングブルクの反政府地下組織の人間で、狙いはやはり姫君の暗殺であったのだ。
そして、あろうことか、ヒューイ=バース少尉を始め、警備の中に混ざっていた彼らの仲間は、もとを辿 ればそのほとんどがヴィングブルク王国と深い関わりのある人物だった――との話を、朝一番で玉間へ向かう道すがらノイズマンから聞かされた三人であった。
「へえ…どんぴしゃ読みどおりだったな。ほんといい勘してるぜ、ウサギは」
ハーディは実に嬉しそうだった。
「何がもらえるのかなあ?金一封ってやつかな」
グリフィンもご満悦だ。なにせ、ここで兵役に就いてから初めて賜る褒美である。しかもわざわざ玉間に呼ばれるなど、この上ない栄誉だ。
しかしながら、ここに浮かぬ顔がひとつ――。
実を言えば、まだ昨夜の出来事が胸に重く圧 し掛かったままである。自分から別れを切り出しておいて、あろうことか自分の方が有り得ないぐらいに落ち込んでしまっている。そんな女々しい自分が、また堪らなく不愉快な臣だった。
「どうした?まだ疲れが取れないか?」
先頭を行くノイズマンが振り返る。
「いえ…大丈夫です」
もちろんそんなことが理由ではない。
実は一睡もできなかった。結局あれからまたずっとあの場所で彼女のことだけを考えていた。そんなことをしていても、状況も立場も――それこそ何一つ変わるわけではなかったが、それでも頭の中に勝手に湧く様々な想いに振り回されるまま、ずっとあの場所に蹲 っていた臣であった。
「まあ、そう気にするなよ、ウサギちゃん。上官であるこの俺様に偉そうに命令したことや、泣く子も黙るマイト・ハーディ様をアンタ呼ばわりしたことなんか、今回ばかりは全部水に流してやるからよぉ!」
相変わらずの馴れ馴れしさで、まるっきりあさってなことをほざくハーディ。
それでも――。
「はい…。すみませんでした…ハーディ伍長」
昨日、臣の内面を垣間見たグリフィンの目には、この彼のしおらしさはひどく奇妙に映った。
「なあ…おまえ、ほんとに大丈夫?元気なさすぎだぜ??」
「ああ…。昨夜遅くまで外にいたから、風邪でもひいたのかもしれないな」
やがて、ひと際大きな扉の前でノイズマンは立ち止まった。
「具合が悪いのか?」
「大したことはありません」
「まあ、幸いおまえについては休暇届けが出ているからな。この後一日、ゆっくり休むといい」
「はい」
三人が大公から直々に賜ったものは、国の紋章の入った長剣と金五〇〇〇ベルクの恩賞であった――。
「そなたらの功労に深い謝意を示すとともに、適切な判断と機転、そして何より類まれなるその勇気を頌 して褒美を賜与 する。これからも我が国の平和のために粉骨砕身の思いで尽くして欲しい」
「「ははあっ!ありがたき幸せっ!!」」
恭 しく跪 き、賜った剣を捧げ持つ三人のうち二人の顔は、この上ない誇らしさに輝いていたのだが――。
剣を差し上げたまま呆然とする臣を、隣のグリフィンがこっそり小突いた。お陰で臣は、多少なり我に返ることができた。
「あ…。その…感謝します」
などと、遅ればぜながら頭を垂れるが、言葉ほどには嬉しそうに見えない。
グリフィンは苦く笑った。
ところが実は、ここで複雑な面持ちだったのは臣だけではなかった。
前方に御座 すは、大公と公妃――そしてその隣には、彼らのただ一人の愛娘。その美しい顔も今日ばかりは沈んでいたのである。
顔を上げこそすれ、臣は視線を床へ向けたまま動かそうとはしなかった。まさか今更、彼女と目を合わすことなどできるはずがない。
昨夜、あれほど傷つけた。
心にもないことを言って散々に泣かせた。
大嫌い――それで上等だ。好かれる必要なんかない。
(だが、なぜそうも見つめる?あなたはなぜ俺を見ているんだ)
直接目にせずとも、彼女の視線ならずっと痛いほどに感じている。
何もなかったことにすると言ったはずだ。
今までも、これからも。もう何も…。
それなのに――。
結局、一度も彼女の顔を見れぬまま退室してきてしまったが、ここでようやく臣はほっとひと息つけたのだった。
「なんだぁ、まさかおまえ緊張していたのか?」
「え…?ああ、まあ…少しだけ」
「ははは!強がンなって!さすがにウサギだけあって気が小せえなあ」
優越感たっっぷりにハーディが笑うと――。
「おい!そうやってこいつをからかうのはいい加減にやめろよ、ハーディ!!」
見かねたグリフィンが、突如として間に入った。
「何だよ?」
「また吠え面かかされたいのかって言ってるんだよ!」
「誰がいつ吠え面かかされたっつーんだよ!?」
「この間、思いっきり臣に負けてたじゃん!!」
どちらもむきになっているので、その声は大きさを増すばかりである。
元々外人部隊の連中はこんなものだ。血の気が多く、口が悪く、些細なことがすぐさま口論や殴り合いへと発展する。お目付け役のノイズマンが、毎度頭を痛めるのも無理はない。
「べっつに俺ァ負けてねえ!!」
「負けたさ!みんなの前で!!おまえに賭けてた連中、そりゃあ怒ってたぜ?見掛け倒しのつまんねえ奴だってな!!」
「なんだとおっ!」
だが。
「……」
当の臣本人は、激しく遣り合う二人の間で呆然としていた。正直、二人のどちらにも興味が持てない――というより、今はそれもこれもどうでも良かった。
ところが、そんな臣の胸倉は、無闇に伸びてきたごつい腕に捕らえられ――。
「てンめえ、ウサギいっ!!勝負だ!今すぐッ!!」
ついに怒涛の濁 声が炸裂したのである。
「あの…私、今日は非番なんですけど…」
もはや、うんざりである。
「構うもんかっ!!」
「私は構います。困ります。迷惑です」
「な…何いいいいっ!!」
「それに今はちょっと…」
「ああん!?何だあ!?」
「加減とか無理なので…多分…」
本人にとってはさほどの悪気もないのだが、この台詞、ハーディの神経を逆撫でるに十分であった。
「ぷっ…。加減だってさ」
グリフィンが小声で嘲 ると、ハーディの闘志は一気に振り切れてしまった。
「か…加減だとおぉ!!てめえにそんな余裕があるわけねえだろ!今度という今度はこっちも本気でいくからな!!」
ハーディは顔を真っ赤にして詰め寄ったが――。
「あの、とにかく…何かあるなら明日にしてください。お願いします」
臣はまったく乗ってこない。元々そう簡単に挑発に乗るタイプでもないが、それにしても今日の彼にはどうも張り合いってものがない。
「え…?お願い――って…」
途端に心配になるグリフィン。
そして、
「お、おい…どうした、ウサギ。おまえ、本当に変だぞ?大丈夫か??」
意外なことに、あのハーディですら戦意を殺 がれてしまったようであった。
「ええ、大丈夫です。ほんとに…」
僅かに頷き、そう答えた後――。
「すみません、失礼します!」
突然、逃げるように臣は駆けて行ってしまった。
残された二人はおずおずと顔を見合わせ、遠ざかってゆく背中を見送るのだった。
「大丈夫――っつっても、何か…。なあ…?」
「どうも調子が狂うよ…な」
* * * * * * * * * * * *
時計台の時報が街中に昼を告げた。
本当に昨日から今日は、自分が何をしているのかさえさっぱりだ。
思っていることと言っていること、それにやっていることもてんでばらばら。みっともなく混乱して、わけの分からない行動ばかりとって、挙句同僚にまで気を揉ませ、心配をかけて…。
「なんで俺、こんなこと――」
だいたい昨夜、確かに行かないと言ったはずのに、なぜ今自分はこんなところにいるのだろう?
