夕日に溶けたぼくの思い出
お父さんは偉大だなって話
夕日に溶けたぼくの思い出
如月はな
ぼくがまだ幼かった時、父の仕事が早いので家族で過ごせる時間があまりなかった。
せめて夜食だけでも家族みんなで食べようと、夜はみんな食卓を一緒に囲んでいた。
尊敬する父。
その隣に優しい母。
ぼくの隣には大事な妹の舞子。
大好きな時間。
大好きな家族。
何でかは忘れたけど父が珍しく冗談を言って、家族は大爆笑した。
母は腹をねじるようにして笑う。
舞子も子供特有の高い声で笑う。
ぼくも笑いをなるべく抑えようとしたけれど、こらえきれなくなって結局は大笑いをした。
そんな幸せがいつまでも続いていくと思っていた。
やがてぼくは小学校に入学した。
その頃に、父はぼくに勉強を教えるようになっていた。
「樹、人間学があれば将来はなんとかなるものなんだ。だから教えてやるから勉強だけはしっかりするんだ。そんな大変なことでもないさ」
その時は知らなかったが実は父が長年勤めた会社から解雇させられ、再就職もなかなか決まらずそのためにぼくを同じ目に合わないようにそう言っていたようだった。
「樹、頑張れ。お前は物覚えも早かったし大丈夫だ」
そんな言葉を毎日言われ続け、寝る時間を惜しんでまで、父が作った宿題問題を何十ページもやらされストレスは溜まる一方だった。
『頑張れ』
ぼくはその言葉を聞くたびに憂鬱な気分になったものだった。
父が働けないのなら、必然的に家族を支えていくのは母しかいなかった。
近所のスーパーでパートで働いてる母は、相変わらず優しい笑みを絶やさなかったが顔には生活疲れが刻まれていた。
それでもぼくたちは家族だった。
家族が簡単に壊れてしまうなんて、小学生にどう想像できると思う?
それから数年が経ち、やっとぼくは小学五年になる。
ぼくは大人しい性格の子供で、あまり友人はいなかったが、認めたくはないけど父のおかげで成績はトップクラスだった。
父はそこからまたぼくに干渉するのが嬉しそうに…そう、子供がプレゼントの箱を開けるかのような、そんな目でぼくの回答の答え合わせをし、思った通りの答えを出す息子を見ることで自分の全てを託していたのでは、と今では思う。
しかしその頃には、父と母はよく衝突する様になっていた。
「あなた自分がやり過ぎてるって自覚ないの!?いつも目の下に隈が出て…」
「大丈夫、あいつには素質がある。おれだって芽の出ない種に水をやるわけじゃない」
「そうやっていつも勉強、勉強ばっかりじゃない!たまには普通の父親にもなってあげてよ!」
二人が喧嘩をする。
それはまだ子供のぼくにはすごく怖くて、不安で泣きたくなるほど悲しかった。
一緒に寝ている舞子も、眠りは深い方なのにこの時ばかりはぼくの布団に入って泣いていた。
幼い舞子には、ぼくよりずっと辛かったと思う。
「お兄ちゃん…またママとパパケンカしてる。舞子たちどうなっちゃうの?」
ぼくのパジャマを震える手で引っ張る。
そんな妹を上手く宥めることすら出来なかった当時のぼくは「大丈夫だよ」と、その手を握ることしか出来なかった。
「お前はパパとママ、どっちを選ぶ?」ある朝、父がそんなことを言い出した。
「どっちが、って…」ぼくは狼狽した。
「どっちを選ぶ?」またそんなことを言う。
「え、と…」
「どっちだ?」ぼくは答えに困窮した。
母その頃、よく父に泣かされていて、それで舞子は父に対してあまり良い印象もないはずだった。
誰にも父の味方がいない。
その事実にぼくの心は揺さぶられた。
「…ぼくはパパを選ぶよ」
父は安堵したようで「そうか、樹、ありがとう」そう言うと少し照れたような表情を見せた。
次の日、ぼくが学校から帰ると、父はそれを待っていたようで「樹、河原に行こう」と言った。
父がぼくにそんなことを言うのは初めてで、少し戸惑う。
「別にいいけど…勉強はどうするの?」
「1日くらいは休んでもいいだろう?」父はそう言うと薄手のシャツにジーンズに着替えてぼくに来るように催促した。
「分かった、じゃすぐ行くから」ぼくはランドセルを部屋に置くと父を追いかけた。
すでに夕方になっていたので河原が眩しかった。
夕日が溶けていって、綺麗だなあ、と見惚れてしまう。
この川は自宅から近いのだが、父は勉強ばかりで子供遊びもしてくれたこともなかった。
なんとなく、河川敷から父と二人で無言で夕方を見ていた。
先に口を開いたのは父の方だった。
「学校はどうだ?」
「変わらないよ」
「友達はできたか?」
「いないこともないけど、みんな子供っぽいし馬鹿ばっかりだからあまり関わりたくないかな」
「お前だってまだ子供じゃないか」そう言うと父は大きな手でぼくの頭をくしゃくしゃ撫でた。
覚えてる限りはそんなこと初めてだった。
「ここから見るとこんなに夕日が綺麗だったんだな。パパはそんなことにすら気づいてなかったよ」父は穏やかなのに少し遠いところを眩しそうに見た。
「少し視野を広げるだけでこんなに綺麗なものはたくさんあったんだろうな」
「パパ?」
「なんでもないよ。帰ろうか」
そういうと父はうちの方向に歩いていった。
