63 元悪役令嬢、静かに宣戦布告する
パスカルは堂々とした態度で、一歩一歩二人の方へ近づいてくる。
その途端ウィレムの体に警戒するように力が入ったのに、彼に縋り付くようにして立っていたメリアローズは気がついた。
――まさか、パスカルがやってくるなんて……
普通の相手ならこの雰囲気を見て尻込みしそうなものだが、パスカルは少しも気にした様子はない。
そう……あまりにも自然な態度で、逆に不自然なほどなのだ。
「おや、君は……?」
もちろん、気づいていなかったはずはないだろう。
だが、ある程度近づいてくると、パスカルはまるでそこで初めてウィレムの存在に気がついたように、目を丸くしたのだ。
そのわざとらしい態度に、メリアローズはぞくりとした。
――いったい、何を考えているの……?
ここを探し当てたということは、おそらく誰かにメリアローズとウィレムの居場所を聞いたのだ。
二人っきりで会場を抜け出した男女の元へわざわざやってくるなど、よほどのことがなければ考えられない。
一体なぜ、彼はそこまでメリアローズに執着するのだろうか……。
思い当たる理由がないからこそ、メリアローズには彼が恐ろしく思えるのだ。
「……初めまして、ハーシェル伯爵家のウィレムと言います」
パスカルの態度に合わせてか、ウィレムは押し殺したような声でそう告げた。
いきなり喧嘩を売るような真似をしなかったので、メリアローズは少しだけほっとする。
「ハーシェル家……もしや、アンセルムの弟かい?」
「はい、兄が世話になっているようで」
「なるほど、そういうことか。……よろしく、ウィレム君」
パスカルが友好的な態度で手を差し出す。
ウィレムもここで拒否するのはまずいと判断したのだろう。少し警戒した様子を見せながらも、その手を握り返した。
そして、パスカルはにこりと人好きのする笑みを浮かべた。
その途端、メリアローズの全身にぞわりと鳥肌が立ったのだ。
女の勘……とでもいうべきものなのだろうか。
確かにパスカルは笑っている。
だが……その下に潜むまぎれもない敵意に、メリアローズは気づいてしまったのだ。
いや、ただの敵意ならまだよかっただろう。
今のパスカルから感じるのはそれ以上の……冷たい、まるで虫けらを見るような、路傍の石を転がすような無機質な感情だった。
――このままじゃ、ウィレムが危ない……!
直感的に、メリアローズはそう悟ってしまった。
そう感じた瞬間、メリアローズの体は自然に動いていた。
「もぉ、待ちくたびれましたわ、パスカル様!」
甘えたような声を出して、メリアローズはパスカルにしなだれかかった。
その途端ウィレムが驚いたように目を見開いたのがわかったが、メリアローズは必死にパスカルの腕を掴む。
「パスカル様がいらっしゃらないので、わたくし、いろんな方に声を掛けられて……同級生のウィレムに愚痴を言っていたところですの」
「それは済まないことをしたね、メリアローズ」
「さぁ、会場に戻りましょう。もちろんわたくしと踊って頂けますわよね?」
今のメリアローズには、パスカルがウィレムに何かするのではないかと、ただそれだけが恐ろしかった。
会場に戻れば人の目がある。ウィレムの兄であるアンセルムもいるはずだ。
パスカルも、そこまで大それた行動には出られないだろう。
「ウィレムも行きましょう? そろそろあなたをイザベル嬢に返却しなくてはね」
くすりと笑って、メリアローズは自然体を装ってウィレムの方に視線を投げかけた。
――お願い、ここは私に合わせて……!
そう伝わるように、必死に願いながら。
メリアローズの視線の先のウィレムは、どこかショックを受けたような……愕然とした表情を浮かべていた。
その表情に、メリアローズの胸は痛む。
――これは演技なのよ。あなたはわかってくれるでしょう……?
