国崩し・東瀬織と悪意の箱のこと15
宮元園衛、29歳、独身。元ヒロインのちょっと怖いお姉ちゃんゾ☆
宮元園衛にはトラウマがある。
温泉に関するトラウマだ。
思い返せば心も体も未熟な中学生の頃――つまり15年くらい前。
過ぎた年月と今の年齢を思うと少し気が重くなる。
ともかく、腕っぷしは強いが心は浅はかだった少女時代に、園衛は配下をお供に温泉に入りに行ったことがある。
冬休みに、那須の奥の更に奥、栃木県と福島県の境目付近、標高2000メートル近い山の谷間まで徒歩で行こう! と園衛が言い出した。
秘湯ブログに影響され、とんでもない奥地の温泉に入りたくなったのだ。
「誰もいない雪山で、私たちだけで秘湯を独占するんだっ!」
園衛は即決即断の気質であり、当時小学生だった配下の少女二人を強引に連れ出して、ほぼ半日がかりで秘湯に到達。
崖下の河原に、雪に囲まれた湯船があった。
園衛がブログで見たままの、緑がかったお湯の温泉だった。
しかし現実が熱い期待に応えてくれるとは限らない。
当時の園衛はそれを知らなかった。
元気いっぱいの園衛、半死半生の少女R、凍死寸前の少女Kがスッポンポンで野天風呂に浸かると――
「うっ……」
園衛は青ざめた。
ぬるい。
お湯がぬるすぎる。せいぜい人肌程度の温度しかない。
ブログの写真は水温を伝えてくれない。データとして記載されていたお湯の温度は40℃前後だったが、冬場の冷却率を計算していなかった。
人の手で管理されない野天の温泉は、常に人間に適した状態とは限らないのだ。
ぬるま湯は凍えた体を温めるには熱量が不足していた。
お供の少女二人は不満を腹中に飲み込んだまま、無言で温泉に浸かっていた。
彼女たちの胸中を察すると、園衛の顔は真っ青になった。
自分の軽はずみな行動で、部下に無駄な苦労をかけてしまった。これが対等な友人同士なら喧嘩や愚痴で不満を発散できるだろうが、彼女たちは園衛より立場が下なので貝のように口を噤むしかない。
(ああ……私はなんてことを……!)
彼女たちの貴重な冬休みの一日を奪ってしまった。
いや明日は筋肉痛になるだろうから冬休みが二日潰れる。体調を崩したら更に台無しになるだろう。
「なんか……本当……すまん……!」
園衛は喉を押し潰すような声で詫びるほかなかった。
こうして冬休みを犠牲に心に傷を得て、宮元園衛は武家の頭領として少し成長したのだった。
どうして、そんな昔のことを思い出したのかというと――
「風呂に入りにきた」
雪の積もった山道に、園衛の殺気の篭った声が響いた。
ちょっとした冬の山登りなので厚手の防寒着である。あまりデザインは気にしていない。
今日はストレス解消のために、長野県の山小屋に温泉に入りに来ていた。
そして、暗殺者に遭遇した。
山道の前後、園衛を挟み撃ちにする形で10メートルの間合いで登山客に扮した男が二人。
厳密にはもう一人いたのだが、そいつは道の脇の雪に埋まっている。
園衛が敵の初撃の吹き矢を素手で弾いて、その一人に当てたのだ。
尋常の技ではない。
故に、暗殺者は何が起きたのか分からず狼狽していた。
「は……? なんだよこれ……?」
暗殺者の一人は、若い男だった。
未熟な暗殺者だった。
「私は風呂に入りにきた。邪魔だからどけ。今なら命までは取らん」
警告をしてやるのは、園衛なりの気遣いである。
尤も、吹き矢が当たった一人に関してはもう死んでいるかも知れないが。
園衛が一歩進むと、前方の男は一歩下がり、後方の男は一歩進む。
間合いを維持している。
残念なことに手を引く気はないらしい。
しかし、だ。
これはこれで園衛の期待していた展開でもあった。
そもそもストレスの原因は、巨大な敵との戦いだというのにその敵を直接ブン殴れないことにある。
現在は政治的、意識的な工作の最中だとかで、園衛は身動きが取れない。
まどろっこしい工作活動は瀬織に丸投げしており、進捗状況も良く分からない。
言うなれば渋滞に巻き込まれ、前方をトラックに塞がれて渋滞原因も分からなければ、どこまで渋滞が続いているかも分からない時の苛立ちに近い。
社会的地位の高い園衛は政府に対するデコイであり、何事もないように日々を過ごすこと自体に戦略的意義がある――というのは分かる。
だが間の悪いことに、悩みの相談相手になってくれる人間が不在だった。
南郷は負傷して隠れ家に伏せっており、安全保障上の問題から会うことも出来ないし、一切の連絡も取れない。
南郷の不在は、凄まじいストレスの増加に繋がった。
園衛がストレス発散のために大量の料理を作っても、食事に付き合ってくれるのは妹の空理恵くらいしかいない。
『も~! こんな食べたら太っちゃうよ~~っ!』
中学生の空理恵の胃袋は小さい。
結果、園衛は料理の量を減らすことになり、それに反比例してストレスは増加。
女の悩みを打ち明けようにも、その相手がいない。
『あのぉ……園衛様。南郷さんがどっ……童貞かどうかとかぁ……わ、私に聞かれてもマジで困るんですけどぉ……』
悩みを聞かされた女中の西本庄篝は、ドン引きしていた。