ぼくもその後を追う。
次の日、学校から帰るともう父は家にいなかった。
母は一言言った。
「パパはもうお家には帰ってこないの。これからは三人で力を合わせていきましょう」
「パパは?パパはどこ行ったの?」
「ママとパパはずっとケンカばっかりだったでしょ。このまま一緒にいるとみんなだめになっちゃうの。たくさん話し合いをして、パパが出て行くことになったのよ」
ぼくは気付いていた。
父がいつもと違っていること。
言動も態度と全く違っていた。
もし昨日のうちにそれを口にしていたら最悪の事態は免れていたのかもしれない。
でも、ぼくはそれを口に出来なかった。
それを口にすると、今にも父が消えてしまう気がして…。
『ぼくは、パパを選ぶよ』
そう約束したのに、父は居なくなってしまった。
でも、あの時の父の表情は本当に嬉しそうで…。
それを思い出し、ぼくは大粒の涙を流した。
父の全てを受け入れていたわけじゃない。
どうしてもっと、普通に愛してくれなかったのか。
もしかしたら、側から見たら歪んだ親子に映ることもあったのかもしれない。
でもそれでもぼくは憎しみだけを父に持っていたわけではなかったのだ。
父も不器用でぼくも不器用過ぎたのだ。
そこには確かに親子の絆があったのに…。
「ママだ!ママのせいだ!!」ぼくはそう言うと母の胸元を両手でぶった。
悲しいようで、それでも襲ってきた怒り。
本当は分かってる。
これは母だけのせいじゃない。
ぼくらの家庭はとっくに破綻していたのだ。
もうだめな崩れそうな名だけの家庭をみんなで支え合ってただけだった。
そして遂にそれは決壊してしまった。
ぼくは泣いた。
ずっと母をぶつ。
母もその感情を理解してくれていたようで、ごめんね…。と言うとぼくの頭をずっと撫でていてくれた。
「もうパパとは会えないの?」
「ごめんね…」母はまたそう言った。
一番困ったのは舞子のことだった。
まだ小学一年の舞子にどう話せばいいのか。
その日の夜食に母が言った。
「パパとママは別々に暮らすの。ママがいるから大丈夫よね?」
舞子は上目遣いで母の顔を見ていた。
「もう帰ってこないの?」
「そうね…」
「舞子がいい子にしてても?」頷く母。
「なんで家族みんなで仲良く出来ないの?なんで?なんで?」みるみる泣き顔になっている。
「舞子、世の中には上手くできないこともあるんだよ」ぼくはそう言ったが、舞子は大声で泣き出した。
父から受け取った勉学。
これに背いてはいけないとぼくはさらに勉強に精を出すようになった。
有名私立の中学校。
それはさすがに無謀かと思われたが、ここで負けたくはなかった。
塾へと通い、一人でも寝る間も惜しんで勉強した。
勉強、勉強、勉強…。
側から見ても鬼気迫るものがあったようで、母からも、少しは食べなさい。少しはゆっくり眠りなさい。そう言ってくるがぼくは聞き入れなかった。
今でもぼくは父の理想の息子でありたかった。
せめて、それだけ。
本当にそれだけでも…。
今まで必死な勉強を繰り返したのが幸いし、中学受験のテストは余りにぼくには単純で簡単過ぎた。
これでおそらく、ぼくはその中学生活している自分が頭に浮かんだ。
受験発表日。
やはりぼくの番号はボードに書いてあった。
ぼくは周りを見渡す。
母は早く、ちゃんと合否を確認したいと言って、すぐ行くと言っていたのだ。
学校の校門で母を探す。
するとやっとぼくの視界に遠くから母の歩いてきた姿を認めた。
「試験はどうだったの?」
「合格だよ」もっと嬉しがると思ったのに、そう…と言ってバックからハンカチを出して目頭に当てる。
「どうかしたの?」すると母はぼくをぎゅっと抱きしめた。
「ちょっと…なんなの?人も見てるし」
「なんでもない…。なんでもね。あまりにも合格してくれたのが嬉しくて…今日は車で来たから後で家まで送ってあげるね」無理をしてる笑顔を見せた。
なんなんだろう?
そんな母を見るのは初めてだった。
途方に暮れたような、打ちのめされた顔。
どうして母がそんな顔をしたのかはその時は分からなかった。
母の車に乗ると「実は舞子も来たがってたのよ。さすがに樹も妹を連れてくるのは恥ずかしいでしょ。代わりにパンケーキで手を打ったわ」少し落ち着いたのか、母は茶化すようにして笑った。
家に着くと舞子は待ちわびていたのか玄関に走り寄ってきた。
「ママ!パンケーキ!」無邪気に笑う。
もう八つにもなるのに、パンケーキに夢中になるなんてやはりまだ子供なのだろうか。
「今から食べる?それとも晩御飯の後のデザートにする?」
「今!」舞子は待ちきれないようだった。
「はいはい」母は笑いながら舞子をなだめた。
「そんなに甘いものばっかり食べてたら太っちゃうぞ」少しからかってやった。
でも、どちらかというと舞子は小柄で華奢で、いくら食べても痩せたままだった。
「お兄ちゃんは?」「いらない」
そう言うと自室に帰った。
ぼくは父に叶えられただろうか。
理想の息子でいられただろうか。
父さん、会いたいよ。
あれから父の行方すら分かっていない。
視界が涙で滲む。
父さん、父さんはどこにいるの?
