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雨月夜 ~Moonlight In The Rain~  作者: 惠 悠冬(めぐみ ゆうと)
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02//輪舞(ロンド) - Rondo -

 知り合ったのは偶然でも、確かにあなたはそこにいた。

 決して夢なんかじゃない。夢になんてしない。


 いつだって約束を交わせばただ無邪気に肩を寄せて

 他人ひと から見れば、まるで取るに足らぬ幸せさえも、そのいちいちを見逃すことなく分け合って…。


 そうやって、ただ共に過ごす瞬間だけを大切に大切に

 まるで儚い命を育むようにそっと抱き締め温めていた。



 ただそれだけで良かった。



 それだけで全てが満ち足りていたんだ――。

 

「――は?城へですか?私が??」

 おみは目を丸くした。


「そうだ。どう考えてもおまえぐらいしかいないだろう?」

 面倒くさそうに肘を付き、口に煙草をくわえたまま男は言った。


 名はヴィンセント=ロセッティ。階級は曹長そうちょう。32歳。第四外人連隊の連隊長を務める男である。

 ついでに言えば、彼は相当ヘヴィな愛煙家――話をするにも煙を吐くにも、常に煙草を咥えたままなので、今もテーブルの上には塊で落ちた灰が山を作っている。一応ながら灰皿はあるのだが、なぜかテーブルの隅に追いやられ、せっかくの活躍のチャンスを失ってしまっていた。


 隣に控えるはグリフィン=クリストファ一等兵。24歳。臣と同じく第四連隊の隊員である。比較的長くここに籍を置く彼は、小柄で非力であるがゆえに階級こそ一等兵だが、今やロセッティの片腕として補佐的役割を果たしている人物である。


「はあ…。そう…なんでしょうか…?」


 臣は不服そうだった。どうもこの命令の意図するところが呑み込めないのである。


「この日は、かの大国ヴィングブルクを始め、近隣からもそれは大勢のお客様がある。それも皆、爵位しゃくいをお持ちのそれは尊いお方ばかりだ。そんな大層たいそうな場に、礼儀も何も知らんごついやからをぞろぞろと置いておけるわけがないだろう?強面こわもてをとおり越して悪人面としか言いようのない蛮カラどもに、そんな場の警備が任せられると思うか!?口よりも先に拳でコミュニケーションを取ろうとするような荒くれ者に、おまえ、そんなお上品な役目が務まると思うのか!?」

「あの…ロセッティ連隊長殿。お言葉ですが、そういうことならば、私が行ったところでそれほど大差があるとも思えませんが…?」

「そんなことは分かっとる!!だが、中身はともかく見た目だけなら天と地だ!おまえが行け。おまえしか無理だっ。連隊長命令だ!」


 ロセッティは苛立たしげに声を荒げた。


 随分と強引な話にも聞こえるが、ある意味では仕方がないと言える。

 ほとんどが外国人ばかりで構成されているこの部署の連中ときたら、この腕に覚えあり――と、肉体のそこかしこに刻み込んであるような人間ばかりだ。隊員たちは皆全体に大柄で、筋骨の方も顔つきの方も見るからに猛々しく剛強ごうきょうそのもの。血のについても、やはり見たままの期待を裏切らないといった具合。

 そんなこの部署で、臣のように線が細く、比較的育ちが良さそうに見える(・・・)人物は皆無と言って良い。従ってつまり、優美絢爛ゆうびけんらんたる舞踏会などという場に、あからさまにそぐわぬ人間を差し出すぐらいなら――と、新人ながらに白羽の矢が立ってしまったのである。この際中身など関係ない。いかにそれらしく見えるかが選考のポイントであった。


 それでも。


「はあ…」


 やはり気が進まぬ臣なのである。ロセッティの言うことも分からぬでもないが、いつもただそこにいるだけで難癖をつけられるような自分にしても、そんな高尚こうしょうな役目が務まるとは思えなかった。


「それにな…」

 煙と言葉を同時に吐きながら、ロセッティはテーブルの上で煙草を揉み消した。


「実はもう城に第四連隊からは臣とグリフィンが行くと伝えてしまった」

「はあ…」

「いいか、もう一度言うぞ?舞踏会は次の木曜だ。この日の晩、ゼノビア独立同盟締結の内定を祝う舞踏会が盛大に行われる。その警備に、この辺境からも十名程度動員せよとのお達しだ。我が隊からはおまえと、それからこのグリフィン=クリストファ。他の連隊からも二・三名ずつぐらいは出してくるはずだ。彼らと協力して任に当たれ。絶対に喧嘩はするな。例え誰にちょっかいをかけられても相手にするな。無視だ、無視!!それから、警備の方針と配置の説明会は火曜の夕方五時からだ。必ず出席しろ!いいな!?」

「はあ…」


 先ほどから、何を言っても気のない返事しか戻ってこない。ロセッティはむっかりと眉を寄せ、平手でテーブルを殴りつけた。


「ちゃんと聞いているのか、おまえはっ!?さっきから同じ返事ばかりしおって!!」


 衝撃で灰皿が落ちると同時に、机の上に積もっていた灰が一斉に吹き飛んだ。


「ええ、まあ…」


 だがやはり臣の声に変化はない。目線はちゃんと合っているし、顔つきを見ても特にふざけているようには見えないが、どうも声に力がない。


「こいつ……」


 さすがのロセッティも根負けしたようであった。


 と、


「すみません」


 そんな雰囲気を察したか、妙なタイミングでぺこりと頭を下げてくる臣。しかし、その態度が更に場を白けさせてゆくのである。


 ロセッティは大きなため息をついた。


「とにかく、だ!あちらで問題だけは起こしてくれるな。それだけはくれぐれも固く言っておく!」


 すると、少しばかり小首を傾げ、


「可能な範囲で気をつけます」


 臣は悪びれもせず平然と答えた。


「か…可能な範囲って…。あのなあっ、おまえ、本当に――!」

「聞いてます。分かってます。理解はしてます」

「う……」


 言葉だけを聞いていれば、とても上官に取る態度ではない。だが、おかしなことにその様相は、わざとこちらを挑発している風でもないのである。


 臣は真顔でただ淡々と返事を返す。表情から察するに、ひたすらに正直にそして真摯しんしに――。

 その様子はつまり、どうやら彼が人の顔色をうかがって態度を変える人間ではない…ということのようなのである。ある意味で、確かに彼は生真面目なのだ。


 とはいえ、つい次の言葉には詰まってしまうロセッティなのであった。


 半ば唖然として成り行きを見守っていたクリストファが、隣で頬を引きらせたまま笑っている。


 やがて…


「了解しました」

 唐突にぴたりと踵を合わせ、臣はきっちり敬礼して見せた。


 だが、今更このタイミングで敬礼などされても、何と言葉を返せよう――。


「……」


 こいつの態度はどうも調子が狂う――と、ロセッティは思った。


「お話の方はもう宜しいですか?」

「あ…ああ…」

「では、失礼します」

「……」


 再びきちんと一礼して、さっさと部屋を出て行く臣を、目を点にしたロセッティとクリストファは無言で見送るのだった――というより、もはや開いた口が塞がらなかった。


 異国出の者ばかりが入れ替わりやってくるこの部署は、よそではごろつき部隊、寄せ集め部隊などと散々な陰口を叩かれてはいるが、別の観点から捉えれば、様々な個性の吹き溜まりとも言える。


 そんな中で、大勢の人間を目にしてきたロセッティではあるのだが――。


(ちょっと今までにいなかったタイプだな…)


 今日のところは敗北を認めざるを得ない。ロセッティは奇妙な疲労が一度に吹き出すのを感じていた。


 ふと気づけば、うつむいたクリストファがふるふると肩を震わせている。それが気心知れている相手であるがゆえに、ロセッティはわざとクリストファに苛立ちをぶつけた。


「おい、グリフィン!何なんだ、あの妙なガキはっ!人を小馬鹿にしていると言うか、飄々《ひょうひょう》としていると言うか…。まるで掴みどころがない!!」


 クリストファは、目尻にうっすらとした涙を拭いながら答えた。


「ええ、本当に…。この間、あのマイト・ハーディと遣り合った時は、そりゃあみんなを肝を冷やしましたけど、確かに近頃はめっきり大人しいですねえ」

「大人しいなんてもんじゃない!覇気はきがないじゃないか、覇気が!たるんどる!!」

「いやあ、でも仕事の方は本当に真面目ですよ?結構マメだし、ちゃんと言うことも聞くし、頼まれたことはそつなくきっちりこなしますしね。ただ――」


 不意にクリストファの顔が曇る。


「ただ…?」

「ええ…。ただですね、あの一件以来、一部の連中があいつを気味悪がってしまって…」

「気味が悪い?なぜ??」

「以前、あいつが剣を抜いたときに妙なものが見えて…その、煙のような雲のような…はたまた光のような」


「ほう…?」

 ロセッティは目を丸くした。


「あんまり神()かりな感じだったもので、どうもみんなおっかながって近付かないんですよね。あのハーディ伍長ですら避けて通るそうですから」

「……」

「ま、本人はあのとおり平気な顔をしていますし、そう心配することもないかもしれませんが…」


 ロセッティは眉間を寄せてため息をつき、懐から取り出したくしゃくしゃの煙草にまた火をつけた。


「――我が隊もか?」

「え?」

「我が隊の人間も同じ隊の仲間に対してそういう態度を取っているわけか、といている」

「いや…。うちはそうでもない…かな?」

「ならば良かろう」


「そ…そうですね」

 クリストファは、小さく肩を竦めた。


「グリフィン…。おまえ、あれがいくつに見える?」

「ええと…もしかして俺と同じくらいですか?」

「いや。まだ十九だそうだ。今年で二十歳はたち


 ロセッティはふうっと紫煙を吐いた。細く長く、それはまるでため息を紡ぐ糸のように――。


「ええっ!?そんなに若いんですか!!それであの腕?とんでもない化け物だな。末が怖いや」


 クリストファは苦笑したが、ロセッティの表情はひどく硬い。


「キャリアは8年」


 ロセッティはふっと眉をひそめた。


「え?…ってことは――」

「キャリアだけならおまえよりも上ってことだ」

「……」


 手元で遊ばせた煙草の火を見つめながら、ロセッティはぼんやりと呟いた。


「あいつ…子どもの頃からこんなことばかりしているんだ…。いや、こんなに平和なはずはない。あれで臣は根っからの傭兵ようへいだ。つまりあいつは、物心がついた頃からずっと独りで戦場を渡り、その最前線に立って人を斬ることでここまで生き長らえてきたんだよ。人を殺すことそのものが、あいつにとっては生きるかてだった。それこそ、こんなちっちゃな頃からな…」


 ロセッティは、机の高さと同じところで手のひらを水平にして見せた。


「なんか…悲しい話ですね…」

「ああ」

「そんな風には見えないのに」

「そうだな…」

 ロセッティはまだいくらも吸っていないはずの煙草を、ぎゅっとテーブルに押し付けた。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 翌日もその次の日も同じような毎日が続いた。

 朝早く起きてベアトリスの世話をし、彼女と共に国境へ出勤。何事も、何の変化もない日常。


 これこそが平和なのだろうか?

 この退屈こそが??


