01//約束 - Engagement -
そう――。
思えばあの頃も そして今も
雨夜だけが 私の心の安らぎです。
草花を叩く雫の旋律。
濡れた土の香り。
重く絡みつく冷たい夜気。
そして
例えようもなく深い静寂…。
その中にこうして身をゆだねていると
まるで様々なしがらみが全部洗い流されていくような
そんな心地さえ覚えます。
そして何より
闇を掻き消してしまう あの月影に怯えずにすむ。
この胸を裁くあの純白の月夕。
気高く冴えたあの輝きは
いつだって この胸の底を照らし
私をして またあなたへの想いを募らせてしまうから。
そして
あなたを失った悲しみまでも
この私の罪までも 照らし出してしまうから…。
どうかお願いです。
もう泣かないで。
あと少しだけ待っていてください。
いつかきっと参ります。
いつか必ず
あなたの元へ参りますから――。
「へえ、こいつがねえ…。マジかよ?」
「ああ。聞いた話じゃあ、わざわざ志願してきたくせにあんまり貧相だっていうんで、入隊試験と称してノイズマン少佐と一戦交えたんだと。あの第一騎兵連隊長殿直々だって話さあ…」
兵士らはひそひそと囁き合うのだった。
こっそり覗く視線の先には、ゼノビア公国軍・外人部隊第四連隊に、本日付けで入隊してきた若者が静かに佇んでいる。
武人と呼ぶにはあまりにも繊弱な白い肌。
僅かに幼さを残す端正な顔。
背中できつく束ねられた栗色の長い髪。
その姿は、これから同僚となる周りの連中と比べるほどに、明らかに不似合いな儚さ――。
噂になるのも無理はなかった。
ここは、自らの腕に覚えのある異国出の猛者だけが所属を許される特殊部署である。従って、こうして今声を潜めている連中にしても、それなりの筋骨と面構えを携えている。
「でもよ、まさかあのノイズマン少佐が、こーんな女みたいな小僧にやられるなんてな。なんかがっかりだぜ」
「まったくだ!」
――ゼノビアの首都・フィロス郊外から少し北へ行けば、そこはもう田園地帯。更に行けば、早くも国境だ。
北の大国・ヴィングブルク王国の属国に甘んじるこの小国は、肥沃な土地と豊かな鉱産資源を武器に、目下のところヴィングブルクからの独立を画策中である。よって近年、辺境警備の方も厳重さを増している。
ところが、その国境を任された外人部隊の詰め所は今や警備どころではなく、やってきたばかりの奇妙な新人の話題で持ちきりなのであった。
不意に憮然とした顔が振り向いて、
「何か?」
「え!い、いや…俺たちは別に…。なあ…?」
うっかり本人と目が合ってしまった兵士らは、どぎまぎと態度を取り繕う。
ついに気まずくなって、一様に苦りきったその時だった。
「おまえか!!第四連隊へ今朝入隊してきたって奴ァ!?」
いきなり扉を足蹴にして現れたのは、身長2メートルを優に超える濁声の大男である。背後には、ずらりと数名の取り巻きが控えている。
「うわ…!マイト・ハーディだ!!」
「最悪…!」
マイト・ハーディとは、国境の兵士らがこの男に付けたあだ名である。マイトとは、言うまでもなくダイナマイトを指す。
この男、いつだって図々しく威圧的、且つ横暴。そこへ加えて大変な短気ときている。ざっと並べたこれらの特徴が、彼にこの名を冠させた主たる理由だ。
もちろん名誉な意味合いではない。些細なことで瞬く間にキレる単細胞ぶりを暗にからかっているのである。
しかし、さすがと言うべきか、めでたいと言うべきか――。
実際のところは彼を揶揄しているこの二つ名の持つ『響き』――あたかも強靭そうに聞こえる――を、本人がひどく気に入ってしまっている。そういう彼の、ある意味では純真とさえ思える浅はかさが、悲しいかな、陰で更なる嘲笑を呼ぶ結果となっているのだった。
だがこの事実、まさか本人にだけは知られるわけにはいかない――と言うのも、お察しの通り口よりも拳でコミュニケーションをとるタイプの彼は、腕っ節の方もとんでもなく、実は過去にもう何人もの仲間が自慢の剣を振るう前に病院へ送られてしまっているからだ。それも、ほんの少し彼の気に障ったというだけの理由で。
そもそも同じ外人部隊であると言っても、第二連隊の連隊長であるはずのハーディが、持ち場の違う他連隊の詰め所へ勤務時間中に足を運び、我が物顔に振る舞っていられること自体が、その傍若無人ぶりを証明していると言えよう。
「……」
青年は無言でハーディを見ていた。
「おいおい。こいつ、ほんとに大丈夫かあ?こーんな折れそうな腕で剣が振れるもンかねえ。いくら辺境の警備ったって、時々は物騒なこともあるんだぜ?」
ハーディがおどけると、周りの舎弟らもげらげらと声を上げて笑う。
ところが。
「……」
青年はまったく動じなかった。涼しい眼差しは、どこまでも静かにハーディを捉えたままなのである。
そこへ摺り寄った野獣のごつい指が、
「例えば、そう――こういうところは狼の巣窟だからよ。おまえみたいなカワイコちゃんは、まあ、いろいろとなあ…」
細い顎を摘みあげたその時だ。
「……!」
青年の表情が一瞬変わったかに思えた――と言っても、気のせいとも思えるほどのごく僅かな変化ではあったが。
「おまえ、いっそのこと俺の女になるか?え?いい思いさせてやるぜ、ウサギちゃん?」
更に息がかかるほど顔を寄せ、舐め回すようにじっくりと青年の顔立ちを確かめた後、ハーディはにんまりと笑みを浮かべた。
「……」
しかし、今度は反応がない。それどころか、端正なその顔には、焦りも不安も、まして微かな恐怖すら浮かばないのである。
「はあ…可愛くないねえ。何とか言ったらどうだ?おっかなくって声も出ねえってか。でもな、名前ぐらい聞かせておくれよ、ウサギちゃん。いくら俺らが狼だっつったって、まさかその程度で噛み付きゃしねえからよ。
おっと、そうだ…。そう言えば自己紹介が遅れたな。俺はハーディ。レヴィン=ハーディ伍長だ。もっとも今じゃ、通り名の方が一人歩きしてるけどな。何なら、おまえもマイト・ハーディって呼んでくれていいんだぜ?」
それでも青年は口を開こうとはしなかったが――。
「……」
また一瞬、瞳の色がすっと冷めたように見えた。否、顔色そのものには、むしろまったくと言って良いほど変化はない。ただハーディへ注がれた眼光だけが、まるで岸辺へ打ち寄せた波が沖へ引いてゆくがごとく、ぴんと研ぎ澄まされていったのである。
例えるならそれは、瞳に捕らえた獲物を凍てつかせる氷刃の眼差し――。
対するハーディは、手ごたえのない相手に痺れを切らしてしまったようだった。
「まあ、いいさ。こういう強情な女に言うことを聞かすってのも一興だ。せいぜいイイ声で啼いてくれよ、ウサギちゃん」
強引に腕を掴む。
すると――。
「べたべた触るな、汚らわしい」
すぐさまその手を払い除け、青年はついに口を開いた。
ひどく淡々とした低い声。そして、平然とハーディを睨む眼差しのどこにもやはり彼の心の変化などは感じられなかったが…。
「げっ、何てこった!早速やっちまったよ、あいつ…!!」
代わりに、はらはらと見守っていた連中が一様に青ざめた。
「つ…つか、こんな時にうちのロセッティ連隊長殿は、どこ行ってんだよ、まったく!」
「おい、誰か代わりにあいつらを止めてやれって!!」
うろたえるは、かの青年と同じ第四連隊の仲間たちである。その様を横目に、にんまりと唇を歪めたハーディは不敵な笑みを浮かべた。
「へえ、なんだ。やっと可愛いらしい声が聞けたと思えば、おまえ、そっちのタイプか。ま、幸い生意気な女は好きだぜ、俺は」
「ふん…。誰が女だ」
青年は不快そうに鼻を鳴らした。
「おやおや、こいつは困ったお転婆ちゃんだな。そンじゃあ、しょうがねえ。まず口の利き方から教えてやるぜ。ほら、得物持って表へ出な」
あたかも演技がましくしょげて見せ、大袈裟にジェスチャー付きのため息を吐くハーディに、一体何を期待したのか取り巻きらはどっと歓声を上げた。
「へへ…かわいそうによ。黙って言うこと聞いときゃあ痛い目に遭わずにすんだのにな!」
「謝っとくなら今のうちだぜ!」
ハーディの手下らが口々に悪態を放つ。
「ま、いい子にしてりゃあきっと優しくしてくれるぜ、うちの連隊長はよ!」
「ぎゃははは!せっかくのウサギちゃんを壊しちまうなよ、ハーディ!」
「そいつはお嬢ちゃんの出方によるさ。手加減は苦手でね」
まるで悪びれるふうもなく自信たっぷりのハーディに目もくれず、
「……」
愛用の双剣を手に取り、青年は驚くほど素直に連中に従ったのであった。
詰め所のすぐ前は、広い空き地となっている。
そこに距離をおいて二人が差し向かうと、一体どこで聞きつけたのか、わらわらと大勢の兵士が集まってきて、あっという間に幾重もの物見の輪ができ上がった。