ぼく一生懸命勉強したよ。
試験も合格したよ。
一番に褒めてくれただろう父は、もういない。
中学二年になった時、クラスメイトの榊裕二に出会った。
一年の時はクラスが分かれていたので知らない生徒だったが、ぼくはそいつがあまり好きではなかった。
いつも馬鹿みたいに笑って、冗談ばかり言って、グループの真ん中にいる、そんな奴だった。
顔や身のこなしがいつも爽やかで、男のぼくでも魅力的な男なんだろう、と思う。
でも、馬鹿な生徒は嫌いだったぼくは、相変わらず教室で一人教科書を開いていた。
また榊が馬鹿笑いをしていた。
これじゃ勉強に全く集中できない。
苛々しているとふと、榊と目が合った。
榊はぼくに笑いかけた。
喋ったことすらないし、むしろ苦手なタイプなのでぼくはそれを無視した。
英語の授業のことだった。
なんだか寒気がして、頭がくらくらしてきた。
額に手をやるとやはり熱い。
咳こそ出なかったが風邪をひいてしまったようだった。
「先生、保健室行ってきていいですか?」
「体調不良か?一人で保健室まで行けるか?」教師が言い終わる前に「はーい!おれ保健委員!」榊が手を挙げた。
「歩けるか?」保健室に向かいながら榊が問うた。
「大丈夫だよ」榊はまじまじとぼくの顔をのぞいた。
「お前なんて名前だっけ?」「大野樹だよ」正直、気分が悪くて榊とは話すのはいやだった。
「おれは榊裕二」人懐こい笑顔で笑う。
「知ってるよ」目立つ榊は教室でクラスメイト達と大声で話していたので名前は知っていた。
「話したこともないのに名前知ってるとか、変なの」彼は可笑しそうに言った。
保健室には保険医がいなくて、仕方ないのでぼくはベッドに横になっていた。
「薬はよく分からないし…とりあえず熱測ろうか」榊は体温計を取り出した。
ぼくは黙ってそれを受け取った。
熱は三十八度、榊は驚いたように「高熱じゃん!本当に大丈夫かよ」と薬箱を探った。
「これならおれ前に飲んだから知ってるし、これ飲めよ」常備してあるコップに水を注ぐ。
「なんの薬?」「ああ、ただの解熱剤だよ」コップと薬を差し出す。
ぼくは薬があまり好きではないけれど、背に腹はかえられない。
一気にそれを飲み込む。
「しんどそうだなぁ」榊はベッド脇の丸椅子に座った。
「教室戻らなくていいの?」榊は笑いながら「だってあのセンコーの授業退屈だしさー。大野が熱出てくれたおかげで合理的にサボれるわけ!」と言った。
ほんと馬鹿なやつ。気に食わない。
こんなやつがよくこの中学に入れたものだ。
「まだ日が高いな」榊がつぶやくように言った。
「お前はある?大切な人がいなくなったこと」ふいにそんなことを聞かれたがぼくは返事をしなかった。
「おれは、あるよ」榊の意思が汲み取れない。
何故こいつはそんな話題をふってきたのか。
「ぼくにはない」真意が分からないのでぼくはそう言った。
「そう?でもお前ってなんだかおれと同じ匂いがする気がしたんだけど…。外れちゃったかー」
「さっきからなに?」榊は笑いながら「なんでもないよ。それよりあんまり無理させたら悪いから、おれ教室に戻ってくるよ」そう言って立ち上がる。
「お大事に!」そして榊は保健室から去っていった。
保険医が帰ってくると、また体温計で熱を測られ早速早退するように言われてしまった。
学校から母に連絡があったようで、母は学校まで車で迎えにきてくれていた。
「樹は毎日、勉強ばっかりしてるから疲れが出たのよ。今日はお母さんがついててあげるから勉強を休んでゆっくりしなさい。いいわね?」「分かってるよ」目眩がして身体中がだるい。
正直、苦しいので話しかけられたくなかったので素直に頷いた。
途中、病院に寄ることとなった。
大丈夫だと何度も母に言ったのに、母は聞く耳を持たなかった。
反論するより受け入れた方が楽なのでぼくは嫌々それを承諾した。
結果、やはりただの風邪だったようで薬を処方してもらう羽目になった。
薬は苦手なのにな…。でも飲まないとまた母に心配をかけてしまう。
思わずため息を漏らす。
「ほら、少しでも食べなさい」いつもの食卓でなくてぼくの自室に母はお粥を持ってきた。
「食べたくない」「食後、って書いてあるのよ。ほら、食べて」と、スプーンをぼくの口元に持ってきた。
そういうのがくすぐった年齢になっていたので「分かったよ。でも自分で食べれるから。薬も自分で飲む。風邪が移ったら大変だから」と、母を遠ざけようとする。
「本当に大丈夫なの?」
すると玄関から、「お母さーん、友達連れてきたの!ジュースとお菓子持ってきてー!」と、舞子の高い声が聞こえた。
「ほら、舞子も帰ってきたみたいだし行ってやって」
「本当に大丈夫?」またそう言う。
「大丈夫だってば」
「苦しくなったらすぐ言うのよ?」母はそう言うとやっとぼくの部屋から出ていった。
その晩は寝付きが悪くて、気分も悪かった。
まだ寒気が止まらず、体の節々が痛い。
もしかしたらこの風邪は長引くかもしれない。
そんな時でも机に座って教科書と睨めっこしたかった。
でもこれ以上酷くなってはそれこそ本末転倒だ。
大人しく、気分を落ち着けてなんとか眠りについた。
その晩、夢を見た。
懐かしい父の夢。
ぼくは十歳に戻っていた。
そんなことしたことはないのにぼくらは河川敷でキャッチボールをしていた。
二人ともグローブをはめ、父が振りかぶる。
風を切りながら球が飛んできた。
それはなかなかの豪速球で、キャッチした手がビリビリ痺れた。
続いてぼくも球を投げたが、あらぬ方向に飛んでしまってボールを返せない。
