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竜宮年代記 Ryuguu Chronicle  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ33「近代10・世界大戦と竜宮」

 1914年8月、後に「戦争を終わらせるための戦争」とも言われた史上空前の規模の戦争が、地球全土を事実上支配下に置き、当時歴史上空前と言えるほどの繁栄の絶頂を謳歌していた筈のヨーロッパ中心部で発生した。

 

 開戦当初は、当事者達ですら勝にしろ負けるにしろ三ヶ月で戦争は終わると考えていたが、一旦戦線が膠着すると事態は一気に泥沼化した。

 誰もが総動員した軍隊の規模に怯え、そしてなにより万が一負けた場合の賠償金に恐れたため、戦争を続けざるを得なかった。

 世界中の富と資源を吸い上げて巨大化した工業力と、緻密に張り巡らされた鉄道網が、国家規模の総力戦を可能とする時代が到来していたのだ。

 

 そして開戦と共に、竜宮にも戦争の災厄が降りかかってきた。

 


 開戦と同時に、イギリスの事実上の保護国状態だった新竜王国は、イギリスと共に戦争に深く関わることになった。

 早くも9月になると、志願兵という名目でイギリスによる事実上の徴兵が始まった。

 

 当時新竜王国領内には、約850万人の住人が居住していた。

 この数字は、隣接するカナダよりも多かった。

 主な住人は、竜宮人、先住民、日系人になる。

 ごく僅かにクリオーリョ系の白人も住んでいたが、混血を含めても全体の4%程度でしかない。

 アメリカ各地もしくはヨーロッパからから移民した白人はもっと少なく2%程度で、これもイギリスの支配が強まってから増えた人口が多かった。

 

 また事実上の支配者となったイギリスは、役人、軍人、商人を中心に2万人程度が首都冬霞を中心に住むようになったが、その殆どは広大な居留地に住むだけだった。

 国籍もほとんどがイギリス本国に置いていた。

 このため新竜王国そのものが、インド帝国での藩王領に近い状態と言えた。

 イギリス大使館とされていた建物も住民の間では「総督府」と呼ばれ、竜宮本国が置いている一番の役所は「大使館」だった。

 現地の支配階級や富裕層では、竜宮人の間でも英語教育が一般的となっていた。

 イギリスの勢力圏になって20年以上が経過していたため、既にイギリス風がスタンダードだった。

 ロンドンに留学している竜宮人が多数出るようになっていたほどだった。

 

 そんな新竜王国は「イギリスの一角」として兵士が徴募され新竜連隊が次々と編成され、カナダの大陸横断鉄道と大西洋の汽船を使って順次ヨーロッパへと送られていった。

 その数は最大40万人にも及び、竜宮人一般の教育程度、識字率が高い事などから他の植民地兵よりも重要な役割を果たす事になった。

 また、新竜王国の持つ一定の工業生産力も、イギリスのために十分以上に活用された。

 イギリスに引っ張られた形での総力戦の中で、生産力の拡大と労働力としての女性の利用も進んでいった。

 

 そして竜宮人の住むイギリスの保護国の影響によって、竜宮本国自体もイギリスの戦争に深く関わらねばならなかった。

 

 イギリスの竜宮に対する人質効果でもあったが、国内の新竜王国の人々だけを戦地にやるなという声が、竜宮本国を半ば自主的に戦争に駆り立てた。

 どちらにせよ、人質は有効に機能したと言えるだろう。

 


 1914年当時、竜宮王国本土の人口は約2600万人だった。

 これにアラスカ、ブルネイの徴兵可能な人口を加えると、ほぼ3000万人となる。

 人口で言えば、当時のイタリア本国が約3500万人なので、工業化水準、植民地の多さや地下資源の豊富さを考えれば似たような国力と判断できるだろう。

 しかも日本やロシアよりも国は発展して社会制度、社会資本双方も充実していたので、ヨーロッパ先進国に匹敵する総力戦能力を持っていた。

 

 ヨーロッパで行われているようななりふり構わない動員を行えば600万人以上が、無理を行わなくても200万人程度の動員は可能な計算が成り立つ。

 当時の日本のように手を抜いた戦争を行っても、国民の1%つまり30万人程度の動員は難なく可能だった。

 しかも竜宮王国になってからは、アメリカやロシアからの侵略に備えて国民の動員能力及び兵力移動力の向上に努められていたので、相応の総力戦にも適応でるようになっていた。

