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竜宮年代記 Ryuguu Chronicle  作者: 扶桑かつみ
17/69

フェイズ15「近世4・国内発展と政変」

 竜宮人は、自らの母なる大地が世界から孤立していることを昔から知っていた。

 いつしか、命がけで外に出て優れた文物、欲望を満たせる文物を持ち帰る事を、強迫観念のように持つようになっていた。

 

 最初はそれも、未熟な大型船を用いたら二回に一回以上の割合で失敗するため船乗りの数が少なく、社会全体で航海を行うために成人の儀式のような形すら作った事もあった。

 外海に出て戻ってくれば栄達が待っているという社会や風潮も、制度、慣習の双方で整えられた地方もあった。

 

 鯨や鯱を神聖視したのも、常に海というものを意識していたからだった。

 

 一方で竜宮本島の内陸部に入ってしまうと、平原ばかりが目について海を感じることも少なく、森や林、農耕地や牧草などがなだからな地形に広がり、さらにはよほど無理を行わない限り、大地は肥沃だった。

 黒々とした原生林は人口拡大と開墾が進むに従って徐々に姿を消していったが、平地の広さはむしろ拡大したようにすら思えた。

 

 それでも竜宮人は、地道に自分たちの小さな世界の開墾と開発を続け、農地を開き、穀物を植え、家畜を養い、余剰物を売買し、村を作り、街を作り、そして国を作っていった。

 

 そして気が付いてみると、外と比べた場合竜宮はそれほど小さくない勢力となっていた。

 

 竜宮諸島の総面積は約7万平方キロメートルだが、地域全体が温帯の温暖な場所にあり、年間降水量はそれなりにあり、平地が多く土地は肥沃という好条件が並んでいた。

 このため、技術を発展させつつ開発をすればするほど、人口と経済力が増えていったのだった。

 

 そして中華地域、日本、さらには東アジア広くからの積極的な技術や農作物、家畜の導入を精力的かつ継続的に行った結果が、竜宮人が予想もしなかった竜宮社会の「巨大化」だった。

 

 そしてさらにヨーロッパ諸国と新大陸との出会いと接触は、食生活と人口拡大の面で革新的な変化をもたらした。

 

 特に、初期に「カモテ」と呼ばれた甘芋(甘藷=スイートポテト)、把畑(パパタ=ポテト)、玉蜀黍(トウモロコシ=コーン)が、17世紀初頭から中期にかけて一般的な商品作物として普及した効果は絶大で、竜宮の総人口を一気に押し上げていった。

 

 1550年頃の総人口は、検地により約380万人と記録されている。

 人口密度は約60人程度だ。

 これが120年後の1670年頃の全国検地では、約850万人、人口密度は約150人にまで膨れあがっていた事が当時の記録から分かる。

 2倍以上の増加であり、清国が建国から150年間で1億人程度から4億5000万人近くにまで人口が拡大した経緯と似ている。

 また日本でも戦国時代の約1500万人から幕末の3400万人への拡大も、竜宮と似た変化と長期間の平和がもたらした結果だった。

 

 しかも竜宮では、さらなる人口増加によって土地が開発限界にまで達し、1700年代中頃には近世社会としては限界に近い1200万人近くにまで総人口は拡大する。

 これは竜宮諸島全体が気候が温暖で肥沃な平地が多いことに起因しており、この頃に森林被覆率が土地の保水能力や当時の技術で環境保全の限界にまで減り、国や住民による保全がいっそう徹底されるようになっている。

 17世紀後半ぐらいからの竜宮では自然災害が頻発して、国家を挙げて国土の保全と移民事業が推し進められるようになっていた。

 

 後の事はともかく、17世紀半ば以降の竜宮王国は、アジア的にはそうではなくても、大航海時代の航海に出ていく国としては中堅国家程度の規模と経済力、軍事力、国力を持つまでに成長していた事になる。

 

 そして竜宮国内がほぼ開発し尽くされ、人口が大幅に増大したことで、社会全体が大きな転換期を迎える。

 従来型の封建社会が、人口拡大に対して限界を迎えつつあったのだ。

 


 17世紀初頭、1378年の新王国成立から200年以上が経過していた。

 その間経済の好調から国土も民心も安定し、また愚王や悪政を敷く王がほとんどなかったため国政も安定していた。

 優れた法制度のおかげで、官僚の専横や腐敗、寄生も最低限だった。

 

 16世紀初頭のヨーロッパとの出会いと交易の拡大も、王国全体に好影響を与えた。

 