辺鄙な国境での任務は想像以上に退屈で、こんなことでもなければやっていられない。兵士らは疾うに娯楽に餓えきっていたし、有り余る血の気の方も時にこんな形でしか発散できない。
但し、これが正規軍の士官に見つかったなら、ただでは済まない。万が一にもばれたなら、その理由如何に関わらず当事者は直ちに拘置され、減給されてしまうのだ。
暫くすると、誰に言われるでもなく数名の兵士が人垣から離れ、見張りに立った。
さて。
広場の西側に佇む青年は、なぜか手元の二本の剣の片方を地面の上へ置いた。見れば、どちらも通常よりやや小ぶりな細身の剣である。
一方、東側のハーディは、両手で振らねばならぬほどのごつい大剣の使い手だ。
逞しく、はちきれんばかりに隆起した胸板。
しっかりと鍛え上げられた太い四肢。
照りつける日差しに、ぎらぎらと黒光りする鋼の肉体。
自信に満ち溢れたふてぶてしいその顔も――。
どこをどう見比べても、この繊麗な青年に分があるとは思えない。
二人を取り巻く兵士らが、口々に野次とも声援ともつかぬ声を張り上げている。観客の熱気は今や最高潮である。
「はあ…。こりゃあ賭けになんねえかな…」
最前列で掛け金を集めていた男がぽつりとぼやき、肩を竦めた。
「さあ、どっからでも遠慮なく来いよ。でなきゃこっちから行くぜ?」
ハーディが似非笑う。
対して。
「好きにしろ」
愛用らしい白い手袋を着けながら、青年はひどく面倒そうに答えた。
その態度が気に障ったか、にわかに眉間の皺を深くしたハーディは、
「おらぁっ!」
大柄な体からは予想もできぬ俊敏な動きを見せた。
自分の身丈ほどもあろうかという大剣を引き抜くと同時に地を蹴って、なんと一気に青年の頭上へと躍りかかったのである。
圧倒的な力量の差。
これを、ここにいるすべての者に改めて知らしめるには、鮮やかに、そしてできるだけ派手に、相手を叩き伏せてやるのが一番良い。逆らう者はこうなるという恐怖を、手に届くほどの間近で見せ付けてやるのだ。それだけで人の心は簡単に掌握できる――ハーディはそのことをよく知っている。さすがに喧嘩慣れしているのだ。
「わ!!出た!」
「は、速えぇ!!」
「馬鹿!逃げろ、小僧!!」
目を覆った第四連隊とは裏腹に、
「おおー!」
「いっけえ!」
「いいぞ、やっちまえ!!」
早々と勝ちを確信したハーディの陣では、うねるような歓声が上がった。
幸いにも空を薙ぐ一の太刀。
だが、この後に待つ結果など、火を見るより明らかだった。
そう、誰の目にも――。
「……」
ところが、肝心の青年のはといえば、まったく動じる素振りがない。それどころか、手袋を着け終えてもただそこに突っ立っているばかりで一向に剣を抜くでもない。
再び自慢の大剣を振りかぶり、ハーディは声高に笑った。
「はははは!手袋をしなきゃ剣が振れんとは、随分とお上品なお嬢ちゃんだな!!ほらほら、そんなことより、とっとと逃げねえと綺麗なお顔に傷が付いちまうぜえ!!」
空間をも断ち切る鋼の塊が、青年の体ぎりぎりを翳め、何度も振り下ろされる。それでも青年は眉一つ動かさない。
ただ――。
青年の足元が僅かに移動しているように見えたのは錯覚だったろうか?
「馬っ鹿野郎おッ!小僧、てめえ、もうちょっとぐらいやる気出せよお!」
「おい!そんなんじゃ三分と持たねーぞ!!」
何も知らぬ野次馬らが身勝手な声を張り上げている。それでもなぜか青年は、平然と目の前のハーディを見据えるばかりなのである。
何度となく「ぶん!」と風音を立てて振り下ろされる巨大な剣。確かに、その様だけを見ていれば誰もが恐怖を覚えたろう。
しかし。
どういうわけかこの攻撃、未だ青年の髪一本落とすことが叶わぬのである。さすがのハーディも、これには焦りを感じ始めたようだった。額には既に嫌な汗がびっしょりと浮いている。
さもあろう。
ハーディは威力のみならず、重量の方も申し分のない巨大な武器を、先ほどから散々に振り回し続けているのである。当然ながら、剣を振る腕の動きにも間を詰める足裁きにも、明らかな疲労が出始めている。
「こ、こいつ…!ちょこまかとっ!!」
そんなハーディの苛立ちを察してか、青年はくすりと笑った。眉を開いた顔には、まだ幼い少年のようなあどけなさが残る。
ここでハーディは一気に逆上した。
「うおらあああっ!!」
ハーディは大地が割れるような雄たけびを上げ、尚も渾身の力で剣を振り続けた。
無鉄砲なその戦いぶりと、涼しい顔の青年。
いつしかギャラリーは口を噤み、対照的な二人の異様な戦いを固唾を呑んで見守っていた。
思いがけぬ現実の前で、呆然と佇むだけの観客たち――その中で、気紛れに青年に賭けた僅かな人間の顔だけが生き生きと輝き始める。
こいつはどうやら大穴になりそうだ――!!
やがて、不意の隙を突き、青年はようやく左の手で得物の柄をぐっと握った。
そのとき。
「!!」
誰もが眼を疑ったのだ。
双剣使いらしき青年は、今その片方の剣だけ――しかもどうやら利き腕ではない左で鯉口を切ったが、その瞬間、鞘からふわりと立ち昇った光のようなものは一体何だ?
凍りつく観客をよそに、すっと深く腰を落とした青年は、抜いた剣を一気に――。
「!?」
これは恐らく、東洋でいう居合の技だ。しかし、今しがたのその動き、その太刀影をしかと眼に収められたものがこの中にあっただろうか?
今ここで皆が目にしたものは、ただ一筋の白い線。先刻、青年の剣から湧いた、あの白い光がギラリと閃くただ一瞬のみだったのである――!
「な…なんだ、あいつ!?」
「一体何の手品だよ、ありゃあ…?」
足が竦んで動けない者。
ぽかりと口を開け立ち尽くす者。
何度も何度も目を瞬かせる者。
誰もが息を呑んだ。
困惑のどよめきが漏れる。
そうして、ついに――。
「……!!」
地に手を付き、すとん!――とハーディはその場にへたり込んでしまった。
見れば、なんと彼の前髪が根元からすっぱりと切り落とされている。その上、驚いたことに額には些細な切り傷一つ付いていないのである。
絶妙な間合い。
鋭敏な動き。
繊細な小手先の感覚。
そのすべてが備わっていればこその、まさに神業――!!
ゆっくりと歩み寄った青年は、足元に横たわる大剣を踏み付け、真上からぎろりとハーディを見下ろした。
「俺の名は臣。二度は言わん。その足りない頭でよく覚えておけよ、レヴィン=ハーディ伍長殿」
「きっ…貴様あああっ!」
じっとりと浮いた汗を拭うのも忘れ、ハーディは口惜しさにぎりりと歯を食いしばった。
「ああ、そうだ。言い忘れていた…。悪いが俺は男と寝る趣味などないし、貴様のような変態にも興味がない。相手が欲しけりゃ他をあたれ」
この思いがけない結末は兵士らを激しく興奮させた。一瞬の静寂の後、退屈だった辺境は、未だかつてない盛大な歓声に包まれたのである。
が。
「貴様ら、そこで何をしているっ!!」
「や…やべえ、少佐だ!逃げろおっ!!」
すぐさま我に返った兵士らは、一斉におのおのの持ち場へ散った。
怒号の主は、ラルフ=ノイズマン少佐。正規軍・第一騎兵連隊長である。彼は、臣が軍へ志願した際に手合わせを買って出た男でもあった。
蟻の子のように逃げ惑う兵士らを掻き分け、ノイズマンは真っ直ぐこちらへと向かってくる。
大地を揺るがす足取りからは、まるで彼の苛立ちが立ち上るようだ。ここで捕まれば厳罰は必至だろう。眉間にくっきりと刻まれたあの深い皺――もはや疑いようもないではないか。
ところが――。
混乱に乗じて摺り抜けようとした太い腕を、即座に臣は捕まえた。
「ハーディ伍長殿、そういじめないでくださいよ。あなた、今の今まで口説いていた女を一人残して、ご自分だけお逃げになるおつもりですか?つれないったらないねえ…」
「ば、馬鹿!何言って…!おまえも逃げりゃあいいだろうが!!」
「だから、もう遅いって」
「ああん!?」
「ゴホン!」
真後ろから、ひどくあからさまな咳払いが発せられた途端。
「――っ!!」
びくりと肩を揺らすなり、ハーディは声を失った。
「レヴィン=ハーディ伍長…また貴様か。ここで何をしていた?」
恐ろしく低い声が問う。
あたふたと向き直り、ぴしりと敬礼して、
「は…。はっ!ノイズマン少佐!!え…ええと、実は…自分はこの新人に、ここでの…その、作法を少々…」
しどろもどろになりながら隣を覗くと、同じく騒ぎの張本人であるはずの臣は、何を口添えするでもなく、平然とそこにつっ立っている。忌々しい気持ちを噛み潰し、ハーディはたった一人、必死になって言い訳を続けるのだった。
だが、こうして現場を押さえられていては、そう簡単にごまかせるものではない。
ふと、ノイズマンの視線が、足元に転がったハーディの大剣と臣の手に握られたままの剣へと向けられた。
実にまずい。
このままでは二人とも牢送りだ。
減給だ…!!
