剣舞のこと・舞姫は十字星に翔ぶ46
スマホに備わったアラーム機能というものは便利であるが、アズハは使った覚えがない。
忍者なら時間経過は感覚で、無意識に計るものである――というのが、幼いころに父から教わった柳生忍者の古式ゆかしい忍道であった。
便利な機械が目の前にあるのだから、使っても罰はあたるまい。
むしろ文明人として使うべきだ。
だが――
たとえば、キャンプでライターを使わずに摩擦で火を起こす男。
たとえば、とっくに生産が終了しているマニュアル車を運転できるとドヤ顔をするオジサン。
そうやって自ら不便を選ぶことを、さも特殊技能のように誇るのは、みっともない人間だと思う。
かといって、面と向かってバカにするのも悪いと思うし、男のプライドを傷つけるだろうから、苦笑いで受け流す程度のTPOもとい処世術は弁えているのだが。
というわけで、アラーム機能を使うことに特に精神的な躊躇はない。
使わないのは、その必要がないからだ。
体に染みついた忍道は、いつも正確に時間通りにアズハを眠りから覚ましてくれる。
望む、望まざるに関わらず。
「あー……」
面倒臭そうに息を吐く。
アズハは、ビジネスホテルのベッドで6時間ぶりに目を開けた。
枕元に備え付けられた時計は、午後8時を表示していた。予定通りだ。
予定にないのは、道連れの少女の去就のみ。
室内のもう一つのベッドに、空理恵の姿はなかった。寝た痕跡もない。
布団の上に、空理恵の着ていた館内着の甚平が折り畳まれていた。
「いってもうたか……。ま、ええねん……それでな」
さっぱりとした気持ちで、アズハは空理恵の選択を受け入れた。
自分と同じ生まれでも、自分とは違う人生があの娘にはある。それだけの話だ。それが一番幸せなのだ。
尤も、結果的に自分が空理恵の幸せを破壊するかも知れないのだが……。
「真剣勝負は殺るか殺られるかや……。ウチが勝ったら、そん時は――」
空理恵は、自分を恨むだろうか。
憎しみの連鎖など、ありきたりな話だ。その当事者になるというのは笑えない話で、アズハは「フフッ」と皮肉めいた笑いを零した。
「あー、アホくさ……。入れ込みすぎやで、自分……」
面倒臭いことを考えるのは、もう止めにした。
考えすぎると、仕事の前に気持ちが萎える。
アズハは思い切って腰帯を緩め、甚平をバッと脱ぎ捨てた。
薄暗い室内で、豊満でありながらも黒く引き締まったと肢体と、歳不相応に大人びた――あるいは無理をして背伸びをした黒い下着が露わになった。
服を着替えるのは、気持ちを切り替えるのと同じだ。
化粧をするのは、違う人間に変身するのと同じだ。
以前、少し学のある知り合いが「そうすることで人は祭の舞台で神となり、鬼となる」とかなんとか言っていた気がする。
当時は大袈裟だと鼻で笑ったものだが、今ならなんとなく分かる気がした。
メイクには少し時間をかける。相手が女だからこそ、ナメられるような見た目で行きたくない。死に化粧になるとしても、美しく散りたいという願いがある。
馬鹿げていると分かっていても、最期の瞬間まで女の意地を通したい。
クローゼットにしまっておいた、いつもの制服に袖を通す。
これは見た目は普通の制服に偽装した、現代科学で編まれた忍装束だ。
実在の学生服のデザインを模しているのは、作っている人間が極めて特殊な趣味人だからだ。
いつもは自衛隊向けの装備品を作っている会社の重役が、半ば新装備のテスト用に、そして半ば酔狂で、アズハのような女性工作員用に、こういう服を無償で作製してくれるのだ。
アズハも装備の新調の度に顔を合わせるのだが、なんでも少年時代にヨーヨーだか折鶴だかを武器にする制服バトルヒロインのドラマに憧れていて、当時から燻っていた思いの丈をぶつけている云々と言っていた。
要するに、悪く言えば妄執に捉われた変人、良く言えば琥珀色の青春の残光を今でも求め続ける夢追い人なのだろう。
中高年の何十年も前の心残りなど女子高生のアズハには良く分からないが、イヤラシイ要求も金銭の請求も特になく、タダで装備を貰えるので文句はない。
素足には、黒のオーバーニーソックスをしゅっ……と通した。
太腿まで覆うこのタイプのソックスは、防御重視の仕事の時にのみ使う。
宮元園衛の相手は、通常装備では難しいと判断したからだ。
他にも用意する装備がある。
確認のためにスマホを取ると、シュリンクスに大量のメッセージが届いていた。
着信数は23通。内、22通は同じ相手からだった。
「あちゃー……」
差出人名は〈クライアントC〉。
Cというのは単に区別のために振り分けられた番号で、イニシャル等の意味はない。
メッセージの内容は全て、クレームだった。
『どうして高速道路が不通になっている。お前らの仕業か?』
『ここまでやれとは言っていない。早く騒ぎを止めろ』
