80 王子の取り巻き、覚悟を決める
「珍しいな、お前が稽古を頼みに来るなんて」
「もう、なりふり構ってる暇はないので」
物珍しそうに目を丸くしながらも、どこか嬉しそうな兄を前にして、ウィレム・ハーシェルは真摯にそう告げた。
「剣術大会の為に稽古をつけて欲しい」と頼み、事情を説明すると、兄――アンセルムは膝を叩いて笑ったのだ。
「まさかお前がこんな大胆な真似をするとはね……! はぁ、マクスウェル公爵家のご令嬢に真正面から求婚か。海老で鯛を釣るというかなんというか……」
「一応言っておくと、別に俺は彼女が公爵家の人間だから求婚したわけじゃないんで」
少々むっとしつつそう言い返すと、アンセルムはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべていた。
彼に懸想する純真な乙女達には、とても見せられない表情である。
「それはそうかもしれないが……なぁ、ウィレム。100%周りはそう受け取ってはくれないぞ。客観的に見れば、どう考えてもお前は逆玉の輿狙いの身の程知らずだ」
「……わかってる」
ウィレムは、自分自身とメリアローズが釣り合わないことくらいよくわかっている。
彼女は高貴な公爵家の至宝。それに比べて自分は、何の功績もなく、伯爵家の跡取りですらない三男。
大事な娘に寄りつく害虫として、マクスウェル公爵家に消されていないのが不思議なくらいなのだ。
――それでも、想いは通じ合っている。
だからこそ、ここで諦めるわけにはいかないのだ。
ウィレムは昔から、何事においても高望みはせずに生きてきた。
物心ついた時には、既に伯爵家の三男という、自分の立場をよくわきまえていたように思う。
伯爵家の跡取りという立場も、地位も名誉も称賛も、何もかもは優秀すぎる兄のものだった。
それを羨ましく思ったことがないと言えば嘘になるが、何事においても優秀すぎる程優秀な兄を見ていると、もはや競う気力すら湧いてこないのだ。
どうあがいても、自分では兄のようにはなれない。そう、諦めていたのかもしれない。
――自分はほどほどの所で、それなりに不自由しない暮らしが送れればそれでいい。
そんな考えで、何事にも真剣に取り組むことはなく、ただ漠然と日々を過ごしてきた。
大臣の持ち掛けた馬鹿馬鹿しい計画に乗ったのも、彼やユリシーズ王子に近づくことができれば、楽にそこそこのポジションを手に入れられるかもしれないという、打算的な感情からだったのだ。
だが、その計画の中でウィレムは出会ってしまったのだ。
どんな馬鹿馬鹿しいことにも全力で真摯に取り組む、目の離せない悪役令嬢に。
最初はとんでもない人だと思っていた。
そもそも悪役令嬢などという損な役回りを好んで引き受けるなど、正気の沙汰だとは思えない。
それでもいつの間にか、必死な彼女に振り回されるうちに……どうしようもなく惹かれてしまった。
彼女はいつも一生懸命だった。残念ながら彼女の努力は、本来の目的に対して散々な結果となったが……ユリシーズ王子とリネットが無事に結ばれたのは、間違いなくメリアローズの尽力の賜物だろう。
いきいきと悪役令嬢を演じる彼女は眩しかった。
周りに甘やかされ育ったお嬢様かと思えば、危険を顧みず他者の為に戦おうとする。
凛とした表情も、少し迂闊なところも、大胆なところも……何もかもが好ましく、愛おしく思えるようになるのに時間はかからなかった。
もっと彼女を見ていたい。傍にいたい。守りたい。誰にも渡したくはない。
叶うはずはないと知りつつも、どんどんと想いは募っていく。悪役令嬢を演じるのをやめてから、メリアローズの周りには常に求愛する男が絶えなくなった。
パスカル・スペンサーのような者が彼女に触れているのを見るたびに、嫉妬でどうにかなりそうだった。
メリアローズの周りには、ウィレムよりもずっと彼女にふさわしい貴公子たちがいる。
何も持たないウィレムがメリアローズの愛を得るなどというのは、叶うはずのない願いだった。
潔くこの想いを伝えて、拒絶されたならきっぱりと身を引き、ずっと影から彼女のことを見守ろうとも決めていた。
