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竜宮年代記 Ryuguu Chronicle  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ23「近世12・竜宮とイギリス」

 竜宮とイギリスの関係は、古くは17世紀初頭に遡る。

 

(※大ブリテン連合王国=日本語向けにイギリスと表記する。竜宮では世界一般的な呼び方と同じ「ブリテン」または「連合王国」と呼ばれる)


 イングランドと呼ばれていた当時は、僅かにイギリス側の商船がアジアに来たとき接触した程度だった。

 竜宮側からは、一度親睦を深めるための使節が赴いたにとどまっている。

 

 その後両者が時折出くわすようになるのは、主にインドにおいてだった。

 どちらも、インド綿布キャラコもしくは綿花の買い付けに来る商人同士の接触が主だった。

 

 そこで両者の交易と交流が行われるようになり、竜宮商船は東南アジアで何とか得た香辛料の一部や、清、日本、そして自国産の陶磁器、絹、お茶などをイギリス商人に売って、ヨーロッパからもたらされた様々な商品を購入した。

 とはいえ、どちらも量は知れていた。

 当時の世界の通商の中では、どちらもマイノリティだったからだ。

 

 両者の間に国同士のつながりができたのは、17世紀中頃からイギリスがネーデルランドとの戦争を始め、竜宮で新しい国(王朝)が興ってからだった。

 

 この時イギリスは、数度の戦争をネーデルランドとの間に行い、ヨーロッパ世界での制海権を争っていた。

 その頃竜宮は、新国家建設を知らせるための使節をヨーロッパに派遣して、ここでイギリスが竜宮を初めて意識するようになる。

 そして二度目のネーデルランドとの戦争において、イギリスは竜宮にアジアでの情報提供とネーデルランドの攻撃を求めた。

 

 当時竜宮は、ネーデルランドと貿易や東南アジアの利権を巡って対立していた頃だったため、直接の戦争参加はしないがイギリス船の支援と情報提供、イギリス優位の商取引を約束した。

 この間、竜宮勢力下のブルネイを始め東南アジア各地の旧日本人町に、イギリス船が立ち寄ることもあった。

 また竜宮は、ネーデルランドに対する嫌がらせや、サボータジュを行った。

 

 その後もイギリスは、せわしなくヨーロッパ諸国と戦争を続け、17世紀終盤にはフランスとの第二次百年戦争に突入した。

 しかし、北太平洋地域が係争地にならなかったため、竜宮とイギリスのつながりはほとんど発生しなかった。

 竜宮本国があまりにも遠いため、イギリス商船が足繁く来ることもなかった。

 太平洋での運用ノウハウを持つ竜宮商人が運んだものをインドやパナマなどの中継地で買いつける方が、安くて安全だったからだ。

 これは他のヨーロッパ諸国も同様で、メキシコと東アジアを結ぶスペインと、17世紀から18世紀に海洋国家を自認していたネーデルランドが例外なぐらいだった。

 一方で竜宮の側からも、ヨーロッパや大西洋地域に頻繁に出かけることもなかった。

 竜宮側も、中継地で相手の物産を手に入れればよく、わざわざ行くだけの価値が低かったからだ。

 

 無害で疎遠な遠方の交易者というのが、竜宮の変わらぬ立ち位置だった。

 


 変化が起きたのは、18世紀後半に入った頃にイギリスがインドでの覇権を確かなものとしてからだった。

 

 以後インドでの交易相手は、インド商人から完全にイギリス人となってしまった。

 19世紀初期頃には、気が付いたらインドの綿布産業が壊滅的打撃を受けて、竜宮はイギリスから綿布を購入するようになっていた。

 それまでイギリスの衣類は羊毛を若干買う程度だったが、イギリスで量産された安価な綿布が竜宮各地の市場に流れ込むようになる。

 

 とはいえ、距離という絶対的な防壁が、国防ばかりか商業面でも竜宮を守り続けていた。

 

 しかし影響は皆無ではなく、インドで買い付ける原綿の価格もイギリスが買いあさるため高騰し、安価なイギリスの工業綿布と共に、もともと衣類関係の産業が弱い竜宮の繊維産業を徐々に衰退させていった。

 竜宮の消費者も商人も、安いイギリス綿布を買い求めたからだ。

 

 商業主義的に傾いた竜宮人自身が、自国産業を衰退させたのだった。

 ここには、インドにまで綿布を運んでくる以上で、イギリスの介在する余地は少ない。

 この頃のイギリスにとっては、竜宮との取引はついでのようなものでしかなかった。

 