『早く返信しろ! 騒ぎを治めろ! ギャラはやらんぞ!』
『誰が責任を取ると思ってる! とっとと止めさせろ!』
『いい加減にしろ貴様ら! 俺はお前らと違って立場のある人間なんだ! お前らのようなゴミの遊びに付き合わせるな!』
『イヤガラセのつもれか? ケンカ売ってるのか? どうなるか分かってるんだろうな』
時間経過と共にクライアントの苛立ちが増しているのが文面で分かる。最後の方は誤字混ざりなあたり、急いで入力したのだろう。
気の毒とは思うが……
「まあ、言いだしっぺはそっちですからね~? 責任取るんが責任者の仕事ですわ。左遷で済めば御の字ですやん? 運が悪ければぁ……エクストリームな自殺ってトコですかねぇ? ご愁傷様♪」
アズハは酷薄に笑って、クライアントからのメッセージを全て閉じた。返信する気も必要もないので、これで話は終わりだ。
首都高速全体の通行止めに、電波障害そして――
遠くから爆発音が聞こえた。
首都での銃撃戦ときた。
南郷が遠慮なしに撃ちまくっているのは想像がつく。
無論、公にはガスの爆発事故などと発表されるだろうが、誰かが責任を取らされるのは確実だ。
「フフフフ……人様をブッ殺そうとしたんやから、逆に自分が殺されても文句ないですよねェ~? どっかのお役人さん?」
自分だけは常に安全な場所にいる……と錯覚するのは、特権階級にありがちな思い上がりだ。
そんな奴がどういう末路を辿ろうが、アズハの知ったことではない。
何の未練もなく別のメッセージに切り替える。
1通だけ入っているメッセージの差出人は〈バイク便A〉。
どんな相手にも、どんな場所にも、どんな時間でも、荷物に見合った金で指定時刻に届けてくれる配送業者だ。
メッセージは簡潔で
『午後8時15分 指定場所に』
とだけ。
アズハは身支度を整えると、即座にチェックアウトした。
向かった先は、ゆりかもめ竹芝駅――その西側入り口。
アズハが狭苦しい階段の裏側にさりげなく身を隠すと、時刻通りにバイクが路肩に停車した。
フルフェイスのヘルメットを被った運び屋は、性別も年齢も分からない。相手の素性など、お互いにどうでも良いことだし、詮索しないのが暗黙の了解だった。
アズハが軽く手を振って合図すると、ライダーはおもむろに樹脂製のケースを差し出した。
「アンタが……井戸端ヤマメさん?」
「いーえ♪ ウチは南郷カズミでぇす♪」
適当な偽名を言い合う。これが合言葉だった。同時にさりげなくスマホのQRコード認証を済ませ、運び屋に支払いを済ませた。
荷物の受け渡しを終えると、運び屋はすぐに走り去った。
両手に収まるケースを見下ろして、アズハから溜息がこぼれた。
「は~……コレ、あんま可愛くないから使いたくないんやけどなァ……」
ケースの中身は、アズハにとっての切り札だ。
性能に関しては製作者のお墨付きだが、見た目的に些か受け入れがたいモノがある。
そういう装備だった。
しかし、背に腹は代えられないのが現状だ。
(本気の宮元園衛とやり合うには……な)
真剣な眼差しで、スマホを確認する。
電波状態は完全な不通。ゆりかもめも運航中止。道路も芝浦方面は全面通行止めで、車列が大名行列と化して上り方向に連なっていた。
諦めて徒歩での帰宅を選ぶサラリーマンが、何十人も不機嫌な顔をして歩いていく。
その流れの中にぼつん……と一人取り残されている人影を、アズハは見つけた。
制服姿の女子中学生――空理恵だった。
「なんや……帰ったんと違うんか?」
声をかけてから、内心しまったとアズハは思った。
また、自分から余計なものに関わってしまった。
空理恵は俯き加減で
「電車……止まってるから」
ぼそり、と申し訳なさそうに言った。
確かに……電車は止まって、電話は繋がらない。タクシーは渋滞で進まず、そもそも遠く離れた地元までの料金なぞ払えない。有線電話にしても、公衆電話などとうの昔に撤去されている。
かといって、家出少女として交番に保護を求めるのも気後れする――というのが空理恵の複雑な心情なのだろう。
他人と知った実家に、どんな顔をして帰れば良いのかも分からない。分かるわけがない。
だから……姉か南郷に迎えにきてほしいのだと思う。
(迎えにきてくれる人がおるって……羨ましいなあ)
羨望を溜息で隠して、アズハは空理恵の手を握った。
「ウチとくれば……南郷さんと会えるで」
「えっ……アニキが……? なんで……?」
「あの人はくる。絶対にくる。あの人らは、人生の全部に決着をつけたいんや……」
アズハには再会と別れの、強い確信があった。
次の戦いで――南郷とエイリアスビートルの長い旅は終わる。
寂しさと憧憬と、複雑な感情を湛えた醒めた目で、アズハは芝浦ふ頭に向かった。
遠くから、また爆発の音が聞こえた。