「そこの新人!貴様も貴様だ!!たった今しがた配属されたばかりだというのに、早速、問題を起こすとは一体どういう了見だ!?他の国ではどうだか知らんが、この国では勤務中の喧嘩は御法度だ。既に軍規に関する説明を受けているはずだが聞いていなかったのか?」
「いえ、存じております」
さっと姿勢を改め、臣も正しく敬礼して見せるが、やはり声色の方は変わらない。処罰を覚悟しながら動じることもなく、まったくの平常心である。
「まったく…これだからおまえたちは…!知っているか?貴様ら外人部隊はな、世間じゃ、ごろつき部隊、軍の鼻つまみ者…と、散々に馬鹿にされているんだぞ?軍の一員として我らと肩を並べる気があるのなら、もっと品位を持て!少しは自覚しろっ!!」
そこまで怒鳴り終えると、ノイズマンはうんざりと肩を竦めた。
「貴様…。確か臣――とか言ったな。先日直に剣を交えてみて、おまえはもう少し利口な人間だと感じたが、どうやら私の思い違いだったらしいな」
「ご期待に副えませんで」
悪びれるふうもなく、臣は真顔でぺこりと頭を下げた。
「やれやれ…揃いも揃ってどうしようもない奴らだな。衛兵!両人とも牢へ引っ立てろ!!ハーディ伍長、それに臣とやら!貴様らはそこで丸一日頭を冷やせ!良いな!!」
眉を結び、ノイズマンは踵を返した。
* * * * * * * * * * * *
遥か西の海に浮かぶ島々――。
そのもっとも大きな島に、現在二つの国が存在する。
かつては、この島にも数多の小国が存在していた。そのいずれの国土も豊かな風土に恵まれ、素朴な人々の営みは穏やかに続いていたという。
ところが、ある時を境にこの地の地図は一気に塗り替えられてしまう。小国の中の一国――ヴィングブルク王国の台頭である。
もともと早くから異国との貿易に力を注いだヴィングブルクではあった。ところが、ある時偶然発見された稀少地下資源が、この国を根底から醜く歪めてしまったのだ。
その価値を知るやすぐさまそれを交易の中心に据え、ヴィングブルクは、精力的に採掘を進め始める。そうしてわずか数十年間足らずで途方も無いほどの財力を蓄えることに成功したのである。
だが、これまで世界の片隅でひっそりと形を潜めていた小国が、そうまでして私腹を肥やす理由など、一つしか考えられない。
その利益が、惜しみなく武力増強に充てがわれていることを知った周辺諸国は一様に震え上がった。そこにヴィングブルクの飽くなき野望を見たのである。
周囲の憂慮を解することなく、ヴィングブルクは更なる膨張を続け、いつしかその存在は脅威でしかなくなってゆく。諸国はこぞって同盟を組み、かの国の行動に備えたが、そこでただ安穏としていただけの小国など、束になったところで歯が立つものではない。
忍び寄る侵略の触手に、抗わずして手中に収まるより術のなかった国、また歯向かったがために武力で制圧されてしまった国。ヴィングブルクは、近隣諸国を次々に呑み込み強大化していった。そして、侵略開始から十年と経たぬうち、とうとうこの島のほとんどがヴィングブルクに支配されてしまった。
ただ一つ、ゼノビアを除いて――。
島の最も南に位置するこのゼノビアの気候は、年間を通して比較的温暖で、例え耕地が狭くとも一年に二度の収穫が期待できる。また地質的特性から、この地でなければ栽培の難しい作物も多くある。そこへ加えて、質のよい鉱物の産出も多かった。そんなこの国をかの国が見逃すはずは無く、当然ながらこの国も、ヴィングブルクの脅威には何度となく晒された。
しかしながら、この国が他の国と違っていたのは、しっかりと統制された優秀な軍を持っていたことである。これではヴィングブルクも迂闊には手が出せない。
それでも、この危うい均衡は長くは持たなかった。
度重なる衝突の危機に、ついに業を煮やしたゼノビアは、ある時、ヴィングブルクに一つの妥協案を打診する。ゼノビア領土への不可侵を条件に、所有する鉱山資源の2/3の採掘権をヴィングブルクに譲ると言うのである。
対してヴィングブルクは、ゼノビア王家が王族としての地位を破棄することを新たな条件として示し、それをゼノビア王家が受け入れたがために、この不可侵条約は締結される運びとなった。それ以後、ヴィングブルクはゼノビアを属国と称し、保護する立場となる。
その一方で、王位を捨て爵位を冠することとなったゼノビア王家は、一応ながら君主として国土を治めることが許された。
そのまま歴史は現在に至る。
確かにこの決断は、国家――ひいてはゼノビア王家にとって屈辱的な結果をもたらしたと言える。それでも、そのお陰でかの大国による脅威は去ったのだ。国民らは、国王の英断を大いに評価し涙した。
それから何十年も経った今でさえ、民は、勇敢な最後の国王を讃える事を忘れず、残された彼の一族を愛し続けている。
その国に名君ありと謳われたゼノビア公国――。
国民は愛国心と誇りを胸に日々を生きている。
どこまでも平和に…。そして穏やかに。
* * * * * * * * * * * *
冷たい床の上で、臣はぽつりと膝を抱えていた。立てた膝に顎を乗せ、ふと格子の小窓に目を遣れば、すっきりと鮮やかな青空が飛び込んでくる。あの具合だと、恐らく昼を回った頃だろう。
(はあ…毎度ながら情けない。どうしてこうも絡まれやすいのか。この身の上を呪うね、まったく)
また独りでに何度目かのため息が出た。
思えば、齢十二の頃からずっとこんな生活を続けている。彼は故郷を持たない傭兵だ。ここへ来る前も、そのもっと前も、彼は戦地から戦地へと渡り歩く根無し草の暮らしをしていた。
つまり。
こんなことは今に始まったことではないのである。流れた地で、国で――異国へ渡るその度に、うんざりするほど同じ歓迎を受けている。見てくれの儚さや目つきの悪さ、ひねくれた性格――と、原因らしきものなら本人なりにも多少心当たりがある。しかしそれにしても、こんなことがこうも頻繁に起こっていては、もう自らの持って生まれた宿運を嘆くほかはあるまい。
「そう言えば、確か今夜は公爵家に目通りしなけりゃならなかったはずだが…。ま、いいか。こんなところに入ってるんじゃそんなの無理だろうし、だいたい興味だってないんだから…」
ごろりと床に横になった。
数日前に、偶然辿り着いたこの地。
のんびりとした住人の気質と、過ごしやすい気候がすぐに気に入った。ここで暫く生きてみよう――と、そう思い立ったのはいいが、困ったことにこの国はどうやら平和そのもので、戦などまるで縁が無さそうだ。これでは傭兵を生業として生きる臣は食いはぐれてしまう。だいたい手持ちの路銀だって、もういくらも残っちゃいない。
街へ辿り着いたその日、ようやく見つけた安宿にとりあえず荷物を下ろした臣は、城下の街をぶらつきながら、ここでいかにして金を稼ぎ出すかを考えていた。
「結局、なるようにしかならないってことか…」
誰にともなく独り言つ。
実は、新しい土地で仕事を探しに行き詰まった時には、決まってある場所へ行くことにしていた。目指すべきは、ごろつきの吹き溜まりのような酒場だ。こういう所には決まって物騒な話があふれている。怪しげな連中の用心棒だとか、戦況悪化による不足兵士の補充など、そんな伝はいくらでも転がっているのである。
しかし、この平和な国ではどうだろう――?