 陸軍も、規模に似合わないほどの将校、下士官を平時から養っていた。

 

 しかし竜宮は、基本的には海軍国だった。

 と言うよりも、世界的に見ても極端なほどの海軍国とならざるを得ない地理的条件にあった。

 しかも海軍拡張競争の最中に否応なく放り込まれており、開戦年では実に軍事費の75%を海軍予算が占めていた。

 竜宮では伝統的に海軍の勢力が強いこともあって、陸軍は常に継子扱いだった。

 これは新竜王国が事実上イギリスに差し出された事も影響しており、総力戦の体制を準備していたとはいえ、準備していたという以上のものではなかった。

 

 そこにイギリスからお呼びがかかる。

 

 そして竜宮政府も、アジア・太平洋に利害を持つ各国と調整を行って、同盟側諸国に対する宣戦布告を行った。

 

 この宣戦布告は、北清戦争を例外とすれば、実のところ竜宮人が初めて行った他国に対する宣戦布告であった。

 竜宮は、古代には日本人と戦争したことはあったが、近代的な相互間の取り決めなどない時代の事だった。

 大航海時代の各地で頻繁に行われた争いも、基的には小競り合いで戦争に値するものではなかった。

 同時期のネーデルランドとの争いも、戦争とは呼ばれなかった。

 

 また竜宮は大戦による火事場泥棒などで、イギリスなど諸外国のすきにつけ込む気は基本的になかった。

 中華地域でも天津に小さな租界を得ていたが、他国に舐められないように立派な領事館と商館を建てたという以上のものではなかった。

 むしろ開戦後は、ヨーロッパ諸国の代わりの警察活動の代行と商売以外は控える動きを行ったほどだ。

 

 竜宮政府も慎重であり、宣戦布告は9月にずれ込んでしまった。

 

 しかしその頃には日本が一ヶ月以上早く戦争に参加して、アジア、太平洋各地のドイツ利権を攻撃し始めていた。

 日本は、竜宮とは逆に東アジアでの覇権拡大の為に動いていたのだ。

 

 各国との調整後に竜宮軍も東アジア・太平洋での攻撃に参加したが、アジアでの主役は完全に日本に奪われていた。

 

 これは対英追従外交がもはや国家の死命を制する竜宮にとって由々しき事態であり、竜宮政府は自らイギリスにヨーロッパへの派兵準備があると伝えるようになった。

 

 国内での徴兵も本格的に開始され、兵器と必要物資の増産も急加速した。

 人と物資を運ぶべく大量の船の建造も始まった。

 

 そしてイギリスからは、竜宮の参戦と同時に海軍派遣の要請が行われた。

 竜宮側は太平洋のドイツ殲滅後ならば、現地での支援を条件に全力を派遣する用意があると返事し、参戦と同時に先遣艦隊が出発した。

 同時に、イギリスで建造中の最新鋭戦艦2隻(改クイーン・エリザベス級)の貸し出し契約も了承した。

 また竜宮本国では、ドイツの通商破壊を実行する武装商船などに対応した、安価で量産性の高い海上護衛艦艇の量産が早くも始まった。

 竜宮は、古くから海賊や諸外国のプライベーティア(私掠船)には苦労ばかりさせられてきたが故の素早い行動だった。

 アジア・太平洋でドイツ艦船が動いている情報を前にしては、イギリス海軍並の反応も示した。

 

 11月になると、今度はイギリス、フランスの双方から陸軍派遣の要請が改めて出された。

 これは日本にも出されたもので、日本には15個師団、竜宮には10個師団の派兵要請があった。

 合わせれば、二国だけで陸軍の最大単位となる1個軍集団が編成できる規模になる。

 

 しかし日本側は、先の海軍共々派遣を謝絶してしまう。

 

 これは竜宮にとってチャンスであり、竜宮側は派遣する用意があると返事を行うも、距離の遠さ、運ばねばならない物資の多さ、さらには自国軍の装備の貧弱さを同時に訴え、英仏両国に支援を要請した。