もちろんメリアローズは、好きでパスカルに媚びを売っているわけではない。
何故だかはわからないが、パスカルは執拗にメリアローズを狙っている。
だから、メリアローズの傍にいたウィレムを敵視したのだろう。
幼い頃から公爵令嬢として育てられたメリアローズは、貴族の裏の面もよく知っていた。
スペンサー公爵家ほどの力があれば、それこそ人ひとり事故を装って消し、証拠を隠滅することだって可能なのだ。
下手にパスカルに目をつけられれば、いくら伯爵家のウィレムと言えど、消されないとも限らない。
パスカルがどの程度策を弄しているのかわからない以上、ここで下手に彼を刺激するべきではないのだ。
ここは彼の望む通りに動くべき場面だろう。
幸いにも、ウィレムはすぐにメリアローズの意図に気づいてくれたようだ。
「あなたが会場に戻れば、また皆が騒ぐでしょうね」
「平気よ。今はパスカル様がいらっしゃいますもの」
平静を装って、そう言ったウィレムが笑う。
寒気がするのを抑えながら、メリアローズはパスカルの腕にしがみついた。
「やれやれ、そう言われては仕方ないな」
パスカルがわざとウィレムに見せつけるように、メリアローズの体を抱き寄せる。
その途端、ウィレムがあからさまに表情を歪めた。
――大丈夫、私は平気よ……!
必死にウィレムにそうアイコンタクトを取りながら、メリアローズは早く会場に戻ろうとパスカルを促した。
◇◇◇
会場に戻り、アンセルムがまだ残っていることを確認して……メリアローズはすぐさまパスカルをダンスフロアに連れ出した。
少なくともこうしていれば、パスカルの行動を制限できるはずだ。
「ウィレム君と踊ったそうだね。皆が驚いていたよ」
「パスカル様がいなかったので、仕方なく、ですわ」
さりげなく問いかけてくるパスカルに笑顔で応えながら、メリアローズはさっと会場内に視線を巡らせた。
ウィレムは再びイザベル嬢を始めとした、淑女たちに囲まれているようだ。
さっきまではあれだけ腹立たしかった光景に、今はどこか安心した。
あれだけの人がいれば、パスカルも彼に手出しはできないだろう。
「彼とは親しいのかい?」
「ウィレムは友人です。どちらかと言うと……わたくしの、というよりはユリシーズ様のご友人といったところでしょうか」
さりげなくウィレムの背後に王子がいることをほのめかせると、パスカルは笑った。
そして、声を潜めてそっと問うてきたのだ。
「メリアローズ、それは…………俺に対する牽制かい?」
――悟られていた。
びくりと体が跳ねてしまったのは、きっとパスカルにも伝わったことだろう。
メリアローズがパスカルを警戒していることも、彼がウィレムに何かするのではないかと案じていることも、おそらく彼には筒抜けだったのだろう。
だが、だとしたら話は早い。
「パスカル様、ただの事実ですわ」
――ウィレムに何かしたら許さない。
そう意志を込めて、メリアローズは優雅にそう告げた。
すると、パスカルはおかしそうに笑ったのだ。
その余裕な態度に、メリアローズは内心で舌打ちした。
――これは、強敵ね……!
優雅にダンスフロアを舞う男女。
だがその間にあるのは甘いロマンスなどではない。
そのことに気づいた者は、果たしてこの会場にどのくらい存在するのだろうか。
――それにしても、どうしてこいつは私にこだわるのかしら……。
スペンサー公爵家は、マクスウェル公爵家に並ぶほどの大貴族だ。
パスカルはスペンサー公爵家の長男。立場は十分すぎるほどに保証されているのだ。
わざわざ好きでもないメリアローズに執着せずとも、自由に好みの女性を相手にすればいいものを。
実際に、数年前までのパスカルはそうしていたはずだ。
――パスカルの思惑は読めないけど……私は、負けないわ。
ウィレムに手出しはさせない。
もちろん、メリアローズ自身もパスカルの思い通りになど動いてやるつもりはない。
そう決意して、メリアローズは自身を奮い立たせるように優雅に笑ってみせたのだった。




