001 はじまり
体が重かった。
悪夢から目覚めた時の様な、嫌な感覚。
体中にへばりついた汗。その不快さに顔をしかめ、手で拭おうとする。
しかし腕が動かなかった。
何かが自分の上に圧し掛かっている。結構な重さだ。
何なの、これ。すごく嫌な感じなんだけど。
頭痛もするし、最悪な目覚めだ。
仕方ない、一度目を開けよう。
そう思い、不機嫌そうに口をとがらせた奈津子が、ゆっくりと瞼を開けた。
血まみれの母の顔が、目の前にあった。
恐怖に見開かれた目が、自分を凝視している。
首がありえない角度に曲がっていた。
大きく開かれた口からは、今にも絶望の叫びが聞こえてきそうだ。
血に混じった唾液が、だらりと垂れている舌を伝い、奈津子の胸元にぽたりぽたりと落ちていく。
「……」
奈津子は無言で母の体を押しのけ、ようやく自由になった腕で汗を拭った。
そして分かった。
汗だと思っていたものが、母の血だということに。
「……そっか……そういうことか……」
少しずつ意識がはっきりとしてきた。
今日は9月23日。
三連休を利用した旅行の帰りだった。
隣家で、家族同然の付き合いをしている大野家との合同家族旅行。
父の運転するワンボックスカーに、奈津子と両親、幼馴染の大野春斗とその父。総勢5名での旅行だった。
旅先では意外と楽しめた。今年別々の高校に進学し、以前に比べると交流も減った春斗ともたくさん話が出来た。
もう少しここにいたいな。そんな名残惜しさを胸に、車は高速道路に入った。
運転席の父は上機嫌な様子で、助手席に座る春斗の父と話をしていた。
奈津子は疲れ気味で、少しうとうとしていた。そんな奈津子に春斗が、「次の休憩所まで寝てなよ。着いたら起こしてあげるから」そう言って優しく微笑んだ。
その時だった。
全身に衝撃が走り、奈津子の意識は途切れたのだった。
押しのけた母の死体は、足元にずるりと落ちていった。
奈津子が視線を運転席に向ける。
「……」
運転席と助手席の二人は、フロントガラスに頭から突き刺さっていた。
頭蓋骨が砕け、顔の原形をとどめていない。最早どちらが父なのか判別もつかない。
おびただしい量の血に交じり、灰褐色の脳漿が辺りに飛び散っていた。
シートベルト、これだけの衝撃だと意味ないんだな。そんなことを思いながら、奈津子はため息をつき、隣の春斗に視線を移した。
「よかった……」
シートベルトに守られた春斗は、前のめりの状態で気を失っていた。
呼吸は規則的で穏やか。こんな状態でなければ、うたた寝しているようにしか見えない。
頬についた血は、恐らく奈津子の母のものだ。奈津子は力なく春斗の頬に手をやり、指で拭おうとした。
しかし血まみれの自分の指は、春斗の頬を更に汚してしまった。
「ははっ……駄目だ……」
力なく笑い、天井を見つめる。
「そっか……事故ったんだ、私たち……」
誰に話す訳でもなく、奈津子がつぶやく。
春斗の手を握り、何度も何度もつぶやく。
車内は気持ち悪いほど静かだった。
何も聞こえない閉ざされた空間に、奈津子の声だけが響く。
「あっけないんだな、人って……」
そう言って微笑む。
倦怠感が蘇ってくる。
瞼を閉じると、猛烈な睡魔が襲ってきた。
「まあ……どうでもいいけど、もう……」
そうつぶやき、奈津子は再び意識を失った。