140 ある男爵令嬢の顛末(2)
「……何よそれは」
運ばれてきたパイを見て、イーディスは不思議そうにそう呟いた。
その反応では、これから起こることをまったく予測できていないのだろう。
……ちょうどいい。身をもって、味わってもらおうではないか。
「ふふ、それはね……こうするのよ!!」
メリアローズは勢いよくパイを掴むと、一息にイーディスの顔面目掛けて投げつけた。
狙い通り、クリームがたっぷり塗られたパイは、べしょっとイーディスの美しい顔に命中したのである。
「ぎゃあああぁぁぁぁぁ!! 私の顔と髪がベトベトに!!!」
「ふん、美貌の男爵令嬢も形無しね!」
「うわぁ……」
目の前の光景を見て、ジェフリーは明らかにドン引きしたような顔をしている。
パイ第2号をひっつかむと、メリアローズは続いてジェフリーの顔面に投げつけた。
「あんたもよ!」
「うわああぁぁぁぁ!! 何をするんだ!」
「ふん、仕返しよ仕返し! せいぜい無様に足掻くといいわ!!」
オーガスタス卿に操られていたとはいえ、ジェフリーとイーディスはメリアローズを陥れようとしたのだ。
メリアローズは、もちろん彼らをただで許すつもりは無かった。
だから、これは復讐なのである。
美貌の男女二人は、顔面がクリームまみれで見るも無残な状態になっていた。
「あらあらお二人とも、自慢のお顔が台無しよぉ?」
「ああぁぁぁぁ、アップルトンの紅玉と称えられたこの私の美貌がぁぁ!!」
「ふふ、リンゴパイにしてやるわ!!」
メリアローズは次々にパイを投げつけてやった。
これがまたスカッとするのである。
「ざまぁないわね、オーホッホッホ!」
「出た! メリアローズ様の悪役令嬢式高笑いだ!!」
「久しぶりに聞いたなこれ」
ジュリアとバートラムはわくわくとメリアローズのパイ投げを見守っていた。
すると、メリアローズの高笑いにつられたのか、親衛隊の面々までやって来てしまう。
「メリアローズ様! 次は是非この私めにパイを投げつけてください!」
「そんなに欲しいなら俺がくれてやるよ」
メリアローズが反応するよりも早く、ウィレムがパイを引っ掴んで親衛隊一番隊長の顔面に押し付けた。
「ぎゃああぁぁぁ!! このイキリクソメガネがああぁぁぁぁ!!」
メリアローズによる断罪パーティーは、まだ始まったばかりだ。
この日、華やかな王宮の一角に、周囲の優雅な雰囲気とは一線を画したやかましい悲鳴が響き渡った。
傍を通りがかった人々は、漏れ聞こえる声に恐れをなして、決して近づかなかったという。
◇◇◇
断罪のパイ投げパーティーで、イーディスとジェフリーの無様な姿をたっぷりと堪能したメリアローズは、それで彼らを不問にしてやることにした。
メリアローズが望めばアップルトン家の取り潰しも叶っただろう。
だが、あれ以来イーディスはよほどパイ投げが堪えたのか、随分としおらしくなってしまった。
その姿を見ていると、「まぁこれでいいか……」と思えてくるのである。
「それにしても、あの時のリネットの気迫は凄かったわ……。私、リネットの背後に極寒の氷山が見えたもの」
「あぁ、ペンギンとかが遊んでて可愛かったですよね」
「えっ、なにそれ見たかった!」
メリアローズとジュリアがどうでもいい話をしながら王宮の回廊を進んでいくと、向こうからイーディスがとぼとぼとやって来るのが見えた。
その途端身構えたジュリアをどうどうと抑えつつ、メリアローズはイーディスに対峙する。
「……メリアローズ様、一つお伺いしてもよろしいですか」
すっかり毒の抜けてしまったイーディスは、ぽつりとそう問いかけてきた。
その姿がなんだか哀れに思えて、メリアローズは彼女に向けて微笑んで見せる。
「いいわ、お茶でも飲みながら、ゆっくり話をしましょうか」
王宮の庭園の一角にて。
ジュリアの淹れてくれた少し薄味の紅茶を嗜みつつ、メリアローズはそっと正面のイーディスを眺めた。
伏し目がちの彼女は、どこか憂いを帯びた表情でティーカップを手に取っている。
「メリアローズ様、私最近テーブル返しを覚えたんです。もしイーディスが変なことしようとしたら、がっしゃーん!とひっくり返して見せますからご心配なく!」
「やめなさい。この茶器って結構高いのよ」
ジュリアは番犬のようにイーディスを警戒している。
その雰囲気に押されてか、イーディスはどこかおずおずと口を開いた。
「メリアローズ様……。私、メリアローズ様にとても酷いことをしました」
「ほんとですよ!」
「ジュリア、悪いけど少し静かにしてもらってもいいかしら」
メリアローズが軽く注意すると、ジュリアはぱっと自分の手で口を押えた。
これでしばらくは静かになりそうだ。
メリアローズは視線でイーディスに続きを促す。
「企みがばれた時……国外追放や処刑、爵位剥奪もあるかもしれないと思って、急に怖くなったんです。でも……」
そこでイーディスは顔を上げ、まっすぐにメリアローズを見つめる。
「あなたはそうしなかった。……どうして、私を許してくださったのですか」
「あら、パイ投げも随分な罰だと思うけど。私だったら、殿方の前であんな無様な姿を晒すなんて耐えられませんわ」
「それはそうですけど! 私のプライドも傷つきましたけど!! ……でも、私の仕出かしたことから考えれば、軽すぎる罰だと思うんです」
どうやらイーディスは、物の道理もわからぬ無能ではないらしい。
もう少し早く、喧嘩を売る相手を選んでほしかったけど……とため息をつきつつ、メリアローズは口を開いた。
「そうね、私もそう思うわ。でも……私だって、あなたの気持ちが何もわからないわけじゃないから」
「えっ?」
「愛する人が別の相手を選んで、目の前から立ち去ったら……私も、同じことをしてしまうかもしれない。少しだけ、そう思ってしまっただけよ」
そう告げると。イーディスは驚いたように目を見開いた。
彼女の視線から逃げるように、メリアローズは手元のティーカップに視線を落とす。
――もしもウィレムが、別の相手を好きになったと言って、私の前から消えてしまったら……。
きっと、メリアローズは耐えられない。
イーディスのように、相手の女性を恨まない自信はない。
だから……端的に言えば、メリアローズはイーディスに同情したのだ。
「……そろそろ、リネットの授業の時間ね。悪いけどここで失礼させてもらうわ」
呆然とした様子のイーディスに声をかけ、メリアローズはそっと立ち上がる。
「行くわよ、ジュリア」
「はぁい」
――イーディスは、まだ捕らわれているのかしら……。
失ってしまった恋は、いまだに彼女を苦しめ続けているのだろうか。
できることなら、メリアローズはイーディスを解放してやりたかった。
「……ジュリア、あとで頼みたいことがあるの」
「なんでもお任せください、メリアローズ様!」
余計なお節介なのかもしれないが、メリアローズは動かずにはいられなかったのだ。