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竜宮年代記 Ryuguu Chronicle  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ31「近代8・明治日本と竜宮」

 明治政府成立前、江戸幕府末期の頃の開国のおり、竜宮は他国に先駆けて日本と対等の外交関係を結んだ。

 明治政府になると、相互で平等条約を結んだ。

 

 両者とも有色人種国家で、民族、歴史的経緯が極めて近かった事が大きな理由であった。

 また琉球、千島チウプカ地域で国境を接していることも、両者の国交を急がせた。

 

 そして両者共にヨーロッパ、アメリカに対する脅威を強く感じていたため、連帯して事に当たりたいという思惑があった。

 特に1870年代は竜宮は日本よりも遙かに産業の革新が進み、富、軍備、技術、学術などほとんどの面でもずっと充実していたため何かと日本が当てにしてきた。

 

 竜宮側も、ヨーロピアンの溢れた世界の中で孤独を感じていた事もあり、国民国家となってがむしゃらに前進する日本の存在は頼もしかった。

 何より本国が竜宮より遙かに大きい日本は、古来より竜宮の潜在的脅威だった感情的な考えが、逆に竜宮人に日本への期待が持たせた。

 


 そして幕末日本での開国以後、一気に日本国内に竜宮人が入り始める。

 

 特に貿易と通訳の分野では竜宮人の独断場で、横浜など外国人の入ることが許された場所(港や居留地)では、日本でも中華(清国)でもない竜宮人の装束が目に付いた。

 また当時の日本人よりも竜宮人の方が一回り大柄だったため、東洋系人種の見分けのつかないヨーロピアン達は、体格のよい東洋人を見ると竜宮商人や通訳だと思ったほどだった。

 

 また日本の富国強兵、特に軍備増強のために、竜宮の存在は貴重だった。

 特に明治期前半に竜宮からの好意で破格の条件で輸出された新大陸産の西洋馬数百頭は、後々まで日本騎兵育成に影響を与えたほどだった。

 軍艦や武器も、日本が欲しいと言ってきたら、可能な限り低価格で用意した。

 それに竜宮で買う方が、距離の問題からヨーロッパから買うよりも安くついた。

 むろん竜宮の兵器はイギリスなどに比べて若干遅れていたが、数を揃えるのには役立った。

 お雇い外国人も、かなりの竜宮人が活躍した。

 竜宮人なら通訳を別に用意しなくてもよいので非常に重宝された。

 

 経済面での竜宮の存在も大きく、安価な機械輸出、技術者(お雇い外国人)の派遣、資本進出など様々な面で日本と関係を深め、明治初期の日本にとっては、脱亜入欧つまり「後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパ列強の一員となる」という象徴的な国が竜宮だという見方がされていた。

 

 また日本と竜宮の関係で重要だったのが、日本からの移民だった。

 

 明治維新以後、日本政府は国内での人口増加と食糧自給率の問題から移民事業に熱心だった。

 また口減らしをすることで、民衆の不満を反らせる狙いもあった。

 

 そして日本人にとって移民地としての心理的ハードルが多少低かったのが、竜宮圏内への移民だった。

 民族と言葉がかなり似ていてるからだ。

 竜宮民族と日本民族は隣国の朝鮮民族よりも遺伝子レベルでも近く、日本語と竜宮語の違いは琉球語と日本語の違いよりも少ないほどだった。

 竜宮で用いられる竜宮語も、中華系文字と共に日本から輸入されたカナ文字を自国風に作り替えたものが使われていた。

 

 また江戸時代全般に渡っての、竜宮船による日本人の細い移民の流れを日本人達はある程度は覚えており、幕末以後途切れていた竜宮への移民再開を望む声も民衆の側から出てきた。

 

 加えて当時の竜宮は、新大陸や南方に多数の植民地を持っていたため、日本政府から移民が打診され、当時ヨーロッパ諸国の脅威を感じていた竜宮側も、外郭地の人口増加を考え無制限の受け入れを伝えた。

 