 しかし18世紀末になると、竜宮各地での産金量と金保有量が減少して竜宮自体の経済力と貿易量も減少したため、距離の問題も合わせると、イギリスにとって竜宮は上客とは言えなくなっていた。

 太平洋の僻地なので、わざわざ行く気にもなれなかった。

 


 一方で、世界の制海権と海洋覇権を求めるイギリスは、世界各地への関心を増大させていった。

 そしてイギリスの探検家クックによる三度目の太平洋探検によって、ついにイギリス人が竜宮本国に至る。

 

 ジェームズ・クックの太平洋探検は1768年に開始され、彼は二度の航海によってオセアニア地域と南太平洋のポリネシア地域(タヒチやイースター島など)一帯を正確に紹介した初めてのヨーロピアンとなった。

 

 そして1778年、突如ハワイ諸島にクックの船団(といっても2隻だけだが)がやってきた。

 

 この時のクックの目的は、太平洋と大西洋をつなぐ北極航路の探索にあった。

 この航路が開発されれば、最短距離で太平洋に行くことができるようになるからだ。

 もし航路を見つけることができれば、イギリスは圧倒的優位に立てることを意味していた。

 

 一方では、当時既に竜宮の存在はヨーロッパに広く知られており、竜宮人が調べた現地の地図はヨーロッパにもたらされていた。

 しかしヨーロッパに渡った地図は大まかなものでしかなく、北太平洋の調査も合わせて予定されていた。

 

 クックの船団はハワイでの有償補給を済ませると、ハワイ辺境伯領が竜宮本国に知らせるよりも先に出発してしまい、次は天利果副皇領に至った。

 ここでも補給と乗員の休養のために2週間ほど逗留して英気を養い、さらに北を目指した。

 竜宮人により開発が進み文明化されていた北太平洋一円は、クックの船団にとっては非常に有益な存在となった。

 

 しかし北米西岸からアラスカ、アレウト列島の全てが竜宮の勢力圏であり、自力での詳細な地図と情報を得る以外に大きな収穫はなかった。

 一般的な地図なら、金を積めば竜宮人などから買うことができたからだ。

 一方では、国防に関するような測量などを行えば、竜宮側が強く抗議してくることも分かり切っていた。

 竜宮という世界の果てにある国家は、海洋交易を通じて世界先端の情報を持ち、そのルールの上で行動してくる国であることをクックらも事前の知識として知っていた。

 しかし、クックがイギリス本国から与えられた命令は、竜宮人すら知らない前人未踏の世界であった。

 

 かくして夏のごく一部の時期以外にルキ海峡の先には帆船で進めないと言う現地竜宮人の言葉に逆らって北極海に進んでみたものの、言われた通り帆船での北極海突破は不可能だった。

 世界の果てならオケアノスの先から奈落に落ちるところだが、風向き、海流のせいで進むことすらままならなかった。

 

 そしてクックは、失意のまま一旦はハワイまで引き返す事になる。

 そこで竜宮本国からハワイに来ていた使節に出会い、竜宮皇の歓待を受けることを決める。

 北極調査のために、竜宮本国の協力を仰ごうとしたのだ。

 


 クックは竜宮本国の首都昇京を見て驚いた。

 太平洋へと出かけるスペイン人は再三「太平洋の宝玉」と昇京の事を伝えていたし、他にも竜宮本国を訪れたヨーロピアン達が何度も竜宮の事をヨーロッパ世界に伝えていた。

 しかしそれは、黄金の国ジパングなどと同様に、ヨーロッパでは半ば伝説や空想、それでなくても大きな誇張でしかないと考えられていた。

 北太平洋に行った海賊が、莫大な竜宮金貨を奪ったという伝説もあったが、多くの者が豊富な黄金を竜宮が持っていることと、言葉、位置などから日本の事だとも思っていた。

 当時、ヨーロッパから北太平洋に行くと言うことは、世界の果てや月面に行くぐらいの気持ちの場所だったのだ。

 

 しかし事実は違っており、クック乗るレゾリューション号の眼前には、波静かな湾内に大量の大型帆船を配した、パールホワイトにエメラルドグリーンとバーミリオンのアクセントが見事な大都市が広がっていた。

 

 当時総人口50万人を抱える昇京の街は、産業革命直前のヨーロッパの大都市のほとんどより立派で巨大だった。

 

