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竜宮年代記 Ryuguu Chronicle  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ38「近代15・戦乱の予兆と竜宮分裂」

 大恐慌とファシズムの台頭によって、時代は大きく混乱と戦乱へと舵を切った。

 

 竜宮にとって、当面ヨーロッパでの混乱はあまり関係なかったが、アジアでも日本を中心として混乱と戦乱が広がっていた。

 日本での混乱は、1927年春の金融恐慌が実質的なスタートであり、その後はまったく歯止めがきかなかった。

 

 1928年6月の「張作霖爆殺(満洲某重大事件)」を皮切りに、後は自ら戦乱に向けての坂道を転がり落ちていっているだけとしか思えない状況が連続した。

 途中、ロンドン海軍軍縮会議への参加と条約批准はあったが、これが日本の実質的に最後の協調外交となった。

 

 日本の混乱の原因と結果として起きた事件を挙げればきりがないが、1931年9月に開始された「満州事変」が混乱の本格的始まりだと言われる事が多い。

 一部の自称リベラリスト、コミュニスト、各種反日派、反日家など偏狭的、イデオロギー的な人々の間では、これ以後の日本の混乱を「十五年戦争」という事もある。

 

 そうした一部の考えや造語はともかく、日本は自身の混乱を制御できないままに自ら国際的孤立を深めた。

 1933年3月には国際連盟に脱退通告文を送付し、その前年にはヨーロッパ帝国主義的な傀儡国家の満州国を作り上げ、国連脱退の原因となった。

 もっとも、満州での日本の動きは実に手際よく、これが第一次世界大戦以前であれば特に問題にならなかっただろう。

 たいていの列強が一度は行った帝国主義的な行動だったのだし、日本人ばかりか欧州の多くの人々も似たような考えを持っていた。

 しかし、世界大戦を経た世界では、既に侵略は「悪」であった。

 

 さらに日本は、ワシントン条約廃棄、ロンドン軍縮会議脱退でアメリカ、イギリスとの対立を自ら深め、市場獲得のために支那、中華地域への進出を行い、必然的に発生したナショナリズムに目覚めた現地勢力との対立によって政治的にさらに追いつめられた。

 そして1936年11月の日独防共協定、1937年11月の日独伊三国防共協定の締結によって、自らの旗幟を鮮明にしてしまう。

 

 しかも日本国内では、1932年の「五・一五事件」、1936年2月の「二・二六事件」という二つの軍事クーデターが起きて、軍部や急襲的な行動を取る者の影響力が決定的に強くなった。

 

 そして自国経済の求めるままに隣国中華民国への進出を年を増すごとに強化し、1937年7月の「盧溝橋事件」と同年8月の「第二次上海事変」を契機として、「支那事変」と呼んだ中華民国との事実上の全面戦争に突入する。

 


 日本の混乱と戦乱に対して、竜宮の関わりは一見少ないように見えたが、徐々に密接につながっていく。

 

 竜宮では1936年春に全体主義政党が政権を握り、日本の同業者、軍部とのつながりを急速に深めるようになった。

 ドイツなどと違い距離が近いため、相互交流と貿易がもの凄い勢いで拡大した。

 

 そして竜宮は、日本が始めた中華地域での総力戦に対して、鉱産資源や兵器、製品を輸出するようになった。

 竜宮経済にそれほど大きな効果はなかったのだが、軍部や軍需関連の企業は日本とのつながりを深めていった。

 しかも日本及び日本圏への資本投下や企業進出も積極的に行われ、特に満州への進出は強く、竜宮経済が日本総力戦の一翼を担うようになった。

 日本陸軍航空隊の重爆撃機の半数以上が竜宮製となった事もあった。

 

 日中戦争(事変)でも多数の観戦武官を派遣し、竜宮製の兵器の教練をするためという名目でかなりの規模の軍事顧問団も派遣された。

 経済や軍事の協力に関する約束事も幾つか交わされ、防共協定の話にまで進んだ。

 その中で竜宮は、日本を仲介してドイツに接近しようとしたが、結局防共協定を結ぶまでには至らなかった。

 

 そして経済、外交双方の行き詰まりが、1939年5月の軍事クーデターへと結実した。

 クーデターは、日本のように中途半端な事はなく、一気にそして大規模に行われる大事件となった。

 


