フェイズ08「中世4・パックス・タタリカ」
西暦1206年チンギス・ハーンが即位してモンゴル帝国を築き、1260年に即位したフビライ・ハーンによって大元国が築かれた。
13世紀は、モンゴルが世界を制した時代だった。
この頃竜宮は、近隣の日本にある鎌倉幕府との関係が冷めた状態だったため、琉球を主な中継拠点として大陸貿易と東南アジア貿易を推し進めていた。
太平洋に浮かんだ小さな島だけでは、食べるだけならともかく他がなかなか揃わないので、竜宮は時代の先に進みたければ自らの小さな世界の外に出ていくしかなかった。
しかも外との交流で中途半端に知識や文物を得たため、外への興味を尚更強めさせていた。
竜宮人から見て、小さな竜宮の世界は非常に退屈で味気ないものだったのだ。
また竜宮の総人口も飢饉や疫病(※交易の継続が大陸の疫病を定期的に運んでいた)による減少を越えつつも200万人を数え、着実に勢力を拡大していた。
都市文化も俄に華やぎ、農業技術の改良もあって住民の富も蓄積されていた。
人口密度も1平方キロメートル当たり平均で30人強、本島の平野では50人を越えたので、利用可能な平野部が多い事を考慮しても、土地の開発レベルは中世の東アジアとしてそれほど低くない数字を示していたと言えるだろう。
ちなみにこの当時の日本の人口は依然として700〜800万人程度で推移し、ヨーロッパでは島国のイングランド(ウェールズ、スコットランド含まず)が依然として100万人程度の人口だったので、竜宮の人口は当時の国家としてはむしろ多いぐらいである。
また、この時期は地球全体の温暖期を過ぎつつあったし、1230年の大飢饉をもたらすような干ばつも発生した。
しかし北太平洋の真ん中にある竜宮は、海流のおかげで比較的温暖なままだった。
もともと日本列島よりも少しばかり雨量が少ないので、ため池などの干ばつ対策が整っており、極端な人口減少や飢饉は訪れなかった。
むしろ開拓の進展による人口増加の方が上回っていた。
無論飢饉や干ばつは皆無ではなく、人口の底上げに伴い自然災害に対する混乱も大規模化していた。
その証拠として、この時期に初めて竜宮からの人の流出が発生している。
既に噂されていた、東の果ての新天地に一縷の望みを託した民の一部が船で賭けに出たのだ。
そして少数でも外への流出を可能とするほど、竜宮の航海、造船技術は向上していた。
木材の利用と製鉄も造船技術を第一とした努力と発展があり、他の地域の船の模倣や取り込みにも異常なほど熱心だった。
この頃竜宮が外に求めたのは、以後も竜宮が求めるようになる、中華地域の絹と陶磁器、東南アジアの香辛料だった。
また船舶を多数建造するようになったため、船舶用の建材が自国以外でも求められたが、距離や積載量、価格の関係からごく一部に止まった。
建材については、竜宮本島の北部や山岳地帯での植林や営林に力が入れられるようになる。
そして竜宮王国は、貿易のための中華帝国に対する朝貢には何の抵抗も感じていなかった。
自分たちに対する本格的な侵略が難しいことを知っていたからだ。
それに大陸国家は、自ら赴いて頭を下げるだけで自分達に有利な貿易をさせてくれるのだから、航海と交易の中で育っていた竜宮の現実主義路線から見れば一番の上客だった。
「頭は下げ、心で笑う」という俗語があるほどだ。
もっとも、わざわざ自分の側から頭を下げに行く国も珍しいからこそ、中華国家から優遇されたとも言えるだろう。
一方日本との関係は、竜宮にとっては鎌倉幕府との初期から続く関係の悪さから、貿易状態は大和朝廷以来過去最悪となっていた。
辛うじて鎌倉幕府側の許可制による貿易が行われていたが、規模は数世紀前にまで後退していた。
船も日本から出ることはなくなり、竜宮が出向く形になっていた。
しかも三宅島や八丈島などの伊豆諸島には、密貿易監視のために幕府の役人と船が常駐するようになり、日本、竜宮双方の船を常に監視した。
南西諸島でも島津氏などの現地守護に命じて、竜宮の監視が行われた。
ただし南西諸島の一部では、島津氏などの現地有力者に賄賂や情報を渡すことで、交流と中継点としての利用が行われる状態がずっと続いた。
また伊豆諸島の小さな島の一部では、密貿易が行われた。
