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竜宮年代記 Ryuguu Chronicle  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ05「中世1・国の形成」

 965年の大和朝廷の竜宮侵略と983年の竜宮王国建国、さらには988年の大和朝廷側の敗北によって、竜宮の歴史は大きく動く事になった。

 

 また戦乱の中で竜宮人の文明化も強引に推し進められ、古代社会からの決別となった。

 

 日本列島の政治勢力を完全に駆逐した竜宮王国では、その後も国家体制の整備と竜宮諸島全体での統一と結束の強化を続け、近代化に向けての動きも加速させるようになった。

 

 日本人から得たり奪った技術を元に、日本を経由せずに大陸との交易や技術導入を図る計画も進められた。

 日本に行かない、もしくは日本を経由しなくても、北赤道海流と貿易風を使って少し南にずれることで琉球諸島(※この頃は「瑠求」と呼ばれた)に至り、そこから大陸を目指すことも可能だからだ。

 これまでも、竜宮から日本への航海において、天測の不備や天候の関係で何度も琉球諸島には立ち寄っていた。

 竜宮人の小舟などは、頻繁に訪れるようになっていた。

 

 竜宮のこうした行動は大和朝廷の侵略を恐れたからであり、竜宮王国ではそれまでよりも遙かに強固な国家体制が整備されることになる。

 

 なお竜宮は、中華世界に対するコンプレックスがないため、中華世界での「王」にあたる「皇帝(天皇)」を中心とした国家だと自ら宣言する事はなかった。

 竜を自らの名に取り入れたのも、竜が中華世界での皇帝を表す空想上の動物だったという認識があったわけではなく、他から呼ばれていたのでそのまま自らの名としたに過ぎない。

 しかも古代の竜宮では、竜とは鯨や鯱の事を現していたので、そう言う点では非常に気に入っていた。

 竜宮では、鯨や鯱は神の使いであるからだ。

 


 国家制度は、自らの世界規模が小さいためか、国王を頂点とした初期的な封建制度が最初から目指された。

 国を運営するには制度と共に知識を受け継ぐ役人や兵士が必要なため、各地の豪族やかつての小王国の支配層を軸にして貴族階級が編成されるようになる。

 

 この動きは、日本や東アジア一般の中華型の王朝形式(法による中央集権)よりも、むしろ西ローマ帝国崩壊後のヨーロッパの流れに近かった。

 また律令制度が布かれる前の、古代の日本にも近かった。

 

 古くからの竜宮の社会形式が、ヌシから物品を供与された者が従うという制度を持っていたためだった。

 そして東アジア的な古代中央集権社会を作る前に日本との全面的な戦争状態に入り、戦争の中で中央政府となった最初の王朝が自ら土地を守った者にその支配権を認める形を作り、そのまま古い形での封建体制へと発展した。

 

 またこれは、竜宮の世界そのものが狭くこじんまりとしていたため、あえて中華型の中央集権を作る必要もなかったという要因も影響していると見られている。

 南西部に長く連なる南部の島々はともかく、竜宮本島は整備された道を使えば大人の足で10日とかからず踏破できる程度であり、しかも平地ばかりが続くので、島の最高峰から全てを見通すことすら可能な土地柄だった。

 

 役職や位の様々な名称については、中華帝国や日本のその当時のものを取り入れることが難しくなったため、幾つかの手元に残された文献(全て木簡)や伝聞による知識から、古代中華帝国の制度が参考とされた。

 この時活躍したのが、知識故に地位を得た仏教僧達だったと言われている。

 


 中央政府は東洋的に「朝廷」とされたが(※単に「朝」とだけ呼ばれることが多く、王が治めるため「王朝」となる。

 )、その下には王を中心として6つの「官府」が設けられた。

 主に古代中華国家「周」の時代のものが反映されており、それぞれ天地春夏秋冬の名を別名として冠していた。

 天官府は王宮を、地官府は民と土地を、春官府は宗教を、夏官府は兵を、秋官府は法を、冬官府は先端技術をそれぞれ管理した。

 「周」が参考にされたのは、貴族制度を持っている数少ない中華王朝だったからだ。

 