彼女は園衛とは少女時代からの付き合いだが、男性経験はない。
見た目が中学時代から変わらないのが原因らしい。
園衛は孤独だった。
宮元家の当主として、会社や組織の長として、公人としての責任は理解している。
しかし同時に園衛は個人であり、戦士であり。女であるわけで、その辺りの折り合いをつけて精神のバランスを保つ必要があった。
果たして各種の複合ストレスはキャパシティの上限に達し、ついに園衛はこうして温泉に向けて出発した。
隙あらば園衛を暗殺しようとする者が狙い易いように、人気のない冬の山中を選び。
暗殺者が狙い易いように丸腰で、護衛もつけずに、一人でノコノコと。
こうやって姿を晒してやったのだ。
そして魚は針にかかった。
「お前らはまだ若い。一度くらい仕事をしくじっても次があるだろう。この場は引いた方が、お前たちのためだ」
園衛が刺客の将来を気遣うのは嘘ではない。
見たところ、それなりに訓練はされている。ヤクザの鉄砲玉の類ではない。恐らくは忍の者だ。
彼らが暗殺者に身をやつしたのも、きっと事情があるのだと思う。
だから彼らの人生を案じつつ、背後から音もなく飛来した棒手裏剣を半身でかわした。
「ひっ……」
背後の暗殺者が怯えた声で哭いた。
避けられるわけがない必殺の暗殺技を易々と回避されたのだから、仕方のないことだろう。
それなりの使い手ならば、力量の差を悟って身を引くものだ。
だが引き際を見誤るのもまた、若さゆえ。
前後の暗殺者が僅かに構えを変えた。
その動作と気配で、園衛は対手が裾の下の暗器に手をかけたのだと分かった。
「……殺る気は変わらんか。一応、警告はしたぞ」
園衛はさりげなく足元の木の枝を拾った。
直径3cm、長さ30cmほどの、何ということはない単なる折れ枝。
小太刀代わりには長さも強度も貧弱すぎる、気休めにもならない得物だ。
暗殺者たちは侮った。
多少の手練れとはいえ、丸腰同然なら殺れる! と。
だが間合いを詰めようとした矢先、シュッという空裂音が雪山に響いた。
同時に、園衛の前方10メートル先の暗殺者の額から枝が生えていた。
園衛が全身のバネを使った、超音速の投擲だった。
折れ枝は園衛の技術と気功強化の筋力により、一撃必殺の武器に変化していた。
「つまらん。もう死んだ。ただの人間か」
園衛が冷たく振り返ると、後方の暗殺者が愕然とした表情で踏みとどまっていた。
前方の暗殺者と同時攻撃をかける気だったのだろう。
この様子だと、こいつも普通の人間だ。
「私を殺す気で来たのだから、もう少しおかしな奴を期待していた。頭を潰されても動くバケモノとかな」
「ひぃっ……なに言ってんだぁ……!」
「見識が狭いな。世の中にはそういう奴もいる。そういう奴に比べたら、人間の相手は簡単だ。頭を少し叩けば死ぬし、急所にほんの数センチ切り込むだけで死ぬ。人間は簡単に壊れる」
道理も無理も知らぬ弱者に教授するように語りながら、園衛は俊足で踏み込んだ。
一瞬の縮地だった。
0.1秒と経たずに園衛が暗殺者の眼前に到達。
暗殺者はとっさに両腕で頭上を防御したが、園衛は構わずに拳を振り下ろした。
拳槌が両腕ごと防御を貫通!
暗殺者の両腕がヘシ折れ、防御した頭部にめり込んだ。
「ぎびいっ!」
奇妙な悲鳴を上げる暗殺者。
迫る園衛は鬼神の眼光。
「人を殺しに来たのだから、逆にお前らが殺されても文句あるまい?」
「びぎぃえ……か、勘弁じでくださぃぃぃ……」
「刃を向けてきた相手を許すほど、私はお人よしではないよ」
「あぁ……じょ、情報……ぜ、全部吐ぎまずから……」
「どうでもいいな。そんなことは」
無関心に突き放して、園衛は暗殺者の足を払った。
人体が雪に倒れる音に続いて、鈍い骨折音と男の悲鳴が山中に響いた。
末端の暗殺者が依頼人のことなど知っているわけがないので、情報云々など交渉材料にもならない。
暗殺される心当たりは大過ぎるので、誰が依頼人なのかもどうでも良い。この程度の普通の人間を刺客に選んだあたり、園衛を良く知らない依頼者だったのだろうが。
刃を向けた瞬間から互いの関係は殺るか殺られるかの修羅道であるからして、その点の理解も覚悟もなかった半端者には同情も湧かない。
尤も、こうなることは園衛も予想済みだったわけで、ストレス発散の生贄にしてしまった罪悪感も僅かながらあるのは確かだった。
その後、園衛は山中の宿で夕方まで温泉に浸かってから、バキバキに折って丸めて放置していた暗殺者の一人を帰り際に回収。
まだ息があることを確認した上で、〈この者、極悪殺人者〉の置文を添えて、麓の警察署の前に投げ捨てた。
夜になって屋敷に帰宅した頃には、テレビとネットのニュース速報で〈身元不明の男性が全身骨折状態で警察署付近で発見される〉との怪事件が報じられたが、園衛は特に気にも留めなかった。
後の二人は春になれば見つかるだろう。
園衛は自室に戻って、てきばき寝間着に着替えて、灯りを落とし
「久しぶりに――充実した一日だった」
ほんのり満足げに布団に入って、園衛はすぐに寝た。
悪党には☆何をやってもいいんだゾ☆(よくないゾ☆)