 日本からの移民の規模は江戸時代よりも大きく、元から日本人移民の多いブルネイ、まだまだ幾らでも土地のある新大陸の天里果副皇領へと主に流れた。

 まだ人口の少ないハワイや、開発の遅れていたパプア地域に流れることもあった。

 また古くは戦国時代からの日系人社会が残り続けていたシャム(タイ王国)にも若干の移民が流れた。

 他にも、天里果副皇領移民と並行して、富を求めてアメリカへの移民も増えるようになった。

 天里果副皇領に一旦入ってから、再び移民してアメリカに向かう日本人も少なくなかった。

 


 しかし竜宮人の勢いは、列強に小突き回され急速に衰えていく。

 

 特に1890年前後のアメリカとの緊張から新国家として立ち直る20世紀初頭までの十数年は、当時最強級の列強にこづき回されて勢いがなく、海外で活動する竜宮人の数も減った。

 当然日本で活躍する竜宮人も減り、その間に日本の方が激変した。

 

 1894年勃発の「日清戦争」での圧倒的勝利によって、一躍世界から注目されたからだ。

 日本人も、東洋随一の大国清国に勝利した事で大いに自信を付けた。

 

 そして新たな竜宮の再デビューともなった「北清戦争」でも、日本は国際的にも高い評価を得て、ロシアとの対決姿勢を明確にしつつ、1902年にはイギリスとの間に同盟関係を結び世界中を驚かせた。

 

 このことは、竜宮でひときわ大きな驚きとなった。

 

 竜宮はこの四半世紀、国と民族を守るための苦渋の選択としてイギリスに領土を奪われ続けていたのに、日本がそのイギリスと対等な立場での同盟を結んだからだ。

 

 日本が鎖国し竜宮で第三王朝ができてからは、竜宮人はとかく日本を格下に見るようになっていた。

 それが覆された事に大きな衝撃が走り、竜宮国内では自分たちの体制建て直しを急ぐと共に、日本との関係を強化するべきだという意見が急速に台頭する大きな要因となった。

 

 また日本がロシアと対立している事は、北辺を脅かされ続けている竜宮にとっても非常に都合が良かった。

 日本としてもロシアと対抗するために少しでも味方が多い方が嬉しいが、ここで一つの帰路に立たされることになる。

 

 日本に好意的なアメリカと竜宮の関係が、常に思わしくないからだ。

 そこで日本は、両国が和解する仲立ちをイギリスに依頼することにした。

 一時的で構わないから、日本にはそれが必要だったからだ。

 日本も、出来る限り竜宮とアメリカの間を取り持とうと努力した。

 

 そしてイギリスは、ヨーロッパ的外交を両国の間に持ち込み、日本がロシアとの対戦を終えるまでの問題棚上げを、アメリカと竜宮の両者に提案。

 東太平洋での双方の軍備削減によって、それが実現された。

 削減したといっても、双方が海軍の一部を移動させただけで、両者の和解もロシアのアジア進出を阻止するという一点での和解と妥協に過ぎなかった。

 イギリスも、アメリカとの関係改善のため、北米カナダでの軍備を減少させ、それ以外でも友好関係構築の努力を行った。

 ロシアの鼻っ面をへし折るために、イギリス人も努力は惜しまなかった。

 血を流さない代わりに汗を流すのが知恵者というものだからだ。

 

 しかしこの結果、日本はアメリカ、竜宮双方との関係を強める事ができるようになった。

 特に竜宮とは1903年に日竜協商の締結にまで至り、日本国内でも日英同盟と合わせてロシアへの抑止力になるのではないかと期待された。

 竜宮は国を再編成したばかりだが、以前からアジアで最も強力な海軍を持っていたからだ。

 海軍の表面的な規模では、1902年頃には日本が竜宮を上回ったが、味方が多いに越したことはなかった。

 

 だがロシアのアジア進出は止まらず、遂に日本はロシアとの戦争を決意。

 1904年2月に「日露戦争」が勃発する。

 


 日露戦争に際して竜宮は、日本の戦争国債を低利で大量に買い込み、日本に武器を安価で売却し、自分たちの知りうる限りの情報を日本に送った。

 またルキア(ユーラシア大陸北東部)には軍備増強も行われ、オホーツク海では実質的にロシア軍を牽制して、軍を送るのに非常に苦労する東シベリアの奥地に2個師団以上のロシア軍を自分たちに向けさせ続けた。

 世界各地で日本のロビー活動も熱心に行った。

 