 そしてその大都市の中枢、つまり王宮でクックを歓迎した当時の竜宮皇捷隆は、ヨーロッパの自然哲学(=科学)や啓蒙思想にも興味を持ち学業や科学を振興する開明的な君主で、様々な面で行き詰まりを見せつつある竜宮の状況を前に内政改革を実行した、中興の祖と呼ぶべき優れた統治者だった。

 

 そして捷隆は、竜宮を訪れたクックの聡明さや勇気に感銘を受け、彼を全面的に支援する事を約束し、夏の北極探索を勧めた。

 クックの探検行は、竜宮にとっても未知の事象であるため、大きな話題となった。

 北極海の奥を行こうなどと、竜宮人は考えもしなかったので尚更だった。

 

 なおクックが竜宮に伝えた知識や経験によって大きく緩和されたのが、船乗りの壊血病発病者の激減だった。

 この一つの事をもって、竜宮でのクックへの好意は非常に高くなった。

 竜宮人にとって航海による壊血病発病は、もはや宿命的なものだとすら考えられていたからだ。

 それを自然哲学(医学)的に解決したのが、クックだった。

 

 そして捷隆皇の理解によって、竜宮からは最高性能の船(=黒珠号)がクックらの道案内を行うことになり、竜宮側の準備と北極突破の時期を待つため半年以上竜宮本国に滞在することになった。

 その間クックらは竜宮皇の客人として遇されて鋭気を養い、また竜宮の少し風変わりな自然の観察と動植物サンプルの採取を堪能した。

 

 そして3隻となった船団は竜宮本土を旅立ち、黒珠号を先導としたレゾリューション号とディスカバリー号は、まずはチウプカ半島に至りそこからユーラシア大陸北東端を北上してルキ海峡に至った。

 時は1780年5月半ば、まもなく北極の短い夏がやって来る頃だった。

 

 彼らは好天と風を待って新大陸側に進路を取り、氷が溶けるか薄くなった海を慎重に航海しつつ広陵とした巨大な島々の間を抜けて、幾たびもの苦労の末に遂にグリーンランドに至った。

 残念ながら北極点に至ることはしなかったが、歴史的な快挙を達成した事になる。

 次の北極探検は、実に百年近く先のこととなるのだから、大航海時代の最後を飾る快挙だと表されることもある。

 何しろ北極圏は、本来ならば帆船で行ける場所ではなかったからだ。

 

 レゾリューション号とディスカバリー号が逆に黒珠号を案内しつつイギリスへ帰国したのは、1780年8月のことであった。

 

 帰国後クックはイギリスで英雄扱いを受け、途中まで道案内をして最後まで旅に同行した竜宮の黒珠号も、イギリス中から盛大な歓待を受けることになった。

 しかしクックの報告により、北極海が航路として使うには余りにも過酷な場所であることも分かった。

 そして黒珠号は、イギリスの拠点を使って通常の航路で帰国の途につき、竜宮本国にも北極奥地の事が初めて伝えられた。

 また以後の竜宮では、この事件を契機として北極海沿岸の探検と開発が行われるようになり、北アメリカ大陸北西部の詳細も分かるようになった。

 

 その後クックはもう一度竜宮を訪れ、北太平洋を中心にして多数の探検と探索、動植物の採集を行った後に、サンプルを乗せた船を本国に返すも自身は竜宮で余生を送った。

 

 この探検は、古き良き時代の美談であり、イギリス人広くに竜宮という国を初めて意識させるものであった。

 またイギリス人に竜宮に対する何となくな好意を持たせた点では、この時の美談は歴史的な評価を与えても良いだろう。

 

 イギリス人の中では、今でも竜宮とはキャプテン・クックが行った最果ての楽園の島としてイメージされる事があるほどだ。

 この時のイメージが先行して、海洋冒険作品では以後頻繁に竜宮が登場する事にもなった。

 

 しかしこの時の美談は、当時の竜宮とイギリスに利害関係がないからこそ成立した穏やかな関係であった。

 イギリスに変化が見られるようになるのは、ナポレオン戦争を経たウィーン会議後となる。

 


 ナポレオン戦争とウィーン会議により世界の海洋覇権を確固たるものにしたイギリスは、大挙東アジアにも進出するようになった。

 従来のインドだけでなく、ネーデルランドから南アフリカのケープ、セイロン島など多数の植民地を得ていた。

 新大陸では、カナダ西部やニューファンドランド島の開発と移民も進んだ。

 また産業革命により爆発的に発展・拡大する国内産業を捌くために、海外市場が必要となっていた。

 今までとは違う植民地と市場が必要になったのだ。

 