 クーデターに参加した軍部隊は首都にいた陸軍部隊だけで1万人以上で、空軍や海軍部隊も参加しており、クーデター勃発時本国にいた実に三分の一の軍部隊は何らかの形で関わっていた。

 関わらなかった部隊の多くも事実上の日和見であり、実質的な戦闘はほとんど発生しなかった。

 宮廷を警護する王師(近衛兵)や内務省管轄の警察組織との間に若干の戦闘があったぐらいだった。

 

 これほど極端な結果となったのは、陸軍、空軍の精鋭部隊は兵力を増強するソ連赤軍と対峙するため主に瑠姫亜ルキア地方に駐留しており、海軍主力部隊が洋上で演習中だったためだ。

 陸軍部隊のかなりも、ルキア地方にあった。

 また、軍中央をクーデター派が事前に掌握していたため、反発するであろう部隊を国外に移動させ、同調者を本国入りさせていた影響も大きかった。

 実際、数日前に交代の形で本国に到着した機械化大隊がクーデターに参加している。

 逆に、クーデター軍以外の竜宮人のほとんどが、軍事クーデターなどあり得ないという固定観念にとらわれており、ほとんど注意を払っていなかった。

 

 この結果、軍事的には最も成功した軍事クーデターの一つと言われるほどの成功を収めた。

 しかし規模が大きすぎた事、参加部隊が多かった事、クーデターそのものを急ぎすぎた事が、一つの大失態をもたらしてしまう。

 

 播将軍に指導されたクーデター軍は、議会の停止、一時的な軍政の実施、親英米姿勢の強すぎる現国王の退位、同じく親英米派の貴族の政治権威の剥奪、政財界の再編成を発表し、そして日本と連携する事による亜細亜市場・中華市場の獲得、さらには東亜新秩序の建設を謳った。

 

 だが、全てが上手く行った訳ではなかった。

 クーデターの規模が大きかったので、情報の漏洩も相応に発生していたのだ。

 


 クーデターの前日、王都昇京の港を豪華客船「海王号」が出航した。

 船そのものは、竜宮本国と北米大陸の新竜領や、日本各地、大連、上海などを結ぶ定期航路用の大型客船だった。

 乗客も富裕層や上流階級の旅行から商取引者、移民目的の者まで含まれ、北大西洋の同種の客船と似通った用途で用いられていた。

 違いと言えば、竜宮の海の大動脈の象徴的な船だという程度でしかない。

 主な航路も竜宮本土と新竜間で、世界最長の国内航路と言われることもある場所だった。

 竜宮にしてみれば、巨大大陸国家にとっての大陸横断鉄道ぐらいの航路だったと言えるだろう。

 

 しかしその船に、国にとって非常に重要な物品が乗っているという噂がクーデター直後に飛び交い、クーデター軍が慌てて追跡を開始する。

 クーデターに同調した海軍、空軍部隊から艦艇や長距離用航空機が出撃するも追跡は難航した。

 

 「海王号」は、排水量5万トンに達する巨船ながら最高速力28ノット、本当の最高速力30ノットを記録し、通常は巡航速度26ノットで北太平洋を突進する竜宮王国の誇りであり、また竜宮の大動脈を結ぶが故に高性能だった。

 また姉妹船「竜宮号」と共に当時太平洋最大の客船として、1936年に就役したばかりの海の女王だった。

 同種の客船はアメリカ、日本でも建造、運用されていたがどれも3万トンクラスでしかなく、竜宮が起死回生で送り込んだ北太平洋に君臨する新たな海の女王だった。

 

 この時も26ノットの韋駄天足で北米大陸を目指し、丸一日で620浬(1150キロメートル以上)も進んでいた。

 しかもこの時は、航路付近は時化て並の軍艦程度では追いつけず、航空機もなかなか近寄れなかった。

 しかも同船には、クーデターを直前に察知して国外脱出を計った反クーデター派が乗船していたため、クーデター発生後は無線封鎖を強行させ、進路も変えて進んでいたので尚更だった。

 

