フェイズ20「近世9・安定時代」
瑠姫女王が去り18世紀に入ると、竜宮国は膨張を停止し安定期に入っていた。
周辺に竜宮本土を侵すほどの敵は存在せず、侵略者予備軍であるヨーロッパの大国は依然として太平洋には多く入って来ていなかった。
それどころかスペインやネーデルランドは、勢いを無くすと同時に物わかりの良い商売相手に変わりつつあった。
近隣の大国である日本や清国は依然として国内に籠もりきりで、竜宮の競争相手への名乗りすらあげていなかった。
東南アジアの国々も、ヨーロッパ列強に小突かれつつもアジア的停滞の中で過ごしていた。
一方で竜宮自身は、近在、北方(アラスカ+北東ユーラシア)、東アジア(琉球)、南方(ブルネイ王国、パプア大島)、新大陸(天里果大侯爵領)といった植民地や衛星国を抱えるようになり、東アジア地域での中継貿易の安定もあって繁栄を謳歌していた。
スペインのフィリピンやノヴァ・イスパニアも我が者顔で使えたし、ネーデルランドのインドネシアでも長い間かなりの影響力を持つことができた。
18世紀に入り日本が貿易統制をさらに段階的に強めていたが、黄金につられた日本が竜宮を求めていたので、当時の竜宮にとってはそれほど気にするほどの事ではなかった。
夏川(レナ川)流域のルキア地方(ユーラシア大陸北東部)西部では、ロシア人のコサックが頻繁に竜宮領域を侵すようになっていたが、竜宮としては費用対効果の不利益を考え、コサックを追い払う傍らで現地そのもののロシアへの売却交渉すら開始していた。
既に黄金を堀り尽くし毛皮も狩り尽くした現地の経済価値は、ほとんどなくなっていた。
国として、軍事や外交でやることも少なくなったので、そうした部門の役人や議員、軍人に言われるまま、何となくヨーロッパ各国に国の友好使節、親善使節を派遣してみたりもした。
スペイン、ネーデルランド、イングランド、フランス、ロシア、スウェーデン、ヴェネツィア、ローマ教皇、オスマン朝トルコなど、色々な国と親書と贈答品の交換が行われた。
ヨーロッパ各地に赴いた竜宮艦隊(※当然ながら立派な大型ガレオン船ばかりを選抜していた)は、珍しさと黄金郷という触れ込みもあって各地で歓迎され、帰路には珍しい文物を満載して竜宮に持ち帰った。
これがきっかけで竜宮との貿易が始まった国もあるし、既に自力でアジアに行く力を無くしていた国からは、盛大な歓迎を受けたりもした。
それなりの利益を認めた商人などの中には、定期的にヨーロッパもしくは竜宮に赴く者も出るようになった。
一方国内では、豊かさと安定を反映した華やかな文化が花開き、努力して導入された技術や学術の取り込みと浸透が進んでいった。
そして幸い18世紀全般にわたって資金(黄金)が豊富で、狭い竜宮内には十分な地下資源も存在していた。
ここまでくれば、竜宮の近世における繁栄は約束されたものだった。
しかし完全な安定と繁栄が達成されると、発展に停滞が見られるようになった。
周辺に明確に敵と呼べるような相手も存在せず、唯一の危機は人口増大と大規模な飢饉ぐらいだったが、これも新大陸という棄民地を持っていることである程度の安定は保障されていた。
それに竜宮は海外貿易を熱心に行っているので、その気になれば他から大量に食料を買い付けることも出来た。
実際何度か発生した中規模の飢饉は、全て無難に乗り切ることができた。
移民も定期的に出されるようになっていった。
貨幣流通量の大幅な増加により地方の農村に拠点を置く貴族が没落していったが、内政不安とはならなかった。
国王を頂点とした支配構造は、もはや地方貴族程度では覆すことは難しかったし、農民も換金作物で貨幣を手にしていたからだ。
国王は貴族と富裕層を中核とした議会と都市部住民、富農を支持基盤として、農村と地方、植民地を支配し、豊富な財源でまかなわれる官僚団と軍隊を保有することで国家を滞り無く運営した。
政治構造としては、ヨーロッパ型の絶対王政と主権国家の中間ぐらいだった。
この中で問題視されたのが、やはり地方問題だった。
貴族の没落、人口過剰による士族と国民の増加は、国として対処しなければ社会不安になりかねなかった。
零細な士族や、人口扶養限界に達した国民は、一度経済の不安定化や政情不安になれば、国を揺るがす存在になる可能性を持っているからだ。