 それでも竜宮が対ロシア参戦に至らなかったのは、イギリスから二国間戦争以上には決してしてはいけないと、強く釘を差されていたからだった。

 日本とロシア以外が戦争に参加した場合、イギリスも参戦しなければならないかもしれず、それは世界規模での戦争の可能性すら持っていたからだ。

 

 しかし竜宮は、念のためルキアでの防衛戦争の準備も進めた。

 竜宮人は、ロシア人を全然信用していなかったからだ。

 また一方で、日本に対する武器、船舶、鉄道、貨車などの輸出や貸与を積極的に行った。

 中でも有名なのが、開戦までに低価格で輸出された中古船が、一時的であれ旅順港封鎖を成功させた事だろう。

 たとえ旧式でも、日本より優れた造船技術で作られた竜宮の船が、この成功をもたらしたと言われたからだ。

 そしてこの事件のおかげで、竜宮での造船が注目を集めることにもなった。

 

 そして日本の有利が確かになってくると、竜宮は自国用に備蓄していた弾薬を、どんどん無償もしくは格安価格で日本に送り始めた。

 こうして送られた砲弾と弾薬は1904年の晩秋頃からの諸戦闘で活用され、日本軍の砲弾不足をある程度緩和した。

 他にも、日本が恐れたバルチック艦隊を見つけるため、東南アジア地域の竜宮船籍の艦艇、船舶は出来る限り洋上に展開して情報を送り続けた。

 特に、ブルネイ島と琉球を竜宮が有していたので、到着寸前に竜宮側からもたらされた情報は日本を非常に有利にした。

 しかも竜宮海軍は、イギリス海軍同様にロシアへ嫌がらせをする事も忘れていなかった。

 こうした点は、古くからの海洋国家らしいとも言えるだろう。

 

 そして1905年が明けてすぐの旅順陥落、3月10日に決着の付いた奉天会戦、5月27日の日本海海戦(対馬海戦)によって戦争の決着は付き、明治日本は伝説となった。

 

 当時の一般常識で考えれば勝つはずのない日本の勝利に、ロシアを嫌う国々、日本を応援した国々は沸き立った。

 有色人種の小国日本が大国ロシアに勝利した事に、アジアに一筋の光を射し込ませた。

 これは、今までずっと何となく発展を続けていた竜宮にはできなかった事であり、日本人の民族的パワーを竜宮人は見せつけられる事になった。

 


 なおアメリカのポーツマスで行われた講和会議では、勝利者となった日本は、北樺太の割譲と遼東半島、南満州の権利、朝鮮の独立と日本の優先権を勝ち取り、一気に列強の末席へと躍り出た。

 

 日本国内では、勝利に対する賠償が少ないとして混乱が起きたが、そもそも勝てる確率の極めて低い戦争を判定勝利にまで持ち込めた事自体が奇跡に近いのだから、何も知らない日本人という図式を垣間見せることにもなった。

 

 なお日露戦争前の日本の領土は、明治初期の領土のやり取りによって、ロシアとの国境は樺太島の中央で区切られていた。

 また千島列島はチウプカとして竜宮がある程度有していたが、雑居している地区も多いため明治政府が出来て間もない頃の領土交渉で日本に譲り渡していた。

 そしてこの戦争によって、樺太全島が日本の領有するところとなった。

 

 これは、ルキアを有する竜宮にとっても、一定の効果があった。

 日本が樺太北部を有したことで、アムール川河口部とオホーツクのどこにでもアプローチが可能となるからだ。

 

 もっとも先の日清戦争では、竜宮の保護国である琉球を通り越して台湾島を得ており、日本にとっても竜宮との関係は微妙なものがあったことは間違いなかった。

 しかし同じ有色人種、似た民族同士として、この時代は強い協力関係を結んで共に歩むことになった。

 


 ただし日清戦争、日露戦争の勝利によって、日本人の間に奢りが生まれるようになる。

 ロシアに勝った日本は一等国、何もしない竜宮は二等国という意識が生まれるようになったのだ。

 これは日本が朝鮮半島に対する支配力を強めることで、竜宮人の側からも反発が持たれるようになり、埋められない溝を少しずつ作っていくことにもなる。

 

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