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竜宮年代記 Ryuguu Chronicle  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ06「中世2・交易の拡大」

 11世紀(西暦1000年代)に入ると、地球全体の温暖化とさらなる技術向上と開拓の進展により、竜宮全体の総人口はさらに大きな上昇線を描いた。

 何しろ竜宮の土地に対して、人口はまだまだ少なかった。

 いまだ竜宮の土地の多くには、黒々とした原生林に覆われていた。

 

 12世紀初めには総人口が100万人を越え、技術の向上もあって国力面でも簡単に日本の侵略を許さないまでに強まった。

 竜宮の主要な島の開拓も一定段階に達し、鉄器の広範な普及が農地を確実に増やしていた。

 

 100万人という人口は、当時のヨーロッパでは少し後にノルマン人に支配されたイングランドに匹敵する人口規模であり、十分な文明的活動を可能とする人口であることを示している。

 

 竜宮本島南部の平野部(デルタ地帯)に広がる王都の名も竜の名を外して東都トウトと制定され、安定した社会の中で町の人口は5万人近くに達した。

 

 東都は、依然として日本の侵略に備えた構造を持ち、主に石材と石灰岩で作られた白亜の分厚く高い城壁を持った城塞都市に進化していた。

 一面が川に面した城壁の周囲は4キロメートルに達し、周囲には水を引き入れた深い堀が掘られ、2箇所の陸繋と1つの木製の橋によって町に入ることができるようになっていた。

 城壁内は、高台の王宮を中心として東洋的首都と同じような碁盤の目の道が整備され、官庁街、軍港、軍の屯所、商業区画、港湾区画、貴族の邸宅群、各階層の住宅街を備えた。

 都市の形態は、軍事力を備えた城塞型の港湾都市である点から日本風ではなく中華風の首都に近く、さらに機能面ではヨーロッパ、イスラム世界の都市に近かった。

 

 外観は、白い壁と緑色の顔料を用いた瓦屋根、朱色に塗られた柱で覆われた美しい都市で、来訪した者は竜宮という名を素直に受け入れたほどだった。

 日本人の文献にも、そうした記録が数多く残されている。

 

 日本と竜宮の間を行き交う船の数も、航海技術、造船技術の向上と共に少しずつ増えるようになり、竜宮王国内での船舶の往来も統一国家の成立による安定がもたらした余剰作物の発生と商業の発展、航路の安全化によって活発なものとなった。

 

 日本が遠い竜宮とのつながりを続けたのは、やはり竜宮の特産品を求めたからだった。

 竜宮が日本人に製法を決して教えなかった砂糖は、日本人の上流階層(主に京の公家)にはもはや欠かせない調味料(甘味料)となり、天然真珠や翡翠、水晶などの宝石も多く求められ、多くの財貨や日本製品、文明の利器、知識が竜宮にもたらされた。

 世界から孤立していた竜宮の継続的な発展が続いたのも、日本人の欲望と日本人が落としていった財貨や文物のおかげだった。

 そして日本人が得た宝石類の一部は、そのまま大陸貿易(日宋貿易)にも利用された。

 大陸の陶磁器や薬品、書籍が、最初は日本を経由して竜宮にやって来た。

 

 また一方で、竜宮の側から本格的に外に船を派遣するようになったのも、11世紀に入ってからだった。

 竜宮の目的は、絹や紙とそして香辛料だった。

 日本列島と違って豚や山羊、羊などが日常的に食べられていたため、竜宮では肉の保存が古くからの命題だった。

 当初は干肉や塩水漬けの肉しかなかったが、徐々に薫製や独自の塩漬け(ハム・ベーコンの一種)が保存方法として発展した。

 こうした保存肉は、冬の食料として重宝された。

 しかし肉の臭みを消す方法となると国内には香草ハーブしかないため、胡椒の存在が分かると欲求が一気に高まった。

 それだけ保存肉の味や臭いが芳しくなかったという事だった。

 逆に薫製と塩漬けの技術は発展し、腸詰めソーセージの一種も生み出されるまでになっていたが、やはり竜宮に自生する香草だけで肉の臭みを消すことは難しかった。

 