そうした可能性は、北東アジアの歴史上で、いくつもの事例が転がっていた。
加えて、過剰な人口は国土の破壊をもたらす存在でもあった。
しかし竜宮本国は、他の地域から遠く孤立した土地のため、外に出るには太平洋を押し渡れる大型船が必要な事から、外に出て行くにはそれ相応の努力と対価が必要だった。
このため国によって天里果大大侯爵領と竜宮本国の間に航路が用意されたのであり、熱心な開発と移民事業が国の主導で行われるようになった。
活発になったのは18世紀に入ってからで、竜宮本国が本格的に人口飽和状態になってからだった。
貴族と士族には、開拓地の権利(地方の徴税権)を無償で与え、統治する人口に応じて爵位も与えるとした。
農民にも、自ら開拓した土地を無償で与えるとして移民を煽った。
何しろ新大陸は、土地だけは幾らでも余っていた。
竜宮人にとって寒冷な土地で米の作付けは無理だった事は残念だが、竜宮人の主食は米だけでないので、北米西岸の北部地域だけでも十分すぎる土地だった。
雨量が十分でない地域もあったが、灌漑などの処置を施せば小麦を栽培したり家畜の放牧は十分できたので、特に問題視される事もなかった。
移民の主力としては、各階層の継ぐべき土地のない次男坊以下の男子が最初に足を踏み入れた。
その次に、多少は開拓された場所に本土で嫁の貰い手がない女性が、仕方なく移民していった。
貴族や士族の一部は、自分の領地で開拓団や屯田兵を編成して、武装を整えてまでして新大陸の奥地へと踏み入れた。
武装が必要だったのは、新大陸の猛獣ばかりでなく、先住民が時折敵となったからだ。
そして一定の開拓者が土地を切り開いて住むようになると、そこに商人が入り込むようになり、交通の要衝には市場ができて町が発達した。
人が増えれば国の役所や様々な施設も建設されていった。
当然ながら各地を結ぶ交通網も整備された。
天里果大侯爵領は順調に拡大するようになり、17世紀中頃に先住民を含めて10万人程度の国とも言えない程度のコミュニティーだったものが、18世紀が終わる頃には名実共に大侯爵領と呼べるほどに成長していた。
沿岸部には広大な緑の海の牧草地帯が広がり、近隣随一の大河であるロンドゥ川を遡り山脈を一つ越えて100キロメートルほど内陸に入ると、そこは秋になると一面が黄金色に染まる穀倉地帯へと変化しつつあった。
どちらも狭い竜宮では考えられないほどの雄大な景観を持つ農業・牧畜地帯だった。
緑の海と黄金の海の各所には、竜宮本国の主に東部平原に似た情景が広がっていた。
領主の館を中心にして村が形成され、水力もしくは風力を利用した粉ひき小屋、丈夫な構造の穀物、牧草貯蔵塔が建てられた。
さらに時が経つと、地域の中心には立派な城と城下町も見られるようになった。
各所に建立された神威の神殿も、時間と共に立派になっていった。
そうなってくると竜宮人に反発する先住民が邪魔になり、同化を拒んだ者は容赦なく僻地へと追い立てられた。
先住民と争いになることもあったが、鉄と火薬を用いる文明相手に先住民では歯が立たなかった。
だいいち、既に竜宮人が数で圧倒していた。
ただし竜宮のやり方を受け入れた先住民の受け入れと同化政策も並行して積極的に進められており、先住民有力者の叙勲や拝領なども竜宮人とほぼ同条件で進められた例も数多く見られた。
この背景には人種云々以前の問題として、白人が本格的にやってくる前に自分たちのテリトリーを少しでも広げようと言う思惑もあった。
立派なコロニーが形成されると、スペイン人が船でノヴァ・イスパニアからやって来るようになった。
ノヴァ・イスパニアとはテリトリーと物産の違い、そして本国同士の関係から、良好な状態が長らく続いた。
現地のスペイン人の中には、ヨーロッパに似た涼しい気候が気に入ったのか、大侯爵領に住み着く物好きも出てくるようになった。
また中継点として、カリフォルニア北部のサンフランシスコがスペイン側の港湾都市として相応に発展して、そこに住み着く竜宮人も現れるようになった。
しかし世界的に見て辺鄙な場所であるため、他の客人はなかなか寄りつかなかった。
広大な平原と巨大すぎる山脈が控えている事も重なって、新大陸の東部からヨーロピアンが来ることもなかった。
