126 メリアローズ、不名誉な噂を立てられる(5)
ウィレムはずっと、すすり泣くメリアローズを抱きしめてくれていた。
少しずつ落ち着きを取り戻したメリアローズは、やっと今の状況を思い出す。
ウィレムは王子の近衛としての仕事の最中なのだ。こんな風に、迷惑をかけていいわけがない。
「っ、ごめんなさい……!」
慌てて身を引こうとしたが、逆に強く引き寄せられ、メリアローズの鼓動が高鳴る。
ウィレムはそのまま、メリアローズを落ち着かせるように囁いた。
「いいから、このままで」
「でも、ユリシーズ様の護衛は――」
「別の者がついてるので大丈夫です。その王子から頼まれたんですよ。あなたについていて欲しいと」
その言葉を聞いて、メリアローズは安堵に胸をなでおろした。
どうやらあの聡い王子はメリアローズの状況を気にかけて、ウィレムを向かわせてくれたようだ。
メリアローズは彼の采配に感謝した。
そっとウィレムの胸に身を預けると、服越しに彼の鼓動を感じる。
だんだんと彼の鼓動と自分の鼓動が一つになっていくような気がして、メリアローズはうっとりと目を閉じた。
メリアローズが落ち着いたのを見計らってか、ウィレムはゆっくりと口を開く。
「さっきの奴は――」
その途端、先ほどのエドモンドの不快な言動が蘇り、メリアローズは気を紛らわせるようにぎゅっとウィレムに抱き着く。
「今……私に関してよくない噂が流れているの」
「えぇ、知ってます」
バートラムが話したのだろうか。
ウィレムも、例の噂について聞き及んでいたようだ。
「彼は、その噂を鵜呑みにしたようね。私のことを、とんでもなくはしたない女だと思っていたみたいよ。私――」
言葉の途中で、ウィレムに強く抱きしめられる。
何故か泣きたいような気分で、メリアローズは震える声を絞り出した。
「……たし、私……そんな、軽い女じゃないわ。そんなこと、一度も――」
「大丈夫、ちゃんとわかってますから」
優しく、それでいて力強くそう言われ、またじんわりと目の奥が熱くなる。
彼は、そんなくだらない噂に惑わされるような人間じゃない。
そうわかってはいたが、それでも怖かったのだ。
もし彼に、誤解されたら――。
――それでも、ウィレムはちゃんと『私』を見てくれてるのね……。
こちらに向けられる彼の瞳には、疑いの色は微塵もなかった。
「警告はしましたから、次にまたあなたの前にあいつが現れるようなことがあれば……即座に手首を切り落としてやる」
メリアローズはてっきり冗談かと思ったが、ウィレムの表情も声色もいたって真剣だった。
ウィレムの底知れぬ気迫を感じて、メリアローズはどきりとしてしまう。
――なんていうか、ちょっと性格変わった……? 前はもっとヘタレだったのに……。
彼の変化を感じるたびに、メリアローズは不覚にもドキドキしてしまう。
だが、それは嫌な感情ではなかった。
普段は穏やかな彼が、時折見せる強引な一面に……たまらなくときめいてしまうのだから。
……今もそうだ。
そっとウィレムの指先がメリアローズの頬に触れたかと思うと、彼はゆっくりと顔を近づけてくる。
突然の出来事に、メリアローズは驚いてぎゅっと目をつぶった。
「ひゃっ……!」
涙の残る目元に軽く口づけられ、メリアローズはくすぐったさに身を竦ませる。
流れ落ちた涙の跡を辿るように、彼の唇が目元から頬をなぞった。
――わわわわわわわ!!!!
不意打ちの接触にメリアローズの頭は一気にパニック状態に陥ってしまう。
「お、お化粧の粉とか付いてるからっ……!」
適当な理由をつけて慌てて身を引くと、ウィレムは不満そうに眉を寄せた。
「俺は気にしませんけど」
「私が気にするのよ! ……はっ!」
そこで、メリアローズは気が付いた。
「どうしよう、お化粧落ちちゃった……!」
ショックを受けるような出来事があったとはいえ、ウィレムに縋り、子供のように泣いてしまった。
当然、夜会用に気合を入れてきたメイクは崩れてしまっているだろう。
今はまだ夜会の真っ最中だ。マクスウェル家の屋敷に戻るとしても、手ごろな部屋で化粧直しを行うにしても……ここからでは会場を通らなければ外には出られない。
――私のバカバカ! レディがこんな風に泣いちゃ駄目なのに……!
社交界デビューの際に、母には言い聞かされていた。
化粧は女の武器である。だから、綺麗に化粧をして表舞台に出ているときは、決して泣いてはいけない……と。
――それなのに……何やってるのよ、私は!
「……メリアローズさん?」
「やだ……こっち見ないで! 今の私は武装解除状態なの!!」
「武装解除!?」
今更かもしれないが、みっともない姿をウィレムには見せたくない。
メリアローズは慌ててウィレムから体を背け俯く。
「どうしよう……こんなところ、人には見せられないわ……!」
こんなみっともない姿を大勢に晒すなど、一生の恥である。
絶望するメリアローズに、ウィレムはそっと声をかけた。
「あの、よくわかりませんが……会場を通らずに外に出たいんですよね?」
「そうよ。でも、ここからじゃ――」
「いや、行けます」
驚いてウィレムの方を振り返ると、ウィレムは自信に満ちた笑みを浮かべていた。
その表情に、メリアローズはまたしてもどきりとしてしまう。
ウィレムはバルコニーの手すりに近づきそこから下を見下ろすと……メリアローズの目の前で軽々と手すりを飛び越えた。
「!!?!?」
メリアローズも慌てて手すりから身を乗り出し、下を確認する。
そこには、軽々と地面に着地したウィレムの姿があったのだ。
――……もう! 焦ったじゃない!!
そんなメリアローズの心中を知ってか知らずか、着地したウィレムはメリアローズの方へ振り向き、大きく両手を広げて見せた。
「絶対に受け止めますから、そこから飛び降りてください」
「え…………え!?」
ここから飛び降りる……だと!?
「無理、そんなの無理よ!」
メリアローズは震える手で手すりを掴んだ。
ウィレムのように運動神経が優れた人間ならまだしも、メリアローズにそんな真似ができるはずがない。
だがウィレムはまっすぐにメリアローズを見つめて、力強く告げる。
「大丈夫、俺を信じて」
ウィレムがメリアローズに向かって手を伸ばす。
メリアローズはきゅっと手すりを握り締め……覚悟を決めた。
おそるおそる手すりをまたぎ、目下のウィレムと視線を合わせる。
ウィレムが大きく頷いたのを確認して、メリアローズはそっと身を宙空に投げ出した。
一瞬の浮遊感、そして――。
「っ……!」
宙に身を躍らせたメリアローズは、すぐに力強い腕に抱き留められた。
難なくメリアローズを受け止めたウィレムが、そっと地面に降ろしてくれる。
震える足で地面に降り立ったメリアローズは、ぎゅっとウィレムにしがみついた。
「し、死ぬかと思った……」
「絶対に受け止めるって言ったじゃないですか」
「そうだけど……でも、怖いものは怖いのよ!」
――まったく、無茶したわ……!
夜会の最中にバルコニーから飛び降りるなど、おしとやかな公爵令嬢としてはありえない行動だ。
それなのに……どこかすがすがしい気分だった。
「今なら誰にも見つからずに出られます、行きましょう」
ウィレムが差し出した手を、メリアローズはしっかりと握る。
今までに経験したことない体験に、ドキドキと鼓動が高鳴っている。
そのまま、二人は宵闇の中を駆け出した。