 だが今の臣は、この退屈という名の平和の中にたった一つ、ささやかな幸せのようなものが潜んでいることを知っている。これまで戦の中でしか生きなかった彼を、こうしてこの平穏の中に踏み留まらせた理由がそれだ。


 もうとっくに思春期を越えた彼である。別に恋だ愛だという経験がないわけではない。人並みに女性との付き合いだってあったし、出会いも別れもひととおり経験している。

 ただ、そこにいつも安らぎがあったかというとそれはどうだろう…?ほっと肩の力が抜けるような温もりと、身も心もゆったりと静まってゆくようなこの感覚はこれまでに感じたことがあっただろうか?


 金曜が来るのが待ち遠しい。


 きっとそれはクラウディアも同じはず。会うたびに、次は、次は…とせがむ彼女だ。


 でもこんな日はいつまで続くのだろう?

 こんな報われない想いを、いつまで胸に抱いていればいいのだろう…?


「――聞いているのか、貴様は!立てッ、臣!!」


 いきなりの怒声に我に返った。

 頬杖を付いた顔を前方へ向ければ、大勢の兵士が居並ぶ会議室の一番前で真っ赤な顔をした男が大声を張り上げている――。


 あれは…?

 ああ、ラルフ=ノイズマン少佐か。


 臣は静かに立ち上がった。周りをずらりと囲む、ほとんど目にしたことすらない兵士らが一斉に振り向き、じろりと臣を見上げた。


「聞いてます」


 これだけの注目を浴びても、相変わらず臣は顔色も声色も変えない。隣に座っていたクリストファだけが、毎度ながらの彼らしい態度に苦笑している。


「何だと?言うに事欠ことかいて白々しい…。では言ってみろ!今しがた私が説明した舞踏会の警備配置は!?貴様の持ち場はどこだ!!ええ!?」


「はい」


 許可も得ぬまま臣はノイズマンのもとへと出てゆき、前に掲示された城の見取り図を指し示しながら堂々と説明を始めた。


 それはまさしくノイズマンがたった今説明したものと同じ――。


「ええと、城門からこちら…中庭の警備は城の衛兵の担当です。配置はここと、ここと…あと、ここ。この三か所に重点を置いて、残りの人員は敷地内に均等に配備します。

 次に、舞踏会場内の警備についてですが、これは近衛師団の担当です。ここはまず、壁沿いのできるだけ目立たない場所に数名ずつを配備。具体的にはこの部屋の四隅と…それから各出入り口付近になります。あとはお客様方に紛れてホールにも十数名。

 また、我々外人部隊の持ち場はホール上の回廊で――」


「も…もういい!」


 眉をぴくぴくと小刻みに震わせ、ノイズマンは声を荒げた。


「はい」

「まったく…。ちゃんと聞いていたのならそれで良い!だがな、もう少し気を入れてしっかりと聞け!ぼーっとするな!!肘を付くな!!頬杖も付くなっ!!」


「すみません」


 ――と、口では謝って見せるが、果たして本当に申し訳ないと思っているのかどうか…。


 ノイズマンはこれ見よがしにため息をついた。


「はあ…。席に戻れ…」


「……」

 しかし、どうしたものか、臣は見取り図を凝視したまま動こうとしない。


「何だ、まだ何かあるのか?」

「ええ。あの…この配置はちょっと…」


 臣は首を捻った。


「何か文句があるとでも言うのか!?」

「文句と言うか、その…」


 振り向いた顔つきが変わっている。そこに先ほどのようなぼんやりとした感じはなく、いつの間にか宿った切れ者らしい瞳が、じっと正面からノイズマンを見据えていたのだ。


 不覚にも、ノイズマンの心臓はどきりと音を立てた。


「面積の割にホールの人員が多すぎると思うんです。この警備体制下で、万が一何事かがあったとして、我々はどこでそれを食い止めるんです?」


 その声は平静そのものだったが、言葉の方は痛烈に鋭い。だが、この中でも相当若い方に違いない彼のこの言葉は、ノイズマンの神経を逆撫でてしまったようである。


「何だと…!?」


 にわかにノイズマンの顔色が一転――。同時に、見守っていた全ての人間に緊張が走った。


(また、あいつ…!!あれほど連隊長から問題を起こすなと――)


 ここでいつものように生意気な口を利けば、最悪の場合、また彼は牢へ放り込まれてしまうだろう。しかも、前回からまだひと月と経たぬうちにである。


 取り巻く顔が一様に青ざめてゆく中で、比較的臣をよく知るクリストファ一人だけが彼の身を案じ、遥か遠い最後列でおろおろと冷や汗を流していた。


「――我々は、何よりもまず不審者のホールへの侵入を食い止めるべきでしょう?お客様方の身の安全を最優先に考えるのであれば、会場で何事か起きてしまった場合の想定をするよりも、不審者をホールへ絶対に立ち入らせない仕組みを作るべきでは?ならば、ここは会場そのものではなく、周囲の警備をより強固にした方が効果的ではないでしょうか。表立った厳重な警戒は抑止力にもなりますし」


「……」

 ノイズマンはぎりと奥歯を噛み締めた。悔しいが、言われてみれば確かにそのとおり。目的や意図が窺える、そして理にかなったもっともな意見である。

 だがこれは、数日前から何人もの士官がそれこそ何度も顔をつき合わせ、あらゆる緊急事態を想定して練りに練った配備なのだ。


 それなのに…。


(こいつ…)


 ここに集う誰もが何の疑問も持たなかった警備計画の不備を、このほんの短時間でいとも簡単に暴いてみせるこの男は一体…?

 しかも彼はまだほんの十代の若者、そしてあれほど心ここに在らずという状態だったのに…である。


 更に臣は言葉を続けた。


「例えば私なら、ホールの警備は四隅のこの四名のみに…。もちろんここには近衛師団の中でも屈指の選良を配備すべきですが、とにかく中はその四名に任せて、あとは他へ…。そう――城内のホール以外の見えない場所へ回します。一見、舞踏会と関わりのないような場所でも、不審者にしてみれば身を潜めるのに十分な場所となり得ます。警戒するに越したことはありません。それに、折角の舞踏会の最中に軍服を着た無粋ぶすいな連中がぞろぞろとうろついているなど、かえってお客様方に失礼かと存じますが」


「な…何…っ!?無粋!?誉れ高きわが国の精鋭・近衛師団を、貴様、こともあろうか無粋だと!?」

 ノイズマンはぎょっと眼を剥いた。


 この国の近衛師団こそ、どこに出しても恥ずかしくない知性と気品を兼ね備えた精鋭中の精鋭。数多兵士らの羨望せんぼうを集める彼らを、こともあろうか、無粋者呼ばわりするとは!!


「あ…。すみません。言葉が過ぎました」

 臣はぺこりと頭を下げた。やはり反省の色はあまり見えない。


 動揺をごまかすように大きな咳払いをひとつすると、ノイズマンは努めて冷静に言葉を続けた。


「で…では、ホールの警備責任はジャスティス=イングラム大佐、レオン=ベルモント大佐の両人にお願いする。そこへローランド=ヴェガ少尉とベネディクト=マグナス中尉ほか数名のみを付けよう!後は空き部屋や別棟の巡回に当てる!!これで文句あるまい」


 ところが――。


「はあ…」

 返ってきたのは、ひどく歯切れが悪い返事だ。


「なんだ…まだ不服そうだな」

「そうなると我々の担当部署の警備責任はどなたになるのですか?」

「う…。そ…それは…」


 ついにノイズマンも言葉を返すことができなくなってしまった。

 実は、当初は近衛師団のベルモントを彼らの統率として配していたのである。この若造のあまりに鋭く手厳しい指摘に、ついむきになって言葉を返した結果、配置にうっかり穴が開き、逆に新たな突っ込みを入れさせる隙となってしまった…。

 しかもこの大勢の部下の前で、たかが異国の新人風情(ふぜい)に、一度ならずも二度までも自身の不備を突っ込まれたとあっては、面目もプライドもまる潰れなのである。

 ノイズマンは胸の内で地団太じだんだを踏んでいた。


 そして――。


 会場の後ろでは、クリストファら国境の外人部隊があまりの小気味よさに腹を抱え、必死に笑いと格闘していた。


「まさか、どこの馬の骨とも知れぬ我々外国人にお任せになるので?」


 きょとんとした顔で臣は問うのだ。おかしなことに、その顔には悪意も嫌味も何もない。


「う…。で、では、ベルモント大佐にはそちらに回ってもらう!代わりにホールへはユンカース=ラダフォード少佐を入れる!!これでどうだっ!?」


 まるっきり冷静な二十歳そこそこの青年を前に、必死に唾を飛ばすラルフ=ノイズマン・35歳――。


 既に会場のあちこちに顔を伏せた兵士がいる。ともすればつい漏れそうになる笑いを懸命になって抑えているのは、もはや外人部隊のメンバーだけではなかった。


「――はい。かしこまりました」

 しばらく考え込んだ後、臣はけろっとした顔で頷いた。


 が、とうとう――。


「ぷっ!あはは…あはははは…!」

 堪えきれなくなったクリストファが吹き出した。しかしながら、さすがにこれは会場の顰蹙ひんしゅくを買う羽目に。


 今まで前方へ向けられていた注目が、一斉に最後列へ向けられる。お陰でクリストファはいっぺんに我に返った。


「あ…。す、すいません」


 赤面しつつ、そろそろと目を上げて前を見ると、呆気に取られるノイズマンをよそにぺこりと頭を下げた臣が、また許可も得ずにさっさとこちらへ戻って来る。その姿に再びクリストファは声を殺して笑い、精一杯の小声の賞賛を浴びせた。


「一時はどうなることかと思ったが、ついにあの少佐にぐうの音を上げさせるとは…!なかなかやるな、おまえ!ほんとに面白い奴だ!!」

「は?面…白い…??」


 どうも臣には彼の言う意味が分からないようである。


「正直、また面倒な仕事を押し付けられたとうんざりしていたが、何だか俺、木曜が楽しみになってきたよ!」

「???」


 首を傾げる臣に構わず、満面笑みのクリストファは彼の背中をいつまでも叩き捲くるのであった。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

「あははは!」

 城内に高らかな笑い声が響いた。長い廊下を並んで歩いているのはノイズマン少佐と、そして――。


「わ…笑い事ではありません、イングラム大佐!本当にもう赤っ恥もいいところですよ!!あの異国の若いの、とんでもなく生意気だっ!」


 懸命に訴えるノイズマンの横で豪快な笑い声を上げているのは、ジャスティス=イングラム大佐。彼はこの城の近衛師団長で、現在38歳。2メートル近い長身に、肉厚で強健な肉体を携えたいかつい印象の大男である。だが、その内から滲むようなどっしりとした貫禄かんろくと威厳、そして堂々とした立ち振る舞いからは、清廉かつ誠実な人となりが容易に窺える。まさに、質実剛健を絵に描いたような男だ。

 この城に――ひいてはこの国に、イングラムを知らぬ者などない。それほど彼は、公爵家はおろか諸侯から部下・同僚に至るまで、広く深い信頼を集める大人物なのである。彼に憧れて近衛を目指す兵士も今もって後を絶たないと聞く。