駄目で元々という安易な気持ちで、それらしい店に入ってみた。扉を開けた途端、厳つい男どもがぴたりと会話を止め臣を見る。なるほど思ったとおり、薄暗く雑然とした店内には、真昼間だというのに悪人面をした悪人らしい連中がごっそり溜まっている。皆、まるっきり喧嘩を売るような目つきだ。
明らかに連中と一線を置く風貌の臣がこういう場所へ顔を出せば、それがどんな国であろうとも、呆れるほど同じ反応が返ってくる。
臣は、やれやれとばかり苦笑するのだった。
カウンターには、これまたサービス精神の乏しい感じの髭のバーテンがいる。髭の男はじろりと臣を睨みつけた。
「子どもに売る酒はねえよ」
「悪いがこれで立派に大人だ」
「へえ、そうかい。俺はまた、十かそこらのガキかと思った」
カウンターに腰掛けた男どもが、こちらを見もせずにくっくっと肩を揺らしている。
すかさず臣は、腰の剣を鞘ごと抜き、思い切りカウンターへと叩き付けた。こういう相手に手っ取り早く自分を知らしめるには、こうするのが良い。
今の衝撃でカウンターの上のグラスや瓶が音を立て、店内の空気が一気に険悪に張り詰めてゆく。剥き出しの激しい敵意が容赦なく臣に突き刺さる。
こうでなければならない。
まさに臣の思う壺だ。
「なあ…。仕事を探しているんだが、紹介してもらえないかな、マスター?」
「あのなあ、兄ちゃん。ここは呑み屋だぜ?頼むモンを間違えちゃいねえか?」
「そりゃそうだ。じゃ、とりあえずそこのウォッカでももらおうかな」
髭の男が憮然とした顔でグラスを置いた。その横に代金を適当に置く。案の定、釣りなど返ってはこない。
グラスを手にぐるりと店内を見渡すと、たまたま目が合った数名がぬっと立ち上がった。どれも色黒で、ふてぶてしいほどの面構えに大げさなほどごつい筋骨を携えている。うち一人には腕に異国の神仏の刺青があった。
身長については低い方ではない臣だが、華奢な上に色白で、どう見ても一介の武人になど見えない。そんな彼は、やはりどこへ行っても同じような輩に目をつけられてしまう。もはや慣れっ子だが、正直うんざりだ。
「あんたらが仕事を世話してくれるのかい?」
にやりと笑ったその時、再び店の扉が開いて、また一人客が入ってきた。
だが、それは…。
その人物は……。
店内の空気が止まる。
ちらと横目で振り向いた臣もその例外ではなく、ぎょっとしたまま不覚にも動けなくなってしまった。
「あの…わたくし、とても喉が渇いてしまって…。ほんの少しで構いませんの。何か飲み物をいただけないでしょうか?」
入ってきたのは、まだあどけなさの残る十七、八歳の娘であった。
それにしても妙だ――と思った。
細く、折れそうな体に質素な木綿のドレス。おさげに結った赤い髪も、まったく庶民のそれらしい。
だが、どこか違和感を感じるのだ。
どこかが、何かが違っている…。
ああ、そうだ、あの顔立ち!!
顔立ちが高貴なのである。それに、おっとりとした立ち振る舞いも洗練されたしなやかな仕草も優雅そのもの。どこぞの上流貴族を思わせる雰囲気は、彼女の纏うドレスを不釣合いにすら見せる。
一体彼女は誰だろう?
どういうお方なのだろう??
臣を目指していたの男らの足が、一斉に赤毛の少女へと向けられた。ぶら下げた顔はどれもいやらしく緩みきっている。
だが、先に彼女の元へ辿り着いた別の男らが、まず何か声をかけたらしい。こちらもひどく汚いなりをした強面の男たちばかりである。
ところが彼女ときたら、自分よりもずっと大きく、見るからに柄の悪い男どもを前にしても、まるで動じる気配が無い。それどころか、無邪気ににこにこと微笑みながら、男らの言葉に頷いているのだ。
内容までは、さすがにこの距離では届かない。それでも、あの男らが下品な言葉を投げかけているであろうことはおよそ窺える。時折、彼女が困惑して見せると、男たちは下衆に声を上げて笑うのである。実に不愉快な光景だ。
「……」
臣はぐっと眉を結んだ。彼の顔に素直な感情が浮くのは珍しい。
少女は相変わらず微笑んでいる。それはまるで掃溜めに注ぐ柔らかな日差しのような笑顔だった。
「お紅茶を一杯いただけたら嬉しいわ」
「あァ!?紅茶だあ?そんな洒落たモンあるわけねーだろ、おもろい嬢ちゃんよお」
男たちがまたげらげらと笑う。
「あら…。では、どういったものならありますの?」
少女はきょとんと小首を傾げた。
すると、
「ほらよ」
髭の店主が、カウンターから紅茶を差し出した。
「まあ!ありがとうございます」
少女の顔がぱあっと輝いた。
「な、なんだよ…。あるじゃねーか、兄貴」
「だって、こんな汚ねー呑み屋に紅茶なんてお上品なものがあるとは思わねえだろうよ、普通!」
「悪かったな、汚ねー呑み屋で」
髭の店主はふんと鼻を鳴らした。
愛らしい笑みを湛えたまま、少女は紅茶の入ったカップを唇へと運ぶ。そうして、微かに喉を鳴らした後――。
「おいしいお紅茶をごちそうさまでした。わたくし、お散歩中に迷子になってしまったみたいで、本当に喉が渇いていたの。とても助かりました」
ドレスの裾をちょんと摘み、少女は首を傾けてお辞儀をした。
「礼なんかいいからお代をよこしな。3ベルクだ」
これっぽっちの愛想もなく、髭の店主はごつい右手を差し出す。
ところが――。
「あ…お金…。あの…ごめんなさい、持っていないの」
「はァ!?」
店主は素っ頓狂な声を上げた。
「可愛い顔して食い逃げとはいただけねえな!」
「ええと…でも…。では、後ほど…」
「後じゃあ遅えんだよ!今すぐ払いな!!」
店主は一層眉を吊り上げた。
「…ったく」
ついに大きなため息を一つ、手元の酒を一気に呷ると、臣は踵を返した。
「ま、何なら体で払うかい、嬢ちゃんよお?」
刺青の男がにやにやと少女の顔を覗き込んだ。
「ええと…。あの…それはどういう…?」
「なあに簡単なことさ。ちょいと今ここで、そのドレスをさあ…」
にんまりと歯を見せて、男は少女の肩に馴れ馴れしく手を回し――。
「???」
無骨な指がするすると胸元へと伸びてゆく。なのに、どういうわけか抗いもせず、少女は不思議そうに男のすることを許しているのであった。
だらしなく口元を歪め、舌なめずりをした顔がぞろぞろと集まり始めた。
そのど真ん中へつかつかと割り込むなり、
「紅茶の代金はこれで足りるか、マスター!!」
臣はカウンターに10ベルク札を叩き付けた。
「ん?あ、ああ…」
返事を確認するよりも早く細い腕を掴み、臣は背後へ少女を庇った。
「なんだ、てめえは!邪魔すんな!!」
かっと息巻く男の声。噛み付かんばかりである。
それでも臣は、顔色一つ変えることなく周囲の輩を睨んでいた。
――ざっと二十人ちょいといったところか。
「あの…」
柔らかな指先がそっと肘に触れた瞬間、振り返りもせずに臣は怒鳴った。
「あなた、さっきから一体何をやっているんです!ここはあなたのような方がいらっしゃる場所じゃありませんよ!早く外へ!!」
「でも、わたくし…」
「いいから、さっさと行けっ!!」
扉の方へ小突いてやると、
「あ!は…はいっ」
少女は慌てて後退さった。
「ちっきしょう、ふざけンな!」
「逃がすな!!」
「おっと!待ちな、兄さん方。相手なら俺がしてやるよ」
追い縋ろうとするその前に、臣はすっくと立ちはだかった。
「なんだあ!?やんのか、この野郎!!」
「格好つけるってんなら相手をよおく見てからにしろよ、色男!」
眼を滾らせた荒くれどもが押し寄せる。そこへひと通り目線を滑らせ、
「確かに…。こんなに厳つい兄さん相手に、多勢に無勢じゃ勝ち目がないな。已むを得ん、抜かせてもらおうか」
すらりと微笑み臣は鯉口を切った。現れたのは滴るように冴えた片刃の長剣だ。
抜き様に、ふわり、神気がたち昇る――。
煌く鉄を刀背に構えると、男たちも思い思いの武器を一斉に抜いた。
* * * * * * * * * * * *
ついつい言われるままに出てきてしまったが、中の様子が気になって仕方がない。少女は、もじもじと玄関先に蹲っていた。
「……」
恐る恐る扉へ耳を宛がえば、洩れ聞こえるのは騒音ばかり。投げつけられたグラスが粉々に割れる音と、なぎ倒されたテーブルや椅子が押し潰される乾いた音とそれから――男たちの太い怒鳴り声と苦しげなうめき声。
自分を外に出してくれたあの人は、先に声をかけてきた人や、周りで眺めていた人たちとは明らかに違う。体格も顔つきも言葉も雰囲気も――それこそ何一つ似ていない。あんなに大人しそうな人が、あんなに荒くもしい男らに楯突くような真似をして大丈夫なのだろうか…?
