72 元悪役令嬢、噛ませ犬に噛まれかける
「なっ……」
メリアローズは絶句した。何度か瞬きしてみたが、相変わらずそこにはしたり顔のパスカルが存在していた。
どうやら夢や幻ではないようだ。
「君は寝顔も美しいね。まるで伝説のいばら姫のようだ」
「すみません、お見苦しい所を……」
動揺を押し隠し、メリアローズはなんとか寝起きの頭を回転させた。
ちらりと周囲に視線をやったが、ここは見覚えのない部屋のようだ。
だが内装から察するに、今晩の夜会が開かれている屋敷の一室なのだろう。
――誰よ、パスカルなんて呼んだのは……!
おそらく眠り込んでしまったメリアローズを、パスカルがこの部屋まで運んできたのだろう。
自身の着衣が乱れていないのを確認し、メリアローズはほっと胸をなでおろす。
何故夜会に欠席していたはずのパスカルがここにいるのかはわからない。
だが、彼と密室で二人っきりになるのはまずいと、メリアローズの頭が警鐘を鳴らしている。
ここはすぐに退散するべきだろう。
「申し訳ございません、パスカル様。わたくし、ご迷惑を――」
慌てて立ち上がり、メリアローズは急いで部屋を出ようとした。
だが、すぐに軽くパスカルに抱き寄せられ、ぞわりと鳥肌が立つ。
「つれないな、メリアローズ。夜はまだまだこれからじゃないか」
「……お戯れを」
酒が回ったせいか、随分と体が重い。
それでもメリアローズは、なんとか纏わりつくパスカルの腕の中から抜け出した。
ふらつくメリアローズを見て、パスカルがくすりと笑う。
「大丈夫かい? 慣れない酒に酔ってしまったのかもしれないな」
その余裕に満ちた笑みに、メリアローズの背筋にぞくりと冷たいものが走った。
――慣れない酒……まさか……
カードゲームの最中、ヘレナに勧められいつもよりもハイペースにグラスを煽った。
少し変わった味がするとは思ったが、そこまで気に留めることはなかった。
他に……怪しいものを口にした記憶はない。
今日に限って夜会を欠席していたパスカル。
突然、メリアローズに声をかけてきたヘレナ。
もしや、この二人はグルだったのでは……?
「……わたくし、戻らなくては」
……ここで、焦れば負けだ。何とか頭を回転させ、メリアローズはパスカルを刺激しないように笑顔でそう口にした。
とにかく、今は一刻も早くこの場を脱出しなければならない。
さりげなく一歩、二歩と足を引き、メリアローズは後ろ手に扉の取っ手に指を掛け、開こうと力を込める。
だが、扉は開かなかった。
「なっ……!?」
慌てて振り向き取っ手を回したが、何故かガチャガチャと音がするのみで、一向に扉は開こうとはしない。
絶句するメリアローズが背後に気配を感じたかと思うと、再び伸びてきた腕に抱きすくめられてしまう。
「戻るだって? お楽しみはこれからだよ、メリアローズ」
「ひっ!」
耳元でねっとりと囁かれ、メリアローズはその気持ち悪さに震え上がった。
――……無理無理無理無理!!! 絶対無理!!
もう淑女らしく、などと言っている場合ではない。メリアローズは渾身の力でパスカルを押し戻そうともがいた。
「やめ、なさいっ……! あなた……自分が何をしているかわかっているの!?」
「君こそ何故そんなに俺を拒む? 自分でいうのもなんだが、俺のようなパーフェクトな人間のどこが不満なんだ。言ってごらん?」
――そういうところが気持ち悪いのよ! このナルシスト!!
……と叫ぼうかと思ったがやめておいた。
あまり、今のパスカルを刺激しない方がいいだろう。
至近距離で大嫌いな男と対峙しながら、メリアローズは何とかこの状況を切り抜けるすべを探っていた。
目の前のパスカルは、相変わらず腹が立つほど余裕の笑みを浮かべている。
「心配することないよ、メリアローズ。俺の妻になれば、君には何不自由ない公爵夫人の座が待ってるんだ。文句はないだろう?」
「そんなもの、私は欲しくないわ」
公爵夫人の座、それもパスカルの妻という立場などメリアローズは欲しくない。
一体この勘違い男はどれだけ思い上がれば気が済むのか……!
湧き上がる怒りを押し殺し、メリアローズは冷たくパスカルを見据える。
パスカルはやれやれと肩をすくめると、一歩距離を詰めてきた。
「……まったく、君はもう少し賢いと思ったんだがな。学園に入学して変な影響でも受けたのか?」
「あなたには関係のないことよ」
「そこまで俺を拒むのは……他に好きな男でもいるのか?」
その問いかけに、メリアローズは思わず肩を跳ねさせてしまった。
遠ざけたはずの相手の姿が、脳裏に蘇ってくる。
もしここに、彼がいてくれたら……そんなことを考え、心が弱ってしまいそうになる。
それが……表情にも出てしまったのだろう。
メリアローズの反応を見て、パスカルはにやりと笑う。
「誰なんだ? ユリシーズ王子か? それとも最近噂のロベルト王子かな?」
にやにや笑いながら顔を近づけてきたパスカルが、そっと耳元で囁いた。
「それとも…………あの、アンセルムの弟か?」
――ウィレム……!