石組みの縁 に腰掛け、膝に頬杖を付いた。背中では、あの噴水がさらさらと涼しげな音を立てている。
恨めしくなるほどに天気も上々。
あんなことがなければ、今ごろは彼女が隣にいたはずだ。それでまたあの屋台で何か買って、くだらない話に花を咲かせて時が経つのもすっかり忘れて…。
目の前を通り過ぎる見ず知らずの恋人たちにまで、つい嫉妬を覚える。いや、これは羨望か…。
なんてことだ。よもやこの自分が、そこまで浅ましく飢えた男だったとは。
自分の何もかもに呆れた臣は、大きなため息をついた。徒 に投げ出したつま先に、戻らぬひとときを巡らせる。昨夜から、もう何度同じ事を思ったか分からない。
本当に心休まる夢だった。あんなに穏やかな心地はこれまでに感じたことがなかった…。
そうして胸に過 ぎる数々の記憶は、ついこの間まで現実だったことばかりだ。
そう…つい先日始まって、もう終わってしまった淡く優しい思い出…。
「!?」
不意に視線の先が濃い影に覆われる。
俯いた顔を上げると…。
「こんにちは」
「……」
再び視線をつま先へ戻し、臣は二度目のため息をついた。
あれほどなかったことにしてくれと頼んだのに、なぜこの女性 はここにいる…?
いや…それよりも、昨夜あれほど泣かせたというのに、一体どんな顔をすればいいのか…。
そうして困惑する一方で、実は今、まったく動じなかった自分自身に臣は失望していた。きっと自分は、無意識のうちにこうなることを予感していたに違いない。そしてそれを密かに望んでいたんだ――。
「……」
次の言葉が見つけられないのはクラウディアも同じだった。
ひたすら目の前の男性 を見つめるしか、今の彼女には術 がない。
なのに、今日に限っていつもの笑顔は一向に返ってこないのである。それどころか、目の前の彼は自分と目を合わせてもくれない…。
そんな重い空気に、ここまで必死に繕っていたクラウディアの笑顔もとうとう限界を迎えたらしい。朗らかだった彼女の微笑みは、やがてその美しい顔の上からすうっと退 いていってしまった。
暫くの沈黙の後、ようやく臣は口を開いた。
「こんなところで…何をしているんです、あなた」
「臣様は何をしているの?」
「別に」
「そう…。でもここはね、わたくしが大切な方と待ち合わせをしていた場所のはずなの」
「へえ…」
ひどく素っ気無い口ぶりに、クラウディアは少しばかりむっとしたようだった。
「来ないって仰ってた」
「そうですか」
「夕べは確かにそう仰ってたの」
「それは残念でしたね」
怒って見せても表情が変わらない。ただ淡々と返ってくるだけの言葉が悲しかった。
あんなに優しかったのに…。
あんなにいつも笑ってくれたのに…。
「……」
初めて逢ったあの日のように、隣へちょこんと腰掛ける。
どうしたら彼はあの日のように笑ってくれるのだろう?
どうしたらもとに戻れるのだろう?
「何だかお邪魔のようだからそろそろ帰ろうかな」
臣はすっくと立ち上がった。何でもないような口ぶりを装っているが、本当は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「どうしてそんなにいじめるの…?」
「別にいじめてなんか…」
「意地悪」
クラウディアは臣の上着の端をぎゅっと握った。
「だから…夕べ申し上げたでしょう?何もないんです、もう。あなたも私も」
「じゃあなぜここへ来たの?」
潤んだ瞳が見上げている。
だめだ、その目は…。
もうやめてくれ。
頼むからもうそんな目で俺を見るな――!!
心を見透かされそうで堪らない。
こんなに必死に自分を欺いているのに…。
こんなに必死に堪えているのに…。
もうこの無垢 な瞳に何かを期待させてはいけない。先があるなどと思わせてはいけない。
終わらせろ。
何もかも全部、ここで――。
「そ…それはたまたま…」
「嘘ばっかり。ずっと座ってたくせに」
「……」
言葉に詰まる。
確かに彼女の言うとおり。
グリフィンらと別れて宿舎へ戻るや否 や、とにもかくにも服だけを着替えて、ふらふらとここまで歩いてきてしまった。
その結果――。
「一時間も前からいらしてたわ」
それを知っているということは、彼女にしても同じようなものだ。きっと彼女も、あの後すぐにここへ来てしまったに違いない。
「覗きとはまた結構なご趣味ですね」
「いじめないで!」
「ですから、いじめてなんかないですよ!!」
途端――。
「わたくしは…」
気丈に振る舞っていたクラウディアの顔が、半泣きに歪んだ。
「わたくしは…とっても嬉しいのに…」
健気な言葉に絆 される。
胸が激しく乱される。
瞬きもせず見つめてくる真っ直ぐなこの瞳にも、もう勝てそうにない。
これ以上はとても無理だ。
「……」
とうとう臣は俯いてしまった。
もう逃げられない。
彼女を置いてここを立ち去るなんて、俺にはできない…。
「せっかく会えたのに帰ってしまうの…?」
上着を捕まえた手にまた力がこもった。帰す気なんかまるでないクラウディア――泣き出しそうになるのを懸命に堪えているのが、それこそ手に取るように伝わってくる。瞳が、肩が…もう小さく震えている。
臣は観念するしかなかった――。
「最後ってことでいいですか…?」
「……」
「今日が最後です。それで…いいですね?」
「はい…」
返ってきたのは、聞こえるかどうかの微かな返事 ――。
ため息をついてまた腰掛けると、隣のクラウディアはなんとも複雑な顔で微笑んだ。喜んでいるような、悲しんでいるような――安堵とも悲愁 ともとれるおかしな顔で、彼女は精一杯笑っていた。
「あの、実は――。最近、新しい友達ができまして」
「お友達…?」
「ええ、そう。それでね、この間、国境へ出勤する道すがら、偶然にも綺麗な湖を見つけたので、今度一緒に行こうって彼女と約束していたんです」
「女の…方…?」
相手が女性だと知って、クラウディアの顔はあからさまに曇った。
「うっすらと茶色がかったブルーネットがそれは美しい娘 で、気立ての方もとんでもなく良いし、顔立ちについても、まあ…なんて言うか、それなりに…」
臣はくすりと笑った。
やっと笑顔を見せてくれたクラウディアの想い人は、彼方の空を眺めながら、まったく嬉しそうに他の女性のことを語る。気持ちは同じだと堅く信じていたのに、いつの間にこんなことになっていたのだろう?
楽しげな彼の横顔を見るにつけ、クラウディアの心は逆にどんどん沈んでいった。一緒に笑おうとしてもうまく笑えなかった。
「ねえ、クラウディア。宜しければ、彼女も誘って今からその湖へ行きませんか?今頃きっと退屈しているはずですから」
「で、でも、あの…その方は…」
彼が他の女性と親しくしているのを目にしたら、自分はどうなってしまうのだろう?
今、胸の中にあるもやもやした想いは、どんなふうに自分を変えていってしまうのだろう…?
クラウディアは、返す言葉に詰まるのだった。
一緒に行きたいかと言われたら、正直、三人でなんか行きたくはない。でも自分を置いて二人だけで出掛けられるのはもっと嫌だ――。
「いつもなら朝一番に一緒に海岸へ行って散歩なんかしているんですけどね、今日はちょっと…ほら、例の恩賞を受け取りに行かなきゃならなかったものですから、それができなくて。ひょっとしたら、臍 を曲げているかも」
「いつも…ご一緒に…」
クラウディアは握ったままだった彼の上着からそっと手を放した。
「彼女ってね、どことなくあなたに似てる気もするんですよね。やたら愛想がいいところとか、マイペースでおっとりした感じとか、底抜けに元気がいいところとか…」
「わたくしに…?」
「ええ。でも足の数なんかは全然違いますね」
ようやく振り向いて臣は笑った。
「足の…数――??」
すぐに戻ると言い残して臣はどこかへ駆けて行ってしまった。
なんとなく心配になりながらも、大人しく待っていると、遠くから石畳を叩く蹄 の音が近づいてくる。慌てて立ち上がり、きょろきょろと辺りを見回していると、果たしてクラウディアの待ち人はそこに姿を現した。
艶 やかな美しい黒鹿毛 を纏った一頭の馬とともに――。
「あ!」
クラウディアは小さく声を上げた。
「ベアトリスと申します。どうぞ宜しく」
彼女の望んだ笑顔が、馬上から手を差し伸べている――。
おっかなびっくり近付いてみれば、無邪気に鼻を寄せてくるベアトリス。ふわりと温かな鼻息が赤いお下げ髪を揺らし、クラウディアはくすぐったそうに首を竦めて笑った。
「こちらへどうぞ、クラウディア。鐙 に左足を掛けて踏ん張ってください。できるでしょ?あなたなら」
やっと笑顔を取り戻したクラウディアは、言われたとおりによいしょと鐙に足を掛け、差し出された臣の手を握った。
ぐっとその手を引き上げ、クラウディアを横座りに座らせる。
「こいつ、器量の方も気立ての方も悪くはないんですけど、ちょっと軍用には向かない感じなんですよね。最初なんか随分ぽっちゃりしてて、本当に軍の馬かと目を疑ったほどです。だいぶダイエットしたんですよ、これでも」
「うふふふ…。仲良くしてね、ベアトリス」
クラウディアは本当に嬉しそうだった。まだほんのりと潤む目元を紅く染め、ベアトリスの首を何度も何度も撫でている。
今、ちょうど彼女は臣の腕の中に腰掛けているので、ほんの少し目を落とせばすぐ目の前にまばゆいばかりの笑顔に届く。でもこんなこともこれが最後だ――そう思うと、やはりまともに顔など見れない。
いつまで彼女はこうして笑っていてくれるだろう?