 このため竜宮での一番のごちそうは、砂糖をふんだんに使った食べ物を例外とすれば、山羊や羊の乳から作った醍醐(一種のチーズ)から発展した竜宮醍醐(竜宮固乳=チーズ)だった。

 これすら今日のチーズに比べると、製法などの未熟で味で劣るものでしかない。

 なおこの竜宮のチーズやハムの一部も、長期の保存が利くことから余剰に生産され日本に輸出された。

 


 そして日本人がわずかな量の胡椒を紹介してしばらくは、日本に依頼して少量を手に入れていたのだが、あまりにも法外な値段となるため、自ら大型船を造るようになると自力での獲得が目指されたのだった。

 この頃の胡椒は、上流階層のごく一部でしか、しかも特別な場合にしか使われていなかったほどだった。

 調味料というよりは、高価な薬としての扱いに近かった。

 

 そして竜宮の船は、多くは風と海流に乗って日本列島に向かったが、風と海流の流れの関係をうまく利用して琉球諸島にもたどり着くようになった。

 これまでも航海の必須技術であった天測技術もさらに進歩して、専門の道具が次々に考え出された。

 かつてのアウトリガーカヌーを用いた交流は、確実に次の段階へと至ったと言えるだろう。

 正確に位置を掴みつつ風と海流をうまく使えば、それまで未知だった場所に行けることが分かってきたのが、この時期だったのだ。

 

 竜宮の船は琉球で大陸の話を聞きつけると、琉球の地方豪族(当時琉球に統一国家はなかった)と契約を結んで滞在と補給を行い、まずは自力で初めて大陸に至った。

 大陸ならば、とにかく琉球から西を目指せばどこかにたどり着ける可能性が高かったからだ。

 そして太平洋を押し渡る能力を持つ船を使えば、比較的容易く大陸に至ることができた。

 

 当時「宋」の時代だった中華地域は、東の海の果てから着たという新たな国に興味を抱いた。

 それは竜宮が、多数の宝石(翡翠や真珠)を持っていったからだった。

 特に中華地域では、竜宮の翡翠は高い価値が認められた。

 

 大量の献上品を携えた竜宮の国使は、便宜上宋との朝貢関係を結び、献上品の返礼として得た様々な先進知識と文物を得て、本国へと意気揚々と帰っていった。

 得られた様々な品物の中には、宋の南部で得た大量の香辛料も含まれていた。

 そしてその値段は、日本人から買い付けたのとは比較にならないぐらい安価だった。

 中華の役人(商人)からすれば法外な値段を吹っかけたのだが、それでも当時の竜宮人にとっては極めて安価なものだった。

 

 そしてこの時より、竜宮人の興味は日本よりは大陸そして南方に向くようになり、頻繁に自ら船を出すようになった。

 

 11世紀半ばになると、琉球諸島を中継地として定期的に大陸を目指すようになった。

 竜宮での香辛料の値段も、航海を重ねるごとに加速度的に下がっていった。

 加えて竜宮は、大陸で産する良質の絹を欲するようになった。

 中には宋の側から、中華商人が琉球やさらには竜宮に来ることも起きるようになった。

 商人達にとっての竜宮交易は、金の成る木だったからだ。

 

 また竜宮では造船技術、航海技術の向上、航路の開発に従って、別の航路探査をする船団が南方を目指すようになった。

 そして12世紀にはルソン島からインドネシア地域にまでたどり着く事に成功して、竜宮人からすればタダ同然のような香辛料を何種類も得ることになる。

 胡椒やナツメグなど豊富な物量の香辛料以外にも、ターメリック(鬱金ウコン)なども竜宮にもたらされるようになった。

 そしてこれ以後、以前は同じ重さの黄金の10倍とまで言われた香辛料の値段は、庶民でも香辛料として買えるまでに一気に下落した。

 