 そしてイギリスはまずはインドを完全に飲み込み、次にイギリス国内の消費に応えるためチャイナに向かったが、そこで再び竜宮にも目が向けられるようになる。

 

 竜宮は北太平洋一縁に広がるばかりでなく、東南アジアからオセアニア(大洋州=太平洋)にも広く拠点を持っていたからだ。

 巨大なジャングルが覆うブルネイ島、パプア島、日本近在の琉球は古くからの竜宮の勢力圏であり、いまだインドシナ、シャム、フィリピンには日本人町から発展した竜宮の拠点や居留地、日系人生存圏が多数あった。

 太平洋各地にも拠点や足跡を記しており、竜宮近在のハワイ諸島は竜宮の領土となっていた。

 太平洋に点在する小さな島々のいくつかにも拠点を持っていた。

 

 もっとも竜宮は、東南アジアではあまり好かれる存在ではなかった。

 強欲な海洋交易商人というのが一般的な評価で、似たような立場の華僑との関係も良好とは言い難かった。

 しかも時折強力な軍事力を伴ってくるため、ヨーロッパ諸国並に見られる事も多かった。

 交易を行う者からは、海賊退治に熱心な点は評価されていたが、それも自分たちが不利だったり敵対すれば私掠船を運用するので、評価は二分されていた。

 

 そして「遅れた」文明しか持たない国々にとって、竜宮商船は黄金と鉄(鉄砲や大砲)を持って現れる海の彼方の国と言う点では、ヨーロッパ諸国と大差なかった。

 


 そしてそんな竜宮とイギリスの間には、希薄ながら国同士の繋がりもあり、また互いに友好的な関係を持っていると考えていた。

 イギリス側は白人一般の価値観から有色人種を見下していたが、多少遅れたところはあるがガレオン型の商船や戦闘艦を有する海洋国家というのは、侵略は難しいがそれ相応に利用価値があった。

 しかも、ある程度白人とのつき合い方やルールを知っている竜宮人は、アジアでは最もつき合いやすい相手だった。

 言葉が通じる相手もいるというのは、この上もなく便利な存在だった。

 少なくとも道案内や通訳としては、この時点で最良の存在だった。

 

 そこでイギリスは、ウィーン会議後アジアへの進出を開始すると竜宮人に俄に接近し、竜宮の勢力圏に商館を置かせてもらうよう願い出たり、共同経営を持ちかけたりした。

 現地の海賊退治や航路防衛で共同行動を取ることもあった。

 利害が一致すれば、共同での商売を行うこともあった。

 

 一方の竜宮側は、ヨーロッパの実状を正確には知らなかった。

 アジア、太平洋に来る白人から得られる情報がほとんどで、ナポレオン戦争やウィーン会議の事も大まかにしか知らなかった。

 これは長年つき合いのあるスペインとネーデルランドが完全に衰退した事が影響していた。

 最大限行われた事も、情報収集のために自力で船をヨーロッパに派遣して、ようやく断片的な情報を手に入れたに止まっている。

 

 そこに新しくやってきたのがイギリスであり、かつての記憶もあって竜宮側も友好的に接触することにした。

 

 また竜宮は、イギリスが新大陸の東側でアメリカと対立していることを知っているため、以後のヨーロッパ情報と新兵器の入手をイギリスから行うようになった。

 

 そしてイギリスとは貿易や海上航路維持で関係を深めたが、徐々にイギリスは竜宮の勢力圏深くに入ってくるようになり、イギリスの工業製品の浸透も進んでいった。

 

 この時点で竜宮側も由々しき事態になりつつある事を悟ったため、自らの変革を行おうという考えが急速に台頭したが、国自身は既に硬直化と組織疲弊が進んでいて思うようには行かなかった。

 

 取りあえず自国商品保護のためにヨーロッパのルールに則った関税制度を設けたが、案の定イギリスが文句を言ってきた。

 

 そして同時期に新大陸でアメリカとの関係が不穏になると、竜宮はイギリスとアメリカの間の敵対関係を利用することで、どちらかを頼るもしくは利用する事を考えるようになっていった。

 

 竜宮にとってのイギリスとは、旧時代で最後に友人となった相手であり、新時代の脅威であったのだ。

 


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