 その貴族階層は小王国の主を最上級の「侯」、一定の地域を束ねる豪族を「伯」、それ以下の一族郎党レベルの一族や集団を「豪士」とした。

 そして侯と伯には、その下に貴族である事を示す「爵」がつく事になる。

 もっとも当時の竜宮は世界そのものが小さいので、それぞれの領民の数は「侯」で1万人以上、「伯」で5000人から1000人程度、「豪士」だと一つの村を治めるが100人程度の事もあった。

 侯の下にも、それぞれ官府が設けられ地方自治制度も敷かれた。

 無論だが、中央集権国家ではないので、王も都を中心とする直轄領を治めた。

 そしてそれぞれが領地からの税を徴収して、領地を運営した。

 

 例外は町と港で、王都と主要都市は国王の直轄として長官(代官)による統治と徴税が行われた。

 侯爵などの大きな領主の主要拠点に町が存在する場合は、それぞれの領主の権利がある程度認められた。

 もっとも当時は、町と呼べるほどの人の集まりは極めて限られ、初期は王都以外に数えるほどしかなかった。

 

 もう一つの例外は、竜宮本島と竜頭島以外の場合で、他の7つの島はそれぞれ一つの小王国(豪族)がそのままの領土を拝領した。

 大きめの「竜手島」、「竜背島」、「竜尾島」の領主は大侯爵でそれぞれ「竜手大侯」、「竜背大侯」、「竜尾大侯」と呼ばれた。

 他の島は小さく人口も少ないため領主(豪族)は伯爵とされたが、それぞれの島の名を冠して「竜玉伯」、「竜鱗伯」、「竜雲伯」、「子竜伯」という尊称を授与され、王から島の支配権を保障された。

 

 また貴族(豪族)階層は世襲による役人と職業軍人の双方を兼ねるため軍人貴族としての側面が強く、日本でのように中央貴族と地方武士が並んで発展するような形にはならなかった。

 そして敵は海からやって来る事から、柔軟な国防体制の構築のために海軍が重視され、予備軍となる航海者や漁業従事者の整備が進められた。

 このため、沿岸だけでなく中型船以上で船団を組む沖合の漁業も発展するようになる。

 悪魚とされた鮫の狩りは一種の戦闘訓練とされ、沿岸部では成人男子の通過儀礼となった地域もあった。

 また南部の島々が大きな自治権や支配権を得ることができたのも、島特有の環境から海で暮らす者が多く、必然的に国防に多く関われたからだった。

 


 一方で国の根幹を作り上げるために、祭祀的側面の強かった従来の形から王国と自然崇拝が分離され、自然崇拝は王権を形作る権威機関としての役割を担うようになる。

 

 宗教としての呼び名は「神威之道カムイノミ」と当初呼ばれ、後に略されて「神威カムイ」となった。

 これは日本北部のアイヌ民族のカムイと同じ名称だが、古代日本語での「カミ」を表す言葉がどちらでも残った事からくる共通性である。

 竜宮での神威の文字は、「神の威力」という意味が込められていた。

 

 また日本の「カミ」とは原始精霊崇拝の延長のため、「ゴッド(神)」ではなく「スピリット(精霊)」といえる。

 つまり自然崇拝アニミズムであって、宗教と言うには少し隔たりがある。

 これは竜宮も同様で、「敬う」ものであって「信じる」ものとは解釈されなかった。

 これは農耕以前の文明を残す地域に多く見られる例で、日本文化の流れを汲む竜宮人の宗教観の基本であり、仏教すら本格的に受け入れなかったため、より強固と言えるだろう。

 

 また竜宮では、「神」を「カミ」とは読まずに「ジン」、「シン」と呼ぶ場合がほとんどなので、「神威カムイ」という呼び方は極めて異例であり、それだけ特別だったと言えるだろう。

 