ただし承久の乱以後の日本では、質素を旨とする鎌倉幕府の権勢が強まって公家の勢力が大きく低下したため、竜宮産の贅沢品に対する需要が大きく低下した。
このため竜宮の側から日本離れが強くなり、竜宮は活路を大陸に求めた。
そして監視の厳しい日本列島に対して窮屈を感じていた事から、中継点としての琉球諸島にさらに注目が集まるようになる。
自分たちと懇意にする現地豪族に対する援助や支援も行われ、琉球本島の中部の嘉手納湾が竜宮と大陸そして南方を結ぶ拠点となった。
竜宮の琉球への傾倒は、琉球の文明発展を助長し、現地での交易への興味を募らせることになり、後の琉球王朝成立に大きな影響を与えた。
日本語での発音が似ている事から、琉球と竜宮を混同する者も多かったと言われる。
琉球と事はともかく、竜宮は日本を半ば無視して中華地域特に南部の南宋との交易を積極的に行った。
竜宮で依然豊富に産出される宝石類や海産物の干物(鮑など)を持ち込んで、陶磁器、絹、綿、銅銭を持って帰った。
また南宋との貿易では、南宋で不足がちな鉄製品も輸出品として持ち込まれた。
またこの時、仏教僧が多数竜宮に渡ってきた。
これまで竜宮にとって、仏教の教えは先端知識や珍しい物品、外交能力以外で半ばどうでもいいものだった。
だがこの時は、「禅」の教えと精神性を重視する考え方が竜宮人にも受け入れられた。
竜宮人の僧侶も、大陸への留学を積極的に行うようになった。
ただし禅は、精神修行や文化の輸入として受け入れられたのであり、宗教そのものとしてはまた別だった。
竜宮にとっての仏教とは、現実的な面でのみ必要なものだった。
宗教面で言うならば、インドネシアで知ったヒンズーの教えの方が、竜宮の価値観に近い宗教だった。
また中華地域との直接的な関係が強まった事で儒教の教えも多く竜宮に伝えられ、竜宮でも中華風の学問(漢学)が発達した。
儒教は、その後の国の法に大きな影響を与える事にもなったほどだ。
竜宮での漢字の発音が日本語読みよりも中華風の読み方が増えたのも、この頃の交流が強く影響している。
そうした状況の時に、モンゴルの中華侵略が開始される。
当時竜宮王国は、大陸北部でモンゴル人による国家が拡大しているのは知っていたが、国際関係と海流と風の関係で行くのが難しいため、特に気にはしていなかった。
一方のモンゴル帝国は海のことに疎く、竜宮は日本の一部と考えていた。
朝鮮がモンゴルに服属されて日本に使者が至ったが、この時の書状にも竜宮のことは何も記されていなかった。
日本が朝貢すれば事足りると考えていたからだ。
1274年にモンゴル帝国(元=大元国)と日本の間で戦闘(文永の役)があったが、戦闘期間は短く対馬海峡地域に限られていたため、竜宮にとっては何の問題も発生しなかった。
竜宮人は日本での戦いを翌年知るが、竜宮人が考えた事は日本外交の愚かさと大元国への連絡を如何に付けるかだった。
元が日本を攻めるほどの能力と国力があるのなら、貿易の為に行かなくてはならないと考えられたからだ。
世界広くと繋がっているモンゴル人の帝国には、苦労して赴く価値があると考えられた。
当然、大元国行きは何度か試みが行われたが、琉球から対馬海流に乗って朝鮮(済州島)に至っても、何故か竜宮の使節は高麗王国の兵に捕らえられてしまった。
この時、大元国に献上予定の高価な品もことごとく高麗に奪われたため、竜宮の高麗に対する怒りは非常に大きくなった。
そこで竜宮人は、朝鮮人の悪行の資料収集を行い、自分たちの知る海外情報のほとんど全てを日本に無償で渡したりもした。
日本側はどう判断したかは歴史の結果が示しているが、この時の竜宮の朝鮮半島(高麗)に対する怒りは後々まで尾を引く事になる。
そして何も出来ないまま時間が過ぎたが、竜宮にとって大きな変化が訪れたのは、1279年に南宋が滅びてからだった。
南宋が滅亡したその年、揚子江河口部の貿易港(杭州)へと至った竜宮の交易船は、大陸の主が完全に変化していることを知った。
予測された結果であり、ある意味待ち望んでいた状況の到来だった。
そして事前に準備していた事もあり、大陸での劇的な政治的変化はただちに竜宮本国に伝えられた。
しかし風と海の関係で、竜宮本土が詳細を知り対策を講じるには1年以上が必要だった。
通常の交易ならば、毎年繰り返されることなので問題も少ないが、短期間での政治的変化には対応しきれない面もあった。