突如として湧いた不安に居ても立ってもいられず、意を決して扉に手を伸ばしたその時――。
「!!」
勢い良く開いた扉から息を切らせて飛び出してきたのは、彼女を救ったあの青年であった。
「「あ!」」
少女は目をまん丸にして驚いたが、そこは臣も同じである。
「まあ!ご無事でしたのね?」
「あ…あなた、まだこんなところに!?」
暢気な言葉に、臣の頬は引き攣った。
「てンめえ、もう許さねえッ!」
「待て、この野郎!逃がさねえぞ!!」
野太い怒声が追ってくる。
慌てて臣は少女の手を握った。
「こちらへ…!早く!!」
手を繋いで駆け出した。背後からまだ激しい怒鳴り声が聞こえたが、構わず二人はどんどん走った。
迫る追っ手を撒くように、昼なお薄暗い横丁を抜け、陽気に賑わうマーケットの人ごみを掻き分け、細長く続く下町の路地を擦り抜けて、その先を流れる水路の支柱アーチを潜った。
二人は振り向きもせず、どこまでも駆けた。
街の景色が飛ぶように過ぎてゆく。見たことのある所もそうでない所も、瞳に映る街はくるくると目まぐるしくその表情を変えてゆく――。
無頼の徒から命からがら逃げているのに、少女の胸はなぜかわくわくと躍っていた。自分の手を引いて走る青年の横顔をちらり見上げてみれば、なぜだかまた弾む気持ちがこみ上げる。少女は声を殺し、ずっとくすくす笑っていた。
やがて――二人は街外れの公園へと辿り着いた。
「もう…大丈夫…かな?」
辺りを見回してみても気配は無い。
ほっと息をつくと――。
「うふふふ…」
とうとう少女は声を上げて笑い出してしまった。
「……」
一歩間違えれば大変なことになっていたかもしれないのに、どういうわけか当の本人は驚くほどご機嫌である。やれやれと眉を開き、臣は大きなため息をついた。
「ほんとに…おかしな人だなあ」
肩を竦めてようやく微笑むと、臣は傍の噴水の縁に腰を下ろした。隣にちょこんと少女も腰掛ける。
「あの…今日は本当にいろいろと、ありがとうございました。ええと、あの…?」
「臣と申します」
臣は軽く頭を下げた。
「まあ!異国の方でしたのね!?そうでしたの、それで…」
少女は、先刻感じた彼と無頼漢の体格差を民族の違いゆえ――と、勝手に解釈したようだった。
「わたくしはクラウディアと申します。どうぞよしなに、臣様」
クラウディアはドレスの端をちょんと摘み、首を傾げて会釈をした。
やけにおっとりとした言葉と独特の仕草に、また若干の違和感を感じたが、特にそれ以上詮索するでも無く臣はくすりと笑った。
「いや、こちらこそ…。あ、そうだ。あの、クラウディア様。喉の方ははもう渇いてはいらっしゃいませんか?もし宜しければ、お茶などいかがです?ご馳走しますよ」
途端に、クラウディアの瞳は眩さを放ったが――。
「本当!?あ…じゃあ、あの、わたくし…その…」
待ってましたと言わんばかりの声色だったのに、なぜか恥ずかしそうに口ごもる。
「どうなさいました?」
「あ、あの…わたくしね…。わたくし、あれが飲みたいの…」
指差す先にあるのは、公園の小さな屋台であった。売っているものは、菓子やジュースなどの粗末なものばかり。その前の看板には、大きくピンク色のレモネードの絵が描かれている。
「は?あ、あの…あんなもので宜しいんですか?」
尋ね返すと、クラウディアはほんのりと頬を染めた。
「ええ…。わたくし、どうしてもあれがいいの。だめかしら…?」
「いえ、だめじゃないですけど…。では、買って参りますので暫くお待ちを」
にこりと笑って駆けてゆく――。
仄かにはにかみながら、クラウディアは彼の後姿を見送った。
こんなことは初めてだった。
息を呑むほどの緊張に、どきどきと胸を騒がせる出来事。うきうきと弾むような不思議な気持ち。そして、これまで味わったことのない清々《すがすが》しさ。
ふと見上げた空は、雲ひとつ無い蒼天。木々の緑は若葉に萌え、木漏れ日がまぶしいほどに輝いている。傍らの噴水の上では陽光の織り成す金の網が静かにゆらゆらと揺れていた。
何を見ても、どこを見ても、まるでいつもと違う鮮やかさ――。
クラウディアは嬉しくなってまた一人で笑った。
「お待ちどおさまでした。はい、どうぞ」
臣は手にした紙のカップの片方を差し出した。中には看板の絵にあったのと同じ透き通った薄いピンク色の液体が注がれている。まさしくクラウディアが望んだものだ。
「わあ、綺麗…!わたくし、これにずっと憧れていたの。ありがとう、とっても嬉しいわ」
「お店の方がお菓子をおまけしてくれましたよ」
臣は、小脇に抱えていた細長い揚げ菓子を包み紙ごと半分に折って、クラウディアへと手渡した。初めて目にしたであろうその菓子に、クラウディアは再び瞳を輝かせた。
「わあ…。お砂糖がかかっているのね。可愛い…」
「クラウディア様はこういうの、ご存知ないんですか?」
「はい、初めて目にします」
それを一口ちぎり、口の中へと放り込むと、クラウディアも同じように真似て見せる。途端にクラウディアは目を細め、嬉しそうに両手を頬へ宛がった。
「おいしい!」
臣はくすりと笑った。
「昔住んでいた国では、チュロスって言いましたよ、これ。ここでは何て言うのかなあ」
すると。
「チュロス…チュロス…チュロス…チュロス…」
唐突にクラウディアは揚げ菓子の名を繰り返し始めた。まるで何かの呪文のように――。
「え…?何のおまじないです、それ…?」
「忘れないように…って思って。こうして何度も口に出して言えばきっと忘れないわ」
ひどく真剣な面持ちに、とうとう臣は吹き出した。
「あははは!ほんとにおかしな方だなあ…!!ここではそうは言わないかもしれませんよ?」
「いいの。臣様に教えていただいたのを覚えたいの。チュロス…チュロス…」
クラウディアのまじないは続く。
「ご所望のレモネードの方は宜しいので?」
目尻に浮いた涙をこっそり拭いながらそう言うと、クラウディアは慌てて傍らに置いたカップを手に取った。
「まあ、ほんと!そうでした。こちらもいただかなくっちゃ」
そっとカップに口を付けてみる。その瞬間、爽やかな香りが甘酸っぱく口の中に広がった。散々走り回って火照った体に、きんと冷えたレモネードの喉越しが心地がよい。すうっと染みるような爽快感もたまらない――。
クラウディアは心底幸せそうに目を閉じた。
「おいしい…」
「喜んでいただけて良かった」
クラウディアの様子に安心したのか、ようやく臣もカップを手にした。
「温かいお茶より、今はこちらの方がさっぱりしていいですね」
「ええ、ほんと」
それから二人は、互いに他愛のないことを語り続けた。内容は本当に些細なものばかりだった。
例えばそれは、彼女が街を散歩しながら見付けた店のことだったり、いずれ行ってみたい場所の話だったり、先ほどの呑み屋での紅茶が意外にもおいしかったということだったり――。
そしてそのお返しは、臣がここへ来る前に暮らした国の話や、旅先ではなぜかいつも先刻と同じような目に遭うということ、更に本当のことを白状すると、今朝方この国に着いたばかりで、実は右も左も分からないことなど――。
「――そんなわけで、宿へどう帰ったらいいのかも正直ちょっと分からないんですよね。考えもなしに闇雲に走り過ぎましたね」
臣は恥ずかしそうに肩を竦めた。
「そのお宿、どんな建物?何ていうお名前なのかしら?」
「ええと…。赤いとんがり屋根で、確かてっぺんに風見鶏が付いてて…。多分、宿の名前もそんなような感じだったと思うんですけど…」
どうも本気で自信がないようである。
「ね、では探しに参りましょう、臣様!わたくし、とても良い場所を知っているの!!」
クラウディアは大きな目を更に大きくして言った。
「良い場所?」
「ええ。ほら、あそこ!!」
遠くを指差し振り向いた愛らしい笑顔。その上で生き生きと見開かれた彼女の瞳は、今また新たな命を得たようにきらきらと輝き始めた。