 もっとも当時の竜宮王国は、鋼製船舶総量約300万トンを持つアジア随一の海運国家だった。

 しかも大型船比率が非常に高く、船員の質も同時に高かった。

 当時ヨーロッパ諸国以外で大型客船を持つのは竜宮だけだった。

 

 なお、軍の大量派遣について、竜宮国内では一部に国防を疎かにするのかという声が高まった。

 これに対して竜宮政府は、ヨーロッパの友邦を救うことは国際社会での義務であり、崇高な義務の間に竜宮を脅かすような国はあり得ないだろう説明した。

 

 この発言は、当然アメリカやロシアに向けられたものであり、特に戦争に加わっていないアメリカに向けた言葉だった。

 連合軍諸国も、新たな大軍を得るためにアメリカに政治的な運動を行ったほどだった。

 また当のアメリカ市民も、太平洋にポツンとある小国がはるばるヨーロッパにまで助太刀に行くという事には好意的であり、アメリカの新聞各紙も好意的な報道を行った。

 

 この背景には、日本とアメリカの建艦競争があった。

 当時は日本と竜宮が連携すると考えられ、当面アメリカの不利が予測されていたのが、竜宮の動きによっては大きく変化するからだ。

 竜宮が戦争に深入りすれば新造戦艦の整備、建造は遅れるし、戦後も戦費による負担で建艦競争どころでないと予測された事も、アメリカの不気味なほどの好意となって現れた。

 

 もっとも、アメリカ、竜宮両者の国民の間では、両国がヨーロッパの危機を前に対立から友好に舵を切ったのだと思われる向きが強まり、以後両国の関係が好転する大きなターニングポイントともなった。

 


 話が少し逸れたが、イギリス、フランスから膨大な支援の約束を取り付けると、竜宮は陸軍のヨーロッパ派遣を開始した。

 第一陣は常備陸軍1個軍団、3個師団が1915年中に運ばれて中東戦線に参加することになった。

 英仏としても、小柄ながら精強で知られる竜宮海軍はともかく、実戦経験に乏しすぎる竜宮陸軍にはあまり期待しておらず、まずは重要でないところに置いてみることにしたのだ。

 

 しかし竜宮本国は戦争参加に積極的であり、どんどん国内の総力戦体制を進め、英仏からの要請と支援さえ有れば、出来る限りの派兵を行うというメッセージを送った。

 

 1916年内には初期の約束通り10個師団が派遣され、アメリカの参戦する1917年春までにはさらに5個師団、合わせて15個師団と騎兵や重砲兵など多数の支援部隊が送り込まれた。

 イギリスの要請で、海軍に属する海兵隊も多数が派兵された。

 装備の多くも、フランスやイギリスが大量生産した重砲や機関銃となり、一気に日本を上回る陸軍を編成してしまう。

 

 もっとも、竜宮陸軍は緒戦は惨めな敗走をよく行い突撃も及び腰な事が多く、所詮は有色人種による弱兵集団と言われた。

 しかしイギリスは、自分たちが使っている新竜王国の兵士が予想以上に役に立つので、竜宮に対しても戦場で鍛えられればいずれ役立つと考え辛抱強く使った。

 軍事顧問も多く派遣し、戦技の情報交換も熱心に行った。

 

 そして大軍が派遣されて一通り血の教訓を得ると、竜宮陸軍も相応な強さを発揮するようになり、ヨーロッパ一般の軍と同等の働きをするまでに成長していった。

 

 とはいえ、竜宮軍が西ヨーロッパでの主戦線を任されることはなかった。

 たいていは二線級の戦線であり、主にほとんど戦線が動かない地域の「壁」として活用された。

 この政治的背景には、有色人種国家の軍隊が必要以上に活躍しては、多数の植民地を有するヨーロッパ各国にとって都合が悪かったからだった。

 

 なお竜宮王国軍は、結局この戦争で最大で約50万人がヨーロッパに派兵された。

 延べ人数では80万人で、国内では交替や補充、留守、後方支援業務のために250万人の軍人が動員された。

 うち死傷者の総数は約30万人で、うち約10万人が戦死した。

 これは竜宮史上始まって以来の戦争被害であり、国内で大きな物議を醸しだしたほどだった。

 また陸では弱兵と言われていたが、戦争中盤以後は頼りになる戦友という見方をされるようになった。

 戦争中には新たに空軍も作られ、戦争終盤には自国製の戦闘機を送り込んでも見せた。

 