 なお、それまで様々だった祭祀を執り行う者の呼び名も「神司ジンシもしくはシンシ」で固定して、祭事は男性が主導権を握った。

 ただし呪術的な事となると女性の方が適性が高いと考えられていたため、神女ジンニョもしくはシンジョという巫女(=シャーマン)もかなりの力を持ち続けた。

 また女性が力を維持したのは、農耕社会以前の風習や習慣、シャーマニズムの名残でもある。

 他にも、村の村長程度なら女性がなる事が多い母系社会に近い状態が、慣習として今にも引き継がれている。

 これは竜宮が、農耕文化を導入しつつも、新石器時代の生活習慣、食習慣が維持できる環境であった事が強く影響していると見られている。

 また日本よりも急速に、文明化を行った結果でもあった。

 

 なお神威を祭るのは、日本の神道では大小の社だが、神威では当初は「院殿インデ」と呼ばれた。

 

 しかし聖職者階級は領土を持つ事はなく、あくまで王権に付属する権威と知識の中枢としての組織であった。

 また政治と深く繋がっていたため、徐々に中央から地方を監視し、民を統制する組織としての側面を強めていく。

 一方では、地方領主、地元民とのつながりが深まる場合もあり、必ずしも統制が取れていたわけではなかった。

 簡単に見分ける目安としては、中央と繋がっている神威は神司、地方や地元とのつながりを持つのが神女というのが一般的だった。

 

 これは竜宮に来ていた仏教僧が、多く国の中に取り入れられる過程で神司へと姿を変えたことが影響している(※仏教の教えを守った者も当然いた。)。

 

 仏教も王家と国によって保護されたが、宗教としてよりも学問、学者として保護されたのであり、仏教僧=学者というのが竜宮人の中の一般認識だった。

 また外交官としての価値を認められての事であり、都にある立派な仏教寺院は今日での外務省や大使館のような役割も兼ねていた。

 仏教が、当時の東アジア共通の考え方や価値観であったからだ。

 

 一方で、仏教の教えも道徳面は広く竜宮人の中にも受け入れられたが、宗教として受け入れる者は依然として僅かでしかなかった。

 しかし得難い仏教僧は知識人であるため優遇され、都市部を中心に仏教も一部に残り続けた。

 それでも権威や権勢を得にくいため、仏教僧のうちのかなりが神司となった。

 

 また日本人がもたらした文字(漢字)の普及も上流階層、知識階層を中心にして熱心に行われ、中でも宗教職である神司達が知識の担い手となり様々な記録が取られ、国の成り立ちを記した神話「竜宮記」が編纂された。

 なおこの頃の記録は、まだ紙がないため主に木簡だったのだが、竜宮には羊が飼育されていたため、大陸からの伝来物を真似た羊皮紙も使われるようになっていた。

 

 そして西暦1003年には竜宮最初の憲法も制定され、古代封建国家としての一定の完成を見るに至る。

 

 ただし、国家としての文明程度は始皇帝が出る前の中華地域や日本での推古天皇の時代と似ており、日本列島と比べても5世紀(500年)近い開きがあった。

 

 竜宮諸島が日本列島の近在にあれば、間違いなく大和朝廷に征服される程度と規模でしかなかった。

 距離という防壁こそが、竜宮を他者の侵略から守っていたと言えるだろう。

 


 竜宮は大和朝廷から身を守るために国家体制を確立したのだが、日本人達は不思議と攻めてこなくなった。

 

 最後の戦闘から3年後の991年に調査のための船団が日本列島からやって来たが、彼らは四方から竜宮水軍に攻め寄せられると懸命に戦闘を否定して、その後交渉に及んだ。

 

 1年を過ぎても2年を過ぎても送り込んだ船団が帰ってこないため、大和朝廷も竜宮で大和朝廷の勢力が大きな苦境に有ることを理解し、とにかく現地との連絡の再開と竜宮人との交渉を画策したからだった。

 