 なお東南アジアでの交易相手は、当初はインド商人で後にイスラム商人に代わり、香辛料と共にイスラムの教えや文明の利器が竜宮にも伝えられることになった。

 ここで竜宮人は、初期の頃の羅針盤(方位磁石・水の上に磁石を浮かせるもの)と望遠鏡に出会い、天測以外での方位を知る手段を得て活動範囲を拡大するようになった。

 望遠鏡も、遠距離を見るよりは精密な天測のために活用された。

 

 こうして12世紀は、それまで小さな世界に閉じこめられていた竜宮にとっての、最初期の大航海時代となった。

 

 行き交う船の数はまだ限られ、航海技術、造船技術が未熟なため失敗例も数多かったが、様々な物産と情報、知識を得たいという欲望が、竜宮の豊富な財宝と交換の形で得られるようになった。

 また竜宮での人口拡大と社会の規模拡大が、そうした物産を得たいというエネルギーとなった。

 同時に、それを可能とする力を竜宮人に与えるようにもなった。

 

 この時期になると、竜宮の森林被覆率が大きな降下線を描くようになった事が例としてあげられる。

 それまでは、開拓が進んだと言っても多くが黒々とした原生林に覆われていた竜宮の森林が、開拓による農地化と製鉄、造船、建築による伐採で、僅か100年ほどで一気に半分近くに減少していた。

 製鉄技術の向上による道具の進歩も、これに拍車をかけた。

 

 そして一部では、何度か苦い経験を経た後に保水や防災のための森や林が管理されるようにもなった。

 夏の渇水対策が当たり前の竜宮本島では、森林による保水は何よりも重要な事が分かったのもこの頃だった。

 製鉄も沢山の木炭が必要なため、伐採と植樹による供給が需要が追いつかなくなり、水害や森林減少などの自然破壊に対する関心を高めさせた。

 

 なだらかな地形が多い竜宮では、簡単に森が失われることを住民達が気付き始めたのもこの頃であった。

 そして木炭に代わる燃料として、地面に転がっている各種石炭が少しずつ注目される最初の切っ掛けにもなった。

 


 一方竜宮は、これまで通り日本との交易も続けた。

 竜宮にとって自分たちであまり船を出さない日本が金蔓に変化したからであったし、日本列島が竜宮と日本以外の地域を結ぶ際の重要な中継地点ともなったからだ。

 竜宮としては、日本との貿易を絶つことは、たとえしたくてもできなかった。

 

 しかし日本側は、竜宮が大陸と独自にパイプを作った事で態度を変化させるようになる。

 遠方の無害な貴重品の供給先から、今度は脅威として映るようになったのだ。

 

 気が付いたら自分たちよりも立派な船でやって来るようになったのだから、日本人が変化に気付くのも当然だろう。

 

 この頃になると、様々な地域の技術を模倣して竜宮独自の発展を遂げた船舶は、初期的な竜骨を据えた大きな帆を持つ船に発展し、横帆すら備えていた事が残された絵から分かっている。

 つまり外航能力が大きく向上し、船の規模も大きくなっていた。

 しかも誰からも教えられたのでもなく、多くを模倣と自力でここまでたどり着いたのだ。

 経緯としては、ヨーロッパ北部のバイキングと呼ばれた人々に近いと言えるだろう。

 積み上げてきた経験と犠牲、そして何より遠くの文物を得たいという欲望が、独自の技術を向上させていたのだ。

 

 竜宮としては太平洋を押し渡るため必要に迫られたが故の変化と発展だったが、日本にしてみれば初めて自分たちを越えられた事に対する感情は小さいものではなかった。

 

 しかも当時は、日本の中心部では平氏と源氏の対立が激化しつつある時であり、奥州には藤原氏が半ば独立国のような態度を取っているので焦りも尚更だった。

 

 そして日本中央の竜宮に対する不審は、竜宮と奥州藤原氏が海流の流れを辿った先の場所で交易関係を持っていると知った事でさらに上昇する。

 

 日本としては、竜宮に対して何か手を打たなくてはならなくなっていたのだが、日本では外に目を向けるよりも、まずは内に目を向けるべき時代が訪れていた。

 

 

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