『樹、もうダメなのか?』声もやはり父の声だった。
『もう無理だよ。ボールなんて投げたことないのに』ぼくはグローブを放り出す。
『本当にこれで終わりか?』河川敷の父は両腕をたらし、心なしか悲しそうに言った。
『もう帰ろうよ』
『もうおれは帰れない。分かってるだろう?』そうだ、父と母は離婚して父と会えることなんて出来なかったんだ。
父はぼくに歩み寄る。
またあの時のそうに頭を撫でる。
『ぼく、まだ父さんと色々話したいよ。もっと色んなこと、教えて欲しかった』
『ごめんな。全てはおれのせいだな』その言葉に覇気はない。
『またな』そう言うと父は河川敷をぼくと反対方向に歩き出した。
ぼくは動けない。
父さんは本当に遠いところに行ってしまったのだ。
絶望しながらぼくは目を覚ました。
父と会うことができるなら夢ではなく、現実で会いたかった。
今更、かもしれない。
もう何もかも過去とは違う。
形だけの家族。
そこには父がいなくなってぽっかりした穴が修復されるなんてあり得ないのだから…。
それから三日後、やっと熱は下がっていた。
しかし母にもう一日学校を休みなさい。と学校を休むのを余儀なくされた。
さすがに三日も自室にこもっているのが退屈でならなかった。
ぼんやりとベッドの中で天井を仰いでいた。
明日こそは学校に行けるだろう。
少し眠くなっできたので眠ることにする。
「お兄ちゃん、起きてよー」舞子の言葉で目が覚めた。
「なんだよ?」体を起こす。
「お兄ちゃんのお友達がお見舞いに来てくれたよ!」
友達?
何故か榊が来たのだ、と確信した。
「分かった。部屋に通して」「お兄ちゃん!お兄ちゃんが部屋に入っていいよって」あっちもお兄ちゃん、こっちもお兄ちゃん、忙しいやつだ。
「よっ!」そこには思った通り榊がいた。
「お前にこんな可愛い妹さんがいるなんて知らなかったよ。おれ意外と子供好きなんだ」榊が舞子に笑いかけ、舞子は照れているのか、もじもじしている。
「熱は下がったか?」「もう大丈夫。明日には学校も行けそうだよ。というか、なんでお前ぼくの家分かったの?」
「担任が教えてくれたよ。優等生で学校休んだことのない大野が三日も休んでるって心配だったみたいでな。様子見てくるって言ったら喜んで教えてくれたよ」そう言って持参していたコンビニ袋からごそごそとゼリーとプリンをぼくに渡そうとする。
「せっかくだけどぼく甘いのが苦手なんだ」榊は肩をすくめた。
「じゃ、妹ちゃん。食べる?」舞子は部屋の前ではにかんだように照れ笑いをして「お兄ちゃん、いいの?」と、ぼくのほうをみて言った。
「そうだな、このままゴミ箱入りは勿体ないから舞子が食べなよ」そう言うと舞子はゆっくり部屋に入ってきて榊の横に座った。
「舞子ちゃんって言うんだね。可愛い名前だな。おれは裕二、裕二お兄ちゃんでいいよ。ゼリーとプリン、どっちがいい?」「両方食べたい!」意地汚いやつ…。
「いいよ。お腹壊すなよー。ほら開けてあげるからどっちから食べる?」榊が言うと舞子はしばらく考えてプリンを指差した。
しばらくして、母が帰宅したようで舞子は「裕二お兄ちゃん、またね!」と言うと部屋を出ていった。
この様子ではまたなにかお菓子をねだるつもりなんだろう。
「可愛い妹さんだな」榊は舞子が散らかしたゼリーやプリンの残骸をコンビニ袋に片付けていた。
「ごめんな。あいつうるさいから」
「いいじゃないか。子供はうるさいくらいがちょうどいいよ」と嬉しそうに言う。
「おれにも妹がいるんだ。舞子ちゃんとよく似てるよ。元気で、活発で、無邪気で」「お前にも妹がいたんだ。いくつなの?」
「生きてたら、舞子ちゃんと同じ歳くらいかな」
しばしの沈黙。
「生きていれば?」ぼくは思わずそう言っていた。
「おれが小学生の時、妹とはいつも一緒に帰ってたんだ。その日も一緒だった。妹は車道側を歩いていて、前方不注意の車にはねられた。車のタイヤに巻き込まれて、即死だった」
また沈黙。
「おれがもっと気を遣ってたらそうならなかったかもしれないな」ふー、と息を吐く。
「ごめんな、こんな話して。なんとなく学校のやつらにはこんな話をしにくくて。お前だったら聞いてくれる気がしたんだ」
ぼくは榊を見た。
こんなに覇気のない彼を見たのは初めてだった。
「前言撤回」ぼくは言った。
「ぼくも大切な人がいなくなったことがあるよ」「そんな気がした」榊は軽く笑う。
「小学生の時、父親がいなくなった」
「亡くなったのか?」
「違う、離婚したんだ」
「良かったな」榊のその言葉にぼくは思わず激怒した。「何がいいんだよ?あれからぼくたちの家族は歯車すら回ってない。母さん、舞子、ぼくたちがどれだけ辛かったか…」
「お前にはまだチャンスがあるだろ?生きていればまた会えるかもしれじゃないか」榊の声は優しい。
「…ごめん、そうだよな。榊はもう妹さんに会えないんだもんな。辛いのはお前の方なのに」
「辛さに軽い重いなんてないよ。結局は自分の主観でしか世界は見れないんだから、自分が辛いと思えばそれは立派な不幸だよ」
恥ずかしい。ぼくはいつの間にどんなに捻くれていたのだろうか。
自分一人でなんでも背負っていると思い込んで、過去のしがらみに取り憑かれていた。
そう、もしかしたら榊の周りに人が絶えないのはこういう人柄せいなのだ。
ぼくは初めて榊を尊敬した。
少し前まで、ぼくは榊が嫌いだった。苦手だった。
だけどそれは同類嫌悪だったのかもしれない。
「榊、ありがとう」ぼくは心からそう言った。