 そして人口の拡大と経済の好調は都市の発展を促し、年を増すごとに都市の統治権を持つ国王への権力集中が進んでいった。

 しかも貴族や士族は、交易で活躍するか海外での戦闘で功績を挙げるかでもしないと自らの地位向上は難しかった。

 国土の開発が未熟だった時期は土地の開発と人口増加に伴う増収(税収の増加)があったので特権階級の不満も少なかったが、開発すべき土地が無くなり人口増加が停滞し始めると行き詰まり感が強まった。

 そして士族の中では仕官する事で国(国王)に直接仕え、その中で栄達する道を選ぶ者が増え、貴族の地位はさらに低下していった。

 一部の貴族は、領地での商工業に力を入れることで打開を計ったが、そうした例は全体から見て少なかった。

 

 一方では、都市住民を中心にして外への膨張を行わせて利益を拡大する動きが強く、それを実行可能な国王に力が集まる傾向を強めさせた。

 海外貿易は大型船そのものと船を運行するための許可が必要なため、必然的に経済的体力の大きな特権大商人が国(国王)と繋がった。

 また少し遅れて、中小が中心の商人と手工業者組合の「惣合」が発展して、自らの発展と拡大のために地方よりも中央との繋がりを重視して、海外貿易にうって出た。

 そして主に国内で商業に従事する者も、そうした商人達と手を組んで活動した。

 

 そして国王は豊富な財源を用いて、優れた官僚団を運営して軍、特に海軍の整備を熱心に行い、そして強大な権力によって商人、貴族に特権を与える、所謂絶対王政的側面を強めた。

 これは17世紀に入ると決定的となり、途中の中途半端な状態を脱して、制度面でのみだったがいち早く近世社会へと進んでいった。

 日本で行われる巨大な需要を伴う大規模な戦乱が、竜宮経済を順調に育てる大きな要因となっていた。

 

 なお、竜宮の制度が急速に絶対王政の方向に進んだのは、独自に達成されたものではない。

 1580年代から以後何度もヨーロッパに使節や視察団が派遣され、その報告を元に国の制度を組み替えていった事が影響していた。

 国の制度だけでなく、商業(経済)制度の多くもヨーロッパ社会の優れた部分が積極的に取り入れられていった。

 

 しかし竜宮には、ヨーロッパの絶対王政と違う点があった。

 現世で強い政治権力を持った宗教勢力(聖職者)の有無だ。

 竜宮には、教皇も教会もなかった。

 原始宗教の流れを汲む「神威」があったが、この頃までに神威は民衆の側から敬われる民間宗教の延長となっており、他者を教化する力に乏しかった。

 さらには、ほとんど政治的宗教組織としての役割を持っていなかった。

 立派な神殿は国によって管理されていたが、民衆に対する慰撫機関として国が代表となって管理運営するという以上ではなかった。

 

 本来、聖職者、宗教の存在は、貧しい民を慰撫して支配に対して従順にさせるためのものだが、土地と物産が豊かで穏やかな気候の竜宮には、そういった組織の必要性が低かったのが一番の原因だと言われている。

 自然が優しい竜宮では、公正な統治と法、儒教のような人としての生き方の規範となる教えや考え方があれば、民は強く文句を言う事が極端に少なかった。

 加えて小さい世界で孤立している事が、竜宮の場合は宗教を必要としない要素の一つとなっていた。

 国に従う以外、他に選択の余地がなかった。

 神威に頼る場合は、海に出るときだけだった。

 

 しかし権力が一カ所に集中し過ぎる事は、当然富の集中を意味し、いかに公正な統治や法があっても全てを是正し公平にする事は不可能だった。

 

 当然不満が少しずつ積み重なっていく。

 特に豊かな都市中産階級が一定の知識を素養として持つようになると、暴力や不服従でなく、自ら得た新たな力である学問と理論によって自分たちの権利を求める傾向を強めた。

 竜宮には宗教権力や絶対者がいないため、そうした民の動きを止めることも難しかった。

 国や国王は法の裁定者として認識される向きが新王国で強かった事も、民の動きを助長した。

 

 一方では、国王への権力の集中は、やはり貴族の反発と不満を募らせた。

 特に内陸の農村部に拠点を構える地方貴族の不満は高くなった。

 彼らは、国を挙げて行う海外貿易の恩恵を最も受けにくいからだった。

 

 こうした中で第十一代竜宮王の義信ギシンは、1645年に議会の常設開催を発表した。

 議会は、国王のもとで民と貴族、士族から等しく議員を選出して行うと布告され、議会には立法と財政に対する一定の権利が与えられた。

 ただし軍権は国王にのみ属し、官僚も中央の力がより強められることになった。

 これらの制度も、ヨーロッパから持ち帰られたばかりの制度を参考にしたものだった。

 