しかし――。
何度も目を凝らしてみるが、臣には一向にどの場所を指しているのか分からない。
「ええと…どれです?」
「ほら、あの一番背の高い…」
臣はぎょっと目を剥いた。
「まさか――。あの時計台のことを仰っているんですか!?」
「ええ、そう!あの上からならきっと風見鶏が見えると思うの!」
「で、ですが…」
どこの国でもその土地の時を司る時計台は、国や街の管理の下で厳しく入場を制限されているはずである。その辺の適当な人間が自由に出入りなどできるはずがない。
「登っていいんですか、あれ…」
「あのね…あの塔の裏口に掛かっている南京錠、実は壊れているんです」
クラウディアはそっと臣の耳元に囁いた。
「え…」
「そおっと入ってしまえば分かりません」
これから悪戯を始める子どもの顔をしてクラウディアは笑っている。
「うふふふ」
「……」
高貴な家柄の出と見受けたが、その容姿に似合わず結構なお転婆のようだ。
「あの…クラウディア様は、そういうこと…その、しょっちゅうなさっているんですか?」
「いいえ。時々だけですわ」
「……」
時々だろうがしょっちゅうだろうが、十分法に触れている。
「時々、ね…」
臣は苦く笑った。
「とっても見晴らしが良くて、素敵な所ですのよ、本当に」
「はあ…」
どうも気が進まない。その上、何と返事を返せば良いものか、うまい言葉が見つからない。
「嫌?」
不意にクラウディアが臣の顔を覗き込んだ。
「!!」
どきりと胸が音を立てた。
微かにあどけなさを残した美しい顔が、触れるほどの距離にクローズアップされている。あまりに突拍子もない彼女に、臣は柄にもなく本気で慌てていた。
「あ、あの…っ、嫌じゃないです、ぜ、全然っ!嫌とか…その、そういうことじゃなくて…えと…」
「じゃあ決まりですわね!さあ、参りましょう、臣様!!」
「あ…。は、はあ…」
渋る手を取り、クラウディアはさっさと歩き出した。戸惑う臣などお構いなしである。
そうして再び他愛ない話の続きが始まった。
彼女の物事を見る目はとても興味深かった。誰の目にも留まらぬようなつまらないものも、彼女の瞳を通して見ればとんでもなく面白いシロモノへと姿を変える。それこそ足元に転がる石も、街のそこかしこに掲げられている何の変哲も無い看板さえも。まるで彼女の目にするすべてが新たな発見に満ちていて、言葉という息吹を受ければひと際強く激しく輝き出すかのように…。
そんな彼女の言葉に耳を傾けているうちに、先刻の懸念などいつしか掻き消えてゆくのだった。
本当は自分でも気付いていた。それは、今までに経験したことの無い不思議な感覚――。
彼女の言葉。
彼女の声。
しなやかな身のこなしに、とんでもなく無垢な心。
彼女の全てを生き生きと物語るエメラルドの瞳も――その何もかもに、どんどん興味が湧いてくる。
夢中になって話しながらころころと表情を変える彼女を、ただ見ているだけで飽きなかった。出逢ってからずっと、ちょっと奇妙でわがままな彼女の振る舞いに散々振り回されているというのに、なぜか全然嫌じゃなかった…。
時々は頭上を見上げ、建物の隙間から覗く時計台の位置を確かめながら二人は歩いた。彼女の方も、どうやらあまり街の地理には明るくないようだった。
そうして、ああだこうだと言葉を交わしながらようやく時計台の前に辿り着いた頃には、西の空はうっすらと茜に染まり始めていた。
「と…遠かったですねえ…」
盛大にため息をつくと、クラウディアは申し訳なさそうに肩を窄めた。
「すぐそこに見えていると思ったのに…」
しょげる彼女にくすりと笑うと、臣はきょろきょろと辺りを見回した。幸い人影は無い。
「――今ですよ、クラウディア様」
耳打ちして手を取った。
何度も人目を気にしながら素早く塔の裏手へ回れば、確かにクラウディアの言うとおり、地味な扉に古い南京錠が一つ掛かっている。その蔓の部分を摘んで引っ張ってみると、果たして鍵を差し込んでもいないのに錠はいとも簡単に外れてしまった。二人は顔を見合わせて笑った。
重い扉を開け、薄暗い塔の内部へ滑り込む。
生真面目な機械の営み――ひどく巨大なそれの圧倒的な存在感に、臣はため息を漏らした。
塔の中央に向かって、大小さまざまな歯車がひしめき合い、折り重なっている。その一つ一つが互いと噛み合い、互いに作用し合いながら、まさしく今も時を刻んでいた。
「へえ…すごいな…」
臣にしてみれば、どれもが初めて目にするものである。僅かに届く夕明かりの中、臣は暫しぼんやりと目の前の巨大な歯車の塊を見上げるのだった。
「臣様、こっち」
歯車の陰でクラウディアが手招きをしている。どうやら階段があるようだ。行ってみると、人ひとり通れる程度の細い階段が、壁に沿って螺旋を描きながら上へと伸びている。いくら仰いでも頂上がまったく見えない。
「これを…上まで登るんですか?」
「はい!」
おずおずと尋ねると、案の定無邪気な笑顔が返ってきた。
「あの…着く頃には日が暮れてるんじゃあ…」
「がんばりましょうね、臣様!!」
「ああ…。がんばるんですか、やっぱり…」
臣はがっくりとうなだれた。
先立って階段を行くクラウディアは、ひ弱な貴族の娘とは思えぬほどの驚くべき健脚を見せ付けた。さっきは時々などと控えめなことを言っていたが、本当はしょっちゅう来ているのではないかと疑いたくなるほど、クラウディアは、手すりすら無い剥き出しの階段をすいすいと登ってゆく。後ろで見ているこちらの方が足を踏み外しはしないかと心配なほどだ。
「クラウディア様、もう少しゆっくりでいいですから…」
そうしてもらわねば、はらはらと付いてゆく臣の心臓の方が持たない。
「でも、ゆっくりしていたら日が暮れてしまうわ」
「別に暮れてもいいですよ。ですからもっと慎重に…」
不意にクラウディアは立ち止まり、後ろの臣を振り向いた。
「臣様、怖いのね?」
「は?」
臣は目を丸くした。
「高い所が怖いの?」
クラウディアが眉を寄せている。
「え…?どうしてそうなるんです?」
「だって、さっきも登りたくなさそうにしていらっしゃったもの」
「いや…あの、クラウディア様、私は別にそういう…」
たじたじになって返事を返すと、クラウディアは不服そうに唇を尖らた。
「怖いなら怖いって、正直にそう仰っていただければ、わたくしは――」
「ですから違いますってば」
「……」
否定しているのに、まるで信用していないようだ。
クラウディアはむっと膨れた。
「ひょっとして怒ってらっしゃるんですか?」
「……」
「怖くないですよ?ほんとに」
臣はクラウディアの顔を覗き込んだ。
「本当?」
「本当です。ただちょっと…」
上目遣いのクラウディアに、臣はにっこり笑顔を作った。
「――ちょっと?」
「クラウディア様があまりさっさと登られるから…そちらの方が怖いんです」
「???」
クラウディアはきょとんと首を傾げた。
「ねえ、クラウディア様。ご自分の足元、ちゃんとご覧になってます?」
臣は声をひそめた。
ようやく得心がいったか、にこっと微笑み頷いて、クラウディアは階段に足を掛けたが――。
「もちろん、大丈――」
瞬間、クラウディアの体がぐらりと揺れた。
「!!!」
咄嗟に掴んだ腕を思い切り引き寄せ、臣は自分の体全体で抱きとめるようにして彼女を捕まえた。初めて腕に抱いた彼女の体は、まるで羽根のように柔らかく軽かった…。
(ま…間に合った…っ…)
横目で見れば、時計台の底はぞっとするほど彼方である。今更ながら背筋に震えが走る。
「ほら!!全然大丈夫じゃないでしょう!?」
腕の中を軽く睨むと、ぎゅっと体を固めたクラウディアは見開いた目を何度か瞬かせた。
「暗いですから足元に気をつけて。ね?」
「は…はい…」
上目で臣を見上げ、クラウディアはまた恥ずかしそうに笑った。
それからどのくらいの時間が経っただろう――?