「いいよ。おれもすっきりした」そう言った後に「今度、勉強教えてくんね?身の丈に合わないとこに進学しちゃってもういっぱいいっぱい」と両手を合わせた。
思わずぼくは笑った。
その言葉の通り榊はよく、ぼくの家で勉強をするようになった。
榊は本人に言うと怒られそうだか見た目と違い、覚えが早く、教えるのは楽しかった。
「ごめんな、おれに教えてばっかりでお前の勉強遅れてない?」「大丈夫だよ。人に教えるのは復習になるからね」ぼくは言いながら、榊の苦手な数学を教える。
「今日はこれくらいにしとこうか。お前はよくやってるよ」
それでも自分の頭が出来が悪い、といつものようにぼやいていた。
でも本当に榊の努力は凄まじい。
この中学に進学できたのもまぐれではないのかもしれない。
「志望高校決まった?」榊が問う。
「K高校」「うわー、また厳しいとこつくな」
「榊は?」「じゃおれもK高校」冗談だと思ったが榊は真顔だった。
「そんな簡単に進路決めていいわけ?」「大丈夫、大野の金魚のフンになってずっと勉強教えてもらうから」そう言って笑った。
本当にこいつはどこまでが本当でどこまでが冗談なのか分からない。
「裕二お兄ちゃん来てるの?」舞子が部屋に入ってきた。
「お前…ノックくらいしろよ」「大野、別にいいじゃん」
「お前は舞子に甘すぎる」「そうんなことないよねー、舞子ちゃん」榊は完全に舞子の味方だ。
「あ、そのキーホルダー可愛い!!」榊の鞄を見ると、バッグに小さなクマのキーホルダーがあった。
鈴がついてるようで、ちりん、と心地いい音が鳴った。
「舞子ちゃんにあげようか?」「ほんと?本当に?」舞子は目を瞬いた。
「おい、舞子」「いいから、いいから」
ぼくを無視するように、鞄からキーホルダーを外すと、キーホルダーを舞子に渡した。
「大事にしてね」「うん、ずっと大事にする」
「舞子、ありがとうは?」「…ありがとう」照れくさいようでパタパタ部屋を出ていった。
「クマのぬいぐるみ、てキャラじゃなさそうなのに」
「妹の…芽衣の形見なんだ」「お前、そんな大事なものなんで舞子に渡したんだよ?」
「おれにとって舞子ちゃんは可愛い妹みたいなもんだよ。キーホルダーだっておれが雑に持ってるより大事にしてくれる舞子ちゃんに貰ってもらえた方が嬉しいさ」
この頃から、ぼくと榊はお互い親友の間柄になっていた。
相変わらず、学校で悪友たちと笑いあったりしてても「大野、ここ教えてくれよ」とぼくのところへ来るのだった。
頼られるのは素直に嬉しいのだが悪友たちは、またかよ。みたいな感じで遠巻きにこっちを見ている。
こいつは本当に空気が読めないらしい。
中学三年生。
生徒はみな神経質にピリピリしながら教科書や参考書を広げていた。
榊とぼくも必死に勉強していた。
榊にK高校は無理でないかと思っていたが、彼の学力はどんどん上がっていき、ぼくにこそは敵わないにしても結構いい線をついていた。
ぼくも頑張らなきゃ。
父さんならきっとぼくが言わなくても、K高校に行け。と言うはずだったから。
勉強に勉強を重ね、買い食いや遊びやテレビを見る暇も惜しんでぼくはまだ机に向かう。
受験発表日。
K高校まで榊と足を運ぶ。
ボードを見た榊が「ある!おれの番号がある!」と興奮していた。
「大野は?」「…」「お前…まさか…」「合格だよ」少し意地悪をしてみた。
「驚かすなよなぁー」
「でも大学受験はもっと厳しいよ。これからも勉強は教えてやるけどもっと苦しい戦いだってあるんだから」「まあねえ」聞きたくない言葉を聞かされたようにため息をつく。
とある女生徒と目が合った。
セミロングの黒髪にいかにも清楚そうな、ぼくには接点もなさそうな女の子。
彼女はぺこり、と頭を下げると桜の花びらの中に消えていった。
中学の時と勝手が違い、勉強するのも嫌気が差してきた。
榊とはクラスが離れてしまった。
しかし、そのクラスには例の女生徒がいた。
大人しいグループに入っていて、いつもくすくす笑い合う。
声が高くて、笑うと止まらない、笑い上戸のようだった。
こうして見るとこの子、すごく可愛い子なんだな、と思う。
休み時間になり、榊がぼくのクラスにやってきた。
「大野!今のうちに便所行っとこうぜ」「うるさいなあ」ぼくはため息をつく。
するとその女生徒がぼくを見ていて、微笑んだ。
「お、お前、木崎まゆと仲良いの?」トイレに向かう途中で榊が聞いてきた。「名前すら知らなかった。有名な子なの?」
「この学校の一番の人気ある女の子だよ。あれだけ可愛けりゃいくらでも男が寄ってきそうなもんなのに誰とも付き合う素振りすらない。そう健気なところがまた可愛い」興奮してそういう榊に「それただのお前の見解じゃないの?」「違うし」榊はぶーたれていた。
その日は教師に資料の片付けを頼まれていたので、学校を出ると外はずいぶん暗くなっていた。
校門のところで木崎まゆ、という例の彼女がポツンと立っていた。
「大野君」彼女はぼくに駆け寄ってきた。
「木崎さん?どうしたの?」
「わ、名前知っててくれたんだ。うれし」にっこりと微笑む。
「で、なんか用なの?」彼女は一呼吸置くと「大野君のこと好きなの。付き合ってくれたりしないかなって…」叱られた子犬のような表情だった。
何故、この学校の一番可愛い女の子に告白されているのだろう。
現実感がない。
あ、そうか。冗談か罰ゲームなんだ。
「いいよ」ぼくはそう言った。「ほんとに!?」嬉々して彼女はぼくの顔を覗き込む。
「うん、本当」「大野君の家からわたしの家はちかいんだ。一緒に帰らない?」
あれ?もしかしてこれドッキリではない??
