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竜宮年代記 Ryuguu Chronicle  作者: 扶桑かつみ
32/69

フェイズ30「近代7・四度目の政変」

 1890年代から20世紀初頭にかけて、竜宮の急速な縮小が続いていた。

 特にイギリスに対する負債は大きく、支払うべき対価はさらに大きかった。

 そして対価とは、領土に他ならなかった。

 

 北米の新竜に続いて赤道直下のパプア地域(パプア島、東パプア諸島)も、ドイツ帝国が強引に進出しようとしてきたので、イギリスへ売却という形での譲渡が行われた。

 その一部には、当時のイギリス恒例のビクトリアの名前が冠された。

 領土が曖昧だった太平洋各地の島嶼の権利も、ドイツなどと争う形になって結局力の差から得ることはできなかった。

 一部はイギリスとフランスに、二束三文で売却された。

 19世紀最後の四半世紀は、西欧諸国が油脂獲得のため南洋の椰子(ヤシ油)に注目したため、竜宮が領土としないまでも勢力圏としていた太平洋の島嶼は、瞬く間に欧州列強に食い荒らされていった。

 もっとも売却というのは先住民の事を全く考慮しておらず、この点は竜宮も帝国主義国家だったと言えるかもしれない。

 その証拠と言うべきか、竜宮の国力は工業力、軍事力が相応の力があるので、まだ本国に手をかけられるという事はなかった。

 だが、対外的には竜宮の衛星国扱いとなっているハワイや琉球、ブルネイも権利を維持できるか危うくなっていた。

 

 近代化と工業化を成し遂げたところで、ヨーロッパ諸国の白人達は有色人種に対してまったく容赦がなかったからだ。

 何しろ彼らは白人同士でも容赦ないのだから、有色人種に容赦などあるわけがなかった。

 既に弱みを見せたとあっては、なおさらだった。

 北米の新竜王国だって、竜宮本国がイギリスに出した人質のようなものであり、実際新竜王国はイギリスの衛星国もしくは自由国程度でしかなかった。

 

 しかし新たに東から押し寄せた脅威が、竜宮の危機的状況を多少なりとも救う事になる。

 ロシア帝国が、北東アジアと並んで竜宮領の北部、ルキアを伺いはじめたからだ。

 

 そしてここをロシアに取られてしまうと、多少なりともイギリスが困ることになる。

 またアメリカにとっても新大陸にこれ以上厄介者が近くにやって来ることは避けたい政治状況だった。

 特に強欲なロシア人が近くに来たら、どんな口実でモンロー主義が侵されるか分かったものではなかった。

 

 ロシアがシベリア鉄道敷設を進めるようになると、アメリカは竜宮に対する圧力を突然緩め、イギリスは竜宮を支援する向きを強めた。

 そして状況を正確に把握していた竜宮は、イギリスにルキアやアラスカなど北部一帯の利権を分け与え、港などの共同使用や租借権を与える事でロシアの進出を止めようとした。

 

 そしてイギリスとの面倒を嫌ったロシアも、まずは北東アジアへとその矛先を向けるようになる。

 

 しかし竜宮人には、国と皇が竜宮人の権利をさらに他国に売り渡し、弱腰から奪われていると考えを一層強めるようになった。

 


 こうした中、1896年に咲久女皇が老衰で死去すると、国の中央では俄に跡目争いが起きる。

 女皇は禅譲する事はなかったものの後継者を指名して世を去ったのだが、息子ではなく孫を指名したことからくる混乱だった。

 

 ただしこの争いは、次期国皇よりも両者共に改革を目指す派閥の争いが原因だった。

 名称的には「立憲派」と「帝政派」の争いとなる。

 

 国上層部では既得権益保持を狙う「帝政派」が優勢で、それ以外の階層では「立憲派」が圧倒的多数派だった。

 そしてまだ成人していない女皇の孫を担いでいたのが「帝政派」だった。

 

 なお、改めて「立憲派」と「帝政派」の違いを言うと、「立憲派」は憲法を大改定して国皇を権威君主として民主選挙による議会を設けて主権を民衆に移す事を目指していた。

 「帝政派」は、現状の欽定憲法を改定して民主議会は設けるが、国権の多くは国皇と新たに設ける宰相に集中する事を目標としていた。

 

 そして国難の中で、両者共にジレンマに悩んでいた。

 

 国内の混乱によって起きる、諸外国のこれ以上の干渉を恐れたからだ。

 日本の明治維新のような政治的アクロバットや奇跡がもう一度別の場所で起きるなどと、竜宮人は考えていなかった。

 

 こうした情勢に対して近隣諸国は、アメリカはどちらにせよ君主国家なので国家間の外交面で付け入る以外の関心は低く、イギリスも協力関係を結ぶに値しないと判断された場合に備え、竜宮を丸ごと飲み込みにいく体制を整えつつあった。

