75 元悪役令嬢、初めて恋を知る
「私と、一緒に――?」
ウィレムの放った言葉に、メリアローズは信じられない思いで目を見開いた。
「……くだらない、戯言だと思って、聞いてください」
ウィレムはどこか戸惑いがちにそう呟くと、小さく笑って口を開いた。
「もしも、あなたがマクスウェル公爵家の娘でなかったら」
ずっと気にしていた言葉が耳に入り、メリアローズの肩がびくりと跳ねる。
だがウィレムはそっとメリアローズの指に指を絡めて、そのまま続けた。
「なんのしがらみもなく……ずっと一緒にいられるんじゃないか――そう、思ってしまうんです」
「ぇ…………?」
思ってもみなかった言葉に、メリアローズの鼓動が大きく音を立てた。
「二人で、誰も僕たちのことを知らない所まで行ってしまえば……そうなれるんじゃないかって、馬鹿みたいですよね」
ウィレムは自嘲するように笑ったが、メリアローズは笑えなかった。
彼は……メリアローズがマクスウェル公爵家の人間という価値をなくしたとしても……一緒にいてくれるのだろうか。
「公爵家の娘じゃない私なんて、きっとひどいわよ」
「俺はそうは思いません」
「お金もないわ」
「俺が稼ぎます」
「侍女もメイドもいなければ……きっと、容姿だって保てない」
「あなたはどんな風になろうと綺麗ですよ」
「私、私……何もできないわ」
メリアローズは貴族令嬢、王太子妃候補として育てられていた。
公爵家という後ろ盾をなくし、市井で暮らすとしたら……きっと今まで会得したものはほとんど役に立たないだろう。
たとえ彼と一緒にどこかへ逃亡したとしても、足手まといにしかならないのだ。
だが、ウィレムはそんなの関係ないとでも言いたげに笑った。
「俺には、あなたがいてくれるだけでいいんです」
嘘や偽りを言っているようには見えない。
真摯な瞳で、ウィレムはそう告げた。
「……どう、して」
メリアローズには、何故彼がそこまで言ってくれるのかわからなかった。
……本当は、メリアローズが一番、自分自身に「公爵家の娘」以外の価値を見出せないのかもしれない。
ウィレムはちらりと部屋の入り口の方に視線をやり、誰も来ないのを確認すると……ゆっくりと口を開いた。
「あなたが……『公爵令嬢』でも『悪役令嬢』でもない、
メリアローズのことが」
ウィレムの指先がそっとメリアローズの頬を撫でる。
その優しい手つきに、メリアローズはまた涙が出そうになってしまった。
彼の、薄闇の中でも煌めく美しい翡翠色の瞳が、まっすぐに自分だけを見つめている。
その中に今までにないような、秘められた熱を見つけて、つられるようにメリアローズの体も熱を帯びていく。
ウィレムがそっと口を開く。その動きが、まるでスローモーションのように感じられる。
だがそれでも、その時はやってくるのだ。
「誰よりも、好きだから」
抑えきれない熱情を秘めたその声は、確かにメリアローズの耳に届いた。
数秒の間、メリアローズは彼の言った言葉の意味がわからなかった。
だが理解した瞬間――心臓が止まりそうになってしまう。
――ウィレムが、私を好き…………!!!?!?
他人にそうではないかと言われたことはある。
だが、まさかそんなはずは……と、無意識のうちにその可能性を否定していたのだ。
しかし、本人の口から聞いてしまった以上は、もう後戻りはできない。
――ウィレムが私を好き!? もしかして、前に言ってた「好きな相手」って、まさか……!?
もしそうだとすれば、彼はあのデートの時からメリアローズのことを……?
