85 勝利の乙女、昔を懐かしむ
「ジェイル……?」
思いがけない相手に、メリアローズは慌てて背筋を伸ばし、にっこりと微笑んで見せる。
彼も大会の観戦に来ていたのだろうか。
メリアローズは以前、彼に求婚……らしきことを言われたことがある。
もしかしたら……と思っていたのだが、意外なことに彼は今回の大会に出場はしていない。代理を立てた形跡もない。
――そうよ。ジェイルはあんな馬鹿な噂は信じていないんだわ……!
巷では優勝者がメリアローズに正式に求婚する権利を得る、などというデマが広まっているようだが、きっと彼はそんな噂を鵜吞みにしなかったのだろう。
メリアローズは少しだけほっとした。
「ウィレム先輩は順調に勝ち進んでいるようですね」
「そ、そうね……!」
「ジュリア先輩も」
「ジュリア? 何のことかしら。あのジュリオとやらはよく似た別人のようだけど」
満面の笑みを浮かべて、自信たっぷりにメリアローズは誤魔化した。
例え真っ赤な嘘でも、胸を張って堂々とそれらしく言い放てば真実だと思い込ませることも可能だ。
オホホ、貴族令嬢であるジュリアがこんな大会に出場しているはずがありませんわ。なにかの勘違いではなくって?……という思いを込めて、メリアローズは白々しくそう言い放つ。
対するジェイルは、困ったような曖昧な笑みを浮かべていた。
これ以上つっこまれる前に、メリアローズは慌てて話題を変えようと頭を回転させる。
「ところでジェイル。王国祭のおすすめグルメマップはもう確認済みかしら。私、いくつか気になってるお店があるのよ」
「ふふ、メリア姉様は相変わらずですね。……もちろんチェック済みです」
作戦成功! ジェイルは懐からグルメマップを取り出すと、あの店がどうのこうのと目を輝かせて話し始めた。
――ふふ、やっぱり思春期男子。おいしいものには目がないはずよね……!
嬉しそうにしゃべり続けるジェイルを見ていると、メリアローズの胸に懐かしさが込み上げた。
まだメリアローズやジェイルが幼い頃、二人でよくこうして話したものだ。
「……なんだか、昔を思い出しますね」
どうやらジェイルも同じことを考えていたらしい。
彼はどこか懐かしそうに口元を緩めた。
「小さい頃、メリア姉様はよく教えてくださいましたよね。あそこの家はお茶会のお菓子がおいしいとか、あの屋敷の紅茶は一味違うとか」
「ふふ、懐かしいわ」
今でこそ学園の女生徒たちにキャーキャー騒がれても平然としているジェイルだが、幼い頃は随分と引っ込み思案な少年だった。
いつも怯えた子猫のように縮こまっていた彼を励まそうと、メリアローズは独自に仕入れた各家の美味いもの情報で釣りつつ、手を引いてお茶会やパーティーに連れ出してやったものだった。
余計なお節介ではないかと考えたこともあったが、どうやらジェイルにとっては良き思い出となっていたようだ。
その事実に、メリアローズの胸がじんわりと温まる。
「そうね、私は勝利の乙女役だから大会中に抜け出すわけにはいかないけれど……大会が終わったら一緒に行ってみない?」
気がつけば、ついついそんな言葉が口から出てしまっていた。
ふと昔のことを思い出して、その頃の気分を思い出したからかもしれない。
ジェイルは驚いたように目を丸くすると、どこか困ったように目を伏せる。
「……いいんですか、僕で」
その言葉に、メリアローズははっと今の状況を思い出した。
そうだ。メリアローズとジェイルの関係は、昔とは随分変わってしまっている。
ジェイルはメリアローズに求婚し、メリアローズはその返事を保留にしている状態なのだ。
今の言葉は、少し軽率だったのかもしれない。
「それは……ほら! 皆で行きましょう! ふふ、ユリシーズ様がお忍びで現れたらみんな驚くでしょうね!」
慌ててそう付け足すと、ジェイルはふっと笑った。
そのまま彼にじっと見つめられ、メリアローズはなんとなく居心地の悪さを感じてしまう。
「……本当に、メリア姉様は昔からお優しいんですね」
「そんなこと――」
「いいえ、僕はメリア姉様よりも優しい女性を知りません。あなたは昔からそうだった」
ジェイルが一歩近づいてくる。
そして、彼はどぎまぎするメリアローズの手を取り、そっと握ったのだ。
「ジェイル……!?」
「メリア姉様、本当にいいんですか」
ジェイルの手に力がこもる。メリアローズはなんて言っていいのかわからずに、この年下の青年の動向を見守ることしかできなかった。
「今年の剣術大会で、優勝者はあなたと結婚する権利が得られるなんて噂が流れています」
「そんなのでたらめよ」
「勿論です。でも……実際にあなたを手に入れようと出場する者も少なくない」
「そんな奴らはたとえ優勝したとしても、門前払いだわ!」
「それが……ウィレム先輩でも?」
どこか試すような口調のジェイルに、メリアローズは一瞬言葉に詰まってしまった。
その反応で、ジェイルは何かを察したのだろう。
「……結局、あの人もそうなんだ。あなたを賞品扱いするなんて」
ジェイルがぽつりとつぶやいた言葉に、メリアローズは慌てて彼の勘違いを正そうと口を開く。
巷では、剣術大会の優勝者がメリアローズの結婚相手となるような事実無根の噂が流れている、いわば、メリアローズは今回の大会の優勝賞品のような扱いになっているのだ。
だが、ウィレムは違う。
彼はマクスウェル家にメリアローズとの仲を認めさせるために、実力を示そうと出場しているのだ。
ジェイルの想像するような、メリアローズの家柄だけを目当てとする男たちとウィレムを一緒にはしてほしくなかった。
「賞品……? ジェイル、違うの!」
「メリア姉様は本当に人がいい」
「だから違うのよ!」
「どうして、いつもあなたのような優しい人が損をするんでしょうね。その癖に、――みたいなやつが堂々と居座って……」
「ジェイル……?」
ぶつぶつと何か呟くジェイルの様子が、どこかおかしい。
彼はメリアローズを見ているようで、メリアローズを見ていない。
どこか思いつめたような顔で、よくわからないことをぶつぶつと呟き続けている。
「ジェイル!」
「……メリア姉様」
慌てて呼びかけると、ジェイルは真っ直ぐにメリアローズを見つめ、そっと笑った。
その顔は、幼い頃……何かに怯えるように物陰に隠れていた彼を見つけて、手を引いてやった時の顔と同じだった。
――やっぱり、変わらないのね。私のよく知るジェイルだわ。
だから、ちゃんと話せば誤解も解けるだろう。
メリアローズはなんとか理論的に話そうと口を開いたが、それよりも早くジェイルが握ったままだったメリアローズの手を強く引いた。
「きゃっ」
思わずバランスを崩して、メリアローズはまるでジェイルの身を預けるような格好になってしまう。
ジェイルはそっとメリアローズを抱きしめると、耳元で小さく囁いた。
「メリア姉様、僕は……誰よりもあなたに幸せになって欲しいんです」
「えっ?」
「だから……僕に任せてください」
何を……と聞き返す前に、首元に強い衝撃を感じる。
そして、抗う間もなく、メリアローズの意識は闇に呑まれた。