そうしてぼくは、人生で初めて恋人ができた。
その次の日、家を出たら木崎が立っていた。
「高校生らしく学校まで一緒に行こうよ」手を掴まれた。
恥ずかしい。慣れてない。免疫がない。
かと言って離してくれ、とも言えない。
「さてはお主、緊張しておるな?」ちゃらけた様子で木崎は笑った。
「でも大丈夫。わたしもすごく緊張してるんだ〜」白い頬に赤みが差していた。
「ひとつづつ恋愛も勉強しておこう」
「難解な問題だな…」昨夜雨が降っていたせいか彼女の足元に大きな水たまりがあった。
気付いてなかったようなので腕を引っ張る。
「あ、ありがと。びっくりしたぁ」女の子にマトモに触れたことはないけど、女の子の腕ってこんなに細いんだ。
「今日のお昼は何食べるの?」「購買でパンを買うつもり」「それはだめー」と、木崎は言った。きんちゃく袋をぼくに見せる。
どうやら弁当のようだった。
「木崎さんが作ったの?」「木崎さん?」少し機嫌悪くなったような素振りを見せる。
「えっと…まゆちゃん、でいいのかな」「ちゃん、なんてなくてよくない?」やっと真意を汲み取ったぼくは照れながら「ありがとう、まゆ」と言った。
まゆは心底嬉しそうに笑った。
本当に笑顔の似合う子で、可愛らしい。
改めてそんなまゆが自分の恋人であると思うとなんだかくすぐったい。
「樹君は勉強得意でしょ?」「得意でもないんだけどね」
「今度わたしにも教えてくれない?もちろん榊君も一緒でいいよ」「榊のことも知ってるんだ」まゆは、ふふん、と威張ったように言った。「恋する乙女をなめるなよ?友人関係なんてリサーチ済みだよ」
「まあぼく、あいつ以外の友達はいないけどね」まゆはその愛らしい顔で、知ってるよ〜。と笑った。
女の子ってすごいんだな。
ぼくは他人に心から興味を持ったことがなかったのだろうか。
「まゆはぼくのどこが好きなの?」そう聞いてみた。
「真面目そうで優しそうで、でもみんなと一線置いてるとこ。わたしはそういうの苦手だから、そういうとこが好きになったんだ」
女心っていうのは全く分からない。
学校まで着き、まゆは先に行ってるね!と教室までかけていった。
まゆはもてるようだし、下手な噂でぼくに迷惑がかからないようにしてくれたんだな、と思った。
「樹君、ちょっと」昼休み、まゆがぼくの机に向かってきた。
「今から一緒にお弁当食べない?榊君も一緒に」と小声で言った。
榊は購買でパンを買いに行っているようだった。
「分かった。じゃ行こうか」そう言って先に教室を出た。
「いつも屋上でご飯食べてたの?」太陽が眩しいのか、まゆは手のひらで太陽の光を遮った。
「うん、榊といつもここでね。あいつうるさいから屋上じゃないと迷惑だし」まゆが笑う。
「でも親友なんでしょ?いいなあ。わたしは親友ってよく分からない。友達はたくさんいるけど、本質的には関わってないのかもしれないね」「なんでそう思うの?」「わたし、小学生の時イジメにあってて、人間が一番怖いって思い知った。だから上辺だけ取り繕って友達ごっこしてるだけだよ」いつも明るくて、元気で、友達に囲まれてるだけの女の子だと思っていたので少なからずぼくは驚いた。
「イジメなんて、くだらないことするやつもいるんだな」「仕方ないよ。みんな子供だったし。イジメるってことでしか自分を肯定することができないんでしょ。被害者でいるうちはいいよ。加害者になって、人を傷つけるなんて馬鹿らしい」まゆはもう一度呟くように、本当、馬鹿らしい。と言った。
思ったより、この子真は強い性格なんだ、と思った。
ぼくみたいに、君子危うきに近寄らず、のような生き方と違って、まゆは処世術で身にかかる火の粉に立ち向かっている。
女の子っていうのは、すぐに泣いて、ヒステリックで、面倒くさくて、うるさくて…と思っていたぼくは自分が恥ずかしくなった。
ぼくの視野は意外に狭い。
その時に「なんで木崎がここにいるの?」と屋上の扉から聞こえて、そちらを見ると榊が狐につままれたような顔で立ちすくんでいた。
「榊君には言ってもいいよね?わたしたち、昨日から付き合うことになりました」まゆは上機嫌だ。
「まじかあ〜…」榊は明らかに残念がっていた。
「榊君はパンなんだよね。よかったらわたしの分食べる?」と、自分の分であろう弁当を榊に差し出した。
「えー、そうしたら木崎の分なくなっちゃうじゃん。いいよ、おれパンあるし」「じゃ、ちょっとつまんでよ」弁当の箱を開ける。
おにぎり二つ、卵焼き、春巻き、エビフライ、ミートボール。
見るだけで美味そうだ。
「じゃ、ミートボールいただき!」そう言ってそれを口に放り込む。
「うまっ!なにこれ!?」「えへへ、自家製のミートボール。気に入ってくれたら嬉しい」ぼくも我慢できなくなって、弁当を開ける。
これが恋人の作ったお弁当!