次から次へと様々な思いが溢れ……思考が爆発したようにぐちゃぐちゃになってしまうのだった。
「あ、あの……私、その、だから……」
自分でもなんて言おうとしてるのかわからないまま。言葉にならない言葉ばかりを繰り返してしまう。
すると、再びウィレムに優しく抱きしめられた。
その暖かな体温が、じぃんと体に染みわたっていく。
「……わかってます。今こんなことを言っても、混乱させてしまうだけだってことくらい」
ウィレムの表情が真剣味を帯びる。
どきりとしたメリアローズに、彼は静かに告げた。
「……今夜は、もう戻りましょう。これ以上一緒にいると……パスカルを責められないことになる」
「え……?」
「立てますか?」
ウィレムに手を差し伸べられ、メリアローズは混乱したままその手を取って立ち上がろうとした。だが……恐怖と安堵で腰が抜けてしまったのか、その場に崩れ落ちてしまう。
すると、ウィレムがそっとメリアローズの背中と膝裏に手を差し入れた。
「……失礼します」
「ひゃっ!?」
そのまま軽々と抱き上げられて、メリアローズは大パニックに陥った。
「お、重いから!!」
「別に重くないですって! ほら! 動かないでください落ちる!!」
「自分で歩けるわ!!」
「こんなときくらい格好つけさせてください!!」
ウィレムはなんと、メリアローズを抱き上げたまま部屋を出て、廊下を歩きだしたではないか。
こんなところを誰かに見られたら……とメリアローズは焦ったが、アンセルムが人払いをしたのか誰とも遭遇することはなかった。
やがて裏口らしきところにたどり着き、ウィレムがその扉を開く。その先には、誰かが手配したのか、小型の馬車が用意されていたのだ。
ウィレムはメリアローズを抱き上げたまま乗り込み、寄り添う二人を乗せて馬車は走り出した。
ウィレムはメリアローズを離そうとはしなかったし、メリアローズも傍らの存在に身を任せていたかった。
――不思議。ウィレムと一緒だと、こんなに心地いいのね……。
パスカルに抱きしめられた時はひたすら気持ち悪かったのに、今は不思議と彼に寄り添っていたかった。
何も言わなくても、心は通じ合っている。なぜだかそんな気がするのだ。
肩を抱くようにしていたウィレムの手が、そっとメリアローズの髪を梳く。
その柔らかな刺激に、メリアローズはうっとりと目を閉じた。
すると、ウィレムが小さく呟く。
「さっき俺が言ったことは……不快だったら忘れてください」
思いがけない言葉にメリアローズが慌てて顔を上げると、ウィレムはどこか悲痛な表情をしていた。
「忘れてって……どういう――」
「……本当は、わかってるんです。俺ごときじゃ、あなたに釣り合う訳がないってことも。弱った隙に付け込むような真似をしてあんなことを言っても、あなたを困らせるだけだってことも」
唖然とするメリアローズの目の前で、ウィレムはどこか自嘲するように笑った。
「あなたをわずらわせるような真似はしたくなかった。あなたを守ることができればそれでいいと思っていた。
でも……どうしても、抑えられなかったんです」
そして、彼はそっと告げた。
「もう他の奴に遅れは取りたくない……そんな風に、考えてしまうんです。あなたを……誰にも渡したくない」
彼の綺麗な翡翠色の瞳が、まっすぐにメリアローズを射抜く。
その途端、メリアローズの心もじわりと熱を持つ。
――こんな風に誰かに求められたのは……初めてかもしれない。
今まで何度も貴公子たちに求愛された。
花束に甘い言葉に宝石に……彼らはメリアローズの気を引こうと、ありとあらゆる方法を講じていたようだ。
でも、それでも……こんなに心を揺さぶられたことは今までなかった。
――……ウィレムは、「マクスウェル公爵家の娘」ではなく、「メリアローズ」を好いてくれている。
彼の視線が、声が、伝わるぬくもりが……確かにそう物語っていた。
そう実感した途端、胸が一杯になって……メリアローズの瞳からぽろりと涙が溢れ出してしまう。
その途端、ウィレムは先ほどの真摯な態度から一転して、慌てふためいた。
「メリアローズさん!? すみません、まさか泣くほど嫌だとは――」
「ち、違うの……」
「本当にすみません。そこまで不快ならいますぐ俺は馬車から飛び降りますので」
「だから違うって言ってるじゃない!!」
冗談ではなく本当に馬車から飛び降りようとしたウィレムを慌てて制止し、メリアローズはぎゅっと彼に抱き着いた。
「メリアローズさん!?」