 こうした姿勢は、大なり小なりヨーロッパ列強のどの国も変わりなかった。

 ロシアやドイツ、フランスは、混乱の中でどれだけかすめ取れるかを皮算用していた。

 

 ごく僅かに竜宮が期待した日本は、感情面では立憲派を支持し個人レベルでの援助はあったが、国としては自身の眼前に山積みされた問題を前にして、他国を構っている場合ではなかった。

 当時の日本は、治外法権も関税自主権もないまだまだ小さな国でしかなかった。

 

 つまり現状とさしたる違わない状況を選択するのでなければ、大転換を行いたければ短期間で政治的決着を付けるしかなかった。

 

 国際情勢は、明治維新前後の日本よりもはるかに分が悪い状況だった。

 工業化を達成して、国力や軍事力をある程度持っている事は救いだが、国自体の退勢が続けばいずれじり貧になることも分かり切っていた。

 選択肢は、中途半端な事をして徐々に全てを失うか、身を切ってでも立ち直るかだった。

 

 結果は新皇の即位の礼によって明らかとなった。

 


 新皇には女皇の遺言通り孫の公子(=王子もしくは皇太子)の利捷が即位し、利捷がまだ成人していないため、叔父に当たる捷達親王がその後見人となった。

 つまりは、建国以来の国難を前に「帝政派」が折れ、「立憲派」が主導権を握ったのだった。

 この間幾つかの暗殺劇や権力者の下野があったが、表面上ではクーデターすらなく大勢は決した。

 竜宮人達は、全てを失うかもしれない選択よりも、一部を失って変化することを自ら選択したといえるだろう。

 こうした選択が出来たのは、他の国を探すと精々イギリス(イングランド)ぐらいであり、非常に高く評価してよいだろう。

 

 なお、この時中心となって動いたのは、最早王族や大貴族ではなく、政治家、財界人などであった。

 無論活躍した者の中に王族や貴族の姿もあったが、この時は既に主な役割を果たすことは少なくなっていた。

 活躍した者も、個人としての力量を持つ者だけだった。

 そう言う点から見た場合、まだ未成年だった新皇は新たな国造りのためには実に都合がよかったとも言えるだろう。

 余程の天才でもなければ、親政など出来るはずもないからだ。

 

 そして新皇即位のすぐ後に、国皇の名で新憲法制定と民主選挙による議会の開設が発表された。

 さらに国民に対する権利と義務を定め、納税義務の強化と徴兵制が敷かれると同時に、社会保障制度の充実が行われる事も合わせて発表された。

 また立憲君主体制への移行と並行して、一部に芽生え始めていた無政府主義者や社会主義者に対しては厳しい法律が布かれることになる。

 

 一方では、身分制度自体にそれほど変化なかった。

 身分に付随した特権のかなりが奪われたが、身分としての貴族は貴族のままだった。

 ただしこれからは、体面を維持できるだけの財があればという事になるのが大きな違いと言えた。

 国王と同様に、特権階級には権威が残されたが、実質が奪われたのだ。

 結果として、ヨーロッパ一般のように名前だけの貴族、名前を売る貴族が続出した。

 逆に富裕層が、新たな貴族として浮上していく。

 日本のように、国が貴族の面倒を見ると言うこともなかった。

 既に今までの王政の中で、貴族の多くが経済的に自立するか、国に仕えることで生計を立てていた。

 竜宮では、わざわざ新たに支配階層を作る必要がなかったのだ。

 貴族の中には、千年間権力を保ち続けた一族すら存在した。

 

 それでも今までの特権の多くを失い不満を持つ者もいるため、議会を二院制として衆院と貴族院が設置された。

 首相が衆院から選ばれるなど衆院の優位はあったが、貴族院は保守派にとっての良識の府と位置づけられ、特別に既得権益の擁護では一定の役割を果たすことが出来るようになっていた。

 

 また3年後を目処とした衆院議員選挙の有権者は、一定額以上の納税と男子という制限が設けられたため国民全体の5%に過ぎなかった。

 このため選挙権を持つのが、当面国内の富裕層と一部中産階級、富農がほとんどとなったため、順次選挙権を拡大するという付帯項目も付けられていた。

 

 そして三年後の1899年「竜宮王国憲法」が公布され、同年第一回総選挙が行われた。

 この間多数の政党が作られたが、貴族と大商人が支持する国民党と中産市民が支持母体となった自由党が二大勢力として集約されていく事になる。

 

 そして新憲法により国号が「竜宮王国」(英語名称は「Kingdom of Rongu」のまま)に戻され、世界を席巻しつつあるヨーロッパ基準に合わされた。

 

 そして憲法のもとで国王は君臨し、統治は内閣総理大臣(首相)の手に委ねられることになった。

 当然ながら行政(内閣)、司法(裁判所)、立法(国会)の三つの近代的な権力組織に再編成され、全ての制度や法律も改められた。

 