ぼくは美味しい弁当を頬張り、今考えると少し浮かれていた。
それからぼくら三人はよくつるむようになった。
榊が戯けてまゆを笑わせる。
ぼくは冗談っぽく榊を嗜める。
舞子もまゆを気に入ったようで「まゆお姉ちゃん」と懐いていた。
ぼくは甘いものは苦手だから、食べれなかったけどまゆはクッキーやケーキをよく作ってきてくれて、舞子はもう十四歳になるのに、いつもそれを楽しみにしていたようだった。
勉強の休憩中にぼくらは色んなことを話し合った。
自分にこんな幸せな時間が来るなんて信じられなくなった。
母は相変わらず、パートで疲れていたようだけどぼくに親友と恋人が出来たのを自分のことのように喜んだ。
舞子も「あたし、彼氏ができたのー。すごく優しい人!顔はかっこよくないけどね」この年頃の女の子はこんなに急にませたりするものなのだろうか。
榊にのろけて、まゆに自慢する。
みんなで笑う。
高校三年。
二年の時はまだ余裕を持っていたがさすがに尻に火がついた。
「大野、お前最近勉強し過ぎじゃないの?」その返答をするのも惜しいくらいだった。
ぼくの部屋に来ていた榊が心配するように言った。
「そんなに頑張るって、一体どの大学にいくつもりだよ?」「T大に決まってるだろ」榊は目を丸くした。
「そんなにこだわるって…。滑り止めくらいは受けとけよ」
「だめだ。妥協はしない。父さんがいたらそう言うはずだ」
「お前まだそんな…」榊は呆れたようだ。
「そうしないと父さんを裏切ってしまう。ぼくの唯一の道標だ」「じゃあお前の人生はどうなるんだ?一生父親の呪縛から解放されないつもりか?」「呪縛?違うよ。ぼくはぼくの意思で道を選んでるよ」
「だからさぁ…」「邪魔するなら帰ってくれよ」口調に棘が出てしまう。
榊は長いため息をついた。
「分かったよ。口出しはもうしない」やっと諦めたようだった。
その晩、榊が父の話題をしたせいか、久しぶりに父の夢をみた。
あの夕日が溶ける河川敷。
ぼくはまた十歳に戻っていた。
『父さん』
『樹、久しぶりだな』
『今日もキャッチボール?』
『お前とはもうキャッチボールはしない。下手くそだからな』逆光で表情がうまく読み取れないが、父は笑っているようだった。
『父さんが教えてくれなかったからだろ』ぼくは珍しく父に意見した。
『お前はおれに反発するようになってきたのか。いつまでも子供じゃないんだなあ』空を仰ぎ見る。
『今日も夕焼けが綺麗だ』『父さんはこの河原が好きなんだね』父は頷く。
『おれの故郷にもこれと似たような河原があってな。この情景を見ると懐かしくなるんだよ』
『父さんはもうぼくを見てないの?』ためらいながら口にした、ずっと聞きたかった言葉。
『いつも見てるさ』
『嘘だ。父さんはもういなくなった』
『また、会えるから』
『本当に?』
『だ…ら、…んば…な』風の音で父の声が聞こえない。
『父さん』
自分のその声で目が覚めた。
頭の中に夢の断片があった。
懐かしい父の声はぼくに何かを訴えてきた。
でもぼくは父の言葉が思い出せない。
落ち着かず部屋をうろうろする。
今更、夢に出てきて、いつも勝手に消えて…。
ぼくにはどうすることも出来なかった。
大学の受験日。
ぼくは問題の難解さに頭を抱えていた。
あんなに必死になって勉強ばかりしていたのに。
歯が立たない。
ぼくは身体中の悪寒が止めることが出来なかった。
怖い、怖いよ。父さん。
父さんが残したもの、全部台無しになってしまう。
ぼくは結局、テスト用紙を空白で提出した。
もう勉強に励む必要は無くなった。
なんとか滑り止めの大学に榊とまゆは受かったようで、ホッとしているのが見てとれた。
「二人とも、おめでとう」自分でもその声がトーンが低いのが感じられた。
「樹君が勉強教えてくれたから。そのおかげだよ」まゆはぼくを気遣うように「樹くんは残念だったね」と目を伏せる。
「だから一本に絞るな、って言ったのに。来年も受けるんだろ?」「いや、もう受けない」ぼくがそう言うと二人は驚いたようだった。
「一浪するのはルール違反だ。一発で受からないならぼくの技量はそんな程度ってことだ」榊とまゆは顔を見合わせる。
「ぼくから鉛筆を取ったらなにも残らなかったみたいだ。なにもやる気がしない。ここにいるぼくはただの残骸だ」
「樹君、そんなこと言わないでよ…」ぼくはぼくの感情を持て余してしまっていた。
「二人とも、本当に合格おめでとう。こんなぼくだけど、まだ見捨てたりしないでくれる?」心なしがぼくの声は震えていた。
二人は笑うと、頷いてくれた。
それからのぼくは惰性で生きていた。
本当に何もする気が起きない。
気力がするすると逃げていく。
ぼくがこうしている間にも、世界は時を刻んでいる。
一日中、部屋でぼんやりと天井を見続ける日々。
もぬけの殻になったぼくを母はとても心配して「少し遠いところだけど、いいお医者さんがいるんですって。そこに行ってみない?車出してあげるから」でもぼくは首を縦に振らなかった。