また最後にはひどい言葉を投げつけて、彼女を追い払ってしまうのだろうか?
こんなにも愛しい女性 を、また泣かせてしまうのか、俺は――!!
「落っこちないようにしっかり掴まっててください。それから舌を噛まないように。これからちょっと走りますから」
「え…?あ、はいっ!」
慌ててしがみつく彼女の腰をしっかりと抱き、臣はベアトリスの腹を蹴った。
弾かれたようにベアトリスは走り出す。生き生きと鬣 をなびかせて、街中に軽やかな蹄を響かせて――。
まるで二人で風になって飛んでいるようだった。景色が流れるように過ぎてゆく。彼方の景色がどんどん間近に迫ってくる。
胸に耳を重ねれば、彼の鼓動が聞こえる。たったそんなことが嬉しくてたまらない。彼の温もりの中でこうしていることが、他の何にも替えがたい幸せだと思えた。
できることならずっとこのまま――ずっとこうして走っていたい。別にどこに辿り着けなくとも構わない。
何がどうなっても、もう構わない…。
やがてベアトリスは街を抜け、田園の中へと走り出た。
「この道をこのまままっすぐ行くと、国境の私の勤務地があるんです。その先はもうヴィングブルクですよ」
「そう…」
かの国の名を口にしただけで、彼女はにわかに憂いを見せる。
それはそうだろう。こんな時ぐらいは忘れたいに違いない。
それはもちろん、この自分だって――。
「でもそんなところへは行きません。せいぜいその瞬間までは逃げましょう、かの国から」
「え…?」
「行きたくないんでしょう?」
「……」
俯いたその顔は、後ろの臣からはよく見えない。
また泣かせただろうか?
また辛いことを思い出させてしまったのだろうか?
片手で器用に手綱を操り、臣は、北へまっすぐ伸びる道から東へ向かう小道へと進路を変えた。今までの道よりも少し状態は悪いが、ベアトリスは一向にそれを気にするでもなく、どんどん先へ駆けてゆく。
「俺だって…よその男になんかやりたくないさ」
ふと口をついた言葉に自分で慌てた。あれほど律してきたのに、ほんの少しでも気を許せば本心を打ち明けてしまいそうになる。
不甲斐ない。
自分で決めたことぐらいは貫徹すべきだ。それが互いのためなのに。
だが、幸いこの言葉は彼女の耳には届かなかったらしい。
「今、何て仰ったの?」
「別に何も」
駿馬本来の血がベアトリスの全身を滾 らせている。毎朝連れ出してもらっているお陰だろうか、スタイルのみならず体力の方も随分と本調子に近付いたようである。
「――ねえ、臣様。あとどのくらい?」
「そうですねえ…一五分ぐらいかな」
「そんなに近いの…」
クラウディアは小さくため息をついた。
「え?」
「ううん。何でもないの」
突然目の前がぱあっと開けた。
「わあ…!!」
クラウディアは大きな目を一層大きく見開いた。
目前にいきなり広がった澄んだ湖面――。その鮮やかさ以上にきらきらと光を湛えるエメラルドの瞳に、臣も次第に綻んでゆく。あんなに重かった胸の柵 が、深い霧が晴れるように掻き消えてゆく。
あれほど悩んだ晩も、痛みに流した涙も…。なんだかもう、どうでも良くなった。
いや、それはもちろんどうでもいいはずなどない。
でも、せめて…。
今、この時ぐらいは――。
湖の畔から太い木の幹が湖面へとせり出している。その傍らの木陰に二人は降り立った。
臣はベアトリスを繋ごうとはしなかった。
それどころか、なんと今まで彼女を戒めていた轡 や面繋 、鞍 などを慣れた手つきで外し始めたのである。
クラウディアは不思議そうに首を傾げた。
「ベアトリス…繋がないの?」
「ええ」
「どうして?」
「だって逃げたりしませんから」
せわしなく手を動かしつつ臣は答えた。
「そうなの?」
自分がどこか遠くへ出掛けるときなどに、いつも馬に乗ってついてくる近衛たち――つまりイングラムやベルモントらは、目的地に着くといつも馬をどこかに繋いでいた。こんな風に自由にそこらを遊ばせてやっているところなど、ただの一度だって見たことがなかった。
「最初は結構なお馬鹿さんだと思っていたんですけどね、実はそうでもなかったんですよ、こいつは」
「???」
馬具を全部外し終えると、臣はベアトリスの首を軽く叩いて言った。
「ほら、いいよ。どこへでも行って来い、ベアトリス」
ベアトリスは満足そうに鼻を鳴らし、湖畔を独りで歩き始めた。
鏡のような湖面に美しい肢体をゆらゆらと躍らせながら、岸辺を闊歩 するベアトリスはため息が出るほど絵になっている。湖面に映る空の蒼 と新緑の萌黄 に、彼女の艶やかな黒い馬体が見事に溶け込んでいるのだ。それはまるで、一枚の風景画を見るような情趣 を持って実に明媚 に、そして閑雅 に幻想的に――。
やがて、少し離れた場所で立ち止まり、ベアトリスは足元の草をもそもそと食 み始めた。
臣とクラウディアは木陰に並んで腰掛けた。
この国に来るまでは、ずっと戦の前線で生きてきた臣だ。日々そこにあったものは緊張と戦慄。猛り、怒り、それから慟哭 ――。
心休まることなどなかった。いつも何かに怯え、いつも何かに憤っていた…。
心地の良い風が、二人を静かにすり抜けてゆく。
そして、その度に彼女の偽物の赤毛は揺れ、すぐ隣の臣の頬をくすぐった。今はそんな些細なことが幸せだ。そんなちっぽけなことに、心から安堵する。
彼女はちゃんとここにいる。
少なくとも、今、この瞬間 だけは――。
「あれでベアトリスって奴はね、ちゃんと人のことを見ているんですよ」
クラウディアは今も呆然とベアトリスに見とれている。その横顔をちらと覗いて臣は言った。
「どういうこと…?」
振り向いたクラウディアと目が合うと、臣はにっこりと微笑んだ。
「どうもね、気に入った人間にだけ懐くみたいなんです。多分、嫌いな人間は乗せないつもりなんじゃないかな…」
「まあ…なぜかしら?」
「私と同じでちょっと臆病なんじゃないですかね」
「え…」
目を丸くするクラウディアに、臣は少し照れた様子で答えた。
「お陰で問題児のレッテルを貼られてしまったらしくて、これまであまり人に構ってもらえなかったようです。彼女自身はね、多分人が好きなんです。でも、彼女にもちゃんと心があるってことを理解してくれる人間があまりにも少なかった。ちょっと思いやってくれれば、彼女には心を開く準備があったのに、実際はまるでただの道具のようにしか扱ってもらえなかった。そのことが、彼女の心を深く傷つけてしまったんじゃないか…。きっとそんなことなんじゃないのかなって――」
全部言い終えぬうちに、クラウディアの頬はほうっと上気した。
「すごいわ!臣様は馬の言葉が分かるのね!?」
「ええっ、まさか!分かんないですよ、そんなの…!!」
それにしても、相変わらず途方もないことを言い出す女性 だ。だが、それこそが彼女らしい。いつもどおりの彼女の言葉は、今日も彼を一驚 させる。いつだってそれこそが安らぎだった。彼女はいつもさりげなく素直な自分に気付かせてくれる。
臣は言葉を続けた。