 しかしクーデター軍に属する竜宮空軍の長距離飛行艇に捕捉され、付近にいた潜水艦の停船命令によって停止し、翌日追いついたクーデター派の艦艇の臨検を受ける事となった。

 だが海王号には、クーデター派の求めるものは何もなかった。

 一部の反クーデター派の軍人と宮内省関係者が捕らえられただけで、船もそのまま新大陸に進めさせざるを得なかった。

 船を引き返えさせる事は、竜宮の流通と経済を混乱させる行為となるからだ。

 

 そしてクーデター関係者が血眼になって探していたものは、5000キロメートル以上の距離をわずか50時間程度で走破し、新竜領の冬霞市郊外の飛行場へと到着した。

 

 到着したのはクーデター直前に竜宮本国を出発した、全長200メートルを越える巨大な硬式飛行船で、1937年のヒンデンブルグ号の事故以後も世界で唯一竜宮王国だけが運行させている空の船達だった。

 


 竜宮王国は、第一次世界大戦後に「取り戻した」新竜王国(新竜領)との交通網、連絡網に、殊の外気を遣うようになっていた。

 しかし直線距離で5000キロメートル以上離れ、当時の技術では太平洋での長距離海底ケーブルの敷設も極めて難しく、敷設するにしても莫大な敷設費用が必要だった。

 

 このため船と無線が、二つの領土間の主な連絡手段だった。

 そして船だと最短でも5日間の行程で、通常なら2週間以上かかった。

 このため1920年代以後、大型、中型の高速客船、高速貨客船、高速貨物船が、政府の援助で多数就役する事になった。

 時間こそが国の結束と、円滑な経済運営に必要とされたからだ。

 

 加えて1930年前半に、他国同様にハワイを経由した大型飛行艇による航路が開かれるが、それより先に竜宮が着目したのが硬式飛行船だった。

 

 飛行船に最初に注目したのは第一次世界大戦中だったが、その時は軍用として注目された。

 大戦終盤には2隻の運用が開始され、シベリア出兵にも出動した。

 しかし民間で用いられることはなく、数もそのままに緊急時の物理連絡や長距離偵察用として空軍の司令部直轄で運用されたに止まっている。

 民間用で用いたいとは思っても、竜宮が有する技術では危険度が大きいと判断されていたからだった。

 また当時は、太平洋東部の無着陸横断にも使えるとは考えらていなかったからでもあった。

 5000キロの距離の壁は、当時それだけ厚かった。

 

 しかし、1929年のツェペリン飛行船の来訪は竜宮で衝撃的に受け止められ、さっそくドイツに購入を申し出るに至る。

 船の貸し出しではなく、新造船多数の購入申し出だった。

 フーゴー・エッケナーのデモンストレーションは、少なくとも竜宮においては予想以上の大成功を収めたのだ。

 

 そして竜宮では、戦時に海上哨戒に使うという目的もあって、官民折半でまずは4隻の建造及び購入の契約を結び、順次導入されていった。

 

 翌年には「北斗号」「昴号」「天狼号」「明星号」と名付けられた飛行船が民間航路で使用され、主に金持ちもしくは急ぎの乗客と手紙などの急を要する軽貨物を輸送した。

 積載量60トンが丸2日ほどで行程を消化する事は、当時としてはかなりの魅力を持っていた。

 何より見た目のインパクトが強烈なため、船の存在そのものが半ば観光となった。

 

 飛行船は常時2隻が航路上にあり、毎週1往復していた。

 竜宮空路は、世界で最も成功した民間飛行船航路となったのだ。

 

 そして運用の成功に気をよくした竜宮は、レジャー用も兼ねて追加の購入を決め、改良型の「彦星号」「織姫号」を1934年に整備した。

 この時既にドイツではヒトラー政権が出来ていたため当初売却に難色を示したが、竜宮側が伝説の竜宮金貨(黄金)を即金で積み上げると盛大な歓迎式付きで送り出してくれた。

 黄金は、当時ドイツで最も不足する戦略希少金属だったからだ。

 

 なおこの「彦星号」「織姫号」は、有名な「ヒンデンブルグ号」の前の形式の巨船だった。

 今までよりも高性能だったが、定期航路を持たずにアラスカ航路を結んで北極海の上を観光飛行したり、常夏の島と宣伝されるようになったハワイに赴いたりした。

 評判は海外にも及んで、アメリカやイギリスの富裕層の人気を集め、宣伝を兼ねてアメリカ各地に赴いたりもした。

 