 彼らは今、先の説明会で急遽変更された警備の配置を今一度確認するため、実際に城内を歩き回りながら最終の調整をしていた。


「だが、気に入っているのだろう?おまえが直々《じきじき》に手合わせをして入隊の許可を出したと聞いたが?」

「ええ…。まあ、そうなんですけど…」

「かの剣豪ラルフ=ノイズマンをも唸らせる神速の剣士ねえ…」


 おどけたようにそう言って、イングラムはまたくっくと肩を震わせた。


「で、でも大佐、あれは本当に人の速さじゃないですよ…?剣の動きがまるで見えないんですから!」

「じゃあ彼は何だと言うんだ?化け物か?」

「化け物…。まあ、確かにある意味ではそうかもしれませんけど…」


 ノイズマンは先日の国境での一件を思い出していた。


 実は、例の喧嘩の現場を押さえた折に、臣の怪しげな剣技について国境の兵士らが怯えながら語るのを彼はしかと耳にしていたのである。

 だが、ここでに落ちないのは、この自分も確かに彼と剣を交えたはずなのに、そのような妙な雲気うんきは一切目にしていないという点である。どうやらそれは、彼が剣を抜く際に常に放出されるものではなさそうなのだ。


 そしてもう一つ。


 その怪しさを差っ引いたところで、戦闘時の彼の異様さは払拭ふっしょくできぬということ…。彼のあの驚異的なスピードは、直接目の当たりにしたノイズマンですら、いまだ信じられるものではなかった――。


「どうした、ラルフ?」

「いえ…別に」


 ノイズマンは敢えて詳しい言明を避けた。


「まだそいつは若いんだろう?せいぜい可愛がってやれよ。異国出とはいえ、近い将来優秀な部下になるかもしれんぞ?」


「はは…」

 ノイズマンは苦く笑った。


「それに、こちらの命令に従わないとか、そういうことでもないんだろう?」

「ええ、そこは従順そのものと聞いていますが」

「ならば問題あるまい?」

「まあ…そうなんですけどね」

「ん…?」


 ふと背後の気配に振り向くと、そこには二人の若い女性が立っていた。


「うふふふ。何だかとても楽しそう…。どうかなさったの?」


「これは姫様」

 イングラムはすらりと微笑み、軽い会釈をした。慌ててノイズマンも頭を垂れる。


 侍女と共に現れた「姫」と呼ばれるこの少女は、ゼノビアを治めるルントシュテット大公の一人娘である。彼女はまだ十八歳。まさに今が娘盛りといった年頃――。


 少女は屈託くったくのない笑顔を見せた。誰の印象にも残る輝くような微笑みだ。


 長く透き通るブロンドはその細い背中で緩く柔らかなウェーブを描き、白く肌理きめの細やかな肌は彼女が内に宿したあてやかさを一層引き立てるかの如く…。そして、あどけなさを少し残した美しい顔の上では、澄んだ宝石のようなグリーンの瞳がきらきらと光を湛えている。


「いえ、大したことではありません」


 くすりとイングラムが笑うと、一層興味をそそられたのか、少女は大きな目を更に見開き、彼らの話をねだるのだった。


「なあに?」

「ええ、実は…先日、軍に入ったばかりの新人がなかなか面白い人物のようで。ほら、先日のお目通りにいきなり来られなくなった彼ですよ」

「赴任初日に喧嘩をして牢へ入れられたとかいう、あの方…?」


「いや、面白いって言うんですかね、ああいうの…」

 ノイズマンは呆れ顔で首を振った。


「???」

 少女が首を傾げている。


「先刻、ラルフがその新人に散々からかわれたんだそうです。それも約一〇〇名の部下の前で」


「まあ!!」

 少女はふわりと眉を開いた。


「いや、からかわれたって言うか――。大佐、あいつは多分そんなつもりはないんですよ」

「ん?どういうことだ?」

「ええと、何と申し上げたら良いのか…。例えば…さっきもそうでしたけど、あいつ、とんでもなく生意気な言葉を口にしているのに、その顔つきを見ていると何だか様子がおかしくて…。つまり、私への嫌がらせをしているというよりは、ただ単に自分の意見を大真面目に述べているだけのようなんですよね。きっとあいつは相手を見て出方を変えるような人間ではないです。良く言えば正直。悪く言えば……そう、ちょっと遠慮がないだけ!」


 と、ノイズマンは断言してみせるが、肝心のイングラムと姫君は、ぽかりと目を丸くするばかりである。どうもノイズマンの言いたいことはうまく伝わらなかったらしい。


 イングラムは気疎けうとげに眉をひそめた。


「分かったような分からんような…」

「大佐も一度お会いになってみたらいかがです?何だかとらえどころのないおかしな男ですよ」


「わたくしも是非お会いしてみたいわ」

 少女は瞳を輝かせた。余程の興味を抱いたようである。


「では、今度の舞踏会の警備に話題の新人も参りますので、その時にでも紹介させていただきますよ、姫様」


「うふふ。とっても楽しみ」

 少女は無邪気に微笑むのだった。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 果たして、舞踏会当日。


 この日の最終打ち合わせは、城の中庭で手短に行われた。例の如く、外人部隊の面々は、それがまるで当然とでも言うように、居並ぶ大勢の兵士のずっと後ろへと追いやられている。これも毎度の光景だ。


「――良いか!あと小一時間ほどでお客様が順にお着きになる!その前にひととおり、各自で持ち場の状態を確認しておくこと!!それから――」


 現場の指揮を取っているのは、言わずと知れたラルフ=ノイズマン少佐。その両隣には、あのジャスティス=イングラム大佐、レオン=ベルモント大佐らを始め、軍の実力者がずらりと並んでいる。


「…つか、なんでここにマイト・ハーディがいるんだよ?」

「さあ?」


 クリストファが横目で睨むその先には、一昨日の説明会には確かにいなかった、あのレヴィン=ハーディ伍長がなぜかふんぞり返っている。考えてみれば、この日の警備にはできるだけ品の良さそうな人間を…とのお達しだったはずだが、彼についてはどう贔屓目ひいきめに見ても真逆だろうに。

 クリストファは、うんざりと肩を竦めた。


 一方、隣にたたずむ臣はと言えば、いつもと変わらぬ涼しい顔でじっと前方だけを見ている。ハーディなどまるで眼中にないらしい。


「さあ…って、おまえ、嫌じゃないのか?」

「嫌…?なぜです?」

「だって、女みたいだとかウサギだとかって、散々虚仮(こけ)にされたじゃないか。しこりとか後腐れとかないのかよ?」

「別に」


 前を向いたまま臣は、時折、瞳だけをクリストファへ向ける。


「やれやれ…。そういうもんかねえ?」


 その時だ。


「さっきからこそこそうるさいぞ、おまえらっ」


 いきなり背中を小突かれた。二人の背後と言えば、その主は見ずとも分かる。


「ふん。何だよ、偉そうに…!」


 クリストファは、振り向きもせずに鼻を鳴らした。


 普段ならこういう横柄な態度には出ない彼だが、今日ばかりはこのハーディを負かした臣がすぐ横にいるのである。そう思うだけで、ついつい気が大きくなるクリストファなのであった。


「何だあ?おい、何か言ったか、グリフィン!!」


「いいえ、何もっ!」

 クリストファはむっと眉を寄せた。


「……」


 臣が横目でその様を見ている――それに気づくと、すぐさま平静を繕い、ハーディは鼻先で薄く笑った。


「へっ。何だよ、その目つき…。俺に文句でもあんのか、ウサギ」

「別にありません」

「その割には何か言いたそうじゃないか。え?」

「目つきが悪いのは生まれつきです。申し上げたいことなど何もありませんが」


 相変わらず振り向きもせず平然とした声で、臣は最小限の返事だけを答えてくる。懸命に余裕のある素振りを装っていたハーディの眉間にも、ついに不愉快のしわが刻まれた。


「くっくっく…」

 いい気味とばかりに、クリストファが失笑を漏らしている――。


 これにはさすがのハーディもカチン!ときてしまったらしい。細い襟首をむんずと捕まえ、ハーディは、力ずくで臣を後ろに引き寄せた。


 仕方なく振り向いてやれば、ちょうど肩の上に、変ににやついたハーディの顔が乗っている。


「別になあっ、俺はおまえのことなんか何とも思っちゃいないんだぜ?」

「……」

「あの時だってよォ、おまえがあんまり貧弱なんで、ちょいと手加減してやっただけさァ。あんな勝負なんざ何でもねえ」

「……」

「何ならもう一回、勝負をつけてやってもいいぜ?」

「……」

「怖いか、ウサギちゃん?」

「……」


 これでもかと挑発しているのに反論するでもなく、無表情に見返してくる顔に、またハーディの苛々が溜まり始めたようだった。


「ふん…。またまた、お決まりのだんまりか。いい加減そういう卑怯な真似はやめて、正々堂々俺様に向かってきたらどうなんだ?」


 不敵な笑みを寄せる。


 ところが、すぐにその顔をぐいと押しのけ、再び臣はぷいと前を向いてしまった。


「ロセッティ連隊長から、無視するよう言われています」


「な…何だとおおお!貴様、上官を無視するってのか!!」

 ハーディはぎりりと歯を食い縛った。


 厳つい拳がわなわなと震え、見開かれた眼が血走り始めたのに気付くと、さすがのクリストファも一抹の不安を覚えずにはいられない。焦燥に胸がどきどきと騒ぎ出す。


「ええ。それが私に与えられた命令ですから」


 それでも臣は、まったく同じ調子で言葉を返すのである。それは逆にハーディを挑発しているようにも見えた。


 そして。


「ああ…でも、一つだけ安心しました」


 不意に臣は言葉を加えた。


「あァん?」

 ハーディはこれ以上ないほど口をひん曲げ、顎をしゃくった。どこをどう見ても完璧に喧嘩を売っている。


「本気で惚れられていたらどうしようと、ずっと心配していたので」

「な…っ!!」

「そういう意味でなら怖かったです」


 冷ややかな眼差しがふっと細められたその瞬間、ついにクリストファの予感が的中する。


「いい加減にしないか、そこッ!!」


「は、はひいいッ!!」

 ハーディの背筋が、反射的にけ反った。

 情けなく声がひっくり返ってしまっているあたりは、同じく冷や汗の止まらぬクリストファとしても笑えたものではない。


 やがて。


 まるで静かな海面が魔法か何かで割れるが如く、連なる兵士らの真ん中にさあっと道が開き始め――その花道を、肩をいからせながらずんずん歩いてきたのは、お馴染み、ラルフ=ノイズマン少佐である。


「……」

 気付けば臣は、なぜかたった一人でその場所に突っ立っていた。薄情なことに、隣にいたはずのクリストファも、後ろのハーディの姿も忽然こつぜんと消えている。


 一方、だんだん近付くにつれ、また相手が臣だと悟ったノイズマンは、がっくりと肩を落とした。


「臣…。またおまえか」

「すみません」


 やはりまるで悪びれてもいないが、反抗的にも見えない。いっぺんに全身の力が抜ける思いのノイズマンだった。


「…で、今回もちゃんと聞いていたのか?」

「はい。説明もできます」


「……」

 またも言葉を失う。


 頭の痛い奴だ。どうしてこうもこちらの言葉が響かないのか――。こいつには懲りるということがないのか?