 しかし新たな布告を商人や都市住民を中心にした民は喜び、貴族は一定の評価を下すも、むしろ自分たちの力が一層そがれる事になると危機感を強めた。

 

 しかも、議会の開設はかえって混乱をもたらすことになる。

 

 貴族と地方(農村部)の不満が一気に噴き出したのは、早くも1648年の飢饉の年だった。

 

 飢饉そのものは中規模で、甘芋や把畑芋など救荒作物の広い普及により大きな被害を出すことはなかった。

 しかし救荒作物の一般化に伴う人口の肥大化が、かえって全ての規模を巨大化させていた。

 

 新王国成立時の四倍もの人口は、優れた法制度と統治機構の許容範囲を上回ったのだ。

 加えて、新しい社会、新制度の導入が、人々に不安と不満をもたらし、一気に吹き出した形となった。

 

 この不満を主に竜宮本島の地方貴族達が利用して、国王に対して地方重視の政策を強く迫った。

 

 運営が始まって間もない議会は紛糾して国王は対応に苦慮したが、簡単に結論の出る問題でもなかった。

 貿易による富が竜宮を支えているのであり、今更農業主体の保守的な経済体制に戻せるわけがなかった。

 しかし国民の大多数は農民であり、農民の多くを直接支配しているのは貴族達だった。

 こちらの意見を無視することも難しかった。

 

 そして国王が結論を出す前に、事態は急変する。

 

 国王の義信ギシンが1649年2月に死去した。

 しかも世継ぎを決めないまま死んだため、世継ぎ問題が発生してしまったのだ。

 

 しかも死因は病死とされたが、年齢がまだ40代の半ばでの急病による死去であり、暗殺が国中で噂された。

 最も疑われたのが保守派の後ろ盾の強かった先王の弟の義宗ギシュウで、次の王はなかなか選ばれなかった。

 また国王の許しがないと議会も開けないため、こちらも機能停止した。

 

 そして新王国では、宗家嫡子(男子)が王位を継ぐことが半ば慣例になっていたが、義信死去時に男子の嫡子がいなかった。

 男子は相次いで早く死に、養子縁組も決まらないままの死去だった。

 

 しかし本来なら継承順位が高い弟の義宗が不測の事態の場合には王位を就くところだが、義宗は腹違いの弟であり血統的に継承順位が低かった。

 

 一方では先王には女子の嫡子はそれなりの数がいて、うち何人かは有力貴族のと養子縁組を結んで念のための事態に備えていた。

 そして万が一の場合は、養子縁組を結んだ男子が王位を継承する可能性が最も高かった。

 

 日本を始め東洋的な思想の影響が強い竜宮では、やはり男子が世継ぎとなる事が求められたからだ。

 そしてその養子達を、議会派とでも呼ぶべき都市住民達が後押ししていた。

 

 しかし先王が世継ぎを決めていなかったため、複数いた先王の養子の間でも争いが見られ、そこを保守派と義理の叔父に当たる義宗に突かれる形となっていた。

 

 数ヶ月間も国王の空白が続くと、民心も不安定さを増した。

 しかも飢饉対策も急がねばならず、とにかく国政を再始動させることが急務とされた。

 保守派も、後押ししていた義宗を次期国王に押すことも難しく、議会を停止する事を条件に先王の長女璃姫ルキの養子で義政ギセが王位に就く事を飲んだ。

 順番としては、義政が王位を継ぐのが最も妥当だったからだ。

 

 ようやく義政が新王となったが、無定見で軟弱な政治を続けて議会は完全に機能を失って議会派からはすぐにも失望される。

 しかもやることが全て中途半端であり、保守派からも怒りを買い続けた。

 

 しかも定期的に来航するスペインからも内情が知られるに連れて足下を見られ、信頼を完全に失ってしまう。

 

 時の人々は、新たな政変が近いだろうと噂しあい、それは保守派と議会派の戦争に発展するだろうと予測されていた。

 

 しかし事態は、予想外に急変する。

 


 1649年春、首都昇京の桃の花が満開の中で、義政の妻であり先王の長女だった璃姫が宮廷革命を起こした。

 

 璃姫は、彼女に従った王師(王城警護隊もしくは近衛隊)を率いて王宮を短時間で制圧。

 義政を強制的に退位させて離宮に幽閉した。

 その後すぐに自ら王位に就くことを宣言し、これを議会派が承認。

 それに御璽を持っているのが王族直系である璃姫なので、クーデターに反対した貴族、保守派には実質的な行動の取りようがなかった。

 竜宮の国法の上では、御璽を持つ王族こそが唯一国王の資格を持つとされているからだ。

 男子が王位につくという「慣例」よりも「法」の方が、重視されるべきだった。

 竜宮人達は、中華的でも日本的でもない国の決まりを作ることで、200年以上も繁栄していたのだ。

 これを覆すことは、自分たちのアイデンティティの上でもできなかった。

 