「ただね、馬を単なる乗り物だと思っている人間なんか古今大勢いるし、彼女のように拗ねた馬だってよくいますから…。でも、ベアトリスについてはなぜか会うなりあんな調子でしたね。あっという間に、彼女は私を見抜いてしまったみたいで…。要するに、私は何とか彼女のお眼鏡に適 ったってことらしい。光栄な話ですよね」
「うふふふ。背中に乗せてもらえたということは、わたくしも喜んでいいのね?」
「ええ。気に入られたみたいですね」
二人は顔を見合わせて笑った。
彼女を見ているだけで、ただこうして言葉を交わしているだけで、すうっと柔らかに心が溶けてゆくような不思議な感覚を覚える。彼女という温もりにふわりと抱かれているような、そんな気持ちになる――。
「あと…ベアトリスはね、一人があまり好きじゃないんです。こうやって放してやっていてもね、いつも絶対に傍にいるんですよ。私の姿が見えないようなところへは決して行かない。だからちょっと呼んでやればすぐに戻ってくるし、黙ってどこかへ行こうとすると慌てて追いかけてくる」
「かわいい…」
「だから繋ぐ必要なんか全然ないんです」
クラウディアはふっと目を伏せた。
「ベアトリスも…わたくしと同じなのね…」
寂しげな横顔に胸が痛む。
そう、一人を嫌がるあのベアトリスのように、この日、クラウディアは待ち合わせに現れないはずの臣を求め、あの噴水へとやって来た。そうして果たされたのは、夕べなくなったはずの密約。もうあってはならないはずのこの逢瀬 …。
だがそれは何も彼女のせいばかりではない。この自分だって、同じように彼女を追いかけていた。彼女を求めるあまり、自ら行かないと告げたあの噴水へ、のこのこと足を運んだ自分にしてもそれは同じなのだから――。
「ねえ、臣様は臆病なの?」
不意にいつもの笑顔が覗く。ようやく臣はそこで救われた。
「ええ…。ほんと気が小さくて困ってます」
臣は恥ずかしそうに笑った。
「でも、舞踏会のときはすごかったって、ジャスティやレオンがとても感心していたわ」
どう返事をしたら良いものかと戸惑っていると、クラウディアは瞳を更に輝かせた。
「何かを決めるのも何かをするのも、ものすごく正確で速かったって。悪い人を捕まえるのも、天井のシャンデリアを消すのも本当は全部、臣様が一人でやったんだ…って」
「一人で…って、ねえ。別にそういうことじゃないと思いますけど――」
「それで、厨房を壊した人も捕まえちゃったって、そう言ってた」
「たまたまですよ、全部。偶然、いいタイミングでその場にいたから…」
「ラルフも嬉しそうにしてた。鼻が高いってお父様に自慢してたわ」
どんどん恥ずかしくなって、ついに臣は俯いてしまった。
「あの…あんまり褒めないでくださいよ」
「どうして?」
「そんな大層なことじゃないですから…」
「だって…でもね、それで…。あ!そう、確か手品ができるって言ってた!!」
クラウディアの声が弾んでいる。いつもの元気が戻ったことは喜ばしいが、やけに興味津々な態度が却 って不安だ。何を期待しているのか?何が言いたいのか…?
「は?」
臣は眉をひそめた。
「手品でシャンデリアを消したって、レオンが」
「手品…ねえ…」
「わたくし、すぐ傍にいたのに全然分からなかったの。でもレオンはちゃんと見たって。何もない所に白い鳥をいきなり出したんだって、すごくびっくりしていたわ」
クラウディアは両手で臣の手を包んだ。
嫌な予感がじわりと湧く。
「うふふふ」
「な…何です?」
「手品…」
上目遣いにじっと見つめてくるグリーン・アイズ。これに弱い。これにいつも勝てない。
「あのね、クラウディア…」
「どうやってやるの、手品?」
「はあ…」
何とかごまかそうにも、簡単に許してはもらえそうにない。臣はため息をついた。
「ねえ…」
「……」
「ねえ、臣様、手品…」
クラウディアは、捕まえた手を縦に横にと執拗に引っ張り続けている。まるでおもちゃをねだる子どもだ。
「あの…。あれは手品…ではないんですけど」
「じゃあ、なあに?」
「……」
エメラルドの瞳が一層生き生きと輝き始めた。
こうなったらもう譲る気はないだろう。いつもこうして彼女のペースに呑まれるばかりの臣である。
「ほんとに…ちょっとだけですよ?」
「はい!!」
満面の笑顔の前で、結局臣はがっくりと肩を落とすのだった。今度もやはり負け戦だった…。
「じゃあ、ここにいてくださいね。危ないですから絶対に動かないで」
にこにこ頷くクラウディアを確認すると、臣は立て掛けてあった剣を手に湖へと向かった。畔 に佇み、目を閉じて、心を静かに研ぎ澄ませれば様々な息吹を感じる。
遠くの小鳥のさえずり。
草葉がそよ風に擦 れる音。
そして、足元で寄せては返す微かな波の音にさえ――。
いつの間にか戻ってきたベアトリスが、クラウディアの傍らに膝を付いた。木陰から一人と一頭が、互いに慕う青年の後姿を見守っている。
「!!」
意を決した臣は一歩踏み出し、ぐっと重心を落とした。すかさず握った柄 に、神気 がゆらりと立ち昇る。
ところがである。
驚いたことに今日のそれは、剣といわず全身から湧き上がり、瞬く間に彼のすべてを包み込んでしまったのである。
「あ…」
思わずクラウディアは小さく声を上げた。
自分からねだったことなのに、なぜかほんの少し怖い。まるでこのまま彼がどこかへ消えてしまうようで――。
クラウディアは言いようのない不安に怯えた。
そうして次の瞬間、ついに神速の剣は閃いた!
「わあ…!!」
あたかもため息のような歓声が漏れる。
今、激しい水しぶきとともに水面へと放たれたのは、まさしくベルモントの言う光のツバメである。それも、舞踏会の時のものよりもひと際大きく力強く、さざめく水面を低く削り取るまばゆい白金の刃 ――!!
削がれた水面が淡白 く煙を放ち、さっきまで穏やかに波打っていた湖面が、まるで大粒の雨に叩かれるが如く激しい飛沫に覆われてゆく。
やがて白刃のツバメは、湖面すれすれを掠め、青い水底へと姿を消した――。
「……」
両手を胸元で握り締め、クラウディアは息を呑んだ。
さきほどまでくっきりと山の端を映していた水鏡 は、いまやすっかり白霧の中に消え去り、残されたはあたかも幻想に浮かぶ別世界。
と――。
ドオン!
湖面の中央が僅かにせり上がった――と感じた刹那、強烈な爆発音とともに目前にいきなり巨大な水柱が立ち上がった。なんとその中には、先ほどのツバメの姿が見えるではないか!
「あ…!!」
ツバメはそのまま水中を飛び出すと鮮やかに天を駆け昇り――やがて深い蒼穹 の彼方へと、ふうっと溶けていってしまった。
陽光に煌 く名残の滴が、、煙浪 に霞む水面 へはらはらと落ちてゆく。すると、幻想の湖の上に二重の虹がぼんやりと滲んだ…。
白い霧が薄れ、湖面に静けさが戻ると、ゆっくりと臣は振り向いた。
「……」
だが、いまだクローディアは声も出ず、身動きさえもできない。
今実際に目にした光景は、ベルモントから聞かされていたものと確かに同じようなのに、彼女の思い描いたものとはまったく違っていた。
まさしく想像を絶する美しさ――。
言葉に尽くせない。無理に表現しようとすれば、それはあまりに陳腐、あまりにふさわしくない今しがたの幻夢 。
ああ、今のこの気持ちを、この感動を、一体どう彼に伝えれば良いのだろう――?