 新しい国と体制の変更は諸外国にも直ちに通達され、竜宮各所の看板も組織ごと変更されていった。

 連動して、官僚団も大幅な改革が行われた。

 

 もっとも勤めている者は一定数で元のままであり、ヨーロッパなどでよく言われる「新しい酒を古い革袋に盛る」と言われる状況を現していた。

 

 しかしそれは領土にも言えることで、旧副皇領の新竜王国はイギリスに事実上の主権を奪われるまでに陥り、辛うじて内政自治を維持している状態だった。

 南方のパプア島一帯の奪還も叶わず、北辺のアラスカなどにはイギリスの利権が残されたままとなった。

 他方では、琉球、ハワイ、ブルネイは竜宮王国の保護国へと全て転落した。

 そうしなければ、他国の侵略から守れなかったからだ。

 


 一方大きな変化があったのが、軍隊だった。

 

 今まで中ば形式上で国王直轄だった常備軍は、大幅な改変が行われた。

 副皇領を失ったことで、ますます継子扱いとなっていた陸軍は特に徹底して改変され、ヨーロッパ一般の軍制と教育が導入された。

 

 まずは統帥が国王から首相と議会に移り、内閣の軍務長官の下に陸海軍が置かれ、内務省との協力のもとで国民全ての徴兵が始まる。

 唯一近衛兵だけが国王、王族及び宮殿警護のために別扱いとされたが、実質的には全てが国軍として一元化される。

 

 なお、20世紀目前の竜宮本国の総人口は、約2350万人。

 ロシアとアメリカを除いた主な列強の、三分の二から半分程度の人口になる。

 琉球やハワイ、ブルネイを合わせた総人口だと、3000万人近くにまで増える。

 そしてこれが、徴兵の基礎的な数字になった。

 

 しかし竜宮では海軍こそが軍の主力であり、今までも国防費の7割以上が常に海軍に注がれ、軍制が変わっても大きな違いはなかった。

 既に近代的戦列艦(戦艦)も有しており、国内には大規模な軍港と軍専属の工廠も有していた。

 陸軍のように教育や編成面から抜本的に変えなければならないという事がなかったため、一番変化の小さい政府組織だったとも言えるだろう。

 変わったのが階級の呼び方ぐらいだと言われたほどだ。

 

 徴兵される兵士の数はそれほど多くはなく、陸軍では師団数で6つ、平時は10万人程度が徴兵されるにとどまった。

 数としては、今までより若干増えた程度でしかない。

 有事に備えて将校と士官・下士官の比率は大幅に増やされたが、徴兵という面では国民の間での実感は薄かった。

 

 一方の海軍は従来通り志願制のままとされ、それでも4万人近い大所帯となった。

 多くを失った竜宮だが、それでも航路と守るべき多数の植民地を有していた証だった。

 また北辺を警護している先住民は、国境警備兵であるが国王の個人的な傭兵として扱われ、以後も宮内省の国庫から給与や装備が与えられる形とされた。

 他にも外郭地を防衛してきた日本人移民の子孫も、そのまま傭兵としてこちらは軍に属する傭兵部隊の扱いとされた。

 


 新編成された竜宮軍の事実上の初出動は、1900年の「北清戦争」となった。

 北京の竜宮公使館も他国同様に襲撃されたため、連合軍の一翼として当初は連隊司令部規模の1個大隊を、最終的には1個旅団を出兵させた。

 そして規律正しい軍隊を見せることで、日本同様に国際的に高い評価を得ることができた。

 

 このことは、国の再編成と周辺地域の混乱を利用して、列強未満ながらその末席に立錐する程度の地位を得る証ともなった。

 

 また竜宮が新しい体に脱皮しつつあった1898年、アメリカがスペインに帝国主義的な戦争をしかけたが、国民感情の面で勢いを取り戻しつつあった竜宮は、フィリピン攻撃のための竜宮領内の寄港求めたアメリカの申し出を局外中立宣言によって謝絶し、それなりの軍備を配置することで牽制した。

 

 かつてのスペインとの関係を重視したのではなく、今日のスペインは明日の竜宮である事を自覚しての行動だった。

 

 アメリカも複数の敵を抱えることは避け、苦労してフィリピンとグァム島にまで艦隊を進めることになった。

 

 しかしこれで本格的にアメリカが太平洋に進出した事になり、竜宮の改革と軍事力の強化は一層進むようになる。

 

 一方では、変革前の竜宮の退勢の頃に、清国が今更琉球が朝貢をしていたので自国の勢力圏だと言い出した事に対しては、1890年代に断固とした態度で艦隊を派遣することで相手を黙らせていた。

 そして北清戦争でも、琉球が竜宮領であることを確認させていた。

 


 19世紀後半から20世紀半ばにかけての約半世紀は、自ら強く羽ばたけなければ生きていくことの出来ない時代だった。

 


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