ようやく二人が頂上の文字盤に着いた時には、辺りにはもう宵闇が迫っていて、西の彼方の山の端は燃える紅から深い紫へと、徐々にその縁取りを替えようとしていた。
「わあ…。なんて素敵なのかしら…!!」
「綺麗ですね」
巨大な文字盤の脇から覗く二人を待っていたのは、夕焼けの空に残る太陽の余韻と、その只中でぽつんと輝く黄昏星。
遮るものなど何もない。
いくら身を乗り出してみても果てなど見えはしない。
ふと眼下へ目を落とせば、もうぽつぽつと街の灯がともり始めている。
当たり前のような毎日が織り成す奇跡のような幻想が、街角で偶然に出逢った二人の瞳に映っている。二人はしばしその美しい光景に目を奪われた。
と――。
「あ!」
クラウディアが小さな声を上げた。
「ありました!あそこ!!」
見れば、彼女が指すそのずっと奥に、僅かな夕明かりに照らされて、きらりと風見鶏が煌いている。
「あ…。ほんとだ…」
「あれですか、臣様?」
クラウディアは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ…多分。でも…」
にわかに噴き出した疲労に、臣はがっくりとうなだれるのだった。
「さっきの公園のすぐ傍じゃないですか、あれ…」
「あら、本当!」
クラウディアは目を丸くした。
「また、あそこまで戻るのか…」
ため息をついた二人は互いの顔を横目で見て、くすくすと笑った――。
すっかり暮れてしまった空の下を二人はとぼとぼと歩いていた。街並みにこぼれる柔らかな灯りが、二人の影を優しく照らしている。
並んで歩きながらも、相変わらずクラウディアは、臣の顔ばかり見上げていた。
「ねえ、臣様。また一緒に行きましょうね、時計台」
「ええ」
「あのね、今日は本当に楽しかったの。今までで一番楽しかったの」
「光栄です」
「臣様…。また…会ってくださる?」
クラウディアが斜に瞳を上げる。
「はい、お望みとあらば」
その言葉を聞いた途端、心配そうな顔がぱあっと晴れ渡ってゆく。言葉を交わすたびにころころと表情を変える彼女に、臣はまた笑った。
「じゃあ…じゃあ、来週の今日、あの噴水の前でいい?」
「畏まりました。来週ですね」
「お昼ごろになら行けると思うの」
「はい」
「それでね…あの…」
だが、そこで急にクラウディアは口を噤んでしまった。
「……?」
「や、やっぱりまた今度にします」
街の中心からやや外れたところの、とある屋敷の前でクラウディアは立ち止まった。
「あ…。わたくしはここで…もうそこだから」
「はい。では…おやすみなさい」
臣はクラウディアの手をとり、そっと甲に口づけた。
「また来週ね…。きっとよ、臣様」
「はい。きっと参ります」
クラウディアは嬉しそうに頬を染めたのだった――。
* * * * * * * * * * * *
「――あ!」
牢の床に寝転がり、うとうととしていた臣は不意に目を覚ました。
(例の約束、確か明日じゃなかったか…!?)
慌てて飛び起き、指折り数えてみればやはり間違いない。明日がクラウディアとの約束の日である。
「ああ…やっぱり…。まずいな…こいつは」
格子に貼りついて奥を覗くと、牢番らしい兵の姿が見える。
「ちょっと兄さん!そこの牢番っ!!」
大声で呼ぶと、面倒くさそうな顔をした牢番が踵を引き摺りながら近付いてきた。
「…ったく。何だ」
「あの、今日は何曜日ですか?」
「ん?ああ…木曜だが」
「そ、そう…ですよね、やっぱり」
何度確かめても同じだ。やはり明日が約束の日である。
「???」
首を捻りながら立ち去ろうとする牢番の袖を、臣は再び捕まえた。
「あ!ちょっと待って!!すみません、もう一つだけ――。つかぬことを伺いますが、私はここに明日の何時まで拘束されるんです?」
「ノイズマン少佐からは、午後三時になったら釈放しても良いと言われている」
「三時…っ!!」
愕然とした。どれほど急ごうが、何をしようが到底約束の時間になど間に合わない。それどころか既に三時間も回っているではないか――!
恐らくは定刻通り牢を出されたとしても、その後でノイズマン少佐のお説教をたっぷりいただく羽目になろう。そしてそれを終えても、その次は釈放の手続きやら何だかのサインを何枚もさせられ、各関係部署への謝罪文やら始末書やらをみっちり書かされて、ようやく別所で没収された私物を受け取れたかと思えば、その足で今度は詰め所へ謝罪に行かされ……最終的に解放されるのは、少なく見積もっても四時半過ぎになるはずだ。
臣はこれまでにあちこちで何度となく繰り返された同じ経験から、その所要時間にある程度の見当をつけることができた。
(まずい…。これではまるで話にならん…》
がくりとうなだれる。
「あの…。それ、ひょっとして昼に負かりません…よね?」
恐る恐る尋ねてみる。
「はあ?何を戯けたことを…」
「で…ですよね…」
格子を握り締め、臣は深いため息をついた。
「俺としたことが何てことだ…。ちゃんと休みだって取ってあったのに――」
* * * * * * * * * * * *
ようやくながら身柄が自由になったのは、なんと翌日の五時を回った頃だった。これほど遅れてはまさか会えるはずなどなかったが、足は自然とあの噴水へと向かっていた。
もううっすらと宵の迫る気配がする。
季節は春。とはいえ、日が暮れればまだ少しばかり肌寒い。その上、既に約束を五時間以上も遅れている。
さすがにもう待ってはいないだろう。
まさかいるはずがない。
だけど…。
ようやく見えてきたあの噴水は、傾きかけた陽に照らされて金色に輝いている。
激しく息を切らせ、臣は約束の場所を目指していた。
「あ…!」
目を疑った。
なんとあの噴水の、あの日と同じ場所に、まったく同じ格好で腰掛ける赤いおさげ髪の少女がいるではないか!
「あ!」
気付いた少女が、同じように声を上げて立ち上がる。
あたふたと駆け寄れば、見覚えのある拗ねた瞳が、じっと臣を見上げた。
「あ…あの…」
息を整えるより先に口を開いたは良いが、まず何と声をかけたらいいだろう?何と言い訳すれば許してもらえるのだろう――?
いや。
まずは誠心誠意、謝罪することが先決だ。
「す、すみません!!ほんとに…その…何とお詫びしたら…。でも、あの…決して忘れていたわけじゃないんです!何て言うか、ちょっといろいろ事情がありまして…。その…とにかく、すみませんでしたっ!!」
臣は深々と頭を下げた。
「本当?ほんとにちゃんと覚えていてくださったの?」
むっと頬を膨らませた少女は、訝りの眼を向けた。
「ほ…本当です、クラウディア様!ちゃんと休暇だって取ってあったんです、ほんとに…!!」
必死になって弁解すると、思いがけずクラウディアの顔は、ぱあっと柔らかに綻んだのだった。
「まあ!お仕事、見つかったのですね!!」
「え…?」
意外な反応が却って臣を戸惑わせる。
「あ…えっと…。ええ、まあ…」
てっきり腹を立てているとばかり思っていた。きっと許してもらえないだろうと…。
それなのに――。
思いがけずあっさりと笑顔を見せた彼女に、逆に臣はうろたえるのだった。
「でも良かった。来てくださって――」
嬉しそうに臣の手を取り、クラウディアは愛おしそうに頬を寄せた。その顔には、あの美しい笑みが宿っている。
触れた彼女の手と頬がやけに冷たい。ずっと一人、ここで自分を待っていたであろう彼女――頬も手も体もすっかり冷えてしまっている。そんな健気な姿を思えば胸が痛い。
「なかなかいらっしゃらないから、嫌われてしまったんじゃないかって…わたくし、ちょっと心配になっていたの」
クラウディアは恥ずかしそうにそう言った。
「そんな、まさか!!あの…本当にすみません、随分とお待たせしてしまって…。私の方こそ、正直、もういらっしゃらないんじゃないかと――」
慌てて彼女の言葉を否定した。
だって、まさかそんなはずがないじゃないか。
嫌うどころかむしろもう…。
「でも、ちゃんとこうしてあなたは来てくださった…」
ほんのりと潤んだ瞳が臣を見ている。
そう…彼女を嫌いになどなるはずがない。それは確かに、口が裂けても本当の気持ちなど言えるはずもないけれど――。
「……」
さり気なく目線を外し、臣は自分の足元を見つめた。真っ直ぐ自分に向けられた眼差しは、あまりに素直でまぶしくて、とてもじっと見続けることなどできなかった。
「大丈夫…いくらでもお待ちします。だってあの日、きっといらっしゃるって…あなた、そう仰いましたもの」
顔を上げた臣に、クラウディアはにっこりと微笑みかけた。夕焼けに照らされたその笑顔は、まるで地上に舞い降りた天使のように神々しく美しかった。
「わたくしはあなたを信じます」
「クラウディア様…」
見る人を虜にする優しい微笑みだ。
ただこうして見つめているだけで切ない気持ちがあふれてくる。愛おしさで胸がじんと熱くなる。