 そしてヒンデンブルグ号の事故で世界的に飛行船に対する信用は大きく揺らいだが、既に大量導入していた竜宮としては引くに引けなかった。

 それに運用ノウハウは既にドイツよりも蓄積しており、その後も安全性を宣伝しつつの運用が続けられた。

 そして今度はドイツから、自国で使用しなくなった二隻の飛行船の売却が破格の条件で示唆され、1938年にさらにこれを購入した。

 対価には、竜宮で産出するボーキサイトから精錬したアルミニウムとクロムなどのレアメタル・インゴット(実際の飛行船の購入価格の半額程度の分量)がドイツに渡された。

 

 当時の竜宮の政権はすでに全体主義の新生党政権となっていたので、全体主義勢力の盟主とも言えるドイツの関心を少しでも引こうとしたのだ。

 この2隻は以前の名前をもじり「伯爵号」「新世号」とされ、北太平洋の飛行船網はさらに充実することになる。

 飛行船は、日本や満州など東アジアにも行くようになった。

 日本では、「紀元二千六百年祭」にゲスト参加したのが、当時の記録映像や写真で残されている。

 

 なお、時代が飛行艇に移りつつある中で竜宮で飛行船が使われたのは、北太平洋上空は気象条件や気流の問題などで空の危険が多く、当時の飛行艇よりもむしろ飛行船の方が安全性が高いと言われたからだった。

 実際浮力として使う水素の危険性が色々言われたが、竜宮での飛行船の墜落事故、爆発事故はついに起きることがなかった。

 政府要人などの外遊でも積極的に使用され、見た目のインパクトから大きな宣伝効果を発揮した。

 コストはかかったが、それ以上の価値があると竜宮では考えられた。

 カナダで採掘されるヘリウムを利用した新造船も計画されたほどだった。

 

 無着陸で竜宮本土と新竜領を行き来できることそのものが竜宮にとっては大きな魅力であり、5000キロの距離を安全に無着陸飛行ができる大型飛行機が登場するまで、飛行船は使い続けられることになる。

 


 話が随分逸れたが、クーデターの翌日(※竜宮は、唯一日付変更線をまたぐ国で、実際は二日後となる。)に新竜領冬霞市の飛行場に降り立ったのは、飛行船「織姫号」だった。

 この船は内装が他よりも豪華なこともあり、王族の御座船としても使われる事があった。

 

 この時降り立ったのも竜宮王家の幼い公子(王子=皇太子)と若い公主(王女)であり、彼らの後ろに控える古武士のような侍従官の持つ王家の家紋入りの重厚な豪華さを見せる鞄の中にこそ、竜宮中が探し求めているものがあった。

 

 それは、古くから竜宮に伝わる「玉璽ぎょくじ」、つまり国王だけが使うことを許された印鑑だった。

 

 最高品質の翡翠で作られたこの玉璽なくして、竜宮では王の信任が必要な一切ができなかった。

 たとえ既に形式ではあっても、玉璽こそが竜宮の権威の証なのだ。

 過去の戦乱などでも、権力を握った者は玉璽を必ず真っ先に手にしていた。

 玉璽あればこそ、東洋世界で女王もあり得たと言えるだろう。

 それはもはや魔法の道具にすら匹敵する力を持っていた。

 

 そしてこの時玉璽は公子と共にあり、クーデター軍に退位させられる前の国王直筆による禅譲を記した文書が添えられていた。

 

 このため新竜王(対外的には大公(爵))は、公子を次なる竜宮王と認めて新王の権威を強化すると共に、クーデター政府に正当性がないことを世界に伝えた。

 しかも飛行船到着時からアメリカ、イギリス(カナダ)の報道各社にも事前に伝えられており、何も知らされずに集められた英米の報道関係者は歴史的事件を伝えることになった。

 飛行船到着の模様は、興奮気味のアナウンサーによるラジオの生放送で全米にも流された。

 

 これは後に、流浪の王子と王女を助けて悪の将軍をうち倒そうという、アメリカ国内に大きな「ナイト・シンドローム(騎士症候群)」を巻き起こすことになる。

 反クーデター派もこれを狙っての事だったのだが、あまりに意図が嵌ったため苦笑すらしたと後の関係者の述懐に残されている。

 

 しかしこの瞬間こそが、竜宮分裂の始まりだった。

 


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