だが、それでも……
――『私ね、あなたと恋がしてみたい』
あの時の夢見るような甘い声色を、柔らかなぬくもりを、暖かな体温を、今でもはっきりと思い出すことができる。
手が、届いたのだ。
メリアローズはちゃんとウィレムのことを見ていてくれた。
――彼女は、他の誰でもなく俺を選んだんだ。
地位も名誉も、何もかもは自分の上にいる誰かのものだった。
それでも彼女だけは……他の誰でもなく、ウィレム自身を選んでくれたのだ。
だからこそウィレムは、メリアローズにすべてを捧げようと決めた。
周囲の者から見れば、きっと自分はとんでもなく分別のない男に見えることだろう。
そんなことは百も承知だ。
メリアローズの兄からも、「婚約も何もしていない今の状態で、少しでも手を出したら君を消す」と散々に脅された。
だが、そんなことで怖気づくウィレムではない。
厳しい条件付きとはいえ、彼はウィレムにメリアローズを託すチャンスを与えてくれた。
絶対に、負けるわけにはいかない。たとえ相手がどんな精鋭騎士であろうとゴリラであろうとドラゴンであろうと、ウィレムは必ずや勝利をメリアローズに捧げなくてはならないのだ。
ウィレムの決心が固いとわかったのだろう、アンセルムはにやりと笑って立ち上がる。
「俺は厳しいぞ。相手が弟だからと言って手は抜かない」
「望むところだ。逆に手を抜かれたりしたら困る」
正面からそう告げると、兄はふっと笑った。その表情は、どこか嬉しそうに見えた。
「よろしい。ならばお兄ちゃんが全力で鍛えてあげよう。血反吐を吐いてもリタイアは許さないので、そのつもりでね」
しっかりと頷いて見せると、アンセルムはすっと表情を引き締めた。
弟をからかう兄の顔から、部下を鍛える騎士の顔へと変わる。
巷の乙女達には「理想の騎士様」と人気のアンセルムだが、騎士団の若年層からは「鬼教官」と恐れられていた。
ウィレムも幼い頃から彼のスパルタ指導を受けていたが、それが嫌で仕方なくて、ひたすら逃げ回っていたものである。
――だが……もう、逃げない。逃げるわけにはいかない。
少しでもメリアローズに見合う男になるために、こんなことで音を上げるわけにはいかない。
弟としてではなく、教えを乞う者の立場で礼をすると、アンセルムはにやりと口角を上げた。
「……いい覚悟だ」
そのまま、二人で連れ立って訓練場へ向かう。
その道すがら、アンセルムは思い出したようにウィレムの方を振り返った。
「そういえば今度の剣術大会。優勝者はメリアローズ嬢に正式に求婚する権利が得られるなんて盛り上がっているらしいね」
「どこからそんなデマが……」
「現在彼女に求婚している者の他にも、各地の有力貴族がこぞって実力者を送り込もうとしてるとか。あぁそれと……」
アンセルムは足を止め、真剣な表情でウィレムに告げた。
「隣国から留学中のロベルト王子……彼も出場するって噂だ」
「え?」
「彼の剣の腕はかなりのものだと聞いている。……ライバルが多くて大変だな、ウィレムは」
やれやれと肩をすくめたアンセルムに、ウィレムは静かに告げた。
「誰が相手でも、負けるつもりはないんで」
「随分大胆なことを言うようになったなぁ……これも愛の力ってやつかな?」
「自分で言ってて恥ずかしくないのか……」
「別に? でも優勝すればメリアローズ嬢の婿候補か。俺もあと少し若ければ……」
「はぁ!?」
まさかこの兄もメリアローズのことを……!? とウィレムは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
すると、アンセルムはげらげらと笑いだしたのだ。
その反応にからかわれたのだと気がついて、ウィレムは兄を睨みつけた。
「心配するな、お兄ちゃんは可愛い弟を応援してるから」
「……はぁ」
「でも義妹との禁断の恋ってシチュエーションはそそられるな」
おそらく冗談だろう、と、ウィレムは無反応を貫き通した。
だが念のため、できるだけメリアローズをアンセルムに近づけないでおこう、とも誓ったのだった。