 強引に新たな玉座に座った璃姫は、議会の再開、議会が機能するまでの親政を合わせて宣言した。

 

 そして3ヶ月後に議会は再開されるが、それまでに璃姫は宮廷内の改革、宮廷費の削減、官僚制度改革、新たな経済政策、税制改革など次々に政策を打ち出しており、議会はそれを追認する事が再開後の最初の仕事となった。

 議会派、改革派が望んでいた事が一気にかつドラスティックに進んだので、感情面以外で反発する理由もなかった。

 そして以前から璃姫が改革を唱えていたからこそ、議会派は彼女を後押ししたのだった。

 地方貴族を中心とする人々も、自分たちの意見も相応に即座に採り上げられたので、とりあえず拳を振り下ろすに下ろせなかった。

 

 この時の改革は、議会が再始動してからも概ね女王の親政の形で進められ、議会そのものが保守派に対抗するための一大勢力として機能する事になった。

 

 そして多くの改革が行われて古い習慣が一気に改められ、二年後の1651年には新王朝の成立を宣言するに至る。

 国法の厳しい竜宮では、王朝を変えなければ進められない改革が存在したためだった。

 このような改革の例は、世界史上で見ても珍しいだろう。

 

 新王朝は自ら「第三王朝」と呼び、国号を「竜宮王国」から「王」の文字を取り、「竜宮国」とした。

 これは中華秩序の中で、「王」は中華帝国の皇帝から下される位の一つであり、ヨーロッパ社会での王とは少し違っているからだった。

 あえて言うならば「王」とは貴族の称号に近く、ヨーロッパ社会での公爵デュークに近いかもしれない。

 実際古代の中華世界では、公という位は王を現していた事もあった。

 

 このため女王は国号から「王」の文字を取り、国家元首の称号も「王」から「皇」へと変更させた。

 この変更に際してヨーロッパ社会に対してはそのままの翻訳が行われ、これ以後竜宮では「王」と「皇」は別の意味とされた。

 また皇帝と「皇」も別のものであり、英語でのエンペラーは皇帝もしくは帝であり、「皇」はそのままキングと訳されるようになった。

 

 また名称変更が行われて中華世界からの決別を示した通り、今度の王朝は中華国家との国家間の関係を結ばなかった。

 

 当時中華地域では、明国が滅亡して清国が新たに支配権を確立したが、竜宮は新たな中華王朝の封冊体制の中に入ることはなかった。

 既に自分達だけで世界のどこにでも行けるため、その必要性を感じていなかったからだ。

 

 その証とばかりに、竜宮国は東アジア以外の地域にも、新たな王朝が立った事を知らせる使いを派遣した。

 しかもこれらの使節は女王の肖像画を携えて各地を訪れており、その足跡はインド、イスラム世界はおろかヨーロッパにも及んだ。

 以前から国交と貿易関係のあるスペインとは相互の使節交換も行われ、女王の治世中にはヨーロッパに自国の船を派遣して、イングランド、フランス、スウェーデン、ローマ教皇にも使節が派遣された。

 


 なお璃姫女皇は、幼少の頃から文武両道に秀でた才色兼備の英才と言われ、夫選びだけが人生唯一の汚点だったと言われている。

 しかし残されている文献や第三者の記録(日記など)などの資料から推察する限り、義政との関係はクーデター後も良好だった。

 クーデター以後二人の間に子供は成さなかったが、すでに双子を含め4人の実子がいたので世継ぎに問題もなく、新王朝成立後も女皇は足繁く義政の幽閉先を訪れていた。

 また愚王とされる義政だが、おおよそ権力者に向かないが、凡庸な善人の代表のような人物だったとする評価も多かった。

 そうした人としての善良さが女皇の親政にも善政の形で好影響を与えたと記す記録や文書、手記などもある。

 実際改革においては、民を守るための法も数多く制定されている。

 

 当然民の女皇人気は高く、幼少から少女時代の冒険物語までが創作されたりもした。

 実際彼女は、幼少期各地を旅行して、冒険記まがいの事を行ったという記録も存在する。

 

 そして女皇の、家庭人としてのある種の平凡さが、世界史上で権勢を極めた様々な女王や女帝と比較される事も多い。

 

 しかし女皇は、外に対しては積極的で攻撃的だった。

 竜宮は、璃姫女皇のもとで建国以来最大規模の膨張を経験する事になる。

 


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