「どうぞ、少佐。続けていただいて結構です」


「ふん…」

 不愉快そうに鼻を鳴らして冷静を装うと、ノイズマンはくるりときびすを返してしまった。戦意を失ってしまったらしい。


 前方では、さり気なく顔を背けたイングラムが、こみ上げる笑いを噛み殺していた。


「ほう、あれが例の…?なるほどな…さすがのラルフもたじたじのようだ」

 隣のベルモントがささやく。


「まあ、言われてみれば多少なり生意気な感じの男ではあるが…。それでも、うーん…。どう言えばいいかな…」

「生意気――と言うか…。まあ、確かに変な奴ではあるようだな」


 イングラムがくすりと笑ったその時――。


「あ…!すみません、ノイズマン少佐!!」


「……っ!!」

 ぎくりと肩を揺らし、ノイズマンは立ち止まった。


 わざわざ振り向かずとも分かる。この声は間違いなくあの疫病神だ。可能であれば聞こえなかったことにしたい。なぜって、こいつに関わるとろくなことがない。


 だが、こうして立ち止まってしまった以上、もはや手遅れ――。


「な…何だ?」


 恐る恐る振り向いてみると、果たして問題の疫病神が、挙手をしたままぴったりとノイズマンを見つめていた。その上それは、またあの顔――まるで何でもないようなすっきりとした真顔なのだ。


 五感が警鐘を鳴らしている。


 あの顔はまずい。

 あいつが何かをやらかす顔だ――!!


「もう一つだけ宜しいですか?」


 ほら来たっ!


 やっぱり…!!


(こいつ…なぜ一昨日言わない…ッ)

 一昨日の屈辱が蘇る。ノイズマンはぐっと唇を噛み締めた。


 またか!

 またなのか!!

 まだ何かあるというのか!?

 ここで恥をかかされれば今度は三度目だ。


 緊張が走る…!!


「あの…海側の警戒はどうなっていますか?」


「は?海…?」

 ノイズマンの目は点になった。元々自分が任されたのは城の敷地内の警備管理だ。その他のことなら管轄外である。

 内心でノイズマンはほっとしていた。彼のなけなしのプライドは、ぎりぎりのところで保たれたのである。


「私は、この城の南側の海沿いで毎日馬を走らせているのですが、そこで少し気になることが」

「何だ?言ってみろ」

「風です」

「風――?」


 ノイズマンが首を捻ったその時、前方で静観していたイングラムの表情が一変した。早くも彼は、臣の言わんとしていることに心当たったようである。


「この南の海岸は、いつも同じ風が吹いているんです。午前中は海から島の内陸へ向かって緩い南風が吹き、逆に夕方ごろからは海へ向かってやや強く冷たい風が吹き下ろしています」

「それがどうした」

「加えて海岸線はごつごつとした岩の絶壁が続き、陰になる場所も突出した岩場もそれは多い――」


 ベルモントも何か思い当たったことがあるらしい。にわかに眉を寄せ、ベルモントはイングラムに合図を送った。ぴたりと目が合ったのをきっかけに、城の近衛を務める二人の大佐が、靴音を響かせながらノイズマンと臣のもとへ近付いてくる。


「で?」

 ノイズマンは尚も尋ねた。


「つまり、うまく時間をずらせば海からのアプローチに相当有利であるということです」


「!!」

 はっと振り向いたノイズマンの前には、既にイングラムとベルモントがいた。


 


「なるほど、確かに彼の言うとおりだ。万が一に備え、衛兵を少し裏へ回せ、ラルフ」

 イングラムの低い声が飛ぶ。


「はっ!」

 ノイズマンはさっと敬礼すると、直ちに衛兵らのもとへと駆けて行った。


「貴様――臣…とか言ったか?」


 イングラムはふっと笑った。


「はい」

「若いながらによく切れる。噂どおりだな」

「噂?」

「いや、こちらのことだ」

「はあ…。痛み入ります」


 僅かに眉をしかめ、臣はおずおずと頭を垂れるのだった。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 外人部隊は宮殿の二階部分――吹き抜けになったホールのちょうど真上にいた。


 高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアを、ぐるりととり囲むようにしつらえられた回廊。ここが今夜の彼らの持ち場である。西側から奥へと続く長い廊下――公爵らの通用路にあたる――も、一応は彼らの担当となっており、また、回廊の東西からそれぞれ伸びる赤い絨毯の階段は、最後の国王の肖像画が見下ろす広いポーチで合流し、ホールへと降りることができる。どこも、明るく華やかな階下からはほとんど目にすることのできない場所ばかりである。


 つまり。


 今宵、階下のホールへお集まりになるみやびなお客様方に、無骨で粗野な外人部隊の姿をなるべく見られぬように――という配慮のつもりらしい。ある意味、彼らに対する扱いがよく現れた正直且つ無難な采配と言えるのだった。


 さて――。


 そろそろ招待客が到着する頃合である。ひととおり持ち場のチェックを終えた臣とクリストファは、回廊の手すりにもたれ、ぼんやりと階下を覗いていた。


「なんか俺…おまえといると寿命が縮む…」


 ぼそりとクリストファが漏らす。


 先刻、散々に肝を冷やした末に、後輩の臣を置き去りにして真っ先に逃走したクリストファである。お陰で、まだ警備も何もしないうちから、すっかりくたびれきっている。だらりと手すりに寄りかかり、クリストファはため息ばかりついていた。


「なぜです?」


 隣で、いつもの真顔が首を傾げた。クリストファを困憊こんぱいさせた張本人でありながら、どういうわけか信じられないほど平気な顔をしている。

 さては神経が太いのか、あるいは心臓に毛でも生えているのか――。あれほど人前で目立っておいて、また何のことを言われているのか分からないらしい。頬を支えた肘が、がくりと滑る。


「なぜってさぁ…。つか、おまえ結構頭いいくせに、ほんとに分かんないのかなあ?」

「???」

「あ、そうだ。あのさ…おまえ、俺に敬語とか使わなくていいぜ?」

「は?」

「そりゃあおまえより多少年はくっちゃいるが、俺、尉官も佐官もないただの一等兵だからさ…」

「…?」


 クリストファはにっかりと笑ったが、臣はきょとんと見つめ返してくるばかり。


「だからあー、俺のことはグリフィンって呼んでくれていいって言ってるんだよっ。みんなそう呼んでるしさ!」


「……」


 それでも臣は固まったままだ。グリフィン=クリストファは再び歯を見せて笑った。


「だって、俺たちのいるのってそういう所だぜ?城の連中は、秩序だ、礼儀だってうるさいけどさ、国境じゃあ適当なもんさ。仲良くなりゃあ上官にタメ口だって利ける。ま、もちろん、表立ってはまずいけどな。ほら、例の口煩くちうるさいノイズマン少佐!あいつ、どうやら俺らの管理を任されてるっぽくてさ、しょっちゅう見回りに来やがるんだ。だからさ…」


 暫く臣は唖然としていたが、やがて眉を解き、くすりと笑った。いつも何も感じていないような真顔をしているくせに、初めてまともに目にした彼の笑顔は意外にも素直で、どことなくまだ少年の幼ささえ感じさせた。


(へえ…笑ったぞ?こいつ、こういう顔するんだなあ…)


 つい釣られて綻ぶグリフィンだった。自分だけが本当の彼の姿を見た気がした。


「了解した――。これでいいか、グリフィン?」

「あ…。ああ!」


 たちまち嬉しくなって、グリフィンはにっと歯を見せて笑った。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 会場には続々と客が到着している。


 誰も彼もけばけばしいほどに着飾っていて、正直、品性の欠片も感じられない。高貴な身分にふさわしい上品ないでたちの人物のなんと少ないことか。

 階上の回廊から、臣とグリフィンはぼんやりとそんな人々を眺めていた。


「呆れるほど馬鹿まる出しだな。こんなことなら、外人部隊のあのごつい連中にホールを警備をさせても良かったじゃないか」


「え…?おまえ、今何て…?」

 グリフィンはぎょっと目を剥いた。本気で耳を疑った。


 唐突に口をついた彼のその言葉は、普段の大人しさとはまるで真逆の強烈な毒をはらんでいたのだった。

 

「金持ちのくせに、どいつもこいつも無駄に見苦しい。貴族だか何だか知らんが、よくもまあ、これほど下品に仕上がるもんだ…」


 冷ややかに階下を見つめ、臣はあざけるように笑っている。


 あのいつも真顔でつんと澄ましていた彼が、である。


 怒られても、ののしられても、喧嘩を売られても平然と声色も顔色も変えなかったあの彼が、である――。


「う…」


 やっとのことでグリフィンの口をついたのは、言葉ではなく変なうめき声だった。


「どうした、グリフィン?どこか具合でも??」


 覗き込む臣をぎこちなく見たグリフィンは、確かに微笑を装っていたが、内心ではすっかり苦りきっていたのだった。


「臣…。おまえ、この数分で性格変わってないか?」

「さて?何のことだ…?」


 やけにすっとぼけた涼しい顔が見つめ返してくる。


 何だ?何なんだ、コイツのこの余裕…?


「さ…さてはずっと猫かぶってやがったなあっ!?」


 絞り出された声に、臣はまたくすりと笑った。


「失礼なことを言うなよ、グリフィン。ちょっと人より絡まれやすい性質たちだから、なるべく余計な口を開かないようにしていただけさ。つまり、いつもは腹の中で思ってるだけ」

「おま…っ…。おまえって奴は――っ!!」

「でも助かったよ」


 せいせいしたとばかり、大きく伸びをして臣は笑う。


「いい加減そろそろ無理がきていたところだ。あんたが肩の力を抜けと言ってくれなければ、またどっかで爆発して牢へ入れられていたかもな」

「くっそー。まんまと騙された!」


 グリフィンはあからさまに拗ねて見せたが、すぐに気を取り直し眉を開く。

 そうしてついに二人はくっくっと肩を震わせて笑い出した。


「ほんっとにおまえって…変な奴だよなあ」

「なぜかどこへ行ってもそう言われるよ」

「だろうな」


 ホールの前方では、管弦楽団が最初の曲の演奏を始めたようだ。

 先の説明会で聞いた話では、この次の曲が始まると同時に公爵家の入場、そして簡単な挨拶の後、ヴィングブルクからの国賓が入り、ようやく本格的な舞踏会が始まる…という段取りだったはずである。


 今、会場を流れるは柔らかな弦楽四重奏――宴の始まりを予告する曲だ。会場のあちこちで挨拶など交わしていた招待客が、刻限を察して赤い絨毯の階段付近へと集まり始めている。


 と――。


 何気なく階下向けた臣の視線がぴたりと止まった。その先には、杖を付いた初老の紳士の姿がある。


「……」

 臣はにわかに眉を寄せた。


「どうした、臣?」

「グリフィン、そこ柱の陰にいる黒いコートに細い杖をついた人物…。あの男、誰だ?」

「え?いや、知らないけど…」


 促されるままじっくりと眺めれば、確かにその男、なぜか常にちらちらと周囲へ目を配っており、所在無げにホールの隅を歩き回ってばかりいる。時折、階上へ密かに目を上げるその挙動の方も気になるところだ。にわかにな不信感を胸に、改めて観察すれば、なるほどその存在は異様に怪しく浮いている…。


「それに、今入ってきたあの連中…。親子のように見せかけているが違うな」


 ――と、今度は顎で示された一団へと目を移す。


 ごく普通の四人連れの親子のように見える。父親らしき口髭の男に、若い男が二人と女性が一人。


「なあ…何が言いたいんだよ、おまえ…」


 ひそひそと言葉を交わしていると、いつの間に近付いてきたのか、二人の肩越しにあのハーディがひょっこりと顔を覗かせた。


「杖の方なら知ってるぞ」


 二人は振り向いた。


「ハーディ伍長、あの方は一体どういう方です?素性はしっかりなさっているんですよね?」


 臣はまた階下の不審者へと視線を戻した。


「ああ、もちろん。ありゃあ大公の母方のご親戚だ。確かエルンスト=ビューロウ男爵」

「ビューロウ男爵…。彼は本当にここへ招かれているんですよね?」

「そりゃあそうさ。現にここまで入って来てるじゃないか。ルントシュテット大公直筆の招待状がないとここへは入れないんだぜ?」


「……」

 手すりに頬杖をつき、臣は何かを考え込んでいた。


 ここでこんなことを話している今も、視線の先のビューロウ男爵の動きは明らかにおかしい。


 気になるが、放っておいてよいものだろうか?