とにかく何もかもが面倒くさい。
唯一の救いは榊とまゆが頻繁にぼくの家に訪れて来てくれること。
こんなぼくでも二人は見捨てたりしなかった。
ぼくがそんな生活をして、二十歳になった時、部屋の扉がノックされた。
「母さんよ、入っていい?」ぼくはベットから渋々身を起こした。
「樹、あなたも大人になったわ。だからこれをあなたに渡そうと思ってたの」
母は少し青ざめたような表情をしていた。
「まだ迷ってるの。毎日部屋の中で苦しんでいる今、こんなものを渡そうかどうしようか、って」状況が読み込めない。
「なんなの?」
母は胸元に大切そうに持っていた封筒をぼくに手渡した。
「これは?」
「あなたのお父さんの遺書よ」
頭の中が真っ白になった。
「…いつ死んだの?」そんな言葉が口から出た。
「あなたが中学を入学する、少し前」
「父さんが、死んだ?」馬鹿みたいにぼくは言った。
「残酷な母さんを許してくれる?こんな長い間秘密にしていたのに今のあなたにこんな事実を隠していたこと」
「父さんが、死んだ?」ぼくはまたそう言った。
「あなたはずっとお父さんの影を追いかけて生きてきたわね。そんなあなたにお父さんが死んだなんてとても言えなくて…ごめんね」
「なんで、死んだの?」母はしばらく沈黙したが「自殺よ。首を吊ったの」
ぼくの頭の中で何が壊れる音が聞こえた。
中学入学した時、母は確かに泣いていた。
でもぼくは信じられなかった。
「嘘だ…。」「本当のことよ。樹、お父さんのためにも事実を受け止めてほしい」「そんなの嘘だ!父さんは死んだりしてない!」ぼくは母を突き飛ばすと裸足で外に飛び出した。
気がつくとぼくは夕日の溶ける、あの河川敷にいた。
ここに父がいるはずだと、そんな馬鹿げたことを信じて。
父さんが、死んだ。
胸が苦しくて、うまく呼吸ができない。
途中、何か踏んだのか裸足の足から血が出ていた。
父さんは死んだりしない。
ましてや自殺なんてするわけがない。
ここに来たらまた父さんと会えるはず。
頭がぐるぐるする。
何も考えられない。
それでもその音はぼくの耳に響いた。
クラクションの音。
そして衝撃。
体が宙に放り出された。
意識があったのはその瞬間までだった。
目が覚める。
母が泣いていた。
舞子も泣いていて、榊とまゆも心配しているようにぼくを見ていた。
病院?
体を動かそうとして、走った痛みに呻き声が出た。
「起きちゃだめよ。頭を打ってるし、肋骨と脚も折れてるの。あなたトラックにはねられたのよ」母がぼくを宥めた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だよ」あまり大丈夫ではないけれどぼくはそう言った。
「焦った…。だめかと思ったよ」榊がため息をついた。
「驚いたよ…。お母さんから電話があって樹君、大怪我したって聞いて」まゆも安心したように言った。
「大丈夫」ぼくはまたそう言う。
正直、痛みのせいで話すのは難しかった。
「樹、ごめんね。お母さんのせいね…」母は項垂れた。
「母さんのせいじゃないよ」そう言いながら無理矢理笑う。
「母さん、ぼく父さんの遺書、読むよ」
それは怖いことだった。
心臓が早鐘を打つ。
見てはいけない。
だけどなかったことにはもうできない。
父の本心を聞くことはこの先ないのだから。
無事だった手で、ぼくはその封筒を開けた。
『この手紙を見る頃には、よくある話だが、父さんはもうこの世にはいない。出来ることならもっと樹と舞子に普通の父親として接するべきだった。父さんは自分の夢を樹に望み過ぎてしまった。父さんは早くに父親を亡くしていたし子供への接し方が分からなかったんだ。けして二人を愛してなかったわけじゃない。やり方が分からなかっただけなんだ。父さんは母さんと離婚してひとりぼっちになってしまった。父さんはもう疲れた。だからここら辺で人生を終えることにする』ぼくは唾を飲み込んだ。
『樹、お前には勉強、勉強、とがんじがらめにしてしまった。お前は、人見知りをするけど素直で、優しくて、とても気の利く子供だった。もっと向き合ってお前を見てやればよかった。とても後悔しているよ。勉強なんて強要しなくとも、お前は素晴らしい息子だった。誇りに思う。父のわがままで人生を左右させてすまない。だから樹』
『だから、頑張るな』
夢で聞いた言葉が文面に出てきた。
そう、風で聞こえなかった父は確かにそう言っていたのだ。
ぼくは思わず涙を流した。
どうして涙が出てくるのか分からなかった。
嗚咽を抑えられなくてさらに泣いた。
「樹君、あなたはお父さんを愛してて、それで今日まで頑張ってきたんだよね。でももう自分の足で歩いていこうよ」まみがそう言ったので「この足ではまだあるけないもんね」冗談混じりにぼくは言った。
みんなが笑う。
あの日の幼い頃の食卓のように。
夕日に溶けた父さんも空の上で笑っているのだろうか。
そうであったらいいな、ぼくはそう思わずにはいられなかった。