55 元悪役令嬢、天使と悪魔に翻弄される
放課後の学園内。
いつものように群がる求婚者たちから逃げながら、メリアローズは大きくため息をついた。
王子とリネットがあのわざとらしい芝居を披露した後でも、それよりもメリアローズを射止めんと挑んでくる者は後を絶たない。
多少リスクを冒しても、マクスウェル家のご令嬢を手に入れたいということなのだろう。
「…………はぁ」
……時折、考えてしまうのだ。
もしも自分がマクスウェル家の娘でなかったら、いったいどんな人生を歩んでいたのだろうか、と。
もちろん、マクスウェル家に不満があるわけではない。
立派な父に、穏やかで美しい母。優しい兄に、申し分のない働きぶりの使用人たち。
何もかもが一流の家だと自負しているが、だからこそ考えてしまうのかもしれない。
――私がマクスウェル家の娘でなかったなら、きっと誰も見向きもしないわ。
両手いっぱいの花束。
これを贈った者たちも、メリアローズがマクスウェル家の人間でなかったらここまで熱心に求愛するだろうか。
これらが求めているのはメリアローズ自身か、それともメリアローズの背後にある絶大な力か。
……そんなの、考えるまでもないだろう。
――『たまたま公爵家に生まれただけの女の癖に』
あんな罵倒に思い悩むなんて悔しい。
それでも、ルシンダの言葉は……確かに呪いのようにメリアローズの心にこびりついたままだったのだ。
だが心が沈みかけた時、不意に別の声が蘇る。
『確かに、悪役令嬢メリアローズはただ公爵家に生まれただけの、高慢で嫌な奴だったのかもしれません。でも――』
『でも……本当のあなたは違う』
今のように、ひとけのない廊下で……ウィレムに言われた言葉が頭の中でこだまする。
その途端頭がぽぉっとして、メリアローズは無意識に両手に抱えていた花束を抱きしめた。
ウィレムはいつも、メリアローズが悩んでると優しい言葉で慰めてくれた。
ただの気休めだったのかもしれない。メリアローズを怒らせると厄介なので、お世辞を言っただけなのかもしれない。
それでも……メリアローズは確かに彼の言葉に救われていたのだ。
彼だけは、マクスウェル公爵家の娘としてではなくて、本当のメリアローズを見てくれているのではないか……。
そんな、馬鹿みたいな妄想を抱いてしまうのだ。
「何考えてるの、私は……!」
恥ずかしくなって慌てて別のことを考えようとしたが、思考はどんどん甘い記憶に沈み込んでいく。
『本当のあなたは、誰よりも努力家で、お人好しで、高潔で……』
『それに……誰よりも綺麗だ』
同じようなことを言われたことは何度もある。でも、何故か相手がウィレムだと言うだけでそのあたりを転げまわりたくなるほど恥ずかしくなってしまう。
もう耐えられなくなって、メリアローズは近くの柱に軽く頭突きした。
それでも、顔が勝手ににやけてしまうのだ。
あの時、驚くほど近くにウィレムがいた。
そして、今朝も……
『無防備で、放っておけなくて、手を離せばすぐにどこかに連れていかれそうで……』
――もしあのまま、始業の鐘が鳴らなかったら……
いったいどうなっていたのだろうか。
ほとんどゼロに近かった距離が、もっと近づいたら……
「だ、駄目よそんなのっ……!」
――ふしだらよ! はしたないわ!!
顔だけではなく、もはや全身が沸騰しそうだった。
いったい自分は何を考えているのか。まさかウィレムが、あの場でメリアローズにキキキ、キスしようとしたなんて……!
「そんなことあるわけないじゃない!!」
そうだ。別に彼はメリアローズに恋をしてるわけではない。
だから、キキキキ、キスなんてしようとするはずがないのだ……!
――でも、だったらどうして?
あんなに顔を近づけて、彼は何をしようとしていたのか!?
『そりゃあ、キスしかないだろ。もしかしたらその先も……』
『そんなはずがありません! ウィレムは立派な貴公子なのです! 学園内で許しも得ずにキスなんて、不埒な真似をするはずがありませんわ!!』
大混乱するメリアローズの脳内で、悪魔(何故かバートラムの姿をしていた)と天使(何故かリネットの姿をしていた)が盛大な論争を始めてしまう。
『素直になれよ、メリアローズ。ウィレムに抱きしめられた時どう思った?』
『違います! きっとメリアローズ様の髪に何か付着していて、それを取ろうと思っただけなのです! 芋けんぴとか!!』
『芋けんぴ? お腹すきましたー』
何故か二人の論争にジュリアまで参加し始めて、メリアローズの脳内はもはやカオス状態だ。
『ほら、認めろよ。ウィレムにキスして欲しかったんだろ?』
天使リネットがジュリアに纏わりつかれている間に、悪魔バートラムの甘い囁きが頭の中にこだまする。
――ウィレムは私にキスしようとしてた? そ、そんなことって……!
「ひゃああぁぁぁぁ……!!」
遂に恥ずかしさが頂点に達して、メリアローズが窓ガラスにガンガン頭をぶつけ始めた。
「ウィレムの馬鹿! ばかばか!!」
「お、おいっ、大丈夫か!?」
その時背後から慌てたように声を掛けられて、メリアローズは0.1秒で態勢を立て直した。
「失礼、ガラスの耐久度を試しておりましたの」
常に優雅に。それがマクスウェル家の令嬢の在り方だ。
何事もなかったように髪をはらいそう告げると、目の前の相手は驚いたように目を丸くした。
「なるほど、君は相変わらずおもしろいな」
思わぬ言い方に、今度はメリアローズの方が驚く番だった。
まじまじと相手を見つめて、そこで初めて、メリアローズはその相手が誰なのかに気づいたのである。
メリアローズの目の前に立っていたのは、この学園では見たことのない青年だった。
艶やかな黒髪に、理知的な銀の瞳。
ユリシーズに引けを取らないほどの、高貴さを漂わせる青年がそこにはいたのだ。
そして、メリアローズは彼を知っていた。
何年か前、王宮で開かれた晩餐会で、彼と顔を合わせたことがあったのだ。
まさか、この御方は……
「あなたは……ロベルト殿下!?」
何年か前の……隣国の王族を招いての晩餐会。
その場で、メリアローズは彼と顔を合わせたことがあったのだ。
「あぁ、久しいな、メリアローズ嬢」
そう言って、隣国の王子は誰もが見惚れそうな笑みを浮かべたのだ。