 そしてようやく果たされた交渉で大和朝廷側は現状を把握し、さらに竜宮側からの申し出を受け取った船団は、日本から持ち込んだ財貨や文物と交換で竜宮の特産品(宝石、真珠、砂糖など)を積み込むと戦乱前のようにそのまま日本列島に帰っていった。

 

 調査や交渉のための船団すらが貿易を行ったのは、竜宮へ至るための経費が馬鹿にならないのと、京の都の宮中で竜宮の物産が求められたからだった。

 この二十年ほどの搾取と贅沢に慣れていた日本の貴族達にとっては、戦争や戦闘に敗れることよりも、竜宮の珍しい産物が得られないことの方が重大だったのだ。

 ただしこの時は交易を目的としてではなく調査と搾取を目的とした船団のため対価としての交易品に大したものは積載されておらず、商品の対価として船が丸々一隻交換された事が記録に残されている。

 

 なお竜宮側が大和朝廷に求めた内容は、戦闘状態の停止、日本人の不要な竜宮に対する進出の停止、さらには大和朝廷と竜宮の間での対等な関係の樹立だった。

 

 これに対して現状報告と返答を受けた大和朝廷では、当初は竜宮討つべしとの感情論が交わされた。

 しかし、既に拠点を完全に失った今となっては現実問題として竜宮討伐が難しいので、とにかく竜宮の物産を得るための交易再開を計ることとした。

 平安京の貴族が欲しいのは、基本的に竜宮の玉と砂糖でしかないからだ。

 

 また竜宮への返答に対しては、形式でよいので交易は朝貢の形を取ることを大和朝廷側の唯一の条件とした。

 

 この中で竜宮に残された日本人の事は考慮されておらず、大和朝廷側では全て竜宮人に殺されたと考えられていた。

 実際は2万人の入植者の過半は生き延びており、既に竜宮王国の支配下に組み込まれていた。

 一部に帰還を望む者もあったが、大和朝廷から切り捨てられたと考えると、多くが現地に根付く事になった。

 


 その後は竜宮と日本の間に、竜宮から大和朝廷への朝貢という形式を取った交易が、今まで通り細々とだが再開された。

 

 行き交う船は侵略前と同様に数年に1船団で、10年程度が一つの目安となった。

 一つの船団は、2隻か4隻の贅沢で丈夫な構造を持つ和船が使われた。

 船団はほどんとの場合大和朝廷側が出していたが、10世紀半ばになると、ある程度の造船技術を習得した竜宮側からも船団が出るようになる。

 その後は交互に行き来する形が作られるようになり、頻度も5年に1船団程度が出るようになった。

 

 また竜宮人による小舟での交易や情報の交流はこれまで通り続けられ、遠隔地への情報伝達という面で日本側にも評価されるようになった。

 だが日本人に竜宮人のような航海を行おうという者はほとんど現れず、小舟での交流は竜宮人の独断場となった。

 ただし、竜宮の小舟が貴重な物産を運ぶことが一般に知られるようになると、これを奪おうという日本人が増えるようになり、竜宮側も警戒して徐々に小舟から大型船による航海に切り替えていくようになる。

 

 交易では、竜宮からはこれまで通り宝石、真珠、砂糖などが輸出され、日本からは各種道具や加工品、文明の利器、知識がもたらされた。

 日本からは日本産の絹も輸出されたが、当時の日本産の絹は質が低いため、竜宮でも羊毛製品以下の価値しか認められなかった。

 密輸によって、竜宮でも蚕の飼育も開始されるようになった。

 そしてこの頃の交易の中で香辛料(胡椒)が初めて竜宮に紹介され、竜宮人の南の物産に対する強い興味を向けさせる事になる。

 

 しかし従来日本からの輸出品の中の多くを占めていた金属類、特に鉄の輸入は激減した。

 これは竜宮での戦乱の中で、竜宮の製鉄業が大きく進展したからだった。

 10世紀に入ってからの日本は輸出品に困るようになり、金(砂金)や中華地域から得た銅銭が多く竜宮に持ち込まれるようになった。

 このため竜宮では、王都を中心にして貨幣経済が始められるようになる。

 


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