 ホールの近衛らは、あの怪しい人物の存在に気付いているのだろうか…?


「あのさ、臣。もうちょっと俺にも分かるようにさあ…」


 戸惑うハーディと、今また険しさを増した臣の間で何度も視線を往復させるばかりのグリフィン。


「伍長、できればあの四人連れの親子のことも知りたいんですが」

「ああ…そんじゃあベルモント大佐にでも訊いてみるか…。だが、何だ?一体何だってんだ?」


 手すりからぐっと身を乗り出し、改めて臣は会場の全貌と如何いかがわしい連中とを観察した。ハーディとグリフィンも同じように隣に並び、下のフロアへ目を凝らす。幸い、彼らが少々顔を出したところで、階下よりも薄暗いこの場所での行動をホールの人間に悟られる心配はなかった。


「どうやら彼ら、ビューロウ男爵と知り合いですよ。でもなぜかそれを隠している。いいですか、彼らの視線の動きをよく見ていてください」

「……?」

「んー?」


 無言で集中すること、しばし。


 すると…。


「――ほら!まただ。ね…?ああやって彼ら、視線だけで男爵と合図らしきものを交わしているんです。さっきからずっとあの調子なんですよ。それなのに特に男爵と挨拶を交わすでもなく、むしろ見ず知らずを装うようなあの様子は妙でしょう?まるで目配せを使って会場の情報をり合わせているみたいだな…」


「……」

 三人はじっと会場の不審者を見つめた。言われてみれば、確かに臣の言うような不審な素振りがどことなく窺える。


「それにあのビューロウ男爵とかって男…」


 また臣の眼光がぎらりと鋭さを増した。

 もういつものぼんやりとした真顔なんかじゃない。相手を射抜いてしまいそうなほど研ぎ澄まされた冷眼れいがん。そして、張り詰めるような沈着ぶり。


 本人に気付かれぬようこっそりと、グリフィンはその横顔を覗き見ていた。


 無論、そこにあるのはいつもと同じ――いや、いつも以上に凛とさかしく、いち早く取ったこ危機にさえわずかな動揺も浮かばせぬ端正な顔。兵士と呼ぶにはあまりに繊細。あまりに孱弱せんじゃくなそのいでたち。


 だが、そこに潜んでいるのは、果たして天使か。

 それとも悪魔か――?


「あの男、左脇にホルスターを吊ってる」


 臣は声音を落として言った。


「な…何!?」

「おまえ、何でそんなこと…!!」


 二人は目を剥いたが、男爵を睨む臣の瞳の色は変わらない。


「上着の左脇の辺りが不自然に膨らんでいるし、若干肩も上がっているでしょう?同盟の門出を祝うめでたい夜会やかいに、なぜ銃なんか持ち込む必要があるんです?」


「た、大佐に知らせてくるっ」

 ハーディは血相を変えて、踵を返した。


 不意に――。


「なあ…臣。俺、ちょっと思い出したことがあんだけどさ…」


 眉を結んだグリフィンが、階下へ顔を向けたまま口を開いた。


「前にどっかで聞いたんだけど、なんでもヴィングブルク側にこの独立同盟のことを快く思ってない一派があるんだってよ」

「……」

「何とかいう啓蒙けいもう家が組織した市民の集まりらしいんだけど、ちょっと思想が過激だってんでヴィングブルク政府からも相当に弾圧を受けてるって話さ」


 ホールを見つめる眼差しは、尚も一層の鋭気えいきを孕み、執拗しつように不穏の主を追っている。ともすれば気付かれてしまいそうなほど強い気を放つ眼差しが、じっとホールを凝視している。


 この顔…。


 きっとまた何事かひらめいたに違いない。ひっそりとした佇まいとは裏腹に、その全身から放たれる肌を切り裂くほどの迫力に、グリフィンは改めて息を呑んだ。もはや目の前のある姿は、グリフィンの知っていた彼ではなかった。


「だが、グリフィン。ビューロウ男爵はこの国の人間なんだろう?さっきの伍長の話じゃ、大公の親戚だそうじゃないか」

「う…うん…。そう…だよな」

「ということは、彼はゼノビアを見限ったのかな」

「え…?」


 グリフィンは目を丸くした。


「親戚と呼ぶにはあまりに爵位が低い。何事かわけがあって相応の爵記しゃっきを与えられていないのだとしたら、これは結構な不満だぞ。おまえの言う一派と手を結ぶ理由に十分なり得る」


 彼は二十歳そこそこの、自分よりもずっと若い青年のはずだ――。


 グリフィンは、数日前のロセッティの言葉を思い出していた。


――あいつは物心がついた頃からずっと独りで戦場を渡り、その最前線に立って人を斬ることでここまで生き長らえてきたんだよ。人を殺すことそのものが、あいつにとっては生きるかてだった。それこそ、こんなちっちゃな頃からな…。


 およそ子どもらしい幼少期を過ごしてきたわけではないだろう。戦場で当たり前に命のやり取りをする幼い日々。たった一人で乱世を生き抜くということ。頼ることも甘えることも知らずに育った彼――。


 一人きりの人生は、こうも鋭く冷艶れいえんな命を育んでしまうものなのか。この緻密さはむしろ脅威だ。この聡悟そうごさは、時に味方のはずの自分すらもぞっとさせる。


「なあ、おまえさ…」


 そう言いかけて、グリフィンは僅かにためらうような仕草を見せた。


「あの…う、ちょっと…さ…。何ていうかおまえ…時々ちょっと怖いぐらいに賢いよな…」

「はあ?何だそりゃ?褒めてるつもりか??」


 途端に返ってきたのは年相応のしかめっ面である。おかしなことにそんな仕草の方はやけに幼い。


 グリフィンは苦く笑った。


(こういうちぐはぐなところが変なんだよな…こいつ)


 やがて、ハーディを従えたベルモントが廊下の奥から足早に近付いて来た。


「ハーディ伍長から話は聞いた。早速詳しく話せ、臣」

「はい、大佐」


 さっと敬礼し、臣は階下の不審者の情報と自分の考えとを簡潔に語った。隣に並んだグリフィンとハーディも姿勢を正す。


「確かに――。招待状をお持ちだからと言ってご本人とは限らん。写真が付いているわけではないからな。あの親子連れの素性については、急ぎ確認を取らせよう」

「はい」

「しかし…場が場なだけに物々しいことは避けねばならん。それに爵位をお持ちの方々に失礼な真似もできんしな…。とりあえず男爵については、イングラムを付けた。あの方が何か少しでも怪しい動きをすれば、即座に彼が動く手筈だ」


 三人は頷いた。


「よくやった。これまでのおまえたちの働きに感謝する」


 ほっと綻ぶ三人にベルモントは、尚も厳しい調子で言葉を続けた。


「だが、おまえたちはこのまま与えられた任務をまっとうしろ。後はこちらで処理をする」

「「「はっ!」」」


 一斉に踵を合わせ敬礼すると、同じく敬礼を返し、ベルモントは足早に階下へと降りていった。


「はあ…すげえ…。俺たち、あのベルモント大佐に褒められちまった!滅多に頭下げねえあの大佐にだぜ?」

「ははっ!帰って自慢だな、こりゃあ!」

 生まれて初めて賜ったお偉方からの『お褒めの言葉』に、素直に嬉々とするハーディとグリフィンなのであった。


 それでも――。


「……」

 そんな二人をよそに、臣は釈然としなかった。


 何かもう一つ…。

 まだ何かを見落としている――そんな気がしてならない。


 銃を懐に忍ばせたビューロウ男爵。彼が何事かからぬ企みをしていることは疑いようもない。その仲間らしい四人連れも然り。


 だが――。


「どうした?まだ何かあるのか?」


 上機嫌のハーディが浮かぬ顔の臣を覗き込んだ。


「彼ら…一体何をする気だろうか?ここへ武器を持って乗り込んだ目的は何だ?」


 間を割ったグリフィンが、二人の肩に腕を回す。不穏はまだ何一つ拭われてはいないのに、すっかり御満悦である。


「まあまあ、もういいじゃん。あとは大佐たちが処理するって言うんだから。ね?ね??」


 しかし臣の表情は変わらない。

 怪訝そうに眉根を寄せ、臣はまた手すりに頬杖を付いた。その視線は尚も階下の男爵へと注がれている。


 男爵から少し離れた柱の陰では、ノイズマンがイングラムに何やら耳打ちをしている。恐らくはベルモントの指示だろう。


「例えば――。そう、この同盟をふいにするにはどうすればいい?」


「うーん。そうだなあ…」

 ようやく少し落ち着きを取り戻したグリフィンは、臣の横で同じように頬杖を付いた。


「ヴィングブルクのジークフリート王をる。はたまた公爵家の人間を殺る。誰か人質に取って、こちらの要求を呑ませるって手もあるか」

「へっ。なかなか物騒なことを言うじゃねえか。似合わねーぜ、グリフィン」


 同じく並んだハーディが意地悪く笑うと、途端にグリフィンはむっと眉を寄せた。


「だがよ、残念ながら今夜はジークフリートは来ねえ。代わりに野郎の腰ぎんちゃくで第一大蔵卿のオルドリッジ伯ハンニバル=モロウが来るって話だ。さっきの打ち合わせで少佐がそう言ってただろう?」

「…となると、やっぱり狙いは姫君かな。何てったって、今日の主役は彼女だし」


 ぼんやりと階下を眺めながらグリフィンは呟いた。


「どういうことだ?」

「ああ、そっか…おまえ、まだ知らないんだな。可愛そうに、もうじきゼノビアの美しき姫君は、かのジークフリートへの貢物として差し出されちまうのさ。独立同盟を結ぶ条件の一つが、姫を嫁によこせってことだったんだと」