たまに海からやって来るのは冒険商人か海賊で、それもイスパニアを別にすればイングランド、ネーデルランドのどちらかを大元とする人々がほとんどだった。
竜宮人も、東に向かうにはさらに巨大な山脈を幾つも超えなければならないため、今以上の進出には消極的だった。
少数の冒険商人や新天地を求める入植者の一部が東を目指したが、本格的な山脈越えは18世紀末頃になるまでまともな成功者は出なかった。
当時の竜宮人にとって、新大陸はあまりにも広大すぎた。
それに竜宮王家は、既に新大陸東部がヨーロッパ同士の係争地となっている事を朧気ながら掴んでいたため、敢えて莫大な国費と労力を割いて進出しようとはしなかった。
それよりも現在のコロニーを充実させ、周辺部の勢力範囲を確固たるものにする事に努力が注がれた。
ヨーロッパ人が来なくても、先住民との諍いや小競り合い、竜宮人同士のいがみ合いなど、問題がないわけではなかったからだ。
その中での変化は、大盆地の奥にある河川から砂金が見つかり、小規模なゴールドラッシュが起きたことぐらいだろう。
これも基本的に竜宮人が真っ先に大挙殺到してしまい、一部の新大陸のスペイン人がやって来たぐらいだった。
しかしこの話は、尾鰭を付けることで竜宮の黄金郷伝説とでも呼ぶべきものを補強し、現実にも竜宮の黄金時代を少しばかり延命させ、さらには現地の移民者を瞬間的に増加させたりもした。
また1780年代の世界的な火山活動による寒冷化が、竜宮本国にも中規模の飢饉を呼び込み、それまでにない移民が天里果領に押し寄せる。
その数は毎年1万人以上で、十年間で15万人も移民が増加した。
そしてその後も竜宮本土での人口飽和の影響で、規模を拡大しての移民が継続的に新大陸へと流れ込み続けた。
以後は、竜宮本土での完全な人口飽和もあって、新大陸への移民は規模をいっそう大きくしていくことになる。
しかし19世紀に至る間での変化はその程度だった。
だが、18世紀後半の竜宮国(竜宮第三王朝)の中興時代に、一つの大侯爵領とするには発展しすぎた事を理由にして領域内での分割が行われた。
実際開発地も人口も大きく拡大していた。
あまりにも広大な土地に住むため、現地の竜宮人と本国の竜宮人の価値観や考え方までが違ってきていたほどだった。
全体としては、新たに天里果副皇領が設置され、皇家の分家と今までの天里果大侯爵との間に姻戚関係が結ばれて統治者となり、その下に事実上の総督府が全体を統治することになった。
そしてその上で、各地に新しい領地が分割して設定された。
最も古い沿岸部の新竜大侯爵領、内陸の大盆地を中心とした翡野大侯爵領、北部山岳地帯の白竜辺境伯領、奥地の山岳部の相田圃辺境伯領、北部のアルタ・ノヴァ・イスパニアのカリフォルニアと隣接する織魂辺境伯領の5つが新たに設けられた。
ちなみに後者二つの名は、現地の言葉から取られた。
また東部奥地の巨大山脈群とそれより東の土地は、国防や開発のために副皇の直轄領とされ、竜連山脈領として以後統治されることにもなった。
さらなる開発や探索の手も、金鉱探しの山師や毛皮を求めた商人と狩人により徐々に進められた。
巨大な塩湖に達した者、陸路カリフォルニアの巨大な平野部に到達した者、中にはロッキー山脈(竜宮名「竜連山脈」)を越えて大陸中部の大平原に到達した者も現れた。
特に大平原では先住民との交易が活発になったため、年々山脈を越える行商人の数は増えていった。
一方で18世紀の終末期には、ロッキー山脈の向こう側で初めての白人との接触も見られた。
同時期頃から、ほんの少しだが東からやって来る白人の姿も見られるようになってきた。
ヨーロピアン達は、新大陸の西の果てにアジアとも言い切れない整然とした文明世界を発見して大いに驚き、事実上一部のスペイン人しか知らなかった竜宮の新大陸開発の実状をヨーロッパにもたらした。
(※スペイン人は特に問われない限り特に何も伝えなかった。)
一方、新大陸やアラスカと同時期に、竜宮によって本格的な開発が始められたのがハワイ諸島だった。
半ば偶然から、竜宮人が古くから入植(移住)していたため、竜宮人の保護という名目で開発と領土化がようやく進められるようになった。
まずは現地の竜宮系(ロング族)の最も地位の高い者に、ハワイ辺境侯爵の称号を授け自らの統治体制に組み込んだ。