彼女は信じることしか知らない。そんな無垢な心は、もう来ないなどと簡単に彼女を諦めさせたりはしなかった。また会えると信じて疑わなかったこの澄んだ瞳――それが彼女をここに留まらせてくれた。彼女の純粋な心がまた彼女と自分とをめぐり逢わせてくれたのだ。
そうか…信じるということは、これほどまでに清穆で尊いことだったのか――。
「あ――!あのね、臣様。今日はわたくしが生まれた日なの。わたくし、今日で十八歳になったの」
「え!!あ…お誕生日でいらしたんですか!?先にそう伺っていれば何か…」
クラウディアは臣の手を握ったまま、噴水の縁に腰掛けた。その手に導かれるまま、臣も先週と同じように彼女の隣へ腰を下ろす。
「いいの。あなたにまた会えただけで嬉しいの」
「でも、それじゃああんまり…」
そう言いながら、とりあえずごそごそとポケットなど探ってみる。いくら探しても目ぼしい物など出てはこないが、たった一つだけ、多少なり価値のありそうなものを思いついた。
「あ、そうだ。じゃあこれ…」
臣は左の小指にしていた指輪そっとを外した。細かい彫り物のされたリング――そのデザインからひと目で男物とわかる指輪である。
「指輪…?」
受け取ったそれをかざしてみれば、細かな装飾が夕陽に煌く。
「あなたのような方にこんなものを差し上げるのは、却って失礼な気もするんですけど…。でも、あの…実はこれね、生まれて初めて給料をもらった時に自分で自分に買ったものなんです。当時は私もまだ子どもで、たいした額も稼げなくて…ですから、その…結構な安物ですし、もう傷だらけですけど一応は一点ものでピュアシルバーですから」
クラウディアは目を丸くした。
「そんなに大切なものを…?大切な記念の品なのでしょう?」
「ええ…。でも、もう小指にしか入らないんですよね、これ。本当に今思えば馬鹿な話なんですけど、何分幼かっただけに、自分の体が今後成長するってことにまで考えが及ばなくて…」
恥ずかしそうに笑うと、クラウディアも肩を震わせてくすくすと笑った。
「でも、きっとあなたの指になら入りますよね?…って、男物だから似合うわけないか」
「ううん。ありがとう…とっても嬉しい」
そっと左の薬指にはめてみれば、やはり少し大きい。それでもクラウディアは嬉しそうにその手を胸に抱いた。
「シルバーってね、これを買った北の大陸では魔除けに使われていたんです。ですから…あの、お守り代わりにでもどうぞ。でも、本当にご迷惑じゃないですか?」
「迷惑だなんて…。ほんとに…ほんとにすごく嬉しい。こんなに素敵なプレゼント、今までにいただいたことがないわ。ありがとう…」
笑みを湛えた目が、また少し潤んでいる。高貴な身分の彼女から見れば、おもちゃのような代物だ。それをこんなに喜んでくれるとは思わなかった。
臣は照れくさそうに笑った。
「いや…そんな大層なものでは…」
「だって、ここには幼い日のあなたの心がこもっているのでしょう?わたくしの知らないかつてのあなたのことを、この指輪はたくさん知っているのでしょう?」
「ええ、まあ…」
「素敵…。一生、大切にします」
色々とほっとした。
「では、これで遅刻のことは許していただけます?」
「次は遅れないって約束してくださるなら」
にっこりと笑って、クラウディアは右の小指を差し出した。子どもが約束を交わすときにする誓いの指きりのまじないだ――。別の国で同じような習慣を見たことのある臣は、ごく当たり前にそこに自分の小指を絡めた。
クラウディアは満足そうだった。
「あ…あとね…臣様。もう一つだけお願いを聞いていただきたいの。この間、言おうと思って言えなかったことなのだけれど…」
「何なりと」
「あのね…クラウディアって呼んで欲しいの。その方がお友達らしいなって思うの」
「はい…。畏まりました、クラウディア」
「でね…それでね…。そういう改まった言い方じゃなくてね、もうちょっと普通にお話して欲しいの」
「はい。分かりました」
彼女と過ごす時間は、どの瞬間も優しさに満ちている。嫌なこともつらいことも、彼女の前ではみんな形を潜めてしまう。
二人は指を絡ませて笑った。
* * * * * * * * * * * *
翌日――。
今日の勤務は夜勤なので、昼過ぎに宿舎を出れば余裕で間に合う。
どういうわけか割り当てられた宿舎が城の敷地の隅にあるため、そこから毎日北の国境へ通わねばならない臣は、ついに馬を貸与された――と、こう言えば聞こえは良いが、実情はむしろその逆だ。
つまり、軍へ志願したときに馬に乗れるかと尋ねられたので、正直に乗れると返事をしたら、望んだわけでもないのにこんなに勤務地から離れた宿舎を与えられてしまったのである。
いくら狭い国とは言っても、国の最南端にある城から北の国境では、ちょうど城下のど真ん中を突っ切る形で国そのものをも縦断せねばならず、どれほど馬に鞭を入れようとも、優に1時間半はかかってしまう。しかもそれが毎日続く。
また、こうしてわざわざ自分専用に馬を与えられたとあっては、新兵で、まるっきり下っ端の臣はその世話まで自分ひとりでせねばならない。お陰で、遅番でも早番でも、とにかく朝は一番に起床。しかも、これまた毎日のことだ。時間外手当も一切なし。正直、こんな面倒なことはない。
臣はまだ暗いうちに起き出し、眠い目をこすりながら厩舎へと向かった。幸い厩舎は彼の宿舎のすぐ脇だ。与えられた角部屋からならば、ちょうど目と鼻の先である。
「おはよう…ベアトリス。…だったっけ?」
ベアトリスと呼ばれた黒鹿毛の牝馬は、待ってましたとばかりに鼻を鳴らした。
「おまえ、元気の方は申し分ないが、ちょっと重そうだな…。普段、馬場に出してもらっていなかったのか?」
色々と話しかけながら、まずは彼女の体調をくまなくチェックする。
一方、当のベアトリスは、初めて目にする人物に興味津々の様子だ。先ほどから耳をぐるぐると動かして、臣をしきりに観察している。その結果、どうやら彼女は、臣が自分に害をなす者ではないと判断したようであった。
ベアトリスは軍の馬とは思えぬ人懐こさだった。呆れたことに、臣が正面へ回った途端、早速大きな頭を摺り寄せてくる。確かに可愛い奴と言えなくもないが、初見のうちからこうも愛想を振りまかれると、こちらもつい拍子抜けしてしまう。だが、よくよく考えてみれば、どこの馬の骨とも知れぬ異国出の人間に貸し出されるような馬である。血統も出来もそれなりで然るべきだろう。
臣は苦笑した。
「立派な名前の割には、おつむの方は弱そうだな…。ま、何にせよ、当分はおまえが俺の相棒だそうだ。よろしくな」
初対面の挨拶もそこそこに馬房の掃除を終えると、臣はベアトリスに馬具を付け、そのまま外へと連れ出した。
まだ外は暗く、東の空がうっすらと明るくなり始めたばかりだ。景色などほとんど見えはしないが、夜目はベアトリスが利くので問題はない。
ベアトリスと共に城の敷地を抜け、臣はそのすぐ南側に広がる海岸を目指した。緩く心地よい潮風が髪を梳くように吹き抜ける――。
ここはのんびり早朝の海辺を散歩…と、決め込みたいところだが、困ったことに今すぐにも走りたいと急く彼女の心が、まるで手に取るように馬上へまで伝わってくる。こちらが少しでも気を抜くと、同じ調子で歩いていたはずのベアトリスの足はすぐに乱れてしまうのだ。臣は必死に手綱を操り、逸る彼女を引き止めていた。
調教こそひと通り入っているが、どうやらベアトリスはこれまであまり人に構われなかった馬のようである。
「なんか…この馬鹿が付くほどの気立ての良さに我の強さ…。どっかのお嬢様に似てないか…?」
ため息のついでに口をついた自分の言葉に、思わず吹き出した。臣は、この国に来て真っ先に親しくなった人物の姿を思い描いていた。
天真爛漫で奔放で…そして、どことなくちょっと調子の外れたかのお嬢様は、見てくれこそとても高貴で上品で、そこらの女が束になっても敵わぬほどの美貌をお持ちだが、その素顔は結構なわがまま娘でじゃじゃ馬だ。
しかしながら彼女には、貴族にありがちな傲慢さや横柄さなど欠片もない。彼女の内から、あふれ出る温もりは、聖母のような優しさと一点の曇りもない純粋な心に満ちていて――。
「……」
臣は深いため息をついた。こんな風に想ったところで、国も故郷も持たぬ風来坊に、由緒正しきお貴族様では釣り合いなど取れるはずもない。当然ながらどうにもならぬ相手である。
ふと我に返れば、並足だったはずのベアトリスの歩調が、また勝手に速足へと変わってしまっている。
「世の中ってやつは思うようにはいかないものだな…。やれやれ…分かったよ、ベアトリス。もう分かったから…。ほら、俺の負けだ。好きなだけ走れ!」
腹をひと蹴りしてやると、ベアトリスは走り出した。海岸の断崖の上をまるで風の如く…東雲の空を翔るが如く――。