この時がまさにそうだった。
竜宮が南宋滅亡を知ったのと同じ年には、日本に再び向かった大元国の使節を日本が処刑し、大元国と日本の関係は決定的に悪化した。
そして1280年冬に竜宮の使節が、大元国の首都大都を訪れた。
日本では、朝廷が諸国の寺社に異国降伏の祈祷を命じ、神社という神社で神楽を行わせている頃、竜宮王国の使いは一も二もなく、大元国への朝貢を行った。
竜宮からは多数の特産品が献上され、竜宮は大元国との朝貢貿易の関係を結ぶ事になった。
そしてこの時初めて、モンゴル人は竜宮という日本とは違う国が存在している事を知った。
この時フビライ・ハーンは竜宮の服属をとても喜ぶと同時に、朝貢貿易での優遇の対価として、竜宮の使者に日本について分かる事を教えるよう求め、さらに日本列島への道案内も求めた。
ここで竜宮側の使者は、道案内については軍役も同然のため本国に許しを得なければならないとして態度を保留するも、情報についてはフビライに伝えたと言われている。
竜宮人は、北東アジアで最も海に長けた民族であることが誇りであり、大陸国家に対しては最大の商品であったからだ。
このため情報の対価として、非常に多くの利益を竜宮は得たとされている。
そして翌年の1281年、空前の大艦隊が日本列島の九州北部を目指して侵攻を開始した。
竜宮も大元国との良好な関係を重く見て、道案内ばかりか少数の軍船も揚子江に派遣した。
東アジア一般とは少し違う形状の船が、この時の中華側の記録にも残されている。
そしてこの事件は、竜宮側が初めて日本に対して攻撃を行う事件ともなった。
もっとも竜宮の船は丈夫さと洋上での速度を買われ、道案内が済むと1隻が元の艦隊中心部に止まる以外は、モンゴル兵が若干乗り込んでの連絡業務に活用されるに止まった。
もともと数も少なかったので、これは当然の結果でもあっただろう。
また竜宮本国では、モンゴルの侵攻に連動する形で日本列島近辺での大規模な海賊(私掠行為)を行う計画も進めた。
しかし、竜宮が何をしようが、戦闘の経過にはあまり関係がなかった。
たった一回の暴風雨(大型台風)が、全てを決めてしまったからだ。
空前の大艦隊が敵地についたその夜に暴風雨が襲って壊滅的打撃を受けるなど、おとぎ話でもなかなかお目にかかれない事件であった。
なお、台風通過後に連絡のため博多湾に至った竜宮の船は、その時の様を克明に今に伝えている。
かくして日本は、鎌倉幕府以下武士の決死の抵抗と「神風」によって守られた。
そしてその後の元は、自らの政治のツケを払わされたため、三度の日本侵攻は叶わなかった。
もっともその後元と日本は貿易活動を活発化させたので、元による日本に対する脅しのための日本攻撃でしかなかったとの評価もある。
艦隊の損失も、元にとっては反乱予備軍の旧南宋兵の厄介払いを兼ねていたので、それなりの成功でもあったのだ。
一方竜宮は元の都合によって優遇され、元が存在している間は常に有利な貿易を行うことができた。
これにより世界の辺境中の辺境である竜宮は、モンゴル帝国の世界ネットワークを十分に使えるようになった。
竜宮国内では中華地域の銅銭と、元帝国が紙幣を使用した影響で余った銀が大量に流れて、貨幣経済の浸透に伴う経済発展が見られた。
竜宮人が、世界というものを初めて実感したのもこの時代になる。
竜宮人の中には、モンゴル人とイスラム商人が作り上げた交易網を伝って、遠くヨーロッパはイタリアのヴェネツィアにまで赴いた者もあった。
竜宮人がキリスト教を知ったのも、この時代の事だった。
行った者の紀行文「西方記」と持ち帰った一部物品が、竜宮本国にまで伝えられたからだ。
ただしヨーロッパに赴いた竜宮人は、確認出来る限りでは個人的な冒険商人が数名いるだけで、ヨーロッパが全体として竜宮を知ることは無かった。
また一方では、元を通しての世界中の先端技術の導入と経済の発展に伴って、竜宮での技術や文化も大きく進歩して古代国家からの完全な決別が見られた。
さらには、中華各地の国際貿易港に竜宮人が滞在するようにもなった。
これは、今までにない変化であり、竜宮人が長期的に外に出ていく最初の機会ともなった。
世界規模での商業活動を重視したパックス・タタリカの時代は、竜宮にとって非常に有意義な時間となったのだった。