 海軍は、戦艦や巡洋戦艦を合わせて8隻を中心に5万人が主に海上航路防衛に従事して、戦争初期の頃からドイツの通商破壊艦艇やUボートと熾烈な戦いを繰り広げた。

 最大規模の海上戦闘となったユトランド沖海戦にも支援部隊として参加して、ごく小規模ではあったがドイツ海軍の艦艇に砲火を浴びたりもした。

 

 そしてイギリスの航路防衛の最も重要な時期に多数存在していた事で、イギリスからは大いに感謝された。

 イギリスの勲章を授与される者も多数出た。

 「ドラゴン・ネイビー」という名も、この頃に初めて登場した。

 

 しかし竜宮の力は、戦争の決定打となるには至らなかった。

 当時世界の富の殆どを持っていたヨーロッパ各国が、全力を挙げて戦っている戦争では仕方のないことでもあった。

 50万の兵力など、中小国の戦力に過ぎなかった。

 

 戦争は、1917年3月のロシア革命と社会主義革命、同年4月のアメリカ参戦と翌年春までの大軍派兵、1918年春のドイツ最後の攻勢の失敗、そして夏頃の各戦線での同盟国軍の敗退と各国の降伏、1918年11月のドイツ帝国の崩壊によって幕を閉じる。

 


 なおこの戦争で竜宮が使った戦費は、総額で60億ドル(=リンカ)近くにも上った。

 しかし人や物資の移動の約半分をイギリス、フランスが肩代わりしてくれ、戦費に関しても現物支給という形で最終的に三分の一近くを負担してもらった。

 特に弾薬や食料を本国からほとんど運ばなくてよくなった事は、竜宮の戦争経済に大きな負担軽減となった。

 

 この結果、竜宮はフランスから大量の野戦重砲、野砲、機関銃の供与も受け、戦車、航空機までも装備することができた。

 戦争中に、ヨーロッパで空軍が作られたほどだった。

 竜宮国内でも、ヨーロッパ向けの武器、弾薬、自動車や飛行機が大量に製造されて送り込まれた。

 またこの時の供与が影響して、以後竜宮陸軍ではフランスとの関係が強まることになった。

 

 一方で、竜宮の大軍派遣に影響を受けたのが日本だった。

 開戦時から日本軍は、政界から陸海軍、財界の全てが国防を疎かに出来ないと言う国内向けの論陣を張り、ヨーロッパへの派遣は極めて消極的だった。

 実際、英仏の要請を何度も断った。

 また日本の権力者や軍人達は、ヨーロッパが戦争をしている間に、可能な限り自分たちの縄張りを広げておくべきだという考えが強かった。

 実際、中華大陸での利権拡大を熱心に行った。

 

 当然ながらイギリスやフランスは、健気に連合軍の一翼を担おうとする姿勢を見せる竜宮王国を称賛して、日本がアジア・太平洋でドイツを叩いたことは小さな扱いしかしなかった。

 

 このため日本国内でも、日本の旗をヨーロッパで見せておくべきだという論調が広がり、1917年1月にドイツが無制限潜水艦作戦(通商破壊)を宣言するのに合わせて、戦艦を含めた大規模な海軍の派遣が開始された。

 また日本内での陸海軍間の競争意識から、陸軍の派兵についてもヨーロッパに申し出る事になった。

 派遣予定規模も、1個方面軍、9個師団以上に及んでいた。

 タイミングとしてはアメリカに先んじるので、申し出があったとき英仏も大きな喜びを表した。

 

 もっとも同年3月にロシア革命が起きると、陸軍派兵の申し出は日本側から改めて取り下げられてしまい、当時ドイツの大攻勢に怯える連合軍を落胆させることになった。

 それでも海軍の方は全体の半数近くを派遣して、ヨーロッパの北海にまで戦艦も送り込んだので、それなりに存在感を示すこともできたし感謝もされたが、結果として中途半端な派兵となった。

 

 イギリスの大衆新聞は、スパカ・フローに浮かぶ竜宮、日本の主力艦隊に対して、アジアの列強が互いに存在感を示めそうとしていると報道した。

 


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