「早い話、独立のための生贄いけにえだ。親子ほど年が違うってのによ。俺、ファンだったのになあ…」


 間に無理矢理割り込んでそう言うと、ハーディはやけに大げさにしょげて見せた。


「そう言えばおまえ、見たこともないんじゃないか?最初のお目通りのとき、ハーディと一緒に牢にいたろ?」

「ああ」

「すっげえ可愛いんだぜ、マジで。大公なんか似ても似つかねえ。トンビが鷹を産みまくってる!」


「へえ…」

 返ってきたのはまるで感情のない生返事。


 がっくりと手すりへ崩れ落ちながら、ハーディは憮然としていた。


「なんかこいつ、まるっきり興味なさそうだな」

「正直な奴…」


 と、急に何を思い出したか、ハーディは慌てて体を起こした。


「あ!そうだ、忘れてた!!ノイズマン少佐がな、大公殿下らがお成りになったら、おまえだけ下へ降りて来いとさ」

「私だけ?なぜ…??」


 臣は目を丸くした。


「姫様に紹介したいんだと」

「はあ?」

「うっわあ、いいなあー!すぐ近くであの姫様が見れるなんてさあ!」


 なぜか関係のないグリフィンが歓声を上げている。


「この非常時に何をまた悠長なことを…」


 臣は存分に呆れたようだった。


「まあ、そう言うなよ。確かに伝えたからな。行けよ、絶対」

「はあ…」

「姫様だって忙しい身なんだからさ、すぐ済むって!」


 グリフィンが妙にはしゃいでいる。それでも気など進まない。

 平和な国というのは、どうも調子が外れていてやりにくい。これが平和ボケというやつか――。


「そうか。そのお姫様を消せば同盟は白紙…。なるほど、それで飛び道具か」


 不意に臣は眉を解いた。


「あ?」

「???」

 いかにも「はてな」という顔をぶら下げ、二人が首を傾げている。


「あのでかい階段――。俺だったら、人ごみの真ん中から堂々と階段の上の姫を狙うね。同盟を受け入れる条件が姫君の身柄なんだろう?つまりは彼女さえ消せば確実に同盟なんか破棄ってことさ。しかもそれを大公のご親戚でもあるビューロウ男爵にさせようとは、こいつはなかなか憎い話だ。これならばその責任の全てをゼノビア側になすることも可能というわけか。なるほどねえ…。考えたな、敵も」


「「な…!!」」


 含みを見せて笑う臣に、二人は息を呑んだ。


「姫君の暗殺なんか、会場の注意をよそに逸らせておいて、その隙を突けば簡単な話だ。そう…まず狙うは公爵家の入場時。客の注目が一か所に集中するその瞬間だ。だが恐らく、このタイミングでは現状の警備を完全に撒くことはできない。いかにも今から狙うと言わんばかりだからな。そこですかさずもうひと騒ぎ起こすんだ。そうすれば今度こそ確実に会場の気はそちらへと動く。警備の注意も反射的に釣られるはずだ。確実に殺る気ならその瞬間かな…」


「……」

 二人はあんぐりと口を開けたまま聞き入るしかなかった。こんなことは、平々凡々と生きてきた自分たちにはまるで及ばぬ考えだ。


「ホルスターに収まる口径の銃で、階上の姫を狙う…か…。そうなると、確実性を考えた場合、彼のあの位置ではやはりちょっと厳しいだろうな。障害物も多いし…。ひと騒ぎ起きたら、さりげなく中央まで進んで…抜き様に――こう、上に構えるか…。いや、それだと多分あの花瓶が邪魔になるな…。となると、もう少し右寄りに回廊の真下まで進み、柱越しから――」


 一人でぶつぶつ言いながら、臣は自分の推理を組み立て始めている。そうやって、衝撃的な言葉を簡単に発する彼の口調は、どういうわけかやけに楽しそうに思えるのである。目の前で呆気にとられる二人など、眼中にすらないようだ。


 今、目の前で涼しく笑う優男やさおとこは、恐らくはこの後確実にここで起きるであろう何かを、実に巧妙に、そして実に老獪ろうかいにシミュレーションして見せるのである。


 しかも、戦慄のその内容は、公爵家の姫君暗殺――。


「何にせよ、姫様を狙うのは簡単だろうが、今現在じっとそばに張り付いているイングラム大佐はさぞかし邪魔だろうな。さて、ビューロウ男爵。ここはどう出る…?」


 独り言のように呟いて、瞳を細める。


 グリフィンの背筋を冷たいものが伝った。


「グリフィン、公爵家の入場は何時だ?」

「あ…。え…えと、あと一〇分ぐらい…か…な」

「一〇分か…。この短時間であいつらを止められるかな…?ゼノビアの誇る近衛師団のお手並み拝見だ」


 ホールではノイズマンが室内を慌しく動き回り、警備を固める面々に何事かの指示を出している。だが、目立ちすぎだ。これでは例の不審者に余計な疑念を抱かせる結果にもなりかねない。


 その光景を静観しながら、臣はうっすらと目笑もくしょうを浮かべていた。案の定、例の連中の間では、またあの目配せが始まっている。ここからは、敵も味方もその全てがまる見えだ。


「おやおや…早速やっちゃったな、少佐。手の内が見え見えだ」


 ひどく冷めた声が呟く。


「お…おまえってさ、やっぱ、何か…怖いよ…」


 ――が、そう漏らすグリフィンにも、臣は小さく肩を竦めて応えるのみだ。


「なあ、どっかに弓はないかな?この距離なら男爵の手元ぐらい狙える気がするんだけど」

「あ…あるわけねーだろ、そんなもん!!舞踏会で弓矢なんか飛ばす馬鹿があるか!?踊ってる客に当たったらどうすんだ!」


 動揺を悟られぬよう声を張り、ハーディは臣の脇腹を肘で小突いた。


「そっか。そうだよな…。お?そろそろ敵も配備に就いたみたいだぞ。見てみろ、マグナス中尉、ラダフォード少佐、ヴェガ少尉、それぞれに例の親子がしっかりマークに付いている。だが…」


 再び臣の表情が翳った。


「何だ?」

「今思えばこれも妙な話だな…。敵の人数があまりに少なくはないか?」


「「……」」


 促されるまま、ハーディとグリフィンも再び下のホールを覗き込んだ。いくら眺めてみても不審者らしい者は例の五人しか見当たらない。やはり実行犯はこの五名に間違いなさそうだ――。


 臣はくまなく階下を見渡しながら言葉を続けた。


「こちらがホール内の人員を削ったのはつい一昨日のことだ。それまではもっとずっと大勢の兵士がここに配備される予定だった。ごく当たり前にな。しかも、そこに配されるのはエリート兵である近衛師団の連中ばかり。そんな中に、たった五人で乗り込んだとして、果たして彼らの目的は達成されたのだろうか…?」


 招待状の提示が求められるこの場に、乱賊らんぞくが忍び込むことは、そう容易ではなかったはずだ。人数を要すれば要するほど、準備せねばならない招待状の数が増える。となれば、大公直筆という特殊な性質のそれを入手、あるいは偽造するためには、多少の無茶を覚悟せねばならない。また、仮に招待状を大量に持っていたからと言って、見慣れぬ輩がこぞって城へやって来たというのでは、やはり城へ潜入することは叶わなかっただろう。つまるところ、一昨日のホール警備人員の削減は、敵の出方をその寸前で大きく変えさせたはずなのである。


 更に解せぬことには、彼らがこの作戦に要した人数は、不自然なまでの正確さをもってぐっと絞られている。


 この正確な必要人数を彼らはどうやって割り出したのだろう?

 ここまでピタリと実行犯の人数を絞らせたものは一体…?


 そうだ。これら全ての疑問を満たす答えは一つしか考えられない――!


「やられたな。この情報、敵に漏れている!城内の警備に内偵者がいるんだ!!」


 日頃暢気なグリフィンも、この言葉には一抹の焦りを覚えた。


「え!?おまえ、何言って――」

「考えろ、グリフィン!あの日、警備が変更にならなければ、この人数で彼らの目的は達成されるはずがなかった。つまり、彼らの作戦もこちらの警備体制が変わったときに変更されたのさ。一昨日の人員削減をこの数日のうちに敵に知らせた人間が、あの説明会の参加者の中にいたってことだ!ビューロウの仲間はまだ存在している。今日のこの警備の中に!!」


 ハーディとグリフィンはいっぺんに凍りついた。


 普通ならば、とても信じられた話ではない。今日の警備に当たっている兵の中に不審者を手引きした人間がいるなどということ――!


 この日の警備は、各部署から選りすぐられた者ばかりが集められているはずだ。となると、それはつまり、この日のために敵はずっと前から軍内部に間者を忍ばせ、着々と計画を練っていた可能性があるということ。


 そしてもう一つ。


 恐らく、その人物は兵士の中でもある程度は上層に通じている人物。でなければ、辻褄つじつまが合わない。これらの情報を確実に得るためには、自分がこの日の警備配置に携わる必要があった。言い換えれば、警備の選考そのものに間者自身がある程度関わらなければ、この日の計画そのものが成り立たなかったかもしれないのである。


「は…早くベルモント大佐に…!」

 話半ばで駆け出そうとするハーディを臣は素早く掴まえた。


「駄目だ!今から大佐に伝えて動いたんじゃ間に合わん!それに現時点では大佐が奴らの仲間でないとも言い切れん!!

 グリフィン、おまえ、今すぐ庭へ走れ!表の衛兵に仲間を互いに見張るよう伝えろ!怪しい動きをする奴、会場から不自然に離れようとする奴がいれば全部捕まえさせろ!!それから、ハーディ!あんたは裏の警備のもとへ行け!!海辺の警備を加えたのはついさっきのことだ。この情報だけは、恐らくまだ実行犯には伝わってはいない。つまり、彼らはこの海岸から逃走する可能性が高い!!」


「「了解!」」

 慌てて踵を返し、二人は指示どおりの場所へ散る。


 ふとハーディが振り向いた。


「ウサギ、おまえは!?」

「俺はここで犯行を食い止める。こうならぬよう配備した警備だったはずだが、まるっきり無駄になったな」


 ホール裏へ降りる細い階段でグリフィンは立ち止まった。ちょうど正面にある大きな柱時計が、その刻限がもう間もなくであることを告げているのである。


 グリフィンは大声で叫んだ。


「おい…!公爵家のお成りまであと五分を切ったぞ!!」

「時間がない!急げ、二人とも!!」

「「おう!!」」


 ハーディとグリフィンが散った後、臣は再び回廊から階下を睨んだ。そろそろ演奏曲がひと区切りつきそうだ。公爵家の入場も近い。


「ったく…。誰がウサギだ」

 誰にともなくぼやき、周囲へ目を凝らす。もう猶予は幾ばくもない。


 臣は眉を結んだ。


 眼下では、男爵らもようやく行動を開始したようだ。その足取りはゆっくりと――だが確実に、臣の予測したコースを辿り、中央の階段を目指している。


 しかし、時折、こつこつと杖で床を叩きながら進む男爵の仕草が引っかかる。


 あの妙な動きは何だろう?

 もしやあの杖…普通の杖ではないのか?


 楽団が新しい曲の演奏を始めた。輪舞曲でも舞踏曲でもないそれは、恐らく公爵家の入場を知らせる曲――。


 廊下奥へ目を走らせると、果たして公爵と公妃、そしてベルモントにエスコートされた姫君らしき若い女性の姿が見える。音楽によって告げられた主役登場の予兆に、会場の注目は一斉に階段へと注がれた。


 再び階下へ視線を落とせば、人ごみに紛れた男爵の右手は既に懐の中だ。


 時が迫る。刻一刻とその刹那が近付いてくる。


 どうする?

 どう出ればいい!?


(イングラム大佐は…。会場の警備はどうなって――)


 まさにその瞬間。


 ドオン!!