クラウディアは感激に瞳を震わせていた。
「お粗末さまでした」
恭しくお辞儀をして、臣は照れたように笑った。それは、彼女が心から愛したいつもの優しい彼の笑顔だった。
「わたくし…。忘れない、きっと…」
白い頬をつっとを涙が伝って落ちた。
「絶対に忘れない…」
まるでうわ言のように何度も繰り返す。
そして――。
その涙をそっと拭った彼の優しさは、却 ってクラウディアの気持ちをあふれさせてしまった。
「……」
臣の胸にしがみつき、クラウディア声を上げて泣いた。まるで幼子のように大きく肩をしゃくりあげ、クラウディアは明け透けに泣いた。
再び交わされたこのひと時。
そうして目にした幻想。
かけがえのないこの出逢い…。
そして、これまでその小さな胸に抱えていた辛い気持ち。
待ち受ける悲しい現実と、抗うことのできぬ彼女の宿命――。
そんなものが、ここに全部あふれ出してしまったようだった。
だが、それを察したところで、臣にはただこうして彼女を抱いていてやることしかできない。何をしてやることも、何を肩代わりしてやることもできないのだ。
己の無力が悔しくてならなかった。
愛しい人を泣かせるばかりの自分が腹立たしくて堪らなかった――。
それから臣は木の幹に凭れたまま、ぼんやりと彼女を抱いていた。ひとしきり泣くと、クラウディアは何とか落ち着きを取り戻したが、それでもそこから離れようとはしなかった。
特に言葉を交わすでもなく、そのまま二人はじっとしていた。胸にしがみ付いた手も、細い体を抱く腕も決して緩められることはなかった。
腕の中の小さなあくびを見るまでは――。
「眠い…?」
耳元で尋ねると、クラウディアは涙の跡の残る顔で恥ずかしそうに頷いた。
「眠ってないの、昨日…」
「どうして?」
「ずっと考え事をしていて…眠れなかったの」
頬を染め、もごもごと口ごもる。
臣はくすりと笑った。
「なんだ…あなたもですか」
「臣様も?」
クラウディアは嬉しそうに眉を開いた。
「では…どうぞここでお休みください」
臣は、着ていた上着をクラウディアの肩へ被せてやった。
「でも…」
「大丈夫。ちゃんとこうして抱いていますから」
赤毛のウイッグをそっと外し、臣は彼女本来の金色の髪に顔を埋 めた。そして、愛しいすべてを包み込むように、細い体を強く強く抱き締める。
微かに伝わる鼓動と彼の温もりに、クラウディアは心からほっとしていた。胸に刻まれた不安や悲しみが、少しずつ癒えてゆくような気がした。
「臣様は…?」
「そうだな…。じゃあ、俺も一緒に眠ろうかな」
「うふふふ」
顔を埋めたまましゃべるので、髪にかかる彼の吐息がくすぐったい。クラウディアは首を竦めて笑った。
「なんか彼女も眠っちゃったみたいですしね」
ベアトリスは、二人の傍らに静かに佇んでいる。
「ベアトリスは立ったまま眠るの?」
「ええ。馬ってそういうものですよ。それに…いくら可愛い女の子と言ってもね、彼女のあの巨体まではさすがに抱いてはやれないな」
クラウディアはくすくすと肩を揺らして笑った。嬉しそうに楽しそうに、そして心から幸せそうに笑っていた。
「じゃあ…おやすみなさい」
「おやすみ、クラウディア」
やげて二人は静かに目を閉じた。
穏やかさを取り戻した湖面が、何事もなかったかのようにきらきらと光を放っている。その上を渡るそよ風が、寄り添う二人の真上で柔らかに木の葉を揺らしていた――。
* * * * * * * * * * * *
二人が最後の逢瀬を惜しんでいる頃――。
クラウディアが忘れていった譜面を届けに、あのベルモントがラガーフェルド邸を訪れていた。しかし、当然ながら彼女の姿はそこにはない。代わりにそこにいたのは、彼女の侍女・ルクレツィア=ヒルデガルド。
これまでひた隠しにしてきたはずの二人の秘め事が、今まさに明るみに出ようとしていたのである。
「これは一体どういうことです!姫様はどちらへ行かれたのだっ!!」
ベルモントは大声を張り上げた。
「ですから…姫様はラガーフェルド伯爵様とご一緒に管弦楽の演奏会に…」
「ならばなぜそなたがここにいる、ルクレツィア!そなた、姫様の供人 であろうがっ!!なぜ供をせん!?」
激しい剣幕にルクレツィアが怯 めば、代わって口を挟んだのはラガーフェルド伯爵夫人であった。
「それは主人がルクレツィアについて来ずとも良いと、そう申しつけたからで…」
しかし――。
「ラガーフェルド夫人、あなたも見え透いた嘘はやめて戴きたいものですな!!だいたい、この真昼間から演奏会など…!!」
ぎろりと夫人を睨んで、ベルモントは震える拳をテーブルへ叩き付けた。その迫力の前に伯爵夫人も口を噤 む。
「貴様…!姫様をどこへ隠した、ルクレツィア!!」
一層語気を強め、ベルモントはルクレツィアに詰め寄った。
こうなっては、もはや観念するほかない――。
「ど、どうか…。どうか、大佐、今回ばかりはお見逃しください!今日だけです!本当に今日限りなんです!!」
ルクレツィアは膝を付き、床に額を擦ってひしと伏した。こうするほかにもう彼らを救う手立てはないと思った。
「ルクレツィア!」
堪らず駆け寄る夫人に、
「伯爵夫人様、もうこれ以上隠し立ては叶いません。それに…姫様もちゃんとご承知です。もうこれ以上は望まれません、きっと…」
その気丈な瞳は、日頃控えめな彼女からは想像もできぬほどの強さと、かけがえのない姫君を懸命に守ろうとする揺ぎない決意を宿している――。
だが、これは一種の賭けだ。
かの大国の王と婚約までしている姫君が、他の男と不義を重ねているなど、とても許された話ではない。その上、そうと知りながらそれを許したルクレツィアも、そしてクラウディアの親戚に当たるラガーフェルド夫妻にしても、当然ただで済む話ではないのだ。
ついに夫人は言葉を失い、両手で顔を覆った。
「きちんと説明しろ!どういうことだ!!」
さらに強い調子でベルモントは責め立てる。
やがて深く息を吸うと、ルクレツィアは舞踏会の晩に姫から打ち明けられた事の次第を静かに語った。二人の出逢い、そしてこれまでに何度も交わされたあの密約――そして彼女が彼に寄せる思いのすべてを。
そして。
今現在も、姫はその若者とともに時を過ごしているという事実までも…。
「そんなことが!?まさか…まさか今更そんなことが許されるはずがなかろう!!具体的に名を言え、ルクレツィア!相手はどこの誰だっ!?」
「そ、それは…」
威圧的な眼光が突き刺さる。
国に仇成 す不敬の輩を今すぐにでも捕らえ罰してくれようという憤りが、容赦なくルクレツィアを責め立てる。
しかし――。
「それだけは…申し上げられません」
「何だと、貴ッ様あああッ…!この期 に及んで、まだ隠し立てを!!」
ベルモントは激しい怒りにわなないた。
しかし、ルクレツィアはひたすら床に額を擦るのであった。
言えるはずがない。
まさかその相手が国境の外人部隊に属するかの青年だなどと…。つい昨日、姫様の…いや、この国の危機を既 の所で救い、ベルモント自身があれほど評価していたかの人物その人であるなどと――!!