「違うの、違うのよ……。私、嬉しくて……」
不快だなんて、そんなはずはない。
そうメリアローズは確かに……彼に想いを告げられ、嬉しかったのだ。
メリアローズは生まれた時から、マクスウェル公爵家の娘だった。
物心つく前からそのように育てられてきたのだ。
貴族の娘など、言ってしまえば「婚姻」という手段に使える政略の駒だ。
メリアローズは、それを不幸だと思ったことはない、ごく当たり前のことだと受け入れていたのだ。
もちろん、恋物語の中のような甘いロマンスに憧れてはいた。それでも、憧れと現実は違うのだということもちゃんと理解していた。
だが……
そんなメリアローズの心は、少しずつ変わっていったのだ。
きっかけは、自分と同じような運命に生まれついたと思っていたユリシーズ王子が、田舎の娘を見初めたという話を聞いたことだった。
興味本位で大臣の持ち掛けた計画に乗り、同じ使命を帯びた仲間たちと出会った。
皆で王子の恋を成就させようと駆け回るうちに……メリアローズの考えは確かに変わったのだ。
皆、自身の立場など二の次で、当初の計画とはまったく違う相手に惹かれていった。
メリアローズは随分とやきもきさせられたものだ。
そんな彼らを見るうちに、メリアローズの心にも小さな思いが芽生え始めていた。
――私も、そんな素敵な恋ができるかしら……。
政略のための冷たい婚姻ではなく、想いの通った相手との幸せを掴み取ること。
幼い頃からメリアローズがあえて諦めていたものに、手を伸ばしてみたくなったのだ。
――私が恋をするなら、その相手は……
うわべだけの美辞麗句を囁くだけではなく、腹を割って話し合い、笑いあうことができる人。
上品なダンスを踊るだけではなく、時には下町に降りて、一緒に歩いて楽しんでくれる人。
マクスウェル家の娘としてでなく、「メリアローズ自身」を見てくれる人。
そして……ずっと傍にいて、メリアローズを守り、支えてくれる人。
そんな相手が……
「……すぐ近くに、いたのね」
どうして気づかなかったのだろう。
あまりに近すぎて、逆にわからなかったのだろうか。
彼は物語の中の騎士のように、完璧な人間じゃない。
最初は頼りなさそうな青年だとメリアローズは思っていた。だが彼は、いつもメリアローズを支え、傍で守っていてくれた。
気がつけば彼のことを目で追うようになっていた。
彼が他の女性に好意を抱いているのではないかと思うと、胸が苦しくなるようになった。
夜会の場で他の令嬢に囲まれているのを見た時には、無性にイライラしたものである。
その理由が、やっとわかった。
そっと顔を上げると、こちらを見ていたウィレムと視線が合う。
なんだか恥ずかしくて、メリアローズは小さく囁いた。
「私ね……ずっと諦めてたの。お話の中にあるような素敵な恋をすること」
「メリアローズさん……」
「でも、王子やジュリアを見ていたら羨ましくなって……考えたの。私が恋をするならどんな相手がいいかなって」
ウィレムがごくりと息をのんだのがわかった。
メリアローズは穏やかに微笑み、そっと目の前の青年に抱き着く。
「私ね、あなたと恋がしてみたい」
そう口にした途端、愛しさが溢れ出してくる。
ウィレムの腕がメリアローズの背中にまわったかと思うと、強く抱きしめられた。
「……いいんですか、俺で」
「だって……他に思い付かないんだもの」
「あなたらしいですね」
二人で顔を見合わせ、くすりと笑う。
「お兄様に報告しなくっちゃ!」
「…………覚悟はしておいた方がいいですね」
「覚悟?」
きょとん、と首をかしげると、ウィレムは少し困ったように笑った。
「……どう考えても、伯爵家の三男の俺と、公爵家の娘であるあなたでは釣り合いが取れない」
「そんなの……!」
「……だとしても、俺は諦めるつもりはありませんから」
ウィレムがそっとメリアローズの手を握る。メリアローズが高鳴る鼓動を感じながら、そっと息を吸った。
――公爵家の皆は、認めてくれるかしら……。
父は、母は、兄は、何というだろうか。
ウィレムは伯爵家の三男で、未だ学生の身である。
舞い上がっていたメリアローズもその事実を思い出し、少し不安になってしまった。
――……いいえ、きっと大丈夫よ。
そう自分に言い聞かせ、ウィレムの手を握り返す。
――絶対に、諦めたりしないわ。やっと掴んだものを、逃したくはないもの……!
傍らの確かなぬくもりを感じながら、メリアローズはそう決意した。
2章もそろそろ後半戦です!