 地響きとともに、大きな爆発音が上がった。震源はどうやらホールの外らしい。窓の外を右往左往する大勢の兵士の姿が見える。もうもうと上がる黒い煙。その位置から察するに、火事場は城の厨房付近だろう。


 不意に響いた女性の悲鳴を皮切りに、ホールは瞬く間に騒然となった。幾重にも重なった喧騒が更なる不安と混乱を誘い、ホールの出入り口付近へ人々を殺到させている。


 だが、それもここから見れば全てが一目瞭然だ。悲鳴を最初に上げたのも、混乱を煽る言葉を放ったのも、あの四人――ビューロウ男爵と何度も目配せを交わしていたあの親子連れだ!!


「くそっ!奴らの本当の狙いは、これか!!小賢しい…っ!!」

 忌々しげに吐き捨てて、臣は中央の大階段へと走った。


 ざわめく会場のそこかしこでは肝心の警備が人ごみに揉まれ、まったく身動きできずにいる。


 そう。このどさくさに乗じて警備の機能を失わせることこそが、あの四名の家族連れの役目だったのだ。


 そして、すなわちそれは、今現在男爵本人がノーマークであることを意味する。実際、あのイングラムでさえ思うように目標に近付けずにいたのだから。


「ちいっ!!これではらちが明かん!」


 イングラムは忌々しげ舌を打った。


「ベルモント大佐!もっと後ろに下がって!その位置では狙い撃ちされるぞ!!」

 叫びながら臣は二階の階段の真上に立ち、同時に腰の双剣に手を掛けた。


「あ――!」

 姫は一瞬小さく声を上げた。だが、その声は階下のどよめきにたちまち掻き消されてしまう。


 今、彼女の前に飛び出してきたのは、聞き覚えのある声と見覚えのある青年の後姿であった――。


 駆け寄ったベルモントが、自らの背に大公らを庇う。すると、たちまち青年の姿は見えなくなってしまった。


 刹那。


「!?」

 一体どうしたことか、ふっと会場の灯りが消えたのである。


 突然の爆発に、思いがけない暗転。

 新たな不安にまた騒ぎ始めた人々。


 しかしその時、ホールの真上でわずかにひらめいた二つの白い影をしかとその目に収めた者が、果たしてここにどれだけあっただろう――?


(な…何だ?何なんだ…っ、今のは!?)


 ベルモントはごくりと喉を鳴らした。今しがた彼が目撃したそれは、直接目の当たりにしたところで、とても信じられるものではなかった…!!


 爆発が起きたまさに次の瞬間、ベルモントの瞳は階上から発せられた二筋の不可解な光を捉えていた。それは、まるで光の尾を引きながらくうを舞う白銀のツバメ!!


 そう、たった今。


 かの青年の払った細い剣先から小さな光のツバメが左右へと飛び立ち、大きな弧を描いたかと思うと、会場の中央に灯されていたシャンデリアの灯を瞬時に…そしてことごとく薙ぎ消してしまったのである。


 そうして唐突に訪れた闇の中で、ごく薄い月明かりに冴えた刃がきらめいて、二本の剣はまるで何事もなかったかのように静かにまた鞘へと収められてしまった。


(今の剣技は…!?臣とやら…あいつ、一体何者だ!?)


 差し込む月光の淡さにしっとりと照らされたホールは、ぼんやりと蒼く霞み、隣の人間の顔もよくは見えない。


 やがて――。


 ゆっくりと訪れた雲が月を覆う…。ついに唯一の灯りを失った城内は、深い闇に包まれてしまった。


 だが、そんな文字どおりの漆黒の中で、今響いた音は何だろう?

 同時に、ホールでキラリと弾けた火花のようなものは一体何だ??


 キィンと耳を裂くような甲高い金属音がまた辺りに散る――と同時に、再び火花のようなものが階下でぜたように見えた。


 そうして、ゆっくりと雲が引いてゆくにつれ、また月が純白の面持ちを覗かせる。


 果たしてそこに照らされたものは…!?


「な…何!?いつの間に!!」


 イングラムは戦慄した。


 目の前に佇むは異国から来た栗色の髪の剣士。ほんの先ほどまで二階にいたはずのあの男だったのである。


 月華に照らされたその姿は不思議に怪しく、眉ひとつ動かすことなくじっと敵を見据える眼差しは、まさに勁鋭けいえいそのもの。


 階下のイングラムもまたこの時の彼をしかとその目に収めていた。


(こ…これが神速の…!?)


 立ち尽くすイングラムの足元には、既にビューロウ男爵が仰向けに横たえられていた。


 視界が不意に闇に閉ざされたことにより生じた僅かな動揺。その隙をまんまと突かれ、あの瞬間、ビューロウ男爵は音もなく近付いてきた何者かに思い切り突き飛ばされのだ。天井を仰ぐ形で床に転がったその刹那、男爵は左に握った仕込み杖を手首ごとぐっと踏まれ、身動きが取れなくなってしまった。


 今、真上から冷ややかに彼を見下ろしているのはうら若い一人の兵士。彼が右に掲げたやや小振りな剣には、男爵が今宵のために忍ばせていた短銃たんじゅうのトリガー・ガードが引っ掛けられている。倒れ込んだ拍子に男爵の手から弾かれてしまったものだ。


「こんな物騒なものをこの場に持ち込まれては困りますね、エルンスト=ビューロウ男爵」

 臣は瞳を細め、薄く笑った。


「く…っ!」


 口惜しげな男爵に更なる冷眼を浴びせ、つま先へぐっと体重を掛けてやると、無様に床に貼り付いたビューロウは苦痛に激しく顔を歪めた。たかが末端の一兵による屈辱的な扱いに、ぶるぶるとその身を打ち震わせながら…。


「何を企んでおられるのか存じませんが、ここで貴殿が待ち合わせておられたお友達の名など、できればお聞かせ願いたいな…。もちろん別室でね」


 ようやく例の四人組を取り押さえたラダフォード少佐らが他の近衛と共に駆けつけたのを認めると、臣は男爵の手を取ってその場にしっかりと立たせ、素早く武器を取り上げた。


 その時だった。


「おっと…!そこな兄さん、ちょっと待った。どうやらあんたにも話を訊かなきゃならんようだ」


 擦れ違い様に、どういうわけか臣は一人の近衛兵の腕を掴んだのである…!!


「な…?一体何の真似だ、貴様!」


 呼び止められた近衛兵は途端にびくりと苦り切ったが、その瞬間に見せた遽然きょぜんとした面持ちを見れば、どうやら見当はずれではなさそうである。


 時を同じくしてグリフィンとハーディ、そしてノイズマンが到着。


「うわ…」

「何かすげえことになってんな…」


 群がる人を掻き分けつつ近寄れば、捕り物の方はすっかり終わっており、騒動の中心では何とも緊迫した場面が繰り広げられている。そこに臣の姿を見つけた三人は、あたふたと駆け寄った。


「――バース!ヒューイ=バース少尉!!一体これはどういうことだッ!?貴様、何を!!」

 わなわなと拳を震わせ、イングラムはバースの鼻先へと詰め寄った。


 近衛兵とは、この国で軍役に就く数多の人間の中でも精鋭中の精鋭、そしてもちろん彼が厚い信頼を寄せる部下の一人ということを意味する。まさか、そんな人物が密かに敵の手引きをしていたと!?


「ま…待ってください、大佐…!!話を…」


 バースは必死に弁明するが――。


 臣は鼻先で笑った。


「へえ…バース少尉殿と仰るのか。誉れ高き近衛師団に身を置き、大層な尉官までお持ちだというのに、よもや謀反に手を染めるなど…まったく見下げ果てる!この代償、随分とお高くつきますよ!」

「き…貴様、先ほどから証拠もなしにいい加減なことを…!」


 かっと臣の胸倉へと手を伸ばしたバースだったが、それよりも先に抜かれた剣が、逆にぴたりとバースの喉へ突きつけられてしまった。


「う…」


 堪らず動きを止めたバースを挑発するように、臣はその切っ先を彼の喉元から顎の裏側へとゆっくり翻していった。その刃に誘導されるまま向きを変えたバースの顔がぎくりと凍る。そこには、怒りに打ち震えるイングラムがいたのである。


「やれやれ…お気付きでないのならお教えしよう。あなた、僅かに火薬の匂いがしますよ。服にすっかり染み付いておいでのようだが?」

「な…何!!」

「少尉、このホールへ来る前はどちらにいらっしゃったんです?ひょっとして厨房――かな?」


「ま、まさか…そんなはずは…」

 口では否定しながら、バースは明らかにうろたえている。見る見るうちに顔色が青ざめてゆく。


 ようやく臣は、突きつけていた剣を鞘へと収めた。


「事が起きてから現場へ駆けつけたのであれば、それほど近くへは寄れぬはず。それはもちろん、あの場へ行かれたのなら、立ち上った煙が僅かに衣服に移ることもあるでしょうがね…。だが、これほどはっきりと火薬そのものの匂いをさせているようでは、もはや言い逃れなど出来ますまい。あなた、この騒ぎが起きる前にその腕に爆薬を抱えていたんでしょう?そして密かに厨房へ行き、それを仕掛けた。違いますか?まるで何の関わりもないようにここで取り澄ましておられるが、あの爆発、実行犯はあなただ!!」



 疑念が確信へと変わった瞬間、イングラムは一層声を荒げ、バースの胸倉を力ずくでじ上げた。


「貴ッ様あああッ!!答えろ、バース!!今までどこに居た!?おまえ、一体どこに…!!」


「……」

 もはやバースは答えない。その代わり、恐怖に見開かれたその瞳と唇がわなわなと震え出す。その顔は口ほどにものを語っていた。


「恥を知れ!バース少尉ッ!!」

「大佐…も…申し訳――」


 ついに観念したバースを前に、イングラムは愕然としていた。


 信頼していた部下がこのようなこと…。

 自分が団長を勤める近衛師団に不貞のやからが潜んでいたなどということ!!


「何ということだ…!!わが国の誇る近衛師団がこんな…っ!!」


 堪らずバースを突き放し、イングラムは声を詰まらせた。


 信頼で結ばれていたはずの同胞の裏切りは、底知れぬ痛みを呼ぶ。

 だが、いくら優秀な兵といえど中身は誰も同じ人間。時に金や名声の誘惑に欲の目がくらむこともあるだろう。これまで順風満帆に歩いてきた道をふと踏み外してしまう瞬間だって、人生のうちにはいくらもあるのだ――。


 様々な戦場で、各地の軍で、そんなことは数え切れないほど目にした。言い尽くせないほどの経験もしていた。だが、そうは言っても認めることも許すこともできない。決して慣れてしまうようなことでもない。


 居たたまれず目を反らし、臣はふと階上を見上げた。そこには、今夜の主役であるはずの姫君が未だ呆然と佇んでいる。そんな彼女と目が合ったその時――。


「!!」


 時が止まった。

 我が目を疑った。


 髪の色や服装こそ違っているが、月明かりに浮かぶあのグリーンの瞳には確かに見覚えがある。あの透き通るような白い肌も、あの高貴で美しい顔立ちも――。


(そんな…まさか…)


 軽い眩暈めまいを覚えた。


 信じたくはなかった。そう、できることなら――。


 だが、見間違えるはずもない。


 彼女は…。


 彼女は――!!


 何かを言いたげに見つめ返してくるその眼差しに堪えられない。揺蕩たゆとう胸が騒ぎ出す。情けないほど心が震える。


 こんなことは有り得ない!