「申し訳ありません!ですが、それだけはどうしても言えません!この口が裂けても…!!どうかお許しください!!」
「何を寝ぼけたことをっ!!」
「何と仰られても申し上げることはできません!!あの方が処罰されるようなことになれば、誰より姫様が悲しまれます!!あの方は、悲しみに暮れる姫様に笑顔を返してくださった方!姫様にささやかな幸せをくださった方なんです!!」
烈火のごとき叱責にも負けじと、ルクレツィアは切なく声を張り続けるのだった。瞳には、あふれんばかりの涙が揺れている。
「…っ!!」
その悲痛な姿に、さすがのベルモントも言葉に詰まった。
ルクレツィアは一層に声を震わせ、懸命に心の内を捲くし続ける。
「大佐もご存知でしょう!?御結婚が決まってからずっと姫様が塞ぎこんでおられたこと!毎晩のように泣いておられたこと!!全部ご存知のはずじゃありませんか…!!」
「し…しかし、そうは言っても…!!」
「姫様は望んで嫁がれるわけではありません。それでも国のため、民のためにと涙を呑んで身を捧げられるお覚悟!そんな姫様が、それまでの間にほんの僅か夢を見たからといって、誰があの方を責められましょうか!?」
「だ、だが、こんなことが大公殿下に…いや、かの国に知られれば事だぞ!?」
「ならば隠し通すまでのことです!!」
まっすぐに向けられた眼差しに、偽りなど欠片ない。
ついにベルモントはたじろいだ。
「ルクレツィア、そなた――」
「どうか姫様のお気持ちも少しは考えて差し上げてください!!お願いです!!」
その時だった。
「私からも頼む、大佐」
音もなく開いた扉――その主は、留守のはずのガブリエル=ラガーフェルド伯爵その人であった。
「は、伯爵様…!!」
「もとはと言えば、私がクラウディアに許したことだ」
穏やかながらどこか悲哀に満ち、それでもそこにちゃんと意思はある――そんな深い瞳で、伯爵はじっとベルモントを見ていた。
そして――。
「で、ですが…」
「どうか今の話はそなた一人の胸にしまっておいて欲しい。詮索も控えてもらいたい」
なんと伯爵は深々と頭を垂れた。ルントシュテット大公の腹違いの弟で、地位も名誉もある伯爵家の主が――である。
ベルモントはひどく狼狽 していた。
「あ…あなたまでそんな…。万が一にも何事か間違いが起きてからでは…!」
顔を上げたラガーフェルドの顔は、深い悲しみに包まれていた。
「ここへ戻れば、いつもあの子は心から嬉しそうにその若者のことを語ってくれる。あの子の話から察しても、そしていつも屋敷の前まであの子を送ってくる姿を見ても、実に紳士的な青年だ。間違いなどない。きっとないだろうと思う。とてもそんな人間とは思えん」
「そんな!どうかしてますよ、あなた方…っ!!」
ベルモントを見据える眼差しには、誠実な彼の心が宿っている。
「何と言われようとも構わん!何事かあった場合の責任は私が負う!!首でも何でも差し出してやる!!だから、レオン…今日ここで耳にしたことはすべて忘れろ!あの子をそっとしておいてやってくれ!頼む…!!」
そして、ついにラガーフェルドはベルモントの前に平伏した。体裁も外聞も顧みず、ラガーフェルド伯爵は床に手を付いて、ただの一兵に過ぎないベルモントに無理を請うたのである。
「このとおりだ、レオン」
「は…伯爵様!?」
握った拳の上に、いくつもの雫が落ちている…。
「お願い致します、大佐…!!」
「どうかこのとおり…」
即座に向き直り、ルクレツィアとラガーフェルド夫人も改めて床に手を付いた。
「何ということだ…。こんなことが…」
ベルモントは愕然とした。
「子のない我ら夫婦にとって、あの子は実の娘同然だ。娘の幸せを願わぬ親があるか、レオン…!ましてあの子は、あの若さで…もう間もなく望まぬ相手のもとへと嫁がねばならぬ身!独立同盟という名の檻に甘んじて繋がれねばならぬ身の上なのだ!!そんなあの子の小さな望み、叶えてやれるものなら叶えてやりたいではないか!それであの子が、ほんの僅かでも微笑んでいてくれるのなら…必要とあらばこの命、喜んで差し出してやろう!!かけがえのないあの子のために!!」
「……」
「あの子にはもう時間がない!分かってやってくれ!!頼む…!!」
ラガーフェルドは再び額を床に擦った。
さすがのベルモントも、これ以上の気勢を張ることなどできない――。
やがてベルモントは傍らに膝を付いた。
「どうか…。どうかお顔をお上げください…伯爵様」
もはや先刻の赫怒 の形相も、激しい声色も、すっかり消え失せている。
「私は…このまま城へ戻ります」
「レオン…!」
「私は何も聞かなかったし、何も知らない。それで…宜しいのですね…?」
「すまない、レオン。恩に着る…!」
ラガーフェルドは再び頭を垂れた。
「いえ、とんでもありません。私にとってもあの方はかけがえのない方なのです。あの方の素直で朗らかなお姿には、ついこの私も遠い昔に亡くした妹の面影を見るほど。そんな姫様の幸せ――それが今だけでもあの方の手に届く所にあるのならば…陰ながらこの私も、その無事をお祈りすると致しましょう」
ベルモントは微笑んだ。
「大佐…」
ルクレツィアの声が震えている。
「ルクレツィア――。姫様が戻られたら、早々に城へ戻って来い。あまり遅いとジャスティが怪しむ。良いな?」
「は…はい…!ありがとうございます!!」
涙を拭い、ルクレツィアは改めて深々と叩頭 した。安堵の涙はもはや止まることなく、後から後から流れては手元へ落ちた。
「では、私はこれで…。失礼致します」
扉の前で、ベルモントはもう一度ラガーフェルド夫妻へと振り返り、おずおずと頭を垂れたのだった。
* * * * * * * * * * * *
頬を撫でる風が冷たい。
ふと臣は目を覚ました。気付けば、彼方の空がもう朱色に染まっている。
短いため息をついて苦く笑う。
(まったく俺って奴は…一体何をしているのやら。本当に呆れるな…)
最後の日だというのに、していることは結局いつもと何一つ変わらない。
そうだ。
思えば今日はいくらも話してさえいない。したことと言えば、ただ彼女を郊外へ連れ出し、腕に抱いて眠った――それだけ。
そうしてついに残された時間はあと僅か…。別れの時は目前に迫っているというのに――。
「クラウディア、起きて」
耳元で囁くと、まだ夢の中のクラウディアがくすぐったそうに笑った。
初めて見る彼女の寝顔はあどけなく、何にも染まぬ天使の素顔だ――。
こうして見つめていると泣きたくなる。
こんなふうに彼女を近くに感じられるのもこれが最後。初めて目にするこの顔も、もはやこれで見納めなのだ。
「起きて…。もう夕方ですよ」
瞼にそっと口付けると、ようやくクラウディアの目が開いた。
「ん…」
眠たげな瞳がたまらなく愛しい――。
こみ上げる心をごまかすように、臣はもう一度彼女を強く抱き締めた。
「よく眠れました?」
腕の中へ語りかけると、目を擦りながら彼女がこくりと頷くのが分かった。
「臣様は?ちゃんと眠れた…?」
緩い瞬きを何度もしながら、クラウディアは小さなあくびをしている。
「ええ。さっき起きたばかりです」
「アイスクリーム、食べた?」
「は?」
毎度ながら、クラウディアは唐突におかしなことを口走る。わけがわからず呆然とする臣だったが、そんな彼を見つめ返してくる彼女の瞳は思いがけず真剣だ。
「わたくしね、さっき臣様と一緒にアイスクリームを食べたの」
「あ…。ああ、はい…」
どうも夢の中の話をしているらしい。
「食べた?」
「た…食べました」
吹き出しそうなのを何とか堪え、とりあえず話を合わせてみる。本当はおかしくて仕方がないのだが、ここで笑うと寝ぼけ眼 の彼女は、またむっと拗ねてしまうだろう。
「本当――?」
「ほんと…」
…となんとか返事はしたが、もうどうにも我慢できない。さり気なく臣は顔を逸らし、声を潜めて笑った。
「良かった…」
クラウディアはほっとしたようだった。こんなふうに何気なく見せる彼女の仕草がまぶしくて堪らない。
その時、不意にまた昼間の思いが首をもたげた。
――いつまで彼女はこうして笑っていてくれるのだろう?