彼の存在をほのめかされた途端、メリアローズの体がびくりと震えた。
その反応に、パスカルはますます笑みを深くする。
「そうか、やっぱりあいつか! アンセルムならともかく、大した力も金もなさそうな弟とは……君も物好きだな」
何がおかしいのか、パスカルはけらけらと笑っている。
メリアローズはウィレムを侮辱されたのが悔しくて、思わずパスカルを睨みつけてしまった。
その視線を受けて、パスカルは不快そうに眉を寄せた。
「……なんだ、その目は。それも奴の影響か? まったく、昔のように従順なお人形でいればよかったものを……」
段々と、パスカルの優雅な貴公子の仮面が剥がれかけている。
きっと、これが彼の本性なのだ。
気圧されそうになるのを必死に堪え、メリアローズは侮蔑を込めて目の前の男を睨みつけた。
パスカルは嘲るような笑みを浮かべると、そっとメリアローズの肩に触れた。
「まぁ、なんでもいいさ。……そんな男のことはすぐに忘れさせてあげるよ」
逃げ道を塞ぐように壁に押し付けられ、ゆっくりとパスカルの顔が近づいてくる。
その時点で、メリアローズの我慢は限界に達した。
「いい加減気持ち悪いのよ、このナルシストっ!!!」
もう淑女らしさはかなぐり捨て、メリアローズは思いっきり目の前の男の急所を蹴り飛ばす。
声にならない悲鳴を上げて崩れ落ちたパスカルを尻目に、再びドアノブを捻り、必死に外へと呼びかけた。
「誰かっ……! 来て!! 助けて!!!」
これだけ叫べば、誰かに届くだろうとメリアローズは踏んでいた。
パスカルが復活するのが早いか、助けが来るのが早いか――
残念ながら、天はメリアローズの味方をしてはくれなかった。
必死に叫ぶメリアローズの背後から、ゆらりパスカルが立ち上がる気配がする。
ひっと息をのんで振り向くと、そこには射殺しそうな目でこちらを見据える男がいた。
「人が下手に出れば、調子に乗りやがって……!」
「ひっ……あぐっ!!」
強く肩を掴まれたかと思うと、そのまま壁に突き飛ばされる。その拍子に背中に走った痛みと衝撃にメリアローズの喉がひゅっと音を立てた。
「お高くとまりやがって……おとなしくしていれば優しくしてやったのに」
咳き込むメリアローズを、パスカルが冷たく見下ろしている。
その目に宿る常軌を逸した光に、メリアローズの体はぞくりと震えた。
こんな風に誰かに直接暴力を振るわれるような経験は、メリアローズにはいまだかつてないと言ってもよかった。
必死に状況を打開しようと頭を回転させようとしても、押し寄せる恐怖に思考が塗りつぶされてしまう。
――怖い……。
――助けて、誰か……。
違う、誰かじゃない。
思い浮かぶのは、たった一人だけ。
『大丈夫。ここにいてください。あなたには指一本触れさせません……絶対に』
今でも、その言葉ははっきりと耳に、心に残っている。
彼はその言葉通りに、絶望的な状況からメリアローズを守り抜いてくれた。
でも、彼が来るわけがない。
彼が延ばした手を、救いの手を……メリアローズは自ら拒絶したのだから。
それでも……。
「ぃ、嫌……」
恐怖に身を竦ませるメリアローズの方へ、ゆっくりとパスカルの手が延ばされる。
パスカルの手がメリアローズの首筋へ触れる……その寸前だった。
――コンコン、と。
小さな、だが確かな扉を叩く音が外から聞こえた。
その途端、メリアローズははっと我に返る。
「助けて! ここを開けて!!」
扉の向こうにいるであろう相手に向かって必死に叫ぶ。
だが、パスカルは余裕な笑みを崩さずに、面倒くさそうに吐き捨てた。
「誰も通すなと言っておいただろう。見張りを続けろ」
その言葉に、メリアローズの頭は真っ白になった。
外にいるのは、パスカルの手の者……?
それでも、とメリアローズは必死に扉へと縋り付いたが、すぐにパスカルに引き戻され、床へと突き飛ばされてしまう。
「っぅ……」
「残念ながら白馬の騎士は来ないよ。アンセルムの弟を遠ざけたのは失敗だったな」
メリアローズの手の内などお見通しだという様子で、パスカルはひどく楽しそうに笑った。
いよいよ退路を塞がれて、メリアローズの体はがたがたと震えだす。
――ウィレムを遠ざけたのは、失敗だった。
先ほどパスカルに言われた言葉が、ぐるぐると頭の中をこだまする。
もし素直にウィレムに助けを求めていたら……今頃はどうなっていたのだろう。
「言うことを聞かないお姫様には、躾が必要なようだな」
冷たい目でメリアローズを見下ろすパスカルが、サディスティックな笑みを浮かべる。
そして彼が一歩足を踏み出した瞬間――
まるで落雷のような物凄い音を立てて、豪快に部屋の扉が吹き飛んだ。
「…………は?」
パスカルが間抜けな声を出して部屋の入り口を振り返る。
メリアローズもそちらに視線をやり、そして目を見開いた。
そこにいたのは、二人の人物だった。
「こんばんは、パスカル殿」
闇夜に溶けるような黒の騎士服に身を包んだ聖騎士アンセルムと……
「……死にたくなければ、今すぐ彼女から離れろ」
何故か、アンセルムと同種の衣装を身に纏い、剣を抜いた状態の……
ウィレムが、確かにそこにいたのだ。