 だがそうなら、あそこにいるあの女性ひとは誰だというんだ!?


(なぜ…。なぜだ、クラウディア…。なぜあなたがそこにいる――!?)


 互い目が離せぬまま、暫し二人は立ち尽くした。


 足が凍りついてしまっていた。

 身動きもできなかった。


 いくら神といえど、こんな悪戯はあんまりだ。これほどこの胸を掻き乱しておいて、こんな仕打ちはあんまりじゃないか――!!


 ぎゅっと唇を噛み締めると、やがて臣は階上の姫君へと静かに頭を垂れたのだった。

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 その後の舞踏会は滞りなく進行された。


 幸い厨房の爆発も規模の大きなものではなかったし、場所が場所なだけに火の気については言い訳もできる。ホールの騒ぎについては闇の中の出来事だったため、それがビューロウ男爵その人だったとは客に知れることもなく、乱心の輩による狼藉ということで、対外的にはある程度穏便に片を付けることができた。


 軍内部の内定者はバースを始め、実は庭の衛兵の中にも二名ほどいたようだ。だが、幸い彼らはグリフィンの指示が的確だったお陰で、難なく他の衛兵に捕らえられた。更にハーディの指示で南の岸壁の捜索が行われた結果、岩場に隠された逃走用ボートも見事発見され、一応ながら事は全て収まったのである。


 舞踏会が終わり、ひと段落着いたところで臣は姫の部屋へと呼ばれた。ノイズマン少佐も一緒である。


「――姫様、こちらの彼が先日お話した新人です。此度の一件を収めたのも彼の功績によるところが大きく…」


 いろいろとあったせいだろう、やややつれた表情のノイズマンは語り続けた。

 今回の警備を任されていただけに、彼の心労は相当なものだったはずだ。だが、それも何とかこれで落着した。役目を果たした安堵と純粋な疲労とを取り繕いながら、ノイズマンは手短に臣の紹介を始めている。


 しかし、後ろに控えさせられた臣本人の心中はさすがに穏やかとは言えなかった。まるで動揺が隠せない。彼女とまともに目が合わせられない。今はすぐ目の前のノイズマンの言葉ですら、まったく耳に届かない…。


 静かに膝を付き、臣はうやうやしく頭を下げた。


「お初に…お目に掛かります、姫様。国境の外人部隊第四連隊所属…名を臣と申します…」


 気を抜けば震えそうな声が、我ながら情けなかった。


「あの…わたくしは…クラウディアと申します。どうぞよしなに…」


 頭上からの澄んだ声にも、もちろん聞き覚えがある。初めて出逢ったあの日と同じその台詞は、確かに彼女のものに相違なかったが、その声色はあの日のものよりもずっとささやかで、微かに震えているようだった。

 もはや疑いようがない。


 まったく馬鹿な話だ――。


 忍びで街を散歩していた姫君に、そうとは知らず恋心を抱いてしまうだなんて。


 いや、まさか…。

 そんなことがあって良いはずはない。

 身の程知らずにも程がある。


 それは確かに、平民の出だなどとは思ってはいなかった。きっとどこかの貴族の娘が、親の目を盗むために変装などして出てきたのだろうと…。そんなことだろうと、すっかり高をくくっていた。

 だが、今思えば、彼女と共に過ごす中で何度となく感じた違和感は、そんな単純なものではなかったのだ。そうだ、もっと早く彼女の正体に気付くべきだったのに――!!


 クラウディアはおずおずと口を開いた。


「あの…先日の目通りの日に…牢へお入りになっていたとか耳にしたのですけど――」

「あ…。はい…大変申し訳ありませんでした。実はその翌日まで牢に…」


 目通りの日の翌日と言えば金曜。彼が約束の時間に大遅刻をしたあの日だ。まさか、同僚と喧嘩になって牢に入っていたなどとは言えなかったのだろう。

 ふと、申し訳なさそうに何度も謝っていたあの日の彼の姿が浮かんだ。約束を忘れていたわけではないと、必死になって謝る彼の姿が――。


(そうだったの…。それであの日――)


 クラウディアはうっすらと微笑んだが、それはいつもの輝くような笑顔ではなく、どこか悲しげな、どこか寂しげな――そんな笑顔。彼女らしからぬ、まるで泣いているかような微笑み…。


「辺境の連中はどうも手荒で…。まあ、彼にしてみれば連中の喧嘩に巻き込まれたようなものです。ですがこれも規則ですのでね」


 そんな二人の心も知らず、気さくに笑うノイズマンである。


「そう…。そうだったのね…」

 まるで独り言をささやくようにクラウディアは呟いた。だが、うっかり臣と目が合うと、今度はクラウディアの方が瞳を伏せてしまった。


 臣は静かに口を開いた。


「時に姫様は…既にご婚約が内定しておられるそうですね」


「!!」

 どきりと胸が大きな音を立てた。一番知られたくなかった相手に知られた事実に、クラウディアは震えた。


 息が止まるかと思った――。


「おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます」


「あ…」

 クラウディアはぎゅっと胸を押さえた。そうしていなければ涙がこぼれてしまいそうだった。


「国の将来を担う大層立派なお役目を果たされると伺いました」

「……」

「ご多幸をお祈り致します」


 本当のことを言ってしまいたい。本当はそんなことはこれっぽっちも望んでいないということ。そしてできることなら、今この胸にある本当の気持ちを全部…。

 どうすることもできず、クラウディアは胸元の手を強く握り締めた。


「臣様…あの、わたくしは…」


 しかし、そう言いかけたクラウディアをわざと遮り、臣は更に言葉を続けた。


「まだ…ご結婚までには間があります。時にお心が揺れることがあるかもしれません。ですが、どうかお気をしっかり…。一時の衝動に惑わされることなく…尊きその道を最後まで強く…まっとうくださいますよう…。姫様の愛するこの国のため、姫様を慕う大勢の国民のためにも…どうか――」


 そうして臣は深々と頭を下げた。


 それは、本当なら心にもない台詞――。どういうわけか、こんなときに限ってそれが口をついて勝手に出てくる。


(大丈夫、これでいい…)


 そう胸の奥底で何度も自分に言い聞かせていながら、感情に逆らう臣の言葉は、時折みっともなく詰まってしまう。喉の奥から無理に絞り出した声は、痛々しいほどに掠れてしまっていた。


 彼の言わんとするところは、きっとまだ本人たちにしか分からない。


 そう…これまでの二人の関係をここで解消すべきだと彼は言っているのだ。それはまだ始まったばかりの、ほんのりと淡い特別な絆。そうであるからこそ、今のうちに――。


「……」


 もう返事をすることもできなかった。これ以上はとても耐えられない。どれほど目を開けて堪えても涙がこぼれそうになる。

 ついにクラウディアは俯いてしまった。


 隣に控えていた侍女が誰よりも早く彼女の異変に気付き、さりげなく二人の前に立った。


「――姫様はどうやらお疲れのご様子。どうかみなさま、今夜のところはここでお引取りを」

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 ノイズマンらが部屋を下がると、途端にせき を切ったように涙があふれる。堪らずクラウディアは顔を覆った。


「よく…我慢されましたね、姫様」

 侍女はしゃくりあげる肩を抱き、奥のソファへ座らせてやった。


「ルクレツィア…。わたくし…わたくし、ほんとは…」


 既に涙でぼろぼろになってしまった顔を上げると、心配そうにこちらを覗き込むルクレツィアがいる。ルクレツィアは柔らかに微笑んだ。


「はい…ルクレツィアには分かります。ラガーフェルド伯爵様のお屋敷へ通いながら、本当はあの方に会っておいでだったのですね」


 クラウディアは小さく頷いた。


「伯父様は…わたくしの本当の気持ちを察して、自由にしても構わないと言ってくださったの。かの国へ嫁いでしまえば、もう自由に振る舞うことも叶わないだろうからって…。伯父様にピアノを習う振りをして…お屋敷まで出てくれば、あとは好きにさせてくださるって。それで、わたくし…いつもこっそり街を…。そうしたら…」


「あの方に出逢ってしまった…」

 ルクレツィアは姫君の細い肩を抱いた。


 ずっと昔から傍で仕えるルクレツィアの腕の中、ようやほっとしたクラウディアだったが、その代わり、また涙があふれて止まらない。クラウディアは肩を震わせて泣いていた。


「ご婚約が決まってからずっと塞ぎこんでいた姫様が、この頃急に明るくなられたのは、あの方のお陰でしたのね…」


 そっと金色の髪を撫でてやると、その拍子にまたぱたりと涙が落ちる。


「あのね…。あのね、ルクレツィア。わたくし、臣様といると楽しいの…とても。一緒に歩いているだけでも…一緒にお茶を飲んでいるだけでも…。ただそれだけで、本当に嬉しいの…」

「そうですか…」


「あのね…」

 クラウディアは立ち上がり、ベッドの方へと歩いていった。


 そして枕元の引き出しから取り出したそれは…。

 大切に彼女が両手で握り締めているそれは…。


「…?」

 クラウディアは結んだ手をそっと開いた。手の上には細かな彫り物のされた指輪が一つ乗っている。


「これ…わたくしの宝物なの」

「指輪…ですか?男性用の?」


 クラウディアは瞳を潤ませた。


「わたくしのお誕生日に臣様からいただいたの…。ずっと昔に…初めて稼いだお金でご自分へのご褒美のつもりで買った物だって仰ってた…」

「姫様…」


 指輪を左の薬指にめ、いとおしそうに胸に抱く。瞳を伏せたクラウディアは、幸せそうに微笑んでいた。涙の跡の残る美しい顔に浮かぶ微笑み――それは、あまりに切なく痛ましい彼女だけの幸福の形。


「ちょっと大きいのだけれど、眠るときだけいつも着けているの。一緒に眠ったら、夢の中でもう一度会えるような気がして…」


 辛かった。

 とても見ていられなかった。


(まさかこんな時になって、何ということ…。おかわいそうに――)


 その気持ちを恋と呼ばず、何と呼ぶのか――。


 しかし二人は、一国の未来を担う姫君とまるで末端の異国出の兵士。どう転んでも先など有り得ない。そんなことはクラウディア自身もよく分かっているはずなのに、彼女のこの幸せそうな顔は…。


 確かに、そんな理屈などで抑えられる気持ちではないだろう。あふれる想いがそんなことで止まるものなら、彼女だって彼だって、とっくに忘れてしまえたはずなのだ。


 好きだから、ともに――。


 今の彼らにはただそれだけ。


 しかし、その「たったそれだけ」が、今はどれほど重いことか。互いへの想いを認めてしまうことが、どれほど二人を傷つけることだろう。


 堪らずルクレツィアはクラウディアを強く抱き締めた。あまりにも不憫でならなかった。年頃を迎えたこの健気な姫君の胸にようやく咲いた想いは、これほどまでに儚く優しく、そしてむしろ残酷なまでの恋心…。


 ああ、さらさらと夜が更けてゆく…。


 報われることのない想いに濡れる恋人たちの真上にいつもと同じく広がる星空――。その中を今、ゆっくりと進む月の船はまさに海原へと漕ぎ出したばかり。純白の月代つきしろは、そこからただ静逸せいいつに地上を見下ろしていた。


 深く優しく、凛と静かに――。


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