もう時間がない。
今日が最後だと言い出したのは自分だ。なのに本当のことを言えば、ほんの少し、その言葉を後悔し始めている。こんなことは許されないと、理屈ではちゃんと分かっているのに、やはり感情の方はそれを認めようとしてはくれない。
「ねえ、クラウディア」
「はい」
向けられた笑顔が、また胸を締め付ける。動揺を悟られまいと、臣は無理に明るく振る舞うのだった。
「いつかの時計台へ行く約束――今からいかがです?お腹も空いたし、何か買って…それ持って登りませんか?あの日みたいに」
「でも…きっと真っ暗になっちゃうわ」
「時計台のてっぺんで街の夜景を眺めながらディナー…っていうのも、なかなか素敵かなあと思うんですけど」
「うふふふ。ほんと…素敵」
クラウディアは屈託なく笑ったが――。
「約束は全部…今日のうちに果たしてしまいましょう」
クラウディアは僅かに憂いを見せた。本当は彼女にしても、すべてを悟りながら、自らを偽っていたに過ぎない。
「……」
無理に浮かべた笑顔では、次の言葉など何も出てこない。
クラウディアは笑っていた。ありったけの力で、彼女は気丈に微笑んでいた――。
* * * * * * * * * * * *
立ち寄った店はもう閉まりかけていたが、無理に頼み込んで何とかサンドウィッチとコーヒーだけは売ってもらうことができた。ディナーと呼ぶにはあまりに粗末な食事ではあったが、それでも二人は満足だった。
別に食べるものなど何でも良い。これが、単に二人の時間を捻り出すための口実に過ぎないことを、どちらも十分に分かっていたからだ。
そして、ここが二人で訪れる最後の場所であることも――。
二人はサンドウィッチの紙袋を手に、時計台の階段を登った。
やはりあの日と同じように、臣はクラウディアを気遣いながら、おろおろと後をついてゆく。
幸いクラウディアは、前よりもずっと慎重に足を運んだが、登っている間ずっと彼女は楽しそうに話をしていた。そうしてのべつに語られるのは、まったく取るに足らないことばかりだ。
そう、それはすべてあの日と同じような、本当に他愛もない話…。
そうやって、むしろ不自然なほどはしゃぐクラウディアと、その言葉に笑ってみせる臣。そんな互いの姿を見るのが、本当はどちらも悲しくて仕方がなかった。
しようと思えばもっと別の話だってできた。それこそ己の本心を打ち明けることも、互いの悲運を嘆く事だってできたのだ。
だが二人は、そうしようとは思わない。
そんな必要などない。
もう二人には未来 などないのだから――。
クラウディアの言うように、最上階に着いた頃には陽はすっかり沈んでしまっていた。その代わり眼下には、街の灯りがまるで空に浮かぶ星々のように瞬いている。地上の星は、二人の見る世界のずっと奥まで続いていた。
質素な食事を取りながら、二人はいつかのように文字盤の隙間から街を眺めていた。その頃には、クラウディアの話題も尽きてしまっていた。
ただ肩を寄せ合い、二人はじっと景色を眺めている。夜空は冴え冴えと澄み渡り、瞳に映る月の増鏡 が、この夢がもう間もなく終わると告げている。
もはや一秒たりとも無駄にはできない。
そんなことはどちらも十分に感じていたが、それでもやはり言葉の方はなかなか出てこなかった。
やがて臣がふうっと長いため息をついた。
「うふふ。前と同じ顔」
クラウディアが臣の顔を覗き込んで笑った。
「――え?」
「前も、くたびれたってお顔してた」
「だってあれは、あなたが…」
少しむきになって言い返すと、クラウディアは嬉しそうにまた笑った。
「今日はちゃんと気を付けて登ったわ。叱られちゃうもの」
「……」
健気な彼女の明るさが胸に痛い。堪え切れず、臣はついに顔を背けた。
「笑っててね、臣様」
臣の腕へそっと手を回し、クラウディアは囁いた。
「わたくしも頑張って笑うから」
「はい…」
臣は小さく頷いた。
彼女は今、きっと笑っているつもりなのだろう。この夜を悲しい思い出にしないために、気丈に笑顔を作っているつもりなのだろう。
しかし――。
「だけど…もしかしたら…」
「……」
彼女の触れた左の腕から、悲しみが這い上がってくるようだ…。
我が身に縋 り震えている愛しい彼女に、たかが笑顔も返してやれない――そんな情けない自分が腹立たしくてならなかった。唇を噛み締め、臣はぐっと拳を握った。
「もしかしたら、わたくし…ちょっと失敗するかも…」
「……」
「もし…。もしも、失敗したらね…」
何度も詰まりながらのその言葉は、内容とは裏腹にとっくに上ずってしまっている。見れば、彼女は袖で瞼を押さえながら話していた。
「その時は…見なかったことにします」
堪らず彼女を抱き寄せた。
強く抱くと、腕の中に包まれた細い肩がぎゅっと強張る。そうやってクラウディアは必死に涙を堪えていたのだ…。
「あのね、クラウディア。今までのはね…実は全部夢なんです」
「夢…?」
クラウディアは、臣の胸に額を押し当てたまま呟いた。
「ええ、そう…。どんなに楽しい夢も、目が覚めれば少しずつ薄れていくでしょう?これも同じなんです」
「……」
「ほら見て。夜空の星が足下で輝いている。こんなこと、夢でなければ有り得ないじゃないですか」
臣は眼下に瞬く街の灯を指して言った。
「だからどうか心配しないで…。あなたはもうすぐちゃんと夢から覚めるし、こんな夢なんか見なくても――これからもっともっと素晴らしいことがたくさん待っていますから」
やがて臣は、クラウディアを抱いていた腕をふわりと緩めた。
顔を上げると、深く穏やかな眼差しがクラウディアを見つめている。
「そしていつか…この夢とともに私を忘れてください」
途端、エメラルドの瞳に満たされていた大粒の雫が次から次へとこぼれ落ちた。もう返事なんかできるはずがなかった。涙があふれて止まらない。
まさかこの日を忘れるなんてこと――彼を忘れるなんてこと、できるはずもないのに…。
「随分遅くなっちゃいましたね。そろそろお屋敷へお送りします、クラウディア」
そっと指で彼女の瞼を拭い、涙の伝う頬へ口付る。そうして彼女の唇に触れずにいることが、彼なりのけじめだった。
そしてクラウディアは、様々な思いにを胸に閉じ込め、ひたすらに微笑んでいた。震える瞳を潤ませ、頬を涙に濡らしたまま、それでも彼女は懸命に笑っていた――。
* * * * * * * * * * * *
詮索はするなと言われたが、やはり気になる。
昼間は、言われるままにラガーフェルド邸から一旦は立ち去ったベルモントである。しかし先刻、ようやくながらイングラムの目を盗んで城を抜け出した彼は、結局またラガーフェルド邸へと馬を走らせていた。陽はとうに暮れており、いつもならば、もうあと数時間としないうちに姫が城へ戻る頃合だ。つまり、今、ラガーフェルド邸を張れば、姫を誑 し込んだかの男の顔が拝めるというわけである。
実は、未 だベルモントの胸には引っかかっていることがあった。
それは、なぜルクレツィアがあれほど必死になって相手の名を伏せるのかということ。彼女も懸念するように、名を明かすことでその男が極刑に処せられることになれば、姫を傷つける結果となるだろう。
だが、この街に同じ名の人間などいくらもいるはず。名前など、いくらでもごまかしようがあったのに、なぜあれほど頑なになって隠す必要がある?
それはつまり、その人物がごくありふれた名ではない、ということではなかったか?
そして恐らく…その相手は自分の知る人物――つまり、城の人間ということになる。
(まさか…相手は近衛の人間か…?)
そう、確かにそんなふうに考えれば納得がゆくのだ。
姫の目に留まりやすい場所いる男と言えば、真っ先に浮かぶのが近衛師団の面々――。
だが正直、そんな素振りを見せる団員があれば、副長の自分が疾 うに気付いているはずだとも思う。それに、師団長であるあのイングラムにすら勘付かれずに幾多も逢い引きを重ねるなど、果たして可能なことだろうか?