とにかく、片言でも意思疎通ができる住民がいるという事は、この時代非常に便利な事だった。
そしてまずは彼らに自分たちの持つ文明を教え、武器を与える事で、対抗者だったポリネシア系のマナ族に対する同化政策もしくは征服を行わせた。
もっともその速度は緩やかで、約四半世紀かけてロング族によるハワイ諸島の統一とマナ族の取り込みが達成された。
ハワイ諸島で最も大きなハワイ島は、最終的に降伏による同化を選び、ロング族とマナ族の首長クラスの婚姻によって統一が達成された。
ハワイの統一を決定したのは、やはり優れた武器と船舶の力だった。
また優れた農業による人口増加が、ロング族の大きな力となった。
そして現地ロング族が、竜宮という文明国家のバックアップを受けていた事を忘れるべきではないだろう。
もっとも、ハワイを統一したからと言って、竜宮本国からそれほど重視された訳ではなかった。
ハワイは、海流と風の関係から竜宮本国から行くのは比較的容易いが、戻るには相応の時間の掛かる場所だった。
島の面積も広いとは言い切れず気候も熱帯に属するため、しばらくは砂糖栽培を進める以上の事はあまり行われなかった。
砂糖を得る以外では、新大陸から南方航路に至る際の中継点としてある程度利用されただけで、オワフ島の真珠湾に多少立派な港湾と要塞、そして役所が設けられたぐらいだった。
移民については、竜宮本国の貧農、漁民などが少しずつ流れるのが関の山で、半世紀ほどは緩やかな開発と移民が続くようになる。
しかも竜宮本土との交流拡大による疫病でハワイ全体での人口が激減したため、経済価値の低下に伴い交流も停滞化した。
一方では、竜宮本土としては近隣の流刑地として重宝され、小さな島に刑務所を作ったりもした。
(※死刑以下の最も重罪者が送られる流刑地は、赤道近辺の大島(パプア島)近辺の島々か、アラスカの北極寄りの極寒の地だった。)
18世紀半ばになると、新大陸からアジアに向かう頃の拠点としてのハワイの整備が進められるようになり、また砂糖栽培の生産地として、ようやく開発に本腰が入れられるようになった。
そして開発が急がれるようになった理由の一つには、1779年にイギリスのクックの船団が来航があった。
スペインとネーデルランド以外のヨーロッパの船が太平洋奥地に到達したことは竜宮人にそれなりの衝撃を与え、また当時の竜宮国自体が停滞の中の逼塞感に喘いでいたため、一種の公共投資としてハワイの急速な開発と移民事業が始まる。
この流れは急速で、1795年にはハワイ辺境侯爵からハワイ王国に変更され、さらには竜宮に併合されることが内外に通達された。
一方瞬間的な繁栄から一気に衰退したのが、アラスカを中心とする北方の植民地群だった。
黄金と毛皮を原動力として人々を駆り立てた場所だったが、18世紀半ばになると、黄金は簡単に採掘できるものは堀り尽くしてしまい、国家による資金と技術、人員を投入した鉱山開発に変わっていた。
主にアラスカなど現地の住民のために狩られていただけの毛皮も、欧州や日本などから需要があったので大量に狩られてしまい一時的に枯渇してしまった。
上質な毛皮として重宝されたラッコ、キツネ、テンなどは生物学上で絶滅寸前になった。
海産物も現地での食料として乱獲され、ラッコ共々大きく減少した。
このためユーラシア大陸北東地域から竜宮人が少しずつ引き上げるようになり、売却を進めるよりも早くロシア人が入り込んできた。
そして竜宮は、夏川(レナ川)東岸を主な境界線として、それより西からからは一切手を引いてしまう。
この地域が保持されたのもそれより下がったら国境にできる適当な地形が少ないからで、さらには内海化を維持しておきたいオホーツク海、ルキ海、チウプカ半島、チウプカ列島と、アラスカと本国を結ぶ航路維持のためだった。
なおアラスカが完全に廃れることはなく、また毛皮と黄金を求めた人々のおかげで北アメリカ北西部一帯に竜宮人の足跡が広がることになった。
沿岸部にはアラスカと天里果領を結ぶための航路と港湾施設が整備され、徐々に安定した漁業、林業なども行われるようになった。
そして竜宮が安定している頃、かつて竜宮が最も注目していた日本では、もっと長い期間、内向きの安定と平和を謳歌していた。