(どちらにしろ、今更手を下す気などないが――)
ラガーフェルド夫妻やルクレツィアと交わしたあの約束を、反故 にする気など毛頭ない。彼らに語ったことも本心だ。
クラウディア姫がまだ赤ん坊だった頃からこの城で近衛を務めるベルモントにとって、彼女は実の身内同様にかけがえのない存在である。
その姫が、会ったこともないかの大国の王と婚姻の内約を結んだと聞かされた時は、本当に胸が痛んだ。
この結婚の裏に、周到な政略があることは周知の事実。ヴィングブルクの侵奪から逃れるために、この小国が已 む無く差し出した美しき貢物に、かの王が舌なめずりをしたことも知っている。
そして、本当は――。
愛してもいない男に可愛い姫をやるぐらいなら…そしてもしも彼らが望むなら、昼間聞いたその若者のもとへ彼女を嫁がせてやりたいとさえ思う。
それはもちろん叶うことではない。
可能なことでもない。
しかし…。
ラガーフェルド邸の裏手には、まだ馬車が停まっていた。控える御者 ののんびりとした姿を見ても、まだ姫が邸へ戻っていないことが窺 える。
ベルモントはやや距離を置いた場所に馬を隠し、物陰から邸の玄関を見張ることにした。
立場上、ラガーフェルドらの前では毅然として見せたものだが、実は人が言うほど自分は克明 な人間ではない。姫の婚約内定を耳にして以後、そのあまりのやりきれなさに、辞めていたはずの煙草にまた手が伸びているほどだ。
実際、そうでもしなければ、昨今の国情に纏 わる話題には関わることもできない。かの大国やあの同盟に関する話は、どれもおぞまいほど汚く悪辣 なものばかりで、その犠牲にならねばならぬ姫の身を思えば、とても聞くに堪えられたことではなかったからだ。
内心で苛立ちを噛み潰し、いつも平然と振る舞わねばならない我が身を本当は嫌悪していた。
そして…。
そんな思いを抱えながら、何もしてやれない自分が堪らなく悔しい――。
ベルモントはふうっと紫煙を吐いた。
(ささやかな姫の幸せ…か)
それが泡沫 のごとき儚い幻と知りながら、与えてやることが本当に幸せかと尋ねられれば、正直うまく答えられない。残酷と言ったほうがまだ馴染めるとさえ思う。
何も得るものがないまま、彼らはただ偽りの温もりに身を委ねているだけだ。何も創り出せぬまま、ただ徒 に時を過ごしているだけなのだ。
「痛々しい話だな…」
ふと僅かな蹄の音に気付いた。慎重に屋敷の方を覗くと、薄霧のかかる彼方に一頭の馬の影が揺れている。
「あれか…?」
ベルモントは慌てて煙草を揉み消した。
石畳を叩く馬蹄がこちらへどんどん迫ってくる。じっと息を殺し、薄闇に目を凝らす。
しかして、もやの中から現れたその影の主は――。
「な…何…っ!?」
目を疑った。
まさかこんなことは有り得ない。彼らは昨晩初めて顔を合わせたはずだ。それなのに…!
馬上で姫を抱いているあの青年は、近頃軍を騒がせている噂の男だ。腰まであるあの長い栗色の髪も、武人らしからぬ細い体も、まるで女性のような白い肌も確かに見覚えがある。
間違いない、あれは――!
「臣…!」
これで何もかも合点がいく。
(ルクレツィアが頑なに名を明かすのを拒んだわけはこれだったか…!)
淡い苛立ちと思いがけない衝撃に、握った拳が震えた。にわかに熱いものがこみ上げる。
(そうか…。そうだったのか…)
そこでもう一つ、心から得心できたこと――それはラガーフェルド夫妻とルクレツィアのひたむきな思いだった。
なるほど、確かにあの幸せそうな姫の顔を見れば、引き止めることなどできなかっただろう。
門前で今、別れを惜しんでいる二人の顔は、なぜか驚くほど穏やかだ。時折、あの姫が心から嬉しそうに笑っている。それは、ほんの少し前まで失われていた、彼女本来の柔らかな微笑み。
これをあいつが取り戻したというのか。
絶望に囚われていた姫君に、異国からやってきたばかりのあの男が一縷 の希望を与えたというのか――。
馬の背から姫を抱き下ろしてやると、臣はその場に片膝をついた。
「さあ、現 へお戻りください、姫」
「臣様…」
目を真っ赤にしたクラウディアが、じっと臣を見ている。彼女の細い肩は、頼りなく震えるのだった。
「その門扉 の向こうにあなたの現実がございます。ついにこの夢から目覚める時が参りました」
「……」
クラウディアの足は根が生えたように動かない。固く胸元を握り締めたまま、クラウディアはその場に佇んでいた。
そして、ようやく開いた唇から囁くように絞り出されたのは、吐息のように微かな…。
帰りたくない――。
聞こえてはいた。いや、耳にする前から彼女の心はちゃんと臣には伝わっていた。
「今のは…聞かなかったことにしますね」
一方で心惑いながら、もう片方では我ながら驚くほど落ち着いている。こんなときはなぜかいつもそうだ。
本当は心なんか揺れまくっているし、頭の中だってどうしようもなく狼狽 している。それなのにいつも、いざという時になると、昼間行ったあの湖の湖水のように、表面 ばかりがさあっと冷めていってしまう。
あたかも何でもないような、何の感情もないような平然とした顔で、心にもない言葉ばかりが淡々と口をつく。まるでもう一人の自分が体のどこかに潜んでいて、何かの拍子に取って代わってしまう――そんな感じだ。
いつからだろう…。こんな風に感情を隠せるようになったのは。
いつの間に俺は、こんな風に取り繕 うことに慣れてしまったのだろう?
「ほんのひと時でも、ともに夢路を辿 れたこと、心より感謝致します。素晴らしい夢を…ありがとうございました」
深々と頭を垂れると、クラウディアは崩れるように膝を付き、ひしと臣にしがみついた。
「い…や…。嫌…」
クラウディアは何度も首を横に振った。
結局、何度自分に言い聞かせてもだめだった。今日は一日そうして自分を説得していたクラウディアだが、どうしても心は頷かない。
――離れたくない。
もう逢えないなんて堪えられない。
もう彼の声が聞けない。
もう彼に触れられない。
もう彼の鼓動も体温も感じることができない――どれも嫌だ。全部なくしたくない。何一つ失いたくはない。
「姫様」
臣は、クラウディアの肩を抱いて立ち上がった。
「嫌…。クラウディアって…呼んで…」
涙交じりの声が胸に刺さる。
ここで絆 されてはいけない。今度こそ終わらせなければ。これ以上は互いを傷つけるだけだ――。
臣は、クラウディアの肩を胸から剥がした。
もうすっかり涙でぐしゃぐしゃになってしまったその顔を真正面から見つめると、彼女はまた嫌々と首を振る。肩を大きくしゃくりながら、クラウディアは何度も何度も首を振るのだった。
「いいえ。あなたは姫様です。この国の誇る大切な姫君です」
「嫌…。嫌よ…そんなの嫌…」
「どうかお聞き分けください」
「嫌…」
「……」
やがて臣は、クラウディアの肩からそっと手を放した。
どきりと胸が鳴る。
彼から離れることが怖くて仕方がなかった。彼がこのまま手の届かないところへ行ってしまうのが心から怖いと思った。
伸ばされた指先が届く前に、臣は素早く後退 り、再び深く頭を垂れた。
そしてこの日、彼はいつものように手の甲に口付けようとはしなかった。親愛の――そして次の約束の口付けをとうとう彼はくれなかったのだ。
「さようなら、姫様。どうぞ…お幸せに…」
踵 を返すと、臣は逃げるようにベアトリスに跨 った。
そのまま振り返りもせず駆けてゆく。
これ以上は臣の方も限界だった。このままここにいては、きっとまた情に絆されて、彼女を抱き寄せてしまうだろう。臣も振り返ろうとする自分自身を必死に抑えていたのである。
そう――。
振り向かなくても臣にはちゃんと見えていた。一人立ち尽くしたまま泣いているであろう彼女の姿――。
彼の名を呼びながら、幼子のように肩をしゃくり続ける